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MURAKAMI HARUKI RELOADED IV

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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository MURAKAMI HARUKI RELOADED IV 岡野, 進 九州大学大学院言語文化研究院言語環境学部門 : 教授 : 言語情報学 https://doi.org/10.15017/21803 出版情報:言語文化論究. 28, pp.135-144, 2012-03-02. Faculty of Languages and Cultures, Kyushu University バージョン: 権利関係:
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九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

MURAKAMI HARUKI RELOADED IV

岡野, 進九州大学大学院言語文化研究院言語環境学部門 : 教授 : 言語情報学

https://doi.org/10.15017/21803

出版情報:言語文化論究. 28, pp.135-144, 2012-03-02. Faculty of Languages and Cultures, KyushuUniversityバージョン:権利関係:

九州大学大学院言語文化研究院 言語文化論究 第28号 平成24年2月発行 抜刷

Faculty of Languages and Cultures, Kyushu UniversityMotooka, Fukuoka, Japan

STUDIES IN LANGUAGES AND CULTURES, No.28, February 2012

MURAKAMI HARUKI RELOADED IV――「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」論(1)――

岡 野   進

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MURAKAMI HARUKI RELOADED Ⅳ『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』論(1)

岡 野   進

as an artist his weakness was

essential to him: in his plying

it was a source of strength1

Ⅰ『街と、その不確かな壁』

『街と、その不確かな壁』という作品は 1980 年、「文学界」9月号に発表された。作者本人に失敗作と断じられたこの作品は、その後単行本化されることもなく、全集版にも収録されていない。だが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を論じるにはこの「失敗作」から論じなければならないだろう。というのも、既によく知られているように、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という作品は「世界の終わり」と題されたパートと「ハードボイルド・ワンダーランド」と題されたパートから構成される作品であり、『街と、その不確かな壁』は「世界の終わり」のための習作、プロトタイプと捉えることができるからである。したがって、『街と、その不確かな壁』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を比べることにより、村上が「失敗作」から何を学び、いかなる創意工夫を導入したかが明らかになり、「世界の終わり」の成り立ちが一層明確になる。『風の歌を聴け』、『1973 年のピンボール』ではストーリーと呼べるものは描かれていないことを考慮するなら、村上はこの作品ではじめて物語らしい物語を語ったといっていいだろう。それは壁に囲まれた街に住む少女に会いに行く物語であった。この少女は自分を外界から切り離し、自分で作りあげた世界に住む女性である。自閉した女性というテーマは『ノルウエイの森』の直子と同じテーマである。つまり、村上は同一のテーマを『街と、その不確かな壁』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『ノルウエイの森』、これら三つの作品で扱ったのである。これは、このテーマが村上にとっていかに重要であったかを物語るものである。この論文において以下の二つの点について考察がなされる。まず『街と、その不確かな壁』とい

う作品の概略を記し、どのような点で作者によって失敗作とみなされたかを明らかにする。次に、「ことば」の問題を取り上げる。「ことば」はこの作品で数多く言及され、一つのテーマになっているが、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』においては「ことば」はテーマとしては論じられていない。これは作者によって「ことば」が重要なテーマとしてみなされなくなったことを意味しているわけではない。事態は逆である。「ことば」というテーマは作者が隠しておきたかったことを顕わにしてしまうがゆえに、削除されたのである。このテーマを取り上げることは、作者のことばをかりるなら、作品の「裏がすけてみえる」ことに通じるために、避けられたのである。こうした事情を明らかにする。

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1 – 1  作品の概略

『街と、その不確かな壁』の大まかな印象を述べるなら、この作品は『1973 年のピンボール』に描かれた「鼠」の世界に近い。『街と、その不確かな壁』においては、『風の歌を聴け』あるいは『1973年のピンボール』の「僕」の世界を特徴づけている合衆国のポップカルチャーのイコンの名前も外国のブランドの名前もほとんど見いだすことができない。また『街と、その不確かな壁』の主人公である「僕」も、村上春樹のトレードマークとされる、何事に対しても距離をおくクールな振る舞いを示すこともない。文体、作品の雰囲気という点においても、この作品は『1973 年のピンボール』の「鼠」の世界の延長線上にあるものといってよい。この作品の主な登場人物は、「僕」、「君」と呼ばれる少女、「僕」の影、大佐、門番、壁である。

粗筋を書くなら、以下のようになる。「僕」は「君」と呼ばれる少女から街のことを聞く。この世界にいる少女は影にすぎず、本当の少女は街に住んでいると言われる。少女の死後、少女を追って、「僕」は街に入る。街に入る際に「僕」は門番によって影を切り離される。「影」は「弱くて暗い心」とみなされている。門番は影について以下のように語る。「いろんな蠅がその弱くて暗い心に群がるんだ。憎しみ、悩み、弱さ、虚栄心、自己憐憫、怒り」(『街と、その不確かな壁』、60 頁 2)。したがって、

「影」を捨てれば、「憎しみ、悩み、弱さ、虚栄心、自己憐憫、怒り、哀しみ」を感じなくなるというのが門番の、つまりは街の主張である。街で「僕」は予言者の役を与えられ、図書館で「古い夢」の整理を行う。この作品にも一角獣が登場するが、以下の引用から明らかなように、「古い夢」は一角獣の頭骨とは関連づけられていない。「図書館の書庫には埃をかぶった何千という古い夢が誰一人手を触れるものもないままに所狭しとつみあげられ、終わりのない眠りを貪っていた。その大きさはテニス・ボールほどのものからサッカー・ボールまで、色合いも多種多様だった。形は殆どが卵型で、手にとってじっくり眺めてみると下半身が上半分に比べて僅かにふくらんでいる。表面の材質は不明だが、大理石のようにつるりとした手触りだ」(56—57 頁)。図書館で「君」と呼ばれる少女は司書をし、「僕」の手助けをするが、影の時の記憶を失っており、「僕」が誰であるかは分からない。街は普通の意味での街として設定されており、喫茶店もあり、図書館で仕事を終えた後、二人はそこでコーヒーを飲む。少女は司書としての仕事で賃金を得ている。細々としたものではあるが、工場での生産活動も維持されている。また、老人たちは年金をもらっている。「老人たちは朝の労働を終えると、あとは「官舎」の正面の日だまりに腰を下ろし、年金の計算をしたり、古い戦役の思い出話に耽るのである」(「街」、64 頁)。こうしたことはすべて街が「僕」の想像力によって作られたものでないことを示すものである。街には一角獣が住んでおり、冬とともに死を迎える。ただし、一角獣が住民の自我を吸収することに関する記述はない 3。一角獣は物語にメルヘン調の色彩をつけ加える以外の機能をもっていない。「僕」は図書館で働く、心を失った少女と性的な交渉を持つ。「僕」が心を喪失した女性とセックスすることに対して後悔の念を抱いていることを示す記述は見いだされない。突然「古い夢」が一斉に目覚める。「古い夢」の目覚めを促すような事柄はなんら語られることなく、唐突に「古い夢」が活動し始めることが告げられる。それは「僕」に一つのメッセージを伝え、物語は一変する。すなわち、古い夢は、すべては崩壊し、失われ続け、損なわれるつづけることを「僕」に示す。この情景はこれまで村上が書いたなかでもっともグロテスクな情景といっていい。古い夢は、「僕」の体も腐り、溶けてゆく幻を「僕」に示し、壁に囲まれた街での生は無から逃れることができないことを明らかにする。この後、「僕」は街を出て元のように一つになろうと言う「影」の説得を受け入れ、街を出ることを決意する。そして、「僕」は心を捨てて生きることはできないことを少女に告げる。街を去る前に「僕」は壁と対決する。「飛び込みたいのなら、飛び込むがいい、と壁は言った。しかしお前たちの語っているものはただのことばだ。お前はそんな世界

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を逃れて、この街に来たのではないのか?」と壁は「僕」に問う。これに対し「僕」は以下のように答える。「ことばは不確かだ。ことばは逃げる。ことばは裏切る。そして、ことばは死ぬ。でも結局のところ、それが僕自身なんだ。それを変えることはできない」(「街」、97-8 頁)。そして「僕」は影とともに「たまり」に飛び込み、街を去る。既に述べたように、『街と、その不確かな壁』は作者によって失敗作とみなされた。なぜ作者は失

敗作と判断したのだろうか?どの点でこの作品は失敗しているのだろうか?私たちは物語が停滞していることを先ず指摘したい。主人公は少女に会いに街へ行くわけだが、街の中へ入ってしまうともはやすることがなく、徒に時を過ごしているような印象を私たちは作品から受ける。そのような印象を生み出す原因は少女の設定にある。村上は「本当の私が生きているのは、その壁に囲まれた街の中」(48 頁)と少女を設定する。「僕」が街を訪れる動機付けという観点から見れば、街に本当の少女が生きているという設定は確かに必要である。だが少女をこのように設定することは街の設定と齟齬を来す結果となる。というのは、街は街で、街に住む人々は影を失い、心を失うと設定されるために、少女の設定は作品を袋小路へ追いやることになるからである。なぜか。作品の構想に拠るなら、主人公が会いに行った少女は、心を失ったまま本当の「私」として存在することが可能になってしまうからである。仮に少女が心を失い、本当の自分を見失っているのであれば、そこからどうして少女が心を失ったのかという謎が生まれ、その謎を解決しようという作品の運動が生まれる。二人で心を取り戻し、本当の自分を見いだそうという方向へ作品を展開させることが可能になるのである。だが、少女は心を失ったまま本当の「私」として存在するという作品の構想は、そうしたことを不可能にしてしまう。そのため少女は物語を先へと進める装置となりえず、「僕」は街では「古い夢」の整理すること以外にすることがなくなってしまう。物語が停滞していると私たちが言うのは以上の意味においてである。また、主人公は一旦は影を切り離されて街の中に入るが、最後には「影」の説得を受け入れ、少

女を残して街を出る。そして街を出る理由を次のように少女に語る。「僕の進んでいる長い廊下が出口のない廊下であったとしても、本当の僕自身はそこにしか居ないんじゃないかと思う。僕は僕の暗い夢を、それがどんなに暗いものであっても、あそこに置き去りにして生きるわけにはいかない。それを切り離してしまった僕は、もう本当の僕じゃない」(「街」、89 頁)。「僕」は心を捨てて生きることはできないことを女の子に告げるわけである。街を出る理由として見た場合「僕」が語ることは確かに間違ってはいない。だが、それは少女を残して去ることを正当化するものではないだろう。主人公がこのように街を去る姿を見ると、「僕」はいったい何をしに街へ来たのだろうかという訝しげな気持ちを私たちは抱かざるを得ないのだ。心を捨てて生きることができないのは「僕」に限られたことではなく、少女もまたそうではないのか、と私たちは考えるのである。この作品において論点は、心を切り捨てて生きる世界を選ぶか、心をなくさずに生きる世界を選ぶかにあった。つまり、壁に閉じ込められ、心を捨てて、平穏な生活を生きるか、心をもったまま、哀しみや、孤独、病などに苦しみながら、生きるかの選択であった。したがって、『街と、その不確かな壁』では壁の外へ出るか、出ないか、そのどちらを選ぶかがテーマであって、女の子と共に心を回復して生きることははじめから考えられていなかったのである。恐らくこのこと、すなわち少女と共に心を回復することが除外されていたことも、作品が失敗した理由の一つに数えることができるであろう。『街と、その不確かな壁』という作品の致命的な欠点は「僕」が街を出ることを決定づけるものが、謂わば、天から降ってきたところにある。「僕」に街から出る決意をさせるものは、主人公が予言者として読んできた「古い夢」からのメッセージであった。このメッセージを主人公は自分で「古い夢」から聴き取るのではない。すなわちこのメッセージは物語の力学から生み出されたものではなく、物語の流れを無視した形で作者によってメッセージとして与えられる。つまり、「壁」の中の生は無

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から逃れることはできないことを「古い夢」に教えられ、「僕」は街を去ることを決意するのだが、こうした物語の構成はいかにも唐突で、またご都合主義的で、はじめから結論ありきという印象を拭い去ることができないのである。

1 – 2 ことばについて、もしくは「僕」はなぜ蓮の実を食べなかったのか

次に「ことば」がこの作品でどのように論じられているかを考察する。この物語は村上春樹の作品としては、次のような異様な始まり方をする。「語るべきものはあまりにも多く、語り得るものはあまりに少ない。 / おまけにことばは死ぬ。 / 一秒ごとにことばは死んでいく。路地で、屋根裏で、荒野で、そして駅の待合室で、コートの襟を立てたまま、ことばは死んでいく。 / お客さん、列車が来ましたよ! / そして次の瞬間、ことばは死んでいる」(46)。『街と、その不確かな壁』という物語においては、ことばに対する言及が数多く見いだされる。「僕」はことばが死んでいることを告げる 4。一方街を取り囲む壁は再三再四「僕」に「お前のいっているのはただのことばだ」ということを繰り返して説き、「僕」を責め立てる。私たちの考えでは、この作品で「ことば」は二つの異なるレベルで批判される。「僕」も「壁」も

同じように「ことば」について批判するが、内容はそれぞれ異なるということである。論を展開する前に、先行論文が「ことば」の問題についてどのように扱っているかをみておこう。

私たちの知る限り、今井清人氏、山根由美恵氏がこの問題を取り上げている。今井清人氏は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と題された論文のなかでこの問題にふれている。作品の冒頭で語られることばの死を今井氏はことばの消費の寓意とみる。「これはネットワークでの(主にマスメディアによる、例えば広告表現のような)ことばの消費の寓意なのである 5」。確かに氏の語るように村上のことばの死にはことばの消費の寓意が含まれている。しかし、今井氏は村上がことばの消費とは異なるレベルでことばをテーマとしていることに関しては述べていない。山根由美恵氏はその著、『村上春樹 <物語>の認識システム』でこの問題について述べており、「お前が言っているのはことばにすぎない」という「壁」の「僕」に対する批判を取り上げる。山根氏は、ことばが「実体のないただの記号にすぎない」点を「壁」は批判していると解釈する 6。山根氏は、ことばが機能不全に陥っているという事態が作品で批判されていると解釈するわけで、解釈の趣旨においては山根氏も今井氏と共通しているとみていいだろう。「僕」が述べることばの死とは、先行論文が明らかにしているように、ことばが無力になったことを示すものである。それは『羊をめぐる冒険』において、仕事の相棒が「僕」に告げることばによく表れている。相棒は「僕」がマーガリンを食べないにもかかわらず、マーガリンの広告コピーを作ったことにふれながら、以前は地に足がついていた仕事をしていたが、今は実体のないことばをまきちらしているだけだと嘆く。「少なくとも昔の俺たちはきちんと自信の持てる仕事をして、それが誇りでもあったんだ。それが今はない。実体のないことばをまきちらしているだけさ」(Ⅱ -74。以下、村上の作品の引用は村上春樹全作品 1979-1989、講談社刊による。 ローマ数字は巻数を、アラビア数字はページ数を示す)。このように、ことばの死とは、ことばから実体が失われてしまったことを示すものと考えていいだろう。ここまでは私たちの見解は、先行論者の見解と変わるところはない。先行論者はこの作品ではことばに対して根本的な疑義が提示されていることに気づいていない。

そのため山根氏はことばの問題が心と密接に関連していることを見落としてしまう。「ここで注目したいのは、「君の唇、やすらかな心、古い光…」を求めるという「僕」の意思がいつのまにか「ことば」の話題にすりかえられていることである 7」。山根氏は心とことばとの結びつきを疑問視しているが、なぜそのように考えるのか、私たちには理解できない。というのも、「僕」が心をことばと結びつけ

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ることは問題のすりかえでは決してなく、当然のことと言わなければならないからである。壁に囲まれた街の中で「僕」のように心が大事だ、心が自分の存在にとって不可欠だと言ったところで、「僕」のいうその心とはたんなることばにすぎない、つまり心とはことばのレベルでかろうじて存在しているにすぎないからである。「壁」は「お前が語るのはことばにすぎない」と「僕」を批判するが、それは以上の意味においてなのである。山根氏はクライマックスでの「壁」と「僕」との対決に注目し、以下の箇所を引用しさえするのだが、心とことばとの関連を理解できないために大事なところを素通りしてしまう。それは、「ことばは不確かだ。ことばは逃げる。ことばは裏切る。そして、ことばは死ぬ。でも結局のところ、それが僕自身なんだ。それを変えることはできない」(97-8頁)と「僕」が「壁」に反論する箇所である。確かにこの箇所は分かりにくい。しかしここは大事なところである。「でも結局のところ、それが僕自身なんだ。それを変えることはできない」という「僕」の語りからは「僕」の痛切な思いが伝わってくる。そしてここにはどことなくパセティックな響きがある。村上春樹の特徴とされる、作者と登場人物との距離感もここにはない。ここで村上春樹は図らずも自分の思いを正直にもらしてしまった、と私たちはみる。そう考える根拠は村上自身が語る「ある部分では裏がすけて見える」ということばである。村上春樹は川本三郎との対談で『街と、その不確かな壁』について以下のように述べている。「『街と、その不確かな壁』という作品については、書くべきじゃなかったものを、書いてはいけないものを書いちゃったという思いはずっとあったんです」。これをうけて、「書いてはいけないことというのは、具体的に言うとどういうことですか」、「先ほど言っていた、実人生におけるドロドロしたことは書きたくないという、その意味のことですか」と川本が聞くと、村上は「そうです。『街と、その不確かな壁』がドロドロしたことをリアルに書いているというわけでは決してないんですけれども、にもかかわらずある部分では裏がすけて見えるということはありますね 8」と答えている。山根氏は「「裏がすけて見える」ということは、「心」を失うことはできないという展開そのものだった」と解釈されるが、氏の解釈は私たちの解釈とは異なる。この文脈で「裏がすけて見える」ということは「実人生におけるドロドロした」ものが見えるということにほかならない。つまり、村上は作品を書いていたときに抱いていた生

なま

の感情を小説というフィルターを通さずに作品に書いてしまったわけである。「ある部分で」とは ,「でも結局のところ、それが僕自身なんだ。それを変えることはできない」という箇所であると私たちは考える。ここで、ことばは「僕」自身なんだと「僕」は言う。ここで示される「僕」とことばとの関係は確かに唐突である。「僕」のこうしたことばは直接的には「壁」の問いに対して「僕」が答えるということになるわけだが、「壁」は「僕」とことばとの関係を問いただしているわけではないからだ。問いがないにもかかわらず、答えだけがあるということになり、理解が困難な箇所になる。問いがないというのは正確ではない。問いは故意に作者によって隠されているからである。伏せられた問いかけに対して、僕は答えるわけである、確かに君の言うように、ことばは不確かで、ことばは人を裏切る、だけど「僕」にはことばしかない、と。このような答えを導き出した問いを作者は故意に伏せている。それを書くことは、「実人生におけるドロドロした」ものを書くことにほかならないからである。重要な部分が隠されているために、私たちは伏せられた部分を他の作品で補いながら、この問題

を検討するという形を取らざるを得ない。この作品では「僕」と「壁」との二者により、ことばが二つのレベルで論じられている。「僕」が語るのは「ことばの死」であり、ことばに対する批判である。これに対して「壁」が語ることは、ことばは何の役にも立たないということだ。「壁」のことばに対する批判はたんなる批判に尽きるものではない。「壁」によることばへの批判は心に対する批判と一体になっている。それはどういうことだろうか。まずこの点からみていこう。「壁」とは二面的な存在である。それは閉じ込めるものであるが、反面、内部にいるものを保護するものでもある。その

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間の事情は「僕」も十分理解している。「僕」も「壁」を否定的なものとしてのみ捉えているわけではない。「僕はあらゆる瞬間に壁の存在を皮膚に感じつづけていた。それは決して圧迫感を伴ったものではなく、心地良いとさえ言えそうなものだった。薄く透明な何かが柔らかく僕を包み込んでいるようでもある。それは僕を規定し、同時に僕を解放していた」(「街」、56 頁)。「僕」が「壁」に保護し、解放する面を認めながらも「壁」と対立するのは、「僕」が心を不可欠のものと考えるのに対して、「壁」が心を敵視するからである。なぜ「壁」は心に敵愾心を抱くのだろうか?これは「壁」の目的を理解すれば、明確になる。「影」は「壁」の目的を次のように言う。「壁の目的は中にあるものを包み込み、外界と遮断することだ」(「街」、97頁)。「壁」は外界から人々を遮断することで「壁」の内部にいる人々に平穏を約束する。「壁」の中で実現されるのは、心、記憶、自我を捨てることで得られる、非常に限定された形での生のありようといっていい。心がなければ喜びは存在しないが、哀しみもまた存在しないというわけである。「壁」はネガティブな側面から心をみており、「壁」には心は否定的なものを生み出す温床と映る。「いろんな蠅がその弱くて暗い心に群がるんだ。憎しみ、悩み、弱さ、虚栄心、自己憐憫、怒り」(「街」60 頁)、さらに「哀しみ」がリストに加わる。したがって、「影」を、すなわち心を捨てれば、「憎しみ、悩み、弱さ、虚栄心、自己憐憫、怒り、哀しみ」を感じなくなるというのが壁の論理である。「壁」が心を敵視するのは、「壁」が確立しようとする平穏を心が乱すからにほかならない。「僕」は心という存在を大変重要なものと考えている。しかし、心が自分の存在に欠くことのできないものだと言ったところで、心は目に見えるものでもなければ、手で触れることのできるものでもない。心はことばを介して伝えられる以外にはない。「壁」は心とことばとの関連を衝き、心を存在に不可欠なものと考える「僕」を批判する。心はことばを通して示されるが、ことばは死に、逃げ、そして人を裏切りさえするではないか、というわけである。ことばがこのように不確かなものであるなら、ことばによって伝えられる心も不確かであることは免れない。こうしたことから、「壁」は心もことば同様に確固としたものではなく、心には実体がないと結論づける。つまり、お前は心が大事と言っているが、お前の言う心とは結局ことばの遊戯にすぎないのではないか、と壁は批判するといってよい。「壁」が「お前のいっているのはただのことばだ」と言い、ことばは役に立たないと言うが、それは「壁」が求めているものはことばではないからである。「壁」が、換言すれば、「壁」の中に囲まれている街に住む人々が、「僕」に求めているのはことばではなく、一つの行為なのだ。というのも、その人々は「僕」がどのようなことばを用いようと、そしてそのことばをどのように語ったところで、ことばが畢竟気休めにしかならないような場に身を置いているからだ。「僕」と「壁」との違いはここにある。「僕」はことばは無力だというが、これはことばに対する批判である。ことばは必要ない、と言っているわけではない。一方、「壁」がことばは役に立たないと言うとき、ことばは必要ないと言っているのである。ことばは役に立たないと語る「壁」を考察するときに、私たちの脳裏に浮かぶのは『ノルウエイの森』

の一節である。直子が「僕」に野井戸について話す箇所である。直子はこう語る。「僕」は絶対に野井戸に落ちることはなく、「僕」と一緒にいるかぎり自分も野井戸に落ちることはない、と。これを聞き、ずっと一緒にいればいいと「僕」は直子に告げる。「たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘うおうとはしないのよ」/ 「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」(Ⅵ- 13)。それは不公平だから、そんなことはできないと直子は異議を唱える。これに対し、こうしたことは一生続くわけではなく、そんなに堅苦しく考えることはない、もっと肩の力を抜いたほうがいい、と直子にアドバイスし、「僕」は直子の怒りを買う。「肩の力を抜けば体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこ

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と言ってもらったって何の役にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしか生きていけないのよ」(Ⅵ- 15)。直子の怒りに気づき、「僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいな」と「僕」は考える。しかし、直子が腹をたてるのは、「僕」が間違ったことを口にしたからではない。直子が求め、必要としているものは、ことばではないことを「僕」が理解しないと直子は考えるからである 9。

では直子は何を求めているのだろうか。その問いに答えるためには、まず直子とは一体どのような少女なのかということを理解する必要がある。次の文章を読んでいただきたい。村上春樹が阪神・淡路大震災の後に書いた連作集、『神の子どもたちはみな踊る』に収められた『アイロンのある風景』の一節である。主人公の順子は高校一年の時の夏期休暇の課題でジャック・ロンドンの短編、『火を熾す』を読み、感想をこう述べる。「この旅人はほんとうは死を求めている。それが自分にふさわしい結末だと知っている。それにもかかわらず、彼は全力を尽くして闘わなくてはならない。生き残ることを目的として、圧倒的なるものを相手に闘わなくてはならないのだ」10。順子は物語の核心を形作るものが「物語の中心にあるそのような根元的ともいえる矛盾性」であることに気づき、深く感動する。『ノルウエイの森』の直子を想い返すとき、私たちは順子の語るジャック・ロンドンの語る「旅人」と直子とをつい重ね合わせたくなる。というのも、直子の生涯も死が自分に相応しい結末であると知っている人間の、死との闘いにほかならなかったからである。直子はどのような少女であったのかというという問いに私たちはこのように答えたい。「もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃうのよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしか生きていけないのよ」ということばから明らかなように、直子とは、ジャック・ロンドンの旅人と同様に、死が自分に相応しい結末であることを知りながら死と闘うという「根元的ともいえる矛盾性」に苛まれ続けた少女にほかならない、と。『アイロンのある風景』で画家の三宅は、「私は空っぽなの、何もないの」とつぶやき、涙を流す順子に、「どや、今から俺と一緒に死ぬか?」と順子に問いかけ、彼女を抱きしめる。「そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ」と答える直子はことばではなく、彼女を死へと導く男の腕を求めていた、そのように私たちには思えるのである。『街と、その不確かな壁』には主要な登場人物として少女とそして「壁」が登場する。少女は「僕」を受け入れ、街を去るときには「あなたのことはいつまでもおぼえているわ」(「街」、90 頁)と言う。これに対して、あるときは「僕」を揶揄し、またあるときは批難するというように、「壁」は常に厳しい顔を向け続ける。このように少女と「壁」は「僕」に対して対照的な姿を示す。だがこの二人は別個の存在ではなく、同一の存在であると考えた方がいいだろう。「壁」には閉じ込めると同時に保護するという機能があるように、一人の人物があるときは冷徹な「壁」として、また別なときは柔和な少女として現れるのだ。つまり、少女=壁は両義的な存在なのである。「影」とともに街を出る前に「僕」は「壁」と対話し、お前の言っていることはことばにすぎないと批難を繰り返す「壁」に対して、「ことばは不確かだ。ことばは逃げる。ことばは裏切る。そして、ことばは死ぬ。でも結局のところ、それが僕自身なんだ。それを変えることはできない」(97-8 頁)と答える。「壁」のことばに対する批判をすべて受け入れてなお、「僕」にはことばしかないと訴えるわけである。既に述べたように、ここで述べられているのはある問いかけに対する答えであるが、その肝心な問いが伏せられている。では、それはどのような問いなのであったのだろうか?それを考えるために、ここでもう一度『ノルウエイの森』の直子に戻りたい。直子から「そんなこと言ってもらったって何の役にも立たないのよ」とことばを返され、「僕」はことばを失う。仮に「僕」が何かを語るとしたなら、「僕」はどのようなことばを語るだろうか?「壁」に対したときと同様のことばを語るのではないだ

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ろうか。つまり、「僕」はこのように答えるだろうと私たちは想像する。ことばは役に立たないと君は言うが、「僕」にはことばを語ることしかできない、と。『街と、その不確かな壁』で伏せられたのは、後に『ノルウエイの森』でことばなどいらないと語る直子の姿であった。『街と、その不確かな壁』ではことばをはねつけ、死を求める少女の姿が削除されたがゆえに、『ノルウエイの森』は書かれねばならなかったのである。『街と、その不確かな壁』で描かれた街は死者の街である。この世界に住む人々は永遠を生きるのであるが、それは「死者にいまひとたびの死はなく」(「街」、90 頁)という理由による。そしてことばと心を求めて「僕」は街を出るとするなら、心といい、ことばといい、それらは生を指向するものということになる。僕にはことばしかないと言うとき、「僕」はそれでもなお生きると言っているのである。「壁」が、とはすなわち少女が、ことばは何の役にも立たないと「僕」に迫るとき、少女は「僕」に街にとどまることを懇願しているのであり、それはとりもなおさず死の国に残ることを意味する。少女は「僕」から死を求めているのである。「僕」はことばを、生を選び取る。それは「僕」が少女の心情を理解しなかったことを意味しない。少女の死への一途な思いが強ければ強いだけ、少女のその思いはそれと同じ強度で「僕」を全く反対な方向へ、生へといやおうなしに追いやったのである。『街と、その不確かな壁』は或る女性との葛藤がもとになった作品と私たちは考える。女性との間で演じられた生々しいラマからこの作品は生まれたのだが、作者はそのドラマを隠そうと努めている。そしてこのドラマは「僕」とことばとの関係を問いたださない限り、見えては来ない。今井氏はこの作品に出てくる少女を「僕」の内的女性像とみ、街への訪問を「僕」の意識の内部への遡行と解釈する 11。つまり、作品における出来事はすべて「僕」の意識の内部で生じたことと考える。私たちはこうした見方に同意することはできない。仮に街へ入ることが意識の内部への遡行であるなら、いずれ元の場所へ帰ることは明白であり、「それが僕自身なんだ。それを変えることはできない」というパセティックな響きを帯びたことばが書かれることはないからだ。これは他者とののっぴきならない対峙が背景にあってはじめて出てくることばである。また、山根氏はこの作品を「自分の意志で捨てた彼女と平穏な世界を静かに回顧している男の哀しく美しい物語(失

パラダイス・ロスト

楽園)」12 と捉える。作者の意図は「哀しく美しい物語」を書くことにあったかもしれないが、作者の思いがこの意図を裏切るような形で作品に入り込み、現にある作品になり、作者自身が語っているように「裏がすけて見える」物語になってしまった、私たちはそのように考える。またこの作品は「失楽園」を描くものでもない。この作品と関連があるのはむしろホメーロスによる『オデュッセイア』である。ホメーロスは『オデュッセイア』、第九巻でロートパゴイ(食蓮人)族との遭遇を以下のように記している。「食蓮人たちは私の乗組員を殺すつもりは毛頭なく、食蓮人たちは彼らに蓮の実を食べさせただけだった。蓮の甘い実を食べた者はみな知らせを送り返すことなどすっかり忘れてしまい、戻る気持ちなどさらになく、彼の願いはそこにとどまって食蓮人たちと蓮の実を食べることに尽きた。旅をして故郷へ戻ることは彼らの頭の中からは消えてしまった 13」。オデュッセウスたちの目的は故郷へ帰ることであったが、蓮の実を食べることでその重要な目的を忘れてしまった、と書かれている。ここに記されているのはアドルノのいう「既に克服したはずのものへと迷い込み、自分を失うこと」14 であり、一つの目的へと進んでゆく、男性的な自我の自己同一性の解体といってよい。ロートパゴイのエピソードは、自我が生み出されるために克服した、自我成立以前の段階への退行を表しているのである。その段階を村上春樹は知らないわけではない。それは、『1973 年のピンボール』の「鼠」のことばをかりるなら、人が互いに「問わず語らずに理解し合」(Ⅰ -246)う世界、つまりことばによらない理解が可能な世界であり、母性的なものによって包まれる世界であり、それはまた幸福が約束される世界でもある。「この街で君とこうして一緒に居る限り、僕には他に望むものは

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MURAKAMI HARUKI RELOADED Ⅳ

何もない。こんな気持ちになれたのは生まれた初めてだった。何の不安もないし、何のかげりもない。たぶん永遠にそうなのだろう」(「街」、89 頁)。このような文脈で理解するなら、街へ入るときに行われる「影」との分離は、人間が幼年時代を克服することで獲得した、一つの目的へと突き進む男性的な自我の分離を意味しよう。先ほど、少女=壁は両義的な存在であることを指摘したことをここで思い出していただきたい。少女の両義性は「幸福を与え、幸福に与った者の自律性を破壊する」15、そのような力として作用するのである。一度は幸福が約束されている街の中へ入り、そこから脱出すると言う意味で、『街と、その不確かな壁』という作品は、ロートパゴイのモティーフのバリエーションを奏でるものである。『街と、その不確かな壁』という作品には亀裂が生じている。それは作者の生への衝迫が整理されぬままに作品に介入することにより、作品が負った一つの傷である。その傷は作品の美しい仮象を破り、作者に失敗作として放棄される結果を引き起こした。だが、この作品を読みうるものにしている力は作品のこの傷から生まれ出ていることもまた確かであって、そのことを私たちは否定できない。

1 Geoff Dyner, But Beautiful, Picador, 1996, p.175.2 村上春樹、『街と、その不確かな壁』( 以下、「街」と略記 )、『文学界』、1980 年、9月号。3 街を出る際に「影」は街の「弱点」が一角獣にあることを告げる。「この街の弱点はあの獣さ。獣がつまりこの街の安全弁ってわけだ。だからあの角笛なしにこの街は成立しない」(94 頁)。作者は一角獣に街の住人の自我を吸収させるという構想をもっていたことが分かるが、一角獣に関してこれ以上の説明は作品にはない。

4 ことばへの不信を生み出した原因は学生運動にある。あるインタビューで村上は学生運動がことばへの信頼感を失わせたことを語っている。「学生運動はその当時とても大きなムーブメントだったし、やはりその影響はあると思います。それは僕に「言葉への信頼感の喪失」みたいなものをもたらしたかもしれません。どんなに威勢のよい言葉も、美しい情熱溢れる言葉も、自分のうちからしっかりと絞り出したものでないかぎり、そんなものはただの言葉に過ぎない」。『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』、文藝春秋、2010 年、29 頁。

5 今井清人、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」、『村上春樹スタディズ 02』所収、若草書房、1999,66 頁。

6 山根由美恵、『村上春樹 <物語>の認識ステム』、若草書房、2007 年、79 頁。7 前掲書、79 頁。8 村上春樹 / 川本三郎、「「物語」のための冒険」、『文学界』、1985 年、8月号、75 頁。9 ここで私たちが目撃しているものは「出会い損ね」といっていいだろう。村上春樹はこの「出会い損ね」を繰り返し描いてきた。『風の歌を聴け』では、自殺した少女との描かれなかった「出会い損ね」があり、これは村上の原風景といっていいだろう。『ノルウエイの森』においても私たちが読むのは「出会い損ね」である。「神の子どもたちはみな踊る」に収められた短編、『蜂蜜パイ』では「出会い損ね」た恋人が結婚するまでの過程が描かれている。「出会い損ね」からの恢復を示すものと捉えられる。この意味で『神の子どもたちはみな踊る』は村上の転機を刻印づける作品といってよい。

10 村上春樹、「村上春樹全作品 1990 - 2000」、第三巻、講談社、2004、134 頁。11 今井清人、前掲書、66頁。

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12 山根由美恵、前掲書、86 頁。13 Homer, The Odyssey, translated by Robert Fagles, Penguin, 1996, p.214.14 Horkheimer / Adorno, Dialektik der Aufklärung, Frankfurt am Main, 1969, S.32.15 Horkheimer / Adorno, ebd., S.64.


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