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s ' i Taisuke Mohr The Mirror - Frantic Gallery ' i Taisuke Mohr ” The Mirror “ at “Personal...

Date post: 04-Jul-2019
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www.frantic.jp Taisuke Mohri's The Mirror at “Personal Structures” European Cultural Centre, Palazzo Mora, Venice, Italy May 13th - November 26th , 2017
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Page 1: s ' i Taisuke Mohr The Mirror - Frantic Gallery ' i Taisuke Mohr ” The Mirror “ at “Personal Structures” European Cultural Centre, Palazzo Mora, Venice, Italy May 13th - November

www.frantic.jp

Taisuke Mohri's

“The Mirror”

at “Personal Structures”European Cultural Centre,Palazzo Mora, Venice, ItalyMay 13th - November 26th , 2017

Page 2: s ' i Taisuke Mohr The Mirror - Frantic Gallery ' i Taisuke Mohr ” The Mirror “ at “Personal Structures” European Cultural Centre, Palazzo Mora, Venice, Italy May 13th - November

パウダーから鏡へ

 変身は媒体とともに始まる。毛利はわれわれがも

のの痕跡として知覚しているものに非常に近い物質

である黒鉛を使用する。それはシミを残し、われわれ

が「何か」が「何もなく」なることを示すために指の

間に擦り込んでみせるもので、灰と関連した物質であ

り、縮めることのできない物理的な現実の残痕であ

る。まずこの物質-自分を無形だが可視に残るもの

としようとしている物質-は点や線あるいは形に組

み込まれることよりも架空の空間へ再加工される。

つまり物理的現実にはめ込まれた、互いに向き合う

鏡の間に開かれる想像的な空間ということである。

この距離の開口部は、光学の法則と一致する構造に

基づく、無限に走る反射の間の目の再帰的な動きに

よって支えられ、増幅され、広がっていく。これは想

像できることにしても、存在しえないもののためであ

る。まさにこのときに、視覚体験は「ここ」と「そこ」に

否応なく引き裂かれ始める。

 しばしば、美術作品は私たちの中心を消失させる

という。美術作品はわれわれが支配者的立場から捉

えている視界に介在する線をへし折ってしまう。ただ

し《The Mirror》の場合は必ずしもこの通りではな

い。このイメージ-なにはともあれまだイメージであ

るところの-は、多少はあなたを当てにしている。も

しあなたに対面する気が起きないとしても、内的一

貫性のために作品正面の前の基本的なポイントにも

たれかかったままだ。これをさらに明確にするには

《The Mirror》を右左に拡張すると想像して同じ場

所に留まりながら回転しているところを思い描いてみ

るといい。すると《The Mirror》はあなたをとり囲み

ながら反対側と繋がって軌道を生む。あなたはドー

ナツのようなトーラス状円環の中にいることに気づく

だろう。ど真ん中でありながら、外側であるところ

に。中心がないわけではない。ご覧の通り、ただ…空

洞なのである。かつてロラン・バルトは東京につい

て、都市の核にある皇居という立ち入ることのできな

い「空の」場所についてこんな記述をしたことがある

と思いだす。それは内的外面性を引き起こしながら

その周りに「民族的円環」を固め、維持しうる位置で

あると。

 それゆえに、空洞は遮断されながらも機能するの

である。西洋のパースペクティヴに戻してみると、空

間は消失点をめぐって構築される。つまり唯一の死

角は盲点が観者の居場所に固定されているというこ

とである。観者こそが盲点なのだ。そのため毛利は

彼自身を乗り越え(全体の中に全体自体と一致しな

い部分があるので)、自分の外見とともに内的にひっ

くり返された反射と同一性のヒエラルキーを作りだ

す。

構えをもった形象

 まったく予想外というわけではないが、鏡の反対

側でわれわれは完全さを追求するものを-それ自体

を観察しながら-発見する。「中」(「中性」の「中」

的意味合いである)に吊るされた何物かとしてではな

く、統一させる力、収集させる存在、反対側と合わさ

りながら同時に先端を削り取るものとして。その目を

のぞいてみるといい。それはこう言っている…「あな

たは私が言おうとしていることを知っているでしょ

う?」そして、ほら…「なにも知らないじゃないか!」

と。

 さらに矛盾を孕んだ-日本では多くの美術の形態

に内在している-取り去ることでより多くを生成する

という方法がある。日本の俳句のように要素を単一

のユニットとして引き出し、それを要素と連結の最小

限まで凝縮したものは長くならない、そう、単に長い

句にはなり得ないのだ。折りたたんだ扇子のように

折りたたまれた形でイメージを持ち、常に開かれた

形態の逆遠近法から太陽と月を解放する準備がで

きている。(扇子を折りたたむことは、世界そのもの

を収縮させることである。)北斎の描いた、くだけよう

としているかのような波は静止した動きを切り取ら

れ、一瞬で出来うる限りの波の動き、さらにはその間

隔、波の時間までをも捉えている。多数の反対側を

統一へと誘うさまざまな手法である。

 この爆縮的な実践が人間と関連づけられると、身

体的、心理的感覚の両面から「構え」と呼ばれる。

武道、舞台芸能、花道のいずれも、構えをとることは

いかなる動きも可能にするというだけでなく、全ての

動きが起きているところに到達することを意味する。

構えは静的なものでも瞬間的なものでもなく、具体

的なフォームを固定するのは実戦を交える相手や物

語上の表現を握っている相手がいかに正確に一手を

打つかにかかっている。鏡の中の形象はこうした構

えをとっており、見るという行為の従事者が選択する

方向へと動く準備をして両極端のポジションをとるこ

を包み、外的な対象と現実から自動的なエロティシ

ズムへ連れ去る。これはそれ自体への反射であり、

同時に私自身への反射でもある。つまりイメージが

わたしに代わって振る舞いをし、私はまるで私がイメ

ージであるかのように振る舞うということである。

 しかし同時に、それはそもそも真実への欲望を起

こすのと同じ分裂である。内省、意識の内部、「反省

のための空間」を開くのだが、それは言い換えれば

熟慮、反省的理論のための空間なのだから。仮に単

純な同一化のためのものではなく、空間そのものを

対象として有してみるとどうだろうか。つまり鏡のステ

ージにたぶらかされてひきずりこまれるのではなく、

それがイメージであると知りながら「表象」そのもの

を現象として考察することである。つまり、ここで問

題となるのはいかに見かけを乗り越えるかではなく、

見かけとはいかにして可能になるのかである。誤りは

個人が自分自身との親密さを精査する替わりにこう

したイメージに現実味を与える瞬間にたやすく現れ

る。

このように一歩引いて対峙することが不可欠となる

が、その対峙はイメージ自体とではなく、継続させな

がらまさしく《The Mirror》の作り出す欠落とその周

囲の構造とである。同一性を暗い想像上の深みに沈

めようとしたり、いわんやカルト的立場とその結果生

まれる崇拝から作品へアプローチしてはならない。一

方、察知したり薄目で見たり作品の不穏なネガティブ

さを避けることはないし、いわんや単なるポートレー

トのように捉えるのはありえない。快楽の道でイメー

ジへと滑り込むことなく、一方でたえられない享楽に

逆らうこともなく、ただ作品の矛盾した構造と視覚的

に生成するダイナミックさに向き合うのである。それ

はわれわれの主観がもつ矛盾を反映しようとする試

みのはずである。そしてこれこそが《The Mirror》が

意味を作り始める唯一の時である。

エクスタシー

 この場合、《The Mirror》は「われわれが考えると

き、われわれはどこにいるのか」という問いに自分な

りに答えてくれるだろうか。すなわち、われわれが周

囲の現実に気をとられることなく夢中で思索にふけっ

ているとき、まるでここにいるのに同時にどこか別の

場所にいるような…しかし一体どこなのだろうか

…。

 こうした自発的な態度は、別の非存在であり想像

的な次元に広がる反省のための空間へと移る能力を

もった思考者の自己に没頭する「不在」の状況を視

覚化しはしないだろうか。こちら側の不在とあちら側

での内的作業への没頭は鏡の密度と一貫性によって

供され、想像界を通じて思考と理念という象徴界の

次元へと展開される。「宙吊りになった生命」、ここ

にいることの宙吊りであり、「他の場所」で連続した

思考をめいっぱい働かせるためなのである。

 最後にイメージの前面で「不在」という状態と概し

て構造の非対称をもう一回見てみよう。ここからこそ

毛利の作品と写真(現実のイメージを、その観察を

行ったカメラ/目と主体なしで提供するものとして)

の関係性へと反映させてみる意味があり、そして

《The Mirror》と夢の性質の類似性へと向かうこと

になる。夢は見るもののいない状態で見られ、眠っ

ている人の目に見えるイメージであり、人間の内的分

裂によってのみ可能となるものである。

 もしもこの経験からわれわれ自身へ向けた鍛錬

を、理論的な姿勢の鍛錬を導き出そうとするのであ

れば、それは「撤退の鍛錬」になることだろう。ポジ

ションを取ることなく観察を試みるという鍛錬、「脱

存在の鍛錬」、純粋な観察という領域へと身を投じ

ることで自己を抽出するという道筋、この世のものが

直接われわれに働きかけることを止めた反省のため

の場所。

 不在の状態でわたしがすでに自分を他者として扱

っていないとき、つまり主体が空へと滑り落ちていく

ときには、魂は特別性を失ってすでに自分自身では

なくなっており、自分の外側、エクスターシス【exta-

sis】へと引き抜かれていく。これはなにもわれわれ

が絶え間なく賞賛を喚起すべきものとしての鏡の人

物の立ち姿だけに向けられているわけではなく、無

我夢中という点でなんら状態に相違いのない、実在

しないものを作り出す抽出作業そのものの動きへと

向けられている。エクスタシー【ecstasy】(もしくは

古代ギリシャ語で「自己の外にいること、あるいは立

つこと」を意味する【ekstasis】。ek-は外【out】、

stasisは立つ【stand】に相当する。)とは存在する

ものが「他の場所」でそれ自体を張り詰めた状態で

表現する方法であり、自身を超えた、自身の中の外

面へと向かって引っ張られる。そして思い起こされる

ように、ギリシャ語のエクスターシス【ekstasis】とラ

テン語のエグジステンシア【existentia】の繋がりは

「ここからあちらへ、今から以前、あるいは以降へと

移ろう緊張状態にあるもの」としての存在【exis-

tence】を際立たせる。むろん幾許かの勇気は必要

だろうが、《The Mirror》に突破口を開かせ、緊張

をつたって超越した内部空間へ向けあなた自身が引

き込まれるという実験をさせるということは、いまや

完全な意味での存在することを主張することではな

いだろうか。

ロディオン トロフィムチェンコ

(Frantic Gallery、ディレクター)

となく圧縮されている。ある芸術や道場においては

模倣と反復を通して、構えを内面化するプロセスは日

本で「稽古」、「訓練」や「練習」と呼ばれ、また別称

として「askesis克己/鍛錬」ともいうことができ

る。

フォト/ハイパー/リアリズムを横断しながら

 毛利は鏡に挟まれた合成のイメージを準備するに

あたって数百枚の写真をくまなく調べる。それは皴の

クローズアップまたは眼球の表面の上に反射を捉え

たショットなどである。ただしここでは抽象的な、物

質に注目する、自発へ導かれるスタイルに対置する

ことは意図されておらず、写真というメディアそのも

のの要素を暴いたり損なったりしようというものでも

ない。最後に、写真と間違われ感嘆されたところで、

このドローイングが得るものはなにもないのである。

 イメージの空間はもちろん「オルタナティヴな存

在」を生み出し、現在われわれが経験しているデジ

タルな世界の介在へと繋ぐ洞察力がないというわけ

ではない。しかしながら、イメージに対してわれわれ

がいる側(美術的実践もしくは作品とわれわれの対

峙の側)で何が起きているのかを考察することなくそ

のイメージをもっぱらイリュージョンに基づくものとし

て捉えるのは、ひとことで言えば一方的である。それ

は現実(オリジナルあるいはコピー)かということで

はなく、両者を識別不可にすることも問題でない。

 《The Mirror》を鍛錬の形として知覚された作家

の生活の中で具現化した作品として考えてみるとよ

り多くのことが得られるであろう。つまり外界が切り

離され距離を持ちはじめるという状況で、ひとりぼっ

ちだと気づき、永遠に終わらない課題としての自分自

身を発見するとき…。

 芸術的な創造と製造(「手仕事」「労働」「労苦」

などと認識されている類のもの)の媚びの馴れ合い

の負担がかからない環境で暮らし、ほとんどの時間

をアトリエで過ごすなかで、毛利は鍛錬の日々を過ご

し作品は反復の結果となる。模写の研鑽はつねにゼ

ロから始まるのではなく、それまでの結果を踏まえた

上で創造的なイメージを押し出すプロセスにおいて

生じうる。よりよいものを求め、こうした鍛錬(前のも

のよりも次のものが良くなければならないという連続

的に行う行為として理解される鍛錬)は描かれた

(作家と視覚的に類似性がある)形象のミメーシス

がもつ厳密さおよび、作品の光学的構造の精密さと

その効果を内包している。しかしその後、作家による

作品と作品が生み出す視覚的経験の理解へ、さらに

最終的には概して「芸術家となること」、「魂を掌握

すること」へと移る。このような垂直的緊張状態に

おかれた創造プロセスは「自己表現」、「良い形の

探求」として考えることができ、当然ながらこのイメ

ージのコンテクストにおいてこれらの表現は考察に

値する二重の意味をもつ。禁欲的な鍛錬であるがゆ

えに、内的なジェスチャーは自己の内面で「不可能

性」を求める空間を作り出す。つまり、永久的に自分

を乗り越えようとし、不可能に到達しようとする「自

己の理想像」へと向かう過程で個人を自分自身の主

観化に加わるよう委ねるという自己参照的な関係を

作り出す。《The Mirror》のこちら側で、自己の全体

性、完璧さを掌握する途上で。

自己を引き裂さきながら

とはいえ完璧な統一性におかれた「理想の自己像」

はすり抜けていってしまうものであり、水に落ちた涙

が水面を乱すように、鏡の表面は割れ、ヒビが透明な

面を網目化しながら放射線状に広がっていく。すると

もはや、われわれと鏡の関係には分離の裂傷と同時

に乗り越えられない二重性が存在している。全体性

はわれわれから閉ざされるかのように掴む前に破壊

されてしまうのだが、ここで強調されるべきはそれが

個から多へと通じる通路をも生成するということであ

る。当初はひとつのものをふたつにする方法を解き

明かした鏡は反射の切断が起こることを抑制し、分

裂した身体を「自己」のかけらの星座へと変えてい

く。反射のエコーは無限の距離を置きながら分裂し

たキャラクターを拾いあげ、背中を無傷のまま残す

が、それから罰を与えるかのように目を二つに引き裂

く。背中か裂けた目か、どちらかが際限なく繰り返さ

れる。「それは正確に描かれたわたしであるものでは

ないし、必ずしもわたしがこうなりたいというものでも

ない。」ということが彼自身のイメージの意味と究極

の美術作品という企てというふたつの意味において

毛利の鏡を割っている。またあらゆる人間の世界に

対して深く傷ついた関係性の表明として、それはつま

りわれわれ「個人としての」存在証明である。そこに

はなにも「最後のイメージ」はない。

 不足が作家を駆り立て、割れ目が根拠となり、距

離と分裂が高みへと押し上げる。そして毛利はアトリ

エへと戻り、この練習で得たものを次の表現の試み

へと還元していく。彼は別の試み、完全な形態への

次なる試みの反復のなかに呼び覚まされる。

反射のための空間から反省のための空間へ

 鏡に挟まれた空間は催眠を誘発し、危険ですらあ

る。その空間は誤認識を引き起こしながら、閉ざさ

れた錯覚の深みへと同一性に沿って引きずられる。

その自己参考的な性格は暖かい浴槽のように見る者

Page 3: s ' i Taisuke Mohr The Mirror - Frantic Gallery ' i Taisuke Mohr ” The Mirror “ at “Personal Structures” European Cultural Centre, Palazzo Mora, Venice, Italy May 13th - November

Taisuke Mohri, "The Mirror 3", pencil on paper, frame: 95.3x77.1x6.5cm/37.5x30.3x2.6in, drawing: 91x72.8cm/35.8x28.7in, 2017

パウダーから鏡へ

 変身は媒体とともに始まる。毛利はわれわれがも

のの痕跡として知覚しているものに非常に近い物質

である黒鉛を使用する。それはシミを残し、われわれ

が「何か」が「何もなく」なることを示すために指の

間に擦り込んでみせるもので、灰と関連した物質であ

り、縮めることのできない物理的な現実の残痕であ

る。まずこの物質-自分を無形だが可視に残るもの

としようとしている物質-は点や線あるいは形に組

み込まれることよりも架空の空間へ再加工される。

つまり物理的現実にはめ込まれた、互いに向き合う

鏡の間に開かれる想像的な空間ということである。

この距離の開口部は、光学の法則と一致する構造に

基づく、無限に走る反射の間の目の再帰的な動きに

よって支えられ、増幅され、広がっていく。これは想

像できることにしても、存在しえないもののためであ

る。まさにこのときに、視覚体験は「ここ」と「そこ」に

否応なく引き裂かれ始める。

 しばしば、美術作品は私たちの中心を消失させる

という。美術作品はわれわれが支配者的立場から捉

えている視界に介在する線をへし折ってしまう。ただ

し《The Mirror》の場合は必ずしもこの通りではな

い。このイメージ-なにはともあれまだイメージであ

るところの-は、多少はあなたを当てにしている。も

しあなたに対面する気が起きないとしても、内的一

貫性のために作品正面の前の基本的なポイントにも

たれかかったままだ。これをさらに明確にするには

《The Mirror》を右左に拡張すると想像して同じ場

所に留まりながら回転しているところを思い描いてみ

るといい。すると《The Mirror》はあなたをとり囲み

ながら反対側と繋がって軌道を生む。あなたはドー

ナツのようなトーラス状円環の中にいることに気づく

だろう。ど真ん中でありながら、外側であるところ

に。中心がないわけではない。ご覧の通り、ただ…空

洞なのである。かつてロラン・バルトは東京につい

て、都市の核にある皇居という立ち入ることのできな

い「空の」場所についてこんな記述をしたことがある

と思いだす。それは内的外面性を引き起こしながら

その周りに「民族的円環」を固め、維持しうる位置で

あると。

 それゆえに、空洞は遮断されながらも機能するの

である。西洋のパースペクティヴに戻してみると、空

間は消失点をめぐって構築される。つまり唯一の死

角は盲点が観者の居場所に固定されているというこ

とである。観者こそが盲点なのだ。そのため毛利は

彼自身を乗り越え(全体の中に全体自体と一致しな

い部分があるので)、自分の外見とともに内的にひっ

くり返された反射と同一性のヒエラルキーを作りだ

す。

構えをもった形象

 まったく予想外というわけではないが、鏡の反対

側でわれわれは完全さを追求するものを-それ自体

を観察しながら-発見する。「中」(「中性」の「中」

的意味合いである)に吊るされた何物かとしてではな

く、統一させる力、収集させる存在、反対側と合わさ

りながら同時に先端を削り取るものとして。その目を

のぞいてみるといい。それはこう言っている…「あな

たは私が言おうとしていることを知っているでしょ

う?」そして、ほら…「なにも知らないじゃないか!」

と。

 さらに矛盾を孕んだ-日本では多くの美術の形態

に内在している-取り去ることでより多くを生成する

という方法がある。日本の俳句のように要素を単一

のユニットとして引き出し、それを要素と連結の最小

限まで凝縮したものは長くならない、そう、単に長い

句にはなり得ないのだ。折りたたんだ扇子のように

折りたたまれた形でイメージを持ち、常に開かれた

形態の逆遠近法から太陽と月を解放する準備がで

きている。(扇子を折りたたむことは、世界そのもの

を収縮させることである。)北斎の描いた、くだけよう

としているかのような波は静止した動きを切り取ら

れ、一瞬で出来うる限りの波の動き、さらにはその間

隔、波の時間までをも捉えている。多数の反対側を

統一へと誘うさまざまな手法である。

 この爆縮的な実践が人間と関連づけられると、身

体的、心理的感覚の両面から「構え」と呼ばれる。

武道、舞台芸能、花道のいずれも、構えをとることは

いかなる動きも可能にするというだけでなく、全ての

動きが起きているところに到達することを意味する。

構えは静的なものでも瞬間的なものでもなく、具体

的なフォームを固定するのは実戦を交える相手や物

語上の表現を握っている相手がいかに正確に一手を

打つかにかかっている。鏡の中の形象はこうした構

えをとっており、見るという行為の従事者が選択する

方向へと動く準備をして両極端のポジションをとるこ

を包み、外的な対象と現実から自動的なエロティシ

ズムへ連れ去る。これはそれ自体への反射であり、

同時に私自身への反射でもある。つまりイメージが

わたしに代わって振る舞いをし、私はまるで私がイメ

ージであるかのように振る舞うということである。

 しかし同時に、それはそもそも真実への欲望を起

こすのと同じ分裂である。内省、意識の内部、「反省

のための空間」を開くのだが、それは言い換えれば

熟慮、反省的理論のための空間なのだから。仮に単

純な同一化のためのものではなく、空間そのものを

対象として有してみるとどうだろうか。つまり鏡のステ

ージにたぶらかされてひきずりこまれるのではなく、

それがイメージであると知りながら「表象」そのもの

を現象として考察することである。つまり、ここで問

題となるのはいかに見かけを乗り越えるかではなく、

見かけとはいかにして可能になるのかである。誤りは

個人が自分自身との親密さを精査する替わりにこう

したイメージに現実味を与える瞬間にたやすく現れ

る。

このように一歩引いて対峙することが不可欠となる

が、その対峙はイメージ自体とではなく、継続させな

がらまさしく《The Mirror》の作り出す欠落とその周

囲の構造とである。同一性を暗い想像上の深みに沈

めようとしたり、いわんやカルト的立場とその結果生

まれる崇拝から作品へアプローチしてはならない。一

方、察知したり薄目で見たり作品の不穏なネガティブ

さを避けることはないし、いわんや単なるポートレー

トのように捉えるのはありえない。快楽の道でイメー

ジへと滑り込むことなく、一方でたえられない享楽に

逆らうこともなく、ただ作品の矛盾した構造と視覚的

に生成するダイナミックさに向き合うのである。それ

はわれわれの主観がもつ矛盾を反映しようとする試

みのはずである。そしてこれこそが《The Mirror》が

意味を作り始める唯一の時である。

エクスタシー

 この場合、《The Mirror》は「われわれが考えると

き、われわれはどこにいるのか」という問いに自分な

りに答えてくれるだろうか。すなわち、われわれが周

囲の現実に気をとられることなく夢中で思索にふけっ

ているとき、まるでここにいるのに同時にどこか別の

場所にいるような…しかし一体どこなのだろうか

…。

 こうした自発的な態度は、別の非存在であり想像

的な次元に広がる反省のための空間へと移る能力を

もった思考者の自己に没頭する「不在」の状況を視

覚化しはしないだろうか。こちら側の不在とあちら側

での内的作業への没頭は鏡の密度と一貫性によって

供され、想像界を通じて思考と理念という象徴界の

次元へと展開される。「宙吊りになった生命」、ここ

にいることの宙吊りであり、「他の場所」で連続した

思考をめいっぱい働かせるためなのである。

 最後にイメージの前面で「不在」という状態と概し

て構造の非対称をもう一回見てみよう。ここからこそ

毛利の作品と写真(現実のイメージを、その観察を

行ったカメラ/目と主体なしで提供するものとして)

の関係性へと反映させてみる意味があり、そして

《The Mirror》と夢の性質の類似性へと向かうこと

になる。夢は見るもののいない状態で見られ、眠っ

ている人の目に見えるイメージであり、人間の内的分

裂によってのみ可能となるものである。

 もしもこの経験からわれわれ自身へ向けた鍛錬

を、理論的な姿勢の鍛錬を導き出そうとするのであ

れば、それは「撤退の鍛錬」になることだろう。ポジ

ションを取ることなく観察を試みるという鍛錬、「脱

存在の鍛錬」、純粋な観察という領域へと身を投じ

ることで自己を抽出するという道筋、この世のものが

直接われわれに働きかけることを止めた反省のため

の場所。

 不在の状態でわたしがすでに自分を他者として扱

っていないとき、つまり主体が空へと滑り落ちていく

ときには、魂は特別性を失ってすでに自分自身では

なくなっており、自分の外側、エクスターシス【exta-

sis】へと引き抜かれていく。これはなにもわれわれ

が絶え間なく賞賛を喚起すべきものとしての鏡の人

物の立ち姿だけに向けられているわけではなく、無

我夢中という点でなんら状態に相違いのない、実在

しないものを作り出す抽出作業そのものの動きへと

向けられている。エクスタシー【ecstasy】(もしくは

古代ギリシャ語で「自己の外にいること、あるいは立

つこと」を意味する【ekstasis】。ek-は外【out】、

stasisは立つ【stand】に相当する。)とは存在する

ものが「他の場所」でそれ自体を張り詰めた状態で

表現する方法であり、自身を超えた、自身の中の外

面へと向かって引っ張られる。そして思い起こされる

ように、ギリシャ語のエクスターシス【ekstasis】とラ

テン語のエグジステンシア【existentia】の繋がりは

「ここからあちらへ、今から以前、あるいは以降へと

移ろう緊張状態にあるもの」としての存在【exis-

tence】を際立たせる。むろん幾許かの勇気は必要

だろうが、《The Mirror》に突破口を開かせ、緊張

をつたって超越した内部空間へ向けあなた自身が引

き込まれるという実験をさせるということは、いまや

完全な意味での存在することを主張することではな

いだろうか。

ロディオン トロフィムチェンコ

(Frantic Gallery、ディレクター)

となく圧縮されている。ある芸術や道場においては

模倣と反復を通して、構えを内面化するプロセスは日

本で「稽古」、「訓練」や「練習」と呼ばれ、また別称

として「askesis克己/鍛錬」ともいうことができ

る。

フォト/ハイパー/リアリズムを横断しながら

 毛利は鏡に挟まれた合成のイメージを準備するに

あたって数百枚の写真をくまなく調べる。それは皴の

クローズアップまたは眼球の表面の上に反射を捉え

たショットなどである。ただしここでは抽象的な、物

質に注目する、自発へ導かれるスタイルに対置する

ことは意図されておらず、写真というメディアそのも

のの要素を暴いたり損なったりしようというものでも

ない。最後に、写真と間違われ感嘆されたところで、

このドローイングが得るものはなにもないのである。

 イメージの空間はもちろん「オルタナティヴな存

在」を生み出し、現在われわれが経験しているデジ

タルな世界の介在へと繋ぐ洞察力がないというわけ

ではない。しかしながら、イメージに対してわれわれ

がいる側(美術的実践もしくは作品とわれわれの対

峙の側)で何が起きているのかを考察することなくそ

のイメージをもっぱらイリュージョンに基づくものとし

て捉えるのは、ひとことで言えば一方的である。それ

は現実(オリジナルあるいはコピー)かということで

はなく、両者を識別不可にすることも問題でない。

 《The Mirror》を鍛錬の形として知覚された作家

の生活の中で具現化した作品として考えてみるとよ

り多くのことが得られるであろう。つまり外界が切り

離され距離を持ちはじめるという状況で、ひとりぼっ

ちだと気づき、永遠に終わらない課題としての自分自

身を発見するとき…。

 芸術的な創造と製造(「手仕事」「労働」「労苦」

などと認識されている類のもの)の媚びの馴れ合い

の負担がかからない環境で暮らし、ほとんどの時間

をアトリエで過ごすなかで、毛利は鍛錬の日々を過ご

し作品は反復の結果となる。模写の研鑽はつねにゼ

ロから始まるのではなく、それまでの結果を踏まえた

上で創造的なイメージを押し出すプロセスにおいて

生じうる。よりよいものを求め、こうした鍛錬(前のも

のよりも次のものが良くなければならないという連続

的に行う行為として理解される鍛錬)は描かれた

(作家と視覚的に類似性がある)形象のミメーシス

がもつ厳密さおよび、作品の光学的構造の精密さと

その効果を内包している。しかしその後、作家による

作品と作品が生み出す視覚的経験の理解へ、さらに

最終的には概して「芸術家となること」、「魂を掌握

すること」へと移る。このような垂直的緊張状態に

おかれた創造プロセスは「自己表現」、「良い形の

探求」として考えることができ、当然ながらこのイメ

ージのコンテクストにおいてこれらの表現は考察に

値する二重の意味をもつ。禁欲的な鍛錬であるがゆ

えに、内的なジェスチャーは自己の内面で「不可能

性」を求める空間を作り出す。つまり、永久的に自分

を乗り越えようとし、不可能に到達しようとする「自

己の理想像」へと向かう過程で個人を自分自身の主

観化に加わるよう委ねるという自己参照的な関係を

作り出す。《The Mirror》のこちら側で、自己の全体

性、完璧さを掌握する途上で。

自己を引き裂さきながら

とはいえ完璧な統一性におかれた「理想の自己像」

はすり抜けていってしまうものであり、水に落ちた涙

が水面を乱すように、鏡の表面は割れ、ヒビが透明な

面を網目化しながら放射線状に広がっていく。すると

もはや、われわれと鏡の関係には分離の裂傷と同時

に乗り越えられない二重性が存在している。全体性

はわれわれから閉ざされるかのように掴む前に破壊

されてしまうのだが、ここで強調されるべきはそれが

個から多へと通じる通路をも生成するということであ

る。当初はひとつのものをふたつにする方法を解き

明かした鏡は反射の切断が起こることを抑制し、分

裂した身体を「自己」のかけらの星座へと変えてい

く。反射のエコーは無限の距離を置きながら分裂し

たキャラクターを拾いあげ、背中を無傷のまま残す

が、それから罰を与えるかのように目を二つに引き裂

く。背中か裂けた目か、どちらかが際限なく繰り返さ

れる。「それは正確に描かれたわたしであるものでは

ないし、必ずしもわたしがこうなりたいというものでも

ない。」ということが彼自身のイメージの意味と究極

の美術作品という企てというふたつの意味において

毛利の鏡を割っている。またあらゆる人間の世界に

対して深く傷ついた関係性の表明として、それはつま

りわれわれ「個人としての」存在証明である。そこに

はなにも「最後のイメージ」はない。

 不足が作家を駆り立て、割れ目が根拠となり、距

離と分裂が高みへと押し上げる。そして毛利はアトリ

エへと戻り、この練習で得たものを次の表現の試み

へと還元していく。彼は別の試み、完全な形態への

次なる試みの反復のなかに呼び覚まされる。

反射のための空間から反省のための空間へ

 鏡に挟まれた空間は催眠を誘発し、危険ですらあ

る。その空間は誤認識を引き起こしながら、閉ざさ

れた錯覚の深みへと同一性に沿って引きずられる。

その自己参考的な性格は暖かい浴槽のように見る者

Page 4: s ' i Taisuke Mohr The Mirror - Frantic Gallery ' i Taisuke Mohr ” The Mirror “ at “Personal Structures” European Cultural Centre, Palazzo Mora, Venice, Italy May 13th - November

パウダーから鏡へ

 変身は媒体とともに始まる。毛利はわれわれがも

のの痕跡として知覚しているものに非常に近い物質

である黒鉛を使用する。それはシミを残し、われわれ

が「何か」が「何もなく」なることを示すために指の

間に擦り込んでみせるもので、灰と関連した物質であ

り、縮めることのできない物理的な現実の残痕であ

る。まずこの物質-自分を無形だが可視に残るもの

としようとしている物質-は点や線あるいは形に組

み込まれることよりも架空の空間へ再加工される。

つまり物理的現実にはめ込まれた、互いに向き合う

鏡の間に開かれる想像的な空間ということである。

この距離の開口部は、光学の法則と一致する構造に

基づく、無限に走る反射の間の目の再帰的な動きに

よって支えられ、増幅され、広がっていく。これは想

像できることにしても、存在しえないもののためであ

る。まさにこのときに、視覚体験は「ここ」と「そこ」に

否応なく引き裂かれ始める。

 しばしば、美術作品は私たちの中心を消失させる

という。美術作品はわれわれが支配者的立場から捉

えている視界に介在する線をへし折ってしまう。ただ

し《The Mirror》の場合は必ずしもこの通りではな

い。このイメージ-なにはともあれまだイメージであ

るところの-は、多少はあなたを当てにしている。も

しあなたに対面する気が起きないとしても、内的一

貫性のために作品正面の前の基本的なポイントにも

たれかかったままだ。これをさらに明確にするには

《The Mirror》を右左に拡張すると想像して同じ場

所に留まりながら回転しているところを思い描いてみ

るといい。すると《The Mirror》はあなたをとり囲み

ながら反対側と繋がって軌道を生む。あなたはドー

ナツのようなトーラス状円環の中にいることに気づく

だろう。ど真ん中でありながら、外側であるところ

に。中心がないわけではない。ご覧の通り、ただ…空

洞なのである。かつてロラン・バルトは東京につい

て、都市の核にある皇居という立ち入ることのできな

い「空の」場所についてこんな記述をしたことがある

と思いだす。それは内的外面性を引き起こしながら

その周りに「民族的円環」を固め、維持しうる位置で

あると。

 それゆえに、空洞は遮断されながらも機能するの

である。西洋のパースペクティヴに戻してみると、空

間は消失点をめぐって構築される。つまり唯一の死

角は盲点が観者の居場所に固定されているというこ

とである。観者こそが盲点なのだ。そのため毛利は

彼自身を乗り越え(全体の中に全体自体と一致しな

い部分があるので)、自分の外見とともに内的にひっ

くり返された反射と同一性のヒエラルキーを作りだ

す。

構えをもった形象

 まったく予想外というわけではないが、鏡の反対

側でわれわれは完全さを追求するものを-それ自体

を観察しながら-発見する。「中」(「中性」の「中」

的意味合いである)に吊るされた何物かとしてではな

く、統一させる力、収集させる存在、反対側と合わさ

りながら同時に先端を削り取るものとして。その目を

のぞいてみるといい。それはこう言っている…「あな

たは私が言おうとしていることを知っているでしょ

う?」そして、ほら…「なにも知らないじゃないか!」

と。

 さらに矛盾を孕んだ-日本では多くの美術の形態

に内在している-取り去ることでより多くを生成する

という方法がある。日本の俳句のように要素を単一

のユニットとして引き出し、それを要素と連結の最小

限まで凝縮したものは長くならない、そう、単に長い

句にはなり得ないのだ。折りたたんだ扇子のように

折りたたまれた形でイメージを持ち、常に開かれた

形態の逆遠近法から太陽と月を解放する準備がで

きている。(扇子を折りたたむことは、世界そのもの

を収縮させることである。)北斎の描いた、くだけよう

としているかのような波は静止した動きを切り取ら

れ、一瞬で出来うる限りの波の動き、さらにはその間

隔、波の時間までをも捉えている。多数の反対側を

統一へと誘うさまざまな手法である。

 この爆縮的な実践が人間と関連づけられると、身

体的、心理的感覚の両面から「構え」と呼ばれる。

武道、舞台芸能、花道のいずれも、構えをとることは

いかなる動きも可能にするというだけでなく、全ての

動きが起きているところに到達することを意味する。

構えは静的なものでも瞬間的なものでもなく、具体

的なフォームを固定するのは実戦を交える相手や物

語上の表現を握っている相手がいかに正確に一手を

打つかにかかっている。鏡の中の形象はこうした構

えをとっており、見るという行為の従事者が選択する

方向へと動く準備をして両極端のポジションをとるこ

を包み、外的な対象と現実から自動的なエロティシ

ズムへ連れ去る。これはそれ自体への反射であり、

同時に私自身への反射でもある。つまりイメージが

わたしに代わって振る舞いをし、私はまるで私がイメ

ージであるかのように振る舞うということである。

 しかし同時に、それはそもそも真実への欲望を起

こすのと同じ分裂である。内省、意識の内部、「反省

のための空間」を開くのだが、それは言い換えれば

熟慮、反省的理論のための空間なのだから。仮に単

純な同一化のためのものではなく、空間そのものを

対象として有してみるとどうだろうか。つまり鏡のステ

ージにたぶらかされてひきずりこまれるのではなく、

それがイメージであると知りながら「表象」そのもの

を現象として考察することである。つまり、ここで問

題となるのはいかに見かけを乗り越えるかではなく、

見かけとはいかにして可能になるのかである。誤りは

個人が自分自身との親密さを精査する替わりにこう

したイメージに現実味を与える瞬間にたやすく現れ

る。

このように一歩引いて対峙することが不可欠となる

が、その対峙はイメージ自体とではなく、継続させな

がらまさしく《The Mirror》の作り出す欠落とその周

囲の構造とである。同一性を暗い想像上の深みに沈

めようとしたり、いわんやカルト的立場とその結果生

まれる崇拝から作品へアプローチしてはならない。一

方、察知したり薄目で見たり作品の不穏なネガティブ

さを避けることはないし、いわんや単なるポートレー

トのように捉えるのはありえない。快楽の道でイメー

ジへと滑り込むことなく、一方でたえられない享楽に

逆らうこともなく、ただ作品の矛盾した構造と視覚的

に生成するダイナミックさに向き合うのである。それ

はわれわれの主観がもつ矛盾を反映しようとする試

みのはずである。そしてこれこそが《The Mirror》が

意味を作り始める唯一の時である。

エクスタシー

 この場合、《The Mirror》は「われわれが考えると

き、われわれはどこにいるのか」という問いに自分な

りに答えてくれるだろうか。すなわち、われわれが周

囲の現実に気をとられることなく夢中で思索にふけっ

ているとき、まるでここにいるのに同時にどこか別の

場所にいるような…しかし一体どこなのだろうか

…。

 こうした自発的な態度は、別の非存在であり想像

的な次元に広がる反省のための空間へと移る能力を

もった思考者の自己に没頭する「不在」の状況を視

覚化しはしないだろうか。こちら側の不在とあちら側

での内的作業への没頭は鏡の密度と一貫性によって

供され、想像界を通じて思考と理念という象徴界の

次元へと展開される。「宙吊りになった生命」、ここ

にいることの宙吊りであり、「他の場所」で連続した

思考をめいっぱい働かせるためなのである。

 最後にイメージの前面で「不在」という状態と概し

て構造の非対称をもう一回見てみよう。ここからこそ

毛利の作品と写真(現実のイメージを、その観察を

行ったカメラ/目と主体なしで提供するものとして)

の関係性へと反映させてみる意味があり、そして

《The Mirror》と夢の性質の類似性へと向かうこと

になる。夢は見るもののいない状態で見られ、眠っ

ている人の目に見えるイメージであり、人間の内的分

裂によってのみ可能となるものである。

 もしもこの経験からわれわれ自身へ向けた鍛錬

を、理論的な姿勢の鍛錬を導き出そうとするのであ

れば、それは「撤退の鍛錬」になることだろう。ポジ

ションを取ることなく観察を試みるという鍛錬、「脱

存在の鍛錬」、純粋な観察という領域へと身を投じ

ることで自己を抽出するという道筋、この世のものが

直接われわれに働きかけることを止めた反省のため

の場所。

 不在の状態でわたしがすでに自分を他者として扱

っていないとき、つまり主体が空へと滑り落ちていく

ときには、魂は特別性を失ってすでに自分自身では

なくなっており、自分の外側、エクスターシス【exta-

sis】へと引き抜かれていく。これはなにもわれわれ

が絶え間なく賞賛を喚起すべきものとしての鏡の人

物の立ち姿だけに向けられているわけではなく、無

我夢中という点でなんら状態に相違いのない、実在

しないものを作り出す抽出作業そのものの動きへと

向けられている。エクスタシー【ecstasy】(もしくは

古代ギリシャ語で「自己の外にいること、あるいは立

つこと」を意味する【ekstasis】。ek-は外【out】、

stasisは立つ【stand】に相当する。)とは存在する

ものが「他の場所」でそれ自体を張り詰めた状態で

表現する方法であり、自身を超えた、自身の中の外

面へと向かって引っ張られる。そして思い起こされる

ように、ギリシャ語のエクスターシス【ekstasis】とラ

テン語のエグジステンシア【existentia】の繋がりは

「ここからあちらへ、今から以前、あるいは以降へと

移ろう緊張状態にあるもの」としての存在【exis-

tence】を際立たせる。むろん幾許かの勇気は必要

だろうが、《The Mirror》に突破口を開かせ、緊張

をつたって超越した内部空間へ向けあなた自身が引

き込まれるという実験をさせるということは、いまや

完全な意味での存在することを主張することではな

いだろうか。

ロディオン トロフィムチェンコ

(Frantic Gallery、ディレクター)

となく圧縮されている。ある芸術や道場においては

模倣と反復を通して、構えを内面化するプロセスは日

本で「稽古」、「訓練」や「練習」と呼ばれ、また別称

として「askesis克己/鍛錬」ともいうことができ

る。

フォト/ハイパー/リアリズムを横断しながら

 毛利は鏡に挟まれた合成のイメージを準備するに

あたって数百枚の写真をくまなく調べる。それは皴の

クローズアップまたは眼球の表面の上に反射を捉え

たショットなどである。ただしここでは抽象的な、物

質に注目する、自発へ導かれるスタイルに対置する

ことは意図されておらず、写真というメディアそのも

のの要素を暴いたり損なったりしようというものでも

ない。最後に、写真と間違われ感嘆されたところで、

このドローイングが得るものはなにもないのである。

 イメージの空間はもちろん「オルタナティヴな存

在」を生み出し、現在われわれが経験しているデジ

タルな世界の介在へと繋ぐ洞察力がないというわけ

ではない。しかしながら、イメージに対してわれわれ

がいる側(美術的実践もしくは作品とわれわれの対

峙の側)で何が起きているのかを考察することなくそ

のイメージをもっぱらイリュージョンに基づくものとし

て捉えるのは、ひとことで言えば一方的である。それ

は現実(オリジナルあるいはコピー)かということで

はなく、両者を識別不可にすることも問題でない。

 《The Mirror》を鍛錬の形として知覚された作家

の生活の中で具現化した作品として考えてみるとよ

り多くのことが得られるであろう。つまり外界が切り

離され距離を持ちはじめるという状況で、ひとりぼっ

ちだと気づき、永遠に終わらない課題としての自分自

身を発見するとき…。

 芸術的な創造と製造(「手仕事」「労働」「労苦」

などと認識されている類のもの)の媚びの馴れ合い

の負担がかからない環境で暮らし、ほとんどの時間

をアトリエで過ごすなかで、毛利は鍛錬の日々を過ご

し作品は反復の結果となる。模写の研鑽はつねにゼ

ロから始まるのではなく、それまでの結果を踏まえた

上で創造的なイメージを押し出すプロセスにおいて

生じうる。よりよいものを求め、こうした鍛錬(前のも

のよりも次のものが良くなければならないという連続

的に行う行為として理解される鍛錬)は描かれた

(作家と視覚的に類似性がある)形象のミメーシス

がもつ厳密さおよび、作品の光学的構造の精密さと

その効果を内包している。しかしその後、作家による

作品と作品が生み出す視覚的経験の理解へ、さらに

最終的には概して「芸術家となること」、「魂を掌握

すること」へと移る。このような垂直的緊張状態に

おかれた創造プロセスは「自己表現」、「良い形の

探求」として考えることができ、当然ながらこのイメ

ージのコンテクストにおいてこれらの表現は考察に

値する二重の意味をもつ。禁欲的な鍛錬であるがゆ

えに、内的なジェスチャーは自己の内面で「不可能

性」を求める空間を作り出す。つまり、永久的に自分

を乗り越えようとし、不可能に到達しようとする「自

己の理想像」へと向かう過程で個人を自分自身の主

観化に加わるよう委ねるという自己参照的な関係を

作り出す。《The Mirror》のこちら側で、自己の全体

性、完璧さを掌握する途上で。

自己を引き裂さきながら

とはいえ完璧な統一性におかれた「理想の自己像」

はすり抜けていってしまうものであり、水に落ちた涙

が水面を乱すように、鏡の表面は割れ、ヒビが透明な

面を網目化しながら放射線状に広がっていく。すると

もはや、われわれと鏡の関係には分離の裂傷と同時

に乗り越えられない二重性が存在している。全体性

はわれわれから閉ざされるかのように掴む前に破壊

されてしまうのだが、ここで強調されるべきはそれが

個から多へと通じる通路をも生成するということであ

る。当初はひとつのものをふたつにする方法を解き

明かした鏡は反射の切断が起こることを抑制し、分

裂した身体を「自己」のかけらの星座へと変えてい

く。反射のエコーは無限の距離を置きながら分裂し

たキャラクターを拾いあげ、背中を無傷のまま残す

が、それから罰を与えるかのように目を二つに引き裂

く。背中か裂けた目か、どちらかが際限なく繰り返さ

れる。「それは正確に描かれたわたしであるものでは

ないし、必ずしもわたしがこうなりたいというものでも

ない。」ということが彼自身のイメージの意味と究極

の美術作品という企てというふたつの意味において

毛利の鏡を割っている。またあらゆる人間の世界に

対して深く傷ついた関係性の表明として、それはつま

りわれわれ「個人としての」存在証明である。そこに

はなにも「最後のイメージ」はない。

 不足が作家を駆り立て、割れ目が根拠となり、距

離と分裂が高みへと押し上げる。そして毛利はアトリ

エへと戻り、この練習で得たものを次の表現の試み

へと還元していく。彼は別の試み、完全な形態への

次なる試みの反復のなかに呼び覚まされる。

反射のための空間から反省のための空間へ

 鏡に挟まれた空間は催眠を誘発し、危険ですらあ

る。その空間は誤認識を引き起こしながら、閉ざさ

れた錯覚の深みへと同一性に沿って引きずられる。

その自己参考的な性格は暖かい浴槽のように見る者

Page 5: s ' i Taisuke Mohr The Mirror - Frantic Gallery ' i Taisuke Mohr ” The Mirror “ at “Personal Structures” European Cultural Centre, Palazzo Mora, Venice, Italy May 13th - November

パウダーから鏡へ

 変身は媒体とともに始まる。毛利はわれわれがも

のの痕跡として知覚しているものに非常に近い物質

である黒鉛を使用する。それはシミを残し、われわれ

が「何か」が「何もなく」なることを示すために指の

間に擦り込んでみせるもので、灰と関連した物質であ

り、縮めることのできない物理的な現実の残痕であ

る。まずこの物質-自分を無形だが可視に残るもの

としようとしている物質-は点や線あるいは形に組

み込まれることよりも架空の空間へ再加工される。

つまり物理的現実にはめ込まれた、互いに向き合う

鏡の間に開かれる想像的な空間ということである。

この距離の開口部は、光学の法則と一致する構造に

基づく、無限に走る反射の間の目の再帰的な動きに

よって支えられ、増幅され、広がっていく。これは想

像できることにしても、存在しえないもののためであ

る。まさにこのときに、視覚体験は「ここ」と「そこ」に

否応なく引き裂かれ始める。

 しばしば、美術作品は私たちの中心を消失させる

という。美術作品はわれわれが支配者的立場から捉

えている視界に介在する線をへし折ってしまう。ただ

し《The Mirror》の場合は必ずしもこの通りではな

い。このイメージ-なにはともあれまだイメージであ

るところの-は、多少はあなたを当てにしている。も

しあなたに対面する気が起きないとしても、内的一

貫性のために作品正面の前の基本的なポイントにも

たれかかったままだ。これをさらに明確にするには

《The Mirror》を右左に拡張すると想像して同じ場

所に留まりながら回転しているところを思い描いてみ

るといい。すると《The Mirror》はあなたをとり囲み

ながら反対側と繋がって軌道を生む。あなたはドー

ナツのようなトーラス状円環の中にいることに気づく

だろう。ど真ん中でありながら、外側であるところ

に。中心がないわけではない。ご覧の通り、ただ…空

洞なのである。かつてロラン・バルトは東京につい

て、都市の核にある皇居という立ち入ることのできな

い「空の」場所についてこんな記述をしたことがある

と思いだす。それは内的外面性を引き起こしながら

その周りに「民族的円環」を固め、維持しうる位置で

あると。

 それゆえに、空洞は遮断されながらも機能するの

である。西洋のパースペクティヴに戻してみると、空

間は消失点をめぐって構築される。つまり唯一の死

角は盲点が観者の居場所に固定されているというこ

とである。観者こそが盲点なのだ。そのため毛利は

彼自身を乗り越え(全体の中に全体自体と一致しな

い部分があるので)、自分の外見とともに内的にひっ

くり返された反射と同一性のヒエラルキーを作りだ

す。

構えをもった形象

 まったく予想外というわけではないが、鏡の反対

側でわれわれは完全さを追求するものを-それ自体

を観察しながら-発見する。「中」(「中性」の「中」

的意味合いである)に吊るされた何物かとしてではな

く、統一させる力、収集させる存在、反対側と合わさ

りながら同時に先端を削り取るものとして。その目を

のぞいてみるといい。それはこう言っている…「あな

たは私が言おうとしていることを知っているでしょ

う?」そして、ほら…「なにも知らないじゃないか!」

と。

 さらに矛盾を孕んだ-日本では多くの美術の形態

に内在している-取り去ることでより多くを生成する

という方法がある。日本の俳句のように要素を単一

のユニットとして引き出し、それを要素と連結の最小

限まで凝縮したものは長くならない、そう、単に長い

句にはなり得ないのだ。折りたたんだ扇子のように

折りたたまれた形でイメージを持ち、常に開かれた

形態の逆遠近法から太陽と月を解放する準備がで

きている。(扇子を折りたたむことは、世界そのもの

を収縮させることである。)北斎の描いた、くだけよう

としているかのような波は静止した動きを切り取ら

れ、一瞬で出来うる限りの波の動き、さらにはその間

隔、波の時間までをも捉えている。多数の反対側を

統一へと誘うさまざまな手法である。

 この爆縮的な実践が人間と関連づけられると、身

体的、心理的感覚の両面から「構え」と呼ばれる。

武道、舞台芸能、花道のいずれも、構えをとることは

いかなる動きも可能にするというだけでなく、全ての

動きが起きているところに到達することを意味する。

構えは静的なものでも瞬間的なものでもなく、具体

的なフォームを固定するのは実戦を交える相手や物

語上の表現を握っている相手がいかに正確に一手を

打つかにかかっている。鏡の中の形象はこうした構

えをとっており、見るという行為の従事者が選択する

方向へと動く準備をして両極端のポジションをとるこ

を包み、外的な対象と現実から自動的なエロティシ

ズムへ連れ去る。これはそれ自体への反射であり、

同時に私自身への反射でもある。つまりイメージが

わたしに代わって振る舞いをし、私はまるで私がイメ

ージであるかのように振る舞うということである。

 しかし同時に、それはそもそも真実への欲望を起

こすのと同じ分裂である。内省、意識の内部、「反省

のための空間」を開くのだが、それは言い換えれば

熟慮、反省的理論のための空間なのだから。仮に単

純な同一化のためのものではなく、空間そのものを

対象として有してみるとどうだろうか。つまり鏡のステ

ージにたぶらかされてひきずりこまれるのではなく、

それがイメージであると知りながら「表象」そのもの

を現象として考察することである。つまり、ここで問

題となるのはいかに見かけを乗り越えるかではなく、

見かけとはいかにして可能になるのかである。誤りは

個人が自分自身との親密さを精査する替わりにこう

したイメージに現実味を与える瞬間にたやすく現れ

る。

このように一歩引いて対峙することが不可欠となる

が、その対峙はイメージ自体とではなく、継続させな

がらまさしく《The Mirror》の作り出す欠落とその周

囲の構造とである。同一性を暗い想像上の深みに沈

めようとしたり、いわんやカルト的立場とその結果生

まれる崇拝から作品へアプローチしてはならない。一

方、察知したり薄目で見たり作品の不穏なネガティブ

さを避けることはないし、いわんや単なるポートレー

トのように捉えるのはありえない。快楽の道でイメー

ジへと滑り込むことなく、一方でたえられない享楽に

逆らうこともなく、ただ作品の矛盾した構造と視覚的

に生成するダイナミックさに向き合うのである。それ

はわれわれの主観がもつ矛盾を反映しようとする試

みのはずである。そしてこれこそが《The Mirror》が

意味を作り始める唯一の時である。

エクスタシー

 この場合、《The Mirror》は「われわれが考えると

き、われわれはどこにいるのか」という問いに自分な

りに答えてくれるだろうか。すなわち、われわれが周

囲の現実に気をとられることなく夢中で思索にふけっ

ているとき、まるでここにいるのに同時にどこか別の

場所にいるような…しかし一体どこなのだろうか

…。

 こうした自発的な態度は、別の非存在であり想像

的な次元に広がる反省のための空間へと移る能力を

もった思考者の自己に没頭する「不在」の状況を視

覚化しはしないだろうか。こちら側の不在とあちら側

での内的作業への没頭は鏡の密度と一貫性によって

供され、想像界を通じて思考と理念という象徴界の

次元へと展開される。「宙吊りになった生命」、ここ

にいることの宙吊りであり、「他の場所」で連続した

思考をめいっぱい働かせるためなのである。

 最後にイメージの前面で「不在」という状態と概し

て構造の非対称をもう一回見てみよう。ここからこそ

毛利の作品と写真(現実のイメージを、その観察を

行ったカメラ/目と主体なしで提供するものとして)

の関係性へと反映させてみる意味があり、そして

《The Mirror》と夢の性質の類似性へと向かうこと

になる。夢は見るもののいない状態で見られ、眠っ

ている人の目に見えるイメージであり、人間の内的分

裂によってのみ可能となるものである。

 もしもこの経験からわれわれ自身へ向けた鍛錬

を、理論的な姿勢の鍛錬を導き出そうとするのであ

れば、それは「撤退の鍛錬」になることだろう。ポジ

ションを取ることなく観察を試みるという鍛錬、「脱

存在の鍛錬」、純粋な観察という領域へと身を投じ

ることで自己を抽出するという道筋、この世のものが

直接われわれに働きかけることを止めた反省のため

の場所。

 不在の状態でわたしがすでに自分を他者として扱

っていないとき、つまり主体が空へと滑り落ちていく

ときには、魂は特別性を失ってすでに自分自身では

なくなっており、自分の外側、エクスターシス【exta-

sis】へと引き抜かれていく。これはなにもわれわれ

が絶え間なく賞賛を喚起すべきものとしての鏡の人

物の立ち姿だけに向けられているわけではなく、無

我夢中という点でなんら状態に相違いのない、実在

しないものを作り出す抽出作業そのものの動きへと

向けられている。エクスタシー【ecstasy】(もしくは

古代ギリシャ語で「自己の外にいること、あるいは立

つこと」を意味する【ekstasis】。ek-は外【out】、

stasisは立つ【stand】に相当する。)とは存在する

ものが「他の場所」でそれ自体を張り詰めた状態で

表現する方法であり、自身を超えた、自身の中の外

面へと向かって引っ張られる。そして思い起こされる

ように、ギリシャ語のエクスターシス【ekstasis】とラ

テン語のエグジステンシア【existentia】の繋がりは

「ここからあちらへ、今から以前、あるいは以降へと

移ろう緊張状態にあるもの」としての存在【exis-

tence】を際立たせる。むろん幾許かの勇気は必要

だろうが、《The Mirror》に突破口を開かせ、緊張

をつたって超越した内部空間へ向けあなた自身が引

き込まれるという実験をさせるということは、いまや

完全な意味での存在することを主張することではな

いだろうか。

ロディオン トロフィムチェンコ

(Frantic Gallery、ディレクター)

となく圧縮されている。ある芸術や道場においては

模倣と反復を通して、構えを内面化するプロセスは日

本で「稽古」、「訓練」や「練習」と呼ばれ、また別称

として「askesis克己/鍛錬」ともいうことができ

る。

フォト/ハイパー/リアリズムを横断しながら

 毛利は鏡に挟まれた合成のイメージを準備するに

あたって数百枚の写真をくまなく調べる。それは皴の

クローズアップまたは眼球の表面の上に反射を捉え

たショットなどである。ただしここでは抽象的な、物

質に注目する、自発へ導かれるスタイルに対置する

ことは意図されておらず、写真というメディアそのも

のの要素を暴いたり損なったりしようというものでも

ない。最後に、写真と間違われ感嘆されたところで、

このドローイングが得るものはなにもないのである。

 イメージの空間はもちろん「オルタナティヴな存

在」を生み出し、現在われわれが経験しているデジ

タルな世界の介在へと繋ぐ洞察力がないというわけ

ではない。しかしながら、イメージに対してわれわれ

がいる側(美術的実践もしくは作品とわれわれの対

峙の側)で何が起きているのかを考察することなくそ

のイメージをもっぱらイリュージョンに基づくものとし

て捉えるのは、ひとことで言えば一方的である。それ

は現実(オリジナルあるいはコピー)かということで

はなく、両者を識別不可にすることも問題でない。

 《The Mirror》を鍛錬の形として知覚された作家

の生活の中で具現化した作品として考えてみるとよ

り多くのことが得られるであろう。つまり外界が切り

離され距離を持ちはじめるという状況で、ひとりぼっ

ちだと気づき、永遠に終わらない課題としての自分自

身を発見するとき…。

 芸術的な創造と製造(「手仕事」「労働」「労苦」

などと認識されている類のもの)の媚びの馴れ合い

の負担がかからない環境で暮らし、ほとんどの時間

をアトリエで過ごすなかで、毛利は鍛錬の日々を過ご

し作品は反復の結果となる。模写の研鑽はつねにゼ

ロから始まるのではなく、それまでの結果を踏まえた

上で創造的なイメージを押し出すプロセスにおいて

生じうる。よりよいものを求め、こうした鍛錬(前のも

のよりも次のものが良くなければならないという連続

的に行う行為として理解される鍛錬)は描かれた

(作家と視覚的に類似性がある)形象のミメーシス

がもつ厳密さおよび、作品の光学的構造の精密さと

その効果を内包している。しかしその後、作家による

作品と作品が生み出す視覚的経験の理解へ、さらに

最終的には概して「芸術家となること」、「魂を掌握

すること」へと移る。このような垂直的緊張状態に

おかれた創造プロセスは「自己表現」、「良い形の

探求」として考えることができ、当然ながらこのイメ

ージのコンテクストにおいてこれらの表現は考察に

値する二重の意味をもつ。禁欲的な鍛錬であるがゆ

えに、内的なジェスチャーは自己の内面で「不可能

性」を求める空間を作り出す。つまり、永久的に自分

を乗り越えようとし、不可能に到達しようとする「自

己の理想像」へと向かう過程で個人を自分自身の主

観化に加わるよう委ねるという自己参照的な関係を

作り出す。《The Mirror》のこちら側で、自己の全体

性、完璧さを掌握する途上で。

自己を引き裂さきながら

とはいえ完璧な統一性におかれた「理想の自己像」

はすり抜けていってしまうものであり、水に落ちた涙

が水面を乱すように、鏡の表面は割れ、ヒビが透明な

面を網目化しながら放射線状に広がっていく。すると

もはや、われわれと鏡の関係には分離の裂傷と同時

に乗り越えられない二重性が存在している。全体性

はわれわれから閉ざされるかのように掴む前に破壊

されてしまうのだが、ここで強調されるべきはそれが

個から多へと通じる通路をも生成するということであ

る。当初はひとつのものをふたつにする方法を解き

明かした鏡は反射の切断が起こることを抑制し、分

裂した身体を「自己」のかけらの星座へと変えてい

く。反射のエコーは無限の距離を置きながら分裂し

たキャラクターを拾いあげ、背中を無傷のまま残す

が、それから罰を与えるかのように目を二つに引き裂

く。背中か裂けた目か、どちらかが際限なく繰り返さ

れる。「それは正確に描かれたわたしであるものでは

ないし、必ずしもわたしがこうなりたいというものでも

ない。」ということが彼自身のイメージの意味と究極

の美術作品という企てというふたつの意味において

毛利の鏡を割っている。またあらゆる人間の世界に

対して深く傷ついた関係性の表明として、それはつま

りわれわれ「個人としての」存在証明である。そこに

はなにも「最後のイメージ」はない。

 不足が作家を駆り立て、割れ目が根拠となり、距

離と分裂が高みへと押し上げる。そして毛利はアトリ

エへと戻り、この練習で得たものを次の表現の試み

へと還元していく。彼は別の試み、完全な形態への

次なる試みの反復のなかに呼び覚まされる。

反射のための空間から反省のための空間へ

 鏡に挟まれた空間は催眠を誘発し、危険ですらあ

る。その空間は誤認識を引き起こしながら、閉ざさ

れた錯覚の深みへと同一性に沿って引きずられる。

その自己参考的な性格は暖かい浴槽のように見る者

Page 6: s ' i Taisuke Mohr The Mirror - Frantic Gallery ' i Taisuke Mohr ” The Mirror “ at “Personal Structures” European Cultural Centre, Palazzo Mora, Venice, Italy May 13th - November

Exhibition Title

Dates

Opening reception

Venue

Address

Exhibition URL

Venue URL

Frantic Gallery

Contact

“Personal Structures”

2017 May 13 (SAT) – November 26 (SUN)

2017 May 11 (THU) and 12 (FRI)

European Cultural Centre, Palazzo Mora

Strada Nuova #3659 30121 Venice, Italy

www.personalstructures.org

www.palazzomora.org

www.frantic.jp

[email protected]

154-0001 Japan, Tokyo

Setagaya, Ikejiri 2-4-5 IID 309 C

w w w.europeanculturalcentre.eu

Taisuke Mohri’s “The Mirror”

3 O-Young Lee“Less is Better. Japan’s Mastery of The Miniature”transl. Robert N. HueyKodansha International1984 (or. 1982)192p.

6 Julia Kristeva“Tales of Love”transl. L. S. RoudiezColumbia University Press1987 (or.1983)414p.

7 Peter Sloterdijk“The Art of Philosophy. Wisdom as Practise”transl. K. MargolisColumbia University Press2012 (or.2010)107p.

4 Peter Sloterdijk“You Must Change Your Life”transl. W. HobanPolity Press2013 (or.2009)503p.

5 Oliver Harris“Lacan’s Return to Antiquity. Between Nature and The Gods”Routledge2017213p.

1 Stephen Bann“The True Vine. On Visual Representation and Western Tradition”Cambridge University Press1989286p.

2 Jean-Pierre Dupuy“The Mark of the Sacred”transl. M.B. DeBevoiseStanford University Press2013 (or. 2008)214p.

1070 Belgium, Brussels

Anderlecht, Rue d’Aa 32 B


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