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MaYa 2006 B.A.thesis (Nagoya City univ.)

Date post: 08-Jun-2015
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1 要旨 今日の島観光において、その中心的役割はたしていのは日人 観 光 客 で あ 。経 成 長 に 刺 激 さ た く の 日 人 は 、 た 「 楽 園 島 」に 足 運 ぶ 。そ と 同 に 、国 内 の 経 停 滞 に 刺 激 さ た く の 人は、島じまた「の島」に集まっていく。この うに移動した人たちは、人がす島の一角に、自分たちの空 間つくあげた。 長 年 島 観 光 語 で あ っ た「 の 伝 統 文 化 」は 、も は や現在の島語には代遅であ。島の文化は、観光客に ってのみなず、国内かの移民にっても容しつつあかだ。 論 文 は 、こ う し た 島 観 光 に お け 「 人 口 移 動 の 重 性 」 考 察 す ものであ。なかでも、島のにおけ観光客と移民 とのかか詳しくとあげ、か両方の立場かみえ現代社会の 構図描いてみ。 代きことのあいまいさと、島観光にみ現 実の複雑さは、の刺激にって移動してきたたちが出会う世 数の観光地で顕著にあていのであ。
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Page 1: MaYa 2006 B.A.thesis (Nagoya City univ.)

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要旨

今日のバリ島観光において、その中心的役割をはたしているのは日本人

観光客である。経済成長に刺激された多くの日本人は、海をわたり「楽園

バリ島」に足を運ぶ。それと同時に、国内の経済停滞に刺激された多くの

インドネシア人は、島じまをわたり「夢のバリ島」に集まっていく。この

ように移動した人たちは、バリ人が暮らすバリ島の一角に、自分たちの空

間をつくりあげた。

長年バリ島観光を語るキーワードであった「バリの伝統文化」は、もは

や現在のバリ島を語るには時代遅れである。バリ島の文化は、観光客によ

ってのみならず、国内からの移民によっても変容しつつあるからだ。

本論文は、こうしたバリ島観光における「人口移動の多重性」を考察す

るものである。なかでも、バリ島のビーチリゾートにおける観光客と移民

とのかかわりを詳しくとりあげ、かれら両方の立場からみえる現代社会の

構図を描いてみる。

グローバル時代を生きることのあいまいさと、バリ島観光にみられる現

実の複雑さは、カネの刺激によって移動してきたヒトたちが出会う世界有

数の観光地で顕著にあらわれているのである。

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目次

1. はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3

2. 調査地概要・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9

3. クタビーチ観光の概略・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

4. クタにおける人口移動の考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・20

5. ビーチボーイ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49

6. 「世界システム」とのかかわり・・・・・・・・・・・・・・・・・55

7. ある晴れた朝のできごと―アレックス(Alex)・・・・・・・・・・58

8. 青春が海をわたるとき―エディー(Eddy)・・・・・・・・・・・・67

9. おわりに―かれらに学んだもの・・・・・・・・・・・・・・・・・82

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1. はじめに

(1)先入観同士の出会い

「僕の名前、イルカです」と、突然自己紹介されたとき、わたしは思わず笑

ってしまった。あまりにもビーチボーイというイメージによくにあうニックネ

ームだと思ったからである。

バリ島のなかでも、世界各地の若い観光客でもっともにぎわうというクタビ

ーチ(Kuta Beach)で、イルカはきっと日本人観光客むけにこの名前をつけた

のかもしれない。実際に、イルカに出会う前にもわたしは「マコト」や「ケン

ちゃん」などと名乗るビーチボーイたちに出会ったことがあり、その、いかに

も外見とバランスがとれていない、かれらのニックネームに違和感を覚えたこ

とがある。それにくらべたら、イルカという名前のほうが、まだ納得のいく、

よりビーチボーイにふさわしい名前ではないか。

「とてもセンスのいい名前だね。名前は自分でつけたの?」と、軽い気持ち

でなげたわたしの質問に、かれは答えた。「違うよ。僕の名前、死んだお祖父さ

んがつけてくれた。僕のお祖父さん、日本の軍人です。だから僕、ちょっと日

本人ね」そして、イルカは微笑んだ。しかし、正直なところ、わたしはかれの

言ったことを信じていなかった。もしかしたら、これもまたかれの、ビーチボ

ーイとしての戦略なのかもしれないと、かれのことばを疑っていた。

いつのまにか、わたしたちのまわりには海からあがってきたばかりのビーチ

ボーイたちが 4、5 人集まっていた。また、ビーチボーイだけではなく、わたし

がここにきたときからずっとわたしのほうを見つづけていた物売りの女性もや

ってきて、「ね、ミチュアミ(三つ編み)しない? 安いね。マッサージは?」

と言いながら、わたしの髪の毛を触ったり、肩を軽く揉みはじめたりした。突

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然、からだを触られたため、一瞬とまどいながらも、「今はいらないよ、また今

度ね」と断り、イルカとの話をつづけようとした。すると、今度はまた、重そ

うなクーラーボックスを背中に担いだおじさんがやってきて、「アイスクリーム、

おいしいね、ビールもある」と言う。それにとどまることなく、次つぎと物売

りたちはやってきた。指輪やネックレス、工芸品などのバリ土産、CD や DVD、

さらには日本の新聞や週刊誌まで、ありとあらゆるモノがわたしの前に広げら

れた。「これ買って。安いよ」と、物売りたちはいっせいにわたしに声をかけは

じめた。「いらない」と断っても、かれらはなかなか放してくれなかった。頭の

真上から照りつける日差しが、痛いほど熱く、背中からは汗が流れていた。30

分ほど物売りたちに「いらない」を繰り返したのだろうか。かれらはやっとわ

たしから去っていった。

そのあいだ、イルカをふくむビーチボーイたちはそれぞれ自分のことに夢中

になっていた。ある者はサーフボードを磨いているし、そのそばにはギターを

弾きながら歌を歌うビーチボーイもいる。通りすぎる女性観光客に「ハロー」

と声をかけている人がいれば、白人男性のサーファーとサーフィンの話をして

いる人もいた。物売りたちとのやりとりで疲れきってしまったわたしは、砂の

上に立ててあったサーフボードがつくる影の下に座り込んだ。すると、イルカ

ともうひとりのビーチボーイがわたしの隣にいっしょに座った。

「今日は波がよくないね」と、イルカが海を見ながらつぶやく。波の何をみ

て「よい」だとか、「わるい」だとか判断するのかわからなかったが、「波がわ

るいので今日はお客さんがいないのだ」とイルカはつけくわえた。そのとき、

イルカの隣に座っていたビーチボーイがわたしの顔を見て次のように話をかけ

た。「ね、おねえちゃん、あなたはイルカの兄弟よ。同じね。日本人。知ってる?

イルカは日本人よ。バリは初めて? どうしてひとり? 恋人探してるの?」。

どこから答えればよいのかわからない質問にたいして、わたしはまず次のよ

うに答えた。「いや、わたしは日本人じゃないよ。韓国人なの。コレアンね」。

そしたらすぐ、イルカがわたしをみて大きな声で笑い、こう言うのである。「う

そつき。ぜったいそれはうそだよ。でも……。はい、わかった。あなたは『コ

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レアン』なのね、今日から」そして、2 人はふたたび大きな声で笑いはじめた。

わたしが韓国人だと言っているのに、それを信じようとしないのであった。か

れらに事情を説明しようとも思ったが、わたしはすぐにそれをやめてしまった。

わたしのことを、「韓国人のまねをするうそつきの日本人」、それに、ひとりで

ビーチを歩いていただけに「恋人をさがしている女性」と思い込んでいたかれ

らにたいして、わたしも相当の不快感を覚えたからである。

そのときちょうど、日本人観光客とおもわれる男性 2 名がわたしたちのほう

に歩いてきた。かれらはサーフボードを借りにきたらしく、イルカにレンタル

の値段を聞いていた。そして、わたしのことに気がついたのか、そのなかのひ

とりがわたしのほうを見て「こんにちは」と挨拶をし、わたしもすぐ「こんに

ちは」と言い返した。わたしの、ただちに口から出てきた「こんにちは」とい

う日本語に、イルカはわたしが韓国人ではない、「うそつき日本人」であること

に確信を得たようだった。かれはわたしのほうをふりむいて、口を大きくあけ

ては音を出さずに「うそつき」というジェスチュアーを送るのであった。

かれらがサーフボードの値段交渉をしているあいだ、わたしは立ちあがって

その場を去った。ちょうどよいタイミングだと思ったからである。ビーチには、

約 30 メートルごとにビーチボーイたちの集団が見える。少なくて 2 名、多くて

10 名ほどのビーチボーイたちが、先ほどと同じくサーフボードがおいてある場

所の周辺に集まっていた。そして、かならずといっていいほど、かれらは通り

すぎるわたしに向かって声をかけるのである。もちろん、そのほとんどが日本

語だ。「こんにちは」、「日本人?」、「どこいくの?」、「ひとり?」など、決まり

文句のような日本語が耳に響く。わたしは、先ほどとは違い、日本語がわから

ないふりをしてビーチを歩いた。しかし、聞こえてくるかれらの日本語から逃

れることは、なかなかむずかしかった。どうしてもその状況が不思議でならな

かったからである。そこにだれひとり日本人はいないのに、かれらとわたしの

関係は、「日本語」によってつながったり断絶されたりしていると、わたしには

思えた。いろいろと複雑な思いをいだき、わたしはホテルに戻った。

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(2)調査のきっかけ

日本の大学に留学し、日本社会で生きていくためにわたしは日本語を覚えた。

しかし、わたしが日本で学んだ日本語は、インドネシアのバリ島でも話されて

いた。バリ島のみならず、世界のあらゆる観光地で日本人を客とする現地の人

びとは、生活の手段として日本語を学んでいる。日本国内にいながら日本語を

覚えざるをえなかった留学生のわたしと、日本の外にいながら日本語を話して

いるビーチボーイたちは、両方とも日本社会の一部に暮らしているといってよ

い。

最初にわたしがバリ島をおとずれたのは、たんにバリ島がほかの目的地に向

かうための経由地だったからだ。それ以外に、わたしがバリ島に行く目的は何

もなく、むしろ、できるのであればバリ島を経由せずにほかの島じまをまわり

たかった。当時、わたしにとってのバリ島は、「アジアのリゾート」、「最後の楽

園」ということばで飾られている日本人好みの観光地にすぎなかったからであ

る。世界各地からおとずれる観光客でにぎわい、高級ホテルが立ち並ぶバリ島

のイメージは、ガイドブックにもたくさん紹介されているが、わたしはあまり

興味を惹かれなかった。当時、わたしが求めていたのは、よりインドネシア的

な「何か」であって、ガイドブックを読むだけでも十分そのイメージが伝わっ

てくるバリ島にはあえて行く気にならなかったのである。

しかし、経由地として滞在せざるをえなかったバリ島で、わたしはいわばな

りゆきで「ビーチボーイ」とよばれるひとたちに出会ったのである。

ところが、わたしは、かれらにはじめてあったときから、かれらのことを「ビ

ーチボーイ」として認識していた。そして、自分のことを「ちょっとは日本人」

と語っていたイルカにたいして、「日本人の血が流れているとうそをついて、日

本語のニックネームをつくっては、戦略的にわたしに話をかけてきたビーチボ

ーイ」と疑念を抱いた。わたしが、無意識的にかれのことを「ビーチボーイ」

と判断し、かれらのことを警戒していたのはなぜだったのだろうか。同様に、

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なぜかれらはわたしのことを、「日本人女性」と判断し、「恋人を探している?」

と話しかけてきたのだろうか。

同世代の若者、バリ島の外からやってきた「よそもの」1、日本人ではない日

本語話者、海好きの人間など、かれらとわたしとのあいだには数々の共通点が

あった。それにもかかわらず、おたがいが持っていた先入観や誤った情報によ

ってせっかくの出会いが不愉快な思い出として終わってしまったことに、わた

しは残念な気持ちを抱いていた。そのため、バリ島での短い滞在を終えて予定

どおりほかの目的地をまわりながらも、わたしはクタビーチで会った「ビーチ

ボーイ」たちのことを忘れることができなかったのである。

そもそも人間は、ものごとを観察したり理解したりするとき、無意識のうち

に自分のなかにあるなんらかの基準や先例をもちいようとする [山中 2000]。わ

たしたちが無意識のうちに持ってしまう先入観は、「ステレオタイプ」ともよば

れるものである。ステレオタイプということばの創始者であるアメリカのジャ

ーナリスト、リップマン(W.Lippman)のことばを借りていえば、「われわれ

はたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大き

くて、盛んで、騒がしい混沌状態のなかから、すでにわれわれの文化がわれわ

れのために定義してくれているものを拾いあげる。そして、こうして拾いあげ

たものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知

覚しがち」なのである [W・リップマン 1987: 111]。

「異文化理解のためには、なるべく先入観を持たないほうがいい」とは、グ

ローバル時代と称される現代を生きるわたしたちにとって、疑う余地もない常

識のように聞こえる場合が多い。しかし、先入観なしにものごとを理解するこ

とは不可能のような気がする。とくに、旅行など、つねに新しいものにたいす

る緊張が持続する状況では、人間はみずからを守るために、持っている情報を

もちいようとするからだ。

ガイドブックや旅行記、人類学者の書いた民族誌などは、旅行者の持つ予備

1 後で具体的に述べるが、バリ島のビーチボーイは、バリ人ではなく、バリ島

の外から出稼ぎにきている「よそもの」である場合が多い。

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知識としてわたしたちの先入観を作り出す情報源となる。その予備知識が、旅

行を進めるうえで「よい案内書」の役割をはたすのであれば、それにこしたこ

とはない。しかし、わたしの体験したビーチボーイたちとの出会いは、最初か

ら「ビーチボーイは危険だ」、「日本人女性観光客はバリ島で恋人をさがしてい

る」といった先入観に陥り、すれちがったままに終わってしまった。そうであ

るなら、その先入観はいったい何によって作りあげられたのだろうか。

このような素朴な問題意識から、わたしは日本に帰国した後、バリ島の「ビ

ーチボーイ」をめぐる日本国内の情報に目をむけはじめた。そうしてわたしは、

自分のもっていた「先入観の所在地」をたどってみたかったのである。

ようするに、わたしの本調査へのきっかけは、はじめてのバリ島滞在の際に

得られた、「なぜ、わたしはイルカと友達になりえなかったのか」という疑問か

らはじまっている。

わたしは 2003 年の 9 月から 2005 年の 2 月までのうち、のべ 6 ヶ月間をバリ

島のクタビーチの周辺に滞在し、ビーチボーイたちの日常生活と、かれらと観

光客のかかわり方についてのフィールドワークをおこなった 2。フィールドワー

クのほとんどは、クタに滞在するビーチボーイたちからの聞き取りである。現

地に滞在するビーチボーイのみならず、日本人をふくむ観光客たちにもインタ

ビューをおこなった。

ビーチボーイに関する自分の先入観の所在を知るのが目的であった本調査は、

あまりにも個人的な理由からはじまっているため、正直なところ、いろいろな

ところでわたしは迷ってしまった。というのも、調査をかさねているうちに、

「ビーチボーイ」をめぐる周辺の状況が、自分の予想以上に「複雑」で「あい

まい」であることがわかってきたからだ。

よって、本論文では、ビーチボーイをめぐる社会的状況が、どのように「複

雑」で、なぜ「あいまい」になっているのかを、わたし自身のことばで説明す

2 調査期間:2003 年 9 月(1 ヶ月)、2004 年 2 月~3 月(2 ヶ月)、8 月~9 月(2

ヶ月)、2005 年 2 月( 1 ヶ月)。調査は、日本語、英語、インドネシア語でおこ

なった。

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ることを目指してみた。

本論文の構成としては、最初に、バリ島観光現状――なかでもバリ島最大の

マリン・リゾート地である「クタ地区」に場所を限定する――に関する 1930 年

代以降の流れを、インドネシア・アメリカ・日本の社会変動を中心に同時代的

に捉えてみる。それによって、「ビーチボーイ」とよばれる集団が、どのように

してクタビーチにあらわれ、かれらが日本人観光客(かつ日本社会)とどのよ

うに関わっているのかを考察したい。そして、後半では、現地で交わしたかれ

らとの会話を中心に、わたしが出会ったビーチボーイたちの姿を記録し、個別

の経験から描くことのできるビーチボーイたちの多様な生き方を紹介してみた

い。

2. 調査地概要

(1) バリ島

クタを語る前に、まず、バリ島が地球上のどこに位置しているのかを想像し

てみよう。正確にそのイメージが浮かんでくる人がいれば、なかには、バリ島

がいったいどの国に属するのかもわからない人もいるはずだ。バリ島がインド

ネシア共和国の一部であることに驚く人がいたとしても、それはけっしてめず

らしいことではない。どうやらバリ島は、「神々の島」、「芸術の島」、といった

イメージが先走り、あえて国名をあげる必要もない「アジアの楽園」として長

い間知られてきたからだ。

バリ(Bali)島はインドネシア共和国に属する約 1 万 3 千の島のひとつであ

る。赤道から南に 8~ 9 度、オーストラリアにすぐ近い熱帯の小島である。南に

インド洋、北にジャワ海を望み、西のジャワ島とはバリ海峡、東のロンボク島

とは、生物相をアジアとオーストラリアにわける「ウォーレス線」が通るロン

ボク海峡で隔てられている。島の東西は直線にして 144 キロメートル、南北 80

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キロメートルほどの長さで、面積は東京都の約 2 倍であり、島内は車で 10 時間

ほど走れば一周できる [篠沢編 1986]。このようなバリ島の総人口は約 300 万人

にのぼり、人口密度はきわめて高い。

インドネシアは、300 以上の民族集団が 250 以上の言語を話し、それぞれが

文化や伝統的な慣習を異にする多民族国家である。バリ島もまた、インドネシ

アの 26 州のひとつとして、国語であるインドネシア語を話しながらも、いぜん

として日常生活の場では、バリ人固有の言語であるバリ語が使われている。ま

た、宗教面においては、インドネシア全人口のおよそ 9 割がイスラーム教徒で

あるにたいして、バリ島民の 9 割以上はヒンドゥー教徒であることが特徴であ

る。

バリ島を語る際に欠かせないのは、やはり観光である。なかでも、バリ島の

文化をめぐる観光は、長いあいだにかけて世界的な注目をあびてきた。1908 年

からバリ島を支配しはじめたオランダは、バリ島を征服した自分たちの植民地

支配を美化する名目で、バリ観光を世界に宣伝しはじめる。バリ島をフィール

ドとする文化人類学者の永渕康之によれば、「このような植民地状況は、バリ文

化にこれまでになかった世界性を開いたのであり、そのひとつのあらわれが観

光であった。それは人間が移動し、かれらとともに金が動いたというだけでは

ない。異文化をどうとらえるかをめぐる新たな仕組みがうまれ、そのなかで『バ

リ文化』などの異文化のイメージが世界に広がっていった。こうしたイメージ

は流行現象となり、また書物、映画、そして観光旅行といった商品として流通

し、憧れの対象となって消費されていっ」たという [永渕 1996: 36]。

1930 年代には、多くのヨーロッパの芸術家たちがバリ島をおとずれ、かれら

はバリ・ヒンドゥー教にもとづいたバリ独特の文化を世界に知らしめた。わた

したち観光客がバリ島のイメージとして連想する、「神々の島」、「最後の楽園」

などのことばたちは、そのほとんどが当時にバリ島をおとずれたヨーロッパの

芸術家や人類学者などによって作られたものである。また、そのようなバリ島

のイメージは、第 2 次世界大戦を経て、「植民地主義」、「帝国主義」、「伝統文化」

などに関する再検討が進められていくなかで、「創られた伝統」、「演出された楽

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園」とも論じられ、バリ島の文化や観光状況をめぐる世間の興味は冷めること

なくつづけられている。

バリ島にやってくる多くの観光客の観光形態は、大きくわけてふたつある。

ひとつは、バリ島の文化――とかれらが判断する、バリ・ヒンドゥー芸術や農

村文化など――をめぐる観光である。それはバリ島中心部に位置するウブド

(Ubud)を基点におこなわれる場合が多い。そして、もうひとつは、海――な

かでもビーチを中心とするマリン・リゾート――をめぐる観光の形態であり、

本論文でとりあげるクタビーチは、その代表的観光地である。

わたしの調査地であったクタ地区は、バリ島のなかにありながらも、やや特

異な場所である。というのも、クタは、バリ島以外からの国内移民や海外から

の観光客が密集する町であり、バリ人の人口は比較的に少ない。現地の人びと

はクタを「Kota Untuk Turis Asin(観光客のための町というインドネシア語)」

とも呼んでおり、クタは、さまざまな民族――観光客をふくむ――とそれぞれ

の文化が交わっている空間なのである。

(2)クタ

クタ(Kuta)は、インドネシアのバリ島最大のビーチリゾート地である。西

向きの海岸がインド洋に面しているクタのビーチは、北隣のレギアン(Legian)

村の海岸ともつながっている 3。それぞれは「クタビーチ」、「レギアンビーチ」

という個別の名前をもっているが、あいだに明確な境目をもたないため、「クタ

ビーチ」として知られる場合が多い。ビーチだけでなく、観光客によっておお

まかに「クタ地区」とよばれているこの地域は、正確にいえば、インドネシア

共和国のバリ州に位置する、バドゥン(Badung)県クタ郡のなかの、「クタ村」

3 クタビーチ周辺のビーチは、北側にあるトゥバン(Tuban)ビーチから、ク

タビーチ、レギアンビーチ、南のセミニャック(Seminyak)ビーチまで、境目

を持たずにつづけられている。それぞれのビーチは、約 1 キロメートルづつの

長さであり、全体として約 4 キロメートル、これは、世界でも有数のロングビ

ーチだそうだ。が、本論文で取りあげる地域は「クタ・レギアンビーチ」がそ

の中心であり、このふたつのビーチにもっとも多くの観光客が集まるのである。

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と「レギアン村」をさすのである(図 1 参照 4)。

このふたつの村をあわせた人口は約 13000 人で、面積からみてもそれはバリ

島全体のごく一部にすぎない。しかし、バリ島をおとずれるひとの過半数がこ

の地域に滞在し、バリ島内の観光関連施設の 4 割以上がこの地域に密集してい

る。それに、その施設に通う大勢の通勤者が加わり、クタは行き交うヒトやモ

ノで年中にぎわっている。

図 1 インドネシア(左上)、バリ島(左下)、クタ地区(右)

出所 :Lonely P lanet(www.lonelyplanet .com)の地図から著者作成

4 バドゥン県には 6 つの郡があるが、そのなかの 3 つが、クタ(Kuta)郡、北

クタ(Kuta Utara)郡、南クタ (Kuta Selatan)郡である。しかし、本論文ではクタ

郡のみをとりあげている。

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空港に着いた旅行客のほとんどがこのクタ地区を通り、バリ島内に散らばっ

ていくというコースを辿ることになる。クタは、空港からも近く、バリ島をお

とずれる観光客をはじめて迎え入れる、「バリ島の玄関」のような地域でもある。

クタは、14 世紀、ジャワ島の事実上の統一国家をつくったガジャマダ(Gajah

Mada)5 がはじめてバリ島に上陸したさいにも、現在のように「バリ島の玄関」

の役割をはたしている。クタという地名は、コエタ(Koeta)ということばから

由来し、コエタとは、当時バリ島に上陸したジャワの軍人により防御されてい

た「海岸地域全般」をさすことばであった。現在のクタ郡のさらに北側までを

ふくむ広い地域が、コエタとよばれる地域だったのである。

1595 年、オランダの帆船によってはじめてバリ島が西洋に「発見」されて以

来、クタ(当時のコエタ)は、オランダの植民地貿易における、貴重な貿易港

のひとつであった。東の島じまからは香辛料が、西からはインド産の織物が、

北からは中国の磁器が、クタの港に運ばれてきたという [ヴィッカーズ 2000:82]。

このようにクタは、14 世紀から現在にいたるまで、外部の世界とバリ島をつ

なぐ役割をはたす地域なのである。

約 600 年のあいだ、オランダ式の表記で「コエタ」と地図上に記されていた

この地域が、「クタ」に変わってよばれるようになったのは、1936 年のことで

ある [Mabbett1987]。本来、「防御されるべき空間」という意味で呼ばれていた

「コエタ」は、20 世紀に入り、バリ島の観光開発が進むなかで、「観光客のた

めの空間」として再登場するようになる。

3. クタビーチ観光の概略

(1)クタビーチ誕生

コエタからクタに表記が変わったことは、ある意味で現在のクタをリゾート

5 かつてジャワには最後のヒンドゥー王国とよばれたマジャパヒト王国があり、

14 世紀前半の全盛期の宰相がガジャマダである。

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観光地として世界に、そして日本に知らせるのに大きな出発点となるものだっ

たと考えられる。

クタビーチが世界的観光地として脚光をあびるようになったことは、1960 年

代、アメリカのヴェトナム戦争にたいする反戦運動の一部であった「ヒッピー・

ムーブメント」6に起因している。当時バリ島は、かれらの求めていた「オリエ

ンタリズム」を支える「アジアの楽園」といったイメージの島だった。ネパー

ルのカトマンドゥ(Katmandu)、アフガニスタンのカブール(Kabul)とともに、

当時クタは「アジアの 3K」ともよばれて、ヒッピーたちのめざす「聖地」のひ

とつとして知られはじめた 7。

アメリカのこのような流れはとうぜん、日本にも影響を与えた。当時の日本

では、全学連(全日本学生自治会総連合)のような若者による組織が反戦運動

に取り組んでいた。そして、高度経済成長時代には「モーレツサラリーマン」

とよばれる人びとと一線を画した、「フラワーチルドレン」という若者たちがあ

らわれた。東大闘争、日大闘争などに代表される学生運動が日本全国に広がっ

ていた 60 年代に、武力闘争も、モーレツ社員もいやで、両手に花束を持って自

由に平和に人生を過ごしていきたいという人たちが「フラワーチルドレン」とよ

ばれる若者たちであった。日本の「ヒッピー」ともよばれたこの若者たちは、

アメリカのヒッピーたちと同様、アジアの各地を旅し、それは、いまでいう「個

人旅行」、「バックパッカーツアー」の原型のようなものであった [山田 1990]。

各国のヒッピーたちがアジアを放浪し、クタもアジアの聖地と称されるよう

になるのであるが、このような、若者たちによる「クタ・ブーム」のきっかけ

は、それを 30 年ほどさかのぼった 1936 年のある出来事からはじまった。

1936 年、アメリカ人のロバート・コーク(Robert Koke)とその妻のルイス

6 ヒッピー(Hippie)とは、伝統・制度などの既成の価値観に縛られた社会生

活を否定することを信条とし、また、自然への回帰を提唱する人びとの総称で

ある。1960 年代後半に、おもにアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、

のちに世界じゅうに広まった。 7 2005 年 11 月 12 日の ABC News の記事、̀Whatever Happened to the Happy Hippie

Trail?` 参照のこと[http://abcnews.go.com/International/print?id=79808:2005]。

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(Louise Garrett Koke)が長期旅行の末にこのバリ島のクタに到着したさい、若

いカップルのかれらは、その美しい海岸に魅了された。そしてかれらは現在の

クタビーチの一角に、クタ最初のホテル(ゲスト・ハウス)をオープンさせた 8。

かれらのホテルは、いまでは「バンガロー」9とよばれる、草ぶき屋根の小屋で、

当時バリ島を占領していたオランダ政府からは白い目で見られるほど質素なも

のだったという。

ロバート・コークは、ホテルの名前をつけるさい、当時オランダ式の書き方

でコエタと表記されていた地名を、アメリカ人の自分が発音しやすいクタ

(Kuta)に変え、「クタ・ビーチ・ホテル(Kuta Beach Hotel)」と名づけた(図

2 参照)。そして、その名が、今日の「クタ」という地名のはじまりとなったの

である。それにかれは、現在のバリ島観光を語るさいに欠かせない「サーフィ

ン(波乗り)」をはじめてバリ島に取り入れた人物でもある(図 3 参照)。かれ

はみずからサーフィン発祥の地であるハワイからその技術を学び、それを現地

のバリ人たちに教えた。

現在わたしたちが「クタビーチ」といっているバリ島最大のマリン・リゾー

ト地は、コエタという名をクタに書き換え、そこに「ビーチ」や「サーフィン」

といったアメリカン・カルチャーの要素を加えた、「アメリカ的の発想」のもと

で作られたものなのである。

クタ・ビーチ・ホテルは、クタがバリ島における重要な観光地になっていく

うえで、欠かせない役割をはたした。多くの西洋人たちがこのホテルに滞在し、

クタビーチが世に知られるきっかけをつくった。しかし、1942 年から 1945 年

8 しかし、バリ島最古のホテルは、1925 年、KPM(オランダ王立郵船会社)に

よって建てられた「バリ・ホテル(Bali Hotel)」である。このホテルは、チャ

ーリー・チャップリンなどの有名人が宿泊したこともある高級ホテルであった。

その後 1930 年代にヨーロッパ人企業家やバリ人の王侯が次つぎとホテルを建

設するようになるのだが、クタに建てられたホテルとしては、ロバート・コー

クのバリ・ビーチ・ホテルが最初である。 9 各室がバス・トイレつきの独立したユニットとして別々に建てられており、

草ぶき屋根と彫刻やその他のちょっとした仕上げでバリらしさを表現したバリ

島の宿スタイルのひとつ。このスタイルは、1970 年代以降、あらゆる開発形態

のなかで最大の成功例となり、高級ホテルや多くの観光施設を設けるようにな

った [ヴィッカーズ 2000:296]。

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16

にかけてバリ島が日本軍に占領されていた時代、ホテルは破壊され、一時的に

バリ島の観光は戦争によって衰退期に入る 10。

図 2 クタ・ビーチ・ビーチホテルの誕生

(ルイス・コークによるスケッチ)

図 3 バリ人に紹介されたサーフィン

(当時のクタビーチビーチホテルのスタフ)

出所 :Hugh Mabbett , In prise of KUTA , p. 58,146

(2)大東亜戦争後のバリ島観光開発

1941 年 12 月に大東亜戦争がはじまると、それまでオランダ領東インドとよ

ばれていたインドネシアも、日本軍の作戦の対象となり、翌年の 3 月に占領さ

れた。350 年にわたるオランダの植民地支配は崩壊し、これ以降終戦までの 3

年 5 ヶ月の間、バリ島において日本軍の占領統治がおこなわれることになった。

島中の小学校に日本の唱歌が響き、ラジオ体操が繰り広げられ、島をあげて日

本語教育がおこなわれていた。「アジアのためのアジアを建設する」という日本

10

しかし、破壊されたクタ・ビーチ・ホテルは、「ナトゥール・クタ・ビーチ・

ホテルビーチホテルは、「ナトゥールビーチ(Natour Kuta Beach Hotel)」という

名前で、1954 年から政府傘下のホテルとして開業、現在は「インナ・クタ・ビ

ーチ (Inna Kuta Beach Hotel)」になっている。

Page 17: MaYa 2006 B.A.thesis (Nagoya City univ.)

17

の大東亜共栄圏構築の夢は、バリ島にまでその影響圏を広げていたのである。

反植民地主義の立場と「アジア人らしさ」重視の一環として、日本はバリ島

の文化を奨励した。このことは、親日的な戦争協力を強化し、同時にバリ人の

アイデンティティ感覚を高めるという二重の効果があった。

日本軍の完全な植民地であった朝鮮や台湾とはことなり、バリ島での占領は、

かれらの文化を完全に奪うことなく、学校教育においてもインドネシア語の使

用を第 1 にしていた。このような、日本軍によるインドネシア語優先の言語教

育は、その後独立をはたすインドネシア政府が、統一国家として「国語普及政

策 11」を進めていくうえで、大いに役立つものであった [鈴木 1999]。

当時の日本軍司令官の手記『日本占領下バリ島からの報告、鈴木政平、1999』

の書評のなかで倉沢は、その点を、占領期のインドネシアにおける、日本軍の

数少ない「功績」と記述している。しかし、それはあくまでも戦争の「結果論」

としての話であり、いうまでもなく、日本軍の占領により多くのバリ人は自由

を奪われた。ほかの植民地と同様、男性は強制労働者として働かされ、女性は

日本軍によって性的暴力を受けた。

このように、アジアにたいする日本の大東亜戦争は、バリ島の歴史において

も、悲劇の一部として語られている。しかし、その悲劇の戦争が、敗戦後の日

本人によるバリ島観光の新たなきっかけとなったことは、皮肉な事実である。

日本の敗戦後、1949 年にインドネシアは正式に独立を宣言した。それまでオ

ランダ領東インドを構成する数千の島じまと数百にのぼる文化を「インドネシ

ア」という国に統一させたのは、この国の初代大統領となるスカルノだった。

11

インドネシア語とマレーシア語の基語であるムラユ(Melayu)語とは、もと

もとはマラッカ海峡南部で話されていた言語で、古くから周辺地域の交易語と

して使用されていた。 16 世紀末からこの地で支配力を強めていたオランダも、

ムラユ語を利用して植民地経営をおこなった。

しかし 1920 年代になると、被支配者層の民族主義が高まり、1928 年にイン

ドネシア青年会議が「インドネシアの統一語はインドネシア語とする」と宣言

した。インドネシア語(バハサ・インドネシア)という名称は、インドネシア

人の民族的自覚と密接に結びつき、1945 年の独立(実質的独立は 1949 年)の

ときの憲法において、インドネシア語を国語とすることが規定された [綾部編

1983]。

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18

スカルノは、戦後荒れはてていた国内の経済を発展させることに何より力をい

れた。そして、外貨獲得のために、観光事業の目玉として、バリ島は注目をあ

びるようになる。それは、バリ島が、独立以前から多くのヨーロッパ人のリゾ

ート地として世界的に知られていたことに起因するものであったが、スカルノ

大統領の母親がバリ人であったことも、かれがバリ島開発に関心をよせたもう

ひとつの理由となった。

スカルノは、インドネシア政府にたいする日本の戦後賠償の一環として、バ

リ島に日本の資金を基盤とするホテル事業の開始を求めた。1958 年から 12 年

間にかけて日本政府がインドネシア政府に支払った賠償金額は総 803 億円にの

ぼるが、そのうち 74 億円がホテル事業に投入された 12。トヨタ自動車がバリ東

部に壮大な観光リゾートを建設しようと、基本構想「バリ・アガ・プラン」が

できあがったのは、1971 年であった(が、このプランは失敗に終わった)。

かつて、バリ島旅行のホテル基地といわれていた「サヌール(Sanur)」地区

には、1965 年に日本政府の賠償金により「バリ・ビーチ・ホテル」が建設され

た。そして、1960 年代の後半から、日本人をふくむ観光客が、戦後の被害から

ようやく立ち直ったバリ島をおとずれはじめた。

バリ島に国際空港が建設された 1969 年当時、1 万人にすぎなかったバリ島の

海外観光客は、観光開発の進展のなかで、1979 年には 12 万人にのぼり、2004

年の時点では、毎年 145 万人もの海外観光客がバリ島をおとずれるようになっ

た。

1980 年代からは、日本人観光客も徐々にあらわれた。団体ツアーがほとんど

であった当時の日本人観光客は、「安心」に日本料理が楽しめて、「豪華」な施

設を揃えており、「便利」にバリ島を観光することができる、サヌールのホテル

地区に集中して滞在した。その一方、戦争によって人びとから忘れ去られてし

まった「クタビーチ・ブーム」もふたたびあらわれ、前述した「ヒッピー」、「サ

ーファー」たちの登場をその背景に、クタにはサヌールとはまったく異なる方

12

「インドネシア賠償についての外務省資料」外務省公表集 1970、(データベ

ース「世界と日本(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/)」参照のこと)。

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向で観光開発がおこなわれていった。

政府や巨大資本による観光開発が進められていた高級ホテル地区とちがって、

クタには若者たちの経済事情を配慮した安宿や、大衆食堂などが建てられた。

それは、まったく政府が関与していない、住民たちの自力によるものだった。

クタの住民たちは、ロングヘアーにひげを伸ばした「ヒッピー」や「サーファ

ー」たち――おもにオーストラリアやアメリカからの――をはやくから受け入

れ、安い価格でホームステイを提供したり、庶民用の食堂をつくったりした。

そのようなことが可能であったのは、前述した 1936 年にロバート・コークによ

り設立された「クタ・ビーチ・ホテル」の前例があったからであろう。

この時期にクタに滞在していた観光客は、ほとんどが白人で、ごく一部であ

った日本人観光客は裕福である場合が多かった。というのも、日本人の海外旅

行が自由化されたのは、戦後の 1964 年になってからのことである。しかも、日

本人観光客の特徴として、団体ツアーやパッケージツアーが多いことを考える

と、当時クタビーチに滞在する日本人が少なかったことは、いってみればとう

ぜんなことであった。ただ、クタには最初からナイトクラブやレストランなど、

若者むけのレジャー施設が多かったため、サヌールに滞在する日本人は、買い

物や夜遊びを目的に、クタをおとずれたという。1970 年代の後半にクタに滞在

したことがあるというある日本人男性は、「いまはクタにも日本人ばかりいるけ

ど、そのときはサヌールが日本人だらけになっていた。クタに行けば若い白人

やインドネシア人がたくさんいて、日本人離れすることができた。同じバリ島

でもかなり違う雰囲気を楽しむことができて、クタに来てはじめてここがイン

ドネシアだということを実感したと」話していた。

しかし、もうすでにそのような状況は変わってしまった。2003 年にわたしが

サヌールを訪ねたとき、サヌールビーチにいるのはほとんどが白人観光客であ

った。それに、クタビーチにくらべてサヌールビーチは、観光客の人数も少な

かった。あとでわかったことだが、サヌールビーチのほとんどは、そこに立ち

並ぶ高級ホテルが所有するプライベート・ビーチであり、そこにいる観光客は、

ホテルの宿泊客である場合がほとんどだという。それに、現地で会ったヨーロ

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ッパ人の観光客に話を聞くと、「日本人やオーストラリア人が集まるクタビーチ

はうるさい。物売りたちもしつこいし、のんびりすることができない。でもサ

ヌールは、ホテルからきちんとビーチが管理されていて、物売りも来なければ、

観光客もあまり騒がない」らしい。

だからといって、日本人がサヌールに宿泊することが以前にくらべて少なく

なったわけではない。サヌールの高級ホテルにとって「日本人観光客」は、現

在もかれらの主たるゲストである。ただ、さきに述べたように、この 30 年間、

日本人観光客の人数は急速に増加し、その増えた分の観光客は、サヌール地区

だけに集中することなく、クタビーチにまで散らばっていくようになったので

ある。観光客の増加とともにバリ島の観光開発は進み、現在のバリ島観光は、

その目的やプランにあわせて場所を指定することができるほど多様化している

わけである。なかでもクタ地区は、バリ島に来る観光客のおもな活動――買い

物、両替、宿泊、食事、夜遊びなど――をすべて満たすことができる空間であ

り、そこには、マクドナルド、スターバックス、サークルケイといった世界的

企業も進出している。

4. クタにおける人口移動の考察

(1)クタビーチ観光におけるゲストとホスト

ここで本論文の冒頭でわたしが「先入観同士の出会い」と小見出しをつけた

エピソードを思い出していただきたい。そこに描かれているクタビーチは、ま

さに「現在のクタ」の様子である。エピソードのなかに登場するように、クタ

ビーチには、ビーチを楽しんでいる白人や日本人の観光客がいて、また、その

ような観光客にモノやサービスを提供する現地の人びとが両方存在しているの

である。

しかし、それは現在のクタの様子にかぎるものではない。日本国内でも、「観

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光地」とよばれる場所にいれば、このような風景はしばしば見られるものであ

る。あえてクタビーチと日本国内の観光地の風景に違いがあるとすれば、日本

の場合、観光地で売られているモノ――土産のような商品、入場券、サービス

などをふくめて――の価格が、最初からきちんと決まっていることであろうか。

それにたいしてクタビーチでは、売買の大半が「価格交渉」からはじまるとい

うことである。

クタビーチの行商人たちは、少しでも多額の金を稼ぐために、売っているモ

ノに、元値の何倍もする値段をつける。それをすでに見抜いている観光客たち

は、自分にとってみればたいした金額でもないモノの値段を、少しでも下げよ

うとするのである。また、数々のガイドブックには、「バリでの買い物はネゴ(価

格交渉)次第」という情報が書き込まれており、観光客は、モノの値段をまけ

てもらうことじたいを「旅の楽しみ」にしているといってもよい。

しかし、ここでそれについて「よい」「わるい」を論じるつもりはない。とい

うのも、ときによってそのような値段交渉の様子は、非常に滑稽にもみえるか

らである。観光客が「バリ島での買い物の際には値段をまけてもらうべき」と

いう情報を事前に把握しているのと同様に、行商人の多くは「観光客はわたし

たちが最初から元値の何倍もの高い値段をつけていることをガイドブックから

読んでいる」ということをすでに知っているからだ。だからかれらは、冗談交

じりに自分たちの経済感覚ではあるまじき値段でも、「とりあえず」言ってみる

のだという。

このようにクタビーチでは、観光客と現地の行商人のあいだに存在する経済

格差が、目に見える形として浮かびあがっている。そして、金を「稼ぐ人」と

「使う人」のあいだに「変動するモノの値段をめぐるやりとり」が存在するこ

とにより、クタビーチは、バリ島のなかでもっとも活気があふれる観光地であ

りつづけているのかもしれない。

観光人類学者のスミスは、「人びとの観光活動を刺激するもっとも重要な要素

は『経済』である」と述べた [スミス編 1991:9]。そしてかれは、このような観

光活動をおこなう人びとを説明する語彙として、「ゲスト(訪問する側)」、「ホ

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スト(むかえる側)」ということばをもちいた。かれのことばを借りてクタビー

チに存在する人びとを 2 分類してみると、イルカをふくむクタビーチにいる人

たちは「ホスト」であり、クタをおとずれるわたしたち観光客は「ゲスト」に

なるのである。

ここで、わたしがあえてスミスのことばを借りて、クタにつどう人びとをふ

たつにわけてしまうのにはそれなりの理由がある。それは、最初のエピソード

で登場する「先入観同士の出会い」を探っていくためのひとつのこころみでも

ある。

おたがいのあいだに存在する共通点を話題に、イルカとわたしは充分友達に

なることが可能であった。それにもかかわらず当時の出会いが失敗に終わった

のは、おそらく、わたしもイルカも、共通点を見つけるよりさきに、「違い」に

気づいていたからかもしれない。ようするに、わたしを「日本人女性」とみな

したイルカと、かれを「ビーチボーイ」と認識してしまったわたしは、「ゲスト」

と「ホスト」として(または別のことばで)出会う以前から「二分化」されて

いたのではないか。

調査の最初のころ、わたしはそのようなことが起きるのは、「間違った先入観」

によるものだと思い、「なぜわたしは先入観をもってしまったのか」をひたすら

考えていた。しかし、ビーチボーイをめぐる調査をかさねているうちに、「先入

観をもっていたことに気づくこと」より大事なのは、「先入観が作られた背景に

気づく」ことであるような気がしてきた。そのためには、まず、イルカと出会

うまでに、クタビーチに存在する「ゲスト(観光客)」と「ホスト(本論文では

ビーチボーイのみに絞って考察する)」のそれぞれに、どのような背景があった

のかを考えてみる必要がある。

そこで次章では、クタビーチにおける「ホスト」と「ゲスト」の変化に注目

しながら、本論文のテーマである「ビーチボーイ」たちが、どのような社会的

背景のなかでうまれたのかを考察していく。また、ビーチボーイだけでなく、

わたし自身がどのような流れにそって 1 人のゲストとしてクタビーチにあらわ

れたのかも同時にみていきたい。

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(2)「ヒッピー」がゲストとなる 1970 年代以降

前述したように、クタを「観光地」として世に広めたのは、1930 年代にクタ

という名前をつくりあげたロバート・コークによるものであった。それによりヨ

ーロッパの観光客がクタビーチにやってきたときを、ここでは「第 1 次クタ・

ブーム」と呼ぶことにする。

その後、第 2 次世界大戦と日本の占領時代を経験するあいだ、クタは、観光

地としても、かつて盛んだった貿易港としても、その役割を完全に失ってしま

う。戦争が終わり、バリ島は平和を取り戻したのだが、戦争や植民支配によっ

てクタ村は、第 1 次クタ・ブームの終わりとともに、たんなる「貧しい漁村」13

になってしまうのである。

1950 年代からインドネシア政府がバリ島の観光開発をはじめたさいも、クタ

の存在は無視されていた。その一方、日本の資本によりサヌール(Sanur)に高

級 ホ テ ル 地 区 が 建 設 さ れ 、 そ の す ぐ 南 ― ― ク タ の す ぐ 北 で あ る ト ゥ バ ン

(Tuban)――に、海外観光客をむかえるための国際空港が建設された。

インドネシア政府は、このときから 1970 年代末にかけて、バリ島観光のさら

なる拡大を期待しており、観光客の大半は、興隆途上の国家が歳入を一気に増

やそうと期待をかけた金持ちのアメリカ人であろうと期待していた。

しかし、こうした政府の期待はずれは、「第 2 次クタ・ブーム」につながった。

かれらの予想を裏切って実際にバリ島にやってきたのは、西洋の、中流階級出

身の新種の若者、すなわちヒッピーだったのである。かれらヒッピーたちは、

高級ホテル地区のサヌールに泊まることなく、かつての第 1 次クタ・ブームに

よって発見された「クタビーチ」に集中した。そして、戦後衰退していたクタ

13

バリ島を囲む海で魚は獲れるが、漁業は発達しておらず、バリ島は農業によ

って成り立っている島である。また、バリ人のヒンドゥー信仰では、山が善を

表し、海は悪を意味するため、島民は年間平均して 2~3 キロほどしか魚を食べ

ない。クタが面しているインド洋側はとくにうねりが高く、漁業には適してい

ない [鶴見 1981]。

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村は、かれらの登場とともにふたたび「観光地のクタビーチ」として、活気を

取り戻すようになる。

では、なぜヒッピーたちがクタビーチのおもなゲストとなったのだろうか。

『アジアを知るために』のなかで鶴見良行は、かれらヒッピーがクタビーチ

にやってきた理由を、次の 2 点にまとめている。まず、1 点目は、クタ村が持

つ「原始性」である。ヒッピーたちは、ヴェトナム戦争のさなかサンフランシ

スコで発生して以来、反商業主義、反時流の体質を持っている。社会的運動と

しての側面は、かれら自身が体制に吸収されてしまったために失われてしまっ

たが、個人的体質として初期の空気が残っている。こうしたヒッピーたちにと

って、島の生活はほどほどに快適であり、バリ文化はほどほどの原始性であっ

た。それに、2 点目の理由は、「物価の安さ」である。鶴見は、それを、インド

ネシアの首都であるジャカルタのホテルとくらべて説明している。当時のジャ

カルタには、ドル札を財布一杯つめたアメリカ人、日本人が泊まる高級ホテル

か、地方の人びとが「上京」したときに泊まる商人宿しかなく、中級旅館が少

なかった。しかし、バリ島では、耐えられるほどの住と適度に洋化した食とが、

相対的に安い価格で得られたのである [鶴見 1981:140-141]。

つまり、ヒッピーたちがクタにやってきたのは、ほどほどの原始性と適度の

洋化があったからであり、その洋化もまた、第 1 次クタ・ブームがクタに残し

ていった、「観光地としての痕跡」だったのかもしれない。

クタビーチにおいて、ゲストとして登場したヒッピーたちは、現在のクタ地

区を形づくった人びとである。そして、1970 年代にヒッピーたちが残した文化

的影響は、30 年が経ったいまも依然として町の隅ずみでみかけることができる。

たとえは、クタ地区に多くあるナイトクラブやレコード店は、その代表的な

ものである。クタ地区を歩いているとやたらと聞こえてくるボブ・マーリー

(Bob Marley)のレゲエ・ミュージックや、かれの顔をモチーフにした数々の

土産は、クタが一時期ヒッピーたちのめざすアジアの聖地であったことを示し

ているとどうじに、クタをおとずれる中年代の観光客に、「なつかしさ」を提供

する商業的機能もはたしていると考えられる(図 4 参照)。

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また、「ロスメン」とよばれる安宿システムの登場もその例としてたとえられ

る。1970 年代にクタビーチに滞在していたヒッピーたちは、最初、一般庶民の

家に泊めてもらう取り決めがあったようだが、それが、次つぎにくる外国人客

のために主人がつねに備えておく「ホームステイ」という宿泊システムに発展

した。その後、地元の屋台から、レストランやまかないつき下宿形式の宿泊施

設のネットワークができあがり、クタは単独の観光エリアとなった [ヴィッカー

ズ 2000:298]。現在もクタ地区にはこの「ロスメン」とよばれる宿泊施設が数多

く存在しており、なかでもホピス通り( Jalan poppies)には古くからロスメン

が集中している。

図 4 ボブ・マーリー・グッズを製作中の土産店の男性

2004 年、クタ、著者撮影

1970 年代のヒッピーたちによる第 2 次クタ・ブームは、このように、アメリ

カ発の当時の若者文化によって作られたものであった。そして、それは、ヴェ

トナム戦争の終了後も、消えることなくつづいていた。

1980 年代には、インドネシアからもっとも近い距離にある白人社会、オース

トラリアからの観光客が急速に増えた。ヒッピーたちのアメリカン・カルチャ

ーにつづいて、かれらがクタビーチに持ち込んだのは、現在のクタビーチを語

るさいに欠かせない、「サーフィン・カルチャー」であった。ヒッピーたちの文

化とこのサーフィンは、驚くほどにうまく組み合わされるものであった。

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オーストラリア人サーファーたちによってもたされたサーフィン・カルチャ

ーは、クタビーチを、バリ島観光におけるまったく別の観光空間――長い間バ

リ島観光を支えてきた、バリの伝統文化をめぐる観光のパターンとは区別され

る――として、世界的なマリン・リトート地にさせるきっかけとなった。

このようにして戦後のクタビーチは生き返った。そして 1990 年代にクタビー

チが第 3 次クタ・ブームをむかえるまでに、そこに「ゲスト」として存在して

いたのは、ヒッピーやサーファーといった白人の若者観光客であった。

(3)「日本人」がゲストとなる 1990 年代以降

1 年間にバリ島をおとずれる海外観光客のうち、日本人が占めるパーセンテ

ージは、きわめて高い。 1990 年代から増えはじめた日本人観光客数は、 2004

年の時点で 32 万人を記録し、全体観光客のなかでも 1 位を占める 14。今日のバ

リ島観光は、もう、日本人をぬきにしては語ることができなくなっているとい

っても過言ではない。

歴史的に日本とバリ島の関係をたどってみると、やはりそれは、前述した「大

東亜戦争」からはじまっている。その後バリ島の観光開発に日本政府がかかわ

っていたことは、日本人観光客がバリ島のおもなゲストとなっていく過程にお

いて、重要な役割をはたしたと考えられる。とはいえ、帝国主義の延長線上で

企画されたサヌール地区の高級ホテル開発は、一部の裕福な日本人がバリ島に

来るきっかけをつくっただけであった。当時の日本の一般庶民にとってそれは、

自分たちの政府が、敗戦の結果として世界各地でおこなっている「賠償行為」

の一部にすぎなかったのだ。

それが、1990 年代に入って一気に状況を変え、第 3 次クタ・ブームの主役が

日本人となってしまったのはなぜであろうか。1970 年代にはヒッピーたちの、

1980 年代にはオーストラリアのサーファーたちのたまり場であったクタビー

チは、何をきっかけに日本人を新たなゲストとして迎え入れたのであろうか。

14

バリ州政府観光局(Dinas Pariwisata Provinsi Bali)の統計によるもの。

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答えは、「バブル」である。

1980 年代から 1990 年代初頭の日本は、「バブル景気」といわれる日本経済史

上の好景気がつづいていた。円高に支えられた日本経済は、人びとの消費欲を

刺激し、やがてそれは「海外旅行ブーム」を呼び起こす原因にもなった。1970

年代には、ジャンボジェット機が就航し、渡航費の値下げが開始されていた。

その影響もあって、海外を旅行する日本人観光客は急速に増えはじめ、1980 年

代からは、増加する観光客のニーズにあわせ、航空会社、旅行代理店などの観

光産業も次つぎとあらわれた。

敗戦後から高度成長期をむかえるまで、日本国民にとって高嶺の花にすぎな

かった海外旅行は、このようにしてバブル経済のなかで大衆化された。また、

「格安航空券の専門店」や「旅行関連メディア(ガイドブック、ツアーカタロ

グ誌など)」の登場は、バブルが崩壊した後にも消えることなかった海外旅行ブ

ームに拍車をかけるものであった。

クタビーチにおける日本人観光客の増加は、このような国内の背景によって

説明されるものであった。

1970 年代、クタにふたたびブームを起こした白人ヒッピーたちは、アジアに

たいする漠然とした「オリエンタリズム 」を抱いてバリ島にやってきては、ク

タビーチに白人文化を植えつけた。それにたいして、1990 年代にやってきた同

じアジア人である日本人に、ヒッピーたちのような白人がもつ「オリエンタリ

ズム」が存在するはずはなかったと思われる。

しかし、クタビーチにやってきた日本人観光客が目にしたクタの現実は、非

常に複雑なものであった。日本人観光客は、「神々の島」、「芸術の島」といった、

旅行会社やガイドブックの宣伝文句につられてバリ島にやってきては、バリ島

のなかでもっともにぎわうクタ地区にて、第 2 次クタ・ビームの影響としての

残っていたヒッピー・カルチャーに出会ってしまうのであった。当時までは日

本にあまり紹介されていなかった「サーフィン」を楽しんでいる白人や、トッ

プレスの姿でビーチに寝転がっている白人女性たちの姿をみて、日本人観光客

は何を感じたのであろうか。

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このことに関して文化人類学者の山下晋司は、「バリ島をおとずれる日本人観

光客は、日本人、白人そしてアジア人というアイデンティティの三極構造のな

かを揺れ動」くと述べている [山下 2000]。さらに山中速人のことばを借りてい

えば「オリエンタリズムとしてのアジア観は、たんに西洋の側にだけ存在して

いるのではなく、近代化の過程のなかで、日本人をふくめてアジアの人びと自

体がそのような西洋的なアジア観を、自分たちのものとして受け入れてき」た

と解釈している [山中 2000]。このような解釈は、たしかにバリ島全体の観光開

発における「イメージの生産・供給過程」と、日本人の「バリ島観のスタイル」

を理解するには非常に役に立つものである。しかし、地域をクタビーチに限定

して、第 3 次クタ・ブーム――現在も進行中の――におけるゲストの変容を考

える場合、両者の解釈――オリエンタリズム、三極構造のアイデンティティ―

―は、いずれも時代遅れ的な発想になってしまう。

なぜかといえば、現在のクタビーチには、本論文の最初で述べたわたしの体

験のように、ビーチボーイたちの経済的ターゲットになることを恐れ、「韓国人

(または中国、台湾人)のふりをする日本人」もあらわれているからだ。する

と、山下晋司のいう日本人観光客の「アジア人としてのアイデンティティ」は、

どのようにして理解すればいいのだろうか。

日本人観光客がクタビーチに来て、白人文化のなかで自分たちのアイデンテ

ィティにとまどっていたのと同じく、今度は日本人と外観が変わらない韓国人

や中国人が、現在のクタにみられる日本文化――日本語を話す現地のインドネ

シア人の多さ、バリ島の土産として売られている木製のマネキネコ、やたらと

目につく日本食レストランなど――に惑わされているのである。そこで、かれ

の解釈をもちいてわたし自身のアイデンティティを説明すると、それは「日本

人、白人、アジア人」の三極構造でなく、「韓国人、日本人、白人、アジア人」

とさらに複雑になってしまうのではないか。

それに、山中速人のいう「オリエンタリズムとしてのアジア観」が、増えつ

つあるアジア諸国の観光客全体をもって説明されるためには、まず、日本人観

光客によって変容された 1990 年代以降のバリ島をより詳しく分析してみる必

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要がある。もはや、バリ島でみられるゲスト側の構造は、白人対日本人(アジ

ア人)ではなく、アジアのなかの日本人対日本人以外のアジアの構造としても

浮かびあがってきている。

かつて、西洋による帝国主義を論じるために E.サイードによって使われ始

めた「オリエンタリズム」ということばは、アメリカの文化帝国主義による現

代社会のグローバル化を論じるさいにも同じくもちいられていることばである。

そのため、現在のクタ・ブームは、世界史という大きな枠のなかで、「西洋の帝

国主義の一部」であることを否めなくなっている。しかし、本論文でわたしが

強調したいのはそういうことではない。

クタビーチ・ブームの現在を考察するにあたって忘れてはいけないのは、バ

リ島観光が西洋の帝国主義の産物であると同時に、「日本経済の延長線上」にお

かれていることである。よって、日本の経済によって刺激されるバリ島の観光

活動のホストとゲストは、つねに日本社会の状況に応じて変化しつつある。

それに加え、クタビーチ・ブームの流れを考察するさいにもうひとつ大事な

のは、日本にかぎらず現在までのおもなゲストがつねに「若者」でありつづけ

ている点である。ゲスト世界のグローバル化は、かれらの国籍をアメリカ人、

オーストラリア人から日本人(またそのほかのアジア人)に変化させた。しか

し、かれらがおもに若者であることは、クタビーチ・ブームの普遍の特徴とも

いえよう。

「グローバル世代」ともよばれる現在のゲストたちは、西洋人であれ、アジ

ア人であれ、「若者文化」という共通のつながりでクタビーチに共存している。

かれらが楽しむサーフィンというスポーツは、オーストリア人サーファー専用

のものではなく、バックパッカーという旅行のスタイルも、ヒッピーにかぎる

ものではなくなっている。もはや、かれらの共有するクタビーチカルチャーに

国籍はない。

つまり、クタビーチの様子は、かれらが持ち込むそれぞれの時代の流行に大

いに影響を受け、ゲストの変化はそれぞれの若者たちが属している社会を反映

しているのである。

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30

とはいうものの、第 3 次クタ・ブームのゲストたちは、それ以前の若者たち

にくらべて決定的に異なる特徴をもっている。それは、ヒッピー・カルチャー

やサーフィン・カルチャーをもふくめるクタビーチのレジャー活動に、新たな

「経済的発想」を持ち込んだと考えられる、日本人女性観光客とビーチボーイ

の関係を例に説明することができる。

「あなたはなぜひとりでビーチを歩いているのか? 恋人を探しているの

か?」でみられるホストとゲストの関係が、第 3 次クタビーチ・ブームのなかで

はあらわれるようになる。

日本のガイドブック

現在日本で市販されているバリ島関連ガイドブックは、すぐに手に入るもの

だけでも 20 種類以上ある。それに、バリ島をテーマに書かれた小説、エッセイ、

旅行体験記や、新聞・雑誌の記事などをあわせると、その数はさらに増える。

わたしが調べただけでも、 1980 年代以降日本で出版されたバリ島関連書籍は

150 種類以上にのぼる。それだけではない。日本社会におけるインターネット

の普及は、出版物以外にも、インターネット上に存在する新たな活字メディア

を生み出した。たとえば、個人や旅行会社などが所有しているホームページな

どである。それによって、インターネットで検索できるものをふくめたバリ島

関連の情報は、数えることができないほど存在しているのである。日本人のバ

リ島旅行は、実にさまざまな情報によって支えられているといっても過言では

ない。そのような情報に身をまかせておけば、わたしたちはいながらにしてバ

リ島の旅行体験を積むことすらできる。

ガイドブックの出版は、格安航空券の発売とともに、日本人の海外旅行の大

衆化において、「個人旅行」という新たな観光のパターンを可能にさせた。それ

までの「団体ツアー」――添乗員がついていて、旅行の最初から最後まで添乗

員が観光客の面倒をみてくれる観光のパターン――とは違い、個人旅行は、自

分で旅のスタイルやルートを決めなければならず、旅行者はガイドブックなど

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31

の情報源を頼りにするのである。ようするに、「添乗員」という人間の代役を「ガ

イドブック」という活字メディアが務めるようになったのである。

このような活字メディアの存在は、前述したように、日本人が 1990 年代から

バリ島旅行のおもなゲストとなっていくうえで、良かれ悪しかれ重要な役割を

はたしてきた。日本発バリ島行きの格安航空券を購入し、ガイドブックを手に

持ってバリ島に入ってきた若い日本人個人旅行者たちが、本論文でいう第 3 次

クタ・ブームのゲストである。

では、かれらをクタビーチにまで案内したともいえる「ガイドブック」は、

クタビーチの様子をどのように伝え、かれらにどのような予備知識を提供して

いるのだろうか。

「ジゴロ問題」をめぐって

図 4 は、日本人観光客の間でもっともよく読まれている人気ガイドブック、

『地球の歩き方バリ編』の一部である。図 4 の絵をみればわかるように、上記

の文章は、バリ島をおとずれる日本人観光客、なかでも女性に向かって書かれ

ている。ようするに、「バリ島のクタ・レギアン地域に行けば、ジゴロ(Gigolo:

男の職業ダンサー、売春婦のひも)がいるので、日本人女性は気をつけるべき」

と注意を示しているのである。

バリ島に向かう飛行機のなかでわたしはこのガイドブックを読んだ。当時あ

まりバリ島観光には興味がなかったわたしは、バリ島の有名な観光地が紹介さ

れているところは省いて、「現地情報」と紹介されている項目だけに目を通して

いた。泊まるホテルはどこがいいのか、両替はどこでおこなえればいいのか、

などを知りたかったためにガイドブックを読んでいたら、「クタの安全な歩き

方」という項目のなかで、バリ島における「ジゴロ問題」をはじめて知ったの

である。そしてわたしは、女性の個人旅行者の 1 人として、ガイドブックの情

報を鵜呑みにした。

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<ジゴロ問題>

おもにクタ&レギャンの通りで声をか

けられ、観光やショッピングに誘われる。

相手は 15~ 22 歳の若者で、ジャワ島出身

が多い。親しくなって部屋にいれると、

睡眠薬を飲まされて金品を強奪される。

もっと深刻なのは女性が恋人関係にある

と思い込み、「ふたりでお店を開こう」と

いうジゴロの言葉を信じて多額のお金を

渡してしまうパターン。実際にお店などがオープンしても、離婚すると不動産は名義

登録されたインドネシア人のものになる。

・漫画の説明(上左)

道を歩いている女性に話をかける金髪の男性をさして、「日本語ぺらぺらでーす。」

と書かれている。そして、笑顔でその男性を見ている女性をさして、「バリに来たば

かりでルンルンしている子がおもなターゲット」と書かれている。

・漫画の説明(下)

レストランで、 1 人の女性を 4 人の男性が囲んでおり、「ジゴロの周辺にチヤホヤ

されて自分がバリ島に溶け込んでいる気になるが、かれとあなたの考えていることが

同じとはかぎらない。」と書かれている。また、女性の隣席に座り、手をつないでい

る男性をさして、「ロマンティックな演出はお手のもの」と書かれている。

図 4 日本のガイドブックにみられるクタに関する情報

出所 :『地球の歩き方バリ編 2002- 2003』、 p.189

ところが、バリ島についてクタ地区を歩いていると、ガイドブックのいう「日

本語がぺらぺら」で、「15~22 歳の若者」であり、わたしを「観光やショッピン

グに誘う」人たちは数え切れないほど存在していた。というより、クタ地区に

いる若いインドネシア人男性のほとんどが、ガイドブックに描かれていた「ジ

ゴロ」に見えてきたのである。

日本人女性がかれらに声をかけられる場面はもちろん、なかには恋人同士に

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見える日本人と現地人のカップルも目につく。それに、ビーチ周辺のレストラ

ンに行ったときも、何人かの男性たちに囲まれた日本人女性たちの姿をよく目

撃した。それに、わたし自身も数回かれらに声をかけられた。「あなたかわいい

ね」、「いっしょに散歩しない?」などの片言日本語は、クタ地区のいたるとこ

ろから聞こえてきた。

しかし、どこに行ってもやたらと見えてくるかれらを、すべて、「ジゴロ――

男性の売春婦という意味――」と思ってしまってよいのだろうか。そうである

なら、その根拠は何だろうかと、疑問がわいてきた。

それに関して、バリ島で旅行会社を経営しているある日本人女性は、次のよ

うなことを話していた。

「『ビーチボーイ』、そう、ビーチボーイっていうの。ガイドブックが『ジゴ

ロ』って書いている人たちのことでしょう? ま、ほんもののジゴロもなかに

はいるらしいけど、そうじゃなくて、クタビーチに行けばたくさん見られる若

いサーファーたちとかは、『ビーチボーイ』って言うよ。だって、ジゴロって、

ひどい言い方でしょう? なかには、サーフィンをしないで、ビーチでモノを

売ったりする人もいるけど、だいたい、ビーチにいるインドネシア人の男性た

ちのことは、ビーチボーイって言うのかも。かれらはね、サーフィンを教えた

り、サーフボードをレンタルしたりするのがおもな仕事。それに、日本の女の

子にナンパもするよ。でも、そんなもの、日本と変わらないことでしょう? み

んな若いしね。かれらはほとんど、英語か日本語が話せるから、しゃべってい

るとすごく楽しいし、だから、本当にビーチボーイとつきあうようになった日

本人女性もいるよ。……ビーチボーイたちはね、ほとんど『その日暮らし』が

多くて、あまりお金は持っていない。だから、いっしょに食事したりすると、

だいたい女性のほうが食事代払う場合が多いの。でもね、それはインドネシア

の文化だって。お金は、ある者が払えばいいわけ。日本みたいに自分の分は自

分で払うという感覚が、かれらにはあまりないの。でも、仕事でお金をたくさ

ん稼いだ日は、たまーにだけど、おごってもらえるときもある。(中略)……い

ろいろと、なかには問題児もいるみたいだけど、朝から一生懸命仕事して、家

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族を養っているビーチボーイもいる」。

彼女の説明によれば、ガイドブックでジゴロと紹介した若いインドネシアの

青年たちは、現地では「ビーチボーイ」 15と呼ばれているようであった。しか

し、かれらがジゴロではないビーチボーイであることがわかってからも、わた

しはかれらを、ふつうの「バリ島の青年たち」として受けいれることができな

かったのである。

そして今度は、直接ビーチボーイたちに聞いた。日本のガイドブックで「ジ

ゴロ」と紹介されていることを、かれら自身はどのように受けとめていたのだ

ろうか。何人かの話を紹介してみる。

「常識がないね、日本人の女たち。だって、よく聞かれるよ。『あんたジゴロ?』

ってさ。直接僕の顔を見て言ってくるんだよ。あきれるでしょ? まったく…

…。でもね、あまりきついことは言っちゃいけないと思って我慢する場合が多

いね。言われるのは不愉快だけど、もうしょうがないもんね(32 歳、J の話)」。

「別に、どうでもいいよ。なんとよばれようがおれは気にしない。だって、

それはガイドブックが勝手に書いているだけじゃん。でもさ、そうやってガイ

ドブックが『やつらに近づくな』とおれたちのことを書いても、平気で自分た

ちから先に寄ってくる女の子も多いよ。たとえば、サーフィンのレッスンとか

で仲よくなると、いっしょに食事したり酒飲みにいったりするじゃん? する

と、だいたい女の子たちが先に酔っぱらって甘えてくるのよ。セルフ・コント

ロールができない子が多い。だからおれたちも、『日本の女の子ってナンパしや

すいなー』とよろこぶわけ。おれは別にジゴロって言われるのはいいけど、な

ら、向こうもただの安っぽい女の子よ(22 歳、E の話)」。

「バリにジゴロはおるよ。でも、ほんもののジゴロはクタには用事がないね。

本当のジゴロはね、白人の大金持ちの奥さんがお客さんなんだよ。日本人の女

の子なんて、やつらは相手にもしない。だって、やつらは、バリに別荘もあれ

15 そしてそれは、1980 年代後半から、数々の週刊誌や新聞などのメディア

によって、記事化され、すでに日本国内にも報道されていることばであった。

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ば立派な車も持っている奥さんたちの愛人だもの。しかも、彼女たちからもら

うお金って半端じゃないらしい。まあ、おれもそんな高給とりになりたいけど、

だれでもなれるわけじゃないしなー。

バリのジゴロはみんな芸能人みたいにかっこいいよ。だいたい背も高くて、

顔もつるつる。ビーチに来ないからおれたちみたいに真っ黒にはならないんだ

なー(25 歳、D の話)」。

かれらの話から「ジゴロ問題」の事実を明らかに読みとることはできないか

もしれない。しかし、現地に住む個々人の話を聞いていると、すくなくとも、

ガイドブックの情報がまちかっていることはわかってくる。バリ島には、「ビー

チボーイ」とよばれる青年たちがいるが、ビーチボーイたちの話によるとかれ

らは「ジゴロ」ではないのである。

わたしは本論文で、ジゴロと誤解されているビーチボーイを弁護するつもり

もなければ、日本の女性観光客のかれらとの関わり方を批判するつもりもない。

というのも、間違ったガイドブックの情報によって被害を受けているのは、現

地のビーチボーイ側だけではないからだ。

クタビーチで出会った日本人女性観光客の I さん(26 歳)は、現地のビーチ

ボーイと付きあうようになってから、ひどいうつ病に悩まされている。恋人と

の遠距離交際は、電話やメールでそれなりに克服できることだが、それより彼

女をつらくさせていたのは、彼女の恋愛にたいする周りからの偏見であった。

恋人が「バリの男性」というだけで、周りの知人たちは彼女に、「結局あなたは

だまされている」、「ひどい目に会う前にやめたほうがいい」と言うばかりであ

った。だれも彼女の恋愛をすなおに認めてくれないことに、相当のストレスを

感じたようであった。

そして彼女は、アルバイトで金を貯めてバリに来ては、金がなくなったら日

本に戻ってアルバイトをする、といった生活を 2 年ほど繰り返している。日本

にいると病院にかよわなければならないほどひどいうつ病も、バリに来るとす

ぐ治るからだという。彼女はわたしに、「もし、わたしの恋人が、同じ外国人で

もバリのビーチボーイじゃなくて白人だったら、状況はだいぶ変わったかもし

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れない」と話していた。

このように、バリ島のビーチボーイたちと日本人女性観光客のあいだに存在

する諸問題は、ひとことで「片方がわるい」といえる問題ではない。ただいえ

るのは、本章でとりあげたようなガイドブック――またはクタビーチに関する

国内の情報――が、かれらの出会いそのものをさまたげる原因になっているこ

とであろう。

「ビーチボーイ」という話題

図 7 『朝日ジャーナル』1990 年 11 月 9 日号、p.26-31 図 8 『週刊新潮』2005 年 6 月 23 日号、p.66-70

「ビーチボーイ」ということばは、どうやらバリ島では、日本人を中心にし

てしか使われていなさそうであった。それに、ガイドブックの「ジゴロ問題」

とかかわって、ビーチボーイにたいする日本人観光客の認識は、非常にネガテ

ィブともいえる。

図 7、図 8 をみればわかるように、日本におけるバリ島のビーチボーイの話

題は、今はじまったものではない。それは、15 年前も現在も変わることなく雑

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誌の片隅を飾る話題になりつづけている。そのあいだ変化があったとすれば、

それは、バリ島観光の「裏側」として報道されてきたこれらの記事が、もう裏

でもなく、「表側」になっているということであろう。

日本人女性がバリ島でビーチボーイを「買い」、やがて「日本人妻」としてバ

リ島に暮らすという類の言説は、新聞や雑誌の記者によってつくられるだけで

はなく、観光客自身が編集するホームページやインターネットの掲示板などで

も広められるようになっている。いくつかの例をあげれば、「裏バリちゃんねる」

16や、ヤフーの掲示板内にある「バリ島ジゴロの名前一挙公開!」17などといっ

たウェブサイトがある。インターネットで検索してみると、バリ島のビーチボ

ーイやジゴロに関する現地の情報を提供する旅行者たちのコミュニティーは簡

単にみつけられる。このようなコミュニティーの掲示板には、観光客自身がバ

リ島で会ったビーチボーイやジゴロに関する内容が満載されている。そこには、

ビーチボーイの容貌や名前までが具体的にあげられており、「○○というビーチ

ボーイは詐欺師だから気をつけてください」、「違う、○○はわたしの友達だが、

何も危ない人物ではない」などと、旅行者自身がビーチボーイに関する情報を

直接交換している場面がみられている。

つまり、現在の日本の観光客は、ガイドブックからの情報を「受けとる立場」

でありながら、その一方で情報を「発信する立場」にもなっている。そしてそ

れは、第 3 次クタビーチ・ブームのゲストである日本人が、「バブル世代」から

「グローバル世代」への変化したことを意味するのである。しかし、そのよう

な世代の変化とは無関係に、ビーチボーイに関する情報の中身は昔も今も同じ

内容をみせている。

どころで、日本人観光客のあいだで話題になっている「ビーチボーイ」は、

日本人以外のバリ島観光客にどのような存在として知られているのだろうか。

わたしはそれを知るために、何人かの白人観光客とビーチボーイに関する話

をしたことがある。その結果、まず、欧米人の間では、ビーチボーイというこ

16

裏バリちゃんねる[2005:http://jbbs.livedoor.jp/travel/2192/]参照のこと。 17

ヤフー!掲示板 [2005:http://messages.yahoo.co.jp/index.html]参照のこと。

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とばはあまり使われていないことがわかった。かれらはむしろ、ビーチボーイ

のことを、「ローカルのサーファー」と呼んだり、ビーチで働いている人びとと

いったイメージの「ビーチ・ワーカー」、「ビーチ・ピープル」などの英語で表

現したりした。もちろんなかには、かれらのことを「ジゴロ」、「セックスワー

カー」と呼ぶ人も少なくなかったが、その場合にもかれらは、ビーチボーイと

いうことばは使わない。

1980 年代にオーストラリアからの観光客が増えたさい、日本のガイドブック

と同じような「ジゴロ問題」は、オーストラリア女性観光客とバリの若者たち

のあいだにもみられるものであった。しかしそのさいもちいられたことばは、

なんと「クタ・カウボーイ(Kuta cowboy)」ということばであった 18。白人観

光客のいうクタビーチのジゴロ問題は、「クタ・カウボーイ」と「白人女性観光

客」がその対象であったのだ。そのため、白人観光客にビーチボーイに関する

質問をしても、かれらのほとんどはそのことばを知らなかった。

つまり、ビーチボーイということばは、アメリカやオーストラリアではその

意味が通じない、「和製英語」であったのである。よって、ビーチボーイという

ことばを使ってすんなりとその意味が通じるのは、じつは、日本人観光客とビ

ーチボーイ本人たちだけということになる。

結局のところビーチボーイは、日本人観光客の増加をきっかけに登場し、日

本のジャーナリズムによってネガティブな話題としてとりあげられ、日本の個

人旅行者たちの持ち歩くガイドブックにも紹介された、「日本製」の情報なので

あった。

(4)よその島から語るバリ島

18

Bali’s Kuta Cowboys-Asia for visitors, Greg Cruey, 2004

[http://goasia.about.com/cs/azsiteindex/a/aa010501.htm]と、そのほかの Kuta

cowboys に関する個人ホームページ、加えて現地でのインタビューを参照のこ

と。

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39

1 回目のバリ島旅行はわたしに、ビーチボーイの存在を気づかせただけで、

あまりにもはやく終わってしまった。その後わたしは、バリ島から飛行機に乗

って、当時の目的地であったスラウェシ(Sulawesi)島のマッカサル(Makassar)

に向かった。

スラウェシ島は、インドネシアのほぼ中心に位置し、アルファベットの「K」

字のような形をした、インドネシア第 4 位の大きさの島である。なかでも、わ

たしがおとずれたマッカサルは、島の最南端に位置する南スラウェシ州の州都

であり、島内最大規模の都市である。バリ島から国内線の航空便を使うと、約

2 時間でマッカサルにつく。

しかし、飛行機から降りたとたん、その雰囲気がバリ島とはあまりにも異な

っていることに気がついた。市内を歩いていても、観光客の姿はほとんどみか

けず、町の景色や人びとの服装から、ここが、世界最大のイスラーム人口を抱

えているインドネシアであることを実感した。同じインドネシアとはいえ、宗

教や民族が異なるだけに、景色も変わっていたのである。

1 ヶ月あまりの滞在期間中にわたしは、マッカサルで会った何人かの人たち

とバリ島についての会話を交わしたことがある。そこで聞いた話をもとに、本

章では、「よその島からみたバリ島は、どのようなイメージの島なのか」に関す

るいくつかの話を紹介してみたい。

若いインドネシア人男性にとって、バリ島は、憧れの島のようであった。マ

ッカサルの大学で英文学を専攻している大学院生のアノ(26 歳)は、ここに来

る前に数日間バリ島に滞在したというわたしの話を聞いて、次のようなことを

話してくれた。

「バリ島にはまだ 1 回しか行ったことがないけど、わたしは、いつかバリに

行って暮らすつもりだ。わたしの夢は、タトゥー(刺青)のデザイナーになる

ことだ。でも、マッカサルでタトゥーの仕事なんて、ありえない。まず、タト

ゥーにたいする認知度も低いし、何よりもいけないのは、刺青自体が、イスラ

ーム教では認められない行為だからだ。告白しておくと、わたしは、だいぶ変

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40

なムスリムかもしれない。もちろんきちんと 1 日 5 回のお祈りはしているし、

神さまは信じている。しかし、宗教のせいで夢をすてるなんて、わたしには理

解できないところがある。基本的に神は信じるけど、自分の夢も大事なのだ。

バリ島に行けば、いろんな国からの観光客も来るし、多くの観光客がイミテー

ションでもいいからタトゥーをしてみたがる。水着のように、タトゥーもファ

ッションのひとつだから。……わたしがバリ島に暮らしたい理由はそこにある。

自分の好きなことをしながら金も稼げることが、マッカサルだとできないから

だ」。アノの話によると、かれの兄は 2 年前からバリ島に出稼ぎにいっていると

いう。何の仕事をしているのかは、かれもよくわからないといっていたが、兄

の状況が落ちついて自分も大学院を卒業したら、いっしょにバリ島で暮らす予

定だそうだ。

今度は、マッカサルに住む中年男性の話を聞いてみよう。

現地でレンタカー会社を運営しながら、日本語のガイドとしても活躍してい

るマルセリウス(39 歳)は、20 年ほど前にフローレス(Flores)島からマッカ

サルに移民してきたのだが、移民先を選ぶのにあたってバリ島行きとマッカサ

ル行きでかなり迷った経験がある。1980 年代、バリ島に開発が進み、「バリ島

に行けばお金をたくさん稼げる」といった噂が国内に広まっていたなかで、20

歳そこそこの青年だったマルセリウスは、なぜバリ島ではないスラウェシ行き

を決心したのだろうか。それについてマルセリウスは、次のように語った。

「当時、もしわたしがバリに行ったのなら、たしかにお金はすぐに稼げたか

もしれない。しかし、田舎者のわたしに、その時のバリは、とにかく怖かった。

外国人はうまれて 1 度も会ったことがなかったし。しかも、そのとき若者たち

がバリに集まっていくのをみて、こんなことも考えた。お金がたくさん稼げた

ところで、とうぜんその分物価も高いはずだし、あちこちから人が集まって来

るから、犯罪も多いだろう。外国人のいっぱいいるところでいつどんな目にあ

うかわからないとね。……日本語を覚えたのは、マッカサルに来てからのこと

だ。偶然のチャンスで日本人ビジネスマンの手伝いをしていたのだが、ことば

が話せたらもっといろんな仕事があるだろうと思って独学した。それで、スラ

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ウェシ島でははじめての、日本語ガイドになった。しかし、ガイドになってか

らもう 1 度バリ島の誘惑があった。バリ島にはここよりもっと日本人が来るか

ら、バリでガイドをしようと思って、一時期真剣に迷ったこともあった。でも、

やはり、やめたほうがいいかなーと。マッカサルで、ふつうに、インドネシア

人の間で働いたほうがいいと結論を出した。正直にいうと、行く勇気もなかっ

たかもしれない。でも、そのときの選択に後悔はない。だって、今のバリ島で

日本語のガイドじゃ、数え切れないほどいる。お金はたくさん稼げるけど、競

走もひどそうだったから。しかしスラウェシ島では、わたしが日本語ガイドの

第 1 号だったので、仕事も結構わたしにまわってきていた。バリにくらべれば

観光客は少なかったけど、ビジネスマンの日本人や調査しに来る大学の先生た

ちのガイドをする仕事は、長くつづいた。そのおかげでいろんな日本人との付

き合いもできた。だから、バリ島には行かなくてよかったかもしれないと、今

はそう思っているのだ」。

スラウェシ島での滞在中に現地の人びとから聞いた話は、わたしの「ビーチ

ボーイ」に関する好奇心にもう 1 度火をつけたともいえる。

大学生のアノの将来図にも、若いころのマルセリウスの選択にも、バリ島は、

インドネシアの青年たちに「行けばなにかがある」という期待を持たせる場所

なのであった。マルセリウスのように「バリに行けばお金をたくさん稼げる」

と思う青年がいれば、アノのように「バリ島にいればマッカサルでは叶わない

夢が実現できるかもしれない」と思う青年たちもいる。「行けばなにかある」と

いうかれらの発想が、実際にどのような現実とむすびつくのかは別問題として、

かれらは、20 年前も現在もあいかわらず、バリ島に行く前からバリ島に希望を

よせているのである。

(5)フロンティア空間としてのクタビーチ

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現在のクタを世界的観光地にさせたのは、さきほど述べた「行けばなにかあ

る」という発想がそのはじまりだったかもしれない。

1970 年代のヒッピーたちは、反政府主義・反時流主義を背負ってクタに入っ

てきた。かれらは、自分たちが嫌がっていた当時の社会状況から逃れるために、

つまりバリに「行けば」そのような状況は存在しないはずだという希望――「オ

リエンタリズム」としての説明も可能である――を抱いてバリ島にやってきた。

また、1990 年代からクタに大量に増えはじめた日本人観光客たちも、戦後高度

成長期やバブルを経験しているうちに日本社会が見失ってしまった「なにか」

を求めてバリ島に入ってきたと考えられる。

ようするに、クタビーチの現在をつくりあげた人びとは、このように、「よそ

の島」からやってくるインドネシアの若者と、「よその国」からやってくる観光

客の若者であった。ビーチボーイの登場背景を知るためには、まず、こういっ

た「よそからの若者たち」の移動を念頭におかなければならない。

東南アジア研究者である田中耕司は、「世界を異にする人たちが相互に交差す

ることによってできあがる、ある種の流動的で混沌とした空間、すなわちそこ

に行けば、あるいはそこを超えて向こうに行けば利益になるものがある、そん

なイメージの地域」を、「フロンティア空間」19ということばをもちいて説明し

ている [田中 1993]。

田中のことばを借りれば、バリ島のクタビーチは、ホスト、ゲスト双方にと

19

フロンティアということばは、「ある領域の果てるところ、あるいは別の国

に面した境界と言う意味」で使われており、アメリカ合衆国の建国史において、

歴史学者のターナー(F. J. Tunner)が提唱した「フロンティア仮説( frontier

hypothesis)」に登場することばであった。それは、北米大陸西部への開拓前線

(フロンティア)が、現在のアメリカ合衆国を形づくっていったという仮説で

ある。それを東南アジア研究に結びつけた田中は、アメリカ西部の開拓前線と

同じようなフロンティアが、東南アジアではずいぶん以前から各地で展開して

いたことに注目している。また、開拓前線とは対極にある都市も、複数民族の

参入によって形成されるフロンティア空間だといい、それを「社会文化空間と

してのフロンティア」ということばで説明している。

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っての「フロンティア空間」である。クタのもつ「フロンティア性」をぬきに、

バリ島観光の発展過程を語ることはできなくなっている。

バリ島に関するさまざまな噂(=情報)がかれらの移動を呼び起こし、移動

してきた人びとは、そこにもともと定住していたバリ人たちをふくめて、多民

族・多言語世界としてのクタビーチを作りあげた。このように考えていると、

わたしがホストとゲストに二分化してしまった両者は、結局のところ、クタに

共存する「よそもの同士」かつ「若者同士」ともいえるのである。

ところが、そうするとひとつ問題点が浮かびあがってくる。それは、バリ島

観光のもっとも古いホストである「バリ島民」たちの存在が見えなくなってし

まうということである。

(6)ホスト社会の変容

1970 年代、第 2 次クタ・ブームのなかで「アナック・パンタイ(Anak Pantai)」

は登場した。アナック・パンタイとは、インドネシア語で「海辺のこども」を

意味し、それは最初、クタ村周辺に住むバリ人の青年たちに向かって使われた

ことばであった 20。ビーチの周辺にいながら観光客に必要なものを販売し、サ

ーフィンができる海岸にかれらを案内するなど、観光客に必要なさまざまなサ

ービスを提供するのが、かれらバリニーズ・アナック・パンタイのおもな活動

であった。なかにはみずからサーフィンに興味をいだいて、観光客からサーフ

ィン技術を学び、サーファーになるバリ人もいた 21。

20

現在も、現地の人たちは、アナック・パンタイということばを使っており、

よばれる対象は、ビーチにいて経済活動をおこなっている若い男性や子供のこ

とをさす(バリ人に限ることばではない)。 21

クタビーチでサーフィンをしている白人たちの様子をはじめて目にしたバ

リ人たちは、サーフィンの様子がバリの伝統舞踊に似ていると感じ、サーフィ

ンに興味をしめすようになった。クットゥッ・メンダ(Ktut Menda)というバ

リ人男性は、1970 年代にバリ島をおとずれたあるオーストラリア人サーファー

によりサーフィン技術を学び、のちにバリ島最初のサーファーとして世界的規

模のサーフィン大会で数回チャンピオンとなった。かれの優勝をきっかけに、

世界的サーフボードのブランドが、次つぎとクタ地区に開店し、バリ島におけ

るサーフィンビジネスは、現在も盛況をみせている [Mabbett 1987]。

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しかし、当時のバリニーズ・アナック・パンタイは、「仕事」と呼べるほど専

門化されているものではなかった。それは、クタ村に住む青年たちにとっては

興味の対象である、白人観光客との「出会いの場」を提供するものとして、経

済活動とは直接的にむすびつかなかったのである。

とくに、第 2 次クタ・ブームにおけるおもなゲストは、ヒッピーたちだった

のだが、かれらは、食事代や観光用芸能の観覧料、おみやげの木彫りの代金、

宿泊料などを払わないことで、バリの人びとにとってはあまり歓迎されない存

在でもあった。ヒッピーたちはかれらのイメージのなかでバリを理想化し、バ

リ人が踊るのは経済的理由ではなく、宗教的・芸術的な理由からなので、芸能

の観覧料を払う必要はないと考えていたのである [山下 1999]。そのため、ヒッ

ピーたちにとってバリ人のアナック・パンタイは、かれらの「現地人の友達」

ではあったが、金を払うべき対象としては認識されていなかったのである。

また、サーファーたちとの関係においても、当時のバリニーズ・アナック・

パンタイは、仕事といいがたいところがあった。現在のビーチボーイたちは、

観光客にサーフィンを教えたり、サーフボードをレンタルしたりして金を稼い

でいる場合が多いが、当時のサーファーは、ほとんどが自分のサーフボードを

持ってバリ島に入ってきた。しかも、サーファーたちは、クタのアナック・パ

ンタイたちにサーフィンの技術を教授した存在でもあった。よって、第 2 次ク

タ・ブームにおけるゲスト(=白人若者)とホスト(バリニーズ・アナック・

パンタイ)は、けっして「金」によってつながっているものではなかったこと

がわかる。

しかし、この両者の出会いがクタビーチに「アナック・パンタイ」という新

たな職――経済活動とはむすびつかないにしても――を生み出したのは事実で

ある。

わたしは、調査の最初のころ、このようなアナック・パンタイの存在が、現

在の「ビーチボーイ」の起源だと考えていた。ようするに、「現在のビーチボーイ

はアナック・パンタイというインドネシア語がグローバリゼーションの影響で

そのまま英訳されたもの」という仮説を立てていたのである。

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45

ところが、仮説は崩れてしまった。というのも、現在のビーチボーイは、ク

タビーチ開発の初期にあらわれたバリ人のアナック・パンタイとは大いに異な

る性格を持っており、アナック・パンタイ(海辺のこども)=ビーチ・ボーイ

(海辺の少年)という単純な語彙上の翻訳が、ここではもう成り立たなくなっ

ていたからである。

インドネシア語では、初期にあらわれたバリニーズ・アナック・パンタイも

現在のビーチボーイも、同じく「アナック・パンタイ」である。しかし、現在の

クタビーチにバリニーズ・アナック・パンタイはほとんど存在しない。バリ人

ではない移民のアナック・パンタイが、日本人観光客によって「ビーチボーイ」

と呼ばれ、かれらがクタビーチにおける新しいホストの役割をはたしているの

である。

ゲストの変化にくらべて、ホストの変化がよくみえてこなかった理由はそこ

にある。ゲストの変化過程において、「和製英語のビーチボーイ」ということば

が新たに登場したのとは無関係に、「インドネシア語のアナック・パンタイ」と

いうことば自体には変化がなかったからだ。

インドネシアは、「多様性の統一」という理念のもとで、言語や文化を異にす

る数千の島じまをひとつにまとめてつくりあげられた、誕生以来 60 年も経って

いない「新しい」国民国家である。そのため、本来のホストであるバリ人と、

よそものであるビーチボーイの関係は、「同じ国民」ではありながら「違う民族」

という、ややわかりにくい構造である。

しかし、バリ島にて、自分に与えられた休暇を最大限楽しむことを目標とし

ている観光客にとって、そういった呼び方の問題はあまり重要でないかもしれ

ない。というのも、クタビーチをおとずれる観光客がもっともよく犯してしま

う 誤 り は 、 ビ ー チ で 出 会 っ た ビ ー チ ボ ー イ の こ と を 、「 わ た し の バ リ 人

(Balinese)の友達」と表現することに顕著である。なかでも日本人や韓国人

のように「多民族性」にたいする認識が極端に薄い国ぐにからの観光客は、欧

米からの観光客より、そういった誤りを犯しやすいのである。

それにもかかわらず、ほとんどのガイドブックは、バリ島のクタビーチを紹

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46

介するなかで、「さまざまな国の観光客が集まる多国籍空間」という表現は使っ

ても、そのなかにいるインドネシア人の多民族性に関する情報にはあまり触れ

ていない。

(7)国内移民政策とクタビーチのオラン・パンタイ

1965 年から 1998 年までつづいたスハルト政権は、ジャワ島の人口過密を緩

和し、ジャカルタの主導権を国内の主要な島じまに浸透させることを目的に「ト

ランスミグラシ(国内移民政策)」22を展開させた。それに、1980 年代末の原油

価額の低落によるオイルショックが発生すると、政府によるバリ島の観光開発

には拍車がかかった。

1970 年代からはじまる「クタビーチ・ブーム」は、観光客だけではなく、バ

リ島以外に住む多くのインドネシア人にもその影響を及ぼしていた。まるで、

アメリカの「西部開拓時代」のように、多くのインドネシア人が夢と希望をも

ってバリ島に渡ってきたのである。年々拡大をつづけるバリの観光産業は、イ

ンドネシア全体の外貨獲得に大きく貢献するとともに、雇用の場を提供しつづ

け、他の島じまからやってくる出稼ぎ就労者は現在も後を絶たない状況にある。

移民による社会の変化は、とうぜんバリ島住民たちの不満をつくりだすもので

あったが、ほとんどのバリ人はそれをバリ島の発展における必要不可欠な現状

として受け入れた 23。

かれら出稼ぎ就労者の職種は、ホテルやレストランの従業員、大工、女性の

22

「トランスミグラシ」は、偏った人口分布と農業生産を背景とし、今世紀は

じめからオランダ植民地政庁によってはじめられた移住政策である。第二次世

界大戦後、インドネシア共和国が独立し、移住政策は 1950 年に再開された。そ

の目的は、均等な人口分布と均衝な地域開発を実現し、国民の福祉向上、およ

び国家の安全保障を図ることにあった[綾部編 1983]。 23

1980 年代に行われたヌサ・ドゥア地区の開発にあたってインドネシア政府は、

雇用の促進を理由に用地を買取しておきながら、じっさいにホテルができてみ

ると、外国語ができないなどの理由から、地元住民は職に就けず、バリ島外か

ら出稼ぎに来ているジャワ人が雇用されるというケースがしばしば見られ、バ

リ島民たちの不満をつくりだした [山下 2000]。

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47

場合は、カラオケの従業員、美容師やマッサージ師と多岐にわたる。また、正

式な職としては認められていないが、さまざまな経済活動をおこなっている人

びとが多くいる。

たとえば、セックスワーカー、ストリート・ミュージシャン、カキリマ(路

上で屋台を営業しているひと)、アソンガン(交差点で信号待ちをしている車に

商品や新聞などを売り歩くひと)などである 24。

それだけではない。バリ島への国内移民を語るさいに忘れてはならないのは、

「オラン・チナー(Orang Cina)」とよばれる中国系インドネシア人たちの存在

である。かれらもまたこの時期にインドネシアの各地からバリ島に移民し、バ

リ島の観光の隅ずみで事業を起こした。現在も財力の面において中国系インド

ネシア人は、海外からの投資家とともにバリ島の経済を動かしている重要な存

在といえる。

バリ島の観光業の進展に、移民は仕事を求めて次つぎと渡ってきた。しかし、

すべての観光地においてかれらに職が提供されたわけではない。というのも、

バリ観光におけるメイン商品は、バリ人の伝統文化をめぐるツアー(たとえば、

ケチャダンスやガムランの演奏観覧、寺社見学など)であるからだ。もちろん、

かれらの伝統文化が観光発展のなかで変容され、たんなるみせものとして演出

されていることは、いまや観光客自身もよく知っている。しかし、とはいうも

のの、演出する側にまで変容があったわけではない。それが演出であろうが、

商売のためのパフォーマンスであろうが、主体はいつも「バリ人」であるから

だ。ジャワ島出身の移民がケチャダンスを踊ったり、中国系インドネシア人が

ヒンドゥー寺院の入り口で観光客をむかえたりすることは、まず、みられない。

そして、国内移民政策で参入してきたほとんどの移民たちは、バリ人ではな

24正式に認められていない職種のことをさして、かれらを「インフォーマルセ

クター」と呼ぶ場合もある。それは、国際労働機関( ILO)が指摘する、①だ

れもが入りやすい②(その生産性が)伝統的資源にもとづいている、③家族構

成員が狙い手である、④小規模である、⑤労働力中心で適当な記述を使用する、

⑥学校以外から知識を習得する、⑦無秩序でしかも競争的な市場である。この

用語は、開発途上国を対象とする研究においてよく用いられ、インドネシアの

諸都市においても、インフォーマル労働者に研究は 1970~80 年代を通じて多数

発表されている [ドウィアント 2003]。

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くても仕事ができる、マリン・リゾート地やそのほかのレジャー施設などに集中

するようになった。とくに、クタビーチなどのマリン・リゾート地域は、かれ

らにとっての絶好の仕事場であった。ビーチ沿いにいながら、観光客を相手に

さまざまなモノを提供したり、即席でマッサージなどのサービスを提供するこ

とからかれらは金を稼ぐことができた。それは、観光客にも都合のよいことで

あり、かれらは、ビーチにいながらコーラを飲むことができ、ビーチで日光浴

をあびながら、または本を読みながらマッサージをしてもらうことができるよ

うになったのである。ビーチで仕事をするかれは、インドネシア語でオラン・

パンタイ(Orang Pantai:海辺の人)と呼ばれ、なかにはバリ人もいるが、ほと

んどが移民の労働者である。

現在、クタビーチのオラン・パンタイは、原則として経済活動をおこなうた

めの「権利」をバリ州から購入しなければならない。払う金額は業種により異

なるが、州の許可なしにモノを売ることは、法律で禁止されている。かれらは

バリ州から発行された許可証をつねに持っていなければならず、なかには、そ

れを首にかけている人たちも多数いる。

しかし、そのようなシステムができあがったのは、つい最近のことだという。

それまでは移民のだれもがクタビーチにいけば経済活動をすることができ、ク

タは、バリ島のなかでも移民たちを無条件に受け入れる唯一の場所であった。

それが、2002 年にクタで起きた爆弾テロ事件 25をきっかけに、それまでバリ島

に入ってきていた移民たちにたいするバリ政府のきびしい管理がはじまり、現

在のようなシステムができたのである。

25

2002 年 10 月、クタで、路上に停めてあった自動車から爆弾が爆発、向かい

のディスコなど多くの建物が吹き飛んで炎上し、外国人観光客をふくめた 202

名が死亡した。犯行声明はなかったが、インドネシア当局は国内のインドネシ

ア国内のイスラーム主義勢力であるジェマー・イスラミーア( JI)幹部の多数

を犯行容疑で拘束した。

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図 5 屋台で食べ物を販売するオラン・パンタイ 図 6 ジャム(天然薬)を売るオラン・パンタイ

図 7 サテ(やきとり)を売るオラン・パンタイ 図 8 アイスクリームを売るオラン・パンタイ

2004 年、クタビーチ、筆者撮影

5. ビーチボーイ

それでは、このようなオラン・パンタイの一部である、クタのビーチボーイ

についてみていこう。

もちろん、かれらのなかには、自分をビーチボーイと呼ぶこと自体に抵抗を

示す者がいれば、逆に堂々とビーチボーイであることを名乗る者もいる。それ

は、かれら自身も自分たちの仕事に関する明確な定義をもっていないことを意

味し、実際にかれらの仕事はひとことであらわすことができないほど多面的で

ある。

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本章では、わたしがクタビーチで目にした、かれらの基本的な仕事の内容を、

サーフィン関連の仕事を中心に述べてみる。ほとんどの情報は、現地での聞き

取り調査 26に依拠するものであり、客観性の面では多少かけているかもしれな

いが、おおまかに説明すると以下のとおりである。

(1)ビーチボーイ集団の構成

クタビーチにおいて、かれらは、ほとんどの場合、民族別、または出身地

域別のグループを中心に行動している。正式にそのグループを呼ぶ名称ははい

が、かれらはそれを自分の「トゥンパット(Tempat :場所という意味のインド

ネシア語)」(図 9、図 10 参照)という。もちろん、なかには、ビーチにはトゥ

ンパットを持たないで、町にあるサーフ・ショップを自分たちの集まり場とす

る者もいるし、自分のサーフボードで自営業をいとなむ者もいる。しかし、た

いていは、ビーチのトゥンパットに 2 人から 10 人ほどのビーチボーイが待機し

ていて、そこで客が来るのを待つ――または客を呼びつける――場合が多い。

ビーチボーイたちの年齢はその過半数が 20 代である。しかし、なかには 10

代や 30 代もふくまれていて、年齢上の制限はとくにない。

かれらのおもな出身地はさまざまであるが、なかでもバリ島の西隣に位置し、

インドネシア国内でもっとも人口が密集しているジャワ島が圧倒的に多い。そ

の次が、2004 年の地震で世界的に知られたスマトラ島である。それに、ごく一

部にすぎないが、なかには、いまは独立国家である東ティモール(Timor Timur)

からの難民もいた。また、わずかでありながら「バリ人」のビーチボーイも存

在し、すべてのビーチボーイが「よそもの」であるとはかぎらない 27。

26

2004 年 2 月にクタのビーチボーイ 55 人を対象に実施したアンケート調査の

結果もふくむ。 27

しかし、バリ島出身のビーチボーイは、移民のビーチボーイとはちがって、

他の仕事をもっていながらビーチに遊びにくる場合が多く、ほかの民族別のグ

ループのように、バリ人のみビーチボーイが集まる場所はみられなかった。

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図 9 比較的に規模が小さいトゥンパット

2004 年、クタビーチ、著者撮影

図 10 多数のサーフボードを持つトゥンパット

(右側の人がボスで、左はビーチボーイ)

2004 年、クタビーチ、著者撮影

このように、わたしがひとことで「ビーチボーイ」といってしまうかれらは、

全員「インドネシア人」という国籍を持ちながらも、じつは宗教も言語も異な

る異民族同士の集まりであった。そして、かれらの多くが集まるクタビーチは、

多言語多民族によって成り立っているフロンティア空間として説明できる。

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トゥンパットに関する調査で、わたしは、ひとつおもしろいことに気がつい

た。トゥンパットが、民族別、出身地別コミュニティーであることはたしかで

あるが、なかをよくのぞいてみると、それは実に多様な組み合わせによってつ

くられている。

インドネシアの民族構成は、実に複雑で、○○人といっても、かれらのいう

○○人は、そこからさらにこまかく数種類の民族にわけられるため、正確にか

れらの民族別にコミュニティーをわけることは、そもそも不可能に近い。それ

に、ビーチボーイのなかには、違う民族同士の婚姻によってうまれた混血や、

イルカのように日本人との混血だという者、また、祖父がポルトガル人だった

という欧米系との混血のビーチボーイもいる。また、こういった○○人といい

きれないビーチボーイたちも、トゥンパットの 1 構成員となっている。つまり、

トゥンパットの構成員がすべて 100 パーセント純粋な○○人かというと、けっ

してそうではないということである。しっかりと民族別に分かれているように

みえるトゥンパットの構成も、じつはそれほどきびしい決まりがあるのではな

く、おおまかな枠によって成り立っていた。

(2)ビーチボーイの仕事

トゥンパットの規模は、1 つのトゥンパットにどれだけたくさんのサーフボ

ードがおいてあるかによって決まる場合が多い。そして、そのサーフボードは、

「ボス」とよばれる人が所有するものである(図 10 参照)。

ボスは、トゥンパットにおいけるリーダーではなく、レンタル可能なサーフ

ボードの所有者を意味する。というのも、ボスとビーチボーイたちの出身地は

一致しない場合も多いからだ。ボスは、たんにかれらのトゥンパットを経営し

ている社長のような役割で、ビーチにおける経済活動の許可証は、ボスが代表

でもらう(=買う)ことになっている。つまり、そのほかのビーチボーイたち

は、ボスに「雇われている」わけであり、独立して経済活動をおこなっている

マッサージ師やアイスクリーム売りなどとは、性格が違うのである。

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それぞれのビーチボーイは、ボスのサーフボードを借りて、自分のやり方で

仕事をする。レンタルであれ、レッスンであれ、値段はボスによって最初から

決められている場合が多いが、ビーチボーイはその値段に、自分の新たな値段

をつけて仕事をする。たとえば、1 時間 2 万ルピア(約 240 円 28)に決まってい

るサーフボードを、ビーチボーイは客に 1 時間 5 万ルピアと言ってもいいわけ

で(しかし、本来は、経済活動の許可証をもたないビーチボーイは、そのよう

なことをしてはいけないとなっているらしい)、2 万ルピアはボスに、のこりの

3 万ルピアは自分の収入になるのである。つまり、ビーチボーイの能力しだい

で、客にいうときの値段は変わり、ボスが決めた値段とほぼ変わらない値段で

仕事をする者がいれば、なかには、運がよくて、その数倍の値段交渉に成功す

るものもいる。

しかし、ビーチボーイの仕事は、サーフィンにかぎらない。かれらの基本的

な仕事場は、クタやレギアンなどのビーチであるが、それ以外の場所でサーフ

ィン以外の仕事をしているビーチボーイも多数存在する。

かれらの仕事にはサーフィン以外にも、ツアーガイド、レンタカーのドライ

バー、バリでビジネスをしている外国人たちの名義上のパートナー、通訳、ホ

テルの客を集める宣伝活動、土産屋に客をつれて行ってそこからコミッション

をもらう仕事、ときによって金をもらうセックスワーカーなど、数えきれない

ほどある。しかし、それぞれの仕事が可能なのは、かれらが、クタビーチとい

う、大勢の観光客が集まる場を基盤として活動をしているからである。うえに

述べた類の仕事は、ビーチで出会った客との個人的なつきあいの関係からはじ

まるといっても過言ではない。そのため、クタビーチは、かれらの仕事場であ

るとともに、ほかの仕事をみつけるための「就職活動の場」ともいえるのであ

る。

英語や日本語が話せること、サーフィンができること、仕事に積極的である

ことなど、ビーチボーイになるためにはこういった条件も必要で、かれらの話

によると、ビーチボーイには「向き、不向き」があるという。つまり、ビーチ

28

1 円=約 83 ルピア( 1 ルピア = 0.01 円)、 2005 年 1 月のレート。

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にくる観光客たちに活発な印象を与えること――ときによって演じること――

がなにより求められるようである。

それに、トゥンパットという狭いコミュニティー内においては、仲間とのつ

きあいも大事である。かれらがそれぞれのトゥンパットから仲間はずれにされ

るということは、ある意味でクタビーチという仕事場をなくすことにもなる。

たとえば、観光客との間でトラブルが起きたりすると、警察は問題を起こした

ビーチボーイ本人だけではなく、トゥンパット全体にたいして監視をおこなう。

それはトゥンパットの構成員全体、あるいはクタビーチにおけるその民族全体

のイメージに悪影響を与えるものにもなるため、かれらの仲間意識は非常に強

いといえるのである。

(3)ビーチボーイたちの将来

わたしは以前、アンケート調査をつうじて、かれらの将来についてのいくつ

かの質問をしたことがある。「何年ほど現在の仕事をつづけたいのか」という質

問に、過半数のビーチボーイは、2 年から 10 年までと答えている。もちろん、

それはかれらの年齢にもよるものだが、一貫していえるのは、ビーチでの仕事

を永遠につづけるという応答はみられなかったことである。そして、その後の

進路に関しては、「クタでサーフ・ショップを経営したい」、「バリ島でなんらか

の商売をしたい」、「結婚して家族をつくりたい」、「金を貯めて海外旅行をした

い」、「海外に移民したい」などの多様な答えがみられた。

つまり、かれらにとって現在のビーチボーイという職は、一時的なものにす

ぎず、いずれかはやめることを前提にしていることがわかった。

かれらがクタビーチで得られるメリットは、「ここにいれば自然に英語や日本

語などの外国語が身につく」、「たくさんの観光客と友達になれる」、「サーフィ

ンを教えることでやりがいを感じる」、「世界の流行が一目でわかる」、「毎日美

しい夕日が見られる」などあり、デメリットとしては、「ジゴロといわれる」、

「テロが 2 回もあって、イスラーム教徒であることを堂々と名乗ることがむず

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かしくなっている」、「ボスによって給料をくれない人もいる」、「雨季(10 月~

3 月)には客が少なくて困る」などの意見があった。

調査中わたしは、「ビーチで仕事をしながら観光客たちに自分の実力や可能性

を認めてもらい、チャンスをつかめ、ビーチから抜け出して新しい人生を歩み

たい」というかれらの声をよく耳にしたものだ。つまり、それぞれの故郷から

抜け出してバリ島に移動してきたかれらは、そこに定着することなく、そこか

らさらに新しい世界を求めているのである。

つまり、ビーチボーイたちが自発的に移民となってバリ島に渡ってきた理由

は、ただたんに金がほしいからだけではないのである。かれらは、20 代の自分

たちがビーチで出会う同時代の観光客のように、それぞれがこれからの進路に

たいする不安を抱いており、その一方、将来にたいする目標や夢ももっていた。

6 . 「世界システム」とのかかわり

クタビーチにてかれらは、だれよりもホスト社会とゲスト社会のあいだに存

在するさまざまな差異に敏感である。同時代の観光客をゲストとしてむかえて

いるかれらは、ゲストと自分たちの間の経済格差により、みえない悩みをたく

さん抱えているのが事実であった。

『観光開発と文化-南からの問いかけ』のなかで佐藤幸男は、「今日のグロー

バルな相互作用の中心的な問題は、こうした文化の同質化( homogenization)

と異質化( heterogenization)との緊張であり、グローバル文化の政治学的な課

題でもある。なぜなら、観光はメディア、テクノロジーとともに開放的である

ことを強いられることで消費主義を刺激し、新たな商品とスペクタクルへの欲

望を煽ってきたからである」と述べている [佐藤 2003:17]。佐藤が指摘するよう

に、いくらビーチボーイたちに海外の友達ができて、かれらとインターネット

をつうじて連絡をとりあっていても、この両者が暮らす場所の経済状況は、あ

まりにも差が大きい。クタ地区におけるインターネットの普及は、たんにかれ

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らを別の世界とつなぐ役割――またはビーチボーイ自身の消費欲やその他の欲

望を刺激する役割――をはたすだけで、世界のグローバル化はバリのビーチボ

ーイたちの将来に不安を与える直接的原因になっているともいえよう。

最初、フロンティア空間としてのクタに夢をよせてインドネシアの島じまか

らやってきたかれらは、さらなる夢の実現のために、ゲストたちがやってくる

先進国の国ぐにに目をむけはじめた。かれらが国内移民となり、バリに「行け

ばなにかある」と思ったさいの「なにか」は、けっしてバリ島自体にあるもの

ではなかったのである。むしろ、より多くのビーチボーイがバリ島に求めてい

るのは、外国との「つながり」、または外国人に雇用される「チャンス」なのか

もしれない。

前章でわたしは、ビーチボーイということばを使うのは、「ビーチボーイ本人

と日本人観光客のみである」との考察を述べた。というのは、かれらビーチボ

ーイたちがクタビーチから夢みる新世界のひとつに、「日本」という世界がある

ことを意味するものでもある。

ではここで、かれらの存在をより広い観点から考えてみよう。ビーチボーイ

によってつながる日本とインドネシアは、どのような構造で説明することが可

能だろうか。

社会学者のウォーラースティンがいう「世界システム」とは、世界的な領土

的分割、国境の制度化、市場としての世界支配、さらには人びとと社会を組織

し、関係づけることで事実化した中心-周辺/辺境という階層的な関係の構造

をもつ近代的世界像のことである。その発端は 15 世紀以降ヨーロッパの人びと

が組織的に送り込んだ冒険者たちによって「南」の非ヨーロッパ人世界が探検

され、資本主義的市場と国民国家が非ヨーロッパ世界を領土化したことに求め

られる。それは、これまで異なる世界観を生きてきたさまざまな文明世界が国

民国家と植民地、資本主義的な世界市場と不平等な交易からなるひとつの世界

システムに統合することで成り立つ体系なのである [佐藤 1998:13- 68]。

ウォーラースティンのいう世界システム論からいうと、現在の第 3 次クタビ

ーチ・ブームは、「中核」諸国のひとつである日本がそのおもなゲストであり、

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ホストであるクタのビーチボーイは、その「周辺」国であるインドネシアの国

民である。それに、インドネシア国内においては、バリ島観光開発は、一部の

リゾートや観光地中心部の企画開発業者に従属していることになっており、ビ

ーチボーイたちは、周辺部のさらに周辺にいる、世界システムの末端に属する

人びとなのである。そのように、「世界システム」という大枠からかれらのこと

をみていると、なぜかれらがつねに「そと(田舎→バリ島→外国)」にたいする

憧れを持ちつづけているのかを理解することができる。

かつて、1970 年代のクタも世界システムの一部であった。バリ島が観光地と

して開発され、島の経済にグローバルの波がよせてくると、そこにまずあらわ

れたのは、日本製のオートバイであった。村中を走る乗り合い自動車ベモもす

べてが日本製で、ヒッピーたちは日本製のオートバイやベモに乗って島中をま

わり、バリ人のベモ運転手も今までなかった移動のスピードで町を走りだした

[鶴見 1981]。つまり、ヒッピーたちの観光活動を可能にさせたのも、当時はア

メリカという巨大国の周辺国にすぎなかった日本(のオートバイ)であったと

いうことだ。そして、そのオートバイをつくるために日本の工場では、インド

ネシアから運ばれた石油や天然ガスなどが使われるのであった。

現在もバリ島には日本製――または、それより若干安い韓国製――のオート

バイが走る。しかし、今度それに乗っている日本人観光客の大半は、かつてそ

のオートバイをつくるために一生懸命働いていた日本人サラリーマンのこども

たちなのである。そして、ビーチボーイたちは、そのオートバイをつくるため

に破壊されたインドネシアの諸田舎から逃げてきては、かれらの親世代と同様、

つねに遠い世界の中核に希望をよせているのである。

世界のグローバル化は、ヒト、モノ、情報の移動を活発にさせた。その巨大

な波に乗った日本の若者たちは、たやすく南の島に癒しを求めて旅行にやって

くる。しかし、多くのビーチボーイたちにとってその巨大な波は、かれらが毎

日サーフボードに乗って走る、しかし一瞬にして泡となってしまうクタビーチ

の波のように空しいものである。抽象的すぎる言い方に聞こえてしまうかもし

れないが、かれらの乗りたがる「よい波」とは、「世界経済を動かす中心の力が

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つくりだすもの」とたとえられるのかもしれない。結局、波がよくない日のク

タビーチには客も来ない。そして、大きくて力強い波がよせてくると、その波

のおかげでかれらにはわずかな収入が入るのである。

このように、世界システムにおける日本とインドネシアの関係は、ゲスト社

会からホスト社会へと一方的にモノがもたされ、観光地として開発され、最終

的にはジャーナリズムによって「ビーチボーイたちが、日本人女性を経済的タ

ーゲットに犯罪を起こす」などと非難される、といった過程のなかで成り立っ

てきたのである。

しかし、かれらをたんなる「世界システムの末端にいる人間」、「グローバリ

ゼーションの被害者」とみなすだけで話は終わらない。というのも、クタビー

チ観光のゲストとホスト両方が同じアジア諸国の「若者」であることを考えた

とき、将来を描くのにより開放的なのは、ビーチボーイたちのほうであるから

だ。鶴見良行が言うように、日本のほうに体制上の自由の保障が大きく、みか

けの物質的繁栄が進んでいるために、日本の若者の将来のほうが明るく安定し

ているように見えるものかもしれない。だが、おそらく事柄は逆である。生活

の便益や享楽を捨てさって考えれば、今は苦しい生活をおくっているインドネ

シアの青年たちのほうが自分たちの将来を構想するに自由でありうるのである

[鶴見 1974:203]。

7. ある晴れた朝のできごと―アレックス(Alex)

部屋から出てきたアレックスの顔がおかしい。よく見ると左耳のほうが血ま

みれになっている。ピアスをしていた耳の先がひどく破れていて、そこから血

が出ていた。目の周りは赤く膨らんでいて、鼻血の跡もまだ乾いていない。お

なかが痛いのか、からだを丸めている。これは、非常事態だ。こんなはずじゃ

なかった。今日わたしは、アレックスの 1 日をビデオカメラで撮影する予定だ

った。かれが朝起きて家を出る場面から仕事場に向かう道の風景やかれの働く

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姿などを「アレックスの 1 日」というタイトルでビデオカメラにおさめたかっ

た。しかし、会ったばかりのアレックスは、仕事どころか、血だらけの怪我人

だったのである。

あまりにもおどろいてしまったわたしは、アレックスのすさまじい顔をみつ

めたまま、何もことばが出てこなかった。アレックスの部屋の前にぼうぜんと

立って、かれの顔をみつめていた。

「Selamat Pagi(おはよう)」と、アレックスのほうが先にわたしに挨拶をし

てきた。しかし、わたしにはそれに答える余裕がなかった。それよりも、はや

くかれを病院につれていくべきだと思ったからである。焦っているわたしをみ

て、「僕は大丈夫だから、心配しないで」とアレックスが言った。しかし、これ

だけひどい顔をしている友達を目の前にして、心配しないでいられる人間がど

こにいるものか。「病院に行こう」と言うわたしに、アレックスはニコッと笑い

をみせていた。きっと、「行かなくていい」と語っているのである。

いつもならアレックスは 6 時にはかならず家を出て仕事場に向かう。よく、

インドネシア人は時間にルーズだといわれるが、みながみなそうではない。な

かには、アレックスのように徹底的に時間を守る人もはいるわけである。その

ようなかれを取材するには早起きせねばならなかった。そのため今日はいつも

の朝寝坊をやめて、朝 5 時前から起きて撮影の準備をしていた。そしてはやく

も 5 時半にここについたのである。しかしまだ安心してはならない。もしかす

ると、アレックスが今朝にかぎってふだんよりはやく家を出てしまったかもし

れないからだ。すこし不安を感じたわたしは、仕事場に向かうアレックスが毎

朝通る街角にある店に立ちとまり、なかにいたおばさんにこう尋ねた。「あの奥

の家に住むアレックス、えーと、リアカーに荷物をたくさん積んで、毎朝 6 時

にはかならず家を出る青年、今朝見ましたか?」。片言で、身振り手振りのまざ

ったインドネシア語を話すわたしをみて、おばさんは笑った。そして、「まだよ」

と、シンプルに答えてくれる。きっとおばさんもアレックスのことを知ってい

るということだ。

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ひとまず安心したわたしは、そのまま店の中に入った。店内には実にさまざ

まなものがおかれている。何の商売をしている店なのかわからなかったが、開

店時間だけは、アレックスの朝よりはやいようだった。そして、こんな朝はや

くから、ぽつぽつとお客さんが入ってくるのである。野菜を買いにきた女性が

いて、その次に入ってきた 1 人の青年がタバコを 1 箱買って店のおばさんにコ

ーヒを頼んだ。しばらくして暖かいコーヒができあがり、かれは椅子に座って

それを飲んでいた。そこでわたしも青年と同じく熱いコーヒを頼み、テーブル

の上においてあったパンといっしょに朝食をとった。

この店は、いわゆる「なんでも屋」である。次つぎと新しいお客さんが入っ

てきた。それを見ながらわたしがコーヒを飲んでいるあいだ、おばさんは店の

前で線香を立て、「チャナン――バナナの葉っぱの中にいろいろな供え物をいれ

たもの(図 11、図 12 参照)――」を道端において祈りをしていた。この店の

おばさんはバリ人だったのである。バリ人はあのように、自分の家や仕事場の

まわりにお供え物をおいて 1 日に 2 回ほど祈りをささげる。そのため、朝の街

はお香の匂いが漂い、歩く道のいたるところでチャナンがみかけられる。

軽く朝食をとったわたしは、カメラの電源を入れてまわりの風景を撮影しは

じめた。観光客たちがまだ眠っているはやい朝、街は静かである。しかし、も

うすぐ起きて店にやってくるはずの観光客たちをむかえる準備で、地元の人び

とは忙しい。食堂で働く従業員たちもひとりふたりあらわれ、店のドアを開け

たり、朝食のメニューを黒板に書いたりしていた。この店のおばさんと同じく、

線香をあげているバリ人たちの姿もみえる。

他方、朝はやくから街に出ている観光客たちの姿も目につく。サーフボード

を脇に挟んだ若い白人男性が、「ビーチ(Beach)」と書かれている看板の下を早

足で歩いている。かれはきっと、人が少ないビーチで、朝一番の波乗りを楽し

もうとはやくから出てきたのであろう。そしてジョギングをしていたある女性

が、わたしのカメラに気づいたらしく、こっちをみて笑顔で手をふってくれて

いる。いつもなら、ほこりだらけで、狭くて、うるさいとしか思えないこのあ

たりも、朝はこれほどさわやかな風景が広がっているのである。

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図 11 ポピス通りの朝の様子-チャナンを置いて祈りをしているバリ人女性。

2004 年 9 月、クタ、著者撮影

図 12 道路の上に置かれているチャナン-花びら、菓子、タバコ、米などが入る。

2004 年 9 月、クタ、著者撮影

アレックスは、わたしのホテルから歩いて 10 分もかからない近所に住んでい

る。ここは、「ポピス通り( Jalan Poppies)」といって、古くから「バリ島を旅

する貧乏旅行客のための街」、あるいは「サーファーたちの下町」として知られ

ている場所である。このポピス通りには、バックパッカーやサーファーなどの

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長期滞在者が好む安宿が多く、よそからきた移民たちが暮す共同住宅(「コス」

と呼ぶ)もたくさんある。つまりここは、インドネシア国内外からの「よそも

の」たちがつどう場所なのである。「人種のルツボ」までは言わないにしても、

いろいろな文化がまじりあい、町はいつも活気があふれている。しかし、その

分、よそもの同士の衝突も日常茶飯事のようにみられ、とうぜん警察の出入り

もはげしい。

さて、もう 6 時だ。もうすぐでアレックスがあらわれることを楽しみに、わ

たしはカメラをまわしつづけていた。何台かのオートバイがほこりをたてなが

らわたしの目の前を通りぬける。「あともう少し」、「あともう少し」とかれの登

場を待った。しかし、アレックスはなかなか出てこない。「たまには遅くなる日

もあるのだろう」としばらく待ちつづけたが、それでもやはり出てこない。時

刻はすでに 6 時をこえていて、道を通るオートバイの量も増えていた。1時間

あまりを待ちつづけてもかれがあらわれないことに、わたしは不安を感じはじ

めた。そのとき、オートバイの一列に並んで偶然わたしの前を通っていた友達

のクリが、「あれ、ここで何してるの?」といい、オートバイを止めて降りてき

た。クリはスマトラ島出身のインドネシア人で、アレックスとも知りあいであ

る。実は、今回わたしにアレックスのことを紹介してくれたのもクリで、いろ

いろな面でわたしの力になってくれるありがたい友達である。それに、今回も

またこのようにわたしが困っているときに、かれはまるでスーパーマンのよう

にあらわれた。わたしはかれに事情を説明した。そしたらかれは、「あれ、おか

しいね。ならおれといっしょに部屋にいってみよう」というのであった。

アレックスの住む部屋は、先までいた道をずっと奥に入ったところのつき

あたりに位置していた。狭い路地には、何件かの家があり、そのほとんどは共

同住宅である。

「ここにアレックスが住んでるよ」といい、クリが足をとめた。青い鉄の玄

関をくぐってなかに入る。7 部屋が、真ん中の小さい庭を囲んでいて、その全

体の部屋をつなぐ屋根は茶褐色だった。不思議と、バリ島にはこのような茶褐

色の屋根が多い。それが、ここの青い空やヤシの木といっしょになってつくり

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あげる風景は美しい。

小さい庭にはピンク色のハイビスカスの花が咲いていて、そのあたりでは数

羽のニワトリが放し飼いにされていた。そこに洗濯物を干しているおばさんが

ひとりいて、わたしを見てはニコッと笑う。目があったら相手がだれであろう

が笑顔を送るというのは、バリに住む人びとの共通する挨拶のようだ。おばさ

んの横に立っていたこどもが、ビデオカメラを手に持っていたわたしを不思議

な目でみあげていた。「ハロー」と声をかけてそっとカメラをむけると、少年は

恥ずかしそうにおばさんのうしろに隠れてしまった。

「アレックスはもう出たの?」と、クリがおばさんに親しく話しかけた。す

ると、「いや、まだなかにいると思うよ」と、彼女は答えた。クリはわたしに「こ

こでちょっと待ってね」と言い、部屋にあがってゆく。「おはよう、アレックス」、

といいながらクリがドアをたたいた。が、返事がない。かれはもう一度ドアを

たたいた。そして、しばらくして暗い部屋のなかから変わり果てたアレックス

が姿をあらわした。

いったい、アレックスには何が起こったのだろうか。アレックスはわたしに、

「大丈夫、大丈夫」と言うばかりである。しかし、まじめなことで有名なかれ

が仕事を休んでまでこの時間に家にいるということには、「大丈夫」じゃない理

由があるに違いなかった。それならば、あの血だらけの顔は何を意味するのだ

ろうか。かれらはしばらくインドネシア語でなにかを話していて、それが理解

できなかったわたしは、かれらの話しているのを注意深くみつめていた。どき

どきクリが「アドゥー(まさか)!」といいながら手のひらで頭を叩いている。

あのジェスチュアーはクリ独特のくせなのだ。かれはいつもなにかの不満を口

にしたり怒ったりしたときに、ああやってひたいを叩いたりする。だから、今

回も何かクリを怒らせることがあったことが、わたしには伝わってきた。

話がいったん落ちついたのか、日本語が話せないアレックスのかわりに、ク

リがすべてのことをわたしに説明してくれた。

ことのはじまりは、今からたった 3、4 時間前、つまり今朝の 3 時ごろであっ

た。

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アレックスは昨日、いや今朝、ナイトクラブに行ったみたい。まあ、いくら

お金がないといっても、まだ若いから、たまには遊びたいしね。しかもこの

子、最近全然休まずに仕事ばかりしていたんだよ。そりゃ、いろいろとスト

レスもたまるじゃん。それに昨日は仕事場でボスがお金をくれなかったらし

いわ。

それで、ほんとうにひさしぶりにひとりで飲みにでかけたの。もちろんそ

の前まではずっと部屋にいたみたい。でも、ぜんぜん眠れなくて、ビールい

っぱいくらい飲めるお金はあったから外に出た。この近くにバウンディーっ

てナイトクラブあるでしょう? うん、そこに行ったみたい。あそこなら、

みんな朝まで飲んでいるからね。

それで、音楽でも聴きながらビールを飲もうと、席に座ったんだって。ビ

ールがきて、一口飲んだあと、ポケットからタバコを取り出した。火をつけ

てステージで踊っている人をみているときだったよ。そのとき、すごく酔っ

ぱらっているオーストラリア人の白人オトコが、アレックスに向かって大き

な怒鳴りだしたんだとさ。「おまえ、なんでおれのタバコ吸ってるんだ! こ

の泥棒やろう!」って、そう言いながらアレックスのタバコをとっていっち

ゃった。まあ、酔っぱらっているからしかたないとも思ったけど、アレック

スにはタバコがそれしかなかったし、買おうとしてもそこは観光客の値段で、

それがまたすごく高いんだよ。それで、丁寧にその白人に向かって、「それ、

僕のタバコですけど……」と言ったの。そしたら、そのオトコ、立ち上がっ

ていきなりアレックスの顔を殴ったんだって。しかもね、となりにいた連中

も 4、5 人くらいいっしょになってアレックスのことを泥棒だといいながら殴

ったんだってさ。

ことが大きくなったから、店のセキュリティーたちが来たよ。そのときね。

アレックスは、同じインドネシア人であるかれらに助けを求めた。「いや、こ

の白人たち、僕のことを誤解しているんだ。僕は、自分のタバコを吸っただ

けだよ!」と。なのにな……。あいつらもいっしょになってアレックスを殴

ったんだってさ。白人たちが「こいつは泥棒だ」というのをそのまま信じて、

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アレックスのいうことは聞きもしなかったんだってさ。

知ってるでしょ? バウンティーのあの体でっかいバリ人のセキュリティ

ーたち。 2002 年に「サリクラブ」で爆弾テロがあったあと、バリのナイトク

ラブには以前よりセキュリティーの人数が増えたよ。何倍も。みんな、体が

こんなに大きくて、ま、いってみりゃみんなハンサムなバリ人のおにいちゃ

んばかりだな。でも、みんな頭がバカだよ。体がでっかくても、脳みそが小

さいんだなー(といいながらクリはまた自分の頭を手で叩いた)。だって、同

じインドネシア人が助けを求めても、助けてくれないしさ。観光客の言うこ

となら、なんでも聞く。まあ、そのほうが都合はいいだろうけど……。

アレックスはまだバリにきて 1 年も経っていないから、セキュリティーた

ちはこの子の顔も知らないでしょう。ましては、友達もつれて行かずに、ひ

とりで行ったのだから……。 こいつ、アレックス、おまえもバカだよ(ア

レックスに向かって言っていたが、アレックスはクリの言う日本語が理解で

きない)。だいたいおれたちがあんなところに行くのは、観光客の友達といっ

しょに行くか、何人かグループで行くのさ。まあ、それが確実に安心して遊

べる方法だよ。もしなにかあっても、仲間がいたら怖くないし、助けあえる

し。なのに、この子、ひとりでよくもあんなところ行ったんだわ、まったく

……(と言い、クリはタバコに火をつけた)。

でも、かわいそうね。ちょっとこの顔みて。本人も、「僕、犬のように殴ら

れたよ」って言っているわ。靴のままおなかをけってくるやつもいて、それ

がバリ人のセキュリティーだったんだってさ。そこで、アレックスも殴り返

そうとしたよ、もちろん。でも、そのとき、いろんなことを考えたらしいよ。

「殴り返さないほうがいいかもしれない」とさ。だって、もし殴り返してこ

とが大きくなったら、とうぜん警察も来る。警察といってもまたみんなバリ

人でしょう? なら、だれを先に助けると思う?そうだよ。やつらは、わた

したちみたいなよそ者の話なんか聞きやしない。もちろん、なかにはいいや

つもいるけどね。だいたいじぶんたちと同じバリ人のことが先なのよ。おれ

たちがいくら「罪がない」と主張しても、それを信じてもらうことは、すご

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くむずかしいもの。それで運が悪けりゃ、もうバリにはいられなくなるかも

しれない。アレックスはそこまで考えてしまったらしいよ。それで、もうあ

きらめて、そのまま殴られてきたの。

でもね、この程度でよかったんだよ。警察にへんなことで顔覚えられたり

すると、あとになってほんとうに大変。罪もないのに刑務所に入った人も、

おれ、何人か知ってるし。ま、いい勉強になったと、そう思うしかないわね。

アレックスは、いつのまにかシャワーをあびてきた。首にタオルをかけたま

ま、庭にいたおばさんとなにかを話している。心配そうな顔をしたおばさんが、

洗濯物を手に持って、かれの顔をみていた。それからアレックスは部屋に戻っ

て、仕事に行く準備をしはじめた。次つぎと、部屋からアレックスの仕事道具

があらわれる。自分の背丈よりも高い色とりどりのサーフボードだった。

アレックスの住む狭い部屋のなかには、家具もなければ、布団もなかった。

ただ、かれが持ち運んでいる大きなサーフボードだけが山積みになっている。

その部屋でアレックスは毎晩を過ごすのだ。かれはそれを、玄関の外に停めて

あるリアカーまでひとつひとつ丁寧に運んでいった。

昨晩眠れずに起きて外出し、あれだけひどく殴られて帰ってきたばかりなの

に、かれは今日も仕事にでかける。仕事をしていれば痛いのもすぐ忘れると、

病院に行こうというわたしの提案をかれはふたたび笑顔で断った。

いよいよリアカーが動きだす。重そうなリアカーが、道の水溜りに落ちたり

小さな石にぶつかったりするたびに、わたしはとてもかれのことが心配になる。

そしてわたしの無表情のカメラは、かれのしんどそうな顔までを画面のなかに

鮮明に映していた。ビーチに向かうアレックスの横を、オートバイや車がとお

りすぎていく。時どきクラクションを鳴らす車もある。また、同じ道を歩いて

いる観光客たちも、先ほどにくらべてはるかに多くなっていて、道は込み始め

ていた。アレックスは「もう、遅くなってしまったよ。急がなくちゃ」と、カ

メラに向かって話す。 15 分くらい歩いただろうか。波の音が聞こえはじめた。

狭い道の向こうにビーチが見えてくると、アレックスの足もいっそう速くなっ

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ていた。

ビーチについたアレックスは、リアカーを停めた。そして、サーフボードを

ひとつひとつ運びだす。頭の上に 1 枚乗せて、脇に 3 枚も挟む。いかにも不安

定な姿勢だったが、かれはそのようにして板をビーチの一角にある仕事場まで

無事に移動させていた。数回その作業を繰り返し、アレックスは最後に自分の

かばんを持って仕事場についた。

時計はすでに 9 時をまわっていて、ビーチには多くの観光客が来ていた。サ

ーフィンを楽しんでいる人はもちろん、朝はやくから海で泳いでいる人、木陰

でハンモックをかけて読書している人など、観光客たちは自分に与えられた休

日の朝をそれぞれの過ごし方でおくっている。そして、そのような観光客を相

手にさまざまな商売をしている現地の人びとの姿も目につく。小さい屋台を出

して、そこで食べ物を売っている人、アクセサリーをたくさん持ち歩きながら

それを観光客に売っている人、またアレックスのようにサーフボードをレンタ

ルする人など、現地の人びとも、自分たちの仕事にそれぞれ夢中になっている。

ふだんよりより遅れてしまったのだが、今から夕日が沈む瞬間までのあいだ、

アレックスはこのビーチで仕事をするのだ。

本格的にアレックスの 1 日がはじまったのである。

8. 青春が海をわたるとき―エディー(Eddy)

今日は痛いの。頭が、そして、心が、記憶が痛いの。もう来年 40 代だよ。

おれ、いい歳して、ほんとうにバカだな。……ぜったい、わるいことには手

を染めたくなかったんだ。でも、お金がいるもの、何をするにしてもな。

おれの友達で、すごい大金持ちがいる。インドネシア人のね。あなた、ウ

アン・チュチ(Uang cuci)ってことばを知ってるのか? お金を洗濯するっ

てことで「マネー・ロンダリング(Money Laundering)」って英語では言うの

さ。やつは、バリでその仕事をしてるんだ。日本のヤクザみたいなもんだよ。

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ウアン・チュチはね、最初、わるいことをいっぱいやってお金を手にいれる

の。たとえば、ギャンブルとか、オンナの取引とか、詐欺不動産屋とか、麻

薬とかね。それで、そのお金でまた他のわるいことをやって……。ほんとう

にいろんな仕事があるでしょう? この世の中には。とくにバリみたいなと

ころはね。

じつはさ、今日そいつがおれに言ってきたのよ。お金を貸してくれるとさ。

しかも日本円で 100 万円もよ。そうそう、今おれはね、その 100 万円さえあ

れば、新しく人生を生きていけるんだから。やりたいこと、全部やれそうだ

から。以前かれと酒を飲みながらそんな話をしたことがあるけどね、やつは

それを覚えていたらしくて、今日電話がかかってきたの。その 100 万円、自

分が貸してくれるって。でも、そのかわりに、おれはね、やつのために麻薬

を売らなければいけないんだ。日本人観光客相手にね。

日本人、いっぱい、いっぱいいるよ。バリで麻薬買う人ね。それで、かれ

らにちょっと売れば最低でも 5 万円はもらえるんだよ。 1 回売って 20 万円も

もらったことあるさ。

おれね、いままであなたを騙していたかもしれない。いや、騙した、完全

に。おれはいい人間じゃないのよ。自然が好きで、自然に戻りたいと言った

り、あなたの調査のこと手伝ってあげたいとか、いままであなたに会ったら、

いい話ばかりやってきたじゃん。インドネシアも日本もシステムがおかしい

から庶民が苦しいとか。政治家の批判なんかしたりね。ほんとうに、あなた

に会って、おれはいろいろ話した。そして、うまいことばっかりあなたに言

ってきのさ。

でもね、じつはおれ、麻薬を売ってきたんだよ。でも、もう、いやだ。も

う、すごく苦くて、しんどいの。もう、爆発しそうだ。……これはだいぶ間

違っている。いつかあなたは言ったね。エディーさんはいい人ですねって。

でも、おかしいよ。おれはうそつきだよ。神さまを信じるってあなたの前で

言ったこともあるのにな……。おれはたぶん地獄に落ちるよ。罰があたる。

でもさ、どうしよう。おれ、何にもできないんだよ。もうすべてがいやな

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の。朝起きたら、目を開けて、「今日は何をして 1 日を過ごそうかな」と思う

だけで、最近はもう頭が狂ってしまいそう。そのままずっと寝てしまいたい

と、朝起きたらそう思ったりもするよ。

あああ、日本に行ったことが失敗だったのかな。ビーチで会った彼女と結

婚したのがまちがいだったのかな。いや、バリに戻ってきたことがわるかっ

たのかな。何が間違ったのかしら。もう、おれはわからない。

エディー(仮名)は、赤くはれた目でわたしを見ていた。とても不安そう

なかれは、泣いているようにも見える。それに、かれの口からはマリファナ

の臭いがした。そのようなかれのために、わたしは何かしてあげたいと思っ

たが、正直なところ、何をすべきかがよくわからなかった。いつもとはあま

りにもちかうかれの姿をみて驚いたのはもちろん、はじめてかれのことを怖

いとも感じていた。ただそこにいて、酔っぱらったかれがいきなり語りはじ

めたその話に黙って耳を貸すことが、わたしにできる唯一のことのような気

がした。

わたしがかれに出会ったのは、このときから 1 年前のことである。ビーチボ

ーイについて本格的に調査をはじめた 2004 年の 2 月、わたしはクタビーチを歩

きながら、いろいろと情報を集めていた。かれらがたむろしている場所に立ち

寄っては、かれらに「あなたは何人ですか?」と出身地を尋ねることから、わ

たしの調査ははじまった。

そのようなある日、クタビーチ沿いにある、マクドナルド周辺を歩いていた

ときであった。いつものように、あるビーチボーイが、「日本人? どこいく

の?」と先にわたしに話しかけてきた。かれはの名前はジミー( Jimmy)で、

スマトラ島から来たという。ジミーは、ビーチボーイについて調査をしている

というわたしのことに興味をいだいたらしく、わたしを、スマトラ人ビーチボ

ーイたちが集まっている場所まで案内してくれた。

ビーチの一角に大きい木があって、その下に 4 人の男性たちがいた。かれら

は全員故郷が同じで、スマトラ島北部北スマトラ州のトバ湖周辺がかれらの出

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身地だという。自分たちのことを「バタック人(Orang Batak)」といっていた

かれらは、自分たち同士ではバタック語を使って会話をしていた。ジミーは、

そこにいたひとりひとりをわたしに紹介してくれた。かれは、英語があまりわ

からず、わたしと話すときには、インドネシア語と日本語をまぜて使っていた。

それに、知らないことばが出ると、仲間のエディーに聞くのであった。

エディーのことを、ジミーは、われわれのボス(Boss)と呼んでいた。当時

エディーは 38 歳で、 4 人のなかではもっとも年長者であったからだ。しかし、

自分はボスではないとエディーが言った。かれが指でさしている、そこから若

干離れている場所でチェスゲームをしている白髪の男性が本当のボスだという

のである。ここにある十数枚のサーフボードの持ち主である本当のボスは、あ

あやって毎日ギャンブルをして金を儲けたりすべてなくしたりする、どうしよ

うもない人間だとエディーは話す。それに、本当のボスはアルコール中毒者で

もあって、稼いだ金はいつも酒を買うのに使ってしまうそうだ。

ボスについて説明するエディーの日本語は、いままで会ったビーチボーイた

ちの日本語にくらべると、ネイティブに近い日本語である。イントネーション

に特徴はみられたが、それは韓国人のわたしも同じであってそれほど気になら

ない。ジミーが聞く日本語の単語にも、とても丁寧に詳しく教えていた。

「エディーさんは、どこで日本語を勉強しましたか?」と聞くと、かれはな

んと、以前 8 年間日本に暮らしたことがあるというのであった。わたしより、

かれのほうが日本に住んだ経験が長いのである。かれは、「あなたは、なぜ、ビ

ーチボーイに興味があるのか?」、「それを勉強して、何をするつもりか?」、「学

生なら、どこの大学に通っているのか?」など、わたしについていろいろなこ

とをこまかく聞いてくるのであった。(後でわかったことであるが、かれは 10

年ほど前に、日本の新聞記者から取材を受けたことがあるという。その新聞記

者は、わたしと同様、最初はカメラを持ってクタビーチを歩いていたそうだ。

そして、エディーの写真を許可もなく撮影したあと、エディーに、「日本人女性」

や「ビーチボーイ」についていろいろな質問をしたという。しかし、あまりに

も露骨な質問の内容や、いかにも自分を「セックスワーカー」と決めつけよう

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としていたかれの態度に、不愉快な思いをしたことがあると話した。そのよう

な理由もあって、エディーは、初対面のわたしを警戒し、こまかい質問をなげ

たそうだ)。

それに答えながら自分の話をしていると、だいぶ時間が流れてしまった。わ

たしたちの話す日本語がまったく理解できなかったらしく、ずっと座って話を

聞いていたジミーは、あとの 2 人といっしょに立ちあがって、さきほどわたし

に出会ったマクドナルドの大通りまで歩いていくのであった。わたしは、エデ

ィーと 2 人になって、いろいろな会話を交わした。

(1)ビーチボーイになる

エディーがバリ島に来たのは、1989 年のことである。バリに来る前までかれ

は、故郷から出て、ジャワ島の都会を転々とまわりながら、いろいろな仕事を

していた。しかし、ジャワ島の仕事は給料が少なすぎた。それに、仕事を探す

のもむずかしく、きびしい毎日がつづいていた。

ジャワ島でやっていたバスの運転手を最後に、当時 23 歳の若い青年だったエ

ディーはバリ島ゆきを決めた。騒がしい都会はもううんざりと思ったからだ。

とくに専門技術をもっていたわけでもなかったエディーは、バリ島に来た当

初、朝市で花や魚を売ったり、交通整理をしたり、あらゆる仕事を経験して金

を稼いだ。その後、サヌールに移り、小さいホテルのセキュリティーの仕事を

勤めるようになった。

今までの仕事とちがって、ホテルのセキュリティーは、とても楽しい仕事で

あった。しかし、給料は朝市の花売りのときよりも少なかったという。ただ、

外国人観光客たちの間で毎日仕事をすることが楽しくて、しばらくはがまんし

て生活をつづけた。

そのようなある日、ホテルに宿泊していた白人のお客さんに、「クタビーチに

行って夕日を見たいのだが、そこまでいっしょに行ってくれないか」と誘われ

たのをきっかけに、エディーは、うまれてはじめてこのクタビーチに来たとい

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う。

それはバリ島に来てからまもないときのことで、いまから約 15 年前のことだ。

当時のクタビーチにはまだ緑がたくさん残っており、いまのクタビーチのよう

に砂浜がつづくロングビーチでもなかった。しかし、クタには観光客が多かっ

た。勤務先のホテルで毎日見られる外国人がここにはもっといることに、エデ

ィーは驚いた。

その日はじめて見たクタビーチの夕日は、サヌールでの仕事を、その日のう

ちにやめさせてしまうほど印象的で美しかった。かれは本当にその夕日を見た

日を最後に、ホテルのセキュリティーの仕事やめて、クタに住むことを決心し

たそうである。

しかし、クタビーチでの仕事探しもそう簡単ではなかった。サーフィンがで

きるわけでもないし、屋台をつくる資本があったわけでもないエディーが思い

ついたのは、「茣蓙ひき」の仕事だった。砂の上に座ってマッサージをしたり、

本を読んだりする観光客のために、バリ島の草でつくった茣蓙を貸して代金を

もらうことが、かれのクタビーチでの最初の仕事だった。市場で売っているも

っとも安い茣蓙にすぎないのに、それだけで商売ができることに「バリでは何

でもやれば仕事になる」ということを実感した。

茣蓙ひきの仕事は半年ほどつづいた。たくさんの金を稼ぐことはなかったが、

ひとり暮らしで足りる程度の収入はあった。そのようなある日、エディーは、

同じビーチでサーフィンの仕事をしていたあるスマトラ人男性に出会った。か

れはエディーに、「きみは、顔もハンサムだし体格もいいから、茣蓙ひきの仕事

はきみににあわないと思うんだ。おれがサーフィンを教えてあげるから、おれ

たちといっしょに働いてみないか?」と言うのであった。ちょうど茣蓙ひきも

飽きてきたし、かれらのするサーフィンに以前から興味を抱いていたエディー

は、その出会いをきっかけに茣蓙ひきの仕事をやめ、サーフィンを習いはじめ

た。

波乗りは魅力的だった。巨大な波に身をまかせて、自分で自分をコントロー

ルしなければならない難点はあったが、うまく波に乗ればすべるようにして海

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の上を進む。すべるのは波が立っている間の数秒にすぎないが、その一瞬の快

感がたまらないものだった。

もちろん海には危険な要素も多く、けがをしたこともあれば溺れて死にそう

な経験もした。それに、茣蓙ひきで貯まった金を中古のサーフボードを買うの

に全部使ってしまい、当時のエディーには食事代もなければ泊まる場所もなか

った。しかし、かれにはたくさんの仲間ができていた。そのため、金がなくて

も仲間のおかげで何とか生活ができたという。

ある程度波乗りのコツがわかってきてから、エディーは観光客にサーフィン

の基本を教えたり自分のサーフボードをレンタルしたりして金を稼ぐようにな

った。しかし、雨季がはじまる 10 月から 3 月の間は、ビーチに来る観光客も少

なくなるため、その間は工事現場で働いた。季節によって職が変わったり、た

まには食べものに困ったりもする不安な毎日がつづいたが、それでもエディー

は好きなように生きる自分のことをうれしく思っていた。

当時のエディーにとって大事だったのは、けっしてお金ではなかったからだ。

(2)日本へ

かれが最初日本に行ったのは、詐欺にあったのがきっかけだった。

茣蓙ひきをやめてサーフィンの仕事をしていた 2 年目のころ、クタビーチに

はへんな噂が広まっていた。ジャワ島から来たある日系企業の社員が、日本に

3 年間出稼ぎに行く若者を「研修生」29として募集しているのだといった噂だっ

た。誘いや噂にだれより敏感なエディーは、噂の真相を明らかにしようと、そ

のジャワ人に直接会いに行った。そしていろいろとかれの説明を聞いた。

その人の話によれば、「日本に行けば、工場でボタンを押す仕事だけすればい

29

外国人研修制度とは、諸外国の青壮年労働者(18 歳以上)を日本に受け入れ、

1年以内の期間に、日本国の産業・職業上の技術・技能・知識の修得を支援す

ることを内容とするものである。入管法上の在留資格は「研修」となり、研修

生ヴィザをもつ労働者は「研修生」とよばれる。「http://www.jitco.or.jp」、財団

法人 国際研修協力機構のホームページ参照。

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いんだ。すべては機械がやってくれるシステムだから、きみは本当にボタンだ

け押せばいいわけだ。なのに、給料がいくらなのか知っている? 1 ヶ月で 20

万円(現在のレートで換算すると約 1 千 6 百万ルピア)だよ! それに、行け

ばきちんと工場から寮も提供されるし、食事もついている。でも、行くために

最初の費用が要る。日本での 1 ヶ月分の給料分、そう、1 千 6 百万ルピアだけ

まず費用として会社のほうに預ける必要がある。もちろん、それは帰ってくる

ときに給料としてちゃんと戻ってくるから、ようするにきみはただで日本に行

って 3 年間だけ働けば、ここで一生食っていける大金持ちになって帰ってこら

れるのだ」とのことであった。

現地の情報によれば、現在バリ島の一流ホテルで働いている従業員の平均月

給は日本円で約 1 万 5 千円だそうだが、それの 13 倍もする給料を、日本では 1

ヶ月あれば稼げるということだった。それに、仕事の内容はボタンを押すだけ

というかれのことばは、エディーを盲目にさせた。そのジャワ人は、うまいこ

とに、何人かのインドネシア人研修生の写真や勤務資料なども持っており、自

分は仕事が忙しくて 3 日しかバリには泊まらないので、決める人ははやいうち

に契約書にサインをしてほしいと話していた。エディーは悩んだ。日本に行け

ば大金持ちになるということより、かれは単純に日本に行きたい気持ちが強か

ったからだ。

ふつう、インドネシア人が日本に行くためには、それがたんなる旅行であっ

ても非常にややこしい手続きをしなければならない。日本国籍の保証人も何人

か求められるし、インドネシアには日本のような格安航空券が普及していない

ため、航空券の値段も日本で買うより高くなる。ようするに、エディーのよう

な庶民は、よほどの機会がないかぎり、日本に行くことはたんなる夢話にすぎ

ないのである。ところが、そのジャワ人の話なら、そういった煩雑な手続きも

会社側がすべて処理してくれるという。もちろん、かれの言った最初必要な金

額は、それもまた当時のエディーにとっては巨額な金であった。しかし、それ

は何とかして手にいれることはできそうだった。日本で給料をもらったら、す

ぐ返せることができる金だと思い、エディーは友達からその金を借りることに

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した。そしてかれはジャワ人が渡してくれた契約書にサインをした。

1992 年からエディーは、ジャワ人の紹介してくれた日本の工場で仕事をはじ

めた。ボタンを押すだけの仕事だと聞いてきたのに、仕事はいろいろ与えられ

ていた。しかし、そうむずかしい仕事ではなかったので、もうすぐしたらボタ

ン押しの仕事をくれるだろうと、かれは思っていたそうだ。

ところが、そうやって 3 ヶ月がすぎた頃、エディーには帰国の命令がくださ

れた。研修生として工場で働く期間は、3 年ではない 3 ヶ月だったというので

ある。工場には新しい研究生たちが入ってきて、自分の働く場所はもうなくな

っていた。ヴィザも書類もそのジャワ人に預けていたエディーは、事情がまっ

たくわからず、その人を探して説明をしてもらおうとした。しかし、だれもそ

の人の行方を知らなかった。工場側に事情を話そうとしても、ことばがうまく

通じず、かれらは「もうきみたちの仕事は終わったので、帰国しなさい」と言

うのであった。そのジャワ人は、そこにいた 10 人ほどのインドネシア人たちの

通帳までを管理していたので、帰国しようとしても金がない。しかもパスポー

トもなかった。そのときやっと、みなはそのジャワ人がたんなる詐欺師だった

ことがわかったのである。

エディーは困った。どうすればいいのか、どうすればインドネシアに戻れる

のかと、毎日頭を痛めながら悩みつづけた。しかし自分ひとりでできることは

なにもなさそうだったので、東京のあちこちをまわりながらインドネシア人の

労働者たちを探し、帰国の方法を模索した。

とうとうかれは不法滞在者の身となった。その後約 6 ヶ月の間、かれは日雇

い労働者として東京のある工事現場で働いた。かれが不法滞在者ということを

知っていても、雇ってくれるところがあったからだ。しかし、とうぜんその分

給料は少なかった。というより、給料はないに等しかった。泊まるところもな

かったエディーは、自分と同じ立場になっていたインドネシア人たちと工事現

場の倉庫で寝泊りをし、そこで自炊をしながら生活した。金がないときは、ス

ーパーでもっとも安い値段で売られているモヤシや白菜を煮たものだけを食べ

ていた時期もあった。しかし、実際にそれはそう悲惨な生活でもなかったそう

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だ。仕事がない日を利用してエディーは、仲間たちといっしょに秋葉原の町を

歩いたり、電車に乗って横浜に行ったりした。もちろん生活は貧乏極まりなか

ったが、楽しい思い出もたくさんつくることができたと、かれは当時をふりか

える。

そしてその半年後、エディーはインドネシアに戻った。どうやって戻ってき

たのかは内緒だといっていたが、どうも知人の日本人からの協力があったらし

い。

バリ島に戻ったかれは、ふたたびサーフィンの仕事をはじめた。日本にいる

間身につけた日本語で、かれは日本人観光客のガイドをすることもあった。詐

欺師にだまされて行った日本ではあったが、それでも日本での経験は、その後

かれがビーチで仕事をするのにいろいろな意味で役にたつものであった。

(3)結婚

バリ島に来てから 5 年目の 1994 年、エディーに恋人ができた。

名前はエミコ(仮名)、東京から来た日本人だった。エミコは、当時エディー

の友達がつきあっていた女性の親友だった。エミコはことば数が非常に少なく、

内向的な性格の女性だった。しかしエディーは彼女のことがとても好きで、彼

女が日本に帰った後にも毎日のように彼女のことを思い出していた。手紙を出

すために必死になって日本語の文字を覚え、たまにエミコから電話がかかって

きた日には、うれしくて夜も眠れなかったそうだ。しだいに、エミコもよくバ

リ島に来るようになり、2 人は 1 年ほどの遠距離恋愛の末、結婚にいたった。

結婚を決めるのにあたってエディーは、1 度だけ辛い思いをしたことがある。

それは、エミコからの手紙に書かれていた、「自分はすでに 1 度離婚を経験した

ことがある」という彼女からの告白だった。エディーにとってそれは衝撃的で、

かれは悲しんだ。しかし、そこでエミコのことが嫌いになることはなかった。

むしろ、そのような彼女に力になってあげたいと思い、自分から彼女に結婚を

申し込んだ。

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そして 2 人の新婚生活の住まいは、彼女の住んでいた東京に決まった。それ

は、エディーにとっての 2 度目の東京行きであった。

(4)東京

おれはよく、池袋の公園に散歩に行った。ぼーっとして時間をつぶすには

公園よりいいところはないからさ。しかも高層ビルばかりの東京で、おれの

気に入りの場所はそれでも緑が見えるその公園くらいしかなかった。その公

園には、ホームレスもいっぱいいるし、おれみたいな外国人労働者もたくさ

ん来ていた。たまに自分の国の食べ物をつくって屋台で売ったりする人もい

たし、ちょっと楽しいところだったからね。

……ある日公園に行くと、老人たちが長く列をつくってなにかを待っていた。

すごく寒い冬の日だったのに、朝から来て何時間も順番を待っているの。か

れらの並んでいる列のいちばん先には、バスが 1 台停まっていた。ひとは次

つぎとそのバスのなかに入っていって、ひとり出てくるとまたひとり入って

いく。いったいあれはなにするバスかなーと思って近づいてみてみると、「無

料人生相談所」って書いてあった。だから、「無料であなたの話を聞いてあげ

ます」ということだろう。

おれ、そのときに本当にぞっとしたよ。日本は本当に変な国だなーと思っ

たの。ね、考えてごらん。自分の話をあんなに短い時間で他人に聞いてもら

うために、ただそれだけのために、寒い朝から老人たちが集まってくるんだ

よ。なかでどんな話をするのかはわからないけど、なんか心寂しく思ったね、

そのとき。周りにこんなに人が多いのに、あの小さいバスのなかでしか自分

の心を言うことができないんだなーと思ってね。

……でも実はね。その時おれはちょうど、奥さんと別れたばかりだったんだ。

結婚して 4 年目に、おれが先に別れを宣言したの。その理由は、あまり言い

たくないけど、

……全部おれのせい。おれがわるかった。

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エディーとエミコのあいだに子どもはうまれなかった。エミコは体がわるく

て子どもをうめないとのことだった。しかしそれはどうでもよかった。結婚を

申し込んだのも自分だったので、そこで後悔したところで、すべては自分の選

択だったからだ。

結婚の最初のころ、エディーはエミコと一生懸命仕事をして、いずれかバリ

島で暮らすことを夢みていた。しかし、それはそううまくいかなかった。とい

うのも、エミコは、バリ島にいるときと日本にいるときでは 180 度違う人にな

るのであったからだ。彼女の性格がもともと静かなのは知っていたが、日本に

いるエミコは、自分がそばにいても暗いままで、エディーがどんなにおもしろ

いことを言っても笑うことがなかった。エディーは、彼女のことがとても心配

になって、はやく日本を去ってバリ島に行きたいと思っていた。

そうやって時間はすぎていった。同じ部屋に住みながらも何も言わない日々

が何年もつづいた。

エディーはそのときも、前回の滞在と同様、工場で働いていた。プラスティ

ックの部品を組み合わせる単純な仕事を朝 8 時から夜 8 時まで繰り返す。しか

し、そこでもストレスはたまるばかりだった。社長はいつも「おまえはなぜし

っかり働けないんだ? おれの言う日本語が理解できないか、このバカ! も

っとしっかり勉強しろよ」と怒ったという。そうして家に戻っても、バリ島で

会ったそのエミコは、もういない。家にいるエミコは、まったく別人のように

冷たく、かれらの生活はとても機械的だった。それこそ「ボタンを押すだけで

工場の機械がまわるような結婚生活だった」と、エディーは話す。

毎月通帳に金は貯まっていったのに、エディーはだんだんその金の意味がわ

からなくなった。そしてやがてかれはパチンコに足を運ぶようになる。「金をい

れると、そこからまた金がでてくる。働かなくても金が手にはいる」と思うと、

仕事にも行かなくなった。あるときは自分の 1 ヶ月分の給料より多い金がでて

きたこともあった。しかし、悪銭身につかず、でてきた金はすぐさまなくなっ

てしまった。

そして 1999 年、結婚して 4 年目に 2 人は別れた。先にその話を出しだのはエ

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ディーであった。自分があれだけ金を乱暴に使って、貯金を無駄にしてしまっ

たのにも何ひとつ文句をいわない妻を、エディーは理解することができなかっ

た。彼女の人生をもっと暗くさせる前に離婚を決めたほうがいいと思ったのに、

エミコはなぜか離婚だけはさけたいと言った。それはエディーをもっとも悲し

ませたものだった。

「なぜエミコはそこまで自分をいじめるのか」、「なぜ形式的でも旦那が必要だ

ったのか」を理解するにはだいぶ時間がかかったという。

そして結局ふたりの離婚が正式に成立したのは、2002 年のことであった。

離婚後クタに戻ったエディーは、もう 37 歳になっていた。ビーチにはあいか

わらず、7 年前の自分をみるような若いサーファーたちがたくさんいた。それ

に、日本人観光客は以前よりはるかに増えていた。

(5)エディーの考える日本というシステム

「おれの性格はものすごく単純だ。世間の誘惑にもすぐにまけてしまうし、

ひとつのことを最後まで締めよくすることも苦手で、さらに短気である」と、

エディーは自分のことを語る。「おれはバカだよ」ということばは、かれとの会

話のなかで数百回は聞いたはずのエディーの口癖で、かれは自分のことをいつ

もせめたり、いじめたりする。

しかし、わたしに話してくれたかれの人生は、けっして「あるバカの物語」

ではなかった。というのも、かれは、いつも自分の目でみた「日本社会」を強

くわたしに語っていたからだ。そして話のすべては、どこから聞いた話でもな

く、かれみずからの経験によるものであった。かれは、日本社会について語る

ときにいつも「システム」ということばを使っていた。結局日本に住みながら

かれをもっとも苦しめたのは、その「システム」からくるストレスだったとい

う。

おれが思うに、日本はシステムがきびしすぎる。人間とシステムが組みあ

っていないように見えるのだ。おれは、日本人のわるいことばかりを経験し

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てきたわけではなく、とても優しいひとたちにも、めぐまれていた。食べ物

がないときには、近所の奥さんたちが気を配ってご飯をわけてくれたことも

あったし、不法滞在でインドネシアに戻れなくなっていた時も、池袋のある

クラブの日本人がおれを助けてくれたよ。むしろおれをだましたやつらは、

だいたい同じインドネシア人だったりしたからね。本当に、日本にはいい人

たちがたくさんいると思った。

でも、おれがいうシステムは、その人たちをかわいそうにさせている。バ

カみたいなことばに聞こえるかもしれないけど、人生は法律と関係ないもの

だよ。人は、自分が好きなところに住んだり移ったりするのがあたりまえじ

ゃないか。でも、日本人はあまりにも法律とか形式にこだわるように見えた。

そういったシステムで自分の首を自分で締めたのはおれも同じだったけど、

みんながそうしているからおれも自然にそうなったものだね。システムを変

えたい気持ちはだれもが持っていても、自分にはとてもそんなことができな

いとみんな思っているんじゃないの。だから、人並みにふつうに暮らすのが

最高でしょう。「みんながやることをわたしもやる」というのもひとつの日本

のシステムかもしれない。

バリ島で会う日本人と日本で会う日本人は、だから全然違うふうにみえて

しまうの。ここにいる観光客は、そのシステムからみんな逃げてきたのかも

しれない。でも、実際にはなにひとつ逃れることはできていないのね。とく

に、女の子たちをみてごらん。なぜバリ島に来る女の子ばかりを新聞や雑誌

がとりあげるのか? それは、彼女たちは、まだすなおだからだとおれは思

う。すなおな人間は、いつもそうやってシステムに利用されるから。

日本にいて、みんなが忙しくて、そこで注目されない自分の存在が、ここ

に来ると目立つようになるでしょう。ビーチボーイたちが「かわいいね」、「好

きだよ」とか言うと、かれらのことをバカにしつつも、内心はみんなよろこ

ぶのさ。それはなにも変なことじゃないよ。ビーチボーイたちも、けっして

うそついて「かわいい」と言っているわけじゃないしね。だって、バリにい

る日本人の女性たちは、実際に輝いているもの。

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でも、あなたが言ったように、ガイドブックには「ビーチボーイは危ない」

とばかり書いている。それも日本のシステム。彼女たちはそれを読んで、み

んなが危ないというビーチボーイは本当に危ないと思ってしまうでしょう。

そうやっていろんな日本のシステムが、彼女たちの出会いも邪魔しているし、

彼女たちが好きなところに移動して暮らすことも、そのシステムはできなく

させている。結局システムから逃れてきてバリに住んでいる日本人女性たち

は、また「バリでオトコを買って、ちやほやされてそこで暮らす」とか言わ

れるだろう。日本人女性も、かわいそうなのは、同じだよ。

エミコもだってそうだ。おれは、日本でみたエミコは、1 度もかわいいなん

て思ったことがないんだ。本音をいえば、おれがそんなに恋した、かわいい

エミコはね、日本ではただの不細工でバツイチのおばちゃんにすぎなかった

のさ。みんなと同じく忙しかったし、本当は疲れていて寂しかったくせに、

強がるばかりでそれをぜったいに口に出さなかった。笑顔がきれいなエミコ

なのに、日本ではテレビみるとき以外には本当に笑わなかったの。だからは

やくバリ島に行って暮らそうじゃないかと彼女を説得しても、彼女はまだだ

めだという。働いて、がまんして、もうすこし金が貯まったら、そのとき行

くと言った。その時、おれもはじめて思ったよ。こんなに働くシステムがき

ちんとしているから、日本人は働くことと休むことをちゃんと区別している

と。それはインドネシア人が持っていない「いいもの」かもしれないから、

おれもエミコみたいに働いて、その後に幸せになろうと思って、がんばって

働いた。でも、失敗してクタに戻った。

結局、おれは「生まれつきの怠け者」だし、彼女は「生まれつきの働き者」

だったからなー。どちらかのシステムを壊さないと、もうやっていけなくな

っているよ、世の中は。

おれを怠け者にさせたのはインドネシアのシステム。彼女をそうさせたの

は日本のシステム。わるいのは、すべてが「システム」だよ。でもさ、よく

わからないのは、そのシステムをつくったのも人間じゃない? もう、本当

によくわからなくなってしまうね。

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……おれ、日本からバリ島に戻ってきて、 10 年以上行かなかった教会に通う

ようになったよ。バカな頭でいくら考えても、わからないことはわからない

し、神さまでも信じないと、だれを信じて生きていくの?

9. おわりに-かれらに学んだもの

結局、エディーは矛盾だらけの人間であった。最後にかれに会ったとき――

それは 2005 年 2 月のことで、わたしのクタビーチフィールドワークの最終日で

もあった――、かれはわたしに、「おれはあなたを騙した」との告白をした。神

を信じることで人間がつくりあげたいやなシステムから逃れたいといっていた

かれは、その一方で日本人観光客に麻薬を売っていたのである。かれ自身もい

ったように、エディーは、またも世間の誘惑に屈してしまい、ある意味で、も

う日本人なしでは生きていけない人間になっていた。

考えてみるとかれは、これまで 8 年を東京で、7 年をクタビーチで暮らして

いる。中年の男性として来年 40 歳をむかえるエディーの青春は、そうやってバ

リ島と東京を行ったり来たりするなかで終わってしまった。

1980 年の終わりに、国内移民政策の影響で故郷から出てきて以来、エディー

は日本人観光客が急増する 1990 年代のバリ島に居場所を移し、その後、バブル

景気の熱がやっと冷めきった 1990 年代前半の日本社会で暮らした。

そのあいだかれの職は、「オラン・パンタイ」から「ビーチボーイ」にかわり、

それは、前述したホスト社会の変化の一部であった。そのうえかれは、クタビ

ーチにおけるおもなゲスト国である日本において 8 年間を過ごした。最初は「外

国人研修生」、「不法滞在外国人」といった立場から、やがて「日本人の配偶者」

まで、エディーはさまざまな形で日本に滞在し、ゲスト社会を体験した。しか

し、バリ島でも日本でも、1 度もかれはその社会で暮らす「ホスト」にはなり

えなかった。どこに暮らそうがかれの存在は、スマトラからの「よそもの」で

あったし、インドネシアからの「外国人」にすぎなかった。

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「うまれつきの怠け者(=インドネシア人)」と「うまれつきの働き者(=日

本人)」といったエディーとエミコとの関係が示しているのは、非常に政治経済

的な問題にも聞こえるところがある。つまり、人びとが旅をする行為の背景に、

今日の世界においてはコインの裏表一体的な関係である「先進国」と、「発展途

上国」という非対称的な構造があったことを、エディーの話から読みとること

はできないだろうか。

エディーが麻薬密売者であろうが、日本人女性の逆玉のこしにのりたかった

ビーチボーイであろうが、現在のかれが存在するのは「日本人観光客」がいた

からである。そして、 5 年間日本に留学しながら日本社会の氾濫する情報にな

らされてしまったわたしは、日本人ではないにしても、日本製のガイドブック

をもって、日本の旅行会社から格安ティケットを購入して、バリ島を旅したひ

とりの女性観光客であった。

しかし、そのようなビーチボーイたちとわたしの出会いが、すべて偶然のな

りゆきだっただろうかと思うと、それはけっして偶然ではなかったような気が

する。ビーチボーイに関するわたしの先入観がつくられたのには、それなりの

理由があったからだ。

かれらの話をまとめるために、世界規模でものごとを察していると、エディ

ーの青春時代は、まるで最初からシナリオが決まってあるドラマのように、さ

まざまな「概念」、「時代ごとのできごと」をもって説明することができた。か

れが話していた「システム」というのは、結局のところ、今日の日本社会をつ

くりあげた「経済発展の諸産物」を語ることばであったかもしれない。もしく

は、前述した「世界システム論」にみる世界の中核と周辺の関係、そしてその

システムの中身が、かれの青春時代からよみとれるであろう。

その、あまりにも複雑であいまいな周りの現象を、かれは自分自身のことば

でわたしに教えてくれたのである。

それに、アレックからもいろいろなことを学んだ。

わたしが最初かれの取材を決めたのは、「ビーチボーイ」という仕事を、たん

なる日本人女性相手の「セックスワーカー」としてみなすのではなく、かれら

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を「バリ社会における移民の若者」としてみなおす必要性を感じたからだ。

バリ島に来たばかりのアレックスがどのようにしてビーチ社会に適応してい

くのか、ビーチボーイたちの日常の暮らしはどのようなものなのかなど、かれ

との取材で知りたかったことはたくさんあった。しかし、突然アレックスに起

きたあの日のできごとによって、「移民社会としてのバリ島」で生きる「移民と

してのビーチボーイ」の姿を、まざまざとみせつけられたのである。

観光客にとっては親切でつねにオープンにみえるバリ社会も、なかをよくの

ぞいてみるとけっしてオープンな社会ではなかったこと。それに、観光客の安

全のために雇われているバリ人のセキュリティーは、クタのビーチボーイたち

とは観光客をあいだにして「対立関係」であることすらみえてきた。クタ地区

にいるホストとゲストの若者たち――バリ人、移民のインドネシア人、白人、

日本人、日本以外のアジア人――の構造が、目にみえる権力関係によってあら

われたのである。

それから半年後、わたしはふたたびアレックスのトゥンパットをおとずれた。

しかし、アレックスはそこにいなかった。以前住んでいた家に行ってみても、

かれはいなかった。

いろいろな人に聞いてやっと再会できたアレックスは、ビーチボーイの仕事

をやめて、工事現場で砂を運んでいた。

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謝辞

本論文の作成にあたってかぎりない応援を送ってくださった現地のみなさん

にお礼を申し上げます。

バリ島での滞在のさいにいろさまざまな面お世話になった大木麻記子さん、

スラウェシ島滞在でお世話になった西川さん、肱黒和子さんとそのほかのマッ

カサル在住 JICA 隊員のみなさん、そして最後に本調査のもっとも大事な協力

者であったインドネシア人のみなさん、まことにありがとうございました。

Terima kasih untuk semuanya Alex, Anang, Anno dan Mira di Hasanudin

universitas, Armias, Budi, Choro, Darwin, Gusde, Honbing, Ibu Ethy, Iruka,

Jimmy, Makoto, Martino, Maxi, Maruseru-san, Pak Wahyoe, Pak Manurung,

Roy, Ruth, Sally-san, Wayan dan Komang di copa-café, Yudihis.

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