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PROSPECTUS...05 04...

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14
〒101-0051 東京都千代田区神田神保町327 入試事務室 TEL.0332375656 FAX.0332375633 HP http://www.kyoritsu-wu.ac.jp E-mail [email protected] KYORITSU WOMEN’S UNIVERSITY PROSPECTUS 世界と、そして地球と響きあうこと 共立女子大学 国際学部
Transcript
Page 1: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

〒101-0051 東京都千代田区神田神保町3-27 入試事務室TEL.03-3237-5656 FAX.03-3237-5633HP http://www.kyoritsu-wu.ac.jpE-mail [email protected]

KYORITSU WOMEN’S UNIVERSITY

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世界と、そして地球と響きあうこと共立女子大学国際学部

Page 2: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

03 02

世界はそこに。

CON T E N T S

Interviewアメリカ、カナダの民族集団研究を通して多文化共生のあり方を探る  教授:太田和子技術による「開発」から、経済の「開発支援」へと広がったステージ 教授:仁科克己

国際学部 OG座談会留学が私にくれたもの~OGに聞いた留学の理由、その魅力~

Spotlight英語の魔法 大島由愛(一般財団法人 国際ビジネスコミュニケーション協会)

Message

Information

3~10

11~18

19~25

26

27

I N T E R V I E W

1太田和子国際学部教授

アメリカ、カナダの民族集団研究を通して多文化共生のあり方を探る

Page 3: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

05 04

で考えさせられていました。

 

卒業後はアメリカのシラキュース大学(S

U)大学院に進学しました。奨学金をいただい

ての派遣留学でした。ニューヨークと聞いて大

都会での生活を想像し、期待に胸を膨らませた

のですが、行ってみるとニューヨーク市からは

飛行機で一時間もかかるシラキュースという

町にある私立の総合大学でした。この時つくづ

くとアメリカの広大さを実感しました。

 

大学院時代は苦労の日々でした。アメリカの

大学院の授業についていくのはとても大変で、

外交史のゼミでは一学期に七二冊もの難解な

専門書を読まなくてはなりませんでした。ゼミ

では積極的に発言することが求められ、沈黙は

無能の証しでしかありませんでした。歴史学の

教授のお宅に下宿していたのですが、ディナー

のときにも「今日の授業では何かわからないこ

とがなかったかね」と尋ねられ、緊張したもの

です。そんな環境で、唯一の楽しみはモダンダ

ンスのクラブ活動でした。そこで多様なエス

 

アメリカは戦後の日本にとって極めて重要

な国でした。授業ではアメリカ人やアメリカ

留学から帰国された先生方から、自由と平等、

民主主義の理念、豊かな社会、魅力と活力溢れ

る文化の諸相などを学んで、強いあこがれの

気持ちを抱きました。しかし他方で、アメリカ

帝国主義、ベトナム戦争、貧困や人種差別など

の社会問題に苦悩するアメリカという別の側

面も知りました。時は政治の季節。巷ではアメ

リカ資本主義、アメリカ帝国主義の問題点を

指摘する声に満ち満ちていました。いわゆる

安保闘争の時代です。大学では、勉学どころで

はなく、デモやストライキが頻発し、騒然とし

ていました。後になってこうしたことは日本

のみならず世界各地で同時的に起きていたこ

とを知るのですが。一九六九年には東大の安

田講堂に機動隊が突入し、学生運動もひとつ

の転機を迎えます。私はノンポリ学生ではあ

りましたが、それでも友人たちと議論に明け

暮れ、時にはデモにも参加する毎日でした。そ

うした状況の下で、社会のあり方、社会的公正

とは、正義とは、平等とは、などといった問題

をつきつけられ、アメリカとの関わりのなか

 

私は富山の出身で、眼前には富山湾、背後に

は立山連峰という自然に恵まれた町で育ちま

した。この地域は概して保守的で、当時多少成

績のよかった女子生徒は、東京か関西の女子

大の英文科か国文科に進み、卒業したら地元

に戻って中学か高校の教師になる。それが期

待される女性像のひとつでした。私もそうし

た風潮にとくに疑問を抱くことなく、周囲の

勧めもあって津田塾大学の学芸学部英文学科

に入学しました。しかし、大学の授業を受ける

うちに、次第に文学よりも政治や経済や歴史

といった社会科学の分野に関心を持つように

なりました。ちょうどその頃、英文科の中にア

メリカ研究専攻という三〇名の特別クラスが

できていたのを幸い、そこに進みました。アメ

リカの歴史や社会、文化、政治などを総合的、

学際的に学ぶことができる、「地域研究」とい

う、当時としては新しいユニークなアプロー

チだったのです。

し、ニューイングランドのフレンチ=カナダ系

の人々のエスニシティやアイデンティティに

ついて研究調査しました。これが私にとって最

初の大きなフィールド調査研究であり、のちの

研究へとつながる契機となりました。

 

その後、一九八二年から今度は同じような

規模のカナダ調査に加わりました。先のアメ

リカ調査の時に、カナダのフランス系住民に

は大別して、ケベコワとアカディアンという

二つの異なる集団が存在することがわかって

いました。私はアカディアンと呼ばれる人々

の調査を行うことにしました。その当時アカ

ディアンはまだあまり研究されていなかった

のです。いま思い返すと、この調査団は錚々た

るメンバーでした。リーダーの綾部恒雄氏は

日本の著名な文化人類学者でしたし、大原祐

子氏はカナダ研究の第一人者、宮田登氏は日

本民俗学の碩学です。大学の先輩でもあった

チカーノ研究の先駆者、黒田悦子氏とはよく

夜を徹して話し込んだものです。こういう

方々の薫陶を受けたことは生涯の宝です。

ニックの文化的背景を持つ学生たちと出会い、

友情を育むことができました。

 

経済的には、当時の日本はまだまだ貧しく、

一ドルが三六〇円で外貨持ち出し制限がある

ような時代でしたから、切手一枚、ノート一冊

買うのも自重しなければならず、毎週のように

行なわれる大好きなバスケット・ボールやア

メリカン・フットボールの試合も観戦する余

裕はありませんでした。苦学生の悲哀です。い

まの学生たちには想像もできないでしょう。

 

SUの大学院を修了して帰国した後、母校津

田塾の助手を経て、七七年筑波大学に移りまし

た。ちょうどその頃、筑波大学で「アメリカの民

族集団調査」という大きなプロジェクトが立ち

上がりました。アメリカはよく「移民の国」とい

われますが、世界各地からさまざまな理由でさ

まざまな時期にやってきた移民たちおよびそ

の子孫が、どのようにアメリカ社会に適応しよ

うとし、彼、彼女たちの文化、言語や宗教や食文

化や生活様式などがどのように変容したか、そ

のエスニシティやアイデンティティはどう

なったのかなどを実地調査する大がかりな研

究です。私もそのプロジェクトに誘われて参加

I N T E R V I E W1アメリカ、カナダの民族集団研究を通して多文化共生のあり方を探る

学生運動最盛期に

アメリカを学ぶ

研究者としての出発点

Page 4: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

しょう.いかにしてこのようなことが可能だっ

たのか、また今後どうなっていくのかなど、カ

ナダとアメリカに別々に存在しているこの二

つの集団のありようを、個々に具体的に、かつ

比較検討しながら「アカディアン・ディアスポ

ラ」として調査研究することが私のライフワー

クとなっています。

 

これまでの研究を通して見えてきたことが

いくつかあります。ひとつは、アカディアンと

ケイジャンの両方に共通する特徴が、周辺に

暮らす異なる文化を持つ集団や人々に対して、

概して、柔軟でオープンな態度を貫いてきた

ことです。特に多文化主義が標榜されるよう

になった近年にはそれが顕著です。独自の文

化を保持し続けるというと、私たちはつい内

に閉じて排他的になり孤立することを想像し

がちなのですが、それでは集団もその文化も、

かえって力が弱まってしまう。この二つの集

団はそれとは逆に、外に開くことで人々も文

化も生き延びてきたといえそうなのです。

 

このことはグローバル化とローカル化が急速

に同時進行しつつある今日、異なる文化を持つ人

たちがどのように共存共生していくか、という私

たちの直面している重要な課題に対して、ひとつ

のヒントを与えてくれているように思えます。

 

一九八九年にはこうした共同研究が一段落

しましたが、その後アカディアンの研究を続け

ていくうちに、アメリカのルイジアナ州に住む

ケイジャンという民族集団の研究へと領域が

拡がりました。ケイジャンというのは、イギリ

スによる一七五五年の「大追放」によってアカ

ディを追われたアカディアンの一部の人々が、

逃れてルイジアナに辿り着き、そのまま故郷に

戻ることなく今現在もそこに暮らしているア

カディアンの子孫たちの名称です。いうなれば、

アカディアンとケイジャンとは、離れて暮らす

ことを強いられた「きょうだい」のような関係

に例えられるかもしれません。

 

両者は、数百年の歴史の流れのなかで、各々、

カナダとアメリカという別の国に所属するこ

とになりました。どちらのグループも各々の社

会でマイノリティとして、二級市民の扱いに甘

んじながらも、何とか同化の波に飲み込まれる

ことなく、独自のユニークな文化とアイデン

ティティを保持し続け生き残ってきました。そ

の文化はフランス語の使用や音楽、ダンス、食

文化、祭り、民話、カトリックの信仰などに顕著

に現れています。これは驚くべきことといえま

0607

I N T E R V I E W

2仁科克己国際学部教授

技術による「開発」から、経済の「開発支援」へと広がったステージ

I N T E R V I E W1アメリカ、カナダの民族集団研究を通して多文化共生のあり方を探る

共生してこそ生き残る文化

津田塾大学卒業。シラキュース大学大学院修了。筑波大学、三重大学などを経て1992 年より共立女子大学。専門は北アメリカ文化研究。主な担当科目は「アメリカ文化論」「文化人類学」「比較文化論」「国際文化専門演習」など。

太田和子 国際学部教授

Page 5: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

09 08

というものは確率的にしか予想できない不確実

でリスクのある現象です。この不確実性やリス

クへの対処は経済学が得意とする分野です。ま

た、開発には莫大な費用がかかり、その便益を正

確に算定するにも経済学の素養が必要になりま

す。今後、開発に携わるには、工学的なアプロー

チだけでなく、経済学も学ぶ必要があると思い、

アメリカのコーネル大学大学院経済学研究科に

留学しました。私の専門が「経済学」なのは、こう

した経緯があるからです。

  

四年半の留学を終えて帰国し、国立研究所勤

務を経て、海外経済協力基金(OECF)に入り

ました。OECFはその後改編・統合で、国際協

力銀行・国際協力機構と名称が二度変わります

が、紛らわしいのでOECFで通します。OEC

Fは発展途上国のインフラ整備・経済開発や経

済安定のための融資を行う経済協力機関です。

以来私は長年にわたって、アジア・アフリカの

さまざまな国々の開発支援に携わることになり

ます。

の交差点で途上国の実態を肌で感じたものです。

その後、フォガラ(地下用水路)の多いオアシス

群南端の町で、サハラを縦断するトラックに便

乗し、酷暑の道なき砂漠を五昼夜かけて南下し、

ニジェール川中流部の河畔に着きました。西ア

フリカを代表するこの河川は、ギニアの山地を

水源に、マリ共和国のサハラ砂漠南縁を北東に

流れ、その後南東に向きを変えナイジェリアの

デルタ地帯を経てギニア湾に注ぎます。この川

を中流から川船に乗って四〇〇キロも遡ると広

大な湿地帯が現れ氾濫灌漑の米作が見られ、さ

らに三〇〇キロほど遡ると長い取水堰があり、

また、町の市場での魚の売買も印象的でした。こ

の旅では、さまざまな半乾燥地の水利用を自分

の目で確かめ、そこに住まう人々の生活を見つ

つ、半乾燥地の実態やさまざまな周辺情報を吸

収できました。修士修了後は、その頃北アフリカ

の砂漠でダム建設に携わっていたベンチャー風

の企業に誘われ、その企業では、公的研究機関の

依頼で二〇〇〇年の水需給を予測するなど、二

年ほどお世話になりました。

 

ところで治水・利水というのはごく単純にい

えば、雨が降ったときにそれを溜め、雨が少ない

時期に利用するものです。ところが洪水や渇水

 

私の専門は「経済学」ですが、これまでの歩み

を振り返ると「開発支援」というキーワードを用

いた方が適切かもしれません。そもそもスター

ト地点は土木工学でした。学部ではインフラ建

設の基礎を学び、大学院ではなかでも治水、利水

について研究を進めました。とりわけ半乾燥地

にある途上国の水利開発に興味がありました。

時は一九七〇年代の中盤。田中角栄の『日本列島

改造論』で世間は湧きあがっていましたが、現実

には日本のインフラ整備の骨格は近い将来に整

うと予想され、発展途上国におけるインフラ整

備の重要性を痛感していました。

 

半乾燥地開発の研究をめざしたものの、当時

はインターネットもなく、入手できる情報や専

門書も多くはありません。そのため一念発起し、

夏休みに、サハラ砂漠に

冒険旅行

に出かけま

した。もちろん直行便などはありません。飛行機

でパリへ飛び、汽車でマルセイユへ。そこから貨

客船に揺られてアルジェリアに入りました。街

に流れるコーランにアラブ世界を実感し、喧騒

し対応するのも駐在員の大事な仕事でした。

 

帰国後はOECFの開発援助研究所で開発支

援に資する国別の調査にあたりました。財政金

融・対外経済面を含めて、その国の発展に何が

重要か、どんな問題があるのか、などを調べる部

署でした。ここではインドネシア、インド、中国、

ガーナ、ミャンマーの調査が印象的でした。

 

九六年からは再び駐在員として、今度はマ

レーシアに赴きました。その最中に起きたのが、

九七年にタイを皮切りにはじまったアジア通貨

危機です。アジア各国の経済は大きな打撃を受

け、タイ、インドネシア、韓国がIMF管理下に

入るという大きな騒動になりました。IMF管

理下にこそ入りませんでしたが、マレーシアも

 

サハラ以南アフリカの業務の後、一九九〇年

にはタイのバンコクに駐在し、OECFが融資

している事業の案件発掘・監理を担当しました。

当時現地の駐在員にはかなりの権限が委譲され

ており、事業実施中の問題は駐在が判断します。

相手国の所管が違う複数事業間の調整や、実際

に事業に携わっている企業からの苦情に対応す

るのも駐在の役割です。いちばん大変なのは、相

手国が事業の詳細を変更したいといい出すケー

スです。状況に応じて事業内容を調整しないと

非効率になるケースもたびたび生じます。日本

では初めに詳細まで決めて実行するのが普通で

したが、走りながら考えることを重視する国も

あります。実情に合わせた調整の妥当性を判断

I N T E R V I E W2技術による「開発」から、経済の「開発支援」へと広がったステージ

研究者としてのスタートは

土木工学

OECFで

アジア・アフリカ諸国の

開発支援に

Page 6: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

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I N T E R V I E W2技術による「開発」から、経済の「開発支援」へと広がったステージ

多彩な経験を

教育・研究の世界に生かす

仁科克己 国際学部教授

1977 年東京大学大学院修了。1984 年コーネル大学大学院修了 (Ph.D.)。海外経済協力基金(OECF)などを経て2007 年より共立女子大学。主な担当科目は「経済分析の基礎」「ミクロ経済学」「国際経済学」など。

大きく通貨を下落させました。この背景には

ファンドなどによる通貨の空売りがあります。

火のない所に煙は立たないといいますが、マ

レーシアは煙もないのに火をつけられてしまっ

た感があります。日本の報道ではわからない事

情を現地で肌に感じることができました。

 

帰国後は、各国経済の健全性を判断する、国際

マクロ、とくにソブリンリスクの審査を担当し

ました。外国の格付け機関やIMFの分析結果

は、それぞれの目的の相違から自分たちの欲し

いものとは違ってきますので、よりよい判断を

下すには独自に分析する必要がありました。

  

こうして振り返るとOECFでは、実にさまざ

まな経験をさせていただきました。一言でいえば

開発支援ですが、マクロな視点から国の政策を見

ることができたし、ミクロな視点から個別の事業

を多数経験することもできました。駐在時代には、

それぞれの社会や政治、文化や風習と向き合いな

がら事業を進める難しさとおもしろさを味わい

ました。調査・分析的な仕事も多く経験でき、技術、

経済、社会の三つの側面を実感できたことは、実

に幸運だったと思っています。

 

専任として教育の世界に入ったのは一〇年

ちょっと前です。神戸大学の国際協力研究科で

OECF時代の経験をもとに、国際事業の進め

方について講義した後、共立女子大には国際学

部に改組された折に赴任しました。現在、講義で

は経済学の基礎になる部分、多岐にわたる仕事

のなかで知っていてよかった部分に力を入れて

教えています。国際学部にはアジア・アフリカ

の国々に興味があり、そういった国々でのビジ

ネスに興味を持っている学生も少なくありませ

ん。ゼミでは、そうした学生たちに私の経験を伝

えつつ、現実に即した形で興味を深めてもらい

たいと思っています。

 

近年の研究関心は「カネとヒトの移動に係る

問題」です。かつては発展途上国と先進国の経済

は全く別物のようでしたが、現在は先進国にも

ワーキングプアが増え、他方グローバル化が進

む途上国も多く、途上国と先進国の捉え方の違

いは縮小しつつあります。こういったなかで、通

常の理屈では説明が難しい双方に関係する現実

問題を、前提を少し変更することで理論的に説

明しようとするのが、現在の私の取り組みです。

 

1100

留学が私にくれたもの

〜OGに聞いた留学の理由、その魅力〜

国際学部の特色のひとつが充実した留学制度です。

これまでに多くの学生たちが世界のさまざまな国に留学し、

異文化と触れ合ってきました。そうした大学時代の留学経験は、

その後の人生でどのように役立っていくのでしょうか。

五名の卒業生に、留学体験とそこで得たものについて

語っていただきました。

Page 7: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

13 12

植村●私は二〇〇七年、大学二年の

四月から一月にかけて、イギリスの

バーミンガム国際市民コレッジ(C

IC)に留学しました。目的は語学力

を鍛えることです。私は高校生の時

から英語が大の苦手科目で、克服し

なくてはと一念発起して、留学する

ことを決めました。

野沢●私もCICです。二〇〇九年

ですから植村さんの二年後ですね。

やはり大学二年の五月から一月にか

けて留学しました。私は高校の修学

旅行ではじめてシンガポールに行っ

たのですが、そのとき、現地の高校生

と交流する時間があったのに、自分

の伝えたいことを何ひとつ言葉にす

ることができず、とても悔しい想い

をしました。また同時に、シンガポー

ルの同じ年齢の学生が英語を流暢に

話す姿を見て、海外の学生の勉学に

対する意識の強さを感じ、大学では

ぜひ留学したいと思いました。共立

を選んだのも、当時共立に通ってい

た姉から留学制度が充実していると

聞いたからです。

臼井●私は在学中に三度留学してい

ます。最初は大学二年のときで、八月

から九月にかけてスイスのチュー

リッヒ大学に。三年と四年にはフラ

ンスのアンティーブ大学に留学しま

した。すべて一カ月程度の短期留学

です。最初のスイス留学は、語学留学

だけではなく何か海外で体験してみ

たいなと漠然と考えていたとき、友

人から誘われたのがきっかけです。

とてもおもしろい体験ができました。

二度のフランス留学は、いわば力試

しですね。高校生のときからフラン

ス語を勉強していましたが、日本で

はあまり話す機会がありませんでし

た。そこで好きな画家であるパブロ・

ピカソが晩年を過ごした街を選んで、

思い切りフランス語を話すために留

学しました。この短期留学は、卒論の

テーマを決めることにつながってい

きました。

赤坂●私も三度の留学体験がありま

す。最初は国際学部の主催する研修

旅行で、大学二年の夏休みに三名の

先生方と中国の北京を中心に巡りま

した。それですっかり中国への興味

が深まり、大学二年には一年間天津

師範大学へ留学しました。その後、国

際学部の大学院に進み、修士時代に

も上海にある華東師範大学で約一年

間学びました。大学時代の留学は語

学力向上がメインの目的でしたが、

修士のときは、当時関心を持ってい

た文学作品における北方と南方の方

言の差異について調べるという目標

がありました。

黒須●私の場合は在学中ではなく、

卒業後の留学です。学生時代は水之

江先生のゼミ(現代イギリス、アイル

ランド文学ご専門)に所属し、先生の

授業やゼミを通して、アイルランド

文学や文化に魅了されました。その

後、助手として四年間共立に勤務し

ながら、毎年アイルランドの各地を

旅行しました。将来は英語科の教員

になることを志望していましたので、

いまの自分に必要なことは何か、専

門性を高めるために何をすべきか、

と自問自答するなかで、広い視野で

世界を眺め、語学の専門性を高めた

いという気持ちが芽生えました。二

〇〇八年にアイルランド南部のコー

クへ渡り、コーク大学大学院で修士

課程を修了する二〇一一年まで滞在

しました。

植村●CICを選んだ最大の理由は、

単位の互換制度があり、留学しても

四年間で卒業できるという点です。

また、本場のイギリスで英米英語の

違いを体験してみたいとも思ってい

ました。大学の講義では、国や文化を

超えたインターナショナルな観点か

らの経済・政治・教育紛争等につい

て学ぶことができましたし、オフは、

ホストファミリーや他の国からの留

学生たちとそれぞれの文化や歴史に

ついて語り、価値観の多様性という

ものを肌で感じることができました。

私は昔から映画が大好きだったので、

イギリスでも日本で生活していたと

きと同じようによく映画館に行きま

した。バーミンガムは小さな町です

が一軒だけシネコンがあり、その年

間パスポートを買って八〇本以上見

たと思います。当然字幕はなく、最初

はスラングだらけの英語がまったく

聞き取れませんでしたが、周囲の人

の反応で何となく、ここはジョーク

なんだなとかわかります。そのうち

耳が慣れて私も周囲の人と同じタイ

ミングで笑えるようになりました。

野沢●専攻でもある国際社会にとて

も興味がありましたので、グローバ

ルシチズンシップをテーマとしたプ

ログラムを展開しているCICは、

まさに自分の学びたいことが詰まっ

ている、そんな学校でした。人種差別

や紛争などの問題について、正面か

ら取り組みました。とくに印象的

だったのは、ディベート形式の授業

です。基本的に、先生からの問いかけ

に対しクラスメイトで話し合うとい

うスタイルでしたので、答は必ずし

もひとつではないということを学び

ました。知識という面で、世界の紛争

状況やそれを解決に導く法律がある

ことを授業で学ぶことはもちろんで

すが、その課題に対して各々がどの

ような想いで現実を受け止めるのか、

といった精神的な部分での学びがよ

り多かったように感じます。

赤坂●大学二年の天津師範大を選ん

だのは、首都の北京よりも日本人が

少ないと思ったからです。せっかく

留学しても、周囲が日本人ばかりだ

と、ついつい日本語を使ってしまう

のじゃないかと思ったんですね。天

津師範大では対外中国語コースとい

う留学生向けの語学コースで、韓国

やアフリカなどさまざまな国々の留

学生と一緒に中国語を学びました。

華東師範大学では、中国現代文学に

ついて研究しました。たとえば一九

〇〇年代初期、中国の新文学を代表

する作家の一人に葉聖陶がいました。

その文体は白語文と呼ばれ、それま

で文語体で書かれていた中国文学が

口語体へ移行する時期だけに、それ

ぞれの地域の方言の影響が色濃く反

映されています。何がどのような影

響を与えたのか。大学院ではそうし

た研究に没頭していました。

臼井●チューリッヒ大学にはアメリ

カをはじめ南米、アフリカ、アジア、

ヨーロッパなど約一五カ国からの留

学生三〇人くらいが参加して、スイ

ス国内でボランティアや仕事をする

プログラムがあります。私はその短

期プログラムに参加しました。スイ

スに到着後、交流キャンプと約一カ

月のドイツ語研修があり、その後そ

れぞれの仕事場に派遣されました。

ホストファミリーや関係者を集めて、

出身国の文化紹介をする機会なども

ありました。これはとてもおもしろ

いプログラムでした。一方、フランス

留学では語学習得が最大の目標でし

たので、フランス語文法や会話の勉

強に力を入れました。

黒須●アイルランドのコーク大学付

属の語学学校を経て、同大学大学院の

留学先と留学の目的

留学先で学んだこと

植村佳由2010 年卒業 アメリカ文化コース

阿部(圭)ゼミ「日米映画の中に見る『恐怖』のイメージ比較」「国際学部で学んでよかったことは、さまざまな専門の先生に、ひとつのことを色々な角度から学ぶことができたこと。卒業したいまでも履修したかったなと思える授業がたくさんありました」

黒須二葉2004 年卒業 ヨーロッパ文化コース

「水之江ゼミでは、映画やお芝居を鑑賞したり、イギリスへも旅行しました。また、学部が主催するさまざまな行事に参加し、授業以外にもたくさんのことを経験できた4年間であったと思います」

臼井洋子2002 年卒業 ヨーロッパ文化コース

渡邊ゼミ「1940 年代のパブロ・ピカソ」 「私が大学生だった頃、国際文化学部は八王子キャンパスでした。通学は大変でしたが、空時間にボランティアで留学生に日本語を教えたり、幅広い授業が学べ楽しかったです」

Page 8: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

15 14

女性学研究を専攻し、文学修士を修得

しました。修士課程では、社会学や環

境学などの領域とジェンダーの視点

を結びつけ、現代社会の構造を多角的

に分析、考察するという研究を行いま

した。そうした研究活動の傍らアイ

リッシュ・ダンスクラブに所属し、ダ

ンスショーなどにも出演しました。ま

た、アイルランドの公用語であるアイ

ルランド語にも興味がありましたの

で、アイルランド語初級講座、中級講

座を一年間専攻しました。

黒須●大学院時代は、時間の作り方

や使い方に大変苦労しました。毎日

膨大な文献に必死で目を通し、課題

や修士論文を完成させるために勉強

漬けの日々でした。そのような毎日

のなか、コーク市内の大ホールで行

われたアイリッシュ・ダンスショー

に出演したことも良い思い出です。

二五人ほどのメンバーで練習を重ね、

大勢の観客の前で演技できたことは、

いまも心に残っています。また、たま

の休みには友人たちとドライブして

アイルランドの各地を巡ったり、映

画を観たり、ホームパーティをした

りと、普段の何気ない日常が、懐かし

く思い出されます。

野沢●私が留学時代にいちばん大変

だと感じたことは、クラスメイトの

主張力の強さでした。クラスメイト

の多くはイスラム圏やアフリカから

亡命、または移民してきた人たちで、

私よりも知識も経験もずっと高く内

戦を経験した人もいました。ディ

ベート形式の授業では、意見を求め

られることがとても多いのですが、

主張力の強いクラスメイトに圧倒さ

れ、なかなか自分の意見を発するこ

とができませんでした。そうしたな

かで考えたのは、私にしかできない

方法とは何かということです。主張

力の強さは、ときにデメリットを生

み出します。私は主張力だけを求め

るのではなく、必ず人の話を聞き、受

け入れてから意見を発するようにし

ました。卒業式の日に、ジンバブエ出

身のクラスメイトから「あなたから

人の意見を受け入れることの大切さ

を学んだよ」といわれたとき、本当の

意味で自分の想いが伝わったのだと、

とてもうれしい気持ちになりました。

その頃のクラスメイトはいまでも連

絡を取り合う、私の大切な仲間です。

植村●私もコミュニケーションでは

少し苦労しました。日本以外の国や

地域からの留学生と話すとき、その

背景にある文化が理解できないと、

相手の考えも理解できないことが

多々あります。たとえばイスラム圏

の人々は宗教上の理由から動物性の

食材について厳しい制限があります。

ゼラチンも口にできないので、ゼ

リーもだめなんですね。それを知ら

ずにゼリーを勧めると気分を害する

かもしれません。同じように、日本に

は八百萬の神がいらっしゃるという

と、キリスト教徒の人は信じられな

いと肩をすくめます。ホストファミ

リーや、ハウスメイトと夕食後に時

事問題や文化、その日気になったこ

とについて、日々熱い議論を交わし

たことはとてもよい思い出ですが、

最初の頃はそうした文化の違いから

話がすれ違うことも多かったです。

赤坂●大学二年に初めて留学した際

はリスニングに苦労しました。でも、

つねに中国語に囲まれていると耳が

慣れてくるのですね。滞在して二、三

カ月もするとリスニング力が飛躍的

に伸びてきたことが実感できました。

相手の話している内容が理解できる

ようになると、自信もついてきて、留

学中に何度か観光地や飛行機のなか

で出会った日本人旅行者の通訳をす

るまでになりました。とてもいい思

い出のひとつです。

臼井●スイスのプログラムに参加し

たときのことですが、ボランティア

先が、険しい山道を三〇分ほど登っ

たところにあり、電気も水も通って

いませんでした。話に聞いていた条

件と異なる点が多く、二週間滞在す

る予定でしたが二日目で耐えられず

下山し、ボランティア先を変えても

らいました。当時は、山中の生活に不

満ばかりでしたが、あんな経験はそ

うはできないので、すぐに弱音を吐

かず頑張っていれば……といまに

なって思います。スイスでは、国籍が

違う多くの人々との出会いがあり、

私の世界は一気に広がりました。そ

して、もっと外の世界を見てみたい

という気持ちが強まりました。帰国

するとき、出会った人たちとの別れ

がいちばん辛かった思い出です。

植村●文化や価値観の異なる人々と

接して、自分の意見を主張しつつ、相

手の意見を聞き、どうして、なぜ、と

深く考えることで、相手をもっと理

解したいと思うようになりました。

また外国の文化や歴史への興味が深

まり、旅行と語学学習が趣味になり

ました。TOEICのスコアも三〇

〇から八〇〇までアップし、いちば

んの目的だった苦手な英語の克服と

いう目的も達することができました。

臼井●私は海外での生活を経験した

ことで、視野が広がり、いろいろなこ

とに興味を持つようになりました。

生まれ育った日本の歴史、地理、文学

から時事問題まで、それまで興味が

なかったことにも目を向けるように

なりました。

野沢●英語力が伸びたのはもちろん

ですが、さまざまな国の留学生と真

剣に議論を交わしたことでダイバー

シティを受け入れることができるよ

うになりました。多様性というもの

は、言葉で表すことは簡単ですが、実

留学を体験して

変わったこと、

成長したこと

先輩がフェイスブックに、留学して世界中に友

だちができ、鍛えた英語を武器に就職も決まっ

たという話を書いてあるのを読み、私も留学し

ようと決意しました。高校2年のときニュー

ジーランドでの1カ月のホームステイ経験は

ありますが、半年間も海外で生活するのははじ

めてです。大好きな英語のスキルを高めると同

時に、異文化と触れ合うという目的を持って、

3年の4月から9月まで、イギリスのリーズ大

学に留学しました。リーズ大学では英語を学ぶ

ためのコースがあり、15人のクラスで午前は

英語を、午後はプレゼンテーションなど発表系

の授業を受けました。最初は英語を頭で日本語

に翻訳しながら聞いていましたが、徐々に英語

のままで理解できるようになり、最後は先生が

次に何を話すか予想できるようになりました。

驚いたのはサウジやイタリアから来ていたク

ラスメイトの積極性です。自分が発言したいと

きは相手の話を遮って、文法など無視して話し

ます。日本人は相手の話を聞き、何を話すかを

組み立ててから発言しますが、それでは遅いの

です。相手を慮って黙っていてはコミュニケー

ションできません。そうした風土に慣れたせい

か、帰国後、日本の授業が大人し過ぎると感じ

るようになりました。

グローバルコミュニケーションは積極性が大切

西巻ちひろ 3年

留学時代の苦労と

思い出

赤坂 綾1998 年卒業 中国文化コース

上野ゼミ「文学言語における地域性と時代性」「以前から興味のあった中国・中国語を学びたくて国際学部に進みました。共立の魅力は先生方と学生の距離がとても近く、親身になってくれる先生が多いことだと思います」

野沢ゆりな2012 年卒業 国際社会コース

立松ゼミ「国際刑事裁判所とその課題」「共立に進んだのは留学制度が充実していたからです。国際学部では、学びたいと思った科目は基本的に何でも履修できるという点がとても魅力に感じました」

現役大学生の留学体験記1イギリス リーズ大学

Page 9: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

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際に体感そして体得することは非常

に難しいものです。まずは、受け入れ

てみることが大切です。また大学の

授業では答は必ずしもひとつではな

いということを身をもって学び、自

分の生き方を考える貴重な機会とな

りました。そして、海外で働きたいと

いう夢を持つことができました。

黒須●私も広い視野でさまざまな視

点から物事を捉えることができるよ

うになりました。また、留学時代は、

何をするにも自分自身で決断し、行

動に移すということを行ってきまし

たので、留学前と比べて度胸がつい

たように感じます。

赤坂●留学の前後でいちばん変わっ

たのは、日本や日本人を客観的に見よ

うと考えるようになったことです。い

まも衛星放送で中国のニュースやテ

レビをリアルタイムでウォッチして

いますが、どのように日本や日本人が

捉えられているかを、私が出会った中

国の人たちの考え方などと比較しな

がら考えることがよくあります。

赤坂●大学院在学中の二〇〇一年か

ら、専門学校や語学学校で中国語を

教えるようになりました。大学院修

了後は、警視庁の委託研修所で中国

語を六年間教えながら、専門学校で

中国人留学生を対象にした翻訳の授

業も受け持ちました。その後、結婚と

出産を経て二〇〇八年より共立女子

大学の非常勤講師を勤めています。

二〇一二年からは群馬県の上武大学

でも非常勤講師を兼任しています。

臼井●パリにある日本語学校でフラ

ンス人に日本語を教えています。実

は高校生の頃から、海外で生活して

みたい、どの国に行ってもできる日

本語教師になりたいと漠然と思って

いました。ただ実際に日本語教師と

して活躍している人に会う機会もな

く、当時、日本語教師に関する情報は

少なかったため、卒業後は親の勧め

もあり、金融関係に就職しました。し

かし、休暇中に旅行先のカンボジア

でたまたま日本語学校を訪れたのを

きっかけに、真剣に日本語教師をめ

ざそうと改めて決意しました。働き

ながら日本語教師養成学校に通い、

退職後は念願が叶いタイ・バンコク、

インド・プネ、東京の語学学校や企

業で日本語教師として働くことがで

きました。二〇〇七年からフランス

に渡り、現在はパリ在住です。

黒須●千葉県の高等学校で英語科の

教諭をしています。教師の道に進ん

だのは、自分がこれまで学んできた

語学力や留学経験を活かし、授業や

部活動等を通して生徒に還元してい

きたいと思ったからです。授業では、

ネイティブの先生とのチーム・

ティーチングで「オーラル・コミュ

ニケーション」や「異文化理解」など

も担当しています。実用英語技能検

定や全国商業高等学校協会英語検定

試験対策講座でも教えています。

植村●商社の営業職に就いています。

留学先でも映画館に通いつめたよう

に、大好きな映画業界にどうしても

携わりたくて、当時、映画用フィルム

の販売会社だったこの会社に入社し

ました。現在はデジタルプロダクツ

営業部に所属して、RFIDと呼ば

れる人やモノを識別・管理するIC

カード関連品の営業を行っておりま

す。

野沢●私の場合、自分の人生を考える

きっかけになったのが高校の修学旅

行でした。そのためか自分も生徒のみ

なさんにとってそんなきっかけを与

えられるような存在になりたいと思

い、旅行業界をめざしました。現在は

JTBコーポレートセールスという

旅行会社で教育旅行営業をしていま

す。教育機関に旅行のプランを提案し、

採用されれば修学旅行等の行事に添

乗員として同行もします。企画から実

行まですべてに関わることができる

ので、やりがいがあります。

植村●中国・台湾等の仕入れ先、ヨー

ロッパの客先との電話やメールのや

りとりはすべて英語ですから、留学

で鍛えた語学力は私の大きな武器に

なっています。また、留学時代に各国

の文化の違いを経験したことも、外

国の方々とのスムーズなコミュニ

ケーションをはかるうえで日々役

立っています。いまの目標は世界に

通用するビジネスパーソンになるこ

とです。

黒須●現在の仕事に留学で得た語学

力が活かされているのはもちろんで

すが、広い視野で物事を捉えること

や留学先で磨いたプレゼンテーショ

ンスキルなども、授業をする際大い

に役立っています。これからも留学

で得た語学力と経験を活かし、教育

に携わっていきたいと考えています。

赤坂●中国への留学がなければ、大

学で中国語を教えるいまの私はな

かったでしょう。そうした自分自身

の経験を踏まえ、私の授業を受講し

ている学生に、語学を学ぶこと、留学

を経験することで自身の可能性が広

がること、海外から日本に目を向け

ることで、日本・日本人を客観的に

見ることができることなどを話して

います。

野沢●海外体験があるということで、

海外添乗や海外からのお客さまへの

対応を任されることが多いです。私

もそうでしたが、学生時代の旅行は

さまざまな気づきや発見、人生の

きっかけを与えてくれます。いまは

まだ日本独自の文化ですが、この素

晴らしい教育旅行という文化を世界

のスタンダードにしたい。それが私

の大きな夢です。

臼井●フランスは個人主義といわれ

るように、自分が何をしたいのかの

意思表示がはっきりしています。ま

た議論好きでもあり、意見をぶつけ

合う会話を楽しみます。でも和(ハー

モニー)を大切にし、以心伝心の文化

のある日本で育った私は、疲れてし

まうこともしばしばです。相手を尊

重しながら、自己主張するというの

はかなり難しいスキルです。郷に入

れば郷に従うのも大切だと思います

が、どこで暮らしても自分らしく生

きていきたいと思います。それでも

フランスをはじめ、海外で仕事がで

きるのは、大学生の頃から海外に出

て、自分を理解してもらうにははっ

きり自己主張しないとダメだという

ことを肌で知り、いつのまにか少し

ずつ鍛えられたからでしょう。現在

は結婚して二児の母親となり、なか

なか以前のように思いついたらすぐ

旅立つことはできませんが、これか

らも子どもを連れて旅を続けていき

たいです。現地の人に会い、その土地

の歴史や文化や習慣を知ることが大

好きなので、小旅行でもホームステ

イや民宿を選ぶようにしています。

留学中に出会った友だちも、家族を

持つ年齢になりました。子連れで再

会できる日を楽しみにしています。

植村●少しでも海外に行ってみたい

な、留学が面白そうだなと思うなら、

まず行ってみましょう。日本が恋し

くても帰れない環境で、一定期間頑

張るという経験は必ず自分を成長さ

せてくれます!

いまの仕事に

留学体験は

どのように

役立っているか

留学を考えている

高校生への

メッセージ

現在の仕事

Page 10: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

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黒須●留学には、短期留学や長期留

学または交換留学などのいろいろな

制度がありますし、留学先もアジア

圏、アメリカ・カナダ圏、またはヨー

ロッパ圏など幅広い選択肢がありま

す。留学前に、将来、自分がどのよう

な分野で活躍したいのか、留学後の

自分を思い描いて、どの留学制度、ま

たどのような国が自分にあっている

かをよく検討することが大切だと思

います。「とりあえず留学をする」と

いう安易な考えではなく、しっかり

とした目的や意識を持って留学する

ことは、きっと将来の糧になること

と思います。

野沢●語学力に自信がなくて、留学

に不安があるという学生さんがとて

も多いと思います。しかし、最初はで

きなくて当たり前です。いまはでき

なくても、信じてあきらめずに勉強

すれば、気づいたときには楽しくて

しようがない毎日が待っていますよ。

まずは、勇気を持って、決断をしてみ

てください。留学はきっと人生が変

わるような貴重な体験となり、財産

となるはずです。

赤坂●海外での生活は日本にいるよ

りさまざまな意味で自由になります

が、自分自身の目標を見失わないよ

うに、またその目標に向かって勉学

に励まなくてはならないと思います。

保護者から遠く離れての生活は大変

なことも多いですが、半面、収穫も大

変大きいと思います。

臼井●世界は広いです。どこに行っ

ても日本人らしさを忘れず、自分自

身をしっかりと見つめ、いまできる

こと、すべきことに、全力で取り組ん

で明日へ繋げてください。思い立っ

たが吉日。後悔は禁物です。

私は海外に一度も行ったことがなかったので、

海外体験してみたいと1年のときオーストラ

リアの短期留学プログラムに参加しました。こ

れは3週間のホームステイを体験するもので、

私にとってはじめての異文化との接触でした。

大学のプログラムなのでサポートは万全です。

安心して海外生活を楽しむことができました。

それ以来、ぜひもう一度留学したいと考えてい

ましたが、3年次にその夢を実現し、9月から

1年間セントラルワシントン大学に留学する

ことができました。より多くの海外体験を積む

こと、日本を海外から見ることが留学の目的で

す。もちろん国際人として英語を完全に自分の

ものにしたいとも考えていました。大学の語学

学校で英語を鍛えた後、春学期からはセントラ

ルワシントン大学の学生と机を並べて「心理

学」「民族学」「世界史」など、さまざまな授業を

履修しました。大学の授業はとても緊張感があ

り、さまざまな国の人々と意見を戦わせまし

た。私は最初イスラムの人々に少し怖いイメー

ジを持っていたのですが、実際に話すと温和で

親しみやすく、イメージが変わりました。世界

にはいろいろな考え方があり、習慣があり、価

値観があります。私たちの価値観からは理解で

きないものもありますが、相手の文化を認め、

受け入れることが大切だと感じました。

相手の文化を認め、受け入れること

西川真未 4 年

現役大学生の留学体験記 2アメリカ セントラルワシントン大学

19

Spotlight

英語の魔法

大島由愛

一般財団法人 国際ビジネスコミュニケーション協会 

IP事業本部 IP企画・運営ユニット 学校普及チーム チームリーダー

一九九五年卒業

英語と出合って世界が開けた。

英語をツールに世界を感じた。

たった二六文字のアルファベットを自在に操るだけで、

自分の可能性は無限に広がる。

大島由愛にとって、英語は人生最良のパートナーである。

Page 11: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

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Spotlight

 

北海道の空は高い。雲ひとつない快晴の

空を見上げると、どこまでも天が続いてい

るような錯覚をおこす。空気が澄んでいる

せいだ。その北の大地の玄関口、異国情緒あ

ふれる函館市の郊外で大島由愛は育った。

晴れた日は友だちと自然のなかを駆け回り、

雨や雪に閉ざされると家で静かに本を読む。

小学生の頃の愛読書は『トム・ソーヤの冒

険』。そのせいか、大島にとって外国といえ

ば無条件でアメリカだ。のちにアメリカ文

化を学ぶようになったのは、もしかすると、

この頃の体験が無意識に働いたせいかもし

れない。

 

大島がその生涯を通じて深く関わること

になる「英語」と出合うのは中学生のときだ。

当時、中学生になることは大人の仲間入り

をすることだった。児童から生徒になり、算

数は数学へと呼び名が変わる。もう子ども

じゃない、と少し誇らしい気分になる。

「誰もがみんな、中学生になると何か新しい

ことをはじめたがりました。小学生の頃に

はできなかった新しいことへの挑戦。その

ひとつのブームが英語を習うということで

に、そこに魅力を感じられない自分がいる

ことに気づきました」

 

それで受験勉強に手を抜いたわけではな

かったが、大学受験はすべて失敗した。浪人

が決まったとき、大島は両親に、自分が本当

に興味を持てるのは語学や世界の文化を学

ぶことだと告げ、看護師以外の道に進みた

いと頭を下げた。母が心中何を思ったかは

わからない。いいよ、好きな勉強をしなさい、

といっていい。心身ともに北の健康優良児

だった。とはいえ、悩みがまったくなかった

わけではない。

「母が看護師で、私が一人っ子だったためか、

小さい頃から将来は看護師をめざしてほし

いといわれていました。とくに反発する理

由もなく、私も看護系の大学に進学するつ

もりでいましたが、受験が近づき、看護学の

勉強内容や看護師の仕事を詳しく知るうち

した。私もLL教室に通い、そこで英語のお

もしろさにハマってしまいました」

 

大島はその魅力を「クイズのようなおも

しろさ」と表現する。BOOKはなぜ本なの

か。無機質な四つの文字が並ぶと、それが本

という実体に変化する。AからZのたった

二十六文字の組み合わせだけで森羅万象を

表せてしまうことが、なんだか不思議で楽

しかった。大島はたちまち英語の虜になっ

た。とはいえ、勉強ばかりしていたわけでは

ない。むしろクラブ活動に夢中になってい

た。一七〇センチの長身を生かしてバス

ケットボール部で活躍するほか、陸上部に

誘われて中距離走の選手をかけもちし、北

海道大会にも出場した。

「中学時代はただひたすら走っていました。

基本はバスケットボール部に所属し、陸上

大会のときは助っ人として大会に出場しま

した。日曜日は昼の一二時から夜の八時ま

で、塩を舐めながら走り続けるような、そん

な毎日です。進学した高校も、私服で細かい

規則のない自由な学校でしたから、本当に

勉強をしたといえるのは、受験が近くなっ

てからのことです」

 

高い空の下、のどかな町で、自由な学校で、

大島は人生を走り続ける基礎体力を養った

と予想に反して笑って許してくれた。次の

年、大島は新設されたばかりの国際文化学

部に進学した。

 

大島が国際学部に決めた理由はふたつあ

る。ひとつは一期生ということに魅力を感

じたこと。そして、英語や英文学だけでなく、

世界の文化についても学べると聞いて、世

界が近くに感じられたからだ。

「大学に入学して、まず驚いたのは学びの広

さでした。履修ガイドにはそれまで聞いたこ

とがない授業名がズラリと並んでいて、とて

も新鮮でした。社会人類学なども勉強できる

んだ、となんだか将来の選択肢が広がった気

分でした。でも、呑気に喜んでいたのは最初

だけ。専門課程に入ると、いきなりレベルが

上がって現実に引き戻されました」

 

大島が専攻したのは、もちろんアメリカ

文化コース。アメリカ史に関する授業では

「次の授業までにしっかり読んで意見をま

とめてきてね」と、いきなり英語で書かれた

大量の資料を渡された。しっかり予習しな

ければ授業についていくこともできない。

学びの質とその密度の高さに最初は戸惑い、

やがて夢中になった。好奇心と意欲があれ

ばどこまでも深く掘り下げていける。学ぶ

ことがこんなに楽しいものだとは思わな

かった。そんななか、大島はディズニーラン

ドのビジネスモデルに強い興味を抱くよう

になる。

「アメリカはまだ歴史の浅い国です。ディズ

ニーランドにはそのアメリカの歴史が詰め

込まれています。そこには古きよき時代のア

メリカがあり、それを大人も子供も心から信

じ、楽しんでいます。それを可能にしている

のが徹底して考え抜かれたシステムです。

ディズニーランドからは外の世界が見えな

いようにしたり、掃除をする人は決して口を

きかないように徹底させたり、すべてを綿密

に計算してマニュアル化しています」

 

大島にはディズニーランドがアメリカの

パワーのシンボルのように思えた。自分が

正しいと思うことをスタンダードとし、そ

のモデルをそのまま世界で展開する。ディ

ズニーランドを研究することで、アメリカ

のパワーの源泉に近づけるのではないか。

そう考えた大島は大学二年の夏休みを利用

して、フロリダ州オーランドにある語学学

校への留学を決意する。本場のディズニー

ワールドをその目で見たかったし、アメリ

クイズのようなおもしろさ

ディズニーに見るアメリカ

Page 12: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

23 22

Spotlight

が自分たちの国のパワーを信じていた。ア

メリカ、英語、ナンバーワンだと。

 

アメリカを体験すると、ますますアメリ

カがおもしろく思えてきた。黒人文化にも

興味を惹かれたし、建築物にも好奇心が湧

いた。太田和子先生の授業を聞いてアメリ

カやカナダの少数民族にも大いに関心を

もった。しかし、卒業論文にはやはりディズ

ニーランドを選んだ。

「当時は文献が少なく苦労しましたが、何と

か満足できる論文に仕上げることができま

した。東京ディズニーランドにもよく調査

に行きました。クリスマスで賑わうなか、ひ

とり寂しく写真を撮っていました」

 

アメリカに拠点があり、その方法論とモ

デルを世界に浸透させていく。それがディ

ズニーランドに代表されるアメリカのビジ

ネスモデルだ。その仕組みを研究したこと

で、大島はアメリカのビジネスの本質をつ

かんだような気がした。

 

大島が卒業した一九九五年は、バブル崩

壊の余波が就職環境を直撃した年でもあ

る。企業は軒並み新卒採用数を削減し、学

カそのものを肌で感じたいと思ったのだ。

「最初の五週間は大学の寮で生活し、英語の

ディスカッションや会話、発表の授業に参

加し英語力を磨きました。もちろんディズ

ニーワールドにも足を運びました。日本人

が働いているレストランで、なぜ働いてい

るのとインタビューしたりして。考えると

怖いもの知らずですね。いまではとてもで

きません」

 

怖いもの知らずというより、若さ特有の

行動力というべきだろう。ただ語学だけを

勉強して帰国してはもったいないと、大島

はプログラムを終えてもすぐには帰国せず、

留学先の学校にボランティア先を紹介して

もらい、クラスで仲良くなった友人と一緒

にマイアミの老人たちが暮らすアパートで

一〇日間生活した。

 

ちょうど大きなハリケーンの襲来と重

なって、初日の天候は大荒れ。不安がるおば

あちゃんと折り紙を折りながら一晩中話相

手を務めた。ハリケーン一過後は散らばっ

たゴミを拾い、壊れた花壇を一緒に直した。

そんな触れあいを通して大島はアメリカの

人々の気質や考え方を肌で感じとっていっ

た。やはり生活の根底には宗教があり、そこ

で形づくられた価値観がある。そして誰も

英語をツールに

Page 13: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

25 24

Spotlight 生が企業を選り好みできる状態ではな

かった。それでも大島は就職にあたってふ

たつだけ自分に条件を課した。

「まず人とのコミュニケーションを必要と

する仕事。そしてドメスティックではなく

世界と繋がれる仕事を条件に活動しまし

た。そうした条件を満たす業界のひとつが

ホテル業界でした。契約社員という形では

ありましたが、ホテルに入社し、二年間ク

ロークを担当しました。とくにスキルを

持ってはいませんでしたが、人と触れあえ

るのが嬉しかったですね。ただ契約だった

ので、二年後に転職しました」

 

その転職先がアメリカ資本の宅配ピザ

を運営している会社である。アメリカ資本

がアメリカのやり方をそのまま持ち込み、

日本で展開するその手法はディズニーラ

ンドと基本的に同じだ。大学時代に研究し

ていたせいか、アメリカ流グローバルスタ

ンダードに大島はすぐ馴染んだ。

「配属されたのはマーケティング部です。

ホームページの作成やホームページに寄

せられる顧客からの問い合わせ対応、マー

ケティングにかかる経費の取りまとめな

どを担当しました。マーケティングの手法

は日本に合わせた形をとっていましたが、

配、経費精算、試験当日の対応などの業務

に追われていました。そこで、受験者の

方々の利便性を向上させるためにコール

センターの設立をすることになり、チーム

メンバーと協力しながら、コールセンター

の体制構築から対応マニュアルづくりま

で、すべてを一から手がけることができま

した」

 

コールセンターの立ち上げと並行して、

カスタマーサポートの拡充にも奔走した。

全国各地のトラブルの情報収集、調査、対

応。スタッフが増え、障がい者対応の充実

化を図った。その実績が評価されたのか、

五年目にはマネージャーを任された。二〇

一二年に異動するまで、大島はカスタマー

サポートの最前線を走り続けた。そして現

在、大島は新たなフィールドに足を踏み入

れている。

「現在の私のミッションはTOEICプロ

グラムの普及です。TOEICプログラム

は、TOEICテスト、TOEIC 

Br

idge、TOEICスピーキングテスト

/ライティングテストがあり、主に中学校、

高等学校、および大学への普及活動を行っ

ています。英語能力を測る世界共通のモノ

サシとして、学校での英語教育のためにご

(Educational Testing Service

)が開発およ

び制作している。英語という世界共通語を

使ったテストを普及していく。これこそま

さにアメリカを実感できるそのものでは

ないだろうか。

 

一般財団法人国際ビジネスコミュニ

ケーション協会は、そのTOEICプログ

ラムを日本で実施・運営している。業務は

カスタマーサポートチームの立ち上げと

いう、それまで関わったことのないもの

だったが、大島に躊躇はなかった。

「それまで、カスタマーサポートチームと

いうチーム自体がなかったため、ひとつず

つ手探りで形をつくりあげていきました。

TOEICプログラムが広がっていくな

か、公開テストの実施運営や試験官派遣手

組織形態は日本の企業とは

まったく違います。組織のヒエ

ラルキーはアルバイトが最上

にいて、社長がいちばん下とさ

れ、みんながプロ意識を持って

働くように設定されています。

そうするとパワーのある人は

成長し、ダメな人は脱落してい

く。その結果、組織がパワーの

ある集団になっていくという、

実にアメリカ的な企業でした」

 

大島にとっては実に働きやすく、また働

きがいのある環境だったが、逆に環境が良

すぎて安住しそうな自分が怖かった。ふと

気がつけば三〇歳の手前、もし新しい世界

に挑戦するなら、いまが最後のチャンスだ

と思った。

「自分の社会における立ち位置を確認した

いという思いもあったかもしれません。何

も不満はありませんでしたが転職活動をは

じめました。そこで出合ったのが日本でT

OEIC事業を展開している現在の会社

です」

 

TOEICプログラムは、米国ニュー

ジャージー州プリンストンに拠点を置く、

米国の世界最大のテスト開発機関ETS

利用いただいています。

 

目標は、英語によるコミュニケーション

能力の向上とグローバル人材の育成の推

進を手助けすること。

 

学校普及チームのスタッフは九名。大島

はそのチームリーダーを務めている。営業

スタッフとの同行営業や戦略の立案など

やるべきことはつねに山積している。二〇

一三年からは、文部科学省による大学のグ

ローバル人材育成推進制度もはじまる。さ

まざまな大学・学校がグローバル化をど

う進めていくか模索するなか、それぞれの

大学がめざすグローバル化の実現に協力

していきたいと大島は考えている。

 「グローバル化は今後ますます重要に

なっていくでしょう。そしてその鍵を握る

のはやはり英語です。たとえば日本と韓国

と比較すると、英語力は韓国が圧倒してい

ます。韓国企業が国際化でリードし、日本

企業を追い抜いたように、この状態が続く

と日本はますます厳しくなると思います。

これから日本の小学生や中学生が世界で

活躍していかないと日本は取り残されて

いく。そのためには英語をツールにしても

らい、世界に抵抗感なく飛び込んでいく人

を育てないと」

 

英語は自分自身のなかに潜む、無限の可能

性の扉を開く魔法だ。英語ができれば世界は

広がる。だからもっと英語を利用してほしい。

大島は心からそう思う。なぜなら大島自身が

英語をツールに、世界を広げ続けてきたから

だ。この魔法にかかって損はない。

Page 14: PROSPECTUS...05 04 で考えさせられていました。卒業後はアメリカのシラキュース大学(S くとアメリカの広大さを実感しました。町にある私立の総合大学でした。この時つくづ飛行機で一時間もかかるシラキュースというのですが、行ってみるとニューヨーク市からは都会での生活を想像し、期待に胸を

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国際学部では、いろいろな種類の入学試験を実施しています。一般入試A・B 大学入試センター試験利用選抜A・B推薦入試(指定校制推薦入学 公募制推薦入学 卒業生子女推薦入学)特別選抜試験(海外帰国子女特別選抜試験 社会人特別選抜試験 外国人留学生入学試験A・B)詳しくは入試事務室にお問い合わせください。

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東日本大震災を経て、「私たちは、これまでと同じようには生きられない」(池澤夏樹『文明の渚』岩波ブックレット)

と多くの人々が感じました。

二年前の震災以来いまだに癒えない傷跡を見詰め、

改めて、あるいはこれまで以上に、日本は世界との関係を考える立場に置かれました。

さらに最近の政治・外交情勢も、世界秩序や平和に関して、

真剣に取り組まなければならない課題を表面化しています。

日本が世界に貢献できるように、世界の期待に応えられるために、

国際学部も、世界と日本を結ぶ学びを提供します。

二〇一三年度から新たな学びの仕組み「専攻プログラム」を導入、

国際人文・社会科学の拡がりの中から、体系的に履修科目を組み立てて、

国際社会で求められる真の教養を身につけられるように、指導します。

世界とつながる学びの礎となる語学教育にも力を傾注し、そのための留学を支援します。

また、国際学部は、単なる机上の学問だけでなく、

体験を通して身につけられる教養も重視し、海外研究旅行を実施しています。

二〇一三年度からは、過去三年間の実績に基づき、授業として組み込みました。

大学生としての四年間を「これまでと同じようには生きられない」という意識を持って学び、

グローバルな視野で物事を考えられるようになってほしい、と願っています。

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