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Title 東林黨考(一) - 淮撫李三才をめぐって - (創立五十周年記 …...林東 貰...

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33
Title 東林黨考(一) - 淮撫李三才をめぐって - (創立五十周年記 念論集) Author(s) 小野, 和子 Citation 東方學報 (1980), 52: 563-594 Issue Date 1980-03-15 URL https://doi.org/10.14989/66577 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University
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Page 1: Title 東林黨考(一) - 淮撫李三才をめぐって - (創立五十周年記 …...林東 貰 考 ‖ 涯-撫李三才をめぐって-野小 和 子 は じ にめ (1) 『東林鮎描線』というものがある。天啓年間、閣裳の王解散が、栗林涯の人物を選んで『水溶俸』中の豪傑百八人に比定し

Title 東林黨考(一) - 淮撫李三才をめぐって - (創立五十周年記念論集)

Author(s) 小野, 和子

Citation 東方學報 (1980), 52: 563-594

Issue Date 1980-03-15

URL https://doi.org/10.14989/66577

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 東林黨考(一) - 淮撫李三才をめぐって - (創立五十周年記 …...林東 貰 考 ‖ 涯-撫李三才をめぐって-野小 和 子 は じ にめ (1) 『東林鮎描線』というものがある。天啓年間、閣裳の王解散が、栗林涯の人物を選んで『水溶俸』中の豪傑百八人に比定し

-

涯撫李三才をめぐって

-

(1)

『東林鮎描線』というものがある。天啓年間、閣裳の王解散が、栗林涯の人物を選んで

『水溶俸』中の豪傑百八人に比定し

たもので、昔時騰勢をほこった官官貌忠賢に戯じられた。貌忠賢はこのブラック。リストにもとづいて東林涯の主要メンバー

一網打轟にし、

一人としてその構いを逃がれ得たものはなかったといわれている。

この

『東林鮎滞銀』の開巻第

一人が'開山元帥托塔天王南京戸部筒書李三才である。托塔天王とはいうまでもなく'侠気の

庄屋で梁山泊の創始者となった晃蓋であるが、彼は

『水蔚俸』中の重要人物でありながら、厳密にいえば膏八人中の豪傑には

教えられていない。このために'文革中、

『水溶停』が晃蓋を百八人の中に数えなかったのは、宋江の投降主義路線を宣揚す

(2)

るためだ、などの議論が行なわれたことは記憶に新しいが、李三才もまた東林涯の人物としては、きわめて問題の多い人物で

あった。後述するように、彼が個人遺徳に於て敏ける鮎のあったことは事賓であ-'その彼との連合が、東林涯にとって必ら

ずLも有利に作用しなかったとい-事情もあって、東林涯の側からするまとまった記銀は願意成の

『自反銀』以外には存在し

(3)

ない。その著書

『無無目欺堂稿』『讐鶴軒集』『誠恥錬』は、既に明末に失なわれてなく

顧憲成ら東林涯の人びとが序文を寄

3:

五六三

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(4)

(5)

せた

『漕撫小事』も今はみることができない。また俸記の額は乏し

-

誌銘もない。

五六四

王紹微の

『東林鮎婿錦』が編纂された時'東林涯の指導者願意成は既に残して亡いが'その他の静

々たる東林涯の指導者た

ちを却けて、この

ラック

・-スIの第

1人に擬せられた李三才とは

一腹いかなる人物であろうか。私はいずれ明末三朝、さ

らには南明の'図がまさに亡びんとする時まで'挺艇と綬いた東林涯と反東林涯の薬事を中心に'この時期の政治過程を歴史

(6)

的に跡づげ、明未満初の奨草との関係においてこの薬事のも

った歴史的意義を論じたいと考えているが'本稿はその基礎作業

一として'寓暦三十年代における政治的焦鮎の

一つであ

った推撫李三才の問題を取上げ'李三才と東林涯との関係を論じて

その政治的位置をあきらかにしようとするものである。

\-ノ▲.し(7

)

李三才

(?

l六二三

)'

字は遺甫'親は修吾、粗は駅西臨壇に住んでいたがtのち北直通州張家湾に移

った。いうまでも

な-通州は'明代漕運の重要な地鮎であ-、南方から輸迭されて-る漕糧はここで陸上げされて通倉もし-は京倉に逸られた。

父某

(字は徳潤、既は次泉)は'この通州で商業を営んでいたらしい。父の穀後十数年、李三才の委嘱を受けて沈鯉-

東林

(8)

涯の閣臣-

の書いた

「明封率直大夫戸部雲南満更司員外郎次泉李公神道碑銘」は次のようにいう。

「(公は)生まれながらにして弄

(罪?)を好まず。初め偏を業とするも就らず'乃わち棄て去-て賓を業とす。然れども

その好には非ざるな-。嘗って市に入りて布を市る。四に八を得。蹄-て其人の誤るを知るや'飯に及ばずして走

きて之

おと

を還す。又た道に遣金五を拾うや'之を門に懸けて以て遺

し者を待つ。竃も隠す所なかりき。是時'公、正に貧なれば、

尤も人の難き所なりと云う。」

これによれば父は布などをも扱かうさほど豊かでない商人であった.その肩書も子三才の故を以て封滑されたにすぎず'彼

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自身は生涯を市井の一商人として終えた。父以前にさかのぼっても官僚はいない。

この両道碑銘はまた

「遣甫、進士となり戸部主事を授けらる。部商に里人多し。公の閲に居ることを望まざるはなきも'公は

一切を謝絶した

り」

と俸える。部商とは戸部出入りの商人のこと、通州張家督という交通上の要衝からすれば'李三才が積極的に商人たちの利益

追求を援助しなかったとしても、彼らと密接なつなが-のあったことは十分想像されることである。

李三才は寓暦元年

(一五七三)'郷試に合格した。座師はのちの首輔王錫宙である。

後述のごと-李三才は

王錫欝の密鴇を

暴露してその再出馬を阻むことになるのだが、この彼に勤し'王は昔時'非常な好意と期待を寄せていた。沈徳符は

「李は墨

(9)

江の巽西の郷試の門生たり。師弟、最も相得た-」と述べている。

(10)

翌二年

(一五七四)、進士に合格へ戸部主事となったが'棺遅れて願意成も進士に合格し、

戸部主事となった。

李三才と願(ll)

意成の関係はこの時に始まる。年齢的にはほぼ同年輩であったかと思われる。普時'戸部には安土昌、通商星も在任していて

東林涯の人脈が徐々に形成されつつあった。

彼はまたこのころ、魂允貞'李化韻とも相互に経世済民を論じて深い交わりを結んでいる。

(12)

寓暦

一一年'この友人の貌允貞が

「救弊の四事を保険し'採納を賜わりて以て治道を治めんことを乞うの疏」を奉って左遷

された。上疏は次のようにいう。

「(蘇)居正、柄を窃みてより、吏

・兵の二部の遷除は必らず先に関白せしむ。故に用いる所は悉-その私人な-。陛下'

宜しく輔臣とともに二部の長を精察Ltその職事を以て之に蹄せられよ。輔臣をして部臣の櫓を侵してその私を行なうを

たゞ

得ず'部臣も亦た輔臣の閲に乗じて以て白からその私を行なうを得ざらしむれば則ち官方'白から粛されん。

(張)盾正

あいつ

/た

の三子、速

で割科に登りてより、流弊は今に迄

も己

まず。論うら-は今よ-輔臣の子弟の中式は'致政の後を保ちて

3:

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始めて廷封を許さるれば'倖門'稽'杜さるべし。」

周知のように'明の大観は洪武十三年に丞相を贋止したのだが'成租の時代になって内閣が創設された。成租は纂奪によっ

て成立した政権であった馬へ自ら信頼し得る私人を'機務に参興せしめなければならなかったからである。機務に参輿すると

はいうものの'営初'閤臣自鰹は猪立の官ではな-、多-のばあい翰林院の兼官であった。官位も極めて低かった。ところが

仁宗いご閤臣の地位は漸次高ま-'嘉靖年間に至って蓬に宮廷内席次は六部の上におかれることになった。その首輔は

「赫然

たる虞宰相」として

「六卿を歴制」するまでになったのであるOこの内閣の催限強化と六郡に封する歴迫は'張居正に至って

絶頂に達した。と-に吏部に射して大計

(勤務評定)を通じてその支配が強化され、官僚の人事移動に普

っては'吏部が

一々

(13)

内閣にその諒解を求める

(これを請敏ともい-)ことが行なわれるようになった。こうなれば'官僚のボス-は'否鷹な-内

閣に私物化されることにならざるを得ない。魂の上奏が行なわれた時'張居正は既に残して亡かったが'彼はこのような内閣

の権限強化と、その権限を利用した内閣の人事権支配に強-反封したのであ

った。

だが、魂允貞のこの上奏が行なわれたのは'あたかも閣臣張四経の子甲徴と'同じ-閣臣申時行の子中用懲らが延封を受け

ようとしていた矢先のことであ

った。内閣は強-これに反摸し'張四経と申時行が反論に立

ったが'結局この上奏によって閣

臣の在任期間中、その子弟は登第しないということになったのである。だが紳宗は魂允貞の非難が過常であることを責めて彼

を左遷した。この時、李三才もまた魂允貞に封する虞分の不普性を論じて山東東昌府推官に左遷されている。内閣の権限強化

を批判する潮流のなかで、彼がこのような虞分を受けていることは注目されてよい。

李三才はこののち南京薩郡主事に韓じた。同じ頃'魂允貞は南京吏郡に'李化確は南京工部に韓じた。のち東林涯の人物と

-つわ

して知られる鄭元標もこの時期、南京刑部にお-、彼らはしばしば「鋲

連らねて出遊」Ltあたかも

「列仙」のごと-に人

(Ty.i)

びとに仰ぎみられた'という。ついで'李三才は'山東余事'河南参議'同副使、山東畢政、山西畢政、南京通政参議、大理

寺少卿を歴任する。この間'彼の政治的手腕を買

った王錫醇が'幕中に招曙したこともあるが'これを拒んでいる。

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常時、政界をゆるがせていたのはへ所謂囲本論である。そもそも紳宗は鄭貴妃を愛するあまり'貴妃の子自Wl二子常泡を皇太

子にしたいと考え'皇長子常洛の立太子をなかなか肯んじなかった。内閣の側はこのとき、首輔申時行は碑宗に決然たる態度

がとれず、次輔王錫醇も両宗の意を迎えて≡王位封を董策する。皇長子常洛'皇三子常淘'皇五子常浩を取りあえず王に泣び

封じ、太子の決定を

一時的に延期しょうとするものである。この立太子問題をめぐっての論争とそれにつづ-大計を通じて、

東林涯と反東林涯の封抗関係が形成されてゆ-のだがへこうしたなかで李三才がかつての座師王錫宙に封し、批判を深めてい

ったことは想像にかたくない。

(15)

ついでおこったのが'寓暦の悪政としてあま-にも名高い蹟税の俊の涯達である.寓暦二十四年

(一五九六)のことであっ

て、炎上した宮中の雨宮三殿復興の籍と科し、磯山開豪と商税徴収に大量の官官を各地に涯遷したのである。

横山の開護についていえば'昌平には王忠へ異

・保

・荊

・永

・房山

・蔚州には王虎'昌賓には田進、河南の開封

・彰徳

。衛

・懐慶

。菓厭

・信陽には魯坤へ山東の済南

・育州

。済寧

・折州

・謄

・蓬莱

・費

二帽山

・棲霞

・招遠

。文登には陳埼'山西の

大原

・卒陽

・瀞安には張忠、南直の寧図

・池州は都隆、劉朝用'湖贋の徳安には陳奉、断江の杭

・蕨

・金

・衛

・孝豊

・講堂に

は官金、のち劉患う駅西の西安には超望、超飲、四川には丘乗雲、遼東には高涯'虞東には李敬、贋西には沈永幕'江西には

港相へ両建には高来、雲南には楊条が派遣された。

商税の徴収についていえば'李三才の郷里通州に涯遣されたのが最初であ-、いご前記碗山監督の官官に、それぞれの地域

における商税の徴収をも兼任させ、あるいは別個に憧官を涯遥している。

これら官官の下には'それぞれ百人から時には千人にも及ぶ手下がつきしたがっていておよそ法を無配した徹底した諌求が

おこなわれた。篠山であるかどうかは問わない。商人であるかどうかは問わない。すべてのものが収奪の封象となった。礁

税はその収奪の馬の単なる名目にすぎなかった。田大益は

「内臣は務めて劫奪をなして以て上に麿じ'硬を求めては穴にせず'而して税は必らずLも商にせず。民間の邸陳粁階は

3:

五六七

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(捕)

皆碗な-。官吏

・農

・工は皆入税の人なり。公私'騒然として脂膏'琴褐せり」

五六八

と述べている。その総量は二五年から三三年の八年間だけでも三百寓雨に近かったというが'この数字は公式に政府に送られ

たほんの一部であって'賓際にはこれに数倍する銀が'恒官や手下に中間搾取されていたのである。

しかも涯遺された怪官たちは、たんに経済的収奪を行なったのみではなかった。彼らには皇帝に親展の手紙を奉ることが許

されていて'その活動を妨害するものに封しては候借ない虞罰が課せられた。地方官吏の免職さえ思いのままであった。官僚

と人民の生殺輿奪は'皇帝が私的に放

った徴税人であり且つスパイでもあ

った彼ら宵宮の手に完全に掌握されていたといって

よい。それは皇帝の私的横力の異常なほどの肥大化であ

って、公的横力としての官僚機構はこれによってもはや正常な機能を

麻痔せしめられるまでに追いつめられていったのである。

この碗

・税に射して民愛と稀せられる民衆反乱が各地で激し-たたかわれたことは周知の事賓だが'外延も亦たこぞ

ってこ

の暴挙に反対した。こうしたなかでも

っとも果敢に活動したのが李三才であ

った。

李三才は二十八年六月丁丑'都察院右愈都御史巡撫鳳陽として'

(彼が漁撫とよばれるのは'鳳陽のほか、准安揚州等の府

そむ

をも管轄した為である)

「政乱れ'民

'目撃すること虞に切なれば聖明もて天を承け組を思い'之を水火より救われて以

(t--)

て白から君道を轟-されんことを懇い乞うの疏」を奉

ったが'これに封しては何の沙汰も下りなかった。博聞するところによ

(18)

れば'紳宗は上奏文が碗

・税に関わるものであれば

「高閣に束ねて

T切之を省-みない」とのことである。彼は七月英丑'重

ねて

「寓民の塗炭'己に極まれば'省覚を賜わ-以て天下を救われんことを乞うの疏」を奉

った。彼はこの二つの上疏のなか

'一種の君臣論とでもいうべきものを展開する。

彼によれば

『書経』では

「天の観るは我が民の視るにより'天の聴-は我が民の聴-による」といっているが、これは民の

観取とは天の観聡に他ならぬことを主張したものである。天子はしたがって民が心に考え口に宣べて語

ったことを決して拒ん

ではならない。民は弱かる.I(き存在でもなければ'虐げらるべき存在でもない.「天'下民を佑け'之が君と為す」

(『書経』

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泰誓)とrr,ぅ鮎からいえばなるほど君主は

「民の主」ではあるが

「丘民に得て天子と偽る」(『孟子』垂心)という鮎からいえ

ば'民は

「君の主」である。

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

「故に刑を省き'数を蒋うLへ之を観ること傷むが如-'之を愛すること子の如-して人主は能-官姓の主たり。然る後、

ヽヽヽヽヽ

ヽヽヽヽ

たつと

ヽヽヽヽヽヽヽ

奔走して侮-を禦ぎ'尊んで元后と為し、戴きて父母となし'百姓も亦た長ばれて人主の主と偽る。

つまり、君主が人民の利益を擁護してこそ'

「百姓の主」=人民の主人たりうるのであ-'且つまた人民も

「人主の主」=君主

の主人たりうることを主張する。人民こそが君主の主人なのだ。

このようにして彼は'主構は人民のものであ-'君主植成立の根接もまた人民の側にあることを主張するのである。われわ

れは黄宗義の

『明夷待訪錬』における

「古えは天下を以て主となす'

君を客となす」(同書

原君)

という言葉を想起するで

あろう。

あるいはまた次のようにもいう。天子の位は天が托した位である。天が大位を托した以上'崇高富貴をどうして天子個人が

滞占することがあってよかろうか。天子というのは'天に代って寓民を子とするの謂であって、塞がっているものに着物を興

え飢えたものに食物を興え'人民が

一人としてその所を失なうことのないようにするのが'寓民を子とするものの責任である。

また'天下というものは'天子の阻宗が托されたもので'大敵高皇帝より代代侍えられたものだが'大観の興起はいかにし

て可能だったか。元の政治が素乱し'あ-なき苛放課求が行なわれたが馬に'人民はとうていこれを耐えしのぶことはできな

かった。そこで天下を大敵に托したのである。この委托を受けて大敵は剣をとって立上り天下を平定した。この租宗の大銃を

俸えられたのである以上、崇高富貴を皇上の

一家が猪占することがあってよかろうか。嗣君というのは、この租宗の大統を嗣

いで民の主となることである。塞がっているものに着物を興え、飢えたものに食物を輿え、人民が

一人としてその所を失なう

ことのないようにすることが'民に主たるものの責任であるへという。ここには、元

・明の鼎草を革命として捉え'その革命

政倍の湛承において今日の君主構成立の根襟をみようとする彼の立場がある。

H

五六九

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五七〇

しかし天子が天に代

って寓民を子とLt組宗をついで宗社を保つとはいっても'天子

一人の力ではとうてい天下を治めうる

ものではない。そこで官を設けたのであって'巡撫とは

一地方の人民を安撫するもの'巡按というのは

一地方の人民を按察す

るものである。それでもなお且つ人民が害なわれることあるを恐れて'知府

・知州

・知願を設けた。官とはつまり天子の責任

を分轄するはずのものである。

しかるに君主と官僚の現寛はどうか。

「表れ、民心の離反は'臣、今'論ずるに暇あらず、社積の安危は敢えて論ぜず。滞り念うに皇上は天が托するに司牧の

かえ

任を以てするに乃るに甘んじて帯魁の撃をなされ'租宗が偉うるに安養すべきの衆を以てするに

って此のごとき流亡の

禍に隈らしめらる。清宮'静夜に試みに

1たびこれを思われよ。聖心'忍ばるる乎'忍ばれざる乎。安んぜらるる乎'安

んぜられざる乎。臣は決して忍ばれず'且つ安んぜられざるを知る。それ

(皇上)

一人の心は千寓人の心な-。皇上'珠

玉を愛せらるれば'人も亦た曝飽を愛す。皇上、寓世

(の子孫)を憂えらるれば'人も亦た妻挙を憩う。奈何せん。皇上

は黄金の北斗の栖よ-も高きを愛され'百姓には糠枇升斗の儲あらしめず'皇上は子孫千年高年の計をなさんと欲して'

百姓には

一朝

一夕の計あらしめざるなり。試みに往籍をみるに朝廷か-の如き政令あり、天下か-の如き景象あ-て乱れ

ざるものあらんや。」

痛烈な君主批判である。ここでは彼はもはや君主が聖人であることなどを期待してはいない。「珠玉を愛し」「寓世(の子孫)

を憂うる」ご-あた-前の人間としてとらえ'その君主のあたり前の人間の情を百姓にもみとめて、その欲望を達成すること

(19)

をさせないならば、革命はもはや必至であることを述べているのである。

この君主の責任を分轄す',(き地方官もまた'君主の私的利益の馬めに専ら碗

・税に奔走しているのが現資である。

つね

「今'(疎

。税についての)采抽踏勘には'供に撫按を合し'少も異同あれば'動に切責を被る。起解徴収は各司に委任し、

駕言を阻擁すれば便わち逮繁を被る。是れ上は皇上よ-下は撫按百司に至るまで碗

・税の籍に計るにあらざるはなし.故

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に臣等を謂いて

(巡撫でな-)巡擾となすは可な-。(巡按でな-)巡害となすは可なり。(知府

・知州

。知願でな-)釈

を知し'硯を知Lt堕を知すとなすは可な-。豊に上天'皇上に託する所以の意ならんや。山豆に租宗'皇上に授-る所以

の意ならんや。亦た山豆に皇上の設官命名する所以の意ならんや。」

こうして彼は'旗

・税の桶の具鰹的状況に及ぶ.彼の管内には商税については徐州に陳槍がおりへ儀県には墜緑がいる。鰻

課については揚州に魯保がおりへ産政については邪隆がいる。慶大な地域に星羅某布のごと-琶官が配置され、あたかも謀反

人を捕縛するかのようである。その上、亡命

。無頼の徒が彼らにつき従

っている。含山の清元等'和州の陳所紐等'涯安の馬

如牡等'揚州の蒋季柔等'瓜州の部室等、儀員の典大川

・江三等、泰州の郭賓等'宿州の顧其薩、戴褒等は印信を偽造Lへ公

然と人民を脅迫している。とりわけ悪らつなのが陳樽の手下程守訓で、皇上の旨を詐稀し諌求を績けている。十軒のうち九軒

は破産してしまった。そればか-ではな-'内債は墓を暴き'副葬品を掘り出しているときえいう。盗賊でもなし得ず'なす

に忍びない所である。生あるものは無寛の罪に泣き、死者までが虐待せられて安息の地を得ないでいるのである。

こうしたなかで

(革命の徴候である)反乱がすでに始まりつつある。このまま放置すればもはや人民は朝廷が

「民の主」で

あることを承認しないばかりか'自らがそのような

「君の主」-朝廷の主人であることを決して承認しないであろう。歴史的

にみても国家を亡ぼしたものは強敵外患ではなかった。人民の心が朝廷を去った時'天命は同時に朝廷を去るのである。

このような主張は'これが上疏という形式において行なわれたということを考えるならば'ほとんど限界ぎりぎりまで展開

せられた君主批判と革命の論理だということができるであろう。もし上疏という形式をとりはらって直裁に彼の論理を展開し

たならばどういうことになるのか、大いに関心がもたれる所以だが'残念ながら彼の著書が残されていないことはさきにも述

べたごとくである。

それはさておき'このような碗

・税の宿をめぐっての殖宗批判は'彼'李三才のみにあったのではなかった。百以上ともい

(,[Ii/

われる上

のほとんどが'それぞれに同様な両宗批判を展開しているのであって、この上疏はいわば

一つの典型に他ならなか

nJJ

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ったのである。

李三才のこ

の上疏を読むとき'われわれは

『明夷待訪銀』の原君

・原臣を紡沸するのだが'碗

・税の桐をめぐ

って尖鋭な君

(21)

主批判がすでに展開せられていたことは注目されてよいであろう。黄宗義はこの時代に欧にあ

った神宗とい-個別具鰻的な君

主に対する批判を'君主制

一般にまで購大し'定着させたものであ

ったかも知れぬ。

李三才は、彼の管轄下に派遣された恒官の収奪をさまざまな手段でも

って阻止した。と-わけ有名なのは陳塔とその参院程

(22)

守訓のばあいであ

程守訓は歌人。銀を約めて宮殿の復興に寄興し中書舎人の地位を得た。陳槽とは姪婿の関係を結びその参院として彼につき

っていたのだが'

「欽差繰理山東直隷嘱税事務衆査工飼」を日柄Lへ官官とは

一線を董していた。ついで微州に大邸宅を構

え'皇帝の権威をかさに厭-なき訣求を重ねていたのである。そこで同じ数人で山東益都知豚の典宗亮が'彼らの真横を糾弾

したのだが'逆に無寛の罪をかぶせられ、詔獄で瀕死の重傷を負わなければならなかった。陳塔の二十大罪を糾弾した巡撫戸

麿元もまた罰俸を受けている。

だがこの彼らも李三才だけは恐れて近づこうとはしなかった。そればかりでな-まんまと李三才の計墓にのせられた。すな

わち陳樽は、李三才から'程守訓が収奪の半ばを私蔵Lt莫大な財貨を擁しているのみならず不軌の陰謀さえも

っているとい

われ、蓬に程守訓を寓るのだが'いご収奪がうま-ゆかず両宗の不興を買

った上'李三才に脅迫されて自殺したのである。時

に寓暦三三年'この地方の人民は歌舞してこれを慶賀したという。

この時'李三才が陳噂の財賓を

一部横領したという噂が流れたが、これについて沈徳符は次のように述べている。

「読者云-なら-'漁撫は塔の金銭

亘寓を覆す。進む所のものは十の

二に過ぎざるのみ、と。此れ固より末だ信ずる

に足らざるなり.たとい之れ有るも長鯨を談義するは'其の功'細かにはあらず。此を以て庸

(努)に酬ゆるも何の不可

あらん」

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(23)

また李三才の活動について沈鯉の

「李中丞生両記」は次のように停えている。

「公、既に

(鳳陽の地が)陵寝の地脈にして国家の根本なるを以て朝廷を感動せしめ'爾羨'慶祝を己め'碗務を罷めて、

おさ

邪隆を撤せしむ。乃わち簡書を以て諸塔を憧れしめ'環、精棺、輯まり敢えて動かず。江涯の聞、斯須に噂息するを得た

い-は-

り。何もな-して営軸者'中丞を忌み、能-籍に同り去かしめ、又た代るを得しめず'凡そ教たび月を関して代る者'主

名なし。ここに於て群増の孤候を役する者'官教を以てLt堵役の秩冠を役する者'千数を以てLt民を料りて食い'利

おか

を規りて趨り'商を害して己まず'剥'民に及ぶ。富めるを

して己まず、剥'貧に及ぶ。膚を塩

みて骨に及び'骨を塩

みて髄に及ぶ。千金の家へ旦碁にしてたちまち轟き'高夫の命'満堂にたちまち韓ず。牙豪族鼓の下、天を呼び命を乞う

者、宥淵を徹す。公'乃わち作りて日-、第だ我を五日とするのみ。故に吾民を魚欄するな-。吾'

一日在れば即ち朝廷

一日の臣なり。民は吾

一日の民なり。吾れ能-民を水火のうちに坐現し、之を焚溺せんや。乃わち出でて事を観る.代ら

うな

んことを促がすの疏'日ごとに上り'蕨蹄の禁'日ごとに下る。・・・・・・公、既に去れるの身を以て諸塔の方に張なる嶺に常

やす

り、雷露の威に抗し、塗炭の赤子を出して卒に強暴を駆除し諸環を歩数せり。黄河以南'大江以北'鯨鋭'波を

'贋

ひら

ふた

魅、影を覆す。雲霧を

て天日を観るが如し。此れ其の鴻-施し豊かに樹てしこと'今に於て

あらんや。」

(24)

李三才が辞表を出したのは'彼本来の任務である漕運をめぐって趨世卿と対立したからであるが'このとき両宗が辞表を受

理したためへ御史史学遷らがこれに強-反対し、結局人事の移動などもあって彼はその職にとどまったまま'後任の派遣を待

(25)

つことになったのである。史学達はこの時の上奏のなかで

「陛下'陳槍の故を以て三才を去らしめんと欲し'詞に託して其の

(26)

官を解かる」と述べているが'紳宗が辞表を受理したについては、李の碗

・税批判に封する反感が強-働いていたことは否定

できないであろう。沈鯉の文章はこの前後の事情をふまえながら書かれたもので'李が、辞任を願い出ただけで'

「五日」つ

まりたった

「五日限りの京兆の声」として匡官に封する歴力が窮まって収奪が展開される。これをみた李三才が'後任の襲令

mi:

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五七四

をうながすと共に'職にある限り

l日でも

「朝廷

一日の臣」として人民の馬に轟-すことを決意してその取締りに乗り出すと'

彼らは活動を停止せざるを得ないという状況だったのである。李三才が碗

・税の債の取締りに於て護挿した政治力が知られる

であろう。なおこの生雨は'李三才が鮮任したとき'准安の義商たちが醸金して'生きながらにして彼をまつ-その功績を構

えたものである。

\-ノ二(

・税の禍に強-反射したのはtのちに東林涯に結集していった人びとだけではなかった。内閣もまたこれには強-反封し

たのであるが、内閣はこれを阻止しえなかった。そして阻止し得ないことに於てこれに加捺したのである。

(27)

(ES)

(29)

・税の禍が始

った時'首輔は趨志

'

次輔は

(いずれも申時行の推選で入

)、

および沈

一貫

(王錫爵

・超志皐の推

選で入閣)であった。このうち題志皐は病気療養中であり'次輔の張位については'紳宗は'彼の支持を得て'このような政

(30)

策をとったと公言してい

しい。事案は'張位も疎

。税には反射であ

ったが'

にわ

「臣等、鏡

・税を停めんことを請うは'遮

かに之を停むるには非ざるなり。蓋し撫按に責成せんと欲するなり。さすれば

(31)

上は園を磨かず'下は民を果せざるのみ。」

と上言Lt官官ではな-、撫按官つまり公的な官僚鰹系をつうじて行なうべきだと説いて紳宗に妥協したのである。『林居慢錦』

(32)

の著者伍裏革はこの間の事情を説いて

「輔弼大臣の若きは則わち道を以て君に事え'不可ならば則わち止む。法程'具さに在るに徐徐の説を姑らくするは、山豆

に宜し-陳ぶべき所ならんや.此を以て譲れば'新建

(張位)'

何の餅か之れ輿に有らん。

境へ大臣の

三口は塵~し-襲

すべからず。稗、或いは普らざるあるも天下且つその後に議す。候しまざるぺけんや。」

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と述べて'張位の姑息な妥協策がこのような結果をもたらしたと説いている。

(33)

今ひと-の閤臣沈

一貫のばあいも'磯

・税に封する態度はおなじであった。沈

一貫は

字は屑吾、郵

(四明)の人である。隆

(34)

慶二年の進士。寓暦二十九年、趨志皐が卒してのち首輔の座についた。閣臣は彼の腹心朱磨

(字は少欽'山陰の人)と沈鯉で

あるが、沈

一貫が決定硬を握っていた。首輔として朝廷との関係を調整しえず

「やや、救正するところ有るも'大率、其の閲

に依達して'物望'漸や-減ず」と

『明史』本俸は評している。

(35)

寓暦三十年二月、魂

。税の停止と恒官撤収の馬の一つのチャンスが訪れた。紳宗が危篤に階入った馬'前記のほか、逮捕者

の樺放、上言によって罪せられた官僚の復蹄などを'沈

一貫に遺言Lt彼は紳宗の命にしたがって上諭を起草したのである。

この夜'閣臣及び九卿が朝房で夜勤をして上諭の餌護を待

った。三鼓

(午前零時)'

怪官が上諭をもってきたので内容をあら

ためてみると'碗

・税の停止などをふ-め'紳宗がさきに語った通りのことが書かれていた。

一同は狂喜した。

ところが翌朝'紳宗の病状が同復した。後悔した紳宗は'匡官二十人を涯潰して蹟

・税の中止ほとりやめること、その他に

ついては沈

一貫の裁量にまかせることを俸え、前の上諭を撤回しようとしたのである。沈

一貫は上諭をわたすまいと抵抗した

が'匡官に額を殴られ'蓬にこれを返却した。暗にへ上諭を即日施行して政治を革新しなかったものの責任を追及するものが

いた蔑、怒

った紳宗は'磯

。税の停止以外のことについてもさきの意志を撤回してしまった。こうして魂

・税の宿は'寓磨

代の聞、績-ことになり、園内的矛盾は絶頂に逢して明王朝滅亡

への道が準備されることになったのである。李三才は、国勢

(36)

が危機に瀕していることを述べて'前諭を頒布し磯税を停止することを願

った

'

許されなかった。

紳宗が上諭を撤回しようとした時'司絶大監の田義がこれに反対し'両宗の手打ちに合

ったといわれるがへのちに彼は沈

貫に唾きして

「柏公がもう少し抵抗されたならば'蹟

・税は停止されたものを'何たる卑怯ぞ」と罵

ったといわれている。こ

(L7,)

の田

ついてはのちに李三才と連絡があったとして'李三才が弾劾されているが'事賓は明きらかでない。

(38)

一貫が碗税の反封をロにしながらも'結局は紳宗と妥協したの

封Lt内閣にありながら強力にこの反対を貫いたのが沈

3:

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五七六

(gi)

(S)

鯉である。沈鯉は'字は仲化'婦徳の人。嘉靖四十四年の進士。彼は吏部合椎の閣臣で'紳宗からも信頼されていた爵'七十

二威の高齢を以て入閣に至ったのだが、沈

一貫はその入閣に反封であった。入閣が決

ったとき、彼は李一二才にあてて

「婦徳公

(沈鯉)乗れば必らず吾が位を奪わん。称た何を以て之に備えん」という手紙を迭

っているが'これは李三才がこのことを沈

鯉に憶え'沈鯉が自賛的に入閣を辞退するようしむけるためであったという。これに射して李三才は

「先生は忠寛にして他腸

なし」と返事し'沈

一貫の憾みを買

っている。

一国の首輔がわざわざこのような手紙を李三才に逸

っていることも'李が政界

にも

っていた隠然たる賓力を想像させるものである。

沈鯉は'入閣ご直ちに碗

・税について上奏、その後も矢つぎ早に上奏したが願-みられず'

一種の計略をさえ用いる。寓暦

三十二年五月'長陵の明横が焼失するが'この直後'大雨をついて上奏文を奉

った'詔かる沈

l貫と朱慶に対し

「今日は大雨

たてま

なれば'吾輩宜しく素服して窮ら文華殿上に至-之を上つらば'上'必らず心を動かされん」と答え'しぶる沈

一貫と朱慶を

促して入内する。紳宗はこの大雨ゆえ'必らず何かの緊急事であろうと'いつもは放置する上奏文を開いた。内容はも

っとも

不愉快な磯

・税に関するものではあったが、怒りはしなかった。

また沈鯉はこんな計略をも用いた。朱廉と共に食事を賜わ

った時'官官陳短が同席していた。沈鯉は別の小役人が紳宗の意

を受けて窃み聞きしているを知りつつわざと陳短とこんな食詰を交わした。沈鯉

「鋸

・税が人民を害しているのには見るに忍

びないものがある。再三'上疏したが、皇上は許されぬ'--しかし鋸税が人民に害を興えているtという鮎についていえば

まだしも第二義である。」陳矩

「人民が害を受けているというのに'ど-して第二義といわれますか。」

沈鯉

「皇上が大轡な害

を被られるからだ。」陳矩

「どういうことでしょうか。」沈鯉

「現在'風水の良いことを人間は求めているが、閥家は名山大川

をすべて掘りつ-してしまった為'重来が洩れつ-してしまった。

婿爽'

皇上の御身に害がふ-かかろ-。」陳矩

「それは

l

大事です。」このとき'同席した沈

一貫と朱廃は

二百も襲しなかった。

はたして陳短はこれを紳宗に俸えた。

あわてて碑宗が

その封鷹策を沈鯉に問うた所へ「急ぎ銀山を閉鎖し'静謎が戻れば婁気は白から同復するでしょう」という沈鯉の返事である。

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一貫はこの間のいきさつを聞いて沈鯉が旗

・税停止の功を猪占することを恐れ、李九我なるものにもそれを上奏せしめた。

(41)

紳宗は怒ったがへ結局、三十三年十二月壬真上諭が出された。

「開演抽税はもと大工を済助せんが馬なり。小民に加涯するに忍びざれば'天地自然の利を探徴せんとす。今、闘魂する

こと年久しければ'各~差したる外官は供に砂の出づること微細なりと奏し来る。朕'得る所'費やす所を償なわざらん

すべ

ことを念い、都

着して停免せしむ。--凡ゆる磯洞は悉-各該地方官、封閉培築Lt私白に捜関するを許さず。務めて

地脈の婁気を完うせしめん--」

上諭の最後の地脈云々はあきらかに沈鯉の言葉を反映するものであろう。

(r17])

だが'この上諭は賓際には施行せられなかった。

その理由について'世上'二つのうわさが流れていた。

一つは新政は元来'

紳宗の意志ではな-t

l時の思いつきであった爵'忽ち中止されたtというものであ-'今

lつは、首輔の沈

一貫が、沈鯉と

朱慶によって自分の地位が脅やかされることを恐れた上'この新政が自分の吏議に出るのでないことを恥じて賓施を阻んだの

だ'という。李三才がこのことを上奏すると'両宗は激怒して李を奪俸の虞分に付した。

なお沈鯉が意固して碗

・税についての合話を交わした恒官陳短は李三才と関係があったといわれ、このことを願意成から問

(胡)

われた李は次のように答えてい

「陳の賢は天下知らざるなし。・・・・・・陳に

一弟あり。予と郷の同年なり。さきごろ李心湖儀部と燕談して偶・V之に及ぶ。儀

かれ

部へ跳-て起ち日-

「這の人、在る有り。奈何ぞ他を放過せるや。」予問う'「意欲するは何如」と。儀部日-、

「起厳の

一事をば他の身上に頓

-べし」。予'笑いて云-'「即い年家に係るも平時は絶えて往来すること無し。道の事'恐らくは

.I,刀

難からん。況んや近侍の官は'吾輩へ安んぞ軽JVL-輿に通ず可けんや。」儀部、喋りて日-'「若し此の如-んば'只だ

是れ自家

一身の名節を顧-みて'全-天下を顧-みざるなり。吾れの子に望む所には非ざるなり。予日-'兄'奴に此の

如-我を責むれば、兄'

一書を作すべし。我'皆に再び幾箇の同年を尋ねて名を蓮らね、寓上して迭り去き他に看せん。

3:

五七七

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何如。」儀部日く

「諾」。尋いで

一書を以て予に来る。蓬に械して之を陳に致す。陳、書を得て喜びて日-、「各位老先生'

聖賢を以て我に望む。我へ敢えて自ら棄てんや。少之を須てば皆に報ずべし。」数日して報あ

って白く

「此事'某の能-

及ぶ所に非ざるなり。致すべき所の者は緊要の葺奏'皆に梢'

流通を馬すべきのみ」。

己にして連りに二三百本を下す。

--嗣後'亦た絶えて往来無きな---。」

常時の士大夫官僚の意識としては、官官と結びつ-ことが悪であ

ったことはいうまでもない。したがってこの同答も'前後を

あわせた全膿の基調としては恒官との結びつきを否定してはいるのだが'それにもかかわらず

「天下を願りみて」必要だと考

えられるならば

「一身の名節をも顧りみず」内接を借りることを否定してはいない。沈鯉と陳煙の合談を彼がお膳立てしたと

までは推定できないにしても彼が陳矩とある時期、関係のあ

ったことは営然認めてよいであろ-0

(=)

沈鯉はこのようにして、項

。税の停止に奔走したほか'雲南の

検使楊衆を殺害した時には'かえ

って楊柴の側の罪状

を述べて民奨参加者を擁護したり、あるいはまた駅西税使梁永が、鎮守太藍を兼ねようとしたのを阻んだ-'紳宗に妥協的な

内閣のなかで礁

・税に抗して終始主動的に動いたのであ

った。こうしたなかで沈

一貫との封立はいよいよ深まる。

(tLJ)

これより前、沈

一貫は、楚王の獄と妖書をめぐ

って満議涯人士のごうごうたる非難を浴びていた。楚王の獄は元来王府内の

プライバシイにかかわる相績問題が'政治問題化したものであり'妖書はすでに落着したはずの立太子問題が今

一度むしかえ

(46)

されたものである。沈

一貫はこれを利用して満議涯の人士を陪入れようとし'疑獄を起す。こうしたなかで清議涯人士は願意

こ向肇確らを中心に東林書院に結集するのである。時に寓暦三十二午

(一六

〇四)のことであ

った。

(47)

翌一二十三年は京察の年であ

った。皆時安部尚書は茎席、吏郡左侍郎は楊時喬であったが'楊時喬が東林涯の人物である偽、

一貫はこれを避けて兵部蘭書の帝大亨に代行せしめようとして沈鯉にこれを阻まれた。そして結局楊時喬らが京察を行ない

l貫の私薫を排除したのだが'このなかに、さきの事件で沈

一貫の意を受けて動いた給車中の銭夢皐らがふ-まれていた。

この飽'沈

一貫は両宗に働らきかけ'京察の結果を報告した上疏を留中しその聾教を阻んだ。京察に関する報告が留申された

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ことはかつてなかったことである。東林涯は内閣に攻撃を集中した。だが、紳宗は逆に銭夢皐の虞分を解除し、楊時喬らの責

任を追及した。

(

)

曽時こんな説刺がおこなわ

ある時'沈

一貫の傍らに

l山人がいた。銭夢皐が

「昔の山人は山中の野人、今の山人は山

外の遊人」とたわむれたのに対し、山人の方は即座に

「昔の給事は黄門の事を給Lへ今の給事は相門の事を給す」と言い返し

たという。本来'朝廷の馬に国是を説いて政治を批判すべき給事中の銭夢皐が'専ら内閣の私人として働いていることを誼刺

したものである。

このような状況のなかで沈

l貫に封する弾劾が相次いだ。三十三年五月、候補職方郎中劉元珍が、沈

一貫の藩閥政治を弾劾

(49)

(帥)

する。同六月'斬江道御史朱吾粥が沈

一貫の官官との結托を弾劾

同七月、兵部主事駅時宛が沈

l貫の欺岡誤園の罪を弾

(51)

(52)

劾する。翌三十四年六月へ更科給事中陳嘉訓らが沈

一貫の節食を弾劾する。

(53)

こうして三十四年七月、沈

一貫は蓬に解職した。首輔としての在任期間は四年、その間'強化された内閣の硬隈の上に立っ

て涯閥を形成し、反封涯を排除していった。王元翰は

「陛下三十年培養されし人材は、牛ばは申時行

。王錫宙に掃除され、牛

(54)

ばは洗

一貫

。朱贋に禁鋼さる」というが、こうして内閣によって排除され、禁銅せられた人材が、東林涯に結集していったの

であって'とりわけ沈

一貫の涯閥政治がそれにおいて果した作用は大きい。寓暦以前には蕉がな-、寒が生まれたのは沈

一貫

(55)

が首輔となって以来のことだとする夏允葬の見方はたしかに県寅をつ-ものである。

一貫が鮮職した時、沈鯉も同時に離職したのだが、これは沈

一貫が'沈鯉を内閣に残すならば'後願の憂いを胎すことに

(56)

なることを恐れて同時解職に追いこんだのだといわれている。両宗も亦'碗

・税問題などをめぐる沈鯉の硬骨を嫌悪するよう

になってきていたため、「二沈'同に罷める」という事態となった。二枕の辞任と同時に'沈

一貫を弾劾した陳嘉訓と孫盾相は

(57)

(58)

夫れぞれ左遷と奪俸の虞分に付されている。東林涯の人びとは二枕の辞任は'玉石を分たぬ人事であるとしてこれを責めた。

内閣に残

ったのは、沈

一貫の腹心朱慶のみであった。そこで紳宗は'三十五年五月'吏部等の脅推の七人のメンバーのうち

H

五七九

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五八〇

(59)

から枚卜によって育江の李廷機と徳満の菓向高を入閣せしめてさらに朱廉に命じて'元の首輔王錫宙の再出馬を請わしめる。

このうち李廷機は朱慶の推薦によるもので沈

一貫の派閥に属し'王錫欝も亦た

「今'

一貫去-錫欝を以て首操に代うれば是れ

(60)

一貫未だ嘗って去らざるな-

といわれた程'沈

一貫に近い。菓向高は東林派の人物ではあるが、こうなれば孤立は目にみえ

ている。内閣は東林涯を排除して紳宗に妥協的な政策を績げ、園内矛盾は激化の

一途を辿らざるを得ないであろう。

李延焼は個人道徳の面ではすぐれた人物ではあ

ったが、とうてい閣臣としての力量はなかった。

「相の識な-'相の才な-'

(61)

相の度な-'徒らに小康極勤を以て忠に似、信に似るも'大柄を窃取すれば、他日、必らず債蟻に垂らん」と猛烈に李廷機を

攻撃したのが'給事中王元輪である。攻撃は李廷磯の入閣ごも績き、王元輪は'李が滞州と通じ図を辱かしめたという鮎を鋭

(62)

-責めた。騒然たる攻撃のなかで李廷機が内閣にとどまることができたのは'わずかに九ケ月のみであ

った。彼は離職を願い

出て門を杜したままそれが許されるのを待

った。そして四十年によう辛-解職が許されたのであるが'これについて

『明史』

(63)

本俸は

「輔臣'騎虻せられて唇を受け'犀乗せられること積年にして後去るは'此より前'未だあらざるな-」と評している。

(64)

だが李廷横を攻撃した王元翰も亦た逆に汚職の罪状をでっち上げられて告著された。座主湯賓声のために入閣を芸策した給

事中主紹微が王元翰の支持をとりつけようとして失敗し'これを恨みに御史鄭橿芳に逆に王元翰を告襲させたのである。湯寅

甲、王紹微、鄭聴芳らはいずれものちに東林涯と李三才の攻撃に立つ人物である。王元翰は憤然として職を離れた。都門を出

る時'行李はわずかに十飴、これを園門にかつぎあげなかをあらためさせた。のち顧憲成らと撃を論じて南京に死鼓した。

「-∫.三し

さて三

〇年代の東林派と反栗林涯の政肇の激化のなかで六郡の筒書

・侍都などのポストはその多-が基席のままになってい

(65)

た。

三十四年一二月丙申、沈鯉の上奏によれば、六部

・都察院の堂上官三十

一名のうち二十四名が客席のまま放置されていたと

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いう。こうしたなかで李三才は'翌三十五年七月'これら大僚の客席を補充し'科違官を選びへ且つ排乗せられた諸臣、

つま

(66)

り東林涯の人びとの政界復輝を請うたのであるが'それと同時に王錫宙の入閣を阻止して反対涯に大きな打撃を輿えることに

なる'

そもそも官僚が上奏文を奉るばあい、これらは通政司を通じて脅極門の帳簿に登銀されるのが普通であ

ったが、内閣はこの

通政司を通らない密掬を奉る特権を認められていた。

この密掬は

「外延の千言は禁密の片語に如かず」といわれた程'

大き

な影響力をもつものであった

これを

盛に利用して内閣猶我をや

ったのが、

頑張文忠

つまり

張字数と張盾正だといわれてい

∴;-,る。

王錫欝もまた

「あらゆる至探至密の私語の、皇上に益あ

って外延に解れ搾るもの、臣が心に誠を積むも章疏中において直達

(6

8)

する能わざる

あるが故に、わざわざこの密緒という手段を用い秘密裡に上奏したのである。蓉閣臣ということで密掲を

(69)

使

い得たのであろう。ともあれ、王錫醇の密謁は次のようにい-。

「臣惟うに人臣の義は犯すあるも隠す無きを以て忠と為し'直を頁り名を括るを罪となす。方今'内外の章疏'連篇累贋、

時政を指陳するも其れ果して犯すあるも能-隠す無きものありや。臣'遠きに在-と錐も毎に窮かに観るに'邸報中'悪

言言語、絶べて乗輿を斥け、鬼泣両親、遍ね-都市に俸えらる。甚だし-は清朝を誕指して叔李となし'危乱を崇朝に逆

ヽヽヽヽヽヽヽやしヽヽヽ

決す。皇上は但だ禽獣を以て之を畜なわれ'

一切置きて埋めず'以馬ら-'我が量、大なれば正に煩言せざるも彼の気衰

l川引仇

えたれば久し-して皆に白から定むべLと。知らず'此の輩'方に皇上の隈られず喜ばれざるを憧みて因りて此の頁直活

名の計を行なうを得たるを。渚来、其の気へ愈JV盛なれば其の言'愈JV長ぜん。景陵訴評の禍'又た今日より甚だしきも

のあらんや。臣'之を聞きて白く

主'辱しめらるれば臣死せん。又た日工

君に鰻無き者を見れば鷹郭の鳥笹を逐うが

如からしめん。今'皇上の辱しめらるること甚だし。中臣の絶無きこと極まれり。臣が身は末だ朝に立たざるも夙に心管

かたじけな

はかりごと

すれば'皇上の為に三たび辱しめを免がるる圏

を思いへ以て贋寓の

一撃にちかからしめざるを得ん乎。」

H

Page 21: Title 東林黨考(一) - 淮撫李三才をめぐって - (創立五十周年記 …...林東 貰 考 ‖ 涯-撫李三才をめぐって-野小 和 子 は じ にめ (1) 『東林鮎描線』というものがある。天啓年間、閣裳の王解散が、栗林涯の人物を選んで『水溶俸』中の豪傑百八人に比定し

密鴇はこのあと、礁

・税の停止や官官の撤退について論じるのであるが、これらは潜時の外延のほぼ

一致した主張であ

って

わざわざ密掲を用いて上奏せねばならぬという性質のものではなか

った。したが

って密掲

の主眼は'王錫

爵・沈一

・李廷機

なきこ・hJ

らに加えられる東林涯言官の攻撃に対して自からの立場を擁護するとともに、

これら攻撃の輿論を'

あた

かも「

禽鳥

の音」

(『明史』)のごと-に考えて顧慮の必要のないことを紳宗に要請する鮎にあ

った。そして彼自からは'「鳥雀を逐う鷹離」とし

て内閣に再登場しようとしたのである。

この密掲が'家人王勉の手によ

って北京に逸られる日、王錫欝は

「香を焚いて天に告げ'手づから聞き手づから閉じ、

一人

、{r;I

をも異聞せしめ」なか

った。だが王勉は途中、推安に李三才を訪ね、その内容を李一二才にキャッチされてしま

ったのである。

李は王勉を酔いつぶれさせ暫掲

の入

った箱を開けて文章を改窺しょうとしたのだが'この密掲が王錫宙の孫で有名な書家の王(71

)

時敏の筆で書かれていること(これについては密掲中に言及がある)を知

って改寂を断念Lt内容を抄銀するにとどめたという。

王錫欝の身過にまで李三才の工作が及んでいたことはあきらかであろう。こうしてこの密掬は北京に到着するまでに東林涯の

(72)

人びとのなかに情報として流れていたのである。この情報にもとづいて三十六年九月乙酉、戸科給事中段然が王錫醇の弾劾に

(73)

った。その攻撃

の中心が、言官からの上奏を

「禽鳥の音」のごと-に無税してもよろしいという鮎にあ

ったことはいうまで

(74)

もない。王元翰らも亦た上疏して王錫宙を追及した。こうして王錫醇の再出馬は阻止されたのである。願憲成はこのことにお

(75)

いて果した李三才の役割を高-許債し

『自反錦』

のなかで客の問いとして次のように述べている。

ただ

「漕撫

(李三才)の重んずべきは特にその才を以てするのみならず'その節を以てす。特にその地方に功あるを以てする

のみならず、その世道に功あるを以てす。その世道に功あるや、特に其の能-構闇を御するを以てするのみならず、其の

能-檀相をも御するを以てす。其

の椎相を御するに至-ては又特に喬道長の云う所の蘭撰

(避志皐)、四明

(沈

1貫)を木

とど

偶とLt山陰

(朱贋)'新建

(張位)を嬰兄とするを知るのみならず'乃わち墨江

(王錫宙)の出づるを遇むるに在るのみ。

あば

何となれば婁江の再起は正に否泰央垢の

一大機な-。然うして密掲末だ

かれざるの先は'言う者猶お年ば含み牛ば吐-。

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意'規誼を存するも其の節'椀なり。密掴、既に襲かれし後は乃わち始めて明らかに指して痛-傾国を斥ぞけ之に唾きし

て仮借することなし。其の辞、蕨なり。婁江の進退は此より決す。向きに是の著をして出だきざらしむれば婁江は必らず

まさ

幡然として召に鷹ぜしこと疑い無きなり。婁江'既に幡然として召に鷹ずれば'四明'必らず且に連蒸して進むこと疑い

無し。四明'既に蓮茄して進めば福清

(菓向高)'

必らず且に婦徳

(沈鯉)の績となること疑い無し。

而して邪正の消長

も亦た此れ従り決せん。故に人は但だ今日の朝廷は全て

一両清に頼るを知るも両帝の得て以て卓然として其の位に安んず

るは'賓に婁江の出ずるを果たさざるに由るを知らず。人'亦た福浦の得て以て曇然として其の位に安んずるは、全て婁

江の出づるを果さざるに頼るを知るも、婁江の出づるを果さざる所以の者は賓に段給譲の摩損の

一疏、以て其の命を制す

る有るに由るを知らず。密掲に至りてはまた俸うるに漕撫に自るな-。量に社稜第

一の功に非らずや。」

つまり、王錫欝の再出馬が成功すれば、沈

l貫も復蹄することになり'唯

1人の東林涯の閤臣菓向高は、かつての沈鯉同様'

孤立せざるを得ず、政権は完全に反束林涯に掌握されることになる。だが密掲が暴露されたことによって王錫宙に封する公然

たる攻撃が可能となりその再出馬を阻止し得たわけで'その意味で李三才は

「社硬第

一の功」を果したものとして、最大限の

賛節を迭っているのである。東林涯の指導者たちはこの

「蘭漢

(趨志皐)四明

(沈

一貫)を木偶とLt山陰

(朱慶)新建

(張

位)を嬰兄として」現役の首輔をも操った李三才の政治力に依存しっつ'在野から政治を主導したのであった。

(76)

この事件から間もない三十六年十

一月'朱慶が官に卒した。

一貫とは同郷の折江であり'その片腕でもあった彼が卒した

となれば、首輔の座につくのは李廷政である。だが彼に封する言路の攻撃が強化されるなかで'李廷棟が政務を放棄してしま

ったことはさきに述べたとお-である。

内閣にのこったのは菓向高

一人である。閣臣の故員を補充することが急務であった。このとき李三才を推す動きが東林涯の

内部から出て来たとしても常然のことであろう。李三才に封する期待は大きかった。たとえば高肇龍の

「大司徒修衆李先生七

二‖」

十序」は嬢

。税阻止に果した役割を大き-許慣した上で客の言葉として次のようにいう。

H

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五八四

「天下の人'先生をして入りて計を乗らしむれば'度支、給らざるを虞えざる乎と日わざるはなし。又た先生をして入り

て梅を乗らしむれば'垢を腰し義を別Lt事に備えありて戒に生心無きに庶き乎と日わざるはなし。又た先生をして入り

て憲を乗らしむれば'是は是と日い非は非と白いへ国是'其れ定まるあらん乎と日わざるはなし。又た先生をして入りて

のぞ

錠を乗らしむれば'直なる者は挙げ柾なる者は

き'俊傑、位に在るに庶き平と日わざるはなし。又た先生をして入りて

あわ

lた

天子に相たらしむれば、宵府を

一にし閣部を

'順治威厳'日を計りて

すべきに庶き乎と日わざるはなし」。

つまり'戸部筒書になれば財政をととのえたであろうし、兵部尚書になれば'軍事力を強化し得たであろうし'都察院の御

史になれば是非をあきらかにし国是を確立したであろうし、吏部筒書になれば'人材を登用したであろうLt大挙士になれば

朝廷と官僚'内閣と六部を調停しえたであろうtという。このような輿望を荷う李一二才を、東林涯が内閣に逸りこもうとした

のは常然であろう。三十七年

一月、李一二才は考蒲を以て漕運総督戸部筒書左副都御史を加えられたが、あたかもこの時'さき

(78)

の給事中段然らが'内閣の妖員は翰林院出身者でな-外債で補充すべきだと主張した。元来'内閣は赦旨の票擬を任務とした

ため、文章力のある翰林院出身者が多かったのだが'それよりも政治に通達した外債を入閣させようというわけである。これ

は李三才の入閣の地ならし工作だと考えられた。もし李三才が入閣するとすれば'沈

一貫ら反対涯は決定的な窮地に立つこと

になる。ついで都御史のポストが塞いた。これまた人事権を握る重要なポストである。李三才の就任は何としても阻まねばな

(79)

らぬ。

こうして最初に李三才弾劾に立上ったのは、沈

1貫と同郷の工部屯田司郎中郡輔忠

(定海の人)であ

った。

彼は李三才

(80)

の貴

。険

・候

・横の四鮎を列撃

貴とは黄正賓を各地に派遣し郡邑を恐嚇して賄賂を取立てていること、険とは古董珍貴

の類を両宗に進奉すると稲して横領し罪を陛下になすりつけていることへ候とは不廉不軌を以て他人を罵-つつ自からは法を

へつらい

無みして涯閥を形成していること、あるいは依阿を以て他人を罵-つつ自らは皇親や内官と結托していること'横とはひそか

に王侯にも比する日常生活を逸

っていることである。

「およそ海内の名流の陛下の馬に耳目を用いし者は飽遠を以て之と結び'陛下の盛に山林に斥逐せられし者は請托を以て

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之を招き、道学に語りて名となし、賢豪に依-て立脚し'或いは端な-して流沸し'或いは故無-して感慨Lt天下の士

をして廉然として風に従い枚に乗らしめ'映進する者はその幕下に依-、時に感じ事を憂うる者は誤って其の套中に入る。

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

ヽヽヽヽヽヽヽヽ

一時、只だ三才あるを知り、陛下あるを知らず」

という。この李三才が総意

(都御史)をねらっているのであって、天下の大事は今や天災にあるのでもな-虜息にあるのでも

な-、李三才の如き人物が政権を奪取しょうとしている鮎にあることを述べたものであった。

(81)

ついで翌三十八年

一月には徐兆魁

(贋東東莞の人)が李三才の

「姉貴'大いに著われ」'「裳を結んで私を行な」っているこ

(82)

とを弾劾する。徐兆魁は

「初めは沈

一貫に附し、

一貫の去れるや李延焼に附し」たという人物である。これに封して李三才が

(83)

祈明、ついで工科給事中馬従龍'御史董兆野、彰端吾'南京工科給事中金士衝が'李三才の寛を群じた。このような爾涯の封

立の激化のなかで願意成は、

二通の手紙を吏部尚書孫基揚に迭り李三才の馬に鱗じた。前年末葉向高に迭

った手紙と併せて

\・JT;I

「三書」と呼ばれるものである。宣大巡按の呉亮はこのうちのあとの二書を抄銀し、北京の各衝門に迭

郷居の願意成が

(85)

このように菓向高らに手紙を逸り'中央の政治を動かそうとした故にへ東林は

「遥かに朝櫓を執る」の非難を被るようになっ

(86)

たといわれている。この三書はまもな-彼自身の手によって

『以侯錬』としてまとめられ

以侯とは後世の審判を待つの意

(87)

で本書は今、年産閣文庫に所蔵されている。

こうしたなかで、李三才をめぐって議論が沸騰する。二月'南京兵部職万司郎中鏡策が

「賄賂公行し、紀綱、地を掃-」の

(8

8)

(8

9)

罪状を述べて李三才の免職を

同四月、戸科給事中王紹徽

(成寧の

)

が'李三才弾劾の上疏を童してその取調べを行な

(90)

(91)

(92)

(93)

うこと

う。同月、戸科給事中徐紹吉が、績いて同五月'王三善

(永城の人)がおなじ-論争に結論を出すことを請う。同

(94)

月'薩科給事中周永春が李三才を解任せんことを請う。このような甲論乙駁の議論も全鰻としてみれば

「参する者什に

1'保

(95)

する者什

であって'李三才を支持したものが歴倒的に多かったのであるが'それにもかかわらず李三才は結局、病を以

(96)

て漕遅総督を免ぜられるに

三十九年(l六

)二月のことであって'李三才の政治生命はこれを以てひとまず路を告げ

mJ]

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五八六

ることになったのである。

(97)

(98)

この過程で反東林涯の結束が固められ'園子監祭酒場賓

(宣城の人)を中心とする宣裳'諭徳願天壌

(崖山の人)を中心

とする良案、沈

一貫を中心とする新案などい-つかの出身地を媒介とした人脈が出来上っていったのだが'これに封して東林

(翌

(S)

涯は三十九年の京祭で反撃を加えた。吏部蘭書孫益

'

秦釆杢'湯賓声'王紹微らを虞分したのである。

(1

01)

五月、こんどは反東林涯の給事中朱

一桂'御史徐兆魁が東林涯を攻撃

「臣、今日天下の大勢を観るに轟-東林に趨る。今年'計典の誤は寅に此に由るなり。蓋し、無錫僻に東林書院あり。宋

儒楊時の岡な-。顧憲成は詞官せられてより締り合して林居Lへ諸臣'此に講畢せ-。未だ幾-ならずして其の徒'日

とに家-'有司を挟翻し'郷曲に悠凌す.門、蓬に市の如し。黄正賓なる者は貿都を以て冒遷し詞名せられ'困

って'惟

撫と結ぶ。東林の至る所は'郡豚、

一喜

一怒Lt諸に有司の禍福を繋ぐに足るとす。凡そ東林の講撃の至る所'主従百飴、

ヽヽヽ

ヽヽヽ

該鯨、必らず先に厨侍を設け、執事を成しむ。館穀程席の需は二百金上下に非ざれば辞ずること能わず。合議中'必らず

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

ヽヽヽヽヽヽヽヽたがヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

裸-るに時事を以てLt講畢れば立ちどころに刊して遠近に俸布Lt各邑の行事、之と左う著は必らず速やかに改固して

ヽヽヽ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

其の令'乃わち安んずるを得。今己に新中諸郡に及ぶ」。

これは反対涯の言であ

って'果して東林涯が地方政治にどこまで-い入っていたかは'今後に残された大きな研究の課題であ

るが'知麻などの層までが、この薬事とは無関係ではあり得なかったことが知られよう。この薬事は李一二才失脚ごも益~激化

するのであるが'紙数の関係上、これについてはいずれ稿を改めて論ずることにLt李三才のその後についてだけ簡単にふれ

ておくことにする。

(O=

)

郷里に掃

った李三才は、撃鶴書院を建てて嬰を講じ

'

その聾望を慕

って集まって-るものが多かった。このため御史孫

屠相が彼の政界復蹄を董策するが'失敗し'かえ

って反東林涯の攻撃をよびおこした。四十三年季三才は'官有地を覇占Lt

(S)

(3)

皇木を横領した郷紳として攻撃され剤籍さ

天啓年間'反東林涯の力が弱鰹化した時期に南京戸部備蓄に起用され

'

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任につかないうちに卒した。天啓三年

(一六二三)である。

遺言に従

って彼の亡骸は'漠の張湯の故事に倣い、柳木の棺に収められ牛車に乗せて葬むられた。張湯が自殺した時'その

;・;

(捕)

母は

「湯は天子の大臣なるに、悪言に拝されて死す。何ぞ厚-葬らんや」といって厚葬に反封したとい

張湯同様'

「悪

言に汗されて」死んだ李三才は大臣としての任務を果し得なかったことを恥じてこのように遺言したのであろうか。その墓塊

蒜)

には墓志もな-、墓碑も立てられなかっ

「-ノ四(

すでに述べたように、李三才に封するごうごうたる非難のなかで願意成は菓向高らに手紙を逸

って李三才の馬に痔じたので

あるが'これについて'その信頼のあまりに過ぎることを批判するものがいた。これにこたえて彼は李三才問題についての書

(1

07)

蘭などを編集して

『自反錬』を刊

らの立場をあきらかにしている。

『自反錬』とは

「新法の行なわれLは'吾糞も亦た

過ちありしな-.豊に滞り王安石を罪すべけんや」という程子の言葉に員理を認め'東林涯の側の責任をも自ら反省しようと

するものであるが'ここではたんに李三才にたいする許債に止まらず'彼の政治にたいする考え方が展開されていて、東林涯

の政治思想を知る上で頗る興味深いものがある。以下'その要瓢を簡単に紹介して小結に代えたい.

これによれば'顧憲成も李三才が世上非難されるような個人道徳上の若干の問題があったことを否定するものでは決してな

(108)

い。李三才には骨董あつめの趣味があった

'

たいへんな浪費家で賄賂をとっているといううわさが絶えなかった。貴撫李三

才とは反対派が彼に奉

った呼名である。だが願意成はこのようなことは個人道徳の次元の問題であ

って政治の次元からするな

らば'問題にする必要はないという立場をとる。三代以上の聖人はともか-として秦漢よ-今日に至る二千年の間、豪傑の士

は数多-いたが、映階のない完壁な人間など

一鰹どこにいただろうか。宋の李綱や遭鼎などはたしかに

一代の卓越した人物で

H

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五八八

はあ

ったが、「揮電」(痕費)という鮎からすれば李三才に十倍するものがあ

った。しかしそのことは決して彼らの豪傑たる所

以を損なうものではない。

「凡そ人を論ずるには常に其の趨向の大股を観るべし。趨向'苛し正しければ'即い小節の出入あるも君子たるを失せず'

たが

趨向、萄し差えば即い小節の観るべきあるも終に小人に蹄す.又た聞-に国家を蔑むるものは陽を扶け陰を抑うるより要

なるはなし。君子ならば即い不幸にして註誤あるも常に保護愛惜して之を成就せしむべし。小人ならば糾い小過あるも常

すみ

に早やかに排絶Lt後息を為すこと無からしむ''(し。又た聞-に古来の豪傑は種~同じからざるあ-。或いは謹厳'或いは

(

佃)

関大'或いは個惜'或いは揮零'共晶は人人殊なれ-。之を絶ぶるに各~1局を成せば各~其の豪傑たるを害なわざるな

つまり、人物を評債するばあい'小節-

私的個人道徳によるのではな-、

「趨向の大鮭」によるべきこと'君子と小人とを

姉別し、君子には若干の誤ちがあ

っても君子の君子たる所以を十全に章揮できるよう保障すべきこと'豪傑には棟J~のタイプ

があるが、蓋

一拍に考える必要はな-'それぞれの人間の特性をその特性において認めるべきことtなどの原則を以て'それ

に基いて結論を出すべきだとするのである。

それではそのような私的遺徳に封置さるべき

「趨向の大腰」へ

あるいは君子たる所以'

豪傑たる所以を、彼らはどこに求め

ようとするのであろうか。李三才にたいする評債が示すように'彼らはそれを公-政治的道義の寅現において認めようとする。

そこでは従来の士大夫意識からすれば'ありうべからざることであ

った官官との連携すらも'天下の公を願りみて必要である

ならば承認せられ'

「一身の名節」-

私は否定さえされるのである。

それは私的個人的遺徳をはなれて滞日の原理に従

って動

-政治世界の承認といってもよいであろう。かつて反東林涯が李廷機を推したとき

「天下'豊、全人あらんや。--李廷枚は

(1

10)

清正の二字もて挙朝推す所な-。即い小失あるも何ぞ其の君子たるを害なわ

と'

一見願意成と同じことを主張しながら

も'賓は李廷機をその

「清正」の道徳に於て推そうとしたのとは全-逆の'政治と道徳との関係であるといえよう。

この私に対立するものとしての公を、願憲成は民家の輿論のなかに求めようとする。李三才の貢埜を責める反東林涯に対し'

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彼は民家の輿論にこそ聞-べきことを主張して客の言葉を借りつつ次のようにいう。奮稿にも引いた言葉を今

一度引用しょう。

「其の鱈細の口に徴を取らんよ-は細民の口に微を取るに若かず。其の長安の人に徴を取らんよ-は地方の人に徴を取る

に如かず。吾へ願わ-は、言者、試みに惟揚数首里の間に就きて

一たび誇るを致されよ。其の漕撫に於て果して之を戴-

こと父母の如きや。抑~之を疾むこと仇の如きや。果して所在に戸疏せるや。抑J~所在に誼呪せるや。山豆に亦た較然とし

て分明ならずや。嵯乎'耳目の官は鏡を以て買わる。山林の士は銭を以て買わる.即い大内も亦た銭を以て買わる。乃る

とど

に漕撫p涯を襲するの日'諸父老、群呼して除擁し、相輿に輿を頂めて親果して行-を得ず'既にして舟に抵るや'復た

既果して之に随い'相異に濃を奪いて行-を得ざらしめLも亦た鏡を以て買わるや。然らざれば被れ何ぞ貴撫に利ありて

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

懲億として是の如きや。賂た長安に公論あ-て地方に公論無きゃ。抑J~鱈錘の風聞は是れ寛録にして細民の口碑は是れ虚

ヽヽヽヽ

飾なりや。何ぞ労より観る者は猶お代りて切歯を為し其の肉を食いて其の皮に顧慮せざるを恨むに、身親し-之に常る者

は反

って讐とする所を徳とし怨む所を恩とす。好悪、人と殊なれるや。則わち安んぞ其の故を思わざる可けんや。此れ又

(1

11)

た漕撫の一大公案

-

これを聞いた顧憲成は

「この言葉を聞いてみると菓向高らに宛てた

『漕撫を救うの書』の意味は薄れてしまった」と、全面的

な賛意を表しているのだが'じつは彼自身これと同趣旨のことを

「典懐野に興うるの書」(『産皐蔵稿』奄五)に於て語ってい

て、これは彼自身の考えでもあ

ったとみてよい。このように彼は都市と地方'梧紳と細民とを封立させ'むしろ後者の側に天

下の公を認めようとしているのである。それは官官はむろんのこと'内閣を媒介として官僚の一部をも自からのうちに取りこ

んだ皇帝の私的横力の異常な肥大に封してへむしろ民衆の輿論に公を認め'それに依操しっつ彼ら自身の側の正常性を主張し

ょうとしたものといえるであろう。このことはむろん彼らが民衆の輿論や行動を無限定に支持したということを意味するもの

(112)

ではけっしてない

それにもかかわらず'それが'いわゆる朋裳としての私裳から公鴬

へと脱皮してゆ-

lつの過程であっ

たことは否定できないであろう。だが、彼らは公案としての組織鮭割をまだ十分に整えることはできず'李三才の如き個人の

3:

五八九

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五九〇

政治手腕に多くを期待せざるを得なかった。道徳と政治は分離されつつあ

ったけれども'その政治世界を生きぬいてゆ-だけ

の組織的な政治力量をいまだ十分には具えるにいたってはいなかったのである。

(2)

(5)

『明史』奄三〇六王紹微博による。『東林鮎賂銀』の内容は文末『先

捺志始』巻上

に収録されている。文乗によれば

「(王)紹微は復た

『栗林同志録』を造り諸賢の姓名を羅列せり。又た韓敬は

『東林鮎

洞錬』計

一百八人なるものを造り'都門に郵致し、籍を投じて捜索

せ-oここに於て諸賢へ桐いを受け'

一人として遺漏せるもの無か

りき。

『鮎牌錬』はもと王精微の作る所と博えらる。

『同志録』は

末だ抄博を見ず。或いは走れ韓敬'紹徴の原本に困りて之を噌改せ

しものならんか」と記している。

例えば虞斌

「犀晃蓋是為了鼓吹投降主義」(『北京大挙畢報』

lL九七

五年五期)は'毛滞京の文章を引用した上で'「水瀞博が晃蓋を

(冒

八人から)除外したのは、投降沢である宋江を突出する馬であり'

宋江の投降主義路線を宣揚する為であった」と述べている。

孫承浬

「李涯些

二才」

(『皇明文海』巻八八)

『漕撫小串』については'願意成

「中丞修吾李公漕撫小芋序」(『淫

皐蔵稿』巻六)の外'逓南星

「漕撫小事序」(『味発露文集』奄五)

がある。菓向高

「中丞李公撫准疏草序」

(『蒼霞草』巻六)'郡元標

「漕撫疏草序」

(『存虞集』巻二)の

『撫准疏革』等も同

lのもので

あろう。

李三才については'『明史』二三二に本俸があるほか'注(3)前掲

の停および'陳鼎

『東林列停』巻

1六に李三才博がある。このほか、

願窟成

「販山東会意李道甫叙」

(『浬奉職稿』巻八)へ同

「奉賀修吾

挙党生育左副都御史序」(同上巻九)'高撃龍

「大司徒修翁李先生七

十序」

(『高子遺書』巻九下)'曹干作

「修吾李先生巡撫江北序」

(『仰節堂集』巻二)'沈鯉

「李中丞生両託」

(『亦玉堂稿』巻七)、

菓向高

「惨苦先生像賛序」

(『蒼霞草』巻七)、文乗

『定陵註略』巻

九涯撫始末が参考になる。

(6)

明末の政治史を賞争史として扱ったものとしては'謝開披

『明清之

際某社運動考」

(一九三四

商務印書館)があるはか'最近では溝

口雄三氏

「いわゆる東林況人士の思想-

前近代期における中国思

想の展開-

」がこの闘争を

「皇帝官官涯の皇帝

l元的な国家ヘゲ

モニーに封する郷村地主へゲモニイの闘争としてとらえ'思想史と

経済史の面から鋭いアプローチを加えられた。私自身もかつて

「東

林汲とその政治思想」(『東方畢報』二八筋)を章表したことがある

が'普時は私自身の関心が、黄宗義の

『明夷待訪録』の前史として

の東林涯の政治思想にあったため'東林

・反東林の薬学の政治過荏

についてはご-かんたんにしかふれていない。最近は明代文集もほ

とんどのものが京都でふられるようになった馬'これらをもとに薫

撃の具髄的な政治過程をあらためて書きたいと考えている。

(7)

李三才の生年は不明だが'前記高撃龍の

「大司徒修翁李先生七十

序」は、天啓初年のものと思われるので'天些

二年の笈時には'李

三才は七二~三歳ではなかったかと推測される。そうであるとすれ

ば生年は'

一五五

一-二年であるが'これは目下のところ別の資料

によって確認できてはいない。

12 ll 10 9 8

沈鯉

『亦玉堂稿』巻

一〇

『寓暦野獲編』巻七

内閣密掲

顧鍾英

『顧端文公年譜』寓暦八年の候

寓暦九年の候

『明史』二三二

親允貞侍。全文は

『皇明経世文編』巻三八七に収

録されているが'ここでは内容を節略する為に

『明史』巻二三二親

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允貞博によ

った。なおこの上奏の行なわれた年月は

『賓録』によ

て確認できなか

った。しかし、後述する申用耕心が寓暦

年に進土

に合格していてうその直前にこ

の上奏が行なわれたとすれば'薦暦

年ということになる。

(E3)

伍豪華

『林居漫録』巻

一に

「閣臣'園を柄

ってより'京外大計は、

鐙部'必らず先に裏白す。之を請敦という。愛する者は不曹なりと

雄も必らず留め'悼む所の者は貿なりと経も必らず去る。故事を成

すこと久し。」但し、

この鮎について朱慶は'

寓暦三五年九月辛卯

朔の上疏のなかで

「臣'入京より六年なるに絶えて吏部'人才を追

退するの事を以て内閣に関白するを聞かず」(『紳宗賓録』巻四三八)

と述べており'内閣と吏部の封立のなかで人事権がどのように動い

ていったかは歴史的に検討する必要があろう。

(山)

江(3)に同じ.

(1)

・税問題については'丁易

『明代特務政治』第三葦

全国経済的

大技割参照。

(16

)

『御選明臣奏議』巻三二

田大益

「陳錬祝六害疏。」

(E3

)

この上疏

(以下第

一疏と略栴)

および

lヶ月後に上奏された上疏

(第二疏と略稀)の全文は、願意成序

『寓暦疏紗』巻二九礁税の部

に収録されている。但し上奏の日付は夫々

『紳宗薫録』によ

った。

(18)

第二疏には次のようにいう。

「皇上'仁孝明決なること天性に本づ

かるれば'臣の此疏

(第

l疏)を得れば格に必らず慨然として大息

せられ、潜として弗を出だし

「何ぞ鎮税の四方を流毒すること此の

しきhソ

如きか--」と白い‥-・浦に明詔を下し、悉-各役を罷め'崇朝を

侯たずして雨畿に始まり四海に達せられん。今'既に月蝕な-。首

のぽ

を超

し足を妓

げるも未だ之れ或いは聞かず。--数日以来'遠適博

聞すらも

凡そ葺奏あれば'但だ鍍税に係れば即ち高閣に束ね'

切省りみられずと。臣且つは信じ且つは疑い'且つは警ろき且つは

骸-。斯の言、信な-せば是れ治乱存亡の機なり。」

(E3)

むろん彼は革命の必然なることを述べているだけで革命を積極的に

H

肯定するとはいっていない。むしろ

l閣削護の危機的な状況であれ

ばこそ'革命を回避し不忠の諦-を避ける馬にこのような上奏を奉

ったということであ

って上疏としては普然のことであろう。

(空

『明史』巻三〇五

高推博に

「大挙士蓮志皐

・沈

l貫より而下'廷

臣諌むる老'

盲験流を下らず」という。

(21)

このことはむろん黄宗義が李三才から影響を受けたという直接的関

係を主張するものではない。黄宗義は青年時代から'奏議や邸妙の

数を謹んだと俸えられており'錬税をめぐ

っての君主批判に偶れる

機合も多か

ったと思われる。寓暦のこのような時代風潮の全般から

影響を受けたと考えられるのである。

37 36 35 34 33 32 31 30 2928 2726 25

沈徳符

『寓暦野猿編』巻六

「陳槍之死」

沈鯉

「「亦玉堂稿』巻七

寓暦三〇年間二月甲午'李三才は

「勘議河工戟留漕糧疏」(『皇明経

世文編

』巻四二〇'

『紳宗箕録』奄三六九同月同日)を奉り'漕糧

を戟留して河工

の費十九寓飴にあてたいと上奏したが、同月丁未遁

世卿が財政困難を理由に反対している。

『明史』の本俸。

同右

『明史』巻二

一九

『明史』奄二

一九

荏(27)に同じ。

伍豪華

『林居漫銀』

荘(28)に同じ。

伍裏革

『林居漫録』

『明史』巻二

一八

『明史』巻二

一九

荏(33)に同じ。及び

「歴陳国勢病覇疏」

題意皐博。

張位博。

別集雀四。

別集巻四。

一貫博。

朱慶侍。

『紳宗賓録』寓暦三

〇年二月己卯の保。

(『皇明経世文編』巻

四二

一)0

五八四ページの郡師恩の弾劾文では

「人に逢えば慢罵するに依阿を

五九

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以てするに--田義と結びて兄と為し'成敬と結びて友となす」と

述べている。

(38)

このほか沈

一貫は'雨推挽藍の魯保が銅防を受領して江南

・斬江の

(

44)

(

45)

(46)

姐弼E

繊造を兼ね督することを請うた時'これを興えることを主張し'こ

れに反封する沈鯉と対立している

(『明史』奄二二六郭正域博」)

『明史』巻二一八'沈鯉侍。

高肇龍

「龍江沈先生泰交始末」(『高子遺書』奄

一〇)には次のよう

はじめ

にいう。

「後、閤臣を推すに、東部'首

に先生の名を列ぶ。上見て

即ち欣然として首鮎す〇四明

(沈

一貫)能-過む無きな-。然れど

も四明

(沈

一貫)は呉螺

(申時行)へ

太倉

(王錫爵)の衣鉢を博う

した

るもの'素と先生を忌む。又た素と上'先生を春

うを知れるなり。」

以下の文章はいずれも上記資料によったが、長陵の焼失の日付につ

いては'中華書局版

『明史』二一八沈鯉博の江によった。

『明実録』巻四

1六

寓暦三三年

l月壬寅の保。

『明宴録』巻四二一

寓暦三四年五月丁酉の候。

以下の文章は陳短の関係について述べた部分のみを抽出したが、全

鰹の基調はむろん官官との関係を否定することにある。その要旨は'

匡官と関係があったとすれば外延は捕ましおおせても内閣までは隔

ましおおせない。もし自分についての噂が奉賛であるとすれば生命

はとっ-に沈

一貫の手に落ちていただろう。陳短の工作は結局失敗

したが'このことで諸君子が私を罪しょうというのならば吉葉もな

い。沈鯉は

「私

(李)が官官と関係のないのは事薯だが、弟の妻は

陳闇の姪女だそうだ」と云っているが'先考の誌文をみても内外に

陳姓のものはいない。

住(39)に同じ。

楚王の獄については

『定陵註略』巷六

楚獄始末参照。注(6)謝幽

槙前掲書。

謝囲禎雷

′(■\ ′′~\ ( ( ( (53 52 51 504948

五九二

位衰輩

『林盾漫録』巻

『紳宗賓録』巻四〇九

寓暦三三年五月英巳の候。

同右巻

一〇

菌暦三三年六月丁卯の候。

同着巻

南暦三三年七月丙子の候。

同右巻

四二三

高暦三四年七月英末の候。

『明史』巻二1七

沈鯉侍は

「沈

l貫の格に去らんとするや'鯉在

れば己れに後憂を飴さんことを慮り'供に去らんと欲して密かに之

を憤-。帝も亦た鯉の方便を嫌い'鯉の休めんことを乞うに因りて

遮かに命じて一貫とともに致任せしむ。」といい'同奄二l八沈

l貫

た㌻

博には同時解職を速べたのち

「一貫'濁り温旨を得、廉'之を右-

と経も'論者'益々其の内接あるを馨る。」という。

(54)

王元翰

「天心認告甚切人事挽回宜早疏」

(『凝翠集』疏草

『雲南叢

書』所収)

509 6T8 6T7 66 6T5

\_ノ L◆) ) ) )

′̀~ヽ/{\6160\J \_.ノ

646362

談遷

『国権』巻八〇

寓暦三四年七月戊辰の候.

荏(39)に同じ。

荏(52)に同じ。

たとえば王元翰

「政本虚入廷推難綬疏」

(F凝翠集』疏草)菱土呂

「請召還吉事諸臣疏」

(『御選明臣奏議』巻三四)。伍真筆

『林盾漫

録』別集巻

1。

この時の杖卜と李延焼入閣についての東林蔽う反東林浜の争いにつ

いては

『紳宗寮錬』巻和二二三

寓暦三十四年五月己卯の候にくわし

い。

荏(58)菱土呂上奏。

劉宗周

「明故徴仕郎工科右給事中東洲王公墓誌銘」O

上疏の全文は

「政本墓地不宜恕嗣匪人疏」

(いずれも

『凝翠集』所収)

「好輔挑発誤園疏」

(『凝翠集』)

『明史』巻二一七

李廷機俸O

王元翰については注(61)劉宗周墓誌銘'鏡謙益

「明故工科右給事中

東洲王公墓表」、侃元麓

「王諌議俸」'箔鳳巽

「明工科右給車中王公

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70 69 68 67(71)

行状」(いずれも

『凝翠集』所収)参照。鑓諌益は上記の墓表のなか

「向きに鄭の謂う所の金銭塵寓は其れ洛た化して飛塵となりLや.

蕩けて冷風となりLや。己にして其の説を轡じて以て寄頓頼磐と為

せし老'其れ賂た之を天上に寄せLや。之を地下に埋めLや0枚書

笹に満ち散衣身を周らす.生きては以て家を為すなく

死しては以

あき

て槍をなすなし。公の菟状へ始めて大いに海内に自

らかなり。聞く

者へ之が烏に穿径歎泣するも公己に作すべからず」として其の無賓

を訴えている。

『紳宗箕錬』巻四

一九

同日の候。

『紳宗賓録』雀四三六

寓暦三五年七月辛卯の儀は李三才の上奏を

簡単に書いたのち'

「郡元標、趨南星、願意成の三人の為に葦する

たてまつ

なり。是れより疏を

、奮相の時事を談ずる者へ叉日ごとに止む

べからず」という。

沈徳符

『寓暦野猿編』巻七

「内閣密掲」

王錫爵

『主文粛公文集』巻五二密奏。

王錫爵の密掲については

『寓暦野猿編』巻九

「王文箱暫掲之護」に

ょれば丁末の年

(三五年)李三才が抄博したものと俸えられ、李三

才自身もこれを認めているが'陳経偏によればこれは奉賛ではなく

王錫宙の一族で彼に恨みを抱いていた王問伯が主鎖宙の僕人に賄賂

を送りへ鍵を盗んで寓した上、文章を書改めて、段然らに送

った。

李三才は東林涯の人々に姻びて入閣しょうとしてこれを利用したに

すぎない、という。

なおこの鮎については'王錫欝の

「密掲を排論するの疏」のなかに

「疏を護するの日'臣は香を焚き天に告げ'手づから開き手づから

閉ぢ嘉に一人だも異聞せしめぎりき。完に是れ何人が博洩せLや'

審らかならぎりき。又た何人、壷-其の詞を改ため'且つ悪言の所

謂好薫傾害し、明比して私を行ない'及び菱土呂、公を事とし私を

心とす等の語を添遺して轟-段然の疏中に入れLや'審らかなら

3:

ざりき。」

(『主文粛公文集』巻五三)と述べており'

段然らが手に

入れた資料には内容的に挑故的な若干の奨更が加えられていたのか

も知れない。

(72)

『寓暦野獲編』奄七

「内閣密掲」には

「此の掲'未だ御覧に達せざ

るに東南の正論の諸公--己に家に1通あり」と云う。

(73

)

『紳宗宴録』巻四五〇

寓暦三六年九月乙酉の候。なおこの段然の

上奏文は

『寓暦邸妙

』にその内容が収録されている。これについて

願意成は

「段幻然給譲に復す」(『浬皐蔵稿』巻五)という書簡を造

「密抱の一流は功は祉積に在り。」

としてその果した政治的役割

を高-評慣した。

(74)

王元翰

「宜貯塗面喪心比私害園疏」(『凝翠集』)うなお日付は

『紳宗

賓録』巻四五二

寓暦三六年

一一月庚寅の使。

77 76 75

願意成

『自反録』

『紳宗賓録』巻四五二

寓暦三六年

一一月王子の保。

『高子遺書』巻九所収。但しこれはこの時期に書かれたものではな

-'天啓年間に入ってからの文章だと思われる。

(78

)

南京戸科給事中段然等言う

「租宗、相を卜するは、原とより

一途に

非らず。宰相を詞林に求むるは殊に奮典に非らず。乞うら-は内

84 83 82 81 80 79

外均し-用うること先朝の黄准

・楊士奇等

一十三人の例の如-せら

れんことを」(『紳宗賓録』巻四五四

寓暦三七年正月己酉の候)

『明史』巻三〇六

郡輔恩博。

『紳宗賓録』巻四六五

寓暦三七年

一二月乙丑の候。

『明史稿』列俸

lO

徐兆魁偉。

『紳宗賓録』巻四六六

寓暦三八年

一月糞卯の候。

『紳宗賓銀』巻四六七

寓暦三八年二月英丑の懐。

「願意成年譜」寓暦三八年の候。なお、これと前後して願意成は郡

元標にも手紙を遮り

(輿誹南皐

『窪皐痕稿』五)'李三才に封する

世間の非難を正すように訴えている。これによれば'伍容竃は

「数

年前'南皐'掌

って'内へ多欲にして外、仁義を施すを以て漕撫を

五九三

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刺す--」と述べていた

(『胎安堂綬集』)という。

願意成は

「(塞

兄の)肯えて是の言を馬すは'意うに必らず慣托して以て客竃を欺

く者'有るのみ」というが'おそら-'郡元標は李三才についてか

なり批判をも

っていたのであろう。

(85

)

同右及び

『走陵註略』奄九

准撫始末

三十九年二月、沈正宗疏、

同四十年五月

李朴疏。

(86

)

なお

『自反録』のまえがきによれば

「以保線即ち閣錠三書は今'文

集に併せ入る」というが'内閣文庫蔵の崇蔵版文集には

『以供録』

としてではなく聖

二の附録として三書が収録されている。

(87)

これについて寓暦三八年五月乙巳王三善の上奏は

「近ごろ、願意成、

輔臣葉向高に上書し、数千言を累ぬ。極めて'三才の至

って廉、至

って淡薄'勤畢力行して孜孜として倦まず'古えの醇儒たるを明き

らかにLt甚だし-は且つ之を孔子に比す」という。(『紳宗賓録』

103102101100

五九四

『明史』奄二二四

孫衣揚博O

『紳宗賓録』奄四八三

寓暦三九年五月壬巽の候。

『東林列博』巻

一六

李三才。

『紳宗賓錬』巻五二六

寓暦四二年

月丙寅'河南道御史劉光復

が'李三才を

「不法に黄

(皇?)木を壇用Lへ房屋敷百聞を蓋遷し'

花園を起建Lt国家租宗相侍の木廠地盲験畝を呑占す」などの理由

を以て弾劾している

(『紳宗賓録』巻

五二八寓暦四二年

一一月丙寅'

同四三年

一月英酉の修参照)0

(1-4

)

天啓冗年'御史房可牝が李三

才の復蹄を請い'ついで御史劉廷童が

99 98 97 96 95 94 93 92 9 1 90 8988

巻四七

同日の候。)

『紳宗算錬』雀四六七

酋暦三八年二月庚申の保。

『明史』巻三〇六

玉露微博。

『紳宗賓録』

巻四七〇

寓暦三八年四月甲午の候。

『紳宗薯録』巻四七〇

寓暦三八年四月丁酉の候。

『明史』巻二四九

王三善侍。

症(87)同じ。

『紳宗賓録』巻四七

幕暦三八年四月乙卯の候。

注(91)に同じ。

『紳宗箕銀』巻四八〇

寓暦三九年二月戊子の保。

湯賓声には

『睡魔稿

』二五巻がある。

顧天硬には

『願太史集』七巻があるO

この年の京察の大要については、呉鷹箕

『東林本末』

『定陵註略』巻丸字亥大計

参照。

辛亥京察上下'

107 106105

同じ-復蹄を請うた。しかし建議'紛粉として結論を得ないまま天

倦三年にな

ってようやく起用のはこびとな

ったものである。

『史記』巻

一二二張湯博.

荏(3)前掲孫承津文章。

この

『自反録』を書いたいきさつについては

「呉慎野光線に輿う」

(『淫皐蔵稿』巻五)に-わしいO

(1-8

)

『自反録』によればこれについて、具申の骨董屋はともか-李三才

112111110109

の所にもちこめば高儀に責れると考えているとかへ李三才が既に打

診してきているとかいって債をつりあげているも

のがあ

ったとい

つ̂○

自反録』

『紳宗茸録』巻四三三

高暦三五年五月己卯の候。

『自反録』

この鮎については'栗林寅の民轡や農民反乱に封する考え方を分析

する必要があるが'彼らの階級基盤の問題とあわせて次の機合にあ

らためて論じたい。


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