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Date post: 24-Aug-2020
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( 論 文 初期宮 部 中枢施設の性格 家原 圭太 はじめに 近年、 継続的に行われてきた 発掘調査により、 古代官都の実態が 解明されつつあ る。 冬宮 跡 では、 検出した遺構を 内裏 や大極殿などの 殿舎に比定する 作業がなされ、 宮部発展過程を 明ら かにするうえで 重要な資料になっている。 藤原京では、 瓦葺で礎石建物という 中国の影響を 受けた建築様式を 採用するとともに、 条坊 制を日本の宮 部 で初めて採用したという ,点に画期を 見出すことができ ㈲ 置においては、 内裏 と大極殿が空間的に 完全に区別され、 内裏 は天皇が私生活を 行う場 鰍的 空間 ) として、 大極殿は天皇が 政務や儀式を 行う場 ( 公的空間 ) としての役割がはっきりして いる。 しかし、 藤原宮の段階で 突然こういった 殿舎群の役割が 定まったとは 考え難いと思う。 藤原宮の前段階であ る飛鳥浄御原宮や 前期難波宮で、 る程度内裏 ・大極殿の空間的な 役割が 固まりつつあ ったのではなかろうか。 そして、 それらを正しく 宮部発展過程に 位置付ける必要 があ るだろう。 本稿では、 諸官における 内裏 ・大極殿の性格やそれらがどのように 発展し 代官都の完成形態と 言われている 藤原宮・京が 成立していったのかを 明らかにしていきたい。 したがって、 完全に内裏 ・大極殿が成立していないと 考えられている 段階の殿舎も、 天皇の私 生活を行 6 場であ るならば「内裏 」、 天皇が儀式や 政務を行 6 場であ るならば「大極殿」と 呼 称することを 断った上で、 初期 宮都の中枢施設について 論じたい。 また、 その過程で重要な 味を持ってくるのが 飛鳥京 跡エビ ノコ郭の性格であ ると考えるので、 それについても 考察して いきたい。 1 研究 古代官都の研究史は 膨大な量があ り、 飛鳥・藤原京だけでも 1996 年に八木元によって『研究 史飛鳥藤原京』が 刊行されるほどであ る。 したがって、 ここでは本稿の 内容に関わる 範囲で重 要だと思われる 研究を挙げるに 留めたい。 初期宮部、 特に飛鳥諸官 藤原宮については、 江戸時代からその 位置についての 議論がたた かわされていた。 藤原宮では 1934 年に日本古文化研究所の 高殿地区における 発掘調査に り、 その決着をみたが、 飛鳥諸官 ついては現在も 様々な説が提唱されている。 1950 年代に入ると 古代官都の発掘調査が 継続的に行われるようになった。 その結果、 古代官都の様相が 少しずつ であ るが明らかになり、 それと共に研究も 進展し 宮の構造や殿舎比定といった 具体的な研究 がなされるようになった。 福山敏男は大極殿の 成立を『日本書紀』の 記述をもとに 飛鳥 浄御煉 宮 とし、 朝堂院についても、 考古資料と文献史料から 詳細に検討している。 また、 岸俊男は l
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( 論 文 コ

初期宮 部 中枢施設の性格

家原 圭太

はじめに

近年、 継続的に行われてきた 発掘調査により、 古代官都の実態が 解明されつつあ る。 冬宮 跡

では、 検出した遺構を 内裏 や大極殿などの 殿舎に比定する 作業がなされ、 宮部発展過程を 明ら

かにするうえで 重要な資料になっている。

藤原京では、 瓦葺で礎石建物という 中国の影響を 受けた建築様式を 採用するとともに、 条坊 制を日本の宮 部 で初めて採用したという ,点に画期を 見出すことができ ㈲ る

置においては、 内裏 と大極殿が空間的に 完全に区別され、 内裏 は天皇が私生活を 行う場 鰍的

空間 ) として、 大極殿は天皇が 政務や儀式を 行う場 ( 公的空間 ) としての役割がはっきりして

いる。 しかし、 藤原宮の段階で 突然こういった 殿舎群の役割が 定まったとは 考え難いと思う。

藤原宮の前段階であ る飛鳥浄御原宮や 前期難波宮で、 あ る程度内裏 ・大極殿の空間的な 役割が

固まりつつあ ったのではなかろうか。 そして、 それらを正しく 宮部発展過程に 位置付ける必要

があ るだろう。 本稿では、 諸官における 内裏 ・大極殿の性格やそれらがどのように 発展し 、 古

代官都の完成形態と 言われている 藤原宮・京が 成立していったのかを 明らかにしていきたい。

したがって、 完全に内裏 ・大極殿が成立していないと 考えられている 段階の殿舎も、 天皇の私

生活を行 6 場であ るならば「内裏 」、 天皇が儀式や 政務を行 6 場であ るならば「大極殿」と 呼

称することを 断った上で、 初期 宮 都の中枢施設について 論じたい。 また、 その過程で重要な 意

味を持ってくるのが 飛鳥京 跡エビ ノコ郭の性格であ ると考えるので、 それについても 考察して

いきたい。

1 。 研究 史

古代官都の研究史は 膨大な量があ り、 飛鳥・藤原京だけでも 1996 年に八木元によって『研究

史 飛鳥藤原京』が 刊行されるほどであ る。 したがって、 ここでは本稿の 内容に関わる 範囲で重

要だと思われる 研究を挙げるに 留めたい。

初期宮部、 特に飛鳥諸官 と 藤原宮については、 江戸時代からその 位置についての 議論がたた

かわされていた。 藤原宮では 1934 年に日本古文化研究所の 高殿地区における 発掘調査に よ り、

その決着をみたが、 飛鳥諸官 は ついては現在も 様々な説が提唱されている。 1950 年代に入ると

古代官都の発掘調査が 継続的に行われるようになった。 その結果、 古代官都の様相が 少しずつ

であ るが明らかになり、 それと共に研究も 進展し 、 宮の構造や殿舎比定といった 具体的な研究

がなされるようになった。 福山敏男は大極殿の 成立を『日本書紀』の 記述をもとに 飛鳥 浄 御煉

宮 とし、 朝堂院についても、 考古資料と文献史料から 詳細に検討している。 また、 岸俊男は 、

一 l 一

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宮の構造について 考察し、 天皇の私的空間であ る内裏 と公的な空間であ る朝堂が区別されてい

く発展過程を 明らかにした。 藤原京については、 大弐末年に造営を 開始したとし、 京城 は 4 型

x 6 里の範囲であ るとした。 この岸の研究によって、 藤原京の研究は 造営年代と京城 論 が中心

になっていった。 1977 年には橿原考古学研究所の 発掘調査により、 飛鳥京 跡エビ ノコ郭が発見

された、 この性格については 後述するが、 大極殿の成立を 考えるうえで 重要な施設と 考えられ

た。 発掘調査による 一定量の資料が 集まったことにより、 岸は 1988 年に『日本古代官都の 研究 コ

を 刊行し、 それまでの古代官 都 に関する問題点 は ついて整理をした。

狩野久は、 大極殿の成立は 律令国家の成立と 密接な関係があ るとし、 飛鳥浄御原宮の 段階で

は大極殿は天皇の 独占的な空間ではなく、 大極殿の成立は 藤原宮であ るとした。 中尾芳治は 、

難波宮中枢施設の 造営時期の決定や 八角妓院 は ついて研究をした。 また、 藤原宮と前期難波宮

を比較検討し、 前期難波宮内裏 前殿が藤原宮大極殿の 位置に対応すること、 内裏 後肢が藤原宮、

平城宮の内裏 正殿に転化していくことを 指摘した。

1988 年、 小澤毅は伝承飛鳥板蓋宮跡の 重複する宮殿遺構について、 1 朝 - 飛鳥岡本宮、 Ⅱ 期

- 飛鳥板蓋宮、 Ⅲ朝一 後 飛鳥岡本宮、 飛鳥浄御原宮に 比定した。 休部均は出土土器の 検討から

小澤と同様の 比定をしており、 現在最も有力な 説となっている。 また、 1997 年に小澤は飛鳥京

跡の建築構造に 着目し、 内裏 ・大極殿正殿の 特徴を論じた。 そして、 文献史料の検討と 合わせ

て ェビ ノコ 郭 正殿を大極殿、 内郭両院を大安殿、 内郭 北院 を向小妓,円安殿に 想定した。 ェビ

ノコ郭を大極殿に 比定することによって、 この造営を大極殿成立の 画期としている。 1998 年に

休部は大極殿と 朝堂の成立過程について 論じ、 前期難波宮と 藤原宮の間に 飛鳥浄御原宮を 置く

ことによって、 藤原宮の成立が 上手 く 説明でき る と した。 休部は飛鳥浄御原宮について 小澤 と

同じ殿舎上 ヒ 定をしている。 そして、 大極殿の成立は 飛鳥浄御原宮の ェビ ノコ郭にあ り、 前期 難

波 宮の内裏 前殿や後飛鳥岡本宮の 内郭両院を大安殿の 前段階に位置付けた。

以上のように、 これまでの研究では 宮地の比定から 始まり、 殿舎の比定とその 性格について

の考察が進んでいった。 しかし、 これまでになされてきた 冬宮跡の殿舎比定には 幾つかの問題

点があ るように は、 う 。 したがって、 本稿では冬宮跡の 殿舎比定を再検討し、 初期 宮 都の発展 過

程を見ていきたい。

D 。 実例の提示

前期難波宮 ( 図 1) 難波宮 跡は 、 大阪市中央区浅岡 坂 に所在する宮殿遺跡であ る。 この 遺

跡 では 2 時期の宮殿遺構が 確認され、 上層は聖武天皇によって 神亀三年 (726) に造営された

ものであ ることが明らかになっており、 「後期難波宮」と 呼称している。 下層については 造営

時期が孝徳 朝 (651) の難波長柄豊碕宮のものなのか、 大武 朗 (683) のものなのかは 明らかで

はない。 現在は孝徳 朝説 が有力なので 本稿でも孝徳 朝説 に従 う 。 廃絶時期については、 火災 痕

跡が認められることから、 『日本書紀』朱鳥紀元年 (686) 正月 乙卯条 「 酉時 。 難波大蔵 省失火。

宮室 悉焚 。 成口。 阿斗連薬家 失火 之 。 引及 宮室。 唯 兵庫織本 焚焉 。 」にあ たるとされている。

この下層の宮殿遺構を「双期難波宮」と 呼称している。

前期難波宮の 建物遺構は全て 掘立 柱 建物で、 瓦茸きではなかった。 中心建物は 3 x 7 間の身

一 2 一

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---- == - = - ヰ 一一一 == 笘 == - = - == - = 舎 に四面 庇が 付く 束

剛 四株建物 2 棟で、 柱

内裏

筋を揃えて南北に 並 臼 田瞳

んでいる。 北側の

樫 邸 SBl603 を「内裏 後

昌 西方官 衞 | @ | 殿 」、 南側の SBl801

を 「内裏 前殿」と 呼

1. 一 - 称している。 この 2

棟は軒廊でつながっ

ていることから 密接

東方官 衛 な関係があ ったとい

える。 この 2 棟の東

西 には 各 1 棟ずっ

南北條の 脇殿 があ

る 。 藤原宮との比較

= ' コ に ' |

によって内裏 後段 を

C@@ ヱ ニコ

内裏 正殿、 内裏 前殿 を大極殿に比定する

朝堂院 南門 SB4501 説 があ る。 これらの

殿舎を囲むように

両ゴⅡ 24 ユ m 、 東西 口 3.3m の 複廊 の 区

図 1 前期難波宮 画 があ る。 その区画

の南面には 2 X 7 間の内裏 市門 SB3301 が開き、 その南に朝堂院があ る。 藤原宮内裏 市門、 朝

堂院 市門、 宮市門は全て 五間間、 平城宮朱雀門も 五間間であ り、 古代官 都 において五間間が

最も格が高いとされることから、 前期難波宮内裏 市門 SB3301 の桁行 7 間は注目される。 また、

朝堂については、 藤原宮以降十二重が 一般化するが、 前期難波宮では 少なくとも十四重あ り、

十六 堂 あ ったとする説も 朝堂院には五間間であ る南門 SB4501 が開く。 この朝堂院の 北

側東西には、 中心に八角形の 建物を配した 複廊 で区画された 空間があ る。 ここは八角 殿院 と呼

ばれ他の宮部には 存在しない。 ただ、 藤原宮大極殿 院 回廊の東側には 2 X 5 間の身舎に四面 庇

が 付く建物があ る。 同様の建物は 平城宮以降でも 見られ、 「 東楼 ・四機」に相当すると 考えら

れることから、 前期難波宮八角殿も 同じ機能を有していたかもしれない。 しかし、 八角形の連

物 という特異な 形であ ることは特筆するに 値する。 (201 さらに朝堂院の 南には、 南北に長い 2 棟の

建物を配する 空間があ り、 朝集 殿院 と考えられる。 その南には五間間の 富商門があ る。 前期難

波宮における 中枢部の区画施設は 全て複 廊 であ り、 飛鳥京跡における 掘立 柱塀 とは異なって い

ることが特徴的であ る。 また、 建物の上部構造を 知る手がかりとして、 建物本体の柱の 外側に

小柱穴と呼ばれる 遺構が見つかっている。 これは前期難波宮独特の 遺構であ り、 基壇 説 、 縁束

説 、 裳階調、 足場 説 、 軒支柱 説 があ る。 しかし、 いずれもいまだ 確実ではない。

一 3 一

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飛鳥京 跡 ( 図 2) 飛鳥京跡は奈良県明日香 村

岡に 所在する特別史跡「伝承飛鳥板蓋宮 跡 」を 中

心とした宮殿遺跡であ る。 ここでは 3 時期の宮殿

跡 が確認、 されている。 1 期 ( 下層 ) 飛鳥岡本宮、 ユ 脚め

Ⅱ 期 ( 中層 ) が飛鳥板蓋宮、 Ⅲ 期 ( 上層 ) は内郭

と 外郭から成るⅢ 一 A 期を後飛鳥岡本宮、 内郭 と

外郭に ェビ ノコ郭が付け 加えられたⅢ 一 B 期を飛

島津御煉 宮 に比定する説が 有力であ り本稿では、

この説に従 う 。 それぞれの存続期間は、 飛鳥岡本

宮 が野明朝の頃 で 630 年から 636 年の火災まで、 飛

息杖 蓋宮は皇極朝の 643 年から孝徳天皇が 難波宮

に 遷宮する 651 年まで、 後飛鳥岡本宮は 斉 明 ・ 天

武朗 で 656 年から大津宮に 遷宮する 667 年まで、 飛

鳥海御煉宮は 天武天皇が壬申の 乱で勝利し帰還し

た 672 年から持統天皇が 藤原京に遷都する 694 年 ま

でであ る。 1 期と Ⅱ期の遺構は T 期 遺構の下層に

あ ることから発掘調査によってそれほど 多くの 情 報を得ることはできない。 したがって、 建物配置

図 2 飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構 や 、 建物の機能・ 性格について 明確にすることは

できない。 しかし、 Ⅲ 期 遺構は継続的な 発掘調査によってその 様相が明らかになっている。

本稿ではⅢ 期 遺構、 つまり後飛鳥岡本宮と 飛鳥浄御原宮をとりあ げる。

① 後 飛鳥岡本宮 後飛鳥岡本宮の 遺構は、 内郭と覚郭に 大別できる。 内郭は南北 197m 、 東

西 152 一 158m の 逆 台形をなす。 南から約 3 分の 1 の箇所で東西城 SA7118 によって南北に 区画

されているので、 それより北側を 内郭 北院 、 南側を内郭両院としている。

内郭 北 院の中心部はこれまで 発掘調査がなされていなかったが、 2003 年から橿原考古学研究

所によって行われ、 その結果、 正殿級の建物とその 西側で池遺構が 見つかった。 また、 内郭両

院との間には 3 列の掘立 柱塀 があ り区画している。 その他に、 内郭北陣には 東西に長大な 建物

SB6205 や南北 棟 建物が数 棟 、 また北東隅では 井戸が見つかっている。

内郭両院は南北 塀によ り、 中央区・東区・ 西区に分けられ、 中央区には 2 x 5 間の身舎に四

面廊 が 付く東西 棟 建物 SB7910 があ る。 この SB7910 から北の内郭 北院 へつながる玉石敷きの 通

蹄状の遺構が 存在する。 SB7910 の南には五間門の 内郭市門 SB8010 があ る。 東区には SB8505 と

SB7401 があ る。 この 2 棟はそれぞれ 南北に長大な 建物であ り、 掘立 柱塀 によって区画されて

いる。 西区は発掘されていないが、 東区と同じ殿舎配置であ ったと考えられる。

外郭は東側で 掘立 柱塀が 見つかっている。 この掘立 柱塀は、 建て替え痕跡が 見られるが、 こ

の 外郭がどの程度の 広がりを持っものなのか 不明であ 122) る。 ただ、 内郭の南方面数十 m には飛鳥

川が流れており、 宮の規模を考えるうえで 無視できない。 また、 外郭には掘立 柱 建物が数 棟見

つかっているが、 この建物の性格については 不明であ ( お る。 )

Ⅲ 期 遺構には飛鳥特有の 石敷が施されている。 しかし、 内郭北陣 と 両院では少し 様相が異な

一 4 一

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っており、 北陣では玉石敷、 両院では砂利敵であ る。 この石敷の違いについては、 空間的性格

の 違い ( 私的空間か公的空間か ) によるという 説があ ( る。 ぬ )

②飛鳥浄御原宮 飛鳥浄御原宮の 遺構は内郭・ 外郭・エビノコ 郭から成る。 内郭と覚郭は 少

しの建て替えがあ るものの、 後 飛鳥岡本宮の 建物を踏襲している。

エビ ノコ郭は、 3 X 7 間の身舎に四面 庇が 付く東西 棟 建物 SB7701 を中心に配した 東西約 92

一 94m 、 南北 55.2m の区画であ る。 脇殿 SB8501 が SB7701 の東南方で見つかっているので、 西

にも相対する 建物が存在していたと 考えられる。 この区画には 南門がなく、 五間間と考えられ

る西門 SB7402 が存在している。 古代官 都 において、 大型建物を配する 区画で南門がないもの

は他には確認されていない。 ェビ ノコ郭の性格を 考える上でこの 点が重要になってくるだろう。

ェビ ノコ郭の区画 外 南方に SB82KK や SB7201 が見つかっており、 朝堂院 や 、 その 南 門とする 説

があ るが、 未だ明らかでかい。 ェビ ノコ郭には、 内郭両院と同様の 礫 敷 が見られる。

藤原宮 ( 図 3) 藤原宮は奈良県橿原市高殿町一帯に 所在する宮殿遺跡であ る。 藤原京は条

切削が日本で 初めて採用され、 宮部として初めて 基壇上に礎石 建で 瓦葺きの建物が 採用された

ことなどから、 古代官都の中でも 画期的なものであ ると い える。

藤原宮の規模はほぼ lkm 四方で、 その中心に内裏 ,大極殿・朝堂院・ 朝集妓院を配する。 内

裏 は発掘調査; ぎ ほとんどなされていないので 詳細は不明であ る。 大極殿は宮 部 において初めて

採用された礎石 建 ・瓦葺の 2 X 7 間の身舎に四面 庇が 付く建物であ る。 大極殿の南には 五間間

の市門が開き、 朝堂院がその 南にあ る。 朝堂は 12 堂で複 廊によ り囲まれている。 朝堂院の南には、

朝集 殿院 が存在する。 朝

集 妓院には南北に 長 い朝

集殿 が東西に各一棟ずっ

あ り、 朝堂院と同様に 複

山 廊 で区画されている。 し

謂 かし、 この朝集妓院の 複

廊が 一間分内側に 入るた

め 、 朝堂院より朝集妓院

の東西幅が狭くなって い

建部 る 伽 l o こ 二ノ いった中心区画 甘 @@@ 甘 Ⅰ @

0 周囲には官符 ( 曹司 )

があ る。 西面中門付近の

西方官 衞 、 東面此間付近

小 の東方官 衛 、 および内裏 子

部門 外郭東宮 衛 でまとまって

調査されており、 そのう

ち 、 西方官符では 長大な

南面面的 朱雀門 南面東門 4 棟の建物が コ 字型に配

之 O0m 直 され、 中央には水を 溜

図 3 藤原京 めたと見られる 窪みがあ

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ることから馬寮であ ったと考えられる。 官衛 ( 曹司 ) については前期難波宮、 飛鳥京跡では 藤

原宮ほど整然としたものではなかったと 考えられるので 藤原宮でこういった 整然とした 官街

( 曹司 ) が成立することは 重要であ る。

藤原宮における 殿舎配置やその 性格は、 規模が変わるが、 基本的に平城宮・ 長岡 宮 ・平安宮

にも受け継がれる。

T 。 殿舎上ヒ ラき

内裏 は天皇が日常生活を 行 う 施設であ る。 中心に正殿を 配し、 周囲には多くの 建物を

配する。 平城宮の内裏 については、 正殿級の建物が 2 棟あ り、 第 1 期では SB4700 、 SB460 がそ

れにあ たる。 前者が 御 在所正殿、 後者が内裏 正殿と呼称され、 Ⅱ 期 、 Ⅲ期においては SB4703 、

SB450 にうけつがれる。 御 在所正殿は天皇が 寝起きする殿舎であ り、 内裏 正殿は大極殿が 朝 庭

に 官人を並ばせて 儀式を行った 殿舎であ る事とは違い、 日常生活を行う 内裏 の中において 天皇 が 出御し、 一定の階層の 官人に限って 引き入れ内廷的な 儀式を行った 殿舎であ っ ) 臼チハ こ

述するように 内裏 正殿は大安殿と 呼ばれていた 可能性があ る。

前期難波宮の 内裏 は内裏 前殿の北側にあ る 複廊 回廊で囲まれた 区画であ ったと思われる。 内

裏 後殿は大安殿に 比定でき、 おそらく内裏 前殿と後殿の 間にあ る掘立 柱塀 SAl602 より北側が

内裏 空間であ ったのだろう。

藤原宮では内裏 地区の発掘調査がなされていないため 不明であ るが、 飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構では、

内郭 北 院を内裏 に比定できる。 内裏 は天皇が日常生活を 行 う 施設なので井戸があ ることも 1 つ

め 指標になり ぅる だろう。 内郭 北 院は全面に玉石を 敷いている。 この石敷について、 内郭両院

では 礫敷 であ るので、 玉石敷が私的空間、 礫敷 が公的空間とする 説があ (2a) る。 しかし、 玉石を敷

いている遺跡には 他に 稲淵 川西遺跡、 石神遺跡 A 期 、 飛鳥寺南方石敷広場などがあ り、 稲 湖州

西 遺跡は飛鳥川辺行宮に 比定でき私的空間といえるかもしれないが、 石神遺跡 A 期は饗宴の場

として使用されており 公的空間といえる。 したがって、 公私によって 石敷が使い分けられてい

たとは必ずしも 言えないだろう。 ただ、 内郭の北 院と 両院で石敷の 様相が異なるのは 注目すべ

き点であ り、 それぞれの性格の 違いを示すものと 考えられる。

大安殿大安殿については 大安殿 = 大極殿 説 と大安殿 = 内裏 正殿 説 があ 1301 る。 『日本書紀 団朱

鳥紀元年 (686) 正月発 卯条 では「大極殿」での 賜宴、 丁日 条 では「大安殿」での 賜宴と明確

に区別されている。 また、 藤原宮でも T 続日本紀』大宝紀元年 (701) 正月朔日 条 とその 3 日

後に大極殿と 大安殿の記述があ り、 明確に区別されている。 したがって、 大安殿ニ大極殿説は

成立しない。

飛鳥京跡でこの 大安殿に比定できるのは 内郭 北 院の正殿と考えられる。 その理由として 内郭

北院 正殿の双には 賜宴をするのに 十分な広場があ (321 り、 また、 安殿は「やすみどの」と 訓じ 、 天

皇が休息する 建物と考えられるからであ る。 『日本書紀』大武紀九年 (680) 正月「大殿の 庭」

で宴を催し、 また、 大武紀十四年 (685) 九月にも「 旧宮 安殿の庭」で 宴を催している。 これ

は 内郭北陣正殿の 西にあ る 池と 南の広場がこの「 庭 」にあ たると考えられ「大殿」「 旧 高安殿」

は大安殿であ ったことがわかる。 また、 内郭 北 院は玉石敷で 内郭両院 は礫敷 であ ることや、 3

一 6 一

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列の掘立 柱塀 によって区画されていることから、 内郭両院は内裏 と異なった性格であ ったこと

がわかる。 したがって、 内裏 正殿であ る大安殿には 内郭 北院 正殿を比定することができる。

前期難波宮に 遡って考えると、 その位置から 内裏 後段の SRl603 が大安殿に比定できると 考

える。 池が存在しない 点や広場を有しないことから 飛鳥京跡のものとは 大きく異なる。 しか

し、 内裏 の南端に位置していること、 SBl603 と SBl80U は軒廊でつながっており、 飛鳥京 跡

SB7910 から北にのびる 石敷の通路 状 遺構と同じ性格が 想定できることから 前期難波宮におい

ては SRl603 が大安殿に比定できるだろう。

前期難波宮においては 軒廊によって 大極殿と大安殿がつながっているため 密接な関係があ っ

たといえる。 飛鳥京跡では、 大極殿であ る SB7910 から内裏 であ る内郭 北院 にのびる石敷遺構

が 見つかっている 一方で、 3 列の掘立 柱 塀や石敷の違いによって 内裏 と大極殿が区別されるよ

うになった。

大極殿 大極殿は天皇が 国家に関わる 儀式や政務を 行う場所であ る。 藤原宮では確実に 存在

しているが、 これが藤原宮の 段階で成立したのか、 飛鳥浄御原宮や 前期難波宮まで 遡るのか問

題 となる。

前期難波宮 SBl801 は内裏 前殿と捉えられている。 脇 殿を配する点などは 藤原宮以降の 大 槌

殿 とは異なった 点があ るからであ る。 また、 SRl80U は内裏 後段 SBl603 と軒廊でつながってい

ることから、 この 2 つの建物は密接な 関係があ ったと考えられる。 しかし、 たとえ SBl603 と

SBl801 が軒廊でつながっていても 天皇が SBl801 に出御し、 儀式や政務を 行ったと考えられる。

こういった朝堂院の 正殿という機能を 有しているなら 大極殿といってもよいのではないだろう

か 。

飛鳥京跡では SB7910 が大極殿に比定できる。 この南には朝堂は 存在しないが、 儀式をした

とされる「 庭 」があ ることから天皇が SB7910 に出御し、 儀式や政務を 行ったと考えられる。

藤原宮以降の 大極殿はその 規模が 2x7 間の身舎に四面 庇が 付く建物が一般的であ (331 る。 梁行

身舎が 2 間であ ることを重視するなら SB7910 は大極殿と考えられる。 朝堂院の正殿としての 大

樋殿 は 、 その起源が前期難波宮まで 遡り、 その後、 後飛鳥岡本宮・ 飛鳥浄御原宮では 空間的制

約から整然とした 朝堂院ではなかったが、 朝堂院正殿としての 性格は SB7910 に受け継がれる。

そして 684 年藤原宮への 遷宮にともない、 大極殿としての 役割が内裏 から切り離された 独立し

た 建物として成立したと 考えられる。

朝堂院 朝堂院は、 官僚が政務を 行う建物群であ る朝堂と、 それに囲まれた、 儀式を行うと

き官僚が集まる 朝 庭からなる。 朝堂院の起源は 小墾田宮の「 庁 」にあ るとされるが、 発掘調査

では確認されていない。 現在、 朝堂院が確認されている 最も古い宮都は 前期難波宮と 考えられ

ている。 この前期難波宮の 朝堂院は前述したとおり、 14 堂もしくは 16 堂 備えており、 他の宮部

にはない構造であ った。 前期難波宮を 孝徳 朝 亀崎 宮 とした場合、 7 世紀中頃 では官僚制がまだ

確立していないと 考えられ、 制度と殿舎に 矛盾が生じる。 前期難波宮大武朝晩はこの 点を重視

するが、 早川庄八は前期難波宮朝堂院が 藤原宮朝堂院と 性格が異なり、 地方豪族を含めた 全盲

人 が参加する口頭伝達に よ る政治形態に よ るものとする。 (3%1 また、 林部はそれまでばらばらにな

っていた 官衛的 役割のあ る建物が朝堂に 集中し、 天皇に仕え奉るという 関係を実際に 行うため

に孝徳 朝に 藤原宮をしのぐような 朝堂院が存在したのではないかと 考えている。

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この朝堂院は 飛鳥京跡では 朝堂と朝 庭 に分かれ、 朝堂は内郭両院の 東 。 西区画に、 朝庭は内

郭の南に比定できると 考える。 1351 内郭両院の 東 ・西区画は前期難波宮の 内裏 前殿、 後段の 脇殿に

あ たるとも考えられるが、 それぞれが区画され 別 空間になっていることから 脇殿 ではないと 考

えたほうが自然であ る。 官僚が政務を 行うため区画されていたと 考えられる。 『日本書紀』に

は「 庭 」や「 朝庭 」という記述が 見られ、 その中には 大 武紀四年 (675) 正月毛皮 条に 「射干

西 間庭」とあ り、 西門の前に射礼を 行 う 庭の存在を示す。 また大武紀六年 (677) 正月 庚辰条

には「射干市門」とあ り、 同様に市門の 前に射礼を行う 庭があ った。 これらの記述によると 西

門は エビ ノコ邦画門、 南門は内郭市門と 考えられることから 射礼を行ったのは 内郭の南の広場

だったと見られる。 (3,1 後飛鳥岡本宮で 朝堂院が整然としない 構造であ る理由として、 土地の制約

があ る。 大極殿の南には 前期難波宮のような 広大な土地がない。 また、 飛鳥においては 官衛的

機能を有する 宮殿跡や貴族邸宅が 飛鳥京跡の周辺に 点在していた。 したがって、 飛鳥京跡では

多くの朝堂は 必要なく東西 2 章ずつといった 必要最小限の 朝堂を大極殿のすぐ 横に配置し 、 そ

の 南に少しでも 広い 朝 庭を確保したのではないか。

官僚が政務を 行う場所は朝堂の 他に官 衛 ( 曹司 ) があ った。 吉川真司は双期難波宮で lm 棟 以

上の朝堂と広大な 宮城内にいくつもの 官衞 ( 曹司 ) が置かれたことを 重視している。 また、 飛

鳥 東漸Ⅲ 期 遺構に関しても 外郭部分に多くの 官衛 ( 曹司 ) を想定している。 (361 しかし、 発掘調査

では藤原宮の 官 衛 ( 曹司 ) ほど多くの建物群が 見つかっているわけではなく 現状では藤原宮の

ような整然とした 官衛 ( 曹司 ) は成立していなかったと 見るほうがいいだろう。 前期難波宮で

は、 宮の西端であ る掘立 柱塀 SA303 を難波宮中軸線で 束に折り返した 部分には掘立 柱 塀は存在

しない。 東西非対称で 東側が広くなる 可能,陛を示す。 13,1 飛鳥京跡も宮の 東端とみられる 外郭菜摘

立 柱塀が 見つかっているが、 西側は飛鳥川により 非常に狭く、 東西非対称であ っただろう。 こ

ういったことからも 藤原宮の官 衞 ( 曹司 ) と、 それ以前の官 衛漕司 ) との違 いは 明白であ り、

藤原宮で整然とした 官衞 ( 曹司 ) が成立したことの 意義は重要であ ろう。 はじめは朝堂のみで

政務を行っていたが 実務的なものは 朝堂ではできなくなり、 宿衛 ( 曹司 ) が成立してくるよう

になる。 逆に言えば 官衞 ( 曹司 ) が明確でない 宮 ( 前期難波宮、 後飛鳥岡本宮・ 飛鳥浄御原宮 )

では朝堂において 実務的な政務も 行っていたと 考えられる。 そ う 考えると飛鳥京跡のように 朝

堂 が大極殿の双面になかったとしてもよかったのだ る

Ⅳ。 飛鳥京 跡エビ ノコ郭の性格

飛鳥京 跡エビ ノコ郭の正殿は 3 x 7 間の身舎に四面廊 が 付く東西 棟 建物であ る。 この建物は

飛鳥京跡において 最大規模であ り、 飛鳥浄御原宮の 重要な殿舎の 一つであ ると認識されている。

したがって、 研究も殿舎比定が 中心にされてきた。 本稿でも、 初期 宮 都の殿舎の性格から 内裏

や 大極殿の変遷を 明らかにしようとするので、 飛鳥京 跡エビ ノコ郭の性格について 考えたい。

一 8 一

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1. 殿舎比定諸説

ェビ ノコ郭の殿舎比定には 主に、 内裏 、 大極殿、 朝堂の 3 つの説があ る。 菅谷友則 は、 ェビ

ノコ郭の調査 概報 で、 3 x 7 間の身舎に四面 庇が 付くという特徴的な 建物を他の宮 部 との比較 (401

から内裏 正殿に比定している。 菅谷の ェビ ノコ郭内裏 説は 、 内郭との時期 差やェビ ノコ郭がど

の宮の殿舎なのか、 といった検討がなされていないものだった。 その後、 小澤などの研究に (411 よ

って飛鳥浄御原宮の 時期に内郭 とェビ ノコ郭が併存していたことがわかり、 内郭が内裏 にあ た

るので、 エビノコ郭内裏 説は否定されるに 至った。 また、 内裏 は天皇が日常生活をする 場所で

あ り、 正殿だけでなく、 その周辺に多くの 建物が必要不可欠であ る。 ェビ ノコ郭には、 正殿と

その南に南北 棟 建物が 2 棟あ るのみであ る。 これだけの建物で 内裏 空間を構成している 例は他

の 宮部にはなく、 内裏 として機能していたとは 考えがたい。 したがって、 エビノコ郭を 内裏 に

比定するのは 困難であ る。

一方、 小澤は エビ ノコ 郭 正殿が飛鳥京 跡 最大の建物であ ること、 SB8210 を朝堂 西 第 1 堂と

捉えその南に 第 2 堂 まで想定し、 東西 4 堂の朝堂があ ったとし、 その位置関係から 大極殿であ

ると考えている。 しかし、 ェビ ノコ郭には南門が 存在せず、 門は西に開く。 また朝堂について

は、 SB8210 が見つかっているが 柱穴が一箇所のみで 朝堂を想定するには 不十分であ る。 休部

もェビ ノコ 郭 正殿を大極殿と 捉えている。 そして、 門が西に開くのは 後飛鳥岡本宮からの 伝統

的な儀式空間であ る庭を重視したためだと 考えている。 (431 後 飛鳥岡本宮の 段階では SB7910 が大極殿であ り、 飛鳥浄御原宮段階に 大極殿が従来のもの

では小さいと 考え、 大きく、 新しく造営したと 小澤は理解しているが、 それでは飛鳥浄御原宮

の時期の SB7910 の性格はどういったものなのか 説明ができない。 また、 新しく大きな 大極殿

をつくるなら、 わざわざ別の 場所に造営しなくても、 その場所で造りなおしたらいいのではな

い だろうか。 内郭両院にはそれだけの 空間もあ っただろう。 また、 天皇が大極殿に 出てくると

き、 門の位置からすると 内裏 であ る内郭 北 院を出て、 内郭両院を通り 一旦「 庭 」に出てから ェ

ビ ノコ郭の西門から 入ることを想定することになろう。 内郭の南で エビ ノコ郭の西にあ る庭は

射ネ しに使用されており、 朝庭 と見られることから、 天皇が朝庭を 通り大極殿に 出御したとは 考

えにくい。 以上のことから ェビ ノコ 郭 正殿を大極殿に 比定することは 出来ないと考える。

亀田博は、 直木孝次郎が 小墾田宮で復元したように、 朝堂が 1 堂でもかまわないとするなら

ば 、 飛鳥京跡においては、 エビノコ郭を 朝堂に比定できるとし 井 。 しかし、 小墾田宮の殿舎配

置やその規模はほとんど 明らかになっておらず、 比較検討するには 無理があ る。

河上邦彦は『日本書紀』の 朱鳥紀元年 (686) 九月余「丙午、 天皇 病遂 小差、 崩干 正宮。 戊申、

始発 芙 。 則起 頓宮 於 南庭。 」という記述から、 ェビ ノコ郭を照宮に 比定 し持 。 しかし、 大武紀

四年 (675) 、 大 武紀五年 (676) 、 末武紀八年 (679) に射礼の行事をする 場として「四門」や「 西

門 の 庭 」といった記述があ り、 エビノコ郭がすでに 存在していたことを 窺わせている。 したが

って、 エビノコ郭を 濱 宮 として朱鳥元年 (686) に造営したとは 考えられない。

エビ ノコ郭は内裏 ・大極殿・朝堂といった 宮部における 中枢施設でない 可能性が強いのであ

る 。 しかし、 その規模や内郭との 位置関係などから 重要な施設であ ったことは確かであ る。 7

世紀の殿舎や 重要な施設の 具体的な名称は『日本書紀』の 記述に少なからずあ る。 私はその中

で、 ェビ ノコ郭は大海人皇子の「東宮」であ ったと考える。

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2. 東宮 説 『日本書紀』の 記述に見える「東宮」の 記載のうち大海人皇子に 関わるものを 挙げる。

天智 紀 八年 (669) 十月庚申 条 「天皇道東宮大皇弟 於 藤原内大臣家」

天智 紀 十年 (671) 正月中底 条 「東宮人皇弟奏宣、 施行冠位法度 之事 。 」

天智 紀 十年十月 庚辰条 「 勅喚 東宮、 引入臥内」

「東宮廷 而 再拝。 」

壬午 条 「東宮 見 天皇、 請 之 吉野修行 佛道 。 天皇 許焉 。 東宮 即 入船吉野Ⅱ

このように大海人皇子に 関

する「東宮」は 宮 自体を示す

のではなく、 皇子自身を示す

ものであ るが、 当然のことな

がら大海人皇子の 宮があ った

と思われ、 それを示す記事が

天武紀元年 (672) 五月 是 同

条 の 「 目 近江東、 至 干倭京 、

処々 置候 。 小令 蒐 道守儒者、

遊里大弟宮舎人道釈 糧事 。 」

であ り、 大海人皇子の 宮が存

在したことがわかる。

大海人皇子の 宮について

は、 これまで 嶋宮 であ るとす

る 説があ る。 したがって、 嶋

宮は ついての諸説を 整理し、

再検討してみたい。

嶋 富ほついては 1976 年に秋

山日出雄によって「宮の 伝 領 」

という観点から 考察がなされ

ている。 これによれば、 まず、

推古 朝 に蘇我馬子が 嶋 宮の前

身になる嶋家を 造営した。 こ

の 嶋家は皇 極 二年 (643) に

は蘇我 氏孫 王族であ り天智天

皇の祖母にあ たる吉備 姫王 、

また、 皇極 四年 (645) には

蝦夷や入庫に 伝領された。 蘇

我 本 宗家滅亡後、 嶋家は皇極

天皇や天智天皇に 伝 領され 嶋

宮 となり、 天智天皇の祖母に 関連年表

一 Ⅰ 0 一

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手姫 皇女が居住した。 その後、 嶋 宮は天武天皇に 世襲され草壁皇子に 伝領された。 そ

して、 奈良時代になると 嶋 宮は光明皇后の 管轄 下 になり終焉をむかえることになる。 秋 m は 嶋

宮 の仏領過程をこのように 述べている。

1985 年、 荒木敏夫は皇太子制と 東宮について 検討する中で 嶋宮 をとりあ げ、 草壁皇子が 嶋宮

に 居住したことに よ り、 天皇の居所であ る飛鳥浄御原宮とは 別の宮に住んでいたことになり、

後の皇太子の 宮であ る「東宮」とは 性格が異なる、 とした。 この考えは、 その後、 仁藤敦史に

も 受け継がれた。

1988 年には亀田博が 島庄 遺跡の発掘調査の 成果をもとに、 嶋宮は ついて考察し、 1995 年に小

洋教 が嶋 宮は他の皇子宮とは 異なり特殊性を 有するとし、 東宮的性格があ ったとしている。

この他にも 嶋宮 に関する研究はあ るが、 現在一般化している 見解は、 東宮的性格を 有してい

たかは別として、 嶋 宮は中大兄皇子 づ 大海人皇子 ヰ 草壁皇子と伝領されたということであ る。

しかし、 これらの皇子が 嶋 宮を皇子宮として 常に居住していたのか、 また、 王位継承者の 宮 と

して 伝 領していったのかは 疑問であ る。

嶋 宮を中大兄皇子の 宮とする理由として 第一に挙げられているのは、 『日本書紀コ 皇 極 紀三

年 (644) 六月 是 同条にあ る「遥遥に 言そ 聞ゆる嶋の藪原」という 歌についての 説明が皇極細

四年 (645) 六月 己 西条に見られる。 そこには、 中大兄皇子と 申 臣 鈍足が宮殿を 蘇我馬子の家

に接して建て、 入庫 課 滅の謀議をめぐらしたときの 歌であ る、 とされている。 蘇我馬子の家は、

推古紀三十四年 (626) 夏 五月 条に 「家船飛鳥 河之傍 。 乃 庭中間小池。 防興 小嶋 於 池中。 故時

人日 嶋 大臣。 」とみえる。 嶋に邸宅があ ったので、 馬子が 嶋 大臣と呼ばれていたというのであ

る。 この嶋家にあ たると考えられるのが 島庄 遺跡であ る。 島庄 遺跡では 1972 年に方形 他 が見つ

かっており、 前述した推古紀姉十四年 (626) の記事の「小池」にあ たるとみられる。 見 つか

った 方形 池は 隈丸方形で幅 lom 程の堤がめぐっており、 方位は北で約 30 度振れる。 池の作られ

た時期は池 底 の 貼石 直上から出土した 土器から 7 世紀初頭と見られる。 池は奈良時代までは 確

実に存続していた。 また、 2004 年、 明日香 村 教育委員会の 島 庄 遺跡における 発掘調査によって

少なくとも 3 時期の掘立 柱 建物群が見つかった。 この掘立 柱 建物群の工期も 7 世紀初頭と見ら

れており、 方形 池 との方位が合うことから、 1 期の建物群と 方形池は同時期に 造営されたもの

で、 嶋家の一部であ る可能性が高い。 嶋家は馬子の 死後、 蝦夷・入庫に 伝領された。 その嶋家

に 接して中大兄皇子の 宮を造営したとしている。 蘇我底本宗家滅亡後、 その邸宅を含め 嶋宮 と

したと考えられる。 また、 この頃 の嶋 宮は ついて、 天智紀姉年 (664) 六月 条 には天智天皇の

祖母であ る糠子 姫 皇女が「 嶋 皇祖母 命 」と呼ばれていたことがみえ、 皇 極細二年 (643) 九月

丁亥条 には同じく天智天皇の 祖母であ る吉備 姫王が 「吉備 嶋 皇祖母 命 」と呼ばれていたことが

記されている。 この二人は名双に「 嶋 」が付くことから 嶋宮 に居住していたと 考えられる。 特

に吉備 姫 王の場合は、 馬子の嶋家の 一部が彼女に 譲られたか、 または彼女が 嶋家の一角に 住ま

わされていた 可能性があ る。 大化 紀 二年 (646) 三月 辛巳条 には吉備 姫王が 没し 3 年がたっが

貸稲 がなされている 記述があ る。 これは、 吉備 姫王が 蘇我系王族であ ることから、 馬子の財産

分与に関係していたためと 考えられる。

一方、 大化紀三年 (647) 十二月余には「 宍 皇太子宮。 」とあ り、 中大兄皇子の 宮が火災にあ

ったとされる。 しかし、 これまで発掘された 嶋宮跡 と考えられている 島庄 遺跡では火災の 痕跡

一 1 1 一

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はない。 島庄 遺跡は嶋宮の 可能性が高いので、 この火災にあ った中大兄皇子の 宮は嶋 宮 でなか

ったと考えたほうが 自然であ る。 仁藤は、 大化三年 (647) には正宮が難波長柄豊碕宮にあ っ

たことから、 火災にあ った皇子宮は 難波にあ ったとする。 (521 以上のことから 中大兄皇子の 宮は当初 嶋宮 であ ったが、 難波遷宮とともに 難波へと移ったと

考えられる。 しかし、 嶋宮 には 糠手 始皇女が居住していた 可能性があ ることから、 中大兄皇子

と 糠手 始皇女が同居していたか、 居住区画が複数あ ったと考えられ、 藤原宮以降の 皇太子の独

占 的な居所としての「東宮」という 性格はなかったといえる。

大海人皇子の 宮について、 仁藤と小澤は 嶋 宮 であ ったとする。 その理由として、 『日本書紀』

末武即位前 紀 十月壬午 集め 、 大海人皇子が 大津宮から吉野へ 向かう途中に 嶋宮 に一泊したとい

う 記事や、 大 武紀元年 (672) 九月康子 条 ・ 発卯条の 、 壬申の乱の後、 後飛鳥岡本宮へ 入る前

にいったん 嶋宮 に人 る 記事を挙げる。 そして、 壬申の乱の双後に 嶋宮 に入っているのは、 それ

が大海人皇子の 宮であ ったからだと 捉えている。 しかし、 大海人皇子が 壬申の乱の双後に 嶋宮 (531

に入ったのは、 食糧の確保などのためであ ったのではないだろうか。 嶋 宮の経済的機能を 示す

史料として、 前述した大化 紀 二年の吉備 姫王 の 貸稲 以外に、 持続紀四年 (690) 三月内申 条 が

あ る。 ここには 嶋 宮の稲を 20 束ずつ、 京 ,畿内の高齢者に 与えたことが 記されている。 また 天

平 五年 (733) 興福寺金堂の 造営に際し、 嶋 宮から大量の 藁が運ばれた 記述もあ る。

草壁皇子については『万葉集』養二にあ る草壁皇子の 残 宮 挽歌の中に 嶋宮 に関すると思われ

る歌があ る。 これによって、 草壁皇子の宮が 嶋宮 であ ると考えられている。 この歌には「 東 」

という語が目立つ。 嶋 宮は飛鳥浄御原宮から 見て南の方位であ ることから方位を 表しているの

ではなく「東宮」の 意味があ るのではないかという 説があ (541 る。 また、 これらの歌の 中には「 上

の池」や「勾の 池」という記述も 見られる。 この池については 前述した 島庄 遺跡で見つかった

方形 池 とする説があ るが、 (5Sl 「勾の池」とは 曲池と 考えられることから 嶋宮 には別に池が 存在し

た 可能性があ る。 こういった草壁皇子が 嶋宮 に居住したとする 記載が存在する 一方で、 大武夫

皇 が天 武 五年 (676) 正月に大射を 行った後、 嶋宮で 宴を催している。 (561 皇子宮で天皇が 大射の

後宴をすることがあ り得たのだろうか。

以上のことから 考えると、 嶋宮 には、 ①複数の人が 居住していた、 ②池の存在と 奴姐 、 稲を

所有していた、 ③大射の後に 宴を行った、 などの特徴があ る。 したがって、 皇子個人の宮では

なく王族共有の 宮であ ったのではなかろうか。

そこで、 私は大海人皇子の 宮が 嶋宮 ではなく、 飛鳥京跡の ェビ ノコ郭であ ったのではないか

と 考える。 大弐即位前 紀 には天智 セ年 (668) 、 天智天皇が即位するときに 大海人皇子は 東宮 ( 皇

太子 ) になったとあ る。 しかし、 天智 紀セ年 (668) 五月五日と天智 紀 八年 (669) 五月五日には「大

皇弟」と呼ばれている。 したがって、 天智 紀セ年 (668) に皇太子になったが 宮がまだ完成し

ていなかったため「大皇弟」と 呼ばれ、 「東宮」の初見であ る天智八年十月にやっと 宮が完成

し 、 それとともに「大皇弟」に「東宮」を 冠するようになったのではないだろうか。 エビ / コ

郭の造営時期は 土器の研究から、 670 年前後と考えられている。 この年代は「大皇弟」から「 東

宮 大皇弟」 へ 変わる時期にほぼ 一致する。 そして、 梁間 3 間四面廊 付 建物といった 内裏 特有の

建築構造であ (59) る と や内裏 ほど周辺に建物が 多くなく コ 字型建物配置といった 整然とした配置

であ る点も皇子宮であ ったことを示しているのではないだろうか。

一 Ⅰ 2 一

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天智天皇が即位した 天智セ 年 (668) に大海人皇子は 皇太子になり、 後飛鳥岡本宮の 東南方

に皇子宮の造営を 開始した。 そして、 天智八年 (669) の冬に完成し、 672 年壬申の乱で 勝利し

た後にかつて 皇子宮のあ った飛鳥の地にもどり、 飛鳥浄御原宮として 再度利用したのであ る。

大武朝の時期には 東宮として使われることはなくなる。 皇太子であ る草壁皇子は 嶋 宮 に居住し

ていたことは 前述したとおりであ る。 また、 大海人皇子の 東宮であ った ェビ ノコ郭をもって 飛

鳥浄御原宮としたとみられる 記述が『日本書紀Ⅰにあ るため、 エビノコ郭が 飛鳥浄御原宮の 中

枢 施設になった 可能性が高い。

おわりに

殿舎比定を中心に 初期 宮 都の発展過程について 考察してきたが、 要点をまとめると 次のよう

な 5 点が挙げられる。

①朝堂院の正殿という 意味での大極殿は 前期難波宮でその 存在が認められ、 その後に飛鳥京

跡 に受け継がれる。 前期難波宮では、 大極殿と大安殿は 軒廊でつながっており 密接な関係

にあ った。 また、 飛鳥浄御原宮では 円本書紀』の 記述から大極殿と 大安殿はほぼ 同じ,性

格であ ったが、 藤原宮では大極殿は 独立した区画になるとともに、 天皇の独占的空間へと

変化していった。 したがって、 性格を変えながらも 大極殿は双期難波宮から 藤原宮へとつ

ながる。 前期難波宮では 内裏 前殿 SBl801 、 飛鳥京跡では 内郭両院正殿 SB7910 を大極殿に

比定できる。

②大安殿 = 大極殿 説は 『日本書紀』の 記述から認めがたく、 大安殿は内裏 正殿と考えるほう

が自然であ る。 前期難波宮では 内裏 後段 SBl603 、 飛鳥京跡では 内郭北陣正殿を 大安殿に

比定できる。

③朝堂院の存在は 発掘成果からみると、 前期難波宮で 認められる。 これは藤原宮の 朝堂院と

は,性格が違う 可能性があ る。 飛鳥京跡では 朝堂と朝 庭 に分かれたと 考えられる。 こういっ

た矛盾を修正して 成立したのが 藤原宮朝堂院であ る。

④ 嶋 宮は皇子宮として 仏領されたのではなく、 王族共有の宮として 仏領され、 そのなかで中

大兄皇子、 大海人皇子が 一時期滞在していたものと 考えられる。

⑤ エビ ノコ郭の性格は 大海人皇子の 宮の可能性があ る。 宮内に皇子宮 ( 特に皇太子の 宮 ) が

含まれている 意義は大きい。 1 。 。 1 前期難波宮や 飛鳥京跡は藤原宮 と上ヒベ 未熟な点が多く 見られるが、 それはいわば 当然のこと

であ って 、 宮の構造も試行錯誤しながら 政治体制や官僚制、 人民支配といった 諸事情に合わせ

て 少しずつ変化させていったものと 考えられる。 そして、 日本の初期 宮 都の完成形態といえる

藤原宮が成立したのであ る。

一 13 一

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(1) 「宮部」という 語は、 岸俊男が 、 「ミヤ」と「ミヤ コ 」全体を表現するために「宮室」と「者 は城 」を合成

し造った語であ る。 同じ意味で「都城」という 語を使用することがあ るが、 これは城壁を 有する中国に

おいては適切であ るが、 城壁のないと 考えられる日本においては 適切ではないと 考えるため本稿では「宮

都 」の語を使用する。

(2) 藤原京の条坊については、 岸による条坊復元が 定説となっていたが、 近年それより 外側から条坊遺構が

発見され京城が 広がることが 判明した。 それを受けて 小澤 毅は 10 条Ⅰ 0 坊に藤原京を 復元している。 藤原

京条坊の範囲については 諸説あ るが、 初めて条坊が 施行され、 京内 と京外を明確に 区別したことは 人民

支配と領域支配という 点から重要視すべきことであ ろう。 こういった条坊は 飛鳥地域に存在しないこと

は 井上和人「飛鳥京城論の 検証」 ぽ 考古学雑誌 $ 第刀巻 第 2 号 198.W 年 、 佛 上和人『古代都城 制 条里制

の 実証的研究 ョ 学生社 2004 年 所収 ) に詳しい。

(3) 大極殿の成立に 関しては諸説あ る。 藤原宮の大極殿とそれ 以前のものは 性格が異なり、 古いものを大極

殿 相当施設と呼称することもあ るが、 本稿では朝堂の 正殿であ ることを重視するので、 それらも含め 大

極 殿と呼称したい。

1977 年の発見当初、 字名から「 エビ ノコ 郭 」と呼称していた。 近年、 内郭と並存することが 明らかにな @

小澤は「東南部」と 呼称しているが、 「東南部」では 内郭と同時期に 造営を開始したと 誤認する恐れがあ

るため本稿では「 エビ ノコ 郭 」を使用する。

(5) 八木元『研究 史 飛鳥藤原京 コ 吉川腔文館 Ⅰ 996 年

(6) 山尾幸久は飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構を飛鳥浄御原宮の「 旧宮 」とし、 「新宮」が別に 存在していたとする。 ( 山

尾幸久「飛鳥朝の 都城と宮室」『明日香風』 90 2004 年 ) 、 西本昌弘は飛鳥京 跡 Ⅱ 期 遺構を後飛鳥岡本宮

とし、 T 期 遺構の内郭を 飛鳥浄御原宮の「 旧宮 」、 エビノコ郭を 同じく飛鳥浄御原宮の「新宮」とする ( 西

本 昌弘「伝承 板蓋宮跡 Ⅱ 期 遺構と後飛鳥岡本宮」『日本歴史 コ 第 679 号 2004 年 ) 。

(7) 1953 年平城宮 跡 、 1954 年難波宮 跡 、 Ⅰ 955 年長岡 宮跡 、 1957 年平安宮 跡 、 1959 年飛鳥京跡で 継続的な発掘

調査が開始された。 また、 橿原考古学研究所は、 伝承飛鳥板蓋宮 跡 で見つかった 宮殿遺構を「飛鳥京 跡 」

と 呼称している。

(8) 福山敏男『大極殿の 研究一日本に 於ける朝堂院の 歴史 円 195.M 年

(9) 岸 俊男『日本古代官都の 研究 コ 岩波書店 1988 年

(10) 狩野久「律令国家と 都市」に大系日本国家 史コ i 東京大学出版会 i971M 年

(11) 中尾芳治『難波束 コ 考古学ライブラリー 46 ニューサイエンス 社 1986 年

(12) 小澤 毅 「伝承 板蓋宮 跡の発掘と飛鳥の 諸 官 」『橿原考古学研究所論集コ 第九 吉川腔文館 1988 年㈹ 、 澤

毅 沖本古代官 都 構造の研究 コ 青木書店 2003 年 卵 lX)

は 3) 休部 均 「伝承飛鳥板蓋宮 跡 出土土器の再検討」『橿原考古学研究所論集コ 第十三 吉川腔文館 1998 年 ( 林

部均 『古代宮部形成過程の 研究コ青木書店 20ml 年 所川又 )

(14) 小澤 毅 「飛鳥浄御原宮の 構造」 ニ 堅田直先生古希記俳論文集 コ真陽社 1997 年 ( 小澤 毅 円本古代官 都 構

造の研究 団 青木書店 2003 年 所 llX)

(15) 休部 均 「飛鳥浄御原宮の 成立 - 古代官 都 変遷と伝承飛鳥板蓋宮 跡円 『日本史研究 コ 仝 34 号 日本史研究

会 1998 年 ( 休部 均 T 古代官 都 形成過程の研究 $ 青木書店 2001 年 所収 )

(16) 下層の整地土から 出土する土器は、 飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構 ( 声明朝 ) から出土する 土器よりも古いため、 孝

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(32) 内郭北陣正殿の 前にあ る広場は約 lhm 程であ るが、 大安殿での賜宴では 王卿や皇子といった 限定された

人のみの賜宴なので 十分な広さであ ったと言えるだろう。

(33) 冬官の大極殿は 全て四面尻付建物であ り、 身舎間数は双期難波宮 3 X 7 間、 飛鳥京 跡 2 X5 間、 藤原宮 2

x 7 間、 平城宮 2 x 7 間、 後期難波宮 2 x 7 間、 長岡 宮 2 x 7 間、 平安宮 2 x 9 間であ る。

(34) 早川庄八「双期難波宮と 古代官僚制」『思想 J 703 1983 年

(35) 小澤 毅は後 飛鳥岡本宮では 内郭両院の東西区画を 朝堂とし、 飛鳥浄御原宮になると ェビ ノコ朝一帯に 独

立 させたと考えている ( 前掲 註 M4 論文 ) 。 しかし、 私は飛鳥浄御原宮段階においても 内郭両院の東西区画

が朝堂であ ったと考える。

(36) 前掲 註 14 論文、 15 論文

(37) 財団法人 大阪市文化財協会『難波宮肚の 研究』第十二 2004 年

(38) 吉川真司「律令体制の 形成」『日本史講座 コ第 1 巻 東アジアのおける 国家の形成 東京大学出版会

2004 年

(39) 休部 均 『古代官 都 形成過程の研究 コ 青木書店 2001 年

(40) 菅谷友則「飛鳥京 跡 一昭和 52 年度 まとめ」「奈良県遺跡調査 概報 1977 年度』 橿原考古学研究所

1978 年、 このあ と菅谷氏は自説を 訂正し、 エビノコ郭を 大極殿に比定している。

(41) 前掲 註 IA 論文

(42) 前掲 註 14 論文

(43) 前掲 註 1 」 5 論文

( 佃 ) 亀田博「飛鳥浄御原宮」『古代都城の 儀礼空間と構造 ョ 古代都城 制 研究集会 第一回報告集 奈良国立文

化財研究所 1996 年

(45) 河上邦彦 T 飛鳥を掘る コ 講談社 2003 年

秋山日出雄「古代の「宮の 伝 領 」について - 飛鳥の嶋宮を 通じて - 」㌃柴田 寛 先生古希記念 日本文化史

論叢 コ 1976 年

(47) 荒木敏夫円本古代の 皇太子Ⅱ吉川腔文館 1985 年

(48) 仁藤敦史「 嶋宮 の低額過程」立正大学古代史研究会『古代史研究 J 5 号 1986 年 ( 仁藤敦史Ⅰ古代王権

と 都城コ吉川腔文館 1998 年 所収 )

(49) 亀田博「飛鳥地域の 苑 池 」㌃橿原考古学研究所論集コ 第九 i988 年 ( 亀田博『日韓古代官都の 研究 ロ 学生

社 2000 年 所収 )

(50) 小澤 毅 「小墾田宮・ 飛鳥 宮 ・ 嶋 富 - セ 世紀の飛鳥地域における 宮部空間の形成」『文化財論叢Ⅲ同朋 舎

出版 19g.W 午 ( 小澤 毅 日本古代官 都 構造の研究 コ 青木書店 2003 年 所 @@x)

(51) 西光慎治「 島庄 遺跡調査速報」『明日香風 J g1 2004 年

(52) 難波長柄豊碕宮遷宮は 白雄元年 (651) であ るので、 大化三年は造営中であ った。

(53) 前掲 註 48 論文

(54) 前掲 註 50 論文

(55) 前掲 註 48 論文

(56) 大武紀五年正月二卵 条 「天皇 御嶋宮宴之 。 」

(57) 壬申の乱の最中には「大皇弟」が 見られるが、 これは大海人皇子が 一旦出家し「東宮」でなくなったた

めとみられる。

一 Ⅰ 6 一

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(58) 前掲 註 13 論文。 土器の編年からの 年代なので、 あ る程度の幅をもたせないといけないが、 その年代が『日

本書紀』の年代とほぼ 一致することは 確かであ る。

(59) m 不忠 尚 「祭殿から内裏 正殿 へ - 梁間三間四面 庇付 建物の意義 - 」『古代文化』第 56 巻第 5 . 6 号 2004

(60) この時期、 正宮は近江大津宮であ ったが、 飛鳥には留守 司 がおかれており、 宮は存続していた。 正宮で

はないにしろ 宮内に皇子宮を 造営することは、 重要であ ろう。 藤原宮は不明だが、 平城宮で宮内に 東宮

が 存在することにつながる 可能性も考えられる。

図版出典

図 1 独立行政法人文化財研究所 奈良文化財研究所編Ⅱ日中古代都城図録』 2002 年 P 、 14 前期難波宮を 一

部改変

図 2 株 部均 『平成ロ年度一平成 14 年度科学研究費補助金基盤研究 (C) (2) 研究成果報告書 飛鳥・藤原京、

および平城京の 都市機能の比較研究 J 2003 年 第 2 図を改変

図 3 奈良文化財研究所ほか『飛鳥。 藤原京 展 』朝日新聞社 2002 年 P 、 138 挿図を一部改変

一 Ⅰ ア一

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