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天皇という文字の初出の時期について - Meiji...

Date post: 05-Jun-2020
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天皇という 一天皇とk・う文字の初出の時期について一 117 ー覚 、一 法隆寺金堂薬師如来像光背銘(本誌一.一 野中寺彌勒思惟像台座銘 三‘船首王後墓誌 小野朝臣毛人墓誌(以上本誌二七ノ五・六) 三1 五.中宮寺繍帳銘 天寿国繍帳ともよばれる中宮寺繍帳は、いまはわずかに断片を には亀甲一〇〇個をぬいつけ、一々の亀背に各々四字宛全文四〇〇字 る。この銘の全文は「上宮聖徳法王帝説」によつてうかがわれるが、しか で、 一字の行のあることから従来問題とされてきた。すなわち現存の文字(次に や、「聖誉抄」D「太子曼茶羅講式」などの記載から推して四〇〇宇であつたことは するかについて、説を一にしないままに現在にいたつているのである。しかし現存の亀背 「法王帝説」所61の銘文の第一六一字から第ご五七字までの間の一字であることには異論は
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天皇という文字の初出の時期について

一天皇とk・う文字の初出の時期について一117

ー覚

、一 法隆寺金堂薬師如来像光背銘(本誌一.一六ノ五)

二 野中寺彌勒思惟像台座銘

三‘船首王後墓誌

四 小野朝臣毛人墓誌(以上本誌二七ノ五・六)

三1

    五.中宮寺繍帳銘

 天寿国繍帳ともよばれる中宮寺繍帳は、いまはわずかに断片を残すにすぎないが、もとは二帳あつ℃、繍帳の周囲

には亀甲一〇〇個をぬいつけ、一々の亀背に各々四字宛全文四〇〇字の銘文が刺繍されていたことが伝えられてい

る。この銘の全文は「上宮聖徳法王帝説」によつてうかがわれるが、しかし「法王帝説」所引の銘文は字数四〇一

で、 一字の行のあることから従来問題とされてきた。すなわち現存の文字(次にかかげる銘文のうち、枠内の文字),

や、「聖誉抄」D「太子曼茶羅講式」などの記載から推して四〇〇宇であつたことは疑ないので、いずれの一字を術と

するかについて、説を一にしないままに現在にいたつているのである。しかし現存の亀背の丈字の配置から考えて、

「法王帝説」所61の銘文の第一六一字から第ご五七字までの間の一字であることには異論はないと考えられる℃・

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一叢論律法

 穂井田忠友は、「間人皇后ノ御忌日ヲ全銘文二依テ廿一日ト定ムト云事尤不審也此文四百字一亀四字ゾ配半字モ動スヘカラ

ス然ルニ諸本四字四字ノ際ヲ推ス事尤キカ故二字余リテ其実二不叶抑辛已年十二月廿一日ハ甲成ナリ癸酉ハ廿日ナル事必セリ

T…亡として、廿百三の宴削ぞ四〇〇字の銘文を考定した。幻

 宮田氏は「太子曼茶羅講式」に

 同十一年二月廿六日遂以出現宛如符契即於霊亀四百字之中忽知臓月廿一日之忌…・:  4

 建治元年秋八月新奉繍天寿国曼茶羅……同廿一日相当皇后御月忌……

                                      シ  シ

とあること、また銘文の「我大王与母王如期従遊」とは、間入母王の崩御が辛已年十二月廿一日癸酉(正しくは甲成)であ

り、太子が明年二月廿二日甲戌であって、両者の崩御の日の干支がいずれもおなじ甲成であるところに、多至波奈大女郎には

如期感ぜられたのであること、すなわち「如期」とは干支の一致を意味するものであること、の二っから推して、「十二月廿

一日」.の一の字は桁ではないとされる。ただし廿一日の干支甲戊を癸酉と誤ったことについてはおそらく銘文の作者の錯誤で

あろうとされている。

                               で

 したがって祈字は別に求められなければならないが、それは「要尾治大王之女名多至波奈大女郎一の×の字であろうとされ

                             マ  シ  リ                                シ  シ  へ  も

る。すなわち多至波奈大女郎の父尾治王を、銘文は一方には「生名尾治王」と記し、他方には「嬰尾治大王之女」と記してお

り、おそらくそれは「法王帝説」を撰した時の桁であろうとされ、この大の字を削って四〇〇字の銘文を考定された。の

 藪田氏は「如期」の期とは干支を意昧するものではなく、日をさすものであるとされる。すなわち間入母王の忌日を「法隆

寺金堂釈迦如来像光背銘」によって「歳次辛已十二月鬼前」とされ1鬼前とは醜前の意で、醜は既生醜(11廿三日)の略で

あり、前は前日の謂であるから、廿二日にあたるー、「法王帝説」や「日本書紀」にみられる慧慈の命終の記載はの、いず

れも慧慈が大子と日をおなじくして没したことをとくに記したものであり、この銘文の場合もそれらとおなじく日を意味する

ものと考える方が妥当であろうとされている。

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一天皇という文字の初出の時期について一119

 しかりとすればこの銘文に「十二月廿一日癸酉」とあるのは誤で、正しくは「十二月廿二日乙亥」でなければならない。そ

の錯誤をおかした理由は、「法王帝説」の撰者か、もしくはそれがよった資料の記録者のいずれかが、当時すでに燗壊して完

読しがたくなっていた銘文を、(おそらく「廿…日……とあったのを)不注意に「廿一日癸酉」とよんだのであろう。辛已年

十二月は廿日が癸酉、廿一日が甲戌で、明年(壬午)二月は廿一日が癸酉、廿二日が甲戌であるから錯覚をおこしやすい、と

されているめ。

 以上は先説の一端にすぎないが、間人母王の忌日に関していうならぽ、顕親の「聖徳太子伝私記」には

  太子ノ御母鬼前大后.者辛巳歳十二月廿二日蕗去

とあり、「私記」の撰時ー荻野氏の推定によれば嘉頑年間(=一三五~八)ーのころには=一月二二日説が行わ

れていたのである。しかるに「聖誉抄」は、文永一一年(一二七四) に繍帳が発見され、はじめて間人皇后の忌日

(=一月一二日)が判明したと記しており、「私記」撰時のころの二二日説は、三〇~四〇年後にはまつたく消失し

てしまつたかのごとき口吻である。しかしこれはおそらく二二日説の消失を意味するものではなく、二二日説が旧伝

として若干の疑問をさしはさまれながらも行われていた当時に繍帳が発見され、しかも繍帳銘の伝える忌日が旧伝の

それと異なるところから、とくにこのような誇張した表現が用いられたと考えるべきであろう。しかりとすれば「繍

帳銘」に「十二月十一日癸酉」とあつたことはほぼ誤ないと思われる。

 なお佐々木博士所蔵の「中宮寺繍帳銘」断簡には

  波奈大女郎為后歳在辛巳十

  二月廿一癸酉日八孔部間人

            ゐ

とあり、「廿一日癸酉しの日の字がない。しかし「法王帝説」「上宮太子伝拾遺記]所引の銘文にはいずれも日の字は

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・120叢論律法

あり、おそらく書写の際の脱字と考えてしかるべぎであろう。

 したがつて行字はほかに求められなければならないが、宮田氏の説かれるように用語の比較からそれを比定するこ

                ト                                                              シ

とが考えられよう。宮田氏は「尾治大王」の大の字をそれとされたが、いま一案として「尾治大王之女名……」の

                                                シ

4之”の字を考えてみようゆすなわち「巷奇大臣名伊奈米足尼女名…:・」には之の字はなく、「斯帰斯麻天皇之子名

……」には之の字がある。之の字はとくに皇族の場合に用いたと考えられなくもないが、かならずしも一定した用字

法をもつともいえない。仮にこの之の字を削ると、「尾治大王女名……」となるが、宮田氏の指摘されたように、一゜

方では尾治王と記し他方では尾治大王と記す不統一がとがめられなければならない。しかし尾治大王とははたして宮

田氏の説かれるように聖徳太子を一箇所に「我大王」とよん.で」いることから生じた行字であろうか。こ.こで思出され

るのは既出の「法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の中に、聖徳太子を一.方では「太子」と記し、他方では「東宮聖王」

と記す表現法である。もつとも尾治王は聖徳太子と違つて特記ざれるべき史実をもたないから、その理由は薄弱であ

るかもしれないが、しかしこの銘文の主題が、橘大女郎の繍帳作成の由来であることを考慮する時、大女郎の父にあ

たるこどを記す場合に、「尾治大王」と特記することも考えられる余地があるのではなかろうか。

 次に銘文の全文を掲げよう。

斯帰斯麻

臣名伊奈

己等妹名

后生名孔

等婆庶妹

宮治天下 天皇名阿

米足尼女 名吉多斯

等巳彌居,加斯支移

一部

ヤ人公}主斯帰斯

名等巳彌 居加斯支

米久爾意

比彌乃彌

比彌乃彌

麻天皇之

移比彌乃

斯波留支

己等為大

己等復妻

子名莚奈

彌己等為

比里爾波

后生名多

大后弟名

久羅乃布

大后坐乎

乃彌己等

至波奈等

乎阿尼乃

等多麻斯

沙、多宮治

要巷奇大

巳比乃彌

彌己等為

支乃彌己

丙下生幽

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天皇という文字の初出の時期について一121

尾治王多

一天

コ生名一

巳+二月

一干

梠ス圏

母王如期

生於天寿

懐然告日

加西溢叉

至波奈等 巳比乃彌 己等妻庶

等巳刀彌 彌乃彌己 等要尾治

廿一日癸

波奈大女

従遊痛酷

国之中而

有一我子

漢奴加己

酉日入孔

郎悲哀嘆

無比我大

彼国之形

所啓誠以

繭令者堕

部間入母

息白畏天

王所告世

眼所巨看

為然勅諸

部秦久麻

妹名孔部

大王女名

王之女名

王崩明年

團前日圏

間虚仮唯

憐因図像

采女等造

間人公主 為大后坐 漬辺宮治

多至波奈 大女郎為 后歳在辛

二月廿二

之難恐懐

函堤傷一

欲観大王

繍帷二帳

日甲戌夜

心難止使

味其法謂

往生之状

画者東漢

半太子崩

我大王与

我大王応

天皇聞之

末賢高麗

     枠内の文字は現存の亀甲の中にみられるものである。 .

 文体について いわゆる史部の文体とよぽれる文体で、固有名詞のほとんどが真仮名であらわされている。漢字の

                                                 オ  シ

意味には関係せず、ただ音のみを仮りて国語を写す真仮名の使用は、すでに「隅田八幡神社彷製画像鏡銘」に”意柴

沙が”の文字がみられるように、漢語に醗訳が困難なあるいは不可能な語ーその最たるは人名・地名のごとき固有

名詞!を写すことにはじまり、一字一音のみならず一字二音を仮りるものもあらわれ、さらには固有名詞のごとき

かぎられた語のほか、一般にあらゆる種類の語に対しても用いられるようになり、ついには万葉集にみられるような

多種多様の用法にまで発展したのである。るこの音借の例は既述の 「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」 にはみられず、

                 ト リ                                             ソ ガ

「法隆寺金堂釈迦如来像光背銘」に 〃止利ク の二字がべ「法隆寺宝蔵釈迦如来像光背銘」 に 〃漱加γ の二字がみ

                                    シキシマ タチパナ

えているにすぎない。これらに対して「中宮寺繍帳銘」には一音を仮りるものー斯帰斯麻.多至波奈ーと二音を

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122叢一論律一法

       スクネ

仮りるものーー足尼ーの用法がみられ、なかんずぐ 〃キγ の音には帰・支・吉、、〃カケ・〃トγ・〃ヌクの音に

はそれぞれ加・奇、等・止、莚・奴のごとき異なつた文字が用いられている。

 また字音を仮りて国語を写すとともに、固有名詞の場合においても、漢字と国語との間に次第に密接な関係が生

じ、ある一定の漢字に対してはつねにある一定の国語がその訳語としてあてられることになり、ついにはその漢字を

直接国語でよみ、また漢字が直接国語をあらわすというようになつて、いわゆる漢字の ”訓ケ が成立するにいたつ

                              イケノペ                              ヲハリ

ーた℃この訓借の例は既述の「薬師如来像光背銘」にみられるがー池辺のごときll、「繍帳銘」においても 〃尾治

    アナホベ

王ク、 〃孔部グのごとき用例がみられるのである。

 山田博士は「古事記」撰時以前の文献にあらわれた真仮名を一括された際に、とくに推古朝にのみみられる音借文

字として、夷‖イ・奇1ーカ・巷・吸1ーソ・至‖チ(「中宮寺繍帳銘」のみ)・明1ーマ・彌Hメ・巳“ヨをあげられてい

るの。しかし山田博士は法隆寺の諸銘や「中宮寺繍帳銘」・元興寺の諸銘などをいずれも推古朝の遺丈であるとし

て、その上に立論されているのであるから、その前提に疑問がさしはさまれている現在、これらの文字を推古朝にの

み使用されたと限定することは問題であるといわなければならない。

 先にふれたように「繍帳銘」には音借・訓借のさまざまな用法がみられるが、このような真仮名の豊富な用例に対

比しうるものとしては「元興寺伽藍縁起井流記資財帳」所収の「元興寺露盤銘」・「元興寺丈六光背銘」および既述の

 「船首王後墓誌」があげられるにすぎない。そのうち「露盤銘」・「丈六光背銘」は「繍帳銘」と丈体が酷似するとい

われているが、「元興寺縁起」については問題があるので、両銘をしばらく措く時は、「船首王後墓誌」しか残らな

い。

                              ワ ヲ       ワ ヂ  ニ

 その「船首王後墓誌」であるが、この墓誌にみられる人名は、 〃王後ク・〃王智仁γとよむように、周代古音をも

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一天皇という文字の初出の時期について一

つてよまれており、この墓誌が作られた時期に船氏が用いていた字音は周代古音であつたことが知られるのである。

いわゆる推古朝の遺文にみられる真仮名の字音が周代古音であることはすでに×矢博士の説かれるところでありの、

周代古音の使用は推古朝の遺文の徴証の一つとされているのであるけれども、天智即位元年(六六八)に作られたと

考えられる「船首王後墓誌」にそれが使用されているのであるから、真仮名に関するかぎり「繍帳銘」の作られた時

期はかならずしも推古朝に限定しなけれぽならない理由はないのである。

 またこの銘文の前半の系譜の部分は「上宮記」の文と類似しているこ芝が指摘されている。しかして「聖徳太子平

氏伝雑勘文」所引の「上宮記」下巻注の内容をかえりみる時、聖徳太子のみならずその子孫まで記されており、また

「釈日本紀」所収の「上宮記」と「平氏伝雑勘文」所引の「上宮記」とを比較する時、「上宮記」というものは推古

朝を降るものと認めざるをえない、.とは和田博士の説かれると⊂ろであるの。したがつて「繍帳銘」の系譜の部分

も、推古朝を降るものと考えてよいであろう。

 さらにまた真仮名の僅少な用例しかみられない「法隆寺金堂釈迦如来像光背銘」・「法隆寺宝蔵釈迦如来像光背銘」

については、先に福山博士が推古朝の作ではなく時代の降るものであることを説かれの、最近にも藪田氏が前者を後

代の作であるとされている瑚。したがつてこれらの説による時は、真仮名の用例の多少にかぎつてみると、その豊富

さから推して、「繍帳銘」の作られた時期はさらに降るものと老えるのが穏当であろう。

            シ  へ

   若干の語について 公主 公主という文字を“ヒメミコ”という国語にあてた例は、この銘文のほか「上宮聖徳法

  王帝説」・「元興寺丈六光背銘」旬にみられる。 ”ヒメミコケには古くは女.女王などの文字があてられるのが普通で、

23ユ 公主の丈字が用いられることは少ない。 「法王帝説」においては、,”諸王公主及臣連公民クという成句の中にあらわ

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124叢論律一一 @

れているが、この成句はその申に”公民グという文字を含んでいることが注且される。すなわちこの成句は公民とい

う文字が用いられるにいたつた時期ー大化以降のもの均と考えられるのであつて、公主という文宇は大化以降にも

用いられていることが知られるのである。

 歳杢辛巳年〃歳在……年ケという紀年の記載形式については既述の「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」においてふれ

ているので、ここでは省略するが、少くも干支のみによる紀年の記載法は天武即位五年(六七七)ころまで行われて

いたことが知られている瑚。

 十一、一か.一昏奏西.先にもふれたように、孔部間人母王の忌日は一二月一=日甲戌であつて、干支の甲戌を癸酉と

誤まつたのは銘文の作者の錯覚と老えられるが、ζの錯誤はたんに辛巳年=一月と明年(壬午年)二月の干支が一日

違いで合致していたためにのみ生じたものではなく、なおそのほかにも理由があつたものと老えられるのである。す

なわち間人母王は推古天皇の同母兄である用明天皇の皇后でありパ聖徳太子の実母にあたつている。このような関係

にあつた間人母王の忌日を、太子の亮後わずか六年しか存しない推古朝において、しかも太子の妃の奏請によつて、

                                                ヤ

天皇が勅して作らしめた繍帳において、誤をおかすとは老えにくい。その意味において宮田氏は、 〃少くとも十年二

十年の歳月が流れ去つた後に作られたクゆえに錯誤をおかしたので,ある、と考える方が、より妥当性が多いとされてい

る詞D。

 構成について 銘痴は前半の系譜の部分と後半の大女郎の奏請の部分の二つの部分からなつている。前半の系譜の

部分は、後半の部分にあらわれる主要な人物ー推古天皇・間人母王・聖徳太子.多至波奈大女郎の系譜を、その登

場の先後にしたがい、必要な範囲で記している。ただし推古天皇のみはその順序にかかわりなく最初にあげられてい

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天皇という文字の初出の時期について一125

るが、おそらくそれは天皇のゆえにと思われる。また間人母王と聖徳太子との間に尾治王が記されているのは、太子

に適した多至波奈大女郎の系譜を太子の系譜に続いて附すことに困難があつたからであろう。すなわち文意の明確さ

をかくとか、字.数がふえるとか、あるいは大女郎の母の系譜が明瞭ではなかつたとか、さまざまな理由があつたと考

えられるのである。

 後半の部分は大女郎の奏請を中心とした繍帳作成の由来を記したものである。しかしそれは作成の機縁と製作者を

記すのみで、一般の銘文にみられるような製作の期日についてはなにも記していない。その理由はなんであろうか。

 この銘文が全文四〇〇字であることは最初にふれた。しかし四〇〇字(亀甲一〇〇)が載然とした数であるにして

も、そのゆえに必要な事項を省略してもよいという理由にはならない。繍帳の周辺に亀甲を附す余地がないならばと

もかく、四の倍数字の銘文が作られてはなちないことはなかつたはずである。したがつて字数の制限之いうことは積

極的な理由にはならない。ところでこの後半の部分ー1ひいては全文-ーーの主格はいうまでもなく大女郎である。逆

にいうならば、銘文の作者は大女郎を念頭において繍帳作成の由来を記しているのである。繍帳の作成が大女郎の奏

請にもとずくものである以上、当然といわれればそれまでであるが、しかし作者の念頭にとくに強く大女郎が意識さ

れる場合がごつあると思われる。一はいうまでもなく大女郎の奏請のあつた時期、繍帳の製作された当時であり、他

は大女郎の身辺に大きな変異ー1たとえぽ大女郎の死iーのあつた時期である。もし前者とすれば、その場合には繍

帳完成σ期日を知りえたであろうし、もしそれを知りながらあえてそれを記さないのであれぽ、それは通例に反する

ものといわなければならない。しかるに後者の場合には、繍帳の完成後相当の年代をへた時期にいたつて銘文が作ら

れたために、製作の期日を知りえなかつたとも考えられるのである。ただ後者の場合には、それならばなぜ大女郎の

死について記さなかったのかという凝問が生じるわけであるが、それは繍帳作成の由来を通じて大女郎を偲ぶという

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  ことに限定したためと思われる。

勝叢一論律一法 銘文の作者について 大矢博士はこの銘文の作者に船首王後を擬せられているm。 王後については、 「日本書紀」

は推古一六年六月丙辰条に

  客等泊干難沼津、……、以中臣宮地連・摩呂い大河内直糠手船史王平為掌客、

と記しており(王平とは王乎であろう。王乎は王後と同音で、王平は王後と同一人である。)、また既出の「船首王後

墓誌」は王後が推古・欝明の両朝に仕え、箭明三年(六四一)一二月に没したことを記している。したがつてもし作

者を王後であるとするならば、この銘文は借明三年一二月以前に作られたものとしなければならない。

 しかし船氏に周代古音による字音の伝承があつたことは先にふれたとおりであり、船氏の一族が朝廷の重要な記録

作成に関係のあつたことはまた「日本書紀」の伝えるところである。すなわち皇極紀四年六月己酉条には

  蘇我臣蝦頗等臨詠v悉焼天皇記、國記、珍賓、船史恵尺即疾取所焼國記而奉献中大兄、

とあつて、船史恵尺の名がみえているが、津田博士は恵尺がとり出したという〃國記ク の存在を疑がつておられ

る旬。 しかし船氏と蘇我氏との間には、たとえば欽明紀一四年七月甲子条に

  蘇我大臣稲目宿彌奉勅遣王辰爾数録船賦、即以王辰爾為船長、因賜姓為船史、今船連之先也、

とあるように、公的なあるいは私的な関係が結ばれ丘いたと考えられるのであつて、そのゆえに恵尺あるいは船氏の

入々は、蝦嬢の家に自由に出入することができ、同時にまた重要な記録の所在を知ることができたと思われるのであ

る。火急の際に重要な記録をとり出したという皇極紀の記載は、右にいつたような環境にあつたればこそはじめて可

能であつた事情を物語るものといえるであろう。

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 王後の死後、船氏の一族はひきつづき文筆をもつて朝廷に仕え、枢要な記録をつづつていたものと思われる。した

がつて宮廷に関係のあるこの銘文も大矢博士が推定されたように船氏の一員が記したと認めてよいであろう。ただし

その場合作者はかならずしも王後でなくともよく、その子孫一族の誰かが擬せられてもよいわけである。

一天皇という文字の初出の時期について一127

 銘文の製作の時期について 繍帳そのものは聖徳太子の死を悼む大女郎の奏請によつて推古天皇が采女らに作らし

めたものであることば疑ないとしても、銘丈は繍帳の作られた後相当の年代をへた時期にーおそらく大女郎に対す

る追悼の意味を兼ねて作られたものと考えられる。繍帳製作の期日を欠くとか、間人母王の忌日の干支を誤るとかは

その例証であろう。しからば椋部秦麻呂の監督のもとに、東漢末賢・高麗加西溢・漢奴加己利が画き、采女らが作つ

た繍帳を、日夜眺めて太子を偲んでいた大女郎はいつごろ没したであろうか。

 大女郎の父は推古天皇の第五子尾治王であるが、推古天皇と聖徳太子とは年令においては二二才の距きしかないの

で、尾治王は太子よりもおそらく年少であつたと考えれる。その尾治王の女である大女郎が太子に適つたのは太子の

晩年に近かつたころと思われ、太子の亮じた当時大女郎はおそちく二〇~三〇才であつたと考えられるのである。し

たがつて大女郎は特別の災異がなければ太子の亮後相当長く在世されたものと想像される。ところが、太子の没後約

二〇年をへた皇極元年(六四二)に蘇我氏と上宮家との間にトラブルが起つたことを「日本書紀」は伝えている。す

なわち皇極紀元年条には

  是歳、蘇我大臣蝦嬢……尽登畢國之民井百八十部曲、預造讐墓於今来、一日大陵、為大臣墓、一日小陵、入鹿臣

  墓:…・、:::、更悉聚上宮乳部、役使榮挑所、於是上宮大娘姫王獲憤而歎口、蘇我臣専檀國政、……、何由任意

  悉役封民、自弦結恨、遂取倶亡、

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128叢一論律法

とあり、また皇極二年(六四三)一一月丙子条には

  蘇我臣入鹿遣小徳巨勢徳太臣、大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩、……、於是山背大兄王等自山還入斑鳩

  寺、……、終与子弟妃妾一時自経倶死也、

とある。皇極元年紀の記載に〃取倶亡タとあり、皇極二年紀の記載に〃倶死”とあるのは、おそらくこの二つの記載

に関連があることを物語るものかもしれない。皇極元年紀の記載は皇極元年紀の最後の部分を形づくる附載であるこ

ともこの推定を助けるものである。しかりとすれば上宮家の一族はこの時期に滅亡ぜしめられたと考えてよいであろ

う。上宮大娘姫王が太子の女をさすのかあるいはまた太子の妃をさすのかあきらかではないが、よし多至波奈大女郎

であつたにしても皇極二年以降になお存世したとは考えられない。(「聖徳太子伝暦」は皇極二年の厄に会つた上宮家

の一族のうちに、大女郎所生の白髪王と手島女王とをあげているが大女郎自身の名はみえていない。 「伝暦」の記載

より推せば逆に大女郎は皇極二年以前に没せられたとも老えられる。)

 以上のように、大女郎の没年の下限はおそらく皇極二年と思われるが、その上限はいつごろに求むべきであろう

か。大女郎が太子の亮後も相当の間在世したと考えられることは先にふれたとおりである。しかりとすれば大女郎の

没年の上限は箭明年間(六二九}六四一)1おそらくはその後半にあると考えてよいであろう。

 大女郎の没年が箭明年間より皇極二年の間にあるとすれば、銘文の作られた時期の上限もほぼ定まつてくる。すな

わち銘文の作者は大女郎の変異をきいて、その追悼を思いたつたことが動機となつているのであろう。しかも臆測を

加えるならば、大女郎の普通の死ではなくて、皇極紀にみられるように、蘇我氏によつて死を余儀なくされたという

ような異常な死に際会したためであつたためであろう。しかもまたその加害者であつた蘇我氏も皇極四年(六四五)

に中大兄皇子らに滅された。したがつてもはや蘇我氏にはばかることなく銘文を作ることができたのであつた。それ

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天皇という文字の初Nの時期について129

ゆえ銘丈は、奇明年間の後半以後、もし先の臆測が許されるならば、皇極二年乃至皇極四年以降に作られたもの、と

考えられるのである。

  註 D (聖誉【抄下)文永十一年甲戌二月廿六日、サテ信如房此万タラヲ見玉二。下二亀百アリ。亀,甲一ニニ四ッ、.文掌・アリテ合テ

     四百ノ文字アリ……。

    勾 穂井田忠友コ観古雑帳」

    ① 宮田俊彦「天寿国繍帳銘成立私考」 (史学雑誌四七ノ七)

    勾 (法王帝説)慧慈法師聞之奉為王命講経発願日逢上宮聖王必欲所化吾慧慈来年二月廿二日死者必逢聖王面奉浄土遂如其

     言到明年二月廿二日発病命終也

      (日本書紀)推古二九年二月条

      当是時高麗僧恵慈聞上宮皇太子亮、以大悲之、……誓願日、・:…我以来年二月五日必死、因以遇上宮太子於浄土、以

     共化衆生、於是恵慈当子期日而死之、

    )13) 12) 11) 10) 9) 8) 7) 6) 5

藪田嘉一郎「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」 (仏教芸術七)

山田孝雄「国語史」文字編(刀江書院「国語史」九)

大矢透「仮名源流考」

和田英松「奈良朝以前に撰ばれたる史議已 (岩波講座「日本歴史し所収)

福山敏男「法隆寺の金石文に関する二三の問題」(夢殿一三)

藪田嘉一郎・前掲論文

…:而妹公主名止与弥挙吾斯岐移比弥天皇…ー

濫]出左右士ロ「日本古典の研究」下

小野朝臣毛入墓誌

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130

17) 16) 15) 14)

宮田俊彦・前掲論文

大矢透・前掲著書

津田左右吉・前掲著書

(同書下巻)太子子孫男女廿三人王無罪被害

山背大兄王、……白髪部王、手嶋女王……

叢一論律一法


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