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‘historicism’に関する1っの覚書
家名、田 克 男
1.問題の所在
ポッパー(K.R.Popper)の『歴史主義の貧困』(77iePoL・eriyofmdoYitiim,
1957)は,近年種種の論議をまき起した問題作で,多くの論者が言及レて\おり,
その論点も決して1,2に止まらない。しかしここで問題としようとするの
は,その「歴史主義」という用語についでである。まず,問題の所在を示す-文
章を引用しよう。
「創見に富む思想が非常に圧縮された形で呈示される場合にほ.,そこに・誤
解と無理解とはさけられないように.思われる。特に本書の標題に用いられた
≪historicism>>というポパL-の概念が,ヘラクレイトスやプラトンから始まっ
てキリスト教やヘーゲル,コント,J.S.ミ.ル,マルクス,そして現代のトイ
ンビー,など通常の分類からはきわめて異なった諸立場の人々に・も共通する歴
史の特定の見方を抽象したものであるために・;ここで無用の混乱をできるかぎ
りさけうるよう・読者の注意をとくに・喚起したいと思う。ことにわが国では,
『歴史主義』「一「その原語はhistorism(Histムrismus)であっ1{:,ポパ-Iが人為町 /
に腐成した概念を表わすhistoricism(Historizismus)と異なっているMとい
う用語ほかなり広くなじまれており,その『主義』を代表するダインデルバン
ト,タッグルト,トレルチ,ディルタイなどに.みずからの思想的故郷をもつ人々
はわが国に.少くないからである。………/さらに予想される混乱の原因には,
単なる用語上の類似をこえていま少し深いものがあるように思われる。それ
は,≪historicism>>なる概念が右に述べたように遠大な思想史的観点から構成
されたものではあるが,それを徹底的に.批判するポパー・の論点は部分的にはい
わゆる近代の「歴史主義」者に.対しても向けられている,という事実にある◇
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‘histoIicism,紅関する1つの覚書 ・5・-
近代の歴史主義者たち,つまりダインデルバントやリッケルト,トレルチ,デ
イルタイの名は,本書にはごくたまにしか出てこないのだが,彼らが歴史学方
法論として主張したことの一部は,たしかに本書の前半に.再構成され,後半で
きびしく批判されている。したがってとりよう紅よれほ,それらの人々の立場
が全面的に否定されているような印象も与えかねないのであり,わが国の哲学
者の一周肱は,そのようなとり方をしたポパーへの反撥がすで認められるので
ぁる三〕’
ところで,この文章は前掲書の邦訳あとがきの1部であり,しかもさらに本
書冒頭の「本書成立のいきさつ」申の訳注には「この原語Historicismぬ.,日
本でよくいわれる『歴史主義』の原語Historism(そのドイツ語Histori$muS)
とほかなり異なった意味をもたせられており,……イ也に適訳がないので,本訳書 (2)
でほそ・の共通面をも考慮して,同じ訳語をただ≪≫づきで用いることにする。」
と書かれている。とすれば,この訳者紅よれば,histoIicismという語は,結
果的に普通いわれる歴史主義のある面を含むにしても,専ら前述のような見方
をさすものとされる。
然るに.,historizismusに.ついてほいざ知らず,少くともhistoricismという
語ほ旧来の歴史主義に対して用いられることほむしろ多いといわなければなら
ない。そしてこれほ最初からそうであったというより,最初ほ前述ゐ様なbist-
0‡ismが行われていたが,のちにhistoricismが代って用いられるようになった
らしいのである。これほ.いかなる理由に基くのであろうか。論者は普通そ・の理 (3)
由をイタリア語のStOricismoに帰している。すなわち,恐らくHistorismusのイ
タリア語訳であろうStOIicismoが,とくにべネデット・クロ_-チェの諸著作が
英訳された際,historicism と訳され,それが学術用語として定着したもので
あるとされている。
このことほ,ポッパ-白身が『貧困』の第6章の末尾においてト・r州『歴史
(1)久野収・市井三郎訳,『歴史主義の貧困』,昭和36年,247-9ぺ-ジ。 (2)同番,2ぺ-汐。
(3)Gu H”Nadel,Philosophyof Historybeiore HistoIicism,HistoY二y and TheoY二y VOl.ⅠⅠⅠ,No…3,pp.291
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寛43巻 鴇1・2・3号 ー 6 -
主義』historismと呼ばれてきたものであり,わたしが≪歴史主義≫historicism (4)
と呼ぶものと混同してはならなない」と述べているに拘らず,また訳者が,前
掲の引用文において,historicism虹対する批判は「部分的にほ」historismの
代表者にも向けられている旨述べてほいるに・拘らず,私は,とくに訳者のよう
にどちらかといえば,この両者について差異性を主として同一催を従とするよ
りも,むしろ,両者の差異性ほ勿論認めなけれほならないにしても,少くとも
近代以後についてほ,両者を同一・性紅おいて捉.え.るべきでほないかと考える。
こ.の点の論証が本稿の課題である。
2.ハイエクの業績の意義と内容
然らば,私は.どの様なやrり方に・よってこの課題を果そうとするのかといえ
ば,F.A.Hayekの,主として1942年からⅠ9舶年にかけて(1部1∈沌1年)雑誌
エコノミカ(月山沼の招cα)に掲載され,のちその著『科学の反革命』(7ⅥβCの抑払押・-
Revolution ofScience,1955)のとくに第1部「科学主義と社会研究」(Scienti-
sm andthestudyof society)およびこめ書名と同じ名称の欝2部にまとめ
られた諸論文の検討kよって果したいと・思う。
いま両者の関係を示す若干の事実を指摘するならば,まず『貧困』の「本書成
立のいきさつ」という蚤のうち次の様な文章がある。「……わたし鱒,ロンド
ン・スクール・オブ・イコノミックスにおけるF.A.・フォ・ン・ハイエク教授
pセミナーで,同旨の論文を発表した。その草稿の呈出先のある哲学雑誌が掲
載を断わったために.,その公刊ほ.数年後紅延ばされることとなったムそれが初
めて印刷に・附されたのは『エコノミカ』誌に3回払わけでであり,掲載号は同 (5)
誌の1944年新集(N.S・)算11巻42号,43号と1945年第12巻46号とである。」と,既
に両者の親密な交流を暗示し七いる。また『貧削紅おいてほ,第1茸を「く宅歴
史主義≫の反自然主義的な主張」,第2葦を「<実歴史主義≫の自然主義的主張」
とし,とくに・第3章を第1葦の批判に,第4章を第2章の批判にあでて,ポッ
(4)前掲畜,36ぺ一ニ・ジ。
-旧)同番,2ぺ一汐。
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●histoェicism,に関する1つの嵐沓 ー 7 --
パ・・-ほこの2つの革で自身の主張を積極的に展開しているが,それぞれはば冒
頭と思われる本文中にハイエクの名をあげかつその文章等を引用しで,自己の (6)
論旨の展開を始めている。
以上のように,時間的に見て-も,また文章記述の表面的なw一・瞥をもって.して
も,両者の密接な関係を予測する事ができるとするならば,ハイエクのこの著
作を検討することによって,『貧困』に.おいて省略されている点ないしその背景
を胆らかにすることができるのでほないか,と私は考えるのである。
先ずハイ、エクは,「社会科学に対する自然科学の影響」を論じて,問題の所在
を示す。近代自然科学ほ,もともとルネサンス.以来の擬人的な(antbf■opomo-
rphic)あるいほ物語論的な(animistic)自然解釈をすてることによって発達
したものであるが,19世紀前半になると,他の学問領域に.影響を与えはじめ,
とくに社会科学の分野に∴おいて「科学主義」(芦Cientism)とか「科学的偏見」
(scientific pre如dice)ともいうべきものを生ぜしめたという。すなわち,「自
然科学以外の学科のあるものは,この自然科学の方法に対応すること.に・よるよ
り,むしろその方法が輝かしい成果をおさめてきた自然科学の方法と同じであ
るということを誇示することに.よって,同じ(学問的)地位にあるのだという (7)
ことを立証することに.関心をますますもつように・なったのである,と。しから
ばそれほどのような由来と性格をもつものであるのだろうか。
彼は先ずこの場合の自然科学の基本特徴をつぎのよう紅いう。「近代自然科学
の持続的勢力は客観的事実(objectvefacts)に・まで下降する(getdown)こ
とであり,人びとが自然について考えたことを研究したり,あるいはある概念 (8)
を実在世界の轟のすがた(images)と考えることをやめることであ」ったの
である。そ・してこのような自然科学の考え方が社会科学紅現われたものが,「客
観主義」(objectivism)であるという。すなわち「よりよい術語がないため,人お
よび社会の研究に.対する科学的アブロL-チのうち,われわれが『客観主義』と呼
(6)例えば,同書,91・う-ジ以下,159ぺ一汐以下参照。
(7ノ pp.13-14.
18)p.18.
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寛43巻 第1・2・3号 ーー β 一一
ぷであろう態度ほ,人間精神の働きに対するわれわれの主観的知識(subiective
knowledge)なしですまそうとするいろいろな試み,社会研究のはとんど全
ゆる分野にいろいろな形式で影響して来た試みのうちに・,もっと・も特数的な表
現を見出して来たのである。内省(introspection)の可能性に対するオ-ギ
エスト・コントの拒否から,『客観的心理学』(Objective p岳ychology)を創造し
ようとするいくたの試みを経て,ワトソン(J・B・Watson)の行動主義
(behaviorism)やノイラート(0.NeuIath)の『物理学主義』(physic争1ism)
に至るまで,長い-・連の著者たちが『内省』から発した知識なしでしようと試
(g) み.て来たのである。」 ハイエクはこの「客観主義」を自然科学,社会科学の両面について.,とくに
その認識論把ついて批判しているが,ここでは要点を示す文章を引用するに止
めよう。「われわれが社会科学紅おいて関心を持つ人間行動とその対象について
の重要なポイントほつぎのようなこ.とである。すなわち,人間行動を解釈する
場合,われわれは,なんら自然的共通性(physicalpIOpertyincomm?n)を
もたないかも知れない自然的事実のいずれをも,同じ対象あるいは周じ行動の
例として,みんな類別しているということである。……‥川ここで われわれ
の議論の全てに含まれている考えを明示的に述べることが必要となろう。…
『抽象』(abstIaCtions)と普通認められているのほ,『概念』(concepts)とか『観
念』(ideas)のような心的実在(mentalentities)ばかりでなく,仝ゆる心的
現象,′感覚(senseperceptions)そして表象(images)が,より抽象的な『概
念』や『儲念』と同じく,′頭脳紅よって行われる類別の作用と見なされなければ
ならない。これは勿論,われわれが知覚する性質(qualities)なるものは,対
象の内容(properties)でなく,われわれが(個人としてあるいは人種・民族と
して)外的刺戟を一・括し分類するようになっ、たその方法であるということの別
ないい方にすぎない。認識するこ占は熟知しているカテゴリ」-・紅帰せしめるこ
とである。すなわち,われわれほ,かって認識したことのあるはかの全ゆるも
のと全く異なったものを認識することは出来ないであろう。しかしながらこれ
19〉 pp.44-45.引用符軋適宜改めた。以下同じ。
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‘bistor■icism,に関する1つの覚昏 - 9 -
ほ,われわれが実際に.山指する全てのものが,これらのものに∵対しわれわれが
同じように反応するという事実紅加えて,共通の内容をもたなければならない,
ということを意味しほしない。われわれの感官ないし心が同じクラスのメムバ
ーとして取りあつかうもの(tbings)は,われわれの心に.よって同じように銘
記される(registered)以iに.,他にな紅か共通・す・るものをもたなければなら (10)
ない,と信ずることは,よくあることだが,危険な誤りである。」と「客観主義」
を排撃し,次いで社会科学に.おける「主観主義」を主張する。
すなわち,「異なった人びとの知識や所信(beliefs)というものは,コミュニ
ケー・ションを可能にする共通構造をもつが,に.もかかわらず多くの点で異なり,
しばしば相争うものであろう。もしわれわれがべつべつの人びとの知識や所信
が全て同じであると仮定できるならば,あるいほもしわれわれが渾-・の心
(asinglemind)に関心をもつならば,われわれが『客観的』事実とか主観的
現象として記述するかどうかは,さして問題でほないであろう。しかし人びと
のどんなグル-プでも,その行動を導く具体的知識は.,決しで一・賞したまとま
りのあるものとしては存在しない。それほ,多くの個人の心の中に現われ,分
散的な,不完全紅して首尾一層しない形に・おいて存在するにすぎない。そして全
ての知識のこの分散性と不完全性とは社会科学がそこから出発しなければなら
ない基本的事実の1つである。哲学者や論理学者が人間の心の『単なる』不完全
さとして見落すものは,社会科学においては,極めて重・要な基本的事実なの一で (11)
ある。」そして彼は.この様な「主観主議」は経済学に.おいて-もっとも明確紅現
われているとして,次の様にいうo「過去100年間の経済学に・おける重要な発展
のいずれも,主観主義の一貫した適用に・おける1つの前進(afurther step)
であった,といっても多分いい過ぎではないであろうd……‥『商品』も『経済的財』
(10)pp.46-47.またノ、イエクは,自然科学紅ついても,その最高の発展形態である物理学
に例をとって,そこでは「われわれの感官よって知覚されるもの紅適した言語で,観察
される事象(Observable occurrences)を表現する」ことはもう不可能で,数学という
「関係以外紅なんの属性をももたない諸要素間の諸関係の複合を叙述するように発達し てせた」学問によってしか表現できないことを述べ,客観主義を批判している。(pp.20 董f.)
山)pp。29-30.
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舘43巻 籍1・2・3号 --ヱ0 一 10
(economic good)も『食料』も『貨幣』も物的候件(physicalterms)では定義
され得ず,人びとがものに対して持っている観点(views)によってのみ定義 (12)
され得るのである。」と。さらにこの論旨を展開して「外的対象紅対する人の
行動のみならず,人びとの間の金ゆる関係や仝ゆる社会諸制度も,人びとがそれ
らについて考えることに.よってのみ,理解され得る。われわれの知っている社
会ほ,いわば,人びとが抱いている概念や観念からつくり上げられているのであ
る。そして社会諸現象は,それらが人びとの心のなかに反映される(reflected)
とき紅のみ,われわれに・よって認識さ咋そしてわれわれにとって意煉をもつの (1$)
である。.」と述べ,最後に「人びとの心の構造,人びとの心が外的事象をそれに
基いて区分けする共通原則なるものは,あい異なる社会構造がそれから成り立
ち,またそ・れによってわれわれがそれら社会構造を記述し説明し得るところの
頻発する諸要素について,われわれに.その知識を与えるものである。概念や観
念は.もちろん個人の心のうちにのみ存在し,・そして異なった観念が他の観念庭
作用することができるのほ個人の心に.おいてのみである-・方,社会構造の真の
要素を構成するのは,全く′複雑な個人の心全体ではなくて,個人の諸概念であ
り,人びとがお互いについてまたものについて-形成している見解であるのであ (14)
る。」と論じ,社会科学の主観性についての確信を述べている。
しかし彼は,ここで起り得ぺき誤解を予想して次の様な補足を行う。「社会科
学に.おいて,われわれのデータとか『事実』といったものがそれ自身観念乃至概
念であるというこ.とに.対してわれわれが行なった強調は,われわれが社会科学
においてとり扱かう仝ゆる概念がこの様な性格であるという事を意味する,と
いう風に.ほもちろん理解されてはならない。……・社会諸科学の特別な困難性と
その性格に対サーるほなほだしい混同は,厳密軋は:,これらの科学に・おいてほ儲
念が,いわば対象の1部としてとその対象に?いての観念としてという2つの
資格で現われる,という事実から発している。……社会科学においてほ,われ
(12)p.31.
噂 pp・33・一設L
掴 p.34.
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‘bisto【icism,に.関する1つの覚書 --〃・一・ 11
われが説明しようと欲する現象を構成する(constitutive)観念と,われわれ
自身とかわれわれがその行動を説明しなければならない人びととかがこれらの
現象について持ったかもしれないところの,また社会構造の原因ではなくてそ
れに.ついての理論であるところの観念との間に.,一・線をひくことが必要なので (15)
ある。」と述べ,このことからとくに.社会科学の対象について論じて.,次の様にい
う。「…‥…個人の信念またほ態度は,それ自身われわれの説明の対象ではなくて,
われわれがそれらから個人間のあり得べき諸関係の構造を構築する諸要素であ
るにすぎない,ということを見ることは重要である。われわれが社会科学にお
いて個人の思考(tbought)を分析するという限りにおいてほ,その目的ほ,そ
の思考を説明することでほなくて,われわれが礼金諸関係のいろいろなパター
ンを構成する時考慮しなければならないであろう諸要素のあり得べき型を,弁
別することであるにすぎない。社会科学にとってほ,意識的行動(conscious
action)ほデー・タであり,これらのデータ紅関して社会諸科学がしなければな
いことのすべては,その課題のために.効果的に利用され得るような整然とした
形でこれらのデータを排列することである。社会諸科学が答えようとする問題
は,多くの人の意識的行動が計画されたのではない結果を生ずる限り,どのよ
うな人の計画の結果でもない規則性(Ⅰ・egu血ities)が観察される限りにおい
(16) てのみ,生じて-くるのである。」と。いわゆる「方法論的個体主義」の立場であ る。
さて,以上の様な議論の上に,当面の論点をなす歴史主義の問題を欝7章で
ある
題に閲し主要な指摘がタられる○すなわち「今やわれわれが向わなければなら
ない『歴史主義』(historicism)が科学的アプローチの産物と書かれているこ
とを見ることは,それが自然科学のモデルゐ上に・社会現象をとり扱うこと紅対
する対立物と普通いわれるからに.ほ,驚きをひき起すかも知れない。・・1ll…歴史
主義が科学主義の反対物であるよりその1形態であるという示唆がなおややパ
1
9
3 .
.
p p
和明州別
ゴチ部分は原文ではイタリック。
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ラドックス
の点で対立した,しかもまだしぼしば混同された意味を持つが故に・,これほそ
うなのである。すなわち,歴史家の特殊な使命と科学者のそれをまさしく対立
させ,歴史学の理論科学としての可儲性を否定する見方のそれと,反対に歴史
学ほ社会現象の理論科学へ導くことのできる唯一・の道であるというより最近の
見方のそれである。 HistoI・ismusという誤解させる名称の下ではあるが,
ドイツの歴史家マイネッケによってその成長が非常に・うまく叙述された旧歴史
学派(01derhistoricalschool)ほ,いくつかの,とくにフランスの18世紀的
見解がもつある-L般化的なそ・して『実用主義な』(pragmatic)諸傾向に・主に対立
して起ったのである。それは,長い期間を通して働く話力の結合した結果として
のみ発生的に理解されうる,全ゆる歴史現象甲個別的(si喝ular)ないし独自
的(Ⅵni叩e,imdivi血eile)性格を強調する。社会諸制度を意識的計画の産
物と見なす実用主義的解釈に対するこの派の強い反対には,実際において,い
かにこれらの制度が多くの各個人のべつべつの行為の予期しない結果として起
わ得るかを説明する『構成的』(eompositive)理論の使用が含意されているの
だ。・‥……・・この歴史的方法は理論を含んでいるけれども,これを用いる歴史家
はとの様な理論を組織的に.発展させず,また自分たちがこれらの理論を用いて
いることに気がついていない咋かりでなく,自然研究に・適した方法と社会現象
の研究に適当した方法との主な違いは理論と歴史の間におげる違いと同じであ
るという印象をつくり出した。……・しかし歴史主義が,この分野に・おいて歴史
的探究の優位に対する権利要求を保持していた一・方,歴史主義は(また)旧歴
史学派の歴史に対する態度をひっくりかえし,歴史学を時代の科学的潮流の影
響の下窮極的にほそこから-・般化が生まれてくるであろう社会の経験的研究と (17)
してあらわすように.なった」。そして「歴史学が研究する複合体(complexes)
を与えられた全体と見なすという素朴な見解は次の様な信念に導く。すなわち,
(17)pp.64-65.なお,引用文中の「旧歴史学派」(01der historicalschool)と慣訳したも
のは,もちろん,リスト・ロジャーをほじめとする「旧(前期)歴史学派」のことでほ
ない。なおゴチ・は家名田。
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一histoI・icism,に関ナる1つの覚書 ーーJ3 - 13
それを観察することばこれら『全体』の発展の『法則』を明らかにする(工■eVeal)
ことができるのだ,という信念である。この信念は,歴史主義の名の下に・歴史
の理論または(『理論』と等しい古い意味に.おける哲学という言葉を用いるなら
ば)『歴史哲学』のための経験的基礎を発見しようとつとめ,また歴史的発展に
おける相互に続くほっきりとした『段階』とか『局面』(phase),『組織』(SyStem)
とか『様式』(style)の必然的な継起を確立しようとつとめる科学的歴史学のも
っとも基本的特徴の1つである。……・歴史の『哲学』または『理論』(あるいは『歴
史理論』bistoricaltheories)ほ.19世紀の…・‥特徴になった。ヘーゲルとコントと
くに.マルクスからゾンパル†やシュ・ぺングラー・に至るま-で,これらのもっとも
らしい理論ほ社会科学の代表的成果と見なされるようになった。・一層の『組織』
が歴史的必然性の問題として新しい別の『組織』に・とってかわられるという信念 (18)
よって-,これらの理論ほ社会の進化に深い影響を与えて来た。」と。以上の叙述
によって,従来日本に.おいて一考えられていたドイツ風の歴史主義とポッパL-
らの著書によって一日本においてもようやく熟知されるようになって来た歴史主
義との関連がノ、イエクによって論じられているちとが判るであろう。しかも,
ランケにはじまる近代歴史学を,それぞれの歴史現象の作用があい関連すると
う意味で「発展的ないし発生的歴史」と規定した現代歴史学の通説的見解ない
いし基本的常識と,ハイエクの叙述は一・致しているということができ,われわ
れの傾聴に値するものといわなければならない。
5.結びにかえて
以上の様に,ポッパーのいう≪歴史主義≫と本来の「歴史主義」と√の関連性が
存在するとするならば,これはいかなる歴史学的意味をもち得るのであろうか0
先ず第1に考えられることは,ラングにはじまる近代歴史学,19世紀の後半
その中から経済史学が誕生してくる新歴史学派(それとの関連において旧歴史
学泥も含まれる)そ・してへ-ゲル(およびノ、イ1エク・ボッパーに・よればマルク
ス)その他,要するに㌧歴史学の故地であるドイツに関していえば,19世紀に・お
(18)pp.73-74.
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簡43巻 籍1・2・3号 14 -J4 -
ける業績の殆んど全部がポッパ-・とハイ、エクの批判の対象として-,一一偏される
事実の意義であろう。すなわち,ポッパーの表現を用いるならば,これらの考
えの全てほ/「すべての-・般化,あるいは少なくとももっとも重要な一・般化の妥
当性が,それ砿儲した観察がその中でなされた具体的な歴史的時期,とい うも
(19) の紅局限されているもの」とする主張であり,あるいほ「歴史の進化の基底に リズム(20) 横たわる『律動』や『類型』,あるいは『法則』や『傾向』を見出す」ことによって「歴 史的予測」をなそうとするアプロ--チであるとされる。従って「全体論(ホー
(21)
リズム)」的であり,ノ、イ、エクの表現によれば「客観主義」的である点で,これ
らは揆を-・にしているとされる。さらに.注目すべきこ.とは,これに-・指される
のは,ドイツ匿おけるばかりでなく,例えばフランスやイギリスにおいても存
痙している事実である。そしてポッパL-とくにノ、イエクに.より前掲書の3部「セ
ン
要なのほその標題にあげられているコントであろう。ところでしばしばいわれ
る如く,20世紀の歴史学は19世紀的歴史学の批判の上に.成り立つとするならば,
同じく19世.■紀的歴史学ないし歴史観を批判するポッパー・やハイエクの議論をわ
れわれが避けて通ることはできないであろう。「現代歴史学の基本性格」の解明
を志向するわれわれにとって-,ポッパー・ノ\イエクの理論が20世紀歴史理論の
うちのどこに位置を占めるかという問題ほ,少くとも1課題たるを失わない。
次紅これらポッパー・・ハイエクの議論は,「全体論」的・「客観主義」的なhisto-
Ⅰicismに反対して,「ユ学」的なし「構成論」的でありかつ「主観主義」的であ
るわけだが,これを積極的に表現すれば「方法論的個体主義」(methodological
individualism)ないし「原子論」的方法ということになるであろう。これに
ついては論ずべきことほなはだ多く,哲学,歴史方法論,科学論の各領域にお
け.る重要テーマとして,そ・の研究は質的にも患的にも注目に.催するものがあ
仕切 前掲書,151ぺ-汐。
鋤 同書,17-18ぺ・-ジ。
飢 同書,37ぺ-汐以下。
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‘histoIicism,に.関する1つの覚書 ーーJ5 一 15
tごユ、
る。従ってこれについては別格を用意することとし,ここでは若干の言及に止
めたいと思う。-・体この「方法論的個体主嵐」という言葉を最初に使ったのは,
マハルプ(F.Machlup)に.よれば,彼と同じオ【ストリアのレユムぺ一夕ー
(J.A.Schumpeter)であるとされ,またマハ)L/プによってシ㌧.ムぺ-・夕, 、ご3、
自身も「方法論的個体主義」者とされているが,ポッパーやとくにノ、イエクに
よって自らの先鵡ととされたのほ,こ.れまたいわゆるオ-・ストリア学派のカー (23)
ル・メンガー(C.Menger)である。そのはか戦前独文で発表され戦後英文
で再刊された『経済学の認識論的諸問題』(旦か5才♂研0わg∠bαJアブ0みJβ∽ぶq′励0一
細微如,1960)や『理論と歴史』(7Ⅵ♂0γ.γα〃d月壱jわタ.γ,1957)で「方弦論的個体主嵐」
の立場に,立ったミーゼス(L,VOn Mises)がいるが,これまたオーストツア
の出身である。そしてハイ、エク自身もまたいうまでもなくオー・ストリア人であ
ったし,ま-たポッパーほ,イギリス人であるが,哲学者として論理実証主義の
メッカであったクイーー・ン学団の有力メンバ-・であった。こ.うしてみると,「方法
論的個体主義」とオーストリアとの問に.は単なる偶然以上の連関を想定せざる
を得ない。こ.れまた解明を要する問題である。さらにここで想起されるべきほ, (25)
いうまでもなく「方法論争」(Methodenstieit)であり,上来述べ釆たった論点の
交錯もある意味でこれに.1つの始源をもつと晶いえるであろう。従って主とし
てオーストリア学派のり嶋ダーであるカール・メンガーとドイツ新歴史学派の
領袖たるシュモーラ-(G.Sc】1mOlleT)との間で争われたこの論争の分析は
当面の問題の解明にとって有益であるし,これらの論点の関連性が考究されな
ければならない。またこれらに.関連して,1つにほ「方法論争」に.より触発された
歴史学派の諸問題を「歴史学派の子」として前向きに.解決しつつ,晩年に.はオ
C22)哲学者としては.J.W.N。Watkins,M.BIOdbeck,E.Gellner,L・GoIstein,
M.Mandelbaum,J.Agassi,Ⅰ.Berlin,E.NageL,A.Cu Dantoら,また社会学者
としてM.Ginsberg,R。M.Merton ら,そして後述する経済学着たちの研究が見ら
れる。 (23)Machulp,Schumpeter,sEconbmicMethodology,ReviewofEconomicsand Si-
α≠去ざ才よcs,1951,30,p.150.
(24)このことはハイエクの前掲書の注を一層すれば明らかであるし,ポッパーの場合も同
様である。
即 例えば出口勇蔵,『クェーバ∵の経済学方法論』,昭和39年,40ぺ」一骨以下参照。
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第43巻 第1・2・3弓 -J6 ■・■・・ 16
ースト リア学派とも密接な関連を持つに/至ったマックス・ク.ェーノミ一に・閑ノし (26)
て,わが国の優れた研究者たちにより生み出されつつある卓抜な研究に学ぶ
こ.とは,-・貰した流れのなかにこ.れらをそれぞれあるべき位置に.措定すること
を可能ならしめるであろう。
最後に,-・言したいのほマルクスの位置についてである。いうまでもなくマ
ルクスとへL-ゲルにつき,これらを,同一・性格をもつものとして+蘭指するより
も,両者の断絶性において把握すべきであるとする意見には,単なる党派的見
解として-一蹴するには余りにも大きな論点を残しているし,またわが国に・おけ
るいわゆる「マルクス・ウェーリぺ一問題」の精緻な考究に.はこの点に.閲し学
ぶべきものが多い。またすでにイギリスのマルクス主義者コンプォ-ス(M.
CornfoI・tb)もポッパー批判の著作『開かれた哲学と開かれた社会』(乃β0♪β乃
朗肋呵娩=鍬=撒‖砂川幻祓勿1968)を発表している。この点,今後の冷
静な検討を要する問題である。
(1970.8.5.)
伽)例え.ば,大家久雄▲安藤英治・内田芳明・住谷一彦,『マックス・ダニ-ノト研究』,昭 和40年に.おいては,住谷氏によってニクェー・バー理論に対するオ∵・ストリアの意義が論じ
られて)、るし(とくに227ぺ一汐以下),また大塚久雄編,『マックス・ヴェーーバー研究』
1965年紅おいても,例えば丸山英男氏に.よらてニクェ-バーとの関連でポッバ-への言及
がなされ、(例えば375ぺ-ジ),同じく富永健一底が「方法論的個人(体)主義_」に・ついて
意見をのぺている。
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