( 論 文 コ
初期宮 部 中枢施設の性格
家原 圭太
はじめに
近年、 継続的に行われてきた 発掘調査により、 古代官都の実態が 解明されつつあ る。 冬宮 跡
では、 検出した遺構を 内裏 や大極殿などの 殿舎に比定する 作業がなされ、 宮部発展過程を 明ら
かにするうえで 重要な資料になっている。
藤原京では、 瓦葺で礎石建物という 中国の影響を 受けた建築様式を 採用するとともに、 条坊 制を日本の宮 部 で初めて採用したという ,点に画期を 見出すことができ ㈲ る
置においては、 内裏 と大極殿が空間的に 完全に区別され、 内裏 は天皇が私生活を 行う場 鰍的
空間 ) として、 大極殿は天皇が 政務や儀式を 行う場 ( 公的空間 ) としての役割がはっきりして
いる。 しかし、 藤原宮の段階で 突然こういった 殿舎群の役割が 定まったとは 考え難いと思う。
藤原宮の前段階であ る飛鳥浄御原宮や 前期難波宮で、 あ る程度内裏 ・大極殿の空間的な 役割が
固まりつつあ ったのではなかろうか。 そして、 それらを正しく 宮部発展過程に 位置付ける必要
があ るだろう。 本稿では、 諸官における 内裏 ・大極殿の性格やそれらがどのように 発展し 、 古
代官都の完成形態と 言われている 藤原宮・京が 成立していったのかを 明らかにしていきたい。
したがって、 完全に内裏 ・大極殿が成立していないと 考えられている 段階の殿舎も、 天皇の私
生活を行 6 場であ るならば「内裏 」、 天皇が儀式や 政務を行 6 場であ るならば「大極殿」と 呼
称することを 断った上で、 初期 宮 都の中枢施設について 論じたい。 また、 その過程で重要な 意
味を持ってくるのが 飛鳥京 跡エビ ノコ郭の性格であ ると考えるので、 それについても 考察して
いきたい。
1 。 研究 史
古代官都の研究史は 膨大な量があ り、 飛鳥・藤原京だけでも 1996 年に八木元によって『研究
史 飛鳥藤原京』が 刊行されるほどであ る。 したがって、 ここでは本稿の 内容に関わる 範囲で重
要だと思われる 研究を挙げるに 留めたい。
初期宮部、 特に飛鳥諸官 と 藤原宮については、 江戸時代からその 位置についての 議論がたた
かわされていた。 藤原宮では 1934 年に日本古文化研究所の 高殿地区における 発掘調査に よ り、
その決着をみたが、 飛鳥諸官 は ついては現在も 様々な説が提唱されている。 1950 年代に入ると
古代官都の発掘調査が 継続的に行われるようになった。 その結果、 古代官都の様相が 少しずつ
であ るが明らかになり、 それと共に研究も 進展し 、 宮の構造や殿舎比定といった 具体的な研究
がなされるようになった。 福山敏男は大極殿の 成立を『日本書紀』の 記述をもとに 飛鳥 浄 御煉
宮 とし、 朝堂院についても、 考古資料と文献史料から 詳細に検討している。 また、 岸俊男は 、
一 l 一
宮の構造について 考察し、 天皇の私的空間であ る内裏 と公的な空間であ る朝堂が区別されてい
く発展過程を 明らかにした。 藤原京については、 大弐末年に造営を 開始したとし、 京城 は 4 型
x 6 里の範囲であ るとした。 この岸の研究によって、 藤原京の研究は 造営年代と京城 論 が中心
になっていった。 1977 年には橿原考古学研究所の 発掘調査により、 飛鳥京 跡エビ ノコ郭が発見
された、 この性格については 後述するが、 大極殿の成立を 考えるうえで 重要な施設と 考えられ
た。 発掘調査による 一定量の資料が 集まったことにより、 岸は 1988 年に『日本古代官都の 研究 コ
を 刊行し、 それまでの古代官 都 に関する問題点 は ついて整理をした。
狩野久は、 大極殿の成立は 律令国家の成立と 密接な関係があ るとし、 飛鳥浄御原宮の 段階で
は大極殿は天皇の 独占的な空間ではなく、 大極殿の成立は 藤原宮であ るとした。 中尾芳治は 、
難波宮中枢施設の 造営時期の決定や 八角妓院 は ついて研究をした。 また、 藤原宮と前期難波宮
を比較検討し、 前期難波宮内裏 前殿が藤原宮大極殿の 位置に対応すること、 内裏 後肢が藤原宮、
平城宮の内裏 正殿に転化していくことを 指摘した。
1988 年、 小澤毅は伝承飛鳥板蓋宮跡の 重複する宮殿遺構について、 1 朝 - 飛鳥岡本宮、 Ⅱ 期
- 飛鳥板蓋宮、 Ⅲ朝一 後 飛鳥岡本宮、 飛鳥浄御原宮に 比定した。 休部均は出土土器の 検討から
小澤と同様の 比定をしており、 現在最も有力な 説となっている。 また、 1997 年に小澤は飛鳥京
跡の建築構造に 着目し、 内裏 ・大極殿正殿の 特徴を論じた。 そして、 文献史料の検討と 合わせ
て ェビ ノコ 郭 正殿を大極殿、 内郭両院を大安殿、 内郭 北院 を向小妓,円安殿に 想定した。 ェビ
ノコ郭を大極殿に 比定することによって、 この造営を大極殿成立の 画期としている。 1998 年に
休部は大極殿と 朝堂の成立過程について 論じ、 前期難波宮と 藤原宮の間に 飛鳥浄御原宮を 置く
ことによって、 藤原宮の成立が 上手 く 説明でき る と した。 休部は飛鳥浄御原宮について 小澤 と
同じ殿舎上 ヒ 定をしている。 そして、 大極殿の成立は 飛鳥浄御原宮の ェビ ノコ郭にあ り、 前期 難
波 宮の内裏 前殿や後飛鳥岡本宮の 内郭両院を大安殿の 前段階に位置付けた。
以上のように、 これまでの研究では 宮地の比定から 始まり、 殿舎の比定とその 性格について
の考察が進んでいった。 しかし、 これまでになされてきた 冬宮跡の殿舎比定には 幾つかの問題
点があ るように は、 う 。 したがって、 本稿では冬宮跡の 殿舎比定を再検討し、 初期 宮 都の発展 過
程を見ていきたい。
D 。 実例の提示
前期難波宮 ( 図 1) 難波宮 跡は 、 大阪市中央区浅岡 坂 に所在する宮殿遺跡であ る。 この 遺
跡 では 2 時期の宮殿遺構が 確認され、 上層は聖武天皇によって 神亀三年 (726) に造営された
ものであ ることが明らかになっており、 「後期難波宮」と 呼称している。 下層については 造営
時期が孝徳 朝 (651) の難波長柄豊碕宮のものなのか、 大武 朗 (683) のものなのかは 明らかで
はない。 現在は孝徳 朝説 が有力なので 本稿でも孝徳 朝説 に従 う 。 廃絶時期については、 火災 痕
跡が認められることから、 『日本書紀』朱鳥紀元年 (686) 正月 乙卯条 「 酉時 。 難波大蔵 省失火。
宮室 悉焚 。 成口。 阿斗連薬家 失火 之 。 引及 宮室。 唯 兵庫織本 焚焉 。 」にあ たるとされている。
この下層の宮殿遺構を「双期難波宮」と 呼称している。
前期難波宮の 建物遺構は全て 掘立 柱 建物で、 瓦茸きではなかった。 中心建物は 3 x 7 間の身
一 2 一
---- == - = - ヰ 一一一 == 笘 == - = - == - = 舎 に四面 庇が 付く 束
剛 四株建物 2 棟で、 柱
内裏
筋を揃えて南北に 並 臼 田瞳
んでいる。 北側の
樫 邸 SBl603 を「内裏 後
昌 西方官 衞 | @ | 殿 」、 南側の SBl801
を 「内裏 前殿」と 呼
1. 一 - 称している。 この 2
棟は軒廊でつながっ
ていることから 密接
東方官 衛 な関係があ ったとい
える。 この 2 棟の東
西 には 各 1 棟ずっ
南北條の 脇殿 があ
る 。 藤原宮との比較
= ' コ に ' |
によって内裏 後段 を
C@@ ヱ ニコ
内裏 正殿、 内裏 前殿 を大極殿に比定する
朝堂院 南門 SB4501 説 があ る。 これらの
殿舎を囲むように
両ゴⅡ 24 ユ m 、 東西 口 3.3m の 複廊 の 区
図 1 前期難波宮 画 があ る。 その区画
の南面には 2 X 7 間の内裏 市門 SB3301 が開き、 その南に朝堂院があ る。 藤原宮内裏 市門、 朝
堂院 市門、 宮市門は全て 五間間、 平城宮朱雀門も 五間間であ り、 古代官 都 において五間間が
最も格が高いとされることから、 前期難波宮内裏 市門 SB3301 の桁行 7 間は注目される。 また、
朝堂については、 藤原宮以降十二重が 一般化するが、 前期難波宮では 少なくとも十四重あ り、
十六 堂 あ ったとする説も 朝堂院には五間間であ る南門 SB4501 が開く。 この朝堂院の 北
側東西には、 中心に八角形の 建物を配した 複廊 で区画された 空間があ る。 ここは八角 殿院 と呼
ばれ他の宮部には 存在しない。 ただ、 藤原宮大極殿 院 回廊の東側には 2 X 5 間の身舎に四面 庇
が 付く建物があ る。 同様の建物は 平城宮以降でも 見られ、 「 東楼 ・四機」に相当すると 考えら
れることから、 前期難波宮八角殿も 同じ機能を有していたかもしれない。 しかし、 八角形の連
物 という特異な 形であ ることは特筆するに 値する。 (201 さらに朝堂院の 南には、 南北に長い 2 棟の
建物を配する 空間があ り、 朝集 殿院 と考えられる。 その南には五間間の 富商門があ る。 前期難
波宮における 中枢部の区画施設は 全て複 廊 であ り、 飛鳥京跡における 掘立 柱塀 とは異なって い
ることが特徴的であ る。 また、 建物の上部構造を 知る手がかりとして、 建物本体の柱の 外側に
小柱穴と呼ばれる 遺構が見つかっている。 これは前期難波宮独特の 遺構であ り、 基壇 説 、 縁束
説 、 裳階調、 足場 説 、 軒支柱 説 があ る。 しかし、 いずれもいまだ 確実ではない。
一 3 一
飛鳥京 跡 ( 図 2) 飛鳥京跡は奈良県明日香 村
岡に 所在する特別史跡「伝承飛鳥板蓋宮 跡 」を 中
心とした宮殿遺跡であ る。 ここでは 3 時期の宮殿
跡 が確認、 されている。 1 期 ( 下層 ) 飛鳥岡本宮、 ユ 脚め
Ⅱ 期 ( 中層 ) が飛鳥板蓋宮、 Ⅲ 期 ( 上層 ) は内郭
と 外郭から成るⅢ 一 A 期を後飛鳥岡本宮、 内郭 と
外郭に ェビ ノコ郭が付け 加えられたⅢ 一 B 期を飛
島津御煉 宮 に比定する説が 有力であ り本稿では、
この説に従 う 。 それぞれの存続期間は、 飛鳥岡本
宮 が野明朝の頃 で 630 年から 636 年の火災まで、 飛
息杖 蓋宮は皇極朝の 643 年から孝徳天皇が 難波宮
に 遷宮する 651 年まで、 後飛鳥岡本宮は 斉 明 ・ 天
武朗 で 656 年から大津宮に 遷宮する 667 年まで、 飛
鳥海御煉宮は 天武天皇が壬申の 乱で勝利し帰還し
た 672 年から持統天皇が 藤原京に遷都する 694 年 ま
でであ る。 1 期と Ⅱ期の遺構は T 期 遺構の下層に
あ ることから発掘調査によってそれほど 多くの 情 報を得ることはできない。 したがって、 建物配置
図 2 飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構 や 、 建物の機能・ 性格について 明確にすることは
できない。 しかし、 Ⅲ 期 遺構は継続的な 発掘調査によってその 様相が明らかになっている。
本稿ではⅢ 期 遺構、 つまり後飛鳥岡本宮と 飛鳥浄御原宮をとりあ げる。
① 後 飛鳥岡本宮 後飛鳥岡本宮の 遺構は、 内郭と覚郭に 大別できる。 内郭は南北 197m 、 東
西 152 一 158m の 逆 台形をなす。 南から約 3 分の 1 の箇所で東西城 SA7118 によって南北に 区画
されているので、 それより北側を 内郭 北院 、 南側を内郭両院としている。
内郭 北 院の中心部はこれまで 発掘調査がなされていなかったが、 2003 年から橿原考古学研究
所によって行われ、 その結果、 正殿級の建物とその 西側で池遺構が 見つかった。 また、 内郭両
院との間には 3 列の掘立 柱塀 があ り区画している。 その他に、 内郭北陣には 東西に長大な 建物
SB6205 や南北 棟 建物が数 棟 、 また北東隅では 井戸が見つかっている。
内郭両院は南北 塀によ り、 中央区・東区・ 西区に分けられ、 中央区には 2 x 5 間の身舎に四
面廊 が 付く東西 棟 建物 SB7910 があ る。 この SB7910 から北の内郭 北院 へつながる玉石敷きの 通
蹄状の遺構が 存在する。 SB7910 の南には五間門の 内郭市門 SB8010 があ る。 東区には SB8505 と
SB7401 があ る。 この 2 棟はそれぞれ 南北に長大な 建物であ り、 掘立 柱塀 によって区画されて
いる。 西区は発掘されていないが、 東区と同じ殿舎配置であ ったと考えられる。
外郭は東側で 掘立 柱塀が 見つかっている。 この掘立 柱塀は、 建て替え痕跡が 見られるが、 こ
の 外郭がどの程度の 広がりを持っものなのか 不明であ 122) る。 ただ、 内郭の南方面数十 m には飛鳥
川が流れており、 宮の規模を考えるうえで 無視できない。 また、 外郭には掘立 柱 建物が数 棟見
つかっているが、 この建物の性格については 不明であ ( お る。 )
Ⅲ 期 遺構には飛鳥特有の 石敷が施されている。 しかし、 内郭北陣 と 両院では少し 様相が異な
一 4 一
っており、 北陣では玉石敷、 両院では砂利敵であ る。 この石敷の違いについては、 空間的性格
の 違い ( 私的空間か公的空間か ) によるという 説があ ( る。 ぬ )
②飛鳥浄御原宮 飛鳥浄御原宮の 遺構は内郭・ 外郭・エビノコ 郭から成る。 内郭と覚郭は 少
しの建て替えがあ るものの、 後 飛鳥岡本宮の 建物を踏襲している。
エビ ノコ郭は、 3 X 7 間の身舎に四面 庇が 付く東西 棟 建物 SB7701 を中心に配した 東西約 92
一 94m 、 南北 55.2m の区画であ る。 脇殿 SB8501 が SB7701 の東南方で見つかっているので、 西
にも相対する 建物が存在していたと 考えられる。 この区画には 南門がなく、 五間間と考えられ
る西門 SB7402 が存在している。 古代官 都 において、 大型建物を配する 区画で南門がないもの
は他には確認されていない。 ェビ ノコ郭の性格を 考える上でこの 点が重要になってくるだろう。
ェビ ノコ郭の区画 外 南方に SB82KK や SB7201 が見つかっており、 朝堂院 や 、 その 南 門とする 説
があ るが、 未だ明らかでかい。 ェビ ノコ郭には、 内郭両院と同様の 礫 敷 が見られる。
藤原宮 ( 図 3) 藤原宮は奈良県橿原市高殿町一帯に 所在する宮殿遺跡であ る。 藤原京は条
切削が日本で 初めて採用され、 宮部として初めて 基壇上に礎石 建で 瓦葺きの建物が 採用された
ことなどから、 古代官都の中でも 画期的なものであ ると い える。
藤原宮の規模はほぼ lkm 四方で、 その中心に内裏 ,大極殿・朝堂院・ 朝集妓院を配する。 内
裏 は発掘調査; ぎ ほとんどなされていないので 詳細は不明であ る。 大極殿は宮 部 において初めて
採用された礎石 建 ・瓦葺の 2 X 7 間の身舎に四面 庇が 付く建物であ る。 大極殿の南には 五間間
の市門が開き、 朝堂院がその 南にあ る。 朝堂は 12 堂で複 廊によ り囲まれている。 朝堂院の南には、
朝集 殿院 が存在する。 朝
集 妓院には南北に 長 い朝
集殿 が東西に各一棟ずっ
あ り、 朝堂院と同様に 複
山 廊 で区画されている。 し
謂 かし、 この朝集妓院の 複
廊が 一間分内側に 入るた
め 、 朝堂院より朝集妓院
の東西幅が狭くなって い
建部 る 伽 l o こ 二ノ いった中心区画 甘 @@@ 甘 Ⅰ @
0 周囲には官符 ( 曹司 )
があ る。 西面中門付近の
西方官 衞 、 東面此間付近
小 の東方官 衛 、 および内裏 子
部門 外郭東宮 衛 でまとまって
調査されており、 そのう
ち 、 西方官符では 長大な
南面面的 朱雀門 南面東門 4 棟の建物が コ 字型に配
之 O0m 直 され、 中央には水を 溜
図 3 藤原京 めたと見られる 窪みがあ
ることから馬寮であ ったと考えられる。 官衛 ( 曹司 ) については前期難波宮、 飛鳥京跡では 藤
原宮ほど整然としたものではなかったと 考えられるので 藤原宮でこういった 整然とした 官街
( 曹司 ) が成立することは 重要であ る。
藤原宮における 殿舎配置やその 性格は、 規模が変わるが、 基本的に平城宮・ 長岡 宮 ・平安宮
にも受け継がれる。
T 。 殿舎上ヒ ラき
内裏 は天皇が日常生活を 行 う 施設であ る。 中心に正殿を 配し、 周囲には多くの 建物を
配する。 平城宮の内裏 については、 正殿級の建物が 2 棟あ り、 第 1 期では SB4700 、 SB460 がそ
れにあ たる。 前者が 御 在所正殿、 後者が内裏 正殿と呼称され、 Ⅱ 期 、 Ⅲ期においては SB4703 、
SB450 にうけつがれる。 御 在所正殿は天皇が 寝起きする殿舎であ り、 内裏 正殿は大極殿が 朝 庭
に 官人を並ばせて 儀式を行った 殿舎であ る事とは違い、 日常生活を行う 内裏 の中において 天皇 が 出御し、 一定の階層の 官人に限って 引き入れ内廷的な 儀式を行った 殿舎であ っ ) 臼チハ こ
述するように 内裏 正殿は大安殿と 呼ばれていた 可能性があ る。
前期難波宮の 内裏 は内裏 前殿の北側にあ る 複廊 回廊で囲まれた 区画であ ったと思われる。 内
裏 後殿は大安殿に 比定でき、 おそらく内裏 前殿と後殿の 間にあ る掘立 柱塀 SAl602 より北側が
内裏 空間であ ったのだろう。
藤原宮では内裏 地区の発掘調査がなされていないため 不明であ るが、 飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構では、
内郭 北 院を内裏 に比定できる。 内裏 は天皇が日常生活を 行 う 施設なので井戸があ ることも 1 つ
め 指標になり ぅる だろう。 内郭 北 院は全面に玉石を 敷いている。 この石敷について、 内郭両院
では 礫敷 であ るので、 玉石敷が私的空間、 礫敷 が公的空間とする 説があ (2a) る。 しかし、 玉石を敷
いている遺跡には 他に 稲淵 川西遺跡、 石神遺跡 A 期 、 飛鳥寺南方石敷広場などがあ り、 稲 湖州
西 遺跡は飛鳥川辺行宮に 比定でき私的空間といえるかもしれないが、 石神遺跡 A 期は饗宴の場
として使用されており 公的空間といえる。 したがって、 公私によって 石敷が使い分けられてい
たとは必ずしも 言えないだろう。 ただ、 内郭の北 院と 両院で石敷の 様相が異なるのは 注目すべ
き点であ り、 それぞれの性格の 違いを示すものと 考えられる。
大安殿大安殿については 大安殿 = 大極殿 説 と大安殿 = 内裏 正殿 説 があ 1301 る。 『日本書紀 団朱
鳥紀元年 (686) 正月発 卯条 では「大極殿」での 賜宴、 丁日 条 では「大安殿」での 賜宴と明確
に区別されている。 また、 藤原宮でも T 続日本紀』大宝紀元年 (701) 正月朔日 条 とその 3 日
後に大極殿と 大安殿の記述があ り、 明確に区別されている。 したがって、 大安殿ニ大極殿説は
成立しない。
飛鳥京跡でこの 大安殿に比定できるのは 内郭 北 院の正殿と考えられる。 その理由として 内郭
北院 正殿の双には 賜宴をするのに 十分な広場があ (321 り、 また、 安殿は「やすみどの」と 訓じ 、 天
皇が休息する 建物と考えられるからであ る。 『日本書紀』大武紀九年 (680) 正月「大殿の 庭」
で宴を催し、 また、 大武紀十四年 (685) 九月にも「 旧宮 安殿の庭」で 宴を催している。 これ
は 内郭北陣正殿の 西にあ る 池と 南の広場がこの「 庭 」にあ たると考えられ「大殿」「 旧 高安殿」
は大安殿であ ったことがわかる。 また、 内郭 北 院は玉石敷で 内郭両院 は礫敷 であ ることや、 3
一 6 一
列の掘立 柱塀 によって区画されていることから、 内郭両院は内裏 と異なった性格であ ったこと
がわかる。 したがって、 内裏 正殿であ る大安殿には 内郭 北院 正殿を比定することができる。
前期難波宮に 遡って考えると、 その位置から 内裏 後段の SRl603 が大安殿に比定できると 考
える。 池が存在しない 点や広場を有しないことから 飛鳥京跡のものとは 大きく異なる。 しか
し、 内裏 の南端に位置していること、 SBl603 と SBl80U は軒廊でつながっており、 飛鳥京 跡
SB7910 から北にのびる 石敷の通路 状 遺構と同じ性格が 想定できることから 前期難波宮におい
ては SRl603 が大安殿に比定できるだろう。
前期難波宮においては 軒廊によって 大極殿と大安殿がつながっているため 密接な関係があ っ
たといえる。 飛鳥京跡では、 大極殿であ る SB7910 から内裏 であ る内郭 北院 にのびる石敷遺構
が 見つかっている 一方で、 3 列の掘立 柱 塀や石敷の違いによって 内裏 と大極殿が区別されるよ
うになった。
大極殿 大極殿は天皇が 国家に関わる 儀式や政務を 行う場所であ る。 藤原宮では確実に 存在
しているが、 これが藤原宮の 段階で成立したのか、 飛鳥浄御原宮や 前期難波宮まで 遡るのか問
題 となる。
前期難波宮 SBl801 は内裏 前殿と捉えられている。 脇 殿を配する点などは 藤原宮以降の 大 槌
殿 とは異なった 点があ るからであ る。 また、 SRl80U は内裏 後段 SBl603 と軒廊でつながってい
ることから、 この 2 つの建物は密接な 関係があ ったと考えられる。 しかし、 たとえ SBl603 と
SBl801 が軒廊でつながっていても 天皇が SBl801 に出御し、 儀式や政務を 行ったと考えられる。
こういった朝堂院の 正殿という機能を 有しているなら 大極殿といってもよいのではないだろう
か 。
飛鳥京跡では SB7910 が大極殿に比定できる。 この南には朝堂は 存在しないが、 儀式をした
とされる「 庭 」があ ることから天皇が SB7910 に出御し、 儀式や政務を 行ったと考えられる。
藤原宮以降の 大極殿はその 規模が 2x7 間の身舎に四面 庇が 付く建物が一般的であ (331 る。 梁行
身舎が 2 間であ ることを重視するなら SB7910 は大極殿と考えられる。 朝堂院の正殿としての 大
樋殿 は 、 その起源が前期難波宮まで 遡り、 その後、 後飛鳥岡本宮・ 飛鳥浄御原宮では 空間的制
約から整然とした 朝堂院ではなかったが、 朝堂院正殿としての 性格は SB7910 に受け継がれる。
そして 684 年藤原宮への 遷宮にともない、 大極殿としての 役割が内裏 から切り離された 独立し
た 建物として成立したと 考えられる。
朝堂院 朝堂院は、 官僚が政務を 行う建物群であ る朝堂と、 それに囲まれた、 儀式を行うと
き官僚が集まる 朝 庭からなる。 朝堂院の起源は 小墾田宮の「 庁 」にあ るとされるが、 発掘調査
では確認されていない。 現在、 朝堂院が確認されている 最も古い宮都は 前期難波宮と 考えられ
ている。 この前期難波宮の 朝堂院は前述したとおり、 14 堂もしくは 16 堂 備えており、 他の宮部
にはない構造であ った。 前期難波宮を 孝徳 朝 亀崎 宮 とした場合、 7 世紀中頃 では官僚制がまだ
確立していないと 考えられ、 制度と殿舎に 矛盾が生じる。 前期難波宮大武朝晩はこの 点を重視
するが、 早川庄八は前期難波宮朝堂院が 藤原宮朝堂院と 性格が異なり、 地方豪族を含めた 全盲
人 が参加する口頭伝達に よ る政治形態に よ るものとする。 (3%1 また、 林部はそれまでばらばらにな
っていた 官衛的 役割のあ る建物が朝堂に 集中し、 天皇に仕え奉るという 関係を実際に 行うため
に孝徳 朝に 藤原宮をしのぐような 朝堂院が存在したのではないかと 考えている。
この朝堂院は 飛鳥京跡では 朝堂と朝 庭 に分かれ、 朝堂は内郭両院の 東 。 西区画に、 朝庭は内
郭の南に比定できると 考える。 1351 内郭両院の 東 ・西区画は前期難波宮の 内裏 前殿、 後段の 脇殿に
あ たるとも考えられるが、 それぞれが区画され 別 空間になっていることから 脇殿 ではないと 考
えたほうが自然であ る。 官僚が政務を 行うため区画されていたと 考えられる。 『日本書紀』に
は「 庭 」や「 朝庭 」という記述が 見られ、 その中には 大 武紀四年 (675) 正月毛皮 条に 「射干
西 間庭」とあ り、 西門の前に射礼を 行 う 庭の存在を示す。 また大武紀六年 (677) 正月 庚辰条
には「射干市門」とあ り、 同様に市門の 前に射礼を行う 庭があ った。 これらの記述によると 西
門は エビ ノコ邦画門、 南門は内郭市門と 考えられることから 射礼を行ったのは 内郭の南の広場
だったと見られる。 (3,1 後飛鳥岡本宮で 朝堂院が整然としない 構造であ る理由として、 土地の制約
があ る。 大極殿の南には 前期難波宮のような 広大な土地がない。 また、 飛鳥においては 官衛的
機能を有する 宮殿跡や貴族邸宅が 飛鳥京跡の周辺に 点在していた。 したがって、 飛鳥京跡では
多くの朝堂は 必要なく東西 2 章ずつといった 必要最小限の 朝堂を大極殿のすぐ 横に配置し 、 そ
の 南に少しでも 広い 朝 庭を確保したのではないか。
官僚が政務を 行う場所は朝堂の 他に官 衛 ( 曹司 ) があ った。 吉川真司は双期難波宮で lm 棟 以
上の朝堂と広大な 宮城内にいくつもの 官衞 ( 曹司 ) が置かれたことを 重視している。 また、 飛
鳥 東漸Ⅲ 期 遺構に関しても 外郭部分に多くの 官衛 ( 曹司 ) を想定している。 (361 しかし、 発掘調査
では藤原宮の 官 衛 ( 曹司 ) ほど多くの建物群が 見つかっているわけではなく 現状では藤原宮の
ような整然とした 官衛 ( 曹司 ) は成立していなかったと 見るほうがいいだろう。 前期難波宮で
は、 宮の西端であ る掘立 柱塀 SA303 を難波宮中軸線で 束に折り返した 部分には掘立 柱 塀は存在
しない。 東西非対称で 東側が広くなる 可能,陛を示す。 13,1 飛鳥京跡も宮の 東端とみられる 外郭菜摘
立 柱塀が 見つかっているが、 西側は飛鳥川により 非常に狭く、 東西非対称であ っただろう。 こ
ういったことからも 藤原宮の官 衞 ( 曹司 ) と、 それ以前の官 衛漕司 ) との違 いは 明白であ り、
藤原宮で整然とした 官衞 ( 曹司 ) が成立したことの 意義は重要であ ろう。 はじめは朝堂のみで
政務を行っていたが 実務的なものは 朝堂ではできなくなり、 宿衛 ( 曹司 ) が成立してくるよう
になる。 逆に言えば 官衞 ( 曹司 ) が明確でない 宮 ( 前期難波宮、 後飛鳥岡本宮・ 飛鳥浄御原宮 )
では朝堂において 実務的な政務も 行っていたと 考えられる。 そ う 考えると飛鳥京跡のように 朝
堂 が大極殿の双面になかったとしてもよかったのだ る
Ⅳ。 飛鳥京 跡エビ ノコ郭の性格
飛鳥京 跡エビ ノコ郭の正殿は 3 x 7 間の身舎に四面廊 が 付く東西 棟 建物であ る。 この建物は
飛鳥京跡において 最大規模であ り、 飛鳥浄御原宮の 重要な殿舎の 一つであ ると認識されている。
したがって、 研究も殿舎比定が 中心にされてきた。 本稿でも、 初期 宮 都の殿舎の性格から 内裏
や 大極殿の変遷を 明らかにしようとするので、 飛鳥京 跡エビ ノコ郭の性格について 考えたい。
一 8 一
1. 殿舎比定諸説
ェビ ノコ郭の殿舎比定には 主に、 内裏 、 大極殿、 朝堂の 3 つの説があ る。 菅谷友則 は、 ェビ
ノコ郭の調査 概報 で、 3 x 7 間の身舎に四面 庇が 付くという特徴的な 建物を他の宮 部 との比較 (401
から内裏 正殿に比定している。 菅谷の ェビ ノコ郭内裏 説は 、 内郭との時期 差やェビ ノコ郭がど
の宮の殿舎なのか、 といった検討がなされていないものだった。 その後、 小澤などの研究に (411 よ
って飛鳥浄御原宮の 時期に内郭 とェビ ノコ郭が併存していたことがわかり、 内郭が内裏 にあ た
るので、 エビノコ郭内裏 説は否定されるに 至った。 また、 内裏 は天皇が日常生活をする 場所で
あ り、 正殿だけでなく、 その周辺に多くの 建物が必要不可欠であ る。 ェビ ノコ郭には、 正殿と
その南に南北 棟 建物が 2 棟あ るのみであ る。 これだけの建物で 内裏 空間を構成している 例は他
の 宮部にはなく、 内裏 として機能していたとは 考えがたい。 したがって、 エビノコ郭を 内裏 に
比定するのは 困難であ る。
一方、 小澤は エビ ノコ 郭 正殿が飛鳥京 跡 最大の建物であ ること、 SB8210 を朝堂 西 第 1 堂と
捉えその南に 第 2 堂 まで想定し、 東西 4 堂の朝堂があ ったとし、 その位置関係から 大極殿であ
ると考えている。 しかし、 ェビ ノコ郭には南門が 存在せず、 門は西に開く。 また朝堂について
は、 SB8210 が見つかっているが 柱穴が一箇所のみで 朝堂を想定するには 不十分であ る。 休部
もェビ ノコ 郭 正殿を大極殿と 捉えている。 そして、 門が西に開くのは 後飛鳥岡本宮からの 伝統
的な儀式空間であ る庭を重視したためだと 考えている。 (431 後 飛鳥岡本宮の 段階では SB7910 が大極殿であ り、 飛鳥浄御原宮段階に 大極殿が従来のもの
では小さいと 考え、 大きく、 新しく造営したと 小澤は理解しているが、 それでは飛鳥浄御原宮
の時期の SB7910 の性格はどういったものなのか 説明ができない。 また、 新しく大きな 大極殿
をつくるなら、 わざわざ別の 場所に造営しなくても、 その場所で造りなおしたらいいのではな
い だろうか。 内郭両院にはそれだけの 空間もあ っただろう。 また、 天皇が大極殿に 出てくると
き、 門の位置からすると 内裏 であ る内郭 北 院を出て、 内郭両院を通り 一旦「 庭 」に出てから ェ
ビ ノコ郭の西門から 入ることを想定することになろう。 内郭の南で エビ ノコ郭の西にあ る庭は
射ネ しに使用されており、 朝庭 と見られることから、 天皇が朝庭を 通り大極殿に 出御したとは 考
えにくい。 以上のことから ェビ ノコ 郭 正殿を大極殿に 比定することは 出来ないと考える。
亀田博は、 直木孝次郎が 小墾田宮で復元したように、 朝堂が 1 堂でもかまわないとするなら
ば 、 飛鳥京跡においては、 エビノコ郭を 朝堂に比定できるとし 井 。 しかし、 小墾田宮の殿舎配
置やその規模はほとんど 明らかになっておらず、 比較検討するには 無理があ る。
河上邦彦は『日本書紀』の 朱鳥紀元年 (686) 九月余「丙午、 天皇 病遂 小差、 崩干 正宮。 戊申、
始発 芙 。 則起 頓宮 於 南庭。 」という記述から、 ェビ ノコ郭を照宮に 比定 し持 。 しかし、 大武紀
四年 (675) 、 大 武紀五年 (676) 、 末武紀八年 (679) に射礼の行事をする 場として「四門」や「 西
門 の 庭 」といった記述があ り、 エビノコ郭がすでに 存在していたことを 窺わせている。 したが
って、 エビノコ郭を 濱 宮 として朱鳥元年 (686) に造営したとは 考えられない。
エビ ノコ郭は内裏 ・大極殿・朝堂といった 宮部における 中枢施設でない 可能性が強いのであ
る 。 しかし、 その規模や内郭との 位置関係などから 重要な施設であ ったことは確かであ る。 7
世紀の殿舎や 重要な施設の 具体的な名称は『日本書紀』の 記述に少なからずあ る。 私はその中
で、 ェビ ノコ郭は大海人皇子の「東宮」であ ったと考える。
2. 東宮 説 『日本書紀』の 記述に見える「東宮」の 記載のうち大海人皇子に 関わるものを 挙げる。
天智 紀 八年 (669) 十月庚申 条 「天皇道東宮大皇弟 於 藤原内大臣家」
天智 紀 十年 (671) 正月中底 条 「東宮人皇弟奏宣、 施行冠位法度 之事 。 」
天智 紀 十年十月 庚辰条 「 勅喚 東宮、 引入臥内」
「東宮廷 而 再拝。 」
壬午 条 「東宮 見 天皇、 請 之 吉野修行 佛道 。 天皇 許焉 。 東宮 即 入船吉野Ⅱ
このように大海人皇子に 関
する「東宮」は 宮 自体を示す
のではなく、 皇子自身を示す
ものであ るが、 当然のことな
がら大海人皇子の 宮があ った
と思われ、 それを示す記事が
天武紀元年 (672) 五月 是 同
条 の 「 目 近江東、 至 干倭京 、
処々 置候 。 小令 蒐 道守儒者、
遊里大弟宮舎人道釈 糧事 。 」
であ り、 大海人皇子の 宮が存
在したことがわかる。
大海人皇子の 宮について
は、 これまで 嶋宮 であ るとす
る 説があ る。 したがって、 嶋
宮は ついての諸説を 整理し、
再検討してみたい。
嶋 富ほついては 1976 年に秋
山日出雄によって「宮の 伝 領 」
という観点から 考察がなされ
ている。 これによれば、 まず、
推古 朝 に蘇我馬子が 嶋 宮の前
身になる嶋家を 造営した。 こ
の 嶋家は皇 極 二年 (643) に
は蘇我 氏孫 王族であ り天智天
皇の祖母にあ たる吉備 姫王 、
また、 皇極 四年 (645) には
蝦夷や入庫に 伝領された。 蘇
我 本 宗家滅亡後、 嶋家は皇極
天皇や天智天皇に 伝 領され 嶋
宮 となり、 天智天皇の祖母に 関連年表
一 Ⅰ 0 一
手姫 皇女が居住した。 その後、 嶋 宮は天武天皇に 世襲され草壁皇子に 伝領された。 そ
して、 奈良時代になると 嶋 宮は光明皇后の 管轄 下 になり終焉をむかえることになる。 秋 m は 嶋
宮 の仏領過程をこのように 述べている。
1985 年、 荒木敏夫は皇太子制と 東宮について 検討する中で 嶋宮 をとりあ げ、 草壁皇子が 嶋宮
に 居住したことに よ り、 天皇の居所であ る飛鳥浄御原宮とは 別の宮に住んでいたことになり、
後の皇太子の 宮であ る「東宮」とは 性格が異なる、 とした。 この考えは、 その後、 仁藤敦史に
も 受け継がれた。
1988 年には亀田博が 島庄 遺跡の発掘調査の 成果をもとに、 嶋宮は ついて考察し、 1995 年に小
洋教 が嶋 宮は他の皇子宮とは 異なり特殊性を 有するとし、 東宮的性格があ ったとしている。
この他にも 嶋宮 に関する研究はあ るが、 現在一般化している 見解は、 東宮的性格を 有してい
たかは別として、 嶋 宮は中大兄皇子 づ 大海人皇子 ヰ 草壁皇子と伝領されたということであ る。
しかし、 これらの皇子が 嶋 宮を皇子宮として 常に居住していたのか、 また、 王位継承者の 宮 と
して 伝 領していったのかは 疑問であ る。
嶋 宮を中大兄皇子の 宮とする理由として 第一に挙げられているのは、 『日本書紀コ 皇 極 紀三
年 (644) 六月 是 同条にあ る「遥遥に 言そ 聞ゆる嶋の藪原」という 歌についての 説明が皇極細
四年 (645) 六月 己 西条に見られる。 そこには、 中大兄皇子と 申 臣 鈍足が宮殿を 蘇我馬子の家
に接して建て、 入庫 課 滅の謀議をめぐらしたときの 歌であ る、 とされている。 蘇我馬子の家は、
推古紀三十四年 (626) 夏 五月 条に 「家船飛鳥 河之傍 。 乃 庭中間小池。 防興 小嶋 於 池中。 故時
人日 嶋 大臣。 」とみえる。 嶋に邸宅があ ったので、 馬子が 嶋 大臣と呼ばれていたというのであ
る。 この嶋家にあ たると考えられるのが 島庄 遺跡であ る。 島庄 遺跡では 1972 年に方形 他 が見つ
かっており、 前述した推古紀姉十四年 (626) の記事の「小池」にあ たるとみられる。 見 つか
った 方形 池は 隈丸方形で幅 lom 程の堤がめぐっており、 方位は北で約 30 度振れる。 池の作られ
た時期は池 底 の 貼石 直上から出土した 土器から 7 世紀初頭と見られる。 池は奈良時代までは 確
実に存続していた。 また、 2004 年、 明日香 村 教育委員会の 島 庄 遺跡における 発掘調査によって
少なくとも 3 時期の掘立 柱 建物群が見つかった。 この掘立 柱 建物群の工期も 7 世紀初頭と見ら
れており、 方形 池 との方位が合うことから、 1 期の建物群と 方形池は同時期に 造営されたもの
で、 嶋家の一部であ る可能性が高い。 嶋家は馬子の 死後、 蝦夷・入庫に 伝領された。 その嶋家
に 接して中大兄皇子の 宮を造営したとしている。 蘇我底本宗家滅亡後、 その邸宅を含め 嶋宮 と
したと考えられる。 また、 この頃 の嶋 宮は ついて、 天智紀姉年 (664) 六月 条 には天智天皇の
祖母であ る糠子 姫 皇女が「 嶋 皇祖母 命 」と呼ばれていたことがみえ、 皇 極細二年 (643) 九月
丁亥条 には同じく天智天皇の 祖母であ る吉備 姫王が 「吉備 嶋 皇祖母 命 」と呼ばれていたことが
記されている。 この二人は名双に「 嶋 」が付くことから 嶋宮 に居住していたと 考えられる。 特
に吉備 姫 王の場合は、 馬子の嶋家の 一部が彼女に 譲られたか、 または彼女が 嶋家の一角に 住ま
わされていた 可能性があ る。 大化 紀 二年 (646) 三月 辛巳条 には吉備 姫王が 没し 3 年がたっが
貸稲 がなされている 記述があ る。 これは、 吉備 姫王が 蘇我系王族であ ることから、 馬子の財産
分与に関係していたためと 考えられる。
一方、 大化紀三年 (647) 十二月余には「 宍 皇太子宮。 」とあ り、 中大兄皇子の 宮が火災にあ
ったとされる。 しかし、 これまで発掘された 嶋宮跡 と考えられている 島庄 遺跡では火災の 痕跡
一 1 1 一
はない。 島庄 遺跡は嶋宮の 可能性が高いので、 この火災にあ った中大兄皇子の 宮は嶋 宮 でなか
ったと考えたほうが 自然であ る。 仁藤は、 大化三年 (647) には正宮が難波長柄豊碕宮にあ っ
たことから、 火災にあ った皇子宮は 難波にあ ったとする。 (521 以上のことから 中大兄皇子の 宮は当初 嶋宮 であ ったが、 難波遷宮とともに 難波へと移ったと
考えられる。 しかし、 嶋宮 には 糠手 始皇女が居住していた 可能性があ ることから、 中大兄皇子
と 糠手 始皇女が同居していたか、 居住区画が複数あ ったと考えられ、 藤原宮以降の 皇太子の独
占 的な居所としての「東宮」という 性格はなかったといえる。
大海人皇子の 宮について、 仁藤と小澤は 嶋 宮 であ ったとする。 その理由として、 『日本書紀』
末武即位前 紀 十月壬午 集め 、 大海人皇子が 大津宮から吉野へ 向かう途中に 嶋宮 に一泊したとい
う 記事や、 大 武紀元年 (672) 九月康子 条 ・ 発卯条の 、 壬申の乱の後、 後飛鳥岡本宮へ 入る前
にいったん 嶋宮 に人 る 記事を挙げる。 そして、 壬申の乱の双後に 嶋宮 に入っているのは、 それ
が大海人皇子の 宮であ ったからだと 捉えている。 しかし、 大海人皇子が 壬申の乱の双後に 嶋宮 (531
に入ったのは、 食糧の確保などのためであ ったのではないだろうか。 嶋 宮の経済的機能を 示す
史料として、 前述した大化 紀 二年の吉備 姫王 の 貸稲 以外に、 持続紀四年 (690) 三月内申 条 が
あ る。 ここには 嶋 宮の稲を 20 束ずつ、 京 ,畿内の高齢者に 与えたことが 記されている。 また 天
平 五年 (733) 興福寺金堂の 造営に際し、 嶋 宮から大量の 藁が運ばれた 記述もあ る。
草壁皇子については『万葉集』養二にあ る草壁皇子の 残 宮 挽歌の中に 嶋宮 に関すると思われ
る歌があ る。 これによって、 草壁皇子の宮が 嶋宮 であ ると考えられている。 この歌には「 東 」
という語が目立つ。 嶋 宮は飛鳥浄御原宮から 見て南の方位であ ることから方位を 表しているの
ではなく「東宮」の 意味があ るのではないかという 説があ (541 る。 また、 これらの歌の 中には「 上
の池」や「勾の 池」という記述も 見られる。 この池については 前述した 島庄 遺跡で見つかった
方形 池 とする説があ るが、 (5Sl 「勾の池」とは 曲池と 考えられることから 嶋宮 には別に池が 存在し
た 可能性があ る。 こういった草壁皇子が 嶋宮 に居住したとする 記載が存在する 一方で、 大武夫
皇 が天 武 五年 (676) 正月に大射を 行った後、 嶋宮で 宴を催している。 (561 皇子宮で天皇が 大射の
後宴をすることがあ り得たのだろうか。
以上のことから 考えると、 嶋宮 には、 ①複数の人が 居住していた、 ②池の存在と 奴姐 、 稲を
所有していた、 ③大射の後に 宴を行った、 などの特徴があ る。 したがって、 皇子個人の宮では
なく王族共有の 宮であ ったのではなかろうか。
そこで、 私は大海人皇子の 宮が 嶋宮 ではなく、 飛鳥京跡の ェビ ノコ郭であ ったのではないか
と 考える。 大弐即位前 紀 には天智 セ年 (668) 、 天智天皇が即位するときに 大海人皇子は 東宮 ( 皇
太子 ) になったとあ る。 しかし、 天智 紀セ年 (668) 五月五日と天智 紀 八年 (669) 五月五日には「大
皇弟」と呼ばれている。 したがって、 天智 紀セ年 (668) に皇太子になったが 宮がまだ完成し
ていなかったため「大皇弟」と 呼ばれ、 「東宮」の初見であ る天智八年十月にやっと 宮が完成
し 、 それとともに「大皇弟」に「東宮」を 冠するようになったのではないだろうか。 エビ / コ
郭の造営時期は 土器の研究から、 670 年前後と考えられている。 この年代は「大皇弟」から「 東
宮 大皇弟」 へ 変わる時期にほぼ 一致する。 そして、 梁間 3 間四面廊 付 建物といった 内裏 特有の
建築構造であ (59) る と や内裏 ほど周辺に建物が 多くなく コ 字型建物配置といった 整然とした配置
であ る点も皇子宮であ ったことを示しているのではないだろうか。
一 Ⅰ 2 一
天智天皇が即位した 天智セ 年 (668) に大海人皇子は 皇太子になり、 後飛鳥岡本宮の 東南方
に皇子宮の造営を 開始した。 そして、 天智八年 (669) の冬に完成し、 672 年壬申の乱で 勝利し
た後にかつて 皇子宮のあ った飛鳥の地にもどり、 飛鳥浄御原宮として 再度利用したのであ る。
大武朝の時期には 東宮として使われることはなくなる。 皇太子であ る草壁皇子は 嶋 宮 に居住し
ていたことは 前述したとおりであ る。 また、 大海人皇子の 東宮であ った ェビ ノコ郭をもって 飛
鳥浄御原宮としたとみられる 記述が『日本書紀Ⅰにあ るため、 エビノコ郭が 飛鳥浄御原宮の 中
枢 施設になった 可能性が高い。
おわりに
殿舎比定を中心に 初期 宮 都の発展過程について 考察してきたが、 要点をまとめると 次のよう
な 5 点が挙げられる。
①朝堂院の正殿という 意味での大極殿は 前期難波宮でその 存在が認められ、 その後に飛鳥京
跡 に受け継がれる。 前期難波宮では、 大極殿と大安殿は 軒廊でつながっており 密接な関係
にあ った。 また、 飛鳥浄御原宮では 円本書紀』の 記述から大極殿と 大安殿はほぼ 同じ,性
格であ ったが、 藤原宮では大極殿は 独立した区画になるとともに、 天皇の独占的空間へと
変化していった。 したがって、 性格を変えながらも 大極殿は双期難波宮から 藤原宮へとつ
ながる。 前期難波宮では 内裏 前殿 SBl801 、 飛鳥京跡では 内郭両院正殿 SB7910 を大極殿に
比定できる。
②大安殿 = 大極殿 説は 『日本書紀』の 記述から認めがたく、 大安殿は内裏 正殿と考えるほう
が自然であ る。 前期難波宮では 内裏 後段 SBl603 、 飛鳥京跡では 内郭北陣正殿を 大安殿に
比定できる。
③朝堂院の存在は 発掘成果からみると、 前期難波宮で 認められる。 これは藤原宮の 朝堂院と
は,性格が違う 可能性があ る。 飛鳥京跡では 朝堂と朝 庭 に分かれたと 考えられる。 こういっ
た矛盾を修正して 成立したのが 藤原宮朝堂院であ る。
④ 嶋 宮は皇子宮として 仏領されたのではなく、 王族共有の宮として 仏領され、 そのなかで中
大兄皇子、 大海人皇子が 一時期滞在していたものと 考えられる。
⑤ エビ ノコ郭の性格は 大海人皇子の 宮の可能性があ る。 宮内に皇子宮 ( 特に皇太子の 宮 ) が
含まれている 意義は大きい。 1 。 。 1 前期難波宮や 飛鳥京跡は藤原宮 と上ヒベ 未熟な点が多く 見られるが、 それはいわば 当然のこと
であ って 、 宮の構造も試行錯誤しながら 政治体制や官僚制、 人民支配といった 諸事情に合わせ
て 少しずつ変化させていったものと 考えられる。 そして、 日本の初期 宮 都の完成形態といえる
藤原宮が成立したのであ る。
一 13 一
註
(1) 「宮部」という 語は、 岸俊男が 、 「ミヤ」と「ミヤ コ 」全体を表現するために「宮室」と「者 は城 」を合成
し造った語であ る。 同じ意味で「都城」という 語を使用することがあ るが、 これは城壁を 有する中国に
おいては適切であ るが、 城壁のないと 考えられる日本においては 適切ではないと 考えるため本稿では「宮
都 」の語を使用する。
(2) 藤原京の条坊については、 岸による条坊復元が 定説となっていたが、 近年それより 外側から条坊遺構が
発見され京城が 広がることが 判明した。 それを受けて 小澤 毅は 10 条Ⅰ 0 坊に藤原京を 復元している。 藤原
京条坊の範囲については 諸説あ るが、 初めて条坊が 施行され、 京内 と京外を明確に 区別したことは 人民
支配と領域支配という 点から重要視すべきことであ ろう。 こういった条坊は 飛鳥地域に存在しないこと
は 井上和人「飛鳥京城論の 検証」 ぽ 考古学雑誌 $ 第刀巻 第 2 号 198.W 年 、 佛 上和人『古代都城 制 条里制
の 実証的研究 ョ 学生社 2004 年 所収 ) に詳しい。
(3) 大極殿の成立に 関しては諸説あ る。 藤原宮の大極殿とそれ 以前のものは 性格が異なり、 古いものを大極
殿 相当施設と呼称することもあ るが、 本稿では朝堂の 正殿であ ることを重視するので、 それらも含め 大
極 殿と呼称したい。
1977 年の発見当初、 字名から「 エビ ノコ 郭 」と呼称していた。 近年、 内郭と並存することが 明らかにな @
小澤は「東南部」と 呼称しているが、 「東南部」では 内郭と同時期に 造営を開始したと 誤認する恐れがあ
るため本稿では「 エビ ノコ 郭 」を使用する。
(5) 八木元『研究 史 飛鳥藤原京 コ 吉川腔文館 Ⅰ 996 年
(6) 山尾幸久は飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構を飛鳥浄御原宮の「 旧宮 」とし、 「新宮」が別に 存在していたとする。 ( 山
尾幸久「飛鳥朝の 都城と宮室」『明日香風』 90 2004 年 ) 、 西本昌弘は飛鳥京 跡 Ⅱ 期 遺構を後飛鳥岡本宮
とし、 T 期 遺構の内郭を 飛鳥浄御原宮の「 旧宮 」、 エビノコ郭を 同じく飛鳥浄御原宮の「新宮」とする ( 西
本 昌弘「伝承 板蓋宮跡 Ⅱ 期 遺構と後飛鳥岡本宮」『日本歴史 コ 第 679 号 2004 年 ) 。
(7) 1953 年平城宮 跡 、 1954 年難波宮 跡 、 Ⅰ 955 年長岡 宮跡 、 1957 年平安宮 跡 、 1959 年飛鳥京跡で 継続的な発掘
調査が開始された。 また、 橿原考古学研究所は、 伝承飛鳥板蓋宮 跡 で見つかった 宮殿遺構を「飛鳥京 跡 」
と 呼称している。
(8) 福山敏男『大極殿の 研究一日本に 於ける朝堂院の 歴史 円 195.M 年
(9) 岸 俊男『日本古代官都の 研究 コ 岩波書店 1988 年
(10) 狩野久「律令国家と 都市」に大系日本国家 史コ i 東京大学出版会 i971M 年
(11) 中尾芳治『難波束 コ 考古学ライブラリー 46 ニューサイエンス 社 1986 年
(12) 小澤 毅 「伝承 板蓋宮 跡の発掘と飛鳥の 諸 官 」『橿原考古学研究所論集コ 第九 吉川腔文館 1988 年㈹ 、 澤
毅 沖本古代官 都 構造の研究 コ 青木書店 2003 年 卵 lX)
は 3) 休部 均 「伝承飛鳥板蓋宮 跡 出土土器の再検討」『橿原考古学研究所論集コ 第十三 吉川腔文館 1998 年 ( 林
部均 『古代宮部形成過程の 研究コ青木書店 20ml 年 所川又 )
(14) 小澤 毅 「飛鳥浄御原宮の 構造」 ニ 堅田直先生古希記俳論文集 コ真陽社 1997 年 ( 小澤 毅 円本古代官 都 構
造の研究 団 青木書店 2003 年 所 llX)
(15) 休部 均 「飛鳥浄御原宮の 成立 - 古代官 都 変遷と伝承飛鳥板蓋宮 跡円 『日本史研究 コ 仝 34 号 日本史研究
会 1998 年 ( 休部 均 T 古代官 都 形成過程の研究 $ 青木書店 2001 年 所収 )
(16) 下層の整地土から 出土する土器は、 飛鳥京 跡 Ⅲ 期 遺構 ( 声明朝 ) から出土する 土器よりも古いため、 孝
一 14 一
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一 Ⅰ. 51 一
(32) 内郭北陣正殿の 前にあ る広場は約 lhm 程であ るが、 大安殿での賜宴では 王卿や皇子といった 限定された
人のみの賜宴なので 十分な広さであ ったと言えるだろう。
(33) 冬官の大極殿は 全て四面尻付建物であ り、 身舎間数は双期難波宮 3 X 7 間、 飛鳥京 跡 2 X5 間、 藤原宮 2
x 7 間、 平城宮 2 x 7 間、 後期難波宮 2 x 7 間、 長岡 宮 2 x 7 間、 平安宮 2 x 9 間であ る。
(34) 早川庄八「双期難波宮と 古代官僚制」『思想 J 703 1983 年
(35) 小澤 毅は後 飛鳥岡本宮では 内郭両院の東西区画を 朝堂とし、 飛鳥浄御原宮になると ェビ ノコ朝一帯に 独
立 させたと考えている ( 前掲 註 M4 論文 ) 。 しかし、 私は飛鳥浄御原宮段階においても 内郭両院の東西区画
が朝堂であ ったと考える。
(36) 前掲 註 14 論文、 15 論文
(37) 財団法人 大阪市文化財協会『難波宮肚の 研究』第十二 2004 年
(38) 吉川真司「律令体制の 形成」『日本史講座 コ第 1 巻 東アジアのおける 国家の形成 東京大学出版会
2004 年
(39) 休部 均 『古代官 都 形成過程の研究 コ 青木書店 2001 年
(40) 菅谷友則「飛鳥京 跡 一昭和 52 年度 まとめ」「奈良県遺跡調査 概報 1977 年度』 橿原考古学研究所
1978 年、 このあ と菅谷氏は自説を 訂正し、 エビノコ郭を 大極殿に比定している。
(41) 前掲 註 IA 論文
(42) 前掲 註 14 論文
(43) 前掲 註 1 」 5 論文
( 佃 ) 亀田博「飛鳥浄御原宮」『古代都城の 儀礼空間と構造 ョ 古代都城 制 研究集会 第一回報告集 奈良国立文
化財研究所 1996 年
(45) 河上邦彦 T 飛鳥を掘る コ 講談社 2003 年
秋山日出雄「古代の「宮の 伝 領 」について - 飛鳥の嶋宮を 通じて - 」㌃柴田 寛 先生古希記念 日本文化史
論叢 コ 1976 年
(47) 荒木敏夫円本古代の 皇太子Ⅱ吉川腔文館 1985 年
(48) 仁藤敦史「 嶋宮 の低額過程」立正大学古代史研究会『古代史研究 J 5 号 1986 年 ( 仁藤敦史Ⅰ古代王権
と 都城コ吉川腔文館 1998 年 所収 )
(49) 亀田博「飛鳥地域の 苑 池 」㌃橿原考古学研究所論集コ 第九 i988 年 ( 亀田博『日韓古代官都の 研究 ロ 学生
社 2000 年 所収 )
(50) 小澤 毅 「小墾田宮・ 飛鳥 宮 ・ 嶋 富 - セ 世紀の飛鳥地域における 宮部空間の形成」『文化財論叢Ⅲ同朋 舎
出版 19g.W 午 ( 小澤 毅 日本古代官 都 構造の研究 コ 青木書店 2003 年 所 @@x)
(51) 西光慎治「 島庄 遺跡調査速報」『明日香風 J g1 2004 年
(52) 難波長柄豊碕宮遷宮は 白雄元年 (651) であ るので、 大化三年は造営中であ った。
(53) 前掲 註 48 論文
(54) 前掲 註 50 論文
(55) 前掲 註 48 論文
(56) 大武紀五年正月二卵 条 「天皇 御嶋宮宴之 。 」
(57) 壬申の乱の最中には「大皇弟」が 見られるが、 これは大海人皇子が 一旦出家し「東宮」でなくなったた
めとみられる。
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(58) 前掲 註 13 論文。 土器の編年からの 年代なので、 あ る程度の幅をもたせないといけないが、 その年代が『日
本書紀』の年代とほぼ 一致することは 確かであ る。
(59) m 不忠 尚 「祭殿から内裏 正殿 へ - 梁間三間四面 庇付 建物の意義 - 」『古代文化』第 56 巻第 5 . 6 号 2004
年
(60) この時期、 正宮は近江大津宮であ ったが、 飛鳥には留守 司 がおかれており、 宮は存続していた。 正宮で
はないにしろ 宮内に皇子宮を 造営することは、 重要であ ろう。 藤原宮は不明だが、 平城宮で宮内に 東宮
が 存在することにつながる 可能性も考えられる。
図版出典
図 1 独立行政法人文化財研究所 奈良文化財研究所編Ⅱ日中古代都城図録』 2002 年 P 、 14 前期難波宮を 一
部改変
図 2 株 部均 『平成ロ年度一平成 14 年度科学研究費補助金基盤研究 (C) (2) 研究成果報告書 飛鳥・藤原京、
および平城京の 都市機能の比較研究 J 2003 年 第 2 図を改変
図 3 奈良文化財研究所ほか『飛鳥。 藤原京 展 』朝日新聞社 2002 年 P 、 138 挿図を一部改変
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