+ All Categories
Home > Documents > 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編...

郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編...

Date post: 15-Oct-2020
Category:
Upload: others
View: 1 times
Download: 0 times
Share this document with a friend
20
1 郷土忍の歴史 VOL64 忍町時代 中編 目次 1、忍商業銀行 2、忍町信用組合 3、行田電燈株式会社 4、飛脚から郵便電信 5、おまつり 6、明治以降の消防 7、忠魂碑 8、衛生 1、忍商業銀行 我国銀行の始めは、明治三年(1870)十月に伊藤博文と渋澤栄一とが渡米して銀 行法を調査し、同五年一月に為替両替の三井組と小野組とが中心となって第一国 立銀行を創設したのが最も古いものである。 埼玉県としては、川越に八十五銀行が明治十一年に創立されたのが始めである。 その業績良好であったので、その後続々として銀行が創立された。 十三年には川 越銀行、十四年には鴻巣に埼玉銀行および松山に松山銀行が生れた。 鴻巣の埼 玉銀行の建物は後年忍商業銀行の支店となった。 何れも資本金は申し合せたよう に五万円となっている。 翌十五年には、入間郡久米村(現所沢市久米)に金山銀行、同郡入間川村(現狭 山市入間川)に入麗銀行、秩父郡に我野(あがの)銀行、横見郡(現吉見町)に横見 銀行、北足立郡常光村(じょうこうむら)に明壌銀行ができた。 十六年に至り、加須町に称隆銀行、北足立郡川田谷村に足立銀行、入間郡入間 川に入間銀行 が出来た。 十七年には、小川町の比企銀行、同じく小川町に小川銀行、坂戸町に 扇町屋銀行が出来た。 この外、東京の九十五銀行の川越支店が出来た。 十九年 には東京の中井銀行支店が浦和に立ち、後に県金庫を掌握した。 二十三年には忍地方大水害に見舞われたが、二十五年には大豊作であった。 二十六年には、所沢町に所沢銀行が、二十七年には秩父町に秩父銀行が創立され、 この年には川越と熊谷に米穀取引所が開かれて、馬の背に米を積んだ農民が来て 賑わった。 二十七、八年は、日清戦争で連戦連勝。 二十八(1895)年四月十七日下関で講 和が成立し、清国が日本に償金二億三千万両(テール)を支払い、台湾と澎湖島(ほ うことう)を割譲して落着した。 日本は発展の一途に向った。 この好期に忍商業銀行は、明治二十九年(1896)五月三十日、行田町民の大いな る期待のうちに誕生した。 町屋は店頭に国旗を掲げて祝った。 銀行の店舗は、樋 上屋と云う砂糖や紙など雑貨商が居た土蔵造りの家であった(現埼玉りそな銀行の
Transcript
Page 1: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

1

郷土忍の歴史 VOL64 忍町時代 中編

目次

1、忍商業銀行

2、忍町信用組合

3、行田電燈株式会社

4、飛脚から郵便電信

5、おまつり

6、明治以降の消防

7、忠魂碑

8、衛生

1、忍商業銀行

我国銀行の始めは、明治三年(1870)十月に伊藤博文と渋澤栄一とが渡米して銀

行法を調査し、同五年一月に為替両替の三井組と小野組とが中心となって第一国

立銀行を創設したのが も古いものである。

埼玉県としては、川越に八十五銀行が明治十一年に創立されたのが始めである。

その業績良好であったので、その後続々として銀行が創立された。 十三年には川

越銀行、十四年には鴻巣に埼玉銀行および松山に松山銀行が生れた。 鴻巣の埼

玉銀行の建物は後年忍商業銀行の支店となった。 何れも資本金は申し合せたよう

に五万円となっている。

翌十五年には、入間郡久米村(現所沢市久米)に金山銀行、同郡入間川村(現狭

山市入間川)に入麗銀行、秩父郡に我野(あがの)銀行、横見郡(現吉見町)に横見

銀行、北足立郡常光村(じょうこうむら)に明壌銀行ができた。

十六年に至り、加須町に称隆銀行、北足立郡川田谷村に足立銀行、入間郡入間

川に入間銀行

が出来た。 十七年には、小川町の比企銀行、同じく小川町に小川銀行、坂戸町に

扇町屋銀行が出来た。 この外、東京の九十五銀行の川越支店が出来た。 十九年

には東京の中井銀行支店が浦和に立ち、後に県金庫を掌握した。

二十三年には忍地方大水害に見舞われたが、二十五年には大豊作であった。

二十六年には、所沢町に所沢銀行が、二十七年には秩父町に秩父銀行が創立され、

この年には川越と熊谷に米穀取引所が開かれて、馬の背に米を積んだ農民が来て

賑わった。

二十七、八年は、日清戦争で連戦連勝。 二十八(1895)年四月十七日下関で講

和が成立し、清国が日本に償金二億三千万両(テール)を支払い、台湾と澎湖島(ほ

うことう)を割譲して落着した。 日本は発展の一途に向った。

この好期に忍商業銀行は、明治二十九年(1896)五月三十日、行田町民の大いな

る期待のうちに誕生した。 町屋は店頭に国旗を掲げて祝った。 銀行の店舗は、樋

上屋と云う砂糖や紙など雑貨商が居た土蔵造りの家であった(現埼玉りそな銀行の

Page 2: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

2

所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

集って盛大に行われた。 この席上頭取松岡三五郎氏が挨拶中に、「この地に銀行

が無い為に、特産の青縞(あおじま=藍染物)や足袋が県外の業者に安く買われ、又

繭も信州の商人に買われて利益を持っていかれたが、今日からはかかることは無く

なる」と述べたのであった。

同行発起人会は、正月十五日行田旅館三島屋で開かれ、集った人々は、行田の

橋本喜助後見人橋本甚五郎、小針の田島升之助、斉条の松岡三五郎、和田の竹内

経太郎、行田の大澤久右衛門、同富田治郎助、石島儀助の七氏であって、資本金

十万円、株式二千株、一株五十円、引受割当は、一千二百五十株が発起人が引受

け、残りを一般が引受け、三月十三日に募集が始められた。 設立願いは一月二十

五日に大蔵省に提出され、三月五日設立認可が下りた。 四月八日に創立総会を

忍町役場で開いたのである。 専務取締役に松岡三五郎、取締役に富田治郎助、

大澤久右衛門、橋本甚五郎、竹内経太郎を選出し、監査役に湯本義憲、石島儀助、

東京日本橋の広部清兵衛を選び、同月二十五日旧樋上屋の建物を借り、前述の通

り五月三十日開業となったのである。

松岡三五郎氏は 初から 後まで頭取で、責任を一身に負うた人である。 政治

結社である忍同志会の重鎮であったが、自身は表面は政治に関与せざる立前を取

り、決して立候補はしなかった。 これを家憲とした感があった。 ただ銀行に一心を

打ち込んだ所に成功の鍵はあるのである。

広部清兵衛氏は橋本喜助氏の親戚に当り、日本橋で広部銀行を経営し自ら頭取

となっていた。 土蔵造りの銀行で資本金十万円の小さな銀行であったが、頗る信

用の厚い銀行であった。 忍商業銀行は諸事、広部式であって印刷物まで極似して

いた。 初めの内は広部銀行の行員が先生として来て居たのであった。

初の内は資金も少ないので、いざ金が入用となると橋本喜助と大澤久右衛門方

へ金を借りに行ったものである。 両家は銀行の後見人のようなものであった。

忍町も明治二十八年頃の物産は、米穀四万三千石、大小麦一万一千石、足袋百

九十万足、青縞十二万反、白木綿二十万反、石底(いしぞこ=足袋底に使う厚手の

織物、石底織)一万八千反であった。 これは忍町の産額でなく、忍町付近を含む忍

町経済圏の産額である。 我国統計は杜撰(ずさん)極まるが、大体六十パーセント

位の信用するに足ると思うので、目安にはなると思うので掲げた次第である。

創立の翌年である三十年は生糸が高価を呼び、米も未曽有の高騰であったので、

すべり出し頗る好調であった。

当時忍商業銀行が銀行の 初ではない。 明治十九年に中井銀行が浦和に支店

を出し、県金庫を預かると間も無く、行田に在る北埼玉郡役所の門前に小さな家を

造り、行員を二人程置いて県金庫北埼玉支金庫を預かったのである。 その後中井

銀行は行田本町に支店を出した。 これが銀行の始まりである。 今の宮川酒店の

前辺であって小さなものであった。 新築の瓦葺の小じんまりした家で入口右手の格

子窓が印象的であった。

一度忍商業銀行が設立されると、その後は雨後の竹の子の如く続々として設立さ

れ、三十年の暮までの僅か一ヶ年半の間に三十余行も出来たのだから驚くでないか。

Page 3: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

3

埼玉県は町で銀行の無い所は全く無い位であった。 猶この後も銀行設立熱はさめ

る気配がなかった。

忍商業銀行もこの波に乗って三十一年に姉妹銀行として忍貯金銀行を設立した。

営業所は同一であった。 資本金は五万円である。

三十三年には県下に銀行数が六十行に達し、競争漸(ようや)く激甚ならんとする

時、ここに経済恐慌はやって来た。

日清戦争は勝利を得て二億三千万両(テール)の償金を獲得し、新たに台湾を領

土に加え、支那大陸を綿糸輸出市場としたので、国内の企業大いに勃興した。 然

し長続きはしなかった。 二十九年には銀価下落し物価は高騰した。 戦争で拡大し

た紡績業は過剰生産となり、生糸の輸出は不振を来した。 日本銀行は物価の騰貴

を抑えるために、金利を引上げたので織物業者が先ず悲鳴を挙げ、埼玉県では所

沢銀行が支払停止をやった。

三十三年に入って日本銀行は更に金利を引上げ、七月までに三回も引上げたの

で金融は一挙に逼迫した。 この上に猶、清国で義和団事件が起り、我国も英・米・

独・仏・露の各国と共に出兵した。 世に北清事件と云うのが之である。 これで一段

と金融が引締まり経済恐慌に拍車をかけた。 これで県下の五六行が倒壊し、破産

寸前のものもあり、三十四年一年間に取付け(騒ぎ)に見舞われたもの二十数行に

及んだ。

人心落付かず銀行は何れも苦しんだのである。 堅実を誇る忍商業銀行は、この

荒波によく堪え無事に過ごしたものの三十三年度は前年度より総取引数が百十六

万円も減少したのであった。 以てその一般が伺い知れると思う。

その後財界に好況は訪れず、三十六年になっても金融は緩慢(かんまん)に終始し

た。 同年の暮頃には日露国交険悪の風聞が流れた。 戦争への不安は一層に商

工業界を不振にさせた。

明治三十七年二月八日には日露国交断絶の報が伝わり、四日後には日本の艦隊

が旅順および仁川で奇襲攻撃をやった。 十日には宣戦の布告がある。 為に財界

は不安の念が押さえ切れなかった。 それは露国が大国であるからでもある。 それ

が又愛国心と変り、国民の愛国心はもりもりと盛り上った。

軍事公債の募集、馬匹(ばひつ)の徴発、米麦の供出相次ぎ、その規模は日清戦

争の十倍であった。 私の父は忍商業銀行の行員であったが、「北埼玉郡一円では

あるが麦の供出代金六十万円を行李に詰めて人力車で行李をまたいで乗って来た

所、警官が各所に居て護衛してくれた」と云っていた。 官金だからである。 当時五

円、十円紙幣だから分量も多かったのである。 だから農村へ入った金も多かった。

又行田足袋は丸外(まるそと)と云った跣足(はだし)たびが陸海軍に軍用として多数

の註文があった。

銀行から云えば、「欲しい民間資本は軍事公債に吸上げられて金詰まりとなり、先

行きを警戒する矢先に六月のこと大阪で百三十銀行が突如として臨時休業し、その

余波を受けて三十四、浪速、北浜、鴻池、五十八等々が取付られた」と云うニュース

が来た。 銀行業者は何れも肝を冷やしたのである。 預金者も不安の色が濃い。

戦時中の政府は、取付のニュースを極力抑え、破綻銀行の救済に尽したので、被

Page 4: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

4

害は局部的で幸いに食止めた。 この時は実に緊迫した空気が当地にも漲(みなぎ)

ったのであった。

然し戦局は有利に展開され、三十八年一月には難攻不落の旅順港も陥落し、一

方露国では「血の日曜日」と称した暴動がモスクワに勃発し、革命運動漸く盛んとな

って来た。

加うるに五月二十七日八日の日本海海戦にバルチック艦隊を東郷連合艦隊によ

って全滅させたので、遂に露国は折れて九月ポーツマス条約が結ばれて平和は回

復した。

日露戦争が終結し、明治三十九年となると下半期頃から企業熱が盛んになった。

南満州鉄道創立となると事業熱や投機熱に浮かされ、熱狂的時代を出現したのであ

る。

然るにこれも全く束の間で四十年一月には早くも東京株式市場大暴落である。

六月二十六日越谷町の鈴木銀行が支払停止した。 このニュースが伝わると預金者

が銀行に殺到し、川越地方八銀行が取付にあった。

抑々(そもそも)この起りは明治三十九年(1906)米国に始まった経済恐慌が欧州に

伝播し、これが我国の貿易に大影響を与え、生糸の暴落、物価の大下落となり、遂

に大恐慌を来したのである。 静岡県の百三十八銀行東京支店が四十年三月二十

九日不渡手形を出したのが口火となり、全国に波及したのであった。

県北方面は前後三回も風水害に見舞われ、且つ戦時中の重税がそのままであり、

生活は追い詰められていた。 生命線の生糸は下落し日本銀行は金利を引上げた

ので、悪条件が重なり金詰まりは一段と逼迫し、各所で小取付が起ったのである。

この時県は県北に対し約十一万円の救助金を支出し、政府も亦国庫債券の一部償

還を行ったので、幸いに危機を切抜け得たのである。

四十一年も不況、四十二年は豊作であったが米価暴落である。 この不況続きで

銀行の優劣が判然として来た。 A クラスには、八十五銀行、忍商業銀行、飯能銀行

が数えられるようになった。

忍商業銀行は以前から県の忍支金庫を預かっていたが、三十年にその出張所を

羽生に出し、三十四年に鴻巣支店を設け、三十九年には吹上に出張所を置き、県

北一帯に信用を獲得したのであった。

明治四十三年は景気が上向いた。 それは第二次桂内閣が不況救済の為に、四

分利公債の借換と旧公債の償還を行ったからである。 これで金融は大いに緩慢と

なり、金利も大幅に引下げられた。 忍商業銀行でも貸出金利 高二銭七厘、 低

二銭(日歩)に引下げたのである。

(参考: 当時の利率は日歩で表記していた。元金 100 円につき 1 日当りの利率であ

る)

然し四十三年八月十一日未曽有の大水害に見舞われ、忍方面の被害は頗る甚大

であった。 政府は四十四年も四十五年も引続いて公債の償還を行ったので、金融

緩和、企業大いに興り盛況を呈したが、一方入超が続き、正貨はどしどし流出した。

明治四十五年明治天皇崩御からめっきり不況を加えた。 日本銀行が二回も金利

を引上げたので不況は益々深刻となって来た。 忍町は特産の足袋が東北地方不

Page 5: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

5

作で売れ行き不振であった。 大正三年(1915)六月二十八日オーストリアの皇太子

夫妻がセルビヤの一青年に暗殺され、第一次世界大戦の火蓋を切った。 我国参

戦するや生糸は暴落、米価は豊作の声で大暴落、商工業者は不況を託(かこ)つの

であった。 八十五銀行が三日間取付騒ぎを演じたのも、デマからとは云え財界不

安からである。

大正四年(1915)下半期ともなると、海外から軍需品の註文相次ぎ、輸出超過とな

り正貨の保有高は鰻上りとなった。 これが五年六年七年の三ヶ年も続いたので、日

本が戦争成金となった。

生糸の如き十六貫俵一俵が七百円位だったのに、漸次高価を呼び遂に四千円に

もなったのである。

行田足袋も未曽有の好況を呈した。 忍商業銀行史は、この間の事情を叙して「銀

行取引は一日一日と繁栄に赴けり」と書いてある。

忍商業銀行が大正二年に現金受持額三十六万七千円、純益金一万九千四百円、

配当二割五分なりしものが、大正八年には現金受持額五千百万円、純益金十四万

四千円、配当三割七分であるのでも、その一般が知れるのである。 全国で見ると工

場数も労働者数も、生産高も戦前の二倍に増加したのである。

この黄金時代の裏には庶民の物価騰貴で生活難がひしひしと押寄せていた。 大

正八年八月三日富山県の漁師町西水橋で米騒動が突如として起こったのが 初で、

忽ち全国に波及し大騒擾事件となった。 忍地方でも戦前には一石二十円そこそこ

であり、大正七年一月は二十四円前後になり、七月には四十五円、八月には五十円

になっている。 米騒動も勃発するわけである。 本県幸いに事なきを得たのは、知

事岡田忠彦が資金五十万を以て埼玉共済会を設立し、八月には救済に乗り出した

からであった。

又、岡田知事は大正八年十一月六日資本金五百万円の武州銀行を創立するに

努力を傾けた。 本行は後の埼玉銀行の前身であった。 実に岡田知事は時勢を知

る人である。

大正九年世界大戦は全く終りを告げ、戦争景気も亦終りを告げた。 その後十、十

一、十二年と連続恐慌に悩まされたのである。

経済恐慌の 初の現れは、九年三月一日のこと東京株式取引所株の新株が五百

四十五円の高値から一挙に三百九十九円に下落し、余勢を以て綿糸、生糸、農産

物が九年の暮には年初の三分の一、生糸は四分の一に大暴落である。 これを当

時「ガラ」と云ったが、全くがらがらと崩れ落ちたのである。

又米価の如きは、石当り四十円前後のが僅か八円程に低落したのであった。 麦の如きは

赤字となったので大正五、六年頃の作付面積に比し、五分の一に減少した。 故に土地を

手放す農家続出したのである。

この年の春蚕(はるご)は半減し、価格は予期の半ばにも達せず、新榖も亦暴落で

県下で二十数行の取付騒ぎがあった。

金融界は翌十年に回復の望みをかけたが、ただ小康を得たのみであって、十一年

には九年に勝る大恐慌がやって来た。 年初から関西の財界で銀行の休業、破綻

相次いだのが火元となり、銀行で取付が又々起った。 県下でも三十数行が取付の

Page 6: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

6

災厄を蒙った。 年末に至り日本銀行が資金援助の声明を出したので下火となっ

た。

然るに大正十二年(1933)九月一日関東大震災である。 未曽有の大災害で東京

を中心として三百四十万人の被災者を出し、五十億円の損害を来したのである。

この時の内閣は加藤友三郎首相の死後を承けて内田康哉外相が臨時首相であっ

た。 直ちに震災地に戒厳令を適用し、同時に非常徴発令および臨時震災事務局

官制を公布した。 九月二日の深夜に山本内閣が成立し、暴利取締令、米穀輸入

税免除令を発し、新蔵相井上準之助は同月二十七日手形割引損失補填令を出し、

救済の手を差し延べた。

十二年の年初四月には県下十余行が手持資金不足から二、三日の休業をやり、

預金者に不安を与えた折柄、七月には小銀行の破綻動揺があった時も時、七月二

十三日堅実を誇る忍商業銀行の鴻巣支店が突如取付を受け、その日の内に桶川、

騎西、吹上の各支店に取付が押寄せた。 この取付額は百三十万円に達した。 本

店では三百万円の支払準備をしたと云うことであった。 忍商業銀行としては初めて

のことである。 これは同年四月九日騎西銀行を合併しているので、これを不満とす

る者の教唆(きょうさ)からであるとのことだ。

関東大震災のあった翌日九月二日早朝には、銀行関係者が緊急会議を開き臨時

休業を決議し、この旨を本県知事に報告し承認を求めた。 この時に堀内知事は、

休業は民心に悪影響を招くとて休業を差止め、極力資金援助をすると云った。 即

日郡長をして預金者に此の際軽挙妄動を戒めた。

また一方大蔵大臣に援助を求めたのである。 四日に大臣から援助する旨の回

答があった。 これを直ちに各銀行に通達したが、この時既に県下二十三行が休業

していた。 銀行が麻痺状態に陥ったのは五、六の両日であった。 開店していた所

でも金額に制限を付した。 休業している所では預金者が黒山の如くで、今にも焼

打ちが起らんとする不穏の様子が見えた。

かかる所へ七日モラトリアム(支払いの猶予)が公布されたのと、日本銀行が積極

的貸出を声明したので危機は緩和された。 モラトリアムの内容は、震災地の銀行に

は公共団体の積立金、給料、労賃、預金の支払いは、一日百円以下の支払い以外

は三十日間支払いを延期することが出来ると云うものだった。

九月末には落着きを取戻したのである。 戦争中の輸出超過で得た十二億円の金

は、この大正十一、十二年でゼロになってしまった。 これが昭和の大恐慌への伏線

となった。

関東大震災以後は、経済の行き詰りは社会の混乱を招いた。 労働争議や小作争

議が各地で大規模に勃発したのである。 行田の足袋争議も此の間である。 大正

十五年の暮に大正天皇崩御、昭和と改元され皇太子が皇位を継がれた。

人心益々暗く、日一日と財界は深刻さを増し、遂に昭和二年(1927)三月未曾有

の大恐慌がやって来た。

ことの起りはと云うと、二年三月に帝国議会に提出された震災手形損失補償公債

法案と震災手形善後処理法案の審議をめぐり、震災手形で台湾銀行と鈴木商店の

腐れ縁が暴露追求され、大蔵大臣であった片岡直温が二、三の銀行の経理内容を

Page 7: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

7

公表し、「かかる状態だから是非共この法案を通過する必要に迫られている」との答

弁中失言もあったので、法案は容易に通過せず反って預金者に不安を与えたので、

銀行の取付が始まり大恐慌に陥ったのである。

東京では三月十五日渡辺銀行、あかじ貯蓄銀行の休業に始まり、十九日には中

井銀行が休業するに至った。 これから続々と休業銀行があって、実に大々的恐慌

となった。

中井銀行は浦和、川口、行田と支店があって、 も信用が厚く長期の定期預金は

中井銀行と多くの人々が考えていたのである。 中井の休業は小雪の日(11 月 22 日

頃)であった。 その他の銀行も猛烈な取付に遭遇した。

中井銀行の休業は行田に大打撃を与え、行田足袋は原料買入れに困り、生産大

いに減少するの止むなきに至った。

中井が休業の前日である。 私の父は忍商行(忍商業銀行)の行員であったので、

頭取の命を受け東京に行った。 山一証券に銀行の用事もあり、私用もあったので

ある。 自分の金も貰った。 その金を中行(中井銀行)へ入れて置いてくれと云った。

その時山一の人が疑いの意味を籠めた「ヘエ」と云った。 父は直ちにその金を現金

で貰った。 しかし表へ出て中井銀行の前へ来ると大変な取付で道路に人が溢れて

いた。 これは大変と直ちに第一銀行と台湾銀行であったか、両行から五十万円の

預金を引出した。 この時は殆ど夢中であったと云う。 その金があまし(余し)ものな

ので、日本銀行に預けて帰った。 翌日はその二つの銀行が休業したのである。

全く危機一髪であった。 この時父が頭取の詩を思い出し、しみじみと感じたとよく話

したものだ。 松岡頭取の詩と云うのは、

創業怱々已十年 創業怱々(そうそう)已(すで)に十年(怱々=慌ただしい)

経営惨憺自堪憐 経営惨憺(さんたん)自ら憐れむに堪えたり

至誠偏計商工利 至誠偏(ひとえ)に商工の利を計る

努力何唯為貨銭 努力何ぞ唯貨銭の為なり

と云うのである。 これ実に深情を吐露して余りがない。

行田では中井の外、鴻巣銀行が休業した。 これは大正十四年に鴻巣に創立され、

その支店が行田に在った。 遂に痛手に耐え兼ねて、閉店から立直ることは出来な

かった。

唯一の財産家屋敷を売った金を全部行田支店に休業前日に預入れて、無一文に

なり青くなった人もあった。

銀行の休業続出し、倒産相次ぎ空前の大恐慌である。

この時忍商業銀行も取付に会った。 同行の重役石崎丈太郎は、急を聞くや即刻

大金を自動車に積み東京から駆けつけた。 忽ち忍商行本店は紙幣の山を築いた。

取付の人々これを見て安心し、引出した金を直ぐに預ける人も出て、平穏に返った

のである。

恐怖のどん底に陥った預金者は、一流銀行に集り、小口の金は郵便貯金へと移っ

た。 それで群小銀行は潰れ、恐慌の風は各界に吹きすさんだ。 昭和五、六年と

益々猛烈な不況に襲われたのである。

昭和四年(1929)十月二十四日ニューヨークのウオール街で吹き出した恐慌の暴

Page 8: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

8

風は、西回りして日本を襲い、全世界資本主義経済の国家群をなぎ倒したのである。

ただ計画経済のソ連だけが平穏な顔していた。

昭和五年初め多年懸案の金解禁を断行したのはよいが、為に正貨の流出巨額に

達し、物価の低落、滞貨の激増、取引の縮減、失業者の増加となり、特に繭の安価

は十数年来のこと、株式証券の暴落止まる所を知らなかった。 九月には金の再禁

止となり、不況は一段と勢いを増した。 秋の米は大豊作であったが、米相場の下落

は深川で一石十八円となり、忍地方では十五円程になった。 前年から見ると一石

十円の下落である。 豊作飢饉を現出してしまった。

だから農村の不況は甚だしく、商工業者は販路を失って、これも亦不況のどん底

に落ちた。 銀行は殆ど金を貸すのに危険を感ずる始末となった。

当時の田中(義一)内閣は、人心を外に向けんとして山東省出兵、東方会議の献策、

張作霖の爆殺等々となった。 次に来た浜口内閣は又々金解禁をやった。 その結

果は官公吏の給料引下げ、労働者の賃金引下げ、農産物、生糸、織物等の価格引

下げとなった。 不況の止む所を知らない。

銀行は一時県内に七十行もあったが、整理されて遂に十行程になった。

銀行の合併は、欧州大戦後全国的に盛り上がって来た。 政府の合併政策はこの

頃から積極的になった。 大正十四年銀行条例を改正して合併手続を簡素にしたの

である。 政府としては恐慌に襲われる毎に地方の中小銀行が動揺し、これが全金

融界に不安を蒔くのを遺憾とし、合併に依ってこの不安を除かんとしたのである。

斯くて埼玉銀行は、武州、忍商業、八十五、飯能の四行が中心となり合併が行わ

れたのである。

忍商業銀行の創立は明治二十九年であるが、同三十二年に鴻巣に支店を出した

のが初めで、二十九年には吹上に出張所を置き、四十五年には鳩ケ谷に支店を設

けた。

大正と改元されてからは、八年五月に桶川銀行を合併し、十年には羽生に支店を

開始し、十一年に吹上出張所を支店となし、立派な倉庫を築造し生糸が完全に保管

出来るようにした。 而して資本金九十六万五千円に増加した。 十二年三月には

騎西銀行を合併し、ここで資本金を百万円とした。

十五年五月には小川銀行を合併し、同年十二月には栗橋銀行を合併し、又加須

に支店を設置し、資本金百四十八万五千円に増加したのである。

又昭和となってからは、三年五月に杉戸銀行を合併し、六年三月に昭和銀行杉戸

支店と同久喜出張所を合併して、県北の中心銀行を形造った。

八年一月から永らく頭取であった松岡三五郎氏が辞任し、重役であった石崎丈太

郎氏頭取となる。

傍系銀行である忍貯金銀行は三五郎氏の息 秀夫氏が頭取で成績堅実なので一

段と忍商行が重きをなした。

県内の銀行は幾多の紆余曲折を経て、武州、八十五、飯能、忍商業の四銀行に

統合されて一先ず落着いた頃、支那事変が突発し、間も無く大東亜戦争に発展し

た。

昭和も十四年になると一段と経済統制が強化され、銀行の合同が国策となって来

Page 9: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

9

た。 十六年戦争の拡大につれ挙国一致体制が要望され企業合同が強制された。

行田の足袋工業もこれを強要されたのである。

銀行に対しては一県一行主義が唱えられ大合同が断行された。

十七年初冬に大蔵省から武州、八十五、忍商、飯能の四行に向って、大東亜戦争

に突入し超非常時を迎えて挙国一致の体制を要するので各行は合同するようにとの

勧告を受けた。 直ちに合同の話合いが進み、十八年四月二十一日四行合併契約

書の調印が行われた。

而して七月一日新銀行が発足したのである。 名称を埼玉銀行となし、本店を浦和

に置いた。

忍商業はここに四十七年の歴史を閉じた。 翌十九年三月川越貯蓄銀行、忍貯金

銀行をも合併し名実共に県一行となったのである。 資本金三千九百三十余万円で

あった。

行田の足袋産業と共に発達した忍商業銀行は、合同し埼銀の一支店に鉄筋コンク

リートの大建築を残している。 一方足袋は時勢に押され革新を余儀なくされつつあ

る。

2、忍町信用組合

この組合は 初北谷の有力者によって設立されたものである。 区内の者の親睦

を図る為に松島遊覧の催しが少壮者で企てられたのが大正六年(1917)六月である。

毎月金を集め、翌七年六月に三十名打揃って松島遊覧に出かけ首尾よく愉快に行

った。 二回目をやろうと云う話になる。 第一回の費用を計算すると一千円に達す

る大金である。 年月を重ねて積んだ金を二、三日に内に他郷に捨てるのは勿体な

いと考えた。

これより先に別に関西遊覧の目的で貯金している団体が在った。 この団体は利

殖の一方法として積金を会員に貸付けて、その利子を積立金に繰入れた結果、二、

三年で月二円の掛金が三千円以上に達した事実を見て、これを有益に活用したらと

の希望意見が出た。

大正七年(1918)六月のこと、時田鐘吉、小島幸平、菅波秋次郎、牧野吉蔵、尾崎

一馬、粕谷萬寿吉、清水周次郎、長谷川弘次、村上義之助の九氏が発起人となり、

貯蓄組合を起こし加入者を募集した。 すると非常に好評で申込殺到し、予定の一

口五十円、二百口を遥かに超過したのである。

六波羅産業主事補、古市忍町長の勧告に従い、組織を信用組合法に拠ることとな

し、大正七年七月二十六日本県知事の認可を得て、北谷信用組合を創立した。 僅

かに一ヶ月で応募口数八百二口に達した。 八月二日臨時総会の決議を経て八月

十五日まで募集し、一千二百五十口に達した。 当時の役員は

理事 時田啓左衛門、村上義之助、菅沼秋次郎、

牧野熊治、粕谷貴一郎、小島幸平

監事 尾崎一馬、川端清助、荒井喜一

爾来、年と共に加入者増加したのである。 これ一に時田啓左衛門の信用厚きこと

が、この大をなしたのである。

Page 10: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

10

大正九年四月二十一日忍町信用組合と改称し、同十年七月十四日市街地信用組

合となり、殆ど銀行の如き業務をすることとなった。

その後大正十一年八月に元行田小学校跡に新築し優秀な成績を挙げたのであっ

た。 昭和二十二年埼玉県信用金庫に合併し、その行田支店となった。 埼玉県信

用金庫は本店を熊谷に置き、忍町信用組合長を創立以来勤めた村上義之助氏が

本店の理事長となったのである。 村上氏は永年その業に尽くした功績を認められ、

昭和二十七年文化の日に緑綬褒章(りょくじゅほうしょう)を授けられたのであった。

組合に努力すること実に三十五年であって、この栄誉を得たのだ。

3、行田電燈株式会社

人間が電気と云うものを知ったのは随分と古いことで、紀元前六百年頃ギリシャで

琥珀(エレクトルム amber?)を布で摩擦すると静電気が起きることを知っていたのであ

る。 然し電気を利用することは近世のことであった。

我国では平賀源内が長崎の和蘭人商会で一種の起電気を見て、これを模造し「エ

レキテル」と称したのが安永五年(1776)のことである。

その後、橋本曇齋(どんさい)が「エレキテル究理原」上下二巻を著し、幕府から出版

禁止を受けたのが文化十年(1812)であった。 又佐久間象山は安政五年(1858)に

電池を製作したのである。

明治八年イタリア歌劇団が我国に来た時に、演劇場に工学寮で電燈を点火せんと

試みたのであるが失敗に終った。

明治十一年三月二十五日電信中央局開業祝賀会を工部大学校で開いた時に、

英人教師エルトン氏指導の下で藤岡市助、中野初子、浅野応助がグローブ電池で

デュボスカ式孤光燈(アークライト)を点じて、来賓を驚嘆せしめたのが我国電燈の

初である。

十五年十一月一日となり、銀座街燈の孤光燈一基が点火した時には、人気はこの

一つに集った。 当時錦絵にまでなって大変な評判であった。

東京電燈会社創立は十六年二月の許可であって、同年に横須賀造船所、小石川

の砲兵工廠に電燈が出来、十九年には内閣官報印刷所にと云う具合で漸次(ぜん

じ)広まったのである。

一般に送電を開始したのは二十一年七月五日麹町第一電燈局である。 当時初

めて火力発電を用いた。

皇居で電燈を御使用になったのは、二十二年一月六日である。 爾来、漸次拡張

されたのである。

行田で電光と云うものの見せ物が自由座にかかった。 何でも明治二十五年頃か

と思っている。 私は子供で既に小学校に通っていたが、父に連れられて見に行っ

た。

洋服を着た人が話を初め、中々終らない。 話が終わると三人掛りで大きな鉄の輪

を廻し出した。 側に大きなガラスの板が在ったから、猫の皮とで摩擦電気を起すら

しかった。 後に黒い幕があって、蛍より小さい電光をほんの瞬間発するのである。

Page 11: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

11

「御見落しの無いように」と、くどくど注意があって二、三度発光してお終いであった。

神鳴(かみなり)様も人間に捕えられて見せ物になる御時勢だとたいしたことだっ

た。

行田の足袋屋は、旧暦で八月十五夜を境に夜業を始めたものだ。 夜業はランプ

である。 ランプも五分しんランプから九しんになり、空気ランプへと改良された。 こ

の掃除は小僧の役で大変な仕事である。 この頃街燈もランプであって一々踏台と

石油を提げて掃除をしたり、石油をさしたりした。 総て石油ランプ時代であった。

夜間の照明は勿論であるが、昔の家作(やづくり)はまことに暗く、昼間でも光線が

充分でない憾(うら)みがあった。 それでアセチレン瓦斯ランプを使用したものであ

る。

高崎の電燈会社が熊谷には配電したが、値段の点で折合わず行田には配電でき

なかった。 何事も先端を切って郷土の為に尽力を惜しまない今津徳之助氏は、発

起して水戸地方のサクション瓦斯発動機による発電事業を視察し、行田に即応する

電燈会社を計企し、吹上鴻巣付近村落の同意を求め、設立にまで持込んだのであ

る。 株式会社とし、資本金十万円、一株五十円とした。 株式申込は明治四十三年

七月である。 その発起人は二十三人である。

橋本喜助 小池通治郎

小池長七 加藤十左衛門

加藤大三郎 宮川已之助

栗原代八 森 修

田中専次郎 室田角次郎

奥貫忠吉 横田庄右衛門

今津徳之助 今泉濱五郎

秋山金右衛門 松村平八

柴田与一郎 安田利兵衛

大澤専蔵 秋山治助

川端清助 久保田長五郎

牧野鉄弥太

発起人引受株数一千四百七十株であった。

初の頃は火力発電であり、三千二百ボルトで、行田町内の五、六百燈位であっ

て二千燈は欲しかった。 それで鴻巣や吹上等を合せて漸く希望数に達したのであ

る。

大正八年に至り利根電力から電気を買うようになったのである。

経営は極めて順調に運んだ外に、水力電気過剰で非常に安価に十年間の契約が

出来たこと、第一回世界大戦に際会し、発電諸機械設備が現金化し需用が増大し

たので、諸設備も完成し利潤も多かったのである。 資本金二十万円に増加した。

但し十二円五十銭一回払込んだだけであった。

東亜の戦雲拡大に拡大を重ねんとする時、全国電気事業統合の議盛んとなり、逓

信省や東京電燈本社との交渉漸く進み、昭和十七年五月東京電燈と相談まとまり、

Page 12: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

12

行田電燈は東京電燈へ譲渡することとなった。

行田電燈はここに終止符が打たれた。 現在の東電行田営業所が昔の建物である。

初期半分は社長が橋本喜助氏で、終り半分が大澤専蔵氏であった。 合併の時電

線やメーターなど物資不足がちの折柄、存外多量に在庫品が在って東京電燈を驚

かしたと云うことである。

4、飛脚から郵便電信

飛脚が出来て信書の往復が始まったのが寛保年中(1741-44)のことで、今からざ

っと二百十二年も前のことである。 それまでは幸便(こうびん)に待つより方法はなか

った。 飛脚も定期に人足が徒歩で行くものと、特別仕立のもの即ち飛脚とがあった。

とにかく徒歩だからたいしたことだ。 飛脚は歩くことが商売だから一歩も無駄しない

ようにした。 茶店で一寸休むにも道端の腰掛に腰をおろし、決して奥へは行かない。

立つ時はそのまま先へ一歩を踏み出すと云うように気を付けたものであったようだ。

勿論信書ばかりでなく金銭の伝送もやった。

行田には飛脚屋が二軒あって何れも上町に居を持ち、丸屋四郎兵衛と四ツ目屋

長四郎とであった。 その内丸屋が丸四と云って殿様の御用を勤めた。 北谷の入

口右角で角に小さい土蔵があり、殿様から造って頂いたものと云うことであった。

この私設の飛脚は、 初寛文年中(1661~1672)の頃三都の商人が相談し、三都

往復の飛脚業を始め、信書の逓伝(ていでん)をなしたのが基となり、その後寛保年

中(1741~1743)に大いに普及したので、この時に行田でも飛脚屋が出来たのであ

る。

明治維新となり欧化の傾向著しく、郵便は政府の事業として明治四年に開始され

た。

翌五年五月駅伝口達書に依って郵便御用取扱人の選挙を行い、郵便路線も定ま

り、同年七月一日に行田郵便局の基礎が出来た。 この時は古橋圭之助が初代取

扱人となる。 六年二月格式が定められ、四等仮役所となり、取扱人の本町三丁目

の居宅を役所とした。

この開業当時は、郵便切手も日本紙に木版刷のもので、四十八文、百文、二百文、

五百文の四種であった。 糊が付いていず、小さな入れ物に糊が入れてあって、

一々指先に糊を付けて張ったものである。

六年十二月となって郵便路線が変更し、差立(さしたて)度数が増加した。 地方に

依っては毎日又は隔日若しくは月何回と定日を置いた。 七年には地方官庁の布達

布告から官庁への提出書類は郵便によることとなった。 総て内務省駅逓寮の管轄

である。

明治十三年から為替事務の取扱いを開始した。 又十五年五月十日から貯金事

務を始めたのである。

十七年八月二十二日古橋取扱人が辞任したので富田次郎助がその後を受けて、

役所も自宅に移した。 これが現今の局舎の所である。

十九年制度が改正され、三等郵便局となった。 これが長く続いたのである。 三

Page 13: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

13

等郵便局は一種の請負制度であった。

明治二十年四月十七日局長が死亡したので、その子が襲名して次郎助と称し、五

月十七日局長となった。

明治二十五年二月十六日電信及び電信為替が開始された。 これは二十三年六

月橋本喜助外二名が七百三十五円を献金出願によるのである。 この時たった一本

の電線が空にかかり、熊谷まで続いていた。 その後電柱が金属製のものと代った。

一本の電線も冬季は赤城颪(おろし)にブンーと鳴っていた。 又小鳥が並んで電線

に止って居たのを見たものだ。

局の前には黒く塗った角柱形の郵便函が立っていた。

明治二十六年七月一日から小包郵便が開始された。 三十一年十一月二十日局

長が死亡したので、その子が又襲名し局長も続いた。 親子三代局長である。

明治四十二年三月一日電話が開通した。 これも郡内 初である。 当時加入者

四十五人。 特設加入とて設備費を加入者が負担したのである。 その後普通電話

に変更され、年々歳々少数ではあるが増加していった。 昭和二十四年六月一日電

気通信省が設置され、行田に電報電話局が新設されて、行田郵便局に二個の看板

が掛けられた。 この時には加入者が五百九十八と増加し、市外回線は十三回線で

あった。 開設当時は市外一回線である。

大正五年十月一日には簡易保険の業務が開始され、十五年十月一日から郵便

年金の業務が開始され、郵便局も業務の拡大から局員も大いに増加していった。

昭和十四年十二月従来の局舎を改め新築された。 これが現今の局舎である。

昭和二十年十一月六日普通郵便局に昇格し、富田局長は退職し川口恒吉が普

通郵便局初代局長となった。 これより従来の請負制度でなく純然たる官署の軌範

に入った。

昭和二十四年六月一日行田電報電話局が分離独立し、福島貞治初代業務長とし

て就任した。 一つの局舎に二つの看板が掲げられた。

世の推移は郵便にも隔世の感があるのである。 秩父電車が開通しない以前は、

吹上駅で東京新潟間鉄道郵便線路で受渡しをやった。 大正十年秩父電車が出来

てからは、熊谷羽生間に郵便線路が設けられて一変した。

自動車などの交通機関が無かった時代、冬期は名産行田足袋の需要期であって

毎年十月頃から翌年二、三月頃までは、各足袋工場共大繁忙である。 従って通信

機関の利用激増し電信電話や金融取引もさることながら、足袋発送の小包郵便物が

特に多大で、足袋屋の小僧さんが手伝いに来て処理したものだ。 又近隣の熊谷、

羽生、吹上の各局に足袋の小包郵便物を馬力屋が車に積んで行き、七重の膝を八

重に折って(ななえのひざをやえにおって)どうぞとお願いし、差立(発送)不能と断っ

ても無理に置いて行くと云う状況を繰返したものだ。 足袋の生産の多いのが分かる

のである。

Page 14: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

14

5、おまつり

城下町行田下編の祭礼条下に述べた通り、神社の祭典と云っても質素を極めたも

のであった。 それ故に城下町であるのに山車(だし)一つない。 明治の頃には山

車を村方(むらかた)から借りたものだった。

大正の初め大正天皇御即位大典に際し、紀念として初めて本町で造った位である。

電線があるので高く造ることが出来ず、屋根の上に高く人形を飾るわけにも行かず、

ただ唐破風の屋根があるだけのものである。 終戦後、下町や新町に出来たのであ

る。

町方(まちかた)が斯くの通りだから、村方では鎮守様の御祭でも薄暗い所で錫杖

(しゃくじょう)片手でカタカタと打ち鳴らし祭文を読む位であった。

松平下総守が桑名から移封後、少しく御祭に活気が出た位のものである。

明治時代は、馬鹿囃(はやし)に合せて踊る無言劇神楽の流れを汲むものが、皿尾、

渡柳、白川戸の若衆によって踊られたが、大正ともなると之がお面を被らず、お化粧

し、鬘(かつら)を着けるようになり、芝居となってしまった。 私は寧ろ堕落したと思う

のである。 昔の天の岩戸や、蛇(おろち)退治の無言劇の神楽がなつかしい。

<天王さま>

安永年中(1772~1780)に出来た。 御輿(みこし)であって、本町、下町、新町、

八幡町でお祭したものである。 現在は真黒(まっくろ)に塗られて何の飾りも無いも

のであるが、以前は鳳凰(ほうおう)を頂き、瓔珞(ようらく)を垂らした立派なものであっ

た。

明治の初期黒く塗られたのである。 而して悪(にく)まれた家へ担ぎ込む蛮風が生

れた。 だから警官監視の内に担いだものだ。

本町の呉服店大澤へ担ぎ込む慣例であって、大澤方では店の格子を破られると、

代りがちゃんと拵えてあり、直ぐに嵌め込んだものだ。 その他担ぎ込むので警官は

監視の眼を光らせる。 自然若衆と警官の対立となった。 明治時代には、よく密か

に神輿を担ぎ出し、或る時は警察の門前に接近して神輿を置き、深夜のことで誰も

知らない。 翌朝に至り門が開かないと云う珍話もあった。 又深夜町内を担ぎ回り

下町小沼に投げ込み引上げたこともある。

昨今は町民も馬鹿な騒ぎもなく、山車が出て賑やかである。

<権現さまの御祭>

旧幕時代下荒井に鎮座した東照宮を、明治七年(1872)に諏訪曲輪を切り開いて

現在の所に遷座したのである。 而して拝殿は昭和五年新築したのである。 明治

七年四月十七日の遷座祭は盛大なものであったと云う。

とにかく近郷近在に鳴り響いている権現さまとて、お祭の人出はものすごく、旧幕

時代のことは、城下町行田下編祭礼の項に書いたから参酌されたい。

明治となって御遷座以後も非常な人出で、荒川の渡し場で渡し銭が樽に入れてあ

ったと云われる。 行田本町の吉羽薬店ではチラシを道行く人に配ったが、忽ち配り

Page 15: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

15

切ったと云われるし、薬も売り切れたとのことであった。 薬さえ斯かる有様だから他

は推して知るべしだ。

境内には所狭しとばかり小屋掛けの見せ物が立並び、ロクロックビ、ヨカヨカ飴屋、

玉乗、女剣舞、猿芝居、カルワザなど様々なのがあり、地獄極楽のアヤツリ、ノゾキ

眼鏡(めがね)は声をからして客を呼び、早取写真の小屋の前には青年男女の見本

写真を眺めての人だかり、あちらの木蔭ではクドキとて心中もの、歌を謡いつつ歌本

を売るもの、チョイチョイかいなと小さな鏡や玩具小間物類を沢山並べて、雉の毛の

はたきで品物をはたきながら、嫁入道具や婿入道具が一銭と五厘だよチョイチョイ買

いなと客を呼ぶ声賑やかに、カルメを焼く、鯣(するめ)を煮て売る匂いが鼻をつき、

その雑踏は歩くことも容易でなかった。 折柄、桜の花盛りで城跡に桜樹も多かった

ので一段と人出が多かった。

然るに行田の町では何の催しも無く、屋敷町の忍でも何もやらなかった。 神楽殿

でヒョットコを馬鹿囃子に合せてやるだけである。 ただ余興としては御遷座の年から

武道大会を催し、柔剣道の仕合は連続して八十年、今日に至るもので年々盛大に

向うのである。

御遷座の年の剣道大会は初回のこととて紀念額が神楽殿に掛けてある。 それか

ら廿年の後、明治二十八年には柔道大会を催し、この紀念額が同じく神楽殿に掛け

てある。 この時の発起は吉川基弥であった。 その後高橋幸右衛門、吉川栄両氏

が尽力を続けている。 初は柔道には梅村団九郎、剣道には松田十五郎の大家

があった。 何れも忍藩士である。

戦前には柔剣道及び弓道が加わった。 戦後となると見せ物は殆ど掛らず、市中も

植木と露天商のみで、賑わいは相当なものだが、催しものは唯一つ武道大会のみと

なった。 柔道では三船名人、剣道では木村範士が見えられ、実に関東での武道大

会となっている。

権現様のお祭位、人の集まる賑やかなものは、当地としては第一である。 行田の

町屋では何か催しものをするとか、山車を出すとか、一段と盛んにする工夫がありそ

うなものである。

<北谷の愛宕さまの大祭>

明治二年の神仏分離により代官町の黒助稲荷から法性寺境内にあった愛宕社の

内殿が発見された。 これは弘化三年(1845)の伝兵衛火事で焼失した時、その内殿

を焼かずに黒助稲荷に避難したのがその侭になっていたのであった。 社殿再建を

よりより(度度)話しが持ち上がった時も時、今の北谷の愛宕さまの南隣が中島屋と云

う郷宿(ごうやど)であった。 村々の名主などの宿泊する所である。 その向いが八

百唯(やおただ)と云う鰻屋である。 そこの親爺(おやじ)が中々の曲者で、ともすれ

ば事を構えて人々を困らせるのであった。 お奉行所でも夙(つと)にブラックリストに

載ってる人物である。

この親爺は「鎮守様がお帰りだ、大いに祝わねばなるまい。 若衆連中は直ぐにお

だてに乗って大々的にお祭りをする」と騒ぎだした。 当時は何の娯楽機関とて一つ

も無い。 又今まで圧迫されていたのが、維新の風で解放されたのであるから、その

Page 16: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

16

反動もあって途方も無い大袈裟なお祭りをやってのけた。

岩に牡丹の飾り物のある花車(だし)を作り、芸者は男髷(まげ)に結って手古舞(て

こまい)姿で金棒を引いて先に立つ。 若衆は縮緬の揃いで掛声勇ましく引廻すと

云う大変な景気である。 何でも費用が六、七百両かかったということである。 これ

を本町だけで出すのであるから骨が折れた。

夢中で担ぎ回ってる内はよいが、いざお祭りが済むと借金で首の廻らぬ者が続々

と出る。 戸を閉める者も出来た。

その後は火の消えたような有様であった。 心ある者は実に苦々しいことに思うの

である。

八百唯の生きてる内は、社地を定めたり、社殿新築はすまいと内々に決めていたも

のだ。 恐らく行田始まって以来の大祭であった。

<行田の初午>

弘化三年西暦一八四六年のこと、二月二日伝兵衛火事とて行田始まって以来の

大火があった。 この年の干支(えと)が丙午(ひのえうま)であって、丁度初午の日で

あった。 それから行田町では家々の稲荷さまを初午に祀る風習が盛んになって来

た。 もっとも初午には各家毎にお祭をするのであるが、一段と盛んであった。 それ

でも地口行灯(ぢぐちあんどん)や幟(のぼり)が立てられる位のもので、丁寧な家では

染抜きの幟を立てた。 子供達は色紙の旗を笹の先に付けて、お稲荷様に上げに

来た。 子供達は終日太鼓を叩いて、狐の面を被って遊んだものである。

飾り物はライオン足袋の荒物屋、酒造の雲龍が屋敷稲荷に人形を飾って、一般の

人に見せた。 山星では芳醇な匂いが何処となくする大きな酒蔵、奇麗に洗った大

きな桶が横たわる所に飾った人形には何か興味を引かれた。

荒物屋の稲荷は奥まった所に在って、如何にも老舗の家構え、店の土間を通って

行くと、白壁土蔵が並ぶ通路には、地口行灯が連なっていて、通路を跨ぐ大行灯に

は、俳句が奉納されているのは毎年のことだった。 これは先代の主人が俳号を茗

雪庵芝好と云って宗匠格であったからだ。 今の長島糸店の老人松雪庵千鶴はこの

流れを汲むものである。

この荒物屋などの飾り物の初めは明治三十五六年頃からである。

又今の魚七はこの時分松友亭と云った。 その隣が桶屋で桶弁と云った。 家の傍

に稲荷祠があって常日頃よく太鼓を叩いて拝んでいた。 初午には手作り飾り物で

人目を引いた。

これから何年か過ぎて長野の酒造である日野屋と新町の足袋製造の東屋が人形

を飾った。 東屋は店から行くと裏の大工町の方へ抜けた。 この間に左右に飾り物

があって人気を呼んだもんだ。 近在からの人出も多く、行田の初午とて有名になっ

た。 天満の稲荷様は、何か余興を小屋掛(こやがけ)して見せた。 又水戸殿稲荷も

掛アンドンなどで子供が集まった。

これが昭和十二年の北支事件頃まで続いたが、戦が益々拡大し北支戦争と称す

るようになった。 この戦争の飾り物が 後となって、その後飾り物が止めになった。

終戦後昭和二十八年から大々的に始めた。 今度は今迄と異なり個人商店でなく、

Page 17: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

17

町内の催しものとなった。 町内の適当な家を開き飾り物をするようになり、行田市内

十五六ヶ所も出来る盛大なものとなった。

行田音頭に「春がくるくる初午祭、幼馴染の掛行灯」とある通り、毎歳アンドン・コン

クールが催されて、年毎に美しさを増すのだ。 この行灯は地方色豊かなもので人

気がある。 飾り人形と共に行田の名物となった。 再発足の初午祭は旧にまさる賑

いである。

荒物屋や東屋、その他酒造が人形を飾ったのは、この日おとくいを招待し、序(つ

い)で御註文を承った一つの商策からでもあった。

6、明治以降の消防

明治初年は大変革後のこととて、消防は旧幕時代のままで主力は鳶職であって、

鳶が刺子(さしこ)を着て纏(まとい)を持つ姿が消防の中心であった。 明治二十七年

(1894)二月勅令第十五号で消防組規則が出たので、漸く整備された位である。

明治二十五年頃は未だ木製龍吐水(りゅうどすい)がはばをきかせて居たのである。

村落などには水鉄砲であった。 これは木製玩具と全く構造を同じくし、その大形な

のである。 この規則で行田町も各町毎に消防組が出来て、警察署長の監督下に置

かれたが、忍部には全く組織が無かった。

明治四十三年五月県庁から訓達があって忍町に五部制が布かれた。

本町 六十一人

下町 五十二人

新町八幡町 四十一人

佐間 二十七人

忍 未組織

上記の通りで忍部を除いて組織せられたのである。 明治も三十年代になると、行

田にポンプ製造店が出来て盛んに製造された。 当時のポンプは手押しポンプで、

左右に多くの人がハンドルを取って交互に上下したのである。 而してこの時分は井

戸や河川から吸上げることが出来、ズックのホースを付けて目的の箇所へ筒先を向

けるものとなっていた。 本町の火の見櫓は高さが約四十尺あったが、その頂上にゴ

ム風船を飛ばし、勢いよく上昇する水勢でこれを落し、その威力に町民を感心させた

ものである。 明治も後期となると、ホースを二本付けたものも出来た。

消防施設が幼稚であったので、徳川中期から大いに土蔵や土蔵造りが多くなり、こ

れ等の家では冬期に入ると二階の窓は土戸(つちど)を閉めて目塗りをなし、土蔵に

は目塗り用の泥土を瓶(びん)に用意し置き、火災となれば直ちに土戸を閉めて目塗

りを施したものだ。 二階の窓の為には庇(ひさし)の屋根に瓶を置いて泥土を置いて

あった。 お出入りの鳶や左官等、直ちに駆けつけたのである。 又土蔵造りの家ば

かりでなく、板屋の家でも屋根に樽を菰(まこも)で包んで乗せ、水を盛り、樽の一方

に水掃(みずはたき)を添えて置いたものだ。 これで火の子を防いだのだ。 家屋も

至って低く造った。 火災予防には随分注意したものである。 店の前に大きな釜を

据え、水をはって置くものも各所に見受けた。 煙草入に大きく火の用心と書いたも

のまであった。

Page 18: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

18

冬期には火の用心の金棒の音と拍子木の音が夜空に冴えた。

出初めの式や点検の花は、明治大正に掛けての梯子乗であった。 竹梯子を左右

から多勢で鳶口で押えて立て、その上で鳶が逆(さかさ)大の字とて、頭を下に一方

の手と足で梯子を支える様など人々の拍手を浴びたのである。

大正二年(1913)になると、私設消防を廃し、三月十三日忍町消防組を組織した。

ここに初めて公設消防の設置を見たのである。 町長は古市直之進であって、町長

自ら消防組頭となった。 これ迄私設消防時代は、本町の組頭であった宮川已之助

は長くその職に在って、大いに努力した功績は大きい。

忍町消防組は七部制で、組頭一名、部長七名、小頭二十六名、消防手三百三十

七名で、各部に腕用ポンプを備えた。

七部制

第一部本町

第二部新町

第三部下町

第四部八幡町

第五部佐間

第六部忍

第七部天満、袋町、沼尻、表町、向吹、同心町、江戸町、平田新地

(参考:各町は石島眉山著「忍の行田」の昭和初頭地図に掲載されている)

(表町は遍照院の北西部で、城南の忍城通りの西側)

大正四年十一月に第一部では大正天皇御即位記念として金二千二百余円の寄

付金で蒸気ポンプと馬具などの付属品を購入した。 出動には馬が引くものであっ

た。 当時としては県下でも異彩を放った。

大正六年十月第二部でガソリンポンプを購入した。 これは人が引出すものである。

これは軽便なのと早く放水し得るので町民の心に叶ったのである。

大正十一年に至り、従来の七部制を改めて五部制に改め、組頭一名、部長五名、

小頭十五名、消防手百五十名とした。 この時各部ともガソリンポンプを購入し、面

目を一新した。 十四年には第一部でも蒸気ポンプを廃し、ガソリンポンプを購入し、

五部全部ガソリンポンプとなった。

部名 形式 馬力 購入年 価格

第一部 市原式 50 大正十四年 5,600 円

第二部 帝国式 20 同 六年 3,800 円

第三部 鈴木式 20 同十一年 3,450 円

第四部 森田式 20 同十一年 3,500 円

第五部 ノーザン式 20 同十一年 3,600 円

忍警察署長が管内の消防を行田に集めての検閲式には、実に堂々たるものであ

った。

Page 19: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

19

大正十年四月十一日には紀律厳正器具整備の故を以て、知事から金馬簾(きんば

れん=纏の飾り)一条を貰った。

十二年四月五日県下優良消防連合点検で賞状を授与され、同年五月八日には模

範として金馬簾二条を貰った。

十四年五月三十日熊谷町大火に際し、行田消防の応援に功労抜群なので、更に

金馬簾一條を賞せられた。

十四年の記録によると、消防役員の給与は交際費の名目で組頭五十円、部長三

十円、小頭二十円を支給し、火災出場の時には鳶一円、消防組員五十銭を支給す

る定めであった。 人員の増減は一々知事の認可を要し、毎秋期には忍警察署長の

点検が執行された。 又年の初めには出初式があった。

<火災>

明治三年(1870)十二月十九日新町柏屋久左衛門の長屋より出火。 八軒門脇ま

で焼失し、猶八幡町に焼け移ったが消し止めた。

明治五年正月十三日夜、上町二丁目元本陣樋口市十郎から失火した。 明治の

大変革となり、本陣も時勢で松月庵と云う蕎麦屋を開業した。 何しろ本陣のこととて

座敷は申分なく、器具調度も吟味に吟味を加えたもの、味も上々で評判も良かった。

然るに開業間もなく不幸にも火を出した。 時刻十時半頃、火の廻りが非常に早く身

を以て免れた程なので、何一つ持出す暇も無く、隣家の妾宅と共に忽ち焼け落ち、

北側の上は冨田慶兵衛まで焼け、富田治郎助で止った。 下は樋口金太郎まで焼

けて来て大澤久右衛門で食い止めた。 南側の上は秋山金右衛門で消し止め隣家

一軒破壊した。 下は八幡町入口縫泊屋まで焼けて、魚角で止る。 焼失個数四十

九戸。 さしもの本陣再興も出来なかった。

<代々組頭>

未完

<明治以後火災史>

未完

7、忠魂碑

各町村で日清、日露の両戦後の戦病死者の忠魂碑を小学校の校庭、又は鎮守境

内に立つること広く行われ、且つ日露戦後、北清事変とか第一回世界大戦等を経て、

戦死や戦病歿者の英霊を祭ること盛んであった。

忍町では在郷軍人忍分会が忠魂碑を忍尋常高等小学校、現在の中央校の校庭

南隅に土盛をなし、その上に丸石で半円形に積み、中心に日露戦争の戦利品軍艦

の巨砲を立て、久邇宮(くにのみや)殿下の御染筆(せんぴつ)で忠魂碑の大文字を

浮彫にし、前庭左右には瓦製の鳩を置き、松を植えて風致を添えた見事なものであ

った。

申し遅れたが大巨砲の頂上には金色の鵄(とび)が燦然と輝いた。 恐らく全国にも

類例を見ないもので、確かに出色(しゅっしょく)のものであった。 昭和四年(1871)

Page 20: 郷土忍の歴史VOL64 忍町時代 中編 目次gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/files/morivol64.pdf2 所)。 開業式には、古市忍町長、林北埼玉郡長等の来賓と株主九十五名が階上に

20

四月の建設で、経費一万三千八百六十五円を要した。 それに副碑もある。

大東亜戦争中、勝って来るぞと勇ましく、門出する青年男子を毎日毎日この忠魂

碑前で壮行式を挙げたものだ。 町長初め分会長、愛国婦人会および国防婦人会

の白いエプロン姿が、今でも思い出される。 各隣組各区の方々が手に手に国旗の

小旗を振りかざし、旗の波で送ったものだ。 なつかしの忠魂碑も終戦と共に軍国主

義の象徴の如く思われて、各地と共に毀(こわ)されたのである。 今は校庭に立て思

い出を語るのみである。

下長野の江森鋼一郎翁、九十歳を超えて矍鑠(かくしゃく)壮者の如くである。 往

時を追憶して一詩を賦す。

欣然奉勅帝恩酬 欣然勅を奉じ帝恩に酬(むく)ゆ

身比鴻毛殉国仇 身を鴻毛に比し国仇に殉す

成田城地校庭裏 成田城地校庭の裏

金鵄碑表照千秋 金鵄(きんし)碑表千秋を照す

8、衛生

旧幕時代は衛生思想、頗る幼稚を極めた、と云うより皆無と云った方がよい位なも

のである。 伝染病の何たるかをも弁(わきま)えず、虎列刺(コレラ)の如きもコロリと死

ぬので、コロリと云った。 これ等疾病が流行すると、行田の町では藩庁の許可を得

て天王さまを担ぎ廻ったものだ。 又空砲をドンドンと放って悪魔を退散させたもの

だ。 村々では、村境に梵天(ぼんてん)を立て悪疫の侵入を防いだのである。 梵天

とは波羅賀磨天(はらがまてん)の略であって、万物主のことである。 修験道で用い

る梵天を祭る幣束の如きもので、青竹にお札が付けてあるもの、これで人心を安堵

せしめたのである。

かかる有様だから悪疫一度流行すると死人が実に多かった。

明治十二年(1879)県下に虎列刺大流行し、人心洶々(きょうきょう)として他郷へ避

けるもの、死亡者の始末をする人すら無く、困ったものであった。 幸いに行田はさし

たることは無かった。 此に於て県では旧来の五人組の制度を襲用(しゅうよう)し、

事ある折には隣保相助の実を挙げしめ、十九年に至り町村衛生組合を組織せしめ

たのである。

明治二十八年五月県訓令を出し、町村避病院の設置を奨励した。 当時建設され

たものは、人里離れた所で実に粗末な建物で患者無き時は空家であった。 これで

は患者は捨てられる思いであったろう。 忍町では明治三十二年七月隣村長野村と

組合立で避病院を建てた。 敷地二百九十四坪、建物八十六坪である。 忍町長こ

れを管理した。

明治三十年六月県令を以て衛生組合規則改正された。 この頃衛生と云っては春

秋二季の清掃であって、警官は一戸一戸清掃の状を見て廻ったのである。

この地方は腸チフス、赤痢、疫痢(えきり)等その跡を絶たなかった。

<厚生病院等 未完>


Recommended