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思想と市民革命£®田.pdf- 2 - はじめに 皆さんの大学生活の4...

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甲南大学 マネジメント創造学科 2016 年度 卒業研究プロジェクト 指導教員 佐藤治正 思想と市民革命 11281158 森田 彩花 目 次 1. 思想と社会 2. フランス革命 3. 革命で繋がる二国 4. アメリカ独立革命
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Page 1: 思想と市民革命£®田.pdf- 2 - はじめに 皆さんの大学生活の4 年間において、一番自分を変えたものは何だろうか。私にとって、 それは思想である。「心が変われば、行動が変わる」とは有名な言葉だが、まさにその通り

甲南大学 マネジメント創造学科

2016 年度 卒業研究プロジェクト

指導教員 佐藤治正

思想と市民革命

11281158 森田 彩花

目 次 1. 思想と社会 2. フランス革命 3. 革命で繋がる二国 4. アメリカ独立革命

Page 2: 思想と市民革命£®田.pdf- 2 - はじめに 皆さんの大学生活の4 年間において、一番自分を変えたものは何だろうか。私にとって、 それは思想である。「心が変われば、行動が変わる」とは有名な言葉だが、まさにその通り

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<目次>

はじめに

1. 思想と社会

1-1. 啓蒙思想

1-2. 社会契約説

1-3. ホッブズの社会契約説

1-4. ヒュームの社会契約説

1-5. ルソーの社会契約説

2. フランス革命

2-1. フランス革命の歴史

2-2. 革命を繋ぐ人物(ラファイエット)

2-3. 人権宣言

2-4. 人権宣言に繋がるルソーの思想

2-5. 思想のホットスポット

3. 革命で繋がる二国

3-1. 独立革命を支援したフランス

3-2. 人権宣言に影響を与えたアメリカ

4. アメリカ独立革命

4-1. アメリカ独立革命の歴史

4-2. 革命のペン(ジェファソン)

4-3. 独立宣言

4-4. 独立宣言に繋がるロックの思想

おわりに

参考文献

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はじめに

皆さんの大学生活の 4 年間において、一番自分を変えたものは何だろうか。私にとって、

それは思想である。「心が変われば、行動が変わる」とは有名な言葉だが、まさにその通り

だった。思想に興味を持ってから、私はそれまでとは 180 度異なる行動をとるようになっ

た。4 年間の集大成として執筆する卒業論文では、その思想をテーマに取り上げたいと前々

から考えていた。

思想は、当初、知識人という一部の上層階級の人々だけに影響を与えていた。ところが、

18 世紀に入り広まった啓蒙思想は、市民革命に影響を与えたとされている。国家は民がつ

くるものだという思想から、市民革命は起こり、その国家を法で維持するようになった。

私のような市民にまで影響を与えることとなった啓蒙思想と、それによって引き起こされ

たとされている市民革命について学びたいと思い、このテーマを選択した。

本論文では、どんな人物が関わり合って啓蒙思想が市民革命に影響を与えたのか、また、

それはどのような影響だったのか、市民革命の代表とされるフランス革命を中心に、アメ

リカ独立革命との比較をしながら、それを追求してゆく。アメリカ独立戦争は、アメリカ

にあるイギリスの 13 植民地が支配されていたイギリス本国と戦い、アメリカ合衆国を成

立させた戦争である。戦争であると同時に、市民社会を成立させた市民革命であることか

ら、本論文では、アメリカ独立革命と表記し、フランス革命の比較対象とする。また、双

方の国で宣言が発表されるまでをそれぞれの革命と位置付け、話を展開させる。

まず 1.では、市民革命当時の社会についてイメージしてもらうために、社会に影響を与

えた思想について紹介する。2.では、フランス革命の歴史をまとめた後、人権宣言、それ

に関わった人物と思想について考察する。3.では、フランスとアメリカが、革命当時、互

いに影響を与えていたことについて述べる。 後の 4.では、2.とほとんど同様の構成で、

アメリカ独立革命について考察し、フランス革命との比較を行う。

1. 思想と社会

1.では、市民革命の話に入る前に、予備知識として、その時代の思想について理解して

もらうことを目的とする。前半は、市民革命が起きた時代がどのような社会だったのかを

思想の観点から紹介する。後半は、当時の思想の中でも、特にフランス革命に影響を与え

た 3 名の思想家の考えを時系列に沿って整理する。なお、1-1.は、西研(2010)『これが

哲学』を、1-2.から 1-5.では、重田園江(2013 年)『社会契約論‐ホッブズ、ヒューム、

ルソー、ロールズ』を参考にする。

1-1. 啓蒙思想

16 世紀のニコラウス・コペルニクス(1473 年~1543 年)の「地動説」に始まり、ヨハ

ネス・ケプラー(1571 年~1630 年)の「惑星運動の法則」、ガリレオ・ガリレイ(1564

年~1642 年)の「物体落下の法則」を経て、アイザック・ニュートン(1642 年~1727

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年)の『自然哲学の数学的原理(1687 年刊行)』に至る過程は「科学革命」1と呼ばれてい

る。それらの自然科学の発展は、それまでの自然観を根底から変革させる出来事だった。

それ以前は、地球のまわりを太陽、月、星座、惑星などが巡っている、という天動説2を

人々は信じていた。それを変えたのがニコラウス・コペルニクス(1473 年~1543 年)の

地動説3である。コペルニクスの地動説はすぐに人々に受け入れられたわけではなかった。

ところが、彼の支持者の一人、ヨハネス・ケプラー(1571 年~1630 年)が、師匠のティ

コ・ブラーエ(1546 年~1601 年)の残した膨大な観測データに基づいて、惑星の進行を

数学的な法則で表した。

同じくガリレオ・ガリレイ(1564 年~1642 年)も地動説の支持者である。彼は望遠鏡

を観察に用いて、太陽の黒点、月の山と谷、木星の四つの大きな衛星などを発見したが、

他にも、物体落下の法則を発見するという大きな業績を残している。当時は、重い物体の

方が速く地上に落ちると信じられていた。しかし、ガリレイは実際にピサの斜塔に登って

重さの異なる二つの物体を落とし、それらが同時に着地することを人々の前で証明したと

いわれている。彼はそれに数学的な法則が成り立つことまで示している。ケプラーとガリ

レイは、実験や観察によって物体の運動を数学的な法則として捉えたが、それらの法則を

根本的に支える原理を見出したのが、アイザック・ニュートン(1642 年~1727 年)であ

る。

彼は、「慣性の法則」、「作用反作用の法則」、「運動方程式」という三つの原理と「万

有引力の法則」を見つけ出した。それにより、あらゆる物体の運動が解明された。中世の

世界像では、地上と天体とは全くの別世界で、天体は神々の住む世界だと考えられていた。

ところが、ニュートンは、地上も天体も同じ物理学の法則が当てはまる空間であることを

示したのである。それは、アリストテレスの自然学と聖書から成り立っていた中世までの

自然の見方を一転させるものだった。

自然科学が著しく発展した影響を受け、人文科学も新しい動きを見せた。18 世紀の西ヨ

ーロッパ各国は、王が絶対的な権力を持つ絶対王政だった。その絶対王政を正当化してい

る現実の国家を批判したのが「啓蒙思想」である。啓蒙思想とは、人間や社会、国家の在

り方を根底から見直したものである。そもそも「啓蒙」とは、蒙(無知なこと)を啓くこ

と、つまり無知の人に対して正しい知識を教え導くという意味を持っている。英語の「啓

蒙(enlightment)」という言葉では、「光」や「明かり」を意味するのだが、こちらも暗

闇に光を投げかけるイメージがあるそうなので、日本語のそれと似た意味で使われている

と考えられる。

啓蒙思想の中でも、フランス革命に影響を与えたといわれているのが「社会契約説」で

ある。特にそれらの思想を主導した思想家として、トマス・ホッブズ(1588~1679)、ジ

1 西研(2010、133 頁)『これが哲学』 2 正確には地球中心説という。 3 太陽中心説ともいう。

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ョン・ロック(1632 年~1704 年)、デイヴィッド・ヒューム(1711~1776)、ジャン=ジ

ャック・ルソー(1712 年~1778 年)といった人たちの名前を挙げることができる。彼ら

は、国家は神が作り上げているものではなく、人々が「共存」するために作り上げた秩序

だとする考えを述べている。中世には、国王、貴族、農民といった身分に基づく社会秩序

があり、そうした身分制度は神が与えたものだとされていた。例えば、国王は農民と同じ

人間の一人が権力を獲得して王になったと考えられていたわけではない。国王は神に由来

する神聖な力を持つ特別な人だとされていた。当時の国家は、神に由来する力を持つ国王

のもとに成り立つものであって、個々人の意志によって変更できるようなものではなかっ

たのである。ホッブズやヒューム、ルソーらは、そうした権威や習慣、制度などの非合理

的なものを否定し、人間の理性を重視した考えを示した。

1-2. 社会契約説

社会契約説とは、一言で「約束だけが社会を作る」ことを示したものである。共通の社

会を持たない自由で独立した状態から、互いに他者と約束をすることで、秩序が生まれる

というものである。つまり、孤立した自然状態は、社会契約を導入することで、他者との

継続的な絆が結ばれる社会状態へと移行する。

さらに詳しく述べると、社会契約説は二つの観点から論じられている。一つ目は、社会

がどのようにしてできたのか、それを原理から考える思想である。二つ目は、社会が維持

されるために 低限必要なルールは何か、また、そのルールが正しいかを判断する際、人

間自身が持つべき基準や手続きはどうあるべきかを考える思想である。そして、そのルー

ルがどこからくるのかを考える際、それを人工物とみなす考え方の代表とされるのが社会

契約説である。

以下の表 1 は、革命に影響を与えたとされる社会契約説を提唱した著書と、フランス革

命とアメリカ独立革命の歴史を横に並べた年表である。ロックの『市民政府論』4がアメリ

カ独立宣言に、ルソーの『社会契約論』がフランス人権宣言に影響を与えたと考察する。

次の 1-3.では、社会契約説を提唱した思想家を代表して、3 名の人物の考え方を述べ、

それぞれの違いを比較してゆく。時系列に沿って、ホッブズの『リヴァイアサン(1651

年刊行)』、ヒュームの『道徳政治論集(1748 年刊行)』、ルソーの『社会契約論(1762 年

刊行)』という順番で社会契約説について考察する。ロックの『市民政府論』も代表的な社

会契約説であるが、本論文では、フランス革命とアメリカ独立革命を比較するために、次

では述べず、4-4.でアメリカ独立宣言に影響を与えた思想として紹介する。

4 『統治二論』ともいう。

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表 1 思想と市民革命の年表

(出典)重田園江(2013、98 頁)『社会契約論‐ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』、

西研(2010、141,145 頁)『これが哲学』、コトバンク「フランス革命史(年表)」<https:

//kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A

9%E5%91%BD%E5%8F%B2%28%E5%B9%B4%E8%A1%A8%29-1614679>、コトバン

ク「アメリカ独立革命史(年表)」<https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A

1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%9D%A9%E5%91%BD%

E5%8F%B2%28%E5%B9%B4%E8%A1%A8%29-1614601>

1-3. ホッブズの社会契約説

ホッブズは、イングランドの思想家である。彼自身は、社会の起源を深く掘り下げて問

い詰めただけだったのかもしれないが、もしかしたら、誰もが保護と安全を得られる政治

社会をつくろうとしていたのかもしれない。それ程、ホッブズの社会契約説では保護と安

全が前提として考えられている。

彼は社会の起源について、「自然状態」という新しい定義を作った上で説明している。

ホッブズによれば、秩序も社会もない状態を「自然状態」という。そのため、自然状態に

いる人間は、自分の身を守るために人を殺すこともある。そのように、人が生きるために

自己の判断に基づいて自分の力を好きなように使うのを「自然権」という。人が死や苦痛

を避けようとするのは自然なことであり、それは誰もが持つ権利だと彼は考えたのである。

自然状態においては、何をしても公的に咎められたり、罰を受けたりすることがないため、

ホッブズは、全ての人間が絶対的な自由と権利を持っていると主張した。そこには、法も

支配者も不在だからである。誰もが何かに制限されることなく、自分の好きなように行動

することができる。

しかし、自然状態にいる人間は、人を信用することができないので、仲間をつくれず、

思想 年 月 日 アメリカ フランスホッブズ 『リヴァイアサン』 1651 - -ロック 『市民政府論』 1689 - -ヒューム 『道徳政治論集』 1748 - -ルソー 『社会契約論』 1762 - -

1773 12 16 ボストン茶会事件1775 4 19 独立戦争開戦1776 1 15 ペイン 『コモン・センス』1776 7 4 独立宣言1781 8 30 独立戦争終戦1789 5 5 三部会の開催1789 6 20 球戯場の誓い1789 7 14 バスティーユ牢獄襲撃1789 8 26 人権宣言

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孤独である。また、常に人から侵害されることに怯えて暮らしている。お互いにそうした

日々は苦痛になってくるので、争いが起こらないルールを作ろうとする。ただ、それは全

員が守るルールでなければ意味がない。どのようなルールを作れば互いに平和に共存する

ことができ、また、どのようにすれば全員がそのルールを守るのか、彼はそれを考えた。

そこで、自分と他者に同じルールを与えることにした。そして、全員にルールを守らせる

ために、全員が自然権の一部を「共通の誰か」に制限されるようにした。ここでいう「共

通の誰か」というのが、国家のことである。例えば、人が自分を殺さないなら、自分も人

を殺さないというルールを作るとする。そのルールを全員に守らせるために、国家に自然

権の一部を譲るのである。この一度の契約で、人々が結束すると同時に、国家を成立させ

ることができる。これが彼の考えた社会の起源である。

そうして作られた社会は、 初、誰のどんな行動によって引き起こされるのだろうか。

それを考えるにあたり、次に「ホッブズ問題」と呼ばれる一つの疑問が出てくる。それは、

いつ契約が結ばれるのかということである。前述のように自然状態を野蛮な状態だとする

ならば、自然状態にいる人々は、社会にいる人々以上に平和を求めている。それにもかか

わらず、自分の身を守る術を手放すのはあまりに危険すぎる。生きることよりも社会契約

を優先させる人など、まずいないだろう。では、その危険を冒してまで、一体誰が一番初

めに契約を結ぶのだろうか。

結論から述べると、ホッブズはこの問いに答えていない。自然状態にいる人々にとって

は、相手が約束を守る保証が先にない以上、契約するか否かの選択が困難だからである。

彼の表現によると、社会契約は、それぞれの人が自分以外の一人ひとりと個別に結ぶ約束

の集まりだという。人々が相互に約束を結ぶことで、政治社会が成立される。そして、各

自が約束を結ぶのは、相手が平和に向けた努力を行う見込みがある場合のみだという。つ

まり、他者の行為選択によって自分の選択は決まるが、その他者の選択は自分の選択に依

存しているということである。

では、契約の始まりは分からないにしても、その契約によって生み出された社会は、ど

のようにして維持されるのか。前述であったように、彼は、契約当事者を二人にしており、

その二人の人間が取り結ぶ約束に注目している。約束を交わす行為から人と人との間に関

係が生まれるため、約束自体に拘束力があるとホッブズは考えていた。そして、彼は、そ

の拘束力が社会を作る原動力となり、社会を維持する基礎的な力になると考えていたので

ある。

ホッブズによると、契約とは、二人の当事者が自分の権利を互いに譲渡し合うものであ

る。互いに選択の自由があるときに、利益を得るために行い、三人以上で結ぶこともある。

その契約の中でも、彼が注目したのは「信約」である。信約とは、契約する際にどちらか

一方がその履行を先延ばしにすること、また、双方ともに先延ばしにすることである。ホ

ッブズは、信約が無効になるのは、合理的な疑いがかけられる場合のみだとした。たとえ

恐怖から信約を結んでしまった場合でも、そこには選択の自由が存在するため、それは無

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効にはならないという。

彼の社会契約説は、互いに自然権の一部を渡す信約である。そのため、どちらかの履行

が免除され、信約が無効になることはないとホッブズは主張する。何故なら、免除を宣言

する側にとって、自分の身を守る自然権を手放すことになるからである。国民同士の約束

は、国家が介入することによって守られる。一方で、国家と個人との約束は守られる保証

がないので、支配が拡大し過ぎる危険性もある。しかし、国民は自然状態に戻ることを恐

れるため、それに従うしかない。政治社会を維持するためには、国民は第三者に自然権を

渡し続けるしかないというのである。その契約がたとえ恐怖から交わされたのであったと

しても、約束が交わされた時点から、その約束自体が持つ拘束力によって、双方は自分た

ち自身の未来に取り込まれることになる。ホッブズは、約束が政治社会のはじまりである

だけでなく、それが持続するために力を与え続けているものだと考えていたのである。

1-4. ヒュームの社会契約説

自然状態にいる人の権利の一部を制限しようとしたホッブズに対し、国家の力も制限し

ようとしたのが、スコットランド出身の思想家、ヒュームである。まず彼は、「社会秩序の

はじまりを約束だとする根拠はあるのか」と、問題提起をした。彼は、社会の起源を約束

ではなく、力による支配と恐怖による服従だと考えていたのである。確かに、何らかの絶

対的な権力が人々を支配しており、人々が恐怖という感情からそれに従っていることが社

会のはじまりだという考え方は納得できることだろう。

ただし、これだけを根拠にしてホッブズの社会契約説を全面的に否定することはできな

い。もちろんヒュームは、否定するだけでなく、新たな考えを提示した。彼は、約束では

なく、別のものを社会の起源だと考えていた。それは、コンヴェンションである。ヒュー

ムによると、コンヴェンションとは、共通の利益に全員が気付くという意味である。それ

は人間が本来備える能力によって、誰にでも発見できるものだという。約束を守らせるた

めに国家は必要だが、国家そのものは約束によって生まれるのではなく、利益の感覚を通

じて形成されると彼は主張した。

約束と統治という二つの仕組みはどちらも、国家の一般利益によって生み出されるとヒ

ュームは考えていた。また、彼によると、約束とは利益を動機とするものだけを指す。そ

のため、例えば親子間や友人間での助け合いは、博愛という動機によって行われる行動な

ので約束ではないという。だからこそ、個人の商取引のみに関わる約束が、国家のような

「公」のものを何もないところから生成するというホッブズの考えを受け入れられないの

である。

では、社会は、何によって維持されるのか。ここでもヒュームは、約束が社会を維持さ

せるというホッブズの考えを否定している。約束が守られなければ、商業や貿易を安心し

て行うことができない。人が約束を守るのは、それ自体に拘束力があり、その力が社会を

維持してゆくと考えたホッブズに対して、彼は、人が約束を守るのはそうしなければ社会

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が存続できないからだと考えた。人は約束を守るためではなく、社会を存続させるために

統治に屈するという。

このように、ホッブズとヒュームの考えが大きく異なっていることには、ある一つの明

確な理由がある。彼の考えた社会契約説では、ホッブズの考えた自然状態ではなく、既に

ある程度平和な状態が前提とされているからである。これは、彼らが生きた時代背景の違

いが原因だと考えられる。宗教戦争の時代を生きたホッブズは、生命の危機という究極の

時代を終わらせたかったに違いない。それに対し、ヒュームが生きた時代は、経済と富の

時代が予感されていた。そのため、彼は所有と取引の利益が共有された価値になると考え

ていたのである。

ただ、ヒュームもホッブズ同様に、ホッブズ問題を抱えている。ある程度平和な状態が

前提とされていても、コンヴェンションを経て 初に約束を守ろうとする人はいないだろ

う。 初に約束を守っても何の利益もない上、自分に続いて相手も約束を守ってくれると

いう保証はどこにもないからである。彼もまた、ホッブズ問題に対して明確な解決策を打

ち出してはいない。しかし、人々が約束の利益に気付くことが、約束という制度が導入さ

れる 初の一歩だと主張した。そして、その利益を得て社会を維持させるために約束を守

っているというのがヒュームの考えた社会契約説である。

1-5. ルソーの社会契約説

フランスで活躍した思想家のルソーは、ホッブズの思想を受け継ぎ、「約束」を社会の

起源にとって必要不可欠なものだと考えていた。ただ大きく異なるのは、ホッブズが絶対

王政を支持しているように考えられたのに対し、彼は人民こそが主権者だと、明確に民主

主義を支持していることである。そもそも、彼らの考えは自然状態の定義からして異なる。

ルソーは、自然状態で人は孤独だと、ここまではホッブズと同じことを言っている。しか

し、それは寂しいものではなく、基本的には満ち足りたものだという。自然状態にいる人

は、自分を慈しむ心と優しい思いやりを持っている。そのため、人を羨むことも妬むこと

もなく暮らしているというのである。ところが、様々な外的事情が重なり、人々は一緒に

生活するようになり、共同体を形成する。そして、その共同体は大きく複雑なものになっ

て、あらゆる技術が導入される。この技術が導入されることと、人間の能力が生まれつき

平等でないことから、私有財産と貧富の差が生まれる。彼がこのように考えたのは、ヒュ

ームが文明の進歩を肯定的に捉えたのに対し、それを否定的に捉えていたためである。

ルソーによると、貧富の差が大きくなるにつれ、富裕層に優先的な制度が作られるとい

う。そこでは、他者への嫉妬が広がり、詐欺などの犯罪が蔓延している。そして、人間不

信や憎悪によって 後には完全な専制政治に陥るという。ところが、それは不平等の 後

の到達点であり、再び平等が訪れると彼は述べた。だが、 初の自然状態に戻るのではな

い。一度専制政治を味わった人々が当初の自然状態にいた時の感情を持てるわけがないか

らである。ルソーは、再び訪れる平等を新しい自然状態と呼んでいる。そして、その新し

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い自然状態の下に国家が生まれるが、その終わりが来るまで登場人物だけが入れ替わる歴

史が延々と繰り返されるという。彼によると、この盛者必衰の歴史は変えることのできな

い流れだという。ルソーは、それを前提に社会の起源を考え、人々の結合が生み出す一般

意志(全ての人が意志すること)5によって作られる約束が平等を生み、またそれが社会の

起源だと主張した。

では、どのようにして社会を維持させるのか。ルソーは、大きく分けて四つの条件を考

えていた。一つ目は、「契約によって作られる社会が、考え得る限り強いものである」6と

いうことだ。共同の力の全てを挙げて人々を保護することをイメージしてほしい。その力

が強ければ強い程、保護と防衛は完全なものになるのだから、政治社会は強い方が良いと

いうことである。自分の持つすべての権利とともに、自分を共同体全体に完全に譲渡する。

社会契約は、契約当事者の力と権利を合わせることで、政治共同体を作る。そのため、社

会に譲渡される力と権利が大きければ大きいほど、共同体の力は強くなる。その譲渡を全

員が行えば、 も強い共同体ができる。二つ目は、「いつの時代のどこの人々でも受容でき

る普遍性を備えていなければならない」6ということだ。三つ目は、「契約によって生まれ

る社会は、できるだけ長持ちしなければならない」6 ということだ。政治社会にもいつか

必ず終わりは来るが、うまく構成された国家であれば、他の国家よりも長くその命を保つ

ことができる。軍や警察などの力を借りて高圧的に行う国家や、全体主義の監視社会など

は、長続きする国家ではない。それは政治社会の末期状態であって、恐怖と隷従が支配す

る、崩壊の一歩手前である。不本意ながら服従させられて作られる社会よりも、自由意志

に基づいて行動する個人が、進んで自己の全面譲渡に合意して作られた社会の方が長持ち

するだろう。自分も権利と力を全面譲渡し、他の人もそうすることで、すべての人が平等

に社会からの利益を得る。それが保障されるときだけ、人は社会へ入ることに同意する。

しかし、そうするためには、平等が保障されている必要がある。それが次の条件に関係し

てくる。四つ目は、「自由になるために政治社会を作る」エラー! ブックマークが定義され

ていません。ということだ。人は自由になるために政治社会を作る。国家が与えてくれる

保護や安全のために自由を犠牲にすることなど、絶対に認められないとルソーは主張して

いた。すべての人が契約の前と後で同じように自由であること。誰にとっても等しく自由

が保障されていることが、皆が共同体への参加に納得していることに繋がり、それが共同

体の持続を生むと彼は考えていた。

2. フランス革命

2.では、フランス革命とそれに影響を与えた思想について考えを深めることを目的とす

る。2-1.はフランス革命の歴史をまとめる。2-2.で人権宣言の起草者について紹介し、どの

5 詳しくは、2-4.で述べる。 6 西研(2010、171 頁)『これが哲学』

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ような役割を果たしたのか伝える。2-3.では、リン・ハント(2011)『人権を創造する』を

参考に、人権宣言がどのようなものだったのかを述べ、2-4.でルソーの思想とその人権宣

言の内容を照らし合わせる。2-5.では思想と市民の繋がりについて紹介し、革命の原点に

戻る。

2-1. フランス革命の歴史

1789 年 7 月 14 日に起きたフランス革命は、絶対王政に不満を持っていた市民が、バス

ティーユ牢獄を襲撃したことから始まった。その襲撃後、大恐怖と呼ばれる農民蜂起がフ

ランス全土で起きた。領主の館を襲って、財貨を略奪し、借金の証文を奪い返す農民たち

の姿が各地で見られた。農民たちは、自身の飢えをしのぐことさえ困難な程、貧しい生活

を送っていたのである。

革命以前のフランスは、アンシャン・レジーム(旧制度)と呼ばれる社会だった。人々

の身分は大きく三種類に分かれていた。聖職者(祈る者)が第一身分、貴族(戦う者)が

第二身分、それ以外の都市の商工業者や職人、農民などの平民(働く者)が第三身分、と

区分されていた。第一身分と第二身分は、特権身分と呼ばれていた。彼らの人口は合わせ

て全国民のわずか 2%しかいないにもかかわらず、耕地の 40%を所有していた。また、国

の官職を独占し、免税の特権を持ち、年金も支給されていたのである7。第三身分の中でも、

都市の商工業者は第二身分の貴族程ではないが、経済的には力を持っていた。彼らはブル

ジョワとも呼ばれ、革命を起こした主体の層だったといわれている。

そんな制度の中、 も貧しかったのは、第三身分の大部分を占める農民だった。当時は、

まだ封建制や領主制が存続していたため、農民には、第一身分と第二身分に食糧を提供す

るだけでなく、借地料や封建的な諸税、十分の一税8、さらには種々の国王諸税の支払いが

強要されていたのである。

ルイ 16 世は、財政問題を解決するべく、様々な改革を試みるが、どれも失敗し、事態

をさらに深刻化させてしまった。残された解決方法は、特権身分からの税の徴収だった。

それを拒んだ特権身分たちは、ルイ 16 世に三部会の召集を要求した。三部会とは、各身

分の代表から構成された身分制議会である。フランスにかつて存在したことのある制度の

中から、代議制度に も近いものである。1789 年 5 月に開かれ、約 1200 名の代表者たち

が集まり、第一身分と第二身分はそれぞれ約 300 名、第三身分は約 600 名だった。175 年

ぶりの三部会では、まず議決方法で揉めた。免税を望んでいた第一身分と第二身分は、身

分別議決法を求めた。それに対し、第三身分の議員は、議員一人一票の投票を求めた。議

決方法について約 40 日間議論したがまとまらず、ついに第三身分は独自に国民の代議機

7 官職に応じて、年金を受け取っていた。 8 中世ヨーロッパのローマ=カトリック教会が農民から徴収した税。本来は農民が村の教

会を維持するために納めていたものであったが、次第に租税として西ヨーロッパの農民に

広く賦課されようになった。

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関を作るべきであると主張して国民議会を発足させた。

その国民議会の発足には、1789 年 1 月に刊行された『第三身分とは何か』という著書

が大きな影響を与えている。著者は、第三身分議員のエマニュエル=ジョゼフ・シエイエ

ス(1748 年~1836 年)である。彼は、アベ=シエイエスとも呼ばれていたが、アベとは

名前ではなく、僧侶を意味する言葉だ。彼は聖職者の出身ではあったが、アンシャン=レ

ジームを批判していた。シエイエスは、著書で「フランスにおける第三身分(平民)こそ

が、国民全体の代表に値する存在である」と訴えた 。国民議会の設立は、新聞やパンフレ

ットの形でパリへ、そして全国へと伝えられた。

特権身分は、国王に談判し、6 月 20 日に議場を封鎖させたが、国民議会はヴェルサイユ

宮殿の室内球戯場に集まり、憲法を制定する事と国王が国民議会を正式な議会と認めるま

で解散しない事とを誓った(球戯場の誓い)。6 月 23 日、国王は、第三身分に議場を離れ

身分別審議に応じれば、いくつかの権利を認めるという取引を申し出た。しかし、国民議

会はもはや「身分」を前提とした体制に戻ることはないとして、それを断った。さらに、

第一身分と第二身分の中には、国民議会に参加した者もいた。彼らの中には、アンシャン・

レジームが時代遅れであると考えていた者や、市民に恩を売ることで、将来市民の時代が

やってきたときに権力を握ることを狙っていた者もいた。24 日には聖職者身分の大多数が、

翌日には 50 名程の貴族身分が国民議会に参加した。事態を重く見たルイ 16 世は、不本意

ながらも国民議会を正式な議会として承認した。承認された国民議会は、7 月 9 日に「憲

法制定国民議会9」となり、憲法制定に着手し始めた。

一方、思い通りに事が進まなかったルイ 16 世は、もちろんこの事態を放ってはおかな

かった。憲法制定国民議会を武力弾圧しようとしたのである。しかし、その噂を聞きつけ

た市民によって、バスティーユ牢獄が襲撃される。バスティーユ牢獄とは、1383 年にパリ

を守る要塞として建設されたものだ。17 世紀からは政府の牢獄として使用され、多くの著

名人も収容されていた。当時収容されていたのはわずか 7 名だったが、国王の専制政治の

象徴的な存在であった。その後、それが契機となって、農民たちが貴族や大地主の館を次々

と襲撃する大恐怖が起きた。議員の多くは土地所有者であったから、この騒動は恐怖に映

った。彼らがヴェルサイユに集まっているのは憲法作成を主とした改革のためであって、

暴動を期待している者など一人もいなかった。

憲法制定国民議会は、とにかくその暴動を鎮めようという一心で、8 月 4 日に封建的特

権の廃止の宣言を採択した。それにより、領主裁判権10、賦役11、また教会の持つ十分の一

税徴収権などが廃止された。官職売買12も禁止され、公職はあらゆる国民に解放され、租

9 「立憲議会」ともいう。 10 封建領主が荘園内のさまざまな問題を裁定する裁判を行う権利を持っていること。 11 農民が支払う生産物地代や労働地代などのいわゆる年貢。 12 当時のフランスでは、職と地位を購入することができた。17 世紀初頭以降、その官職

は相続や売却が認められており、家産の一部となっていた。

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税の平等負担が宣言された。そして、憲法制定国民議会は同月 26 日に、フランスの政治

家、ラファイエット(1757 年~1834 年)らが起草した「フランス人権宣言13」を発表し

た。ところが、ルイ 16 世はそれを認めようとせず、憲法制定国民議会が行おうとする改

革にも反対した。そこで、10 月 5 日、パリの市民は再び立ち上がり、国王のいるヴェルサ

イユ宮殿まで押しかけた(ヴェルサイユ行進)。それにより、ようやく人権宣言が認められ

た。

2-2. 革命を繋ぐ人物(ラファイエット)

人権宣言の起草者の中心人物であるラファイエットは、「両大陸の英雄」と呼ばれている。

それは、彼がアメリカとフランス、双方の国の市民革命で活躍した人物だったからである。

ラファイエットは、ルイ 16 世の側近で強大な権力を誇る家柄の一員であり、いわゆる貴

族出身だった。しかし、彼はアメリカ独立革命に理解を示し、ルイ 16 世の命令に反して

戦争に参加した。彼の父は彼が 2 歳の時、七年戦争14で戦死しており、それに対する復讐

という反英感情があったともいわれている。フランスを離れた彼は、スペインのパサヘス

港から出航し、アメリカに着いた後はジョージ・ワシントン(1732 年~1799 年)15の軍

に合流した。ワシントンの友人となり、息子のように大切にされたラファイエットは、ワ

シントンの参謀を務め、アメリカの独立を決定的にしたヨークタウンの戦いで特に活躍し、

英雄となった。

アメリカ独立戦争で戦ったラファイエットは、自由主義精神の感化を受けており、フラ

ンスの絶対王政を立憲君主制に変革すべきだという構想を持っていた。そのため、1789

年 5 月の三部会では、第二身分でありながら第三身分の立場で、議会政治の実現に向けて

行動した。ラファイエットのような家柄であれば、三部会には第二身分で出られるのに、

彼はそうはしなかった。彼の思想がそうさせたのではないだろうか。同年 7 月 14 日のバ

スティーユ襲撃の翌日、ラファイエットは、国王の意向に反して、パリの秩序維持を任務

とする国民衛兵の司令官への任命を願い出る。市民からの人気も高かった彼は、パリ市長

に任命される。青と白と赤を組み合わせて、三色旗を考案し、自由の青、平等の白、博愛

の赤、という意味も付けた。それは、翌年の 1790 年よりフランスの国旗となり、革命の

旗となっていった。

2-3. 人権宣言

フランス人権宣言は、個人の権利の保護と新しい国家の在り方を示したものである。近

13 正式には「フランスにおける人間および市民の権利に関する宣言」という。 14 プロイセンとオーストリアの対立に、イギリスやフランス、ロシアなどが加わった 1756年~1763 年に勃発した戦争。イギリスはプロイセンに、フランスはオーストリアに支援し

た。 15 アメリカ独立戦争の指導者であり、アメリカ合衆国初代大統領。

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代市民社会の基本原理を確立したこの宣言は、各国憲法や資本主義経済の発展に大きく貢

献し、日本でも約 100 年後の明治時代の自由民権運動の原動力となった。また、驚くこと

に、1 世紀半という時を経て、1948 年に国際連合によって採択された世界人権宣言は、人

権宣言とほとんど同じ内容である。

国民議会は、人権宣言を起草するにあたり、提案された 24 カ条のうち、修正された 17

カ条に同意した。彼らは、第一条において、「あらゆる人間が自由かつ権利において平等な

ものとして生まれ、そう在り続ける」16 と宣言した。第二条の「人間の生得の、譲渡しえ

ない神聖な権利」16 の中には、自由、所有権、安全、及び圧制への抵抗が含まれている。

第四条では、第二条のそれらの権利が「法において制限される」16 と述べている。第六条

で、「あらゆる市民は、誰にとっても同一であるべき法の制定に参加すること」16を明示し、

第十三条と第十四条では、「支払う能力に応じて平等に分担されるべき課税に同意する権利

を持っている」16 と述べている。加えて、第七条と第八条、第九条では、「宣言が恣意的命

令、不必要な処罰、法律上の罪の推定、あるいは政府による不必要な財産の占有」16 を禁

じた。第十条で「いかなる人も、その意見のゆえに、たとえそれが宗教上のものであって

も、脅かされてはならない」1616 と強調している一方で、第十一条では、「出版の自由」16

を主張している。 後に、 も重要なのが、第三条と第十五条で「主権は国民だけにあり、

社会はあらゆる役人に説明を求める権利を持っている」16 と宣言したことだ。

彼らは、それまでのフランスの伝統や慣習を受け継がなかった。フランス人は人権につ

いて理性的に考えたのである。国民議会を設立した後、議員たちは人権宣言が必要かどう

か、人権宣言は憲法の冒頭に置くべきか、そしてそれは市民の義務の宣言を伴うべきか、

といった問題について議論していた。もし王権を少し修復するだけで良いのであれば、人

権宣言が必要になることはなかった。しかし、彼らは政府を再構築しなければならないと

考え、既存の権力との決別を図るための一つの方法として、この人権宣言を起草したので

ある。

2-4. 人権宣言に繋がるルソーの思想

人権宣言は、主にルソーの『社会契約説(1762 年刊行)』から影響を受けたものだとさ

れている。人権宣言に影響を与えた彼の思想には、大きく分けて三つの特徴がある。

一つ目は、「自然状態の人間は自由で平等であり、社会や国家は自由と平等を究極の価

値として組織されないといけない」17というものだ。社会において貧富の差ができるのは、

人間が平等に扱われていないからだとルソーは考えていた。彼は、人間は生まれつき平等

に扱われるべき存在だと述べ、それを守るために国家が必要だと主張した。絶対王政のよ

うに、神に由来する権利や法をルソーは一切認めなかった。したがって、国家は人間の本

16 リン・ハント(2011、136 頁)『人権を創造する』 17 働きアリ「social studies 人権と憲法(2) 人権思想 ロック・モンテスキュー・ル

ソー」<http://blog.livedoor.jp/aritouch/archives/3126400.html>

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来持つべき自由と平等という、基本的人権を守るために作られなければならないとルソー

考えていたのである。

二つ目は、「社会や国家は人間全員の意志、契約によって形成されたものであるから、

主権は君主ではなくて国民全体に属する」17 というものだ。これは、国民主権について述

べたものである。人権を守るために、人々は契約をして国家を作った。そのため、社会契

約に同意した全ての人が主権者であると同時に、国家に従う人臣だとルソーは考えた。『社

会契約論』の冒頭の言葉、「主権は人民にあり、政府は権力を委任された機関に過ぎない」

18にあるように、統治する者と統治される者の同一性を認めているのである。この場合、

契約に同意した全ての人は、その時点から皆同じ共同体に属し、その自分たちが作った国

家の指示に従わなければならないということになる。果たしてそれは、一つ目で述べた基

本的人権である自由と平等を守れるのだろうか。ルソーによると、人臣は主権者となるが、

その主権者の命令に従うことは自分たち自身の意志に従うことと等しい意味を持つという。

つまり、自分が集団の一員として決めたルールに自発的に従っている以上、人々は自由か

つ自律的だという。それが平等かどうかについては、次の特徴と合わせて確認できるので、

続けて三つ目を見てみよう。

三つ目は、「国民全員の政治参加で国民全員の総意を政治に反映させるべき」17というも

のだ。これは直接民主制について述べたものである。国民全員の総意とは、一般意志のこ

とである。一般意志とは、各人の意志であって、「全ての人が意志する」ことを指している。

そして、その人臣自身が打ち立てた一般意志のもとで法が作られるので、すべての人にと

って平等なものだとルソーは主張している。ところが、「全ての人が意志する」など到底あ

り得ないことではないだろうか。いかなる話し合いであっても、全員の意見が一致するこ

となんて滅多にないことだ。しかし、ここで注目してほしいのが、ルソーは、全員の意見

を一致させたものに従えといっているわけではないということだ。普段話し合いを行う時

のことを思い出してほしい。そこでは、議題に対して反対する人も「それが本当に必要な

ことかどうか」を考えて意見を述べているだろう。それと同様に、一般意志とは、「本当に

皆がそれを希望するかどうか」という視点に立って考えようという理念のようなものなの

である。

以上のことから、ルソーの思想では、社会の構成要素の基本は自由で平等な個人である

ことが明示されていたことが分かる。ラファイエットを含む国民議会の議員たちが、ルソ

ーと同じく、国民主権でありながら自由と平等を前提とした社会の実現を目指していたこ

とは確かだろう。

2-5. 思想のホットスポット

18 ジャンジャック・ルソー「ジャン=ジャック・ルソー」<http://tamutamu2011.kuronowish.com/ruso.htm>

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ルソーが人権宣言の起草者たちに大きな影響を与えた思想家だということが分かった

かと思う。ただ、それだけではないかもしれない。もしかすると、フランス革命を起こし

た市民にも広く影響を与えていたのかもしれないのである。ところが、彼は革命が起きる

約 10 年前に既に亡くなっている。彼の思想はどのようにして市民に影響を与えたのだろ

うか。

そもそも、ルソーの名前を有名にしたのは、『学問芸術論』の出版がきっかけだとされ

ている。パリの南東方ブルゴーニュの中心都市ディジョンのアカデミー懸賞論文募集に入

賞した著作だ。その後、彼は『社会契約論』を執筆する。同書はフランス革命の約 30 年

前に発刊されるが、禁書処分を受けた。パリだけでなくスイスのジュネーブなどでも、社

会の秩序を乱し、キリスト教の教えを破壊するという理由で禁書処分とされた。その後、

いつ禁書処分が解かれたのかは分からない。しかし、18 世紀のパリでは、人と人、人と情

報が出会う新しい場が生まれていた。

ブルジョワジーたちは、新たな社交関係を求めて、様々なサークルを作り始めた。それ

らには、それまでのコミュニティーと違った特徴があった。例えば、入会する際に、個人

の職能や身分によって排除されない。基本的にサークルの構成員は平等の立場であり、会

長や議長がおかれても、それはあくまで役職上のことである。また、彼らは団体を組織し

たり加入したりする際に、具体的な動機を持ってはいなかった。集うこと事態を目的とし

ていたのである。

主に「サロン」と「カフェ」の二種類のサークルがあり、それらの場所で啓蒙思想は広

められていた。サロンとは、上流階級の間で形成されたもので、貴族の館の客間に人々が

集まり、会話を楽しむ場である。18 世紀以前に女性が公的な場で活躍する機会はほとんど

なかったが、そこでは例外的に女主人が客をもてなし、その会合を取り仕切った。また、

サロンは、王権の公式な許可を得ずとも、有力な人物が出入りできる場だった。

サロン文化が本格的に開花するのは、1715 年、ルイ 14 世の死に伴い、宮廷がパリに移

動してからである。1722 年には宮廷が再びヴェルサイユに戻ったが、貴族たちはパリに滞

在し、自由な会話を楽しむようになる。参加した人々は、貴族のほかに政府要人や作家、

芸術家、18 世紀になると学者たちが多く招待された。そのため、会話は哲学、数学、経済

学、などの 新の知見であり、サロンでの名声は参加者の書簡によって国内外に伝えられ

た。ヴォルテール(1694 年~1778 年)19やルソー、ドゥニ・ディドロ(1713 年~1784

年)やジャン・ル・ロン・ダランベール(1717 年~1783 年)といった人物たちもサロン

で認められ、多くの人々に知られていったのである。『百科全書』20の刊行は、こうしたサ

ロンの後押しがなければ実現しなかった。

19 文学者であり、啓蒙思想家。啓蒙専制君主に大きな影響を与えた。 20 ディドロとダランベールが著作編集にあたった、フランス啓蒙思想を代表する書物。ヴ

ォルテールとルソーも各項目の執筆にあたった。1751 年から 1772 年までに全 28 巻が刊

行された。

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一方、カフェとは、安いお金で誰でも入ることができ、さまざまな噂話を聞いたりする

場所のことだ。パリにカフェが登場したのは 1672 年のことである。アラビアからもたら

されたコーヒーを飲む場所として生まれ、やがて社交の場として発展していったのである。

1788 年にはパリのカフェの数は 1800 店以上もあったという。カフェには、ヴォルテール

やディドロなどの思想家たち、やがて革命の指導者となる多くの若者たちが集っていた。

また、ブルジョワジーたちの新しいサークルが生まれていく中で、同時に出版物の隆盛

が見受けられた。18 世紀、都市住民は出版物を通して、様々な情報を得るようになってい

た。当時、男性の識字率は全国平均 50%弱だったが、都市部の貴族と第三身分上層部では、

既に 17 世紀に約 100%になっていた。書籍は高価なものだったが、それを補う貸本屋や図

書館閲覧室という有料の図書館が登場してきた。また、日刊紙21を含む定期刊行物が登場

し、人々に日々の情報を提供した。新聞や雑誌などの新たなメディアによって情報を得る

ことができるようになったため、カフェは政治や経済についての議論を行う場となってい

った。実際にルソーの『社会契約論』が市民にどれ程知られていたのかは分からない。し

かし、新しく生まれた社交の場は、啓蒙思想の基盤となり、フランス革命の火種を作った

場所だったと考えられるのではないだろうか。

3. 革命で繋がる二国

3.では、同時期に革命を起こしたフランスとアメリカ、その二国間の当時の関わりにつ

いて触れ、革命の裏側について知ることを目的とする。3-1.でアメリカ独立革命を支援し

たフランスについて述べ、3-2.では、反対にアメリカがフランス革命に与えた影響につい

て、リン・ハント(2011)『人権を創造する』を参考に述べる。

3-1. 独立革命を支援したフランス

歴史的には、フランス革命より前にアメリカ独立革命が起きている。ところが、実はア

メリカ独立革命が実現したのは、フランスからのある支援があったから起きたと言っても

過言ではない。もし、その支援がなければ、アメリカの歴史は現在とは別の形のものだっ

たのかもしれない。

フランスは、革命が起きる 1789 年以前から、巨額の赤字を慢性的に抱えていた。その

も大きな原因は、戦争による軍事費用の増大だった。当時の国王ルイ 16 世は、1775 年

に始まるアメリカ独立戦争において、植民地側の支援を積極的に行っていた。植民地側の

敵、イギリスに対して七年戦争の報復をする意図があって行っていたことだったが、皮肉

にもそれは、ルイ 16 世が民主主義の国を作るための戦争の支援をしていたということに

なる。

フランスが独立戦争に参戦するのは、1778 年の仏米同盟条約が調印されてからだ。仏米

21 個人で購入されるだけでなく、カフェにも置かれていた。

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同盟条約とは、フランスとアメリカの防衛同盟の条約であり、イギリス軍に攻撃された場

合に互いの軍事的な支援を無期限に約束したものである。その条約に調印したのが、ルイ

16 世であり、その仲介を行ったのがベンジャミン・フランクリン(1706 年~1790 年)と

いうアメリカの政治家である。彼は、イギリスにアメリカの独立を承認させる 1783 年の

パリ条約まで外交交渉を担った人物で、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられて

いる。

3-2. 人権宣言に影響を与えたアメリカ

反対に、アメリカもフランスに影響を与えている。人権宣言の起草者の中心人物である

ラファイエットは、三部会の招集前から、既に人権宣言を発表する準備を水面下で進めて

いた。ラファイエットは、アメリカ独立宣言の初稿執筆者であるトーマス・ジェファソン

(1743 年~1826 年)と友人であり、緊密に相談をしていた。当時、ジェファソンはフラ

ンスに滞在しており、バスティーユ牢獄の襲撃を目撃している。フランスは政府を再構築

する必要があり、そのために権利の宣言が必要であると、国民議会の議員たちに助言した

のは彼である。憲法制定国民議会が設立されて 2 日後の 7 月 11 日、ジェファソンはアメ

リカへ移住したイギリス人の思想家、トマス・ペイン(1737 年~1809 年)に手紙を書い

ている。彼は、国民議会の議員たちが旧政府を打倒し、基礎から政府を建設しはじめてい

ること、そして、その 初の仕事がフランス人権宣言を起草することだと彼らが考えてい

ることを報告したのである。

そして、「人間の権利」という言葉の普及には、このペインが深く携わっている。彼とエ

ドマンド・バーク(1729 年~1797 年)は、パンフレットや著作を通して、論争を繰り広

げていた。1791 年、イギリスでのペインの友人であったバークが議会でフランス革命を厳

しく非難し、さらにその趣旨を『フランス革命の省察』と題して出版した。それを知った

ペインは、イギリスに戻ってバークに反論し、フランス革命を擁護する『人間の権利』を

発表する。結果として、「権利」と言う用語の使用はフランス革命以後、劇的に増加した。

それは「権利」という用語を用いた英語のタイトル数から、容易に見出すことができる。

オランダやドイツでも同様のことが起こった。したがって、やや皮肉なことに、英語を用

いる思想家の論争によって、フランス語の「人間の権利」という言葉は国際的に知られる

ようになったのである。

4. アメリカ独立革命

4.では、アメリカ独立革命とそれに影響を与えた思想について考えを深めることを目的

とする。4-1.から 4-4.まで、フランス革命について考察した 2-1.から 2-4.までと同様の構

成で進め、双方の宣言とそれに影響を与えた思想との比較を行う。なお、4-2.と 4-3.では、

西川秀和(2014)『トマス・ジェファソン伝記事典』を参考にする。

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4-1. アメリカ独立革命の歴史

アメリカ独立戦争は、イギリス軍が独立軍の武器を没収しようとして起きた 1775 年の

レキシントンの戦いから始まった。そもそものきっかけは、1773 年に起きたボストン茶会

事件である。植民地の市民は、税の優遇を受ける東インド会社の船を襲撃し、積荷の茶を

海に捨てたのである。

アメリカ合衆国の起源となる北米植民地は、1607 年にイギリス東インド会社が建設した

ヴァージニア植民地に始まる。1619 年、ヴァージニアに 初の植民地議会が設けられるな

ど、当時北米植民地は自治的な政治体制を発展させていた。1620 年には、「ピルグリム・

ファーザーズ」と呼ばれる清教徒の一団が、メイフラワー号でアメリカ大陸の東海岸に渡

った。17 世紀のイギリスでは、前世紀からの宗教上の対立が続いていた。彼らは、信仰の

自由を求めて渡米し、そこにプリマス植民地を建設した。慣れない厳しい寒さだったこと

もあり、彼ら入植民たちの半数は 初に過ごした冬に亡くなったが、後に先住民たちに助

けられ、作物を収穫できるようになる。今日のアメリカで、11 月の第 4 木曜日は「感謝祭」

というアメリカの祝日だが、それは彼らが初めての収穫を神に感謝したことから始まった

ものである。以後も移民が続き、1732 年までに北米東岸に 13 の植民地が成立した。

18 世紀、フランスとの植民地争奪戦を繰り返したイギリス政府は、戦費と植民地統治の

費用を賄うため、植民地に対する課税を強化する方針を打ち出した。植民地の市民は植民

地の防衛とイギリス帝国全体の繁栄のために、相応の税を支払うべきだと主張したのであ

る。そして、1764 年に輸入砂糖に対する関税、翌年の 1765 年には印紙に対する関税の制

定を行った。印紙税法とは、新聞・やパンフレットなどの出版物、法律上有効なあらゆる

証書などに印紙を貼ることを義務付けるものであった。植民地の行政や歳入の調達方法は、

それまで植民地議会の協議によって決定されていたにもかかわらず、それらの法律は、イ

ギリスによって一方的に制定された。植民地の市民はそれに反発した。植民地の市民はイ

ギリス議会に代表を送っていないため、イギリス政府は植民地に課税する権利を持たない

という理論から、「代表なくして課税なし」22との主張が唱えられた。そして、植民地では、

抗議行動やイギリス製品の不買運動、暴動などが起こった。その結果、9 つの植民地の代

表が印紙税法会議に出席してイギリスに抗議し、その二つの法律は撤回された。

ところが、イギリス政府は新たな方針を打ち出した。1767 年に植民地へのペンキや紙、

ガラス、お茶などの輸入に対し、関税を課したのである(タウンゼンド諸法)。それに対し、

植民地の政治家たちが市民に、植民地側が代議員を送っていない本国議会が勝手に決めた

税を支払う必要はないと訴えた。イギリス政府は再度方針を改め、お茶以外の三品目に対

する関税を廃止した。しかし、その頃にはもう課税の是非ではなく、イギリス議会の立法

権は植民地にまで及ぶのか否かという議論にまで発展していた。植民地のいたるところで

22 1765 年 5 月 29 日に行われたヴァージニア植民地議会で、印紙法に反対していたパトリ

ック・ヘンリー(1736 年~1799 年)が主張したこと。

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抗議の声があがっており、その中心となったのがマサチューセッツだ。そして 1773 年、

ボストン茶会事件が起きた。

それに対する報復として、イギリス政府はボストン港を封鎖し、さらに強圧的諸条令を

制定して植民地側を屈服させようとした。反発した植民地側は、再度イギリス製品の不買

運動などに立ち上がった。1774 年 9 月、アメリカ植民地の代表がフィラデルフィアに集

まり、第一回大陸会議が開かれた。大陸会議とは、各植民地代表による会議である。イギ

リスからの高圧的な植民地経営に対して、北アメリカ 13 州の自治意識が高まったことに

より、1774 年から開催されていた。13 植民地の代表が集まり、イギリスとの対立は決定

的となった。イギリスとの通商を断つことが決定し、既存の法律の大半を廃止することが

要求されたのである。

翌年 4 月には、イギリス駐屯軍が植民地軍から武器を押収するためにレキシントンに到

着するが、植民地の民兵との間で武力衝突が起こった。同年 5 月にはフィラデルフィアで

第 2 回大陸会議が招集され、ワシントンを司令官として独立戦争を開始した。ワシントン

率いる植民地軍には植民地の市民が民兵として参加し、急遽ボストンの救援に向かい、バ

ンカーヒルの戦いで衝突した。民兵はよく戦ったが、組織的な戦いができず、また弾薬が

不足したため押されるようになった。各地で起こった植民地軍とイギリス軍の戦いも、次

第にイギリス軍が優勢となっていった。この時点では、植民地の人々の意見は、イギリス

から独立するか、あるいは和解するか結論を迷っていた。

ところが、1776 年 1 月に刊行されたペインの『コモン・センス』という政治パンフレ

ットは、独立の必要を訴えて、多くの民兵に自信と勇気を与えた。ペインは、フランクリ

ンとの出会いがきっかけでイギリスから後のアメリカへ移住した思想家である。1774 年、

当時アメリカの科学者として知られていたフランクリンはロンドンに来ていた。彼のもと

を訪ねたペインは、彼から紹介状をもらい、後のアメリカに旅立つ。ペインが独立前夜に

アメリカに渡って書いた『コモン・センス』は、3 カ月で 12 万部が売れてベストセラーと

なった。「イギリスからの独立」という戦いの目的を明らかにしたそれは、ワシントンやジ

ェファソンなど大陸会議の指導者たちにも読まれ、アメリカ独立宣言の作成にも影響を与

えている。その内容は、イギリスからの独立こそが植民地人にとっての利益であるという、

まさに新たなコモン・センス(常識)を形成するものであった。ペインは、アメリカが当

時のイギリス国王であるジョージ 3 世の臣民であろうとする限り、自由を得ることはでき

ないと説いた。専制者ジョージ 3 世の奴隷となるか、独立するか、二者択一だといい、ア

メリカは、「独立」という選択肢をとった場合のみ自由になれると主張した。また、独立し

てイギリスをはじめとする諸外国と対等な貿易を行うことが、アメリカの利益になるとも

述べている。ペインは、イギリスがアメリカを支配することを、不自然で不合理なことで

あると述べている。まるで小さな衛星が大きな惑星を支配するようなものだと例え、その

関係性は一般的な自然の秩序に反しているので、両国は異なった組織に属すべきだと説い

た。つまり、アメリカの独立が必然であることを説明したのである。

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そして、1776 年 7 月 4 日の大陸会議では、ジェファソンらが起草した「アメリカ独立

宣言」が発表された。この宣言には、ロックの思想が反映されており、その人民主権の理

念は、独立後に制定されたアメリカ合衆国憲法にも継承されている。宣言を発表した後も

戦争は続いていたが、1778 年 2 月にはルイ 16 世が正式にフランスの参戦を宣言した。そ

れにより、この戦争はヨーロッパでも英仏間の戦争に拡大した。さらに 1779 年にはスペ

インが、1780 年にはオランダが同じく植民地軍に参戦し、ロシアのエカチェリーナ 2 世

も武装中立同盟を掲げた。それに続き、スウェーデンやデンマーク、プロイセン、ポルト

ガルも、中立を宣言した。それは、実質的にアメリカを応援することになり、独立を認め

ることを意味している。1781 年、ヨークタウンでイギリス軍が、陸上の植民地軍とフラン

ス艦隊によって包囲されたことにより、植民地側が勝利した。そして、1783 年 9 月のパ

リ条約で、イギリスが植民地側の独立を正式に承認し、アメリカ合衆国が誕生した。

4-2. 革命のペン(ジェファソン)

ジェファソンは、ヴァージニア植民地代表として、1775 年に開催された第二回大陸会議

に参加し、その翌年に独立宣言を起草した。その後は、ワシントン政権で国務長官を務め、

ジョン・アダムズ政権で副大統領を務めた。そして、1801 年には第 3 代大統領に就任し

た。1803 年、彼は大統領として、フランス領ルイジアナを購入し、国土を約 2 倍に広げ

た。

そんなジェファソンは大学で、ジョージ・ウィス(1726 年~1806 年)という学者から

多大な影響を受けている。ウィスは、独立宣言の署名者の 1 人でもある。彼は 2 年間大学

に通った後、法律家である彼の下で、パトリック・ヘンリー(1736 年~1799 年)、後の第

4 代アメリカ合衆国大統領であるジェームズ・マディソン(1751 年~1836 年)、後のアメ

リカ合衆国の第 4 代連邦 高裁判所長官でもあるジョン・マーシャル(1755 年~1835 年)

と共に法律を学んだ。

その後、ジェファソンは 1767 年から独立戦争が勃発するまで、弁護士業に務めていた。

1770 年に扱った訴訟に関して作成した書類の中で、彼は「自然法の下で、すべての人々は

生まれながらにして自由である」23と、この時点で既に独立宣言を思わせる文章を書いて

いる。他にも、同じ年の別の裁判では「すべて人間は平等につくられている」24という言

葉を使っている。

また、1774 年 8 月に開催されたヴァージニア革命協議会25に体調不良で出席できなかっ

たジェファソンは、議長のペイトン・ランドルフ(1721 年~1775 年)と、共に法律を学

んだヘンリーに「イギリス領アメリカの諸権利の概要」を 1 冊ずつ送っている。その中で

彼は、イギリスが植民地に対していかなる権限も持たないことを訴えている。世界中の国々

23 西川秀和(2014、10 頁)『トマス・ジェファソン伝記事典』 24 西川秀和(2014、11 頁)『トマス・ジェファソン伝記事典』 25 植民地議会議員の集会。

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と通商を行うのは植民地の市民の自然権である。そのため、イギリスがその権利を侵害す

るようなことや、植民地に対する課税を行うことはできないと主張している。しかし、こ

の時点ではイギリスから分離することは望んでいなかったらしく、「独立」という言葉は使

われていない。

ところが、その後彼はある人物の影響を受けて、イギリスからの「独立」をほのめかす

文言を書いている。「我に自由を与えよ、然らずんば死を」という有名な演説をヘンリーが

行ったのは、1775 年 3 月のことだ。それを傍聴していたジェファソンは、ヴァージニア

植民地代表に任命された同年 6 月に、同じ内容のことを訴えている。ジョン・ディキンソ

ン(1732 年~1808 年)と共に「武力抵抗の必要な理由の宣言」の起草を命じられた彼は、

「我々は一心に奴隷として生きるのであればむしろ自由と死すことを決意した」26という

文言が含まれた起草をしたのである。結果的には、あまりに強烈すぎる表現だったことか

ら、「武力抵抗の必要な理由の宣言」には採択されなかったが、彼はヘンリーの演説から影

響を受けたことだろう。

そして、翌年 6 月 11 日、大陸会議は、優れた文才と評判だった彼を独立宣言の起草委

員会の一員に選んだ。27「革命の剣」と称されたジョージ・ワシントン(1732 年~1799

年)、「革命の舌」と称されたパトリック・ヘンリー(1736 年~1799 年)と並び、ジェフ

ァソンは「革命のペン」と称されている。

4-3. 独立宣言

自由の女神が抱えているのがアメリカ独立宣言であることは有名な話だが、その内容に

ついてはあまり詳しく知らない人も少なくないのではないだろうか。独立宣言は大きく分

けて三つの内容で構成されている。 初の部分では「社会契約説を論拠に独立の正当性を

主張」28し、中間では「イギリス国王ジョージ 3 世の殖民地に対する悪政を批判」28 し、

後の部分で「イギリス国王への忠誠の拒絶と独立」28を宣言している。

その宣言には、ロックの思想が反映されており、それはジェファソンがロックの信奉者

だったことが一つの大きな理由だといわれている。ところが、ヴァージニア権利宣言の「す

べての者は等しく自由で独立して生まれ、固有の自然権を持っている」29という部分と酷

似していることがしばしば指摘されている。他にも、1774 年に発行されたジェームズ・ウ

ィルソン(1742 年~1798 年)のパンフレットにも「すべての者は本質的に自由であり平

等である。何人も同意なく他人に対して権限を振るう権利を持たない。全ての合法的な政

26 西川秀和(2014、14 頁)『トマス・ジェファソン伝記事典』 27 起草委員会のメンバーには、ジェファソンの他にも、フランクリン、ジョン・アダムズ

(1735 年~1826 年)、ロジャー・シャーマン(1721 年~1793 年)、ロバート・リヴィン

グストン(1746 年~1813 年)がいる。 28 世界史の窓「アメリカ独立宣言」<

http://www.y-history.net/appendix/wh1102-025.html> 29 西川秀和(2014、16 頁)『トマス・ジェファソン伝記事典』

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府は従う者の同意に基づく」29 という独立宣言の内容と似た文言がある。そうした類似性

があるのは、独立宣言の目的から考えると、当然のことだった。ジェファソンの手紙(1825

年 5 月 8 日付)29によると、独立宣言の目的は、それまで考えられたことのないような新

しい原理や新しい論拠を見つけ出すことではなく、独立の問題に対する共通認識をできる

だけ分かりやすく確実に、同意を得られるように人々に示すことだという。彼は、不正を

正すために武力に訴えざるを得なくなった時、世論に訴えることが彼らの行いを正当化す

るために適切なことだと考えていたのである。

起草委員会では、主にアダムズとフランクリンによる推敲が行われ、さらに大陸会議も

修正を行った。「全体の約 4 分の 1 にあたる 630 語が削除され、一方で 146 語が挿入され

た」29という。削除されたのは、イギリスとの決別を強く示した文章である。植民地側は、

イギリス人と対立していながらも、彼らの気分を害さないように配慮していたという。そ

れは、イギリスには関係を継続する価値がある友人がいるという気弱な考えをまだ多くの

人々が心に浮かべていたからだと、ジェファソンは述べている。

4-4. 独立宣言に繋がるロックの思想

ロックは、イギリスの思想家である。独立宣言は、主に彼の『市民政府論(1689 年刊行)』

の社会契約説を反映させ、基本的人権を守るために、イギリスからの圧政に対する革命権

を認めたものである。独立宣言に影響を与えたロックの思想には、大きく分けて三つの特

徴がある。それを明確に捉えてもらうために、以下では、先に刊行されたホッブズの『リ

ヴァイアサン(1651 年刊行)』の社会契約説との比較を行いながら、考察する。

特徴の一つ目は、「万人は平等につくられ、また、生命、自由および幸福追求を含む不

可譲の権利を、創造主から与えられている」30というものだ。ロックは、自然権の発想に

よって基本的人権を説いている。彼は、ホッブズと自然権の捉え方が全く別である。ホッ

ブズが平和を実現するために国家が必要だと考えたのに対し、彼は「神の意志」を守るた

めに国家が必要だと考えた。神は人間を創造したというのは、聞いたことがあるだろう。

ただ、ロック(2011)によると、神は人間が共同体を作らなければならないようにしたと

いう。人権は、神によって与えられており、その人権を守るために国家を作るべきだとロ

ックは考えていたのである。この考えは、人権は人間に生まれつき備わっているというル

ソーの考えとも少し異なるものである。

二つ目は、「これらの権利を保全するためにこそ政府が設立されるのであり、政府の正

当なる権力は統治される者の同意にその根拠を有する」30 というものだ。これは、国家を

設立する目的が基本的人権を守ることだと明示している。次の特徴と合わせて見た方がこ

の意味を理解できるので、続けて三つ目を見てみよう。

三つ目は、「どんな形の政府にせよ、いやしくも政府がこの目的を破壊するようになれ

30 Y-History 教材工房「世界史の窓」<http://www.y-history.net/>

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ば、かくのごとき政府を変え、またはそれを廃止して、人民の安全と幸福とをもっともよ

く実現すると思われる原理に基礎を置く‥‥新政府を樹立することは、人民の権利である」

30 というものだ。これは、二つ目で述べた国家に対する抵抗権と革命権を認めたものであ

る。ロックによると、人々は国家に統治を委託するが、その国家が基本的人権を守らない

場合は、国家から統治権を返還させたり、主権者の交代を求めたりすることができるとい

う。そして、それを人々が持つ当然の権利だと彼は主張した。ホッブズもロックも、国家

が人々の委託によって設立しているという考えは同じだが、その結論は大きく異なる。ホ

ッブズは、人々が契約によって選んだ「一人の個人ないしは合議体」31に対して絶対的な

権力を与えている。その主権者が定めた法や政策が不都合なものであったとしても、その

主権者を交代させることはできない。これは、ホッブズが国を上手く統治できずに内乱が

起きることを恐れていたためだという。全ての判断を主権者に委ねたホッブズと異なり、

ロックはあくまで一人ひとりの個人の判断を重視したのである。

ロックの考えに沿って三つの特徴をまとめると、以下のようになる。人間は生まれつき

社会的存在であるが、自然状態では、自然権を制限する法的な制限は存在しない。市民社

会は「契約」を必要とするが、それはホッブズの社会契約説のように、社会を作るためで

はない。社会は神が創造した人間に帰属するため、 初から既に存在するとロックは考え

ていた。社会を作るためではなく、各人が行政権を国家に譲渡するために契約を行うので

ある。それにより各人は、「市民」という地位を得ることになる。一方、国家は、神から与

えられた人権を守る場合にのみ認められる存在である。つまり、人々の自然権は、市民と

いう新たな地位を通じて、人権として保持される。そのため、その権利を守らない、そも

そもの目的を果たさない国家の行為は、暴政とみなされる。暴政が行われた場合、人々は

神から与えられた人権を守るために、国家に対する抵抗権や革命権を行使することができ

る。

ロックの思想からも分かるように、独立宣言では、人権は神が与えたものとして考えら

れていた。ロックは国家を、民のために必要なものではなく、神から与えられた人権を守

るために必要なものとして考えていた。一方で、人権宣言は国家を民のために必要なもの

として捉えている。ただ、独立宣言と人権宣言には共通する基本的な概念がある。植民地

の市民とフランスの市民は、どちらも啓蒙思想から影響を受け、それまでなかった知見を

得た。独立宣言と人権宣言は、民に知見があったからこそ国家を作ることができたという

ことを示したものだと考えられる。

現在、世界のほとんどの国は王ではなく、民が主権を持つ、民主主義の国である。私た

ちは、基本的な権利を持っていて、間接的ではあるが、それは私たちの意志が反映された

法によって守られている。その生活のはじまりを作ったのは、2 世紀以上も前に起草され

た、アメリカ独立宣言とフランス人権宣言である。そして、その基になった思想が社会契

31 西研(2010、145 頁)『これが哲学』

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約説だ。私たちのこの当たり前とされる生活はそこから始まっていたのである。

おわりに

論文を添削してもらった中で、佐藤先生から も指摘されたのは、「面白くない」とい

うことだった。自己満足で終わる論文になってしまってはいけないと思うあまり、私は「面

白さの伝わらない文章」を作ってしまっていたのである。どのような構成にしたら良いの

か、どんな言葉で伝えたら良いのか、それらを考えては試行錯誤し、多くの時間を費やし

た。そして、日頃の行動が文章にも出るということを痛感した。日頃から相手の立場に立

って物事を考えていたら、もっとスムーズに進められたかもしれない。この経験を決して

忘れずに、今後は日々の小さな行動から意識して変えてゆきたい。結果的に、面白いと思

ってもらえる論文を執筆することができたかは分からないが、今の私の 大限の力を出し

て執筆したので、少しでも興味を持ってもらえると幸いである。

後になりますが、CUBE の学生でありながら、まるで文学部の学生のようなテーマを

取り上げた私に対し、佐藤先生はとても丁寧かつ熱心なご指導をしてくださいました。テ

ーマが自由であるとはいえ、あまりにも対応し難い論文だったかと思います。それにもか

かわらず、どうしても、このテーマで論文を執筆したいと勝手を申し上げた私の気持ちを

汲み取ってくださった先生は、CUBE らしく終始共に勉強する姿勢で迎えてくれました。

人生において、自分の好きな事をやり遂げる経験は、数える程かと思います。そんな喜ば

しい機会に、先生の貴重なお時間を使ってお付き合いくださったこと、心より感謝申し上

げます。

参考文献

書籍

1. 祝田秀全(2013)『名画で読み解く「世界史」』世界文化社。

2. 植村光雄(2011)『聴くだけ世界史 近現代』学研教育出版。

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社。

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13. フランソワ・フュレ/モナ・オズーフ(2000)『フランス革命事典 5』みすず書房。

14. フランソワ・フュレ/モナ・オズーフ(2000)『フランス革命事典 6』みすず書房。

15. 水村光男(2003)『図説 この「戦い」が世界史を変えた』青春出版社。

16. リン・ハント(2011)『人権を創造する』岩波書店。

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Web ページ

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10. 働きアリ「social studies 人権と憲法(2) 人権思想 ロック・モンテスキュー・

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