+ All Categories
Home > Documents > 'g ± Û d Û Ó $ 1&ì S >0 º>' · » K Z K r W S 7 K M U7u u-¶ c! E g ~ Ò _ ì æ b8 s < Z 8...

'g ± Û d Û Ó $ 1&ì S >0 º>' · » K Z K r W S 7 K M U7u u-¶ c! E g ~ Ò _ ì æ b8 s < Z 8...

Date post: 22-Mar-2020
Category:
Upload: others
View: 2 times
Download: 0 times
Share this document with a friend
40
3 3
Transcript

3

3

1/30

20

1876( 9) 1880( 13 )1896( 29)

30

21 3

2008 international conference: towards a secure revitalization of historic districts

4

9 26 27

30

1 5

1

2

2

1920 70

90

101

:

m

Kozarubashi bridge

New Saruhashi bridge

Yoshinobashi bridge

Katsusebashi bridge

100 ( )

( )

mm

mm

mm

- -

- -

50

mm

mm

- -

mm

mm

- -

- -

大河原家主屋(佐野川)

この家は佐野川の導入部に位置する。すなわち、佐野

川小学校を右手に見て北行すると、道が狭くなってカー

ブするところで、正面に赤色鉄板覆いの茅葺民家が急峻

な茶畑を背景として現れる。藤野町で茅葺き養蚕農家は

5件しか確認していないので、その建築様式はもちろん

貴重であるが、渓流に臨み、急斜面の茶畑を背景とした

山里の風情と茅葺き民家の調和した景観がすばらしい。

この家は、2006年2月に訪問し実測調査を希望したが、

当時おばあちゃんが病気療養中だったので実現しなかっ

た。その頃から家を建て替えたいという話があったので、

是非「再生」も検討してくれるよう要望した。その後、

昨年秋になって「ふじの里山くらぶ」から、「建替が決ま

ったので調査が出来そうだ」という知らせがあった。

この知らせには正直驚いた。なぜなら、われわれの藤

野町における活動は、「古民家をはじめとする建築遺産

の価値を再発見し、それを顕彰すると共に、その維持継

承についても出来るだけの協力をする、というもので、

調査することだけが目的ではないからだ。当然「ふじの

里山くらぶ」の方々も「建替が決まったので、遠慮なく

調査が出来ますよ」と喜んでいるとは考えられないが、

「建替より修復再生を薦め、そのための基礎調査を横浜

国大に行ってもらい、その結果も加味して相談しよう」

と言う姿勢で臨んで欲しかった。とはいえ、所有者の建

替希望に対する、歴史的資産の継承方策はケースバイケ

ースで、単純に白黒と判断できない。

大河原家の場合も、ご当主ご夫婦は家に愛着を持って

おられ、再生も検討したという。しかし土間廻りの改造

が著しく古材を傷めていたこと、再生に多額の費用がか

かるという見積もりがあったこと、などにより再生を諦

めたとのことだった。もう少しじっくり話しあう時間が

あればと悔やまれたが、すでに建替計画が進んでいるな

かで話を振り出すに戻すのは難しい。また、我々にはそ

れだけの権利はない。しかしこれだけの家を失うのはま

ことに惜しい。この家の場合はこの地に存続させること

が重要なので、安易な移築による再生はあまり意味がな

い。古民家における一定の生活環境の担保、不動産的価

値、文化遺産的価値、などを総合するアドバイス体制を

築くことが出来るかどうか、今後の大きな課題である。

話を大河原家の建築に戻そう。大河原家は屋号を「ム

ジナカイト(狢垣戸?)」といい、沢井川の渓流北岸に単

独で所在し、専用の橋を渡って屋敷に至る。屋敷地中央

には主屋が南面して建ち、主屋東は離れ、主屋西手前に

土蔵2棟(穀蔵・御蔵)が東面して建ちならび、土蔵の

西に納屋が寄り添っている。主屋~土蔵の背面は急斜面

に茶畑が展開する。屋敷前の渓流には蛍が現れるという。

主屋は、桁行6間×梁行4間の上屋正背面に3.5尺幅

の下屋を付すのが基本構造で、正面軒を出桁造とし、入

母屋造茅葺き屋根の両妻を兜造りにつくり、破風は木連

格子とする。屋根は茅葺きを瓦棒鉄板葺で覆い、棟中央

に煙出し屋根(気抜き)を備える。なお、上屋梁は前後

とも柱位置よりも若干先端を延ばして叉首尻を受け母屋

桁を載せるので、上屋長さは4間よりも2尺ほど延びる。

現在、土間側に1.5間~2間幅の下屋(炊事場・風呂場

と6畳間)、西妻側に1間幅の下屋(広縁的な空間で便所

へ通じる)を設けているがこれらは後設である。

屋根は昭和44年に茅を葺替した。これは茅葺きにこだ

建替前の大河原家主屋とその附属建物 2008年11月20日撮影

- -

わっていた先代当主の意志であった。その後住宅が傾い

てきたので筋かい補強を施し、昭和51年頃に屋根を鉄板

で覆った。主屋の建築年代は不明であるが、先代当主の

同級生が7才の時(昭和43年から約50年前)に茅葺替

の記憶があるという。したがって現在から見て約90年前、

すなわち1918年(大正7年)頃に葺き替えたようだ。そ

して葺き替え間隔を50年と見て、その時期を建立年代と

すると、ちょうど幕末~明治初期となる。

間取りは四間取りで、土間部分は前がダイドコロ、奥

がオカッテ、土間寄り付きは前がザシキで奥がナンドと

なり、上手前室はナカノマ、同奥室はオクノマとなる。

それぞれ2間四方・8畳大の部屋が基本構成のように見

えるが、ザシキはナンド側に半間張り出し、その西北隅

に神棚を設け、ナンド側に仏壇を張り出す。そしてこの

半間分は養蚕時の通路となる。したがって間取りは食い

違い四間取りで、養蚕時は整形四間取り的に変化する。

すなわち、この地域に多い広間型(ナンドが広間に張り

出し、土間側にカッテが張り出す)からの変化による四

間取と考えられる。なお、現状のナンドとオカッテは後

設間仕切で内部を細分しており、オカッテ前面半間の間

仕切は通路となってザシキの養蚕時通路に連絡する。ま

た、オクノマを中心に、西側面の柱は取替材が目立つ。

なお、昭和45年頃には台所正面に潜戸付の大戸が残っ

ていた。また、主屋裏の池にオカッテは主屋裏の池の方

にもっと張り出していた。そしてオカッテの炬燵は昭和

45年以後に囲炉裏をあらためたものである。

軸組はナカノマをはじめ指鴨居で繋ぐ部分が目立ち、

内法指物高さに天井桁梁・桁を架して各室とも根太天井

とする(オクノマ天井は高く、新しい)。正背面下屋は、

ダイドコロ前を土庇、ザシキ・ナカノマの正面は内縁(元

は外縁)、ナンド・オクノマ背面も内縁である。現在のオ

クノマ床の間・・床脇は後補で、本来はオクノマ背面側

に造作したのであろう。また、オクノマの取替柱は、上

屋桁まで達する本格的な取替柱である。すなわち、オク

ノマ部分を中心に、主屋西面は大がかりな補修が行われ

ており、西端間一間の下屋はこの時増築したらしい。

根太天井裏の中二階は蚕室(棚と呼ぶ)とする。梁組

は上屋高さに直材的な梁を整然と組むので、棚の空間は

(神棚を中心とした養蚕時通路上は除いて)5尺ほどの

高さを有効に活かすことが出来る。

小屋組は、柱位置より1尺ほど先に合掌尻を組み小屋

裏(大棚)を広く確保し、叉首中段に繋ぎ梁を用いて小

屋棚(3階のようにみえる)をつくる。

以上、この住宅は規模こそ大きくないが、中二階が全

面に確保され、大棚の面積確保の工夫が見られ、小屋棚

も設置し、両妻に大きな破風を構え、棟中央に櫓状の気

抜きを構えるなど、茅葺き養蚕農家として高度に整った

形式を示す。一階の間取りは、この地域の広間型から発

展したと思われる食い違い四間取りを示しつつ、養蚕時

通路により整形四間取り的に変化する点も興味深い。こ

のように、養蚕農家としての変化発展経緯からみても、

幕末~明治期頃の建築と考えることは妥当であろう。

なお、主屋西側に取替柱が多く、オクノマの造作類が

すべて後設であることは、かつて主屋の西面後方を中心

に大きなダメージを受けたことが推察される(例えば土

砂崩れや落石被害など)。改造時期は大正~昭和初期頃で

はないかと思われるが、家伝ではそのような災害は伝え

ていない。一方、東妻面の下屋は昭和45年頃の増築で、

この時当初柱を姑息に切断した箇所がある。

このように、大河原家主屋は、東西妻面に改造が目立

つものの、基本的に19世紀中期~後期における中規模茅

葺き養蚕農家の典型例として重要な存在であった。なお、

オクノマ廻りの改造経緯も実際にどのような背景が有っ

たのか、建築災害史の視点からも興味深い。

いずれにしても、こうした貴重な文化遺産を、今後失

うことないよう、最大限の努力を傾けていきたい。

- -

大河原家主屋正側面 正面軒は出桁造で格式を示す。入母屋造屋根

の妻側は兜造りになるが、西面に後設下屋が付くため目立たない。

大河原家主屋(ザシキ東北隅よりナカノマ・正面内縁を見る) 手前に見える吊鴨居が養蚕時の間仕切で、右手側半間が通路となる。

大河原家主屋(ザシキからナカノマ越しにオクノマを見る) 右端はザシキ水の仏壇及び神棚。ナカノマの柱や造作は新しい。

大河原家主屋 同上見返し。 写真左端は仏壇でその前方上に神棚

を設ける

大河原家主屋正面縁 ザシキ・ナカノマ正面に一筋鴨居が付き、戸袋痕跡もあるので本来は外縁だったことが判る。

大河原家主屋中2階(ザシキうからナカノマ上を見る) 梁組を上屋高さに整然と組むので空間を効率よく使用できる。

- -

大河原家主屋平面図 単位mm(計画尺) 作図:中村琢巳

大河原家主屋梁行断面図 単位mm(計画尺) 作図:王聖維

- -

8.名倉石楯尾神社内 旧浜野家住宅(金輪寺庫裏)焼失を惜しむ 大野 敏(横浜国立大学大学院工学研究院)

2009 年2月28日に、名倉の石楯尾神社境内にある休

憩所と祖霊社および車庫が不審火により焼失した。

名倉石楯尾神社には、これらの建物の他に昭和8年建

築の社務所(現浜野家住宅)、享保年間頃の拝殿、同じく

享保頃の随神門、明治43年建築の本殿など、歴史的建造

物が多く、社叢と二本杉は神奈川県天然記念物に指定さ

れている。

今回の罹災については、一部報道や人々の声のなかに

「県天記念物は無事」「社殿や社務所(住宅)は無事」と

言った論調、すなわち「集会所と祖霊社と車庫の罹災で

済んだのは不幸中の幸いであった」との雰囲気を感じる。

しかし、これはまことに誤った見解であり、焼失した集

会所は、大変貴重な文化遺産であった。というのは、焼

失した集会所、旧浜野家主屋は、昭和8年に現在の社務

所(浜野家住宅)が建設されるまで神官住居として使用

されてきたが、本来は別当寺である金輪寺庫裏の可能性

が高い。このことを紹介したのは関口欣也博士で、『藤野

町の古民家』(昭和55年)に以下のような解説文と共に

平面図・痕跡図・境内略図と写真を掲載する。

相模川北岸の河岸段丘が山梨県内に突出した先端にあって、

甲州街道の裏街道であった現在の町道名倉島田線の道沿にある

一軒やである。屋号を「みやじ」という。

今から130年前に建てられた、野浜山金輪寺の庫裏だったよ

うであるが、明治になって石楯尾神社神官の居室として使われ

たようである。19世紀初期のものと思われる。

草葺屋根が今は鉄板葺きに改造され、養蚕・機織も営まれた。

我々も『藤野の古民家』に導かれて、この家を2005

年10月5日に実測調査させていただいた。現状は本来の

茅葺屋根から寄棟造鉄板葺に改造しており、外周部はカ

ラー鉄板で覆っていたので、一見すると近世建築とは思

えないが、軸組・梁組は良く当初部材を留めていた。

規模は桁行6間半×梁行4間の上屋の前後に半間下屋を

付し、間取りは土間が小さい整形間取りを示し、上手背

面には本来角屋が張り出していたらしい。また、本来は

指物が少ない構造であったが、中2階(棚)拡大に伴い

指物が増加し間柱が撤去されたことが判る。また、小屋

組は叉首の痕跡があるが、小屋裏(大棚)を最初から蚕

室に使ったどうか疑問がある。規模は小さいながらも、

上手前室は当初から棹縁天井を構え座敷として成立して

おり、軒は正側面において深い出桁造とする、など庫裏

建築だったことをうかがわせる。建築年代は19世紀初期

まで遡るのは確実で、指物の少ない点を考えると18世紀

まで遡る可能性もあろう。復原した間取りが特殊で、小

在りし日の旧浜野家主屋(元金輪寺庫裏)とその焼失状況

- -

屋組が本当に養蚕を考慮していないのかと言う点と共に、

もっと詳しく調査をしたいと思っていた建築であった。

一方、祖霊社は旧浜野家住宅調査時に簡単に確認した

だけで、19世紀の建築を昭和初期に大改造した程度の認

識しか持っていなかった。しかしあらためて『藤野町の

神社と寺院』(昭和 49

年)を確認してみると、

この建物は本来神楽殿

で、昭和23年に牧野村

の大工小俣勝次郎によ

り祖霊社として改造し

た旨を伝えている。す

なわち、かつては名倉

石楯尾神社にも神楽殿

があり、それが境内社

に改造されて存続した

歴史があった。焼失し

た現在、神楽殿であっ

た痕跡等の調査は困難

で、悔やまれる。

なお、今回の火災の

教訓として、神社境内

に十分な消火設備がな

く、公設消火栓1基だ

けでは有効でないこと、

神社へ至る道が狭く、

通常から綿密な防災計

画が必要だったことも

明白となった。

貴重な文化遺産が失

われたことは残念だが、

まだ境内には拝殿・随

神門の近世建築が残っ

ており、今後はこうした歴史遺産に対する防火対策を早

急に整備する必要があろう。そしてこのことは、名倉石

楯尾神社のみに留まるものでなく、「藤野の魅力再発見」

で取り上げた寺社、古民家等を含めて、地区毎に検討し

ていく必要があろう。

旧浜野家住宅主屋(金輪寺庫裏)の変遷 平面と断面 指導:大野敏 作図・野上哲也

- -

旧浜野家主屋(もと金輪寺庫裏)実測梁行断面図 20051005 作図:野上哲也

旧浜野家主屋(もと金輪寺庫裏)現状架構図 復原架構図

作図:野上哲也

- -

旧浜野家主屋(もと金輪寺庫裏)実測平面図 20051005 作図:野上哲也

浜野家住宅焼失 (旧金輪寺庫裏)

消火栓1基

とホース2

本では不足

落石

道が狭く、戻ろう

とした消防車とや

ってくる消防車が

渋滞して動けず

祖霊社焼失

推定出火元

拝殿は無事 随神門は無事

住宅は無事

名倉石楯尾神社 火災状況略図 原図:ゼンリンスターマップ

1 1

20mm

20mm

4

5 43

3

18

4

14

12

2 3

3 4

:


Recommended