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Title 淸末の寧波商人について (下) : 「浙江財閥」の成立に關 する … ·...

Date post: 01-Jun-2020
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20
Title 淸末の寧波商人について (下) : 「浙江財閥」の成立に關 する一考察 Author(s) 西里, 喜行 Citation 東洋史研究 (1967), 26(2): 201-219 Issue Date 1967-09-30 URL https://doi.org/10.14989/152745 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University
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Page 1: Title 淸末の寧波商人について (下) : 「浙江財閥」の成立に關 する … · (下) 11 「漸江財関」の成立に関する一考察 111 清末の寧波商人について

Title 淸末の寧波商人について (下) : 「浙江財閥」の成立に關する一考察

Author(s) 西里, 喜行

Citation 東洋史研究 (1967), 26(2): 201-219

Issue Date 1967-09-30

URL https://doi.org/10.14989/152745

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

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(下)

1

1

「漸江財関」の成立に関する一考察111

清末の寧波商人について

-ao

一寧波商人の接頭

ニ活動地域と営業種目

三銭荘経晶画による資本蓄積(以上前披〉

四買縛活動による資本蓄積

五寧波都と上海商務線曾

日四

買解活動による資本蓄積

西

1T

-71ー

贋東貿易時代の公行制度の下において、外園商人と中園商人との取引を仲介する濁占的地位を占めたものは行商

(普通

十三行商)であり、行商の保誼・監督にもとづき通語及び逼闘事務を携嘗するものは通事といわれ、遁事の保誼・監督に

もとづき贋東滞留の外園商人に謝して薪水

h

食糧その他の日常必需品を供給する仕事を措嘗するものを、中園側では買排

(加)

と稿し、外園商人の方では「のOB官主O円

γ戦争の一つの結果として公行制度が贋止される

201

ところが、

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202

に及び、中・外貿易における行商の濁占的地位の排除とともに従来の行商

・逼事の機能は買排の機能の中に包括され、こ

(加)

こに牢植民地中園の象徴たるレわゆる買排制度が成立するに至った。

(出)

いま、先皐諸氏の明らかにしたところに従

って、買排制度の内容及びその特徴を要約すれば、

次の如くであろう。①買

排の職能は外園商人に代

って職入商品を販貰し輪出街品を牧買すること、外園商人のために中園商人の信用及び市場の調

査を行ない報告すること、通関事務を慮理すること、等々康範にわたる。②買緋は外園商人に針して「命令服従、競業禁

止、秘密巌守、忠勤奉仕」を義務づけられ、室内一職務上の過失によ

って外園商人に

「損害」を輿えた場合には賠償の責任

を負わねばならないのみならず、外園商人側の一方的意志によって、「何時にでも解任」されうる。③買排の牧入は月額

百雨から二百五十雨程度の俸給の外、買買取引を仲介する場合に、自己の

「雇庸主」たる外園商人と取引相手たる中園商

人の墾方から取得する商品債格の一乃至二%の手数料を含むが、この手数料こそは買排の資本蓄積の源泉であ

った。

(凶)

(問)

かくて、開港以来上海租界における「一種特別の職業」とな

った買排の地位が「新しい出世の途」

と看倣されるに至る

一獲千金を夢みて外人商社の買排たらんとする者は、陸績として上海へ押し寄せた。

(国)

動」の提唱者たる鴻桂芥は、上海において通事即ち買排たらんと志してレる人々を二種類に分け、

一八五

Ol六0年代の

「洋務運

- 72一

二局無業商買。

凡市

井中。税関訴弛。不歯郷里。無復輔移執事之路者。以島ナ習通事魚遁逃薮。

一篤義皐生徒。英法両園。設立義皐。贋招貧苦

(凶)

且多傍習天主数。更出無業商貫之下」と指摘

童相伴。興以衣食。而敬督之。市見村畳。流品甚雑。不特易於揃染洋浬習気。

ために、

している。外園商人は劉中園貿易における不利な篠件を克服するために、換言すれば中園侵略をより容易に押しすすめる

いわゆる「無業の商買」を買排に採用したのみならず、白からも積極的に「義皐を設立」し、買排の養成・訓練

「義皐の生徒」にせよ、彼等は一度買排に

「採用」されるや、惟だ

「洋人の勢力を籍り」

「卒民を歎匪し、官長を蔑硯」し、

ひたすら自己の資本蓄積にのみ専

(削)

念して、その他のことを

一切顧みない徒輩であった。

に嘗ったわけである。

かかる「無業の商買」にせよ、

「狐が虎の威を偲る」

如く、

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ところで、この種の「郷里に歯せざる」人々の郷里(出身地)は主としてどこであったか。再び漏桂芽によれば、

。(m)

海逼事。人数甚多。獲利甚厚。途於士農工商之外。別成

一業。慶州・寧波人居多」という。既に

一八五

01六。年代にお

いて、上海の逼事即ち買排は「遂に士農工商の外に別に

一業を形成」するほどに増大したわけであるが、なかでも贋州出

身者と寧渡出身者が多数を占めたというのは、いかなる理由にもとづくのであろうか。まず、慶州出身者が上海

へ準出し

(即)

て買排活動を展開するようになった背景は、次の如く説明される。周知のように、既に一八五五年頃の上海には、イギリ

ス租界内の黄浦江に沿ったバンドに面して恰和洋行

QR門

5p宮間同F20ロhwn0・〉、

一寸

沙遜将行

3288hrの0・〉、

洋行ハ白片岡、F45∞回同

ghwho-)、賓順洋行(ロ巾zbn0・)などの外人商社が軒を並べていた。これらの外人商社はいず

れも庚東貿易時代には康州で活動していたものであったので、その嘗時から密接な閥係のあった麿州人は、これらの商社

とともに早くから上海へ進出し買排活動を展開するようになったといわれる。それならば、寧波出身者の場合はどうであ

(加)

ろうか。寧波人も開港以後逸早く寧波港における外人商社の買排へ進出したばかりではなく清稗類紗四四「上海洋行之買

排」に「此鴛上海洋商雇用買排之始」として紹介するところによれば、「泊上海開埠?外人麗集。彼時中西隔絶。風気鋼

蔽。洋商感於種種之不便。動受入歎。時則有寧波人穆隅元者。

・:頗得外人之信用。無論何人。接有大宗交易。必央穆矯之

居間」というc

いわゆる寧波人種情元なる者をもって、上海洋商の雇用した最初の買排であるとすることができるかどう

かは暫くおくとしても、外人の信用を得た穆嫡元は、買排として大口の轍出入貿易を仲介することにより、相嘗の資本を

蓄積したであろうと思われる。抑々、彼が外人の信用を得ることができたのは、イギリスが定海豚を攻略した際(ア

ヘン

(以)

戦争の時?)捕虜として上海へ連行され、その機舎に英語を習得し、買排としての第一の候件を具備するに至ったからで

ある。かくして「穆又別牧拳徒。授以英語。数以輿外人貿易之手績。及外人商業日繁。穆不能粂顧。乃使其皐徒出任介

(防)

紹」という。彼は買排活動によって資本蓄積を押しすすめる傍ら、「皐徒」を集めて英語及び外園貿易に関する知識を教

授したわけである。彼によって養成・訓練されたこれらの「皐徒」たちは、恐らく彼の一族・子弟か同郷の人々であ

った

仁記

-73 -

203

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204

に相違ない。蓋し寧波人は、慶州人がそうであったと同僚に、

ご人が一地で成功すれば、

「褒族同居を鴛す風があり、郷黛の観念激烈で」あって、

(m)

一家一門朋友乃至同郷のもの風を聞いて燭集」する傾向があったからである。従って、職出

入貿易の増大にともない、

と同様に買排活動へのり出したとすれば、上海における買排の隊列の中で寧波出身者の比重が漸次増大するようになった

より多くの買排を必要とするに至るや、買排預備軍としてのこれらの

「暴徒」たちが、穆柄元

のも、蓋し嘗然とレうべきであろう。

他方、買排の「活躍」舞蓋も漸次着々と抜大された。即ち外園帝園主義の中園侵略の深化にともない、外人商社の数は

(印)

年々増加の一途をたどったが、不完全な統計によっても、十九世紀末には遂に九三三社に達し、

その殆んどが上海へ集中

した。かかる外人商社の急速な増加に比例して、買排の隊列もまた急速に嬢大したわけであるが、十九世紀末には一高人

(国)

以上の買携が上海をはじめとする各逼商港で活動していたといわれる。勿論その内には「無業の商買」や「義閉山手の生徒」

出身のものも含まれるであろうが、買排たらんとする者の「資格」はもはや外園語に遁じているということのみでは不十分

となった。蓋し外園商人は買排の契約違反による「損害」を最少限にくいとめるために、買排志願者に劃して金銭・有債誼

(山川)

券及び不動産等の権保物を要求し、また一定の資産を有する身元保誼人を要求するようになったからである。他方、一定

の資産を有する商人の側でも、「獲利の甚だ厚い」買排の地位に就くことを資本蓄積の最良の手段とみなし、白から買排の

地位を獲得するか、或いは自己の一族から買排を養成・訓練した。かかる傾向は上海市場

への移動が最も頼箸であった寧

ー 74-

かくて、清末〈二

O世紀初頭)になると、上海の

「外圏貿易場裏-一於テ

(帥)

たる寧波商人であると報告されている。

隠然一勢力ヲナス」ものは

波商人の買排への準出を盆々促進したであろう。

上海以外の重要な逼

「洋行ノ買排(円。ョ官包。Hm)

においても、

商港においても、寧波商人の買排活動は頼者であった。例えば、既に指摘した漢口をはじめ、北方の貿易中心地たる天津

「天津職出

「寧波商賀ノミハ買排トシテ」「勢力ヲ有シ」

(凶)

入貿易ノ大半ハ」彼等によって取扱われたといわれる。

「外園商買ト密接ノ関係」を保持していたので、

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それならば、既に紹介した穆用元の外に、買排活動を通じて資本蓄積に狂奔した代表的な寧波商人として、いかなる人

物を由挙げることができるか。

まず第一に、開港後早くも上海において銭荘及び総行を経営する傍ら、恰和洋行の初期の買

(国)

(加)

排として「活躍」した

「上海の紳商

・楊坊」を奉げねばならない。楊坊は開港後の「上海に商いし、西人に習い」「よく

(

)

(

)

(

)

夷語に通じた」ので「西人も之を親薩」するに至った寧波商人の一人である。楊坊については、既に外山氏の著名な論文

(川)

をはじめ若干の関係論文があるので、その経歴や政治舞蓋における活動は比較的よく知られている。ここではただ、彼が

(叫)

数百寓を」蓄積したとか、

「通事好商を以って家を起し、

擁」したといわれる如く、買排活動を通じて迭には上海紳商のリーダー格へのしあがったばかりでなく、政治的にも小万

舎や太卒天園革命の鎖匪に重要な役割を演じたことに注意しておきたい。第二に、清末から民園時代にかけて「活躍」し

日)

た朱侃珍〈葎一ニ)を事げよう。彼はアヘン戦争後の

一八四七年に寧波武官の朱裕蘇の子として生まれ、十六歳の時上海へ

商業、取引上の訓練を経て後、

或いは

「市借を以って洋商に依附し」

「十数年間に賞百寓を

渡り、

一八七八年に新裕商行を開設し、

その大株主になると同時に白から経営の任に嘗つ

- 75ー

た。該商行は総出入貿易を大規模に取扱ったというから、この頃から彼と外園商人との関係も緊密になったものと思われ

る。かくて清末(ニ

O世紀初頭)以来、卒和洋行に招融持されてその買排を粂ねるようになり、資本蓄積を押しすすめるた

めのより「有利」な篠件を獲得した。この間に蓄積した資本をもって、彼はフランス東方航業公司(中・

併合排〉及び上

海絹綿公司(中・日合排)などの外圏帝園主義との合排企業へ投資したばかりでなく、華安人需保険公司

・華輿水火険公

・中園通商銀行・中興麺粉廠

・大有搾油廠

・吉邦橡謬公司

・漢口自来水廠

・慶州自来水廠

・輸豊餅油廠など多数のいわ

ゆる民族産業へも投資し、その董事長或いは董事の地位を占めた。従って、民園初期に彼が「上海実業家の長老にして勢

このことをもっ

て彼が民族資本家へ轄身したとみること

力あり」と評されたのも、決して誇張ではなかった。けれども、

205

はできないであろう。蓋し、彼の資本蓄積の基軸はやはり買排活動であったからである。第三に、屡々指摘した銭荘業の

(出)

葉成忠(澄衷)の資本蓄積過程にも、買排的色彩が濃厚であった。彼は十四歳の時同郷の倒某に連れられて上海に到り、

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206

フランス租界内の雑貨庖で修業をはじめた。

は「繋明より暮に至るまで扇舟に掠し、江中を往来」して外園船に雑貨類を買り込む仕事に従事した。

「かくの如くする

こと三年、時坪主頗る頚して」営業を顧なかったので、彼は「卒に僻去」した。その後濁立して

舟を駕し、のち滞漬の

「時に海禁大いに聞かれ、帆船汽船が責浦江に鹿集」するようになると、彼

貿易に就きて苦を作す」こと久しくして、「盆々外人に習い漸くその言語に通じ」るようにな

った。「外人その誠篤敦謹な

るを見て、亦輿に交易」することを欲したので、彼の「獲利は濁り厚」か

った。そこで同治壬氏(元年)、

はじめて小摩

資本で出設しながら

を一一袋虹口に設置した。同年九ぺ庖舗を外虹口に移轄し、郷里から母を呼び寄せて上海に、氷住することとした。嘗初は僅な

「数年の聞にして」

営業規模は日に盆々横大したと

「よく人を揮んで」営業を補佐せしめたので、

、l

o

lvJ'd

かくて、既に指摘した如く、彼の足跡は「通商の各埠に偏く」及んだのであるが、漢口においては長期にわた

って

(m)

アメリカ系美学洋行の石油を

一手に契約販買したという。彼自身が買排に「採用」さ

- 76一

順記蹴と稿する石油卸屋を経営し、

れたかどうかは明らかでないとしても、彼のかかる経歴からすれば、買排的活動こそ彼の資本蓄積のいま一つの重要な損

(問)

棒であったと考えてよレであろう。

第四に、方氏一族の資本蓄積過程についても、葉氏とほぼ同様のことが指摘できる。

ただ異なる貼は、葉氏がいわば「立志体的人物」であったのに射して、方氏

一族は既に開港前から上海へ進出し、

若干の

資産を築いていたということである。従って方潤斎の開設した方振記挽

(後に方銀記と改稿)は、開港後早くも外園貿易

の方面へも進出を試みることができた。即ち該蹴は湖州地方の土絡や紹興府の緑茶を牧買して、これを利百利洋行(原綴

不詳)

へ賀典し、その見返りとして「花色洋布」などの聡入商品を受取り、これを更に自己の所有する爽板船で漢口へ運

び出して買りさ、はいた。彼及び彼の弟の方性斎は若干英語に通じていたので利百利洋行との取引は頗る密接であったとい

う。この方面におけるかかる買排的活動は、銭旺経営とともに、方氏一

族の資本蓄積の重要な契機であったと思われる。

なお、葉氏

一族や方氏一族と共に銭荘業者として「著名」な李氏

一族の中からは、李租韓がアメリカ系洋行の買排に「採

(削)

用」され、

また上海の某銭荘で多年修業した寧波商人の許詩考(音誇〉は、疋頭の商買を鰹た後、

一八八四年上海の義記

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(町山)

洋行ハ出

oEnaw当日白叩待。0・〉に招騰されて買排となった等々の例を拳げることができる外、主に漢口で活動した寧波出

(

)

身の宋埠臣も「著名」な買排商人の一人であった。以上に拳げた寧波商人は

1

主に輪出入貿易を取扱う外人商社関係のい

(即)

わゆる商社買排の部類に属する人々である。

ところで、十九世紀末以来、日本を含む資本主義諸園が帝園主義段階へ突入し、その中園侵略の重貼が商品輸出から資

(

(

)

本職出へ移行するにともない、上海・香港などの各通商港における外園銀行の教も漸次増加の一途をたど

った。かくて、

(加)

商社買排以上に重要な機能を附輿され、資本蓄積の「魅力的」な手段と看徴された銀行買排の醸列も、漸次損大せざるを

えなかった。けれども、銀行買排たらんとする者の資格には商社買排以上に重要な候件が附加された。即ち外園銀行が買

抽併を雇用する際には、「英語-一遁セルヤ否ヤ」は勿論のこと、「先ツ其買排カ相嘗ノ資産家ナルヤ否ヤ若シ買排自身カ責

(山出

産家ニアラザルモ其身元保誼人カ相磨ノ資産アリテ高一ノ場合ニ銀行ニ封シテ其責ヲ負フニ足ルヤ否ヤ」を考慮した。の

みならずまた、「曾テ銀行業叉ハ南替業v

一経験アリヤ否ヤ叉其業務-一於テ果シテ熟達シ叉機敏ナルヤ一否ヤ」をも銀行買排

(仰)

たらんとするものの責格篠件として考慮の封象とした。いわ,ゆる銀行業叉は雨替業の経験者とは、中園の停統的な奮式銀

行業部ち銭荘・官銀挽などの経営者を意味する。従って、銭荘経営者をはじめとする醤式金融業者こそは、銀行買排たる

(m)

「資格」保持者、換言すれば、銀行買排への最短距離に位置する買排議備軍であったといわねばならない。かくして銀行

買排としての以上の二つの篠件、即ち①相嘗の資産家かその一一族・同郷縁故者であること、@金融業の経験者であるこ

と、という僚件を最も完全に具備しえたものは、寧波商人に外ならなかった。蓋し、彼等は清末以来「上海市場ニ肢慮」

し戸「商雄」とか「商業の巨翠」と評されていたのみならず、上海銭荘業界においても藍倒的な勢力を築いていたからで

(出)

ある。かくて、寧波・紹興商人の中から銀行買排が輩出したのも嘗然の勢いであったと考えられる。

207

寧波商人の中のもっとも典型的な銀行買解を二人だけとり奉げて、

(出)

「所謂寧波商人の錦録たるもの」と評された虞和徳〈沿卿〉である。

その略歴を紹介しよう。

彼は同治六年(一八六三)、

まず第一に、

寧波府鎖海豚に生れた

」こでは、

-77ー

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208

が、十五歳の時同族の虞鵬九の紹介で上海へ渡り、実潤如なるものの経営する瑞康顔料践で「商才」を護揮した。二十七

歳の時、魚麟洋行の招聴を受けてその買排となり、資本蓄積の「有利」な僚件を獲得した。該洋行で十年間活動した後、

更に「有利」な傑件を求めて、一八九九年に道勝銀行の買排へ轄じた。更に翌年荷蘭銀行の買排へ移り、以後三十儀年間

該銀行の買排として責本蓄積に狂奔した。その聞の買排活動によって蓄積した彼の資本は相嘗の額に達しただあろう。な

お、彼は長期にわたって買排活動を展開する傍ら、四明銀行や揚清肥巴公司へ投資したり、寧紹汽船公司を設立して積極

的に産業界へも準出を試みたのであるが、光緒三十二年(一九O六)には蘇松太遁の瑞激と結託して江南地方の米を運出

(附)

し、米債を暴騰させて巨利を博するなど、早くもその政治的手腕のほどをみせている。民間以後、彼は

「新江財閥」を代

表して上海経済界を牛耳ったばかりでなく、政治的にも五・四運動や四・一

二クーデターの過程でその買排的役割を如何

(山山)

なく震揮したことにより、衆目をあつめるに至った。第二の代表的な銀行買排は寧波府奉化照出身の朱志莞(開甲〉であ

(陶)る

。彼も一八六

O年前後に生れたものと思われるが、その経歴はあまり明らかではない。ただ、彼はキリスト教徒として

-78 -

フランス租界天主堂街に¢中世書室。を開設し、フランス語の書籍やギリスト教関係の書籍を販貰したというから、或い

はフランス系の「義皐」に在皐したことがあるのかも知れない。その聞に買排としての訓練を受けたのであろうか、

父の

後を繕いでフランス系東方纏理銀行の買排に登用されている。父子二代にわたる買排活動を通じて、朱氏一家の蓄積した

資本は相嘗の額に達したであろう。その資本は、十九世紀末からニ

O世紀初頭にかけて設立された同昌搾油廠・求新機器

輸船製造廠・同昌協記紗廠など多数の「民族」産業へも投資され、彼自身これらの企業の董事を粂任した。買排資本家

朱志尭(開甲)は清末において既に「民族」資本家へ轄身しつつあったといえるかも知れないが、彼の資本の蓄積の主側

面はやはり銀行買排としての活動であった。

以上に紹介した寧波商人の代表的な商社買排や銀行買排は、清末の上海を主要な舞蓋として、同郷的紐帯による蓮携を

保持しつつ、漸次上海経済界に有力な勢力を形成していった。民園以後になると、寧波商人の買排への準出は更に頼著と

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(山即)

F

なり、既に指摘した虞和徳ハ治卿)、・朱志亮(開甲〉・朱侃珍(葎一ニ)などをはじめ、蓋海銀行買携の葉子衡(銭荘経管

(思

Am)

者葉成忠の第四子2・大英銀行買排の徐慶雲(恒群等三銭荘の株主)・上海闘機積務線局買排の劉鴻生・三井銀行買排の

(口)

(

m

)

朱子歪〈朱侃珍の子)・アメリカ系茂生洋行買排の蓑履登などを中心とする寧波出身者が、買排ブルジョアジー内部で匪

(別)

倒的な勢力を占め、銭荘及び銀行などの金融部門で資本蓄積を推進した寧波商人とともに、

「漸江財閥」の重要な一翼を

措うことになる。

寧波帯と上海商務総舎

開港とともに、とりわけ太卒天園革命の挫折を契機として、

209

「所謂買排都市への飛躍的設展の第一歩を踏み出」した上

(問)

海は、中圏各地からの移住者の一大集結地となり、急速な人口増加の現象を招来した。なかでも、慶州・寧波人の上海へ

の移住が顕著な現象となったことは、既に繰り、逗し述べた。清末(二

O世紀初頭)になると、「上海市場ニ於テ最モ著名

ナルモノハ寧波割問ニシテ之ニ

Eグニ贋東部市トス。然レドモ彼等南部ノ間ニハ其勢力ノ差多大ニ

シテ慶東帯ハ寧波務一一

及バ

hm)

ザルコト遠シ。今嘗港ニ於ケル各都勢力/比例ヲ見ルニ寧渡郡ハ七割ヲ占メ贋東部情ハ一割ヲ占メ其他各都ハ二割ヲ占ム」

と報告されているように、「寧波布」は上海市場において匪倒的な勢力を占めるに至った。

(m)

ここに言う「寧波帯」とは、勿論「上海一一於ケル寧波商人(の集圏)ヲ意味」し、

今「慶東都」とは贋東商人の集圏を意

(

m

)

(

m

)

味する。つまり、「都市」とは「同郷商人の圏盤、別の一一言葉で言えば「同郷の誼に因り組織じたギルド」に外ならないわけ

であるが、寧波帯が上海市場において他の同郷商人の諸園陸を塵倒し殆んど濁占的な勢力を築くに至っ

た要因は、いかな

る黙に求められるか。清末(ニ

O世紀初期)の調査報告書によれば、「寧波商買ハ支那商買中ノ錆々タル者ニシテ・:商機-一

敏捷ナル他-一卓越スルモノアリ。是レ即チ寧波商人ガ各市場-一飛揚駿属シ上海ノ如キ肺力商一寅ノ大半ハ寧波-商事一シテ且

ツ其他各要市ニモ所謂寧波都ナル者ヲ組織シ其勢力ノ侮ル可カラザルモノアル所以ナリ」と指摘している。いわゆる「商

ー79-

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210

機ニ敏捷ナル他-一卓越スルモ

ノアリ」

とは、既に明らかにしたように、寧波商人が買排活動及び銭荘経営などの分野で外

な機舎を巧みに掴みえたことを意味する。

園帝国主義に寄生

・従属しながら、

資本蓄積の

「有利」

寧波郭怖が上海市場の

まさにこの貼にあっ

た。加えてまた、前掲の調査報告書が

「殊ニ

彼等寧波商買ハ園

(山)

結聯合

ニ強固ニシテ他省商買ヲ排斥シテ自都市ノ勢力機張-一孜々務メ

ッ、」あると指摘しているように、寧波商人の同郷的

(印)

紐幣にもとづく「圏結」

がとりわけ強固であったことも、彼等の勢力機張の重要な要因であったと思われる。かかる同郷

(山)

いわゆる四明公所であり、寧波禽館であった。

「七割」を濁占しえた第一の要因は、

意識を紐帯として圏結した寧波部の上海における組織的中心が、

ところで、

一般に公所

・禽館の指導者(董事)は、

「有力者ニシテ官

「富豪

ニシテ同郷人間-一人望ヲ有スルモノ多ク」

(刷)

街ニ交渉シ或ハ他郷人ト折衝シテ郷人ノ利盆ヲ固」

りうる人物とされたわけであるが、それならば四明公所の指導者はい

かなる人々であったか。四明公所の設立は開港に先立つ

こと四八年、即ち嘉慶二年のことであるが、道光年間には、かの

(加)

「著名」な方氏一

族が該公所を左右する勢力をもち、これを背景に「上海経済界で抜くべからざる基礎」を築いた。太卒

天園革命の時期には、

「上海の紳商楊坊」も「虹回において四明公所及び義国を創し、商人

(寧波人)の兵を避けて濯に

(附)

来たる者を周値」したので、

該公所における影響力は巨大であった。十九世紀末には、

「商雄」と評された葉成忠(澄衷)

(叩)

をはじめ、沈敦和・耳縄孝などが該公所の指導部を構成した。清末(ニO世紀初期)には、

巌筏航(信厚)

-80ー

-菖藩甫

・方

式如

・周湘雲の四名が該公所の董事に名を連ねている外、虞和徳

(沿卿)

(醐)

あった。要するに、四明公所の指導者は嘗代の「著名」な寧波商人に外ならなかっ

たわけであるが、彼等は上海市場にお

いて座倒的な勢力を占める寧波需の組織的中心たる四明公所を背景として、針外的にも重要な影響力を行使することがで

(

)

きたのである。

朱侃珍(諜一ニ)などの買排も有力な指導者で

四明公所といえども、

ぃ。即ち、十九世紀後牢以降、「洋務運動」を背景に成長しつつあった上海の「ブルジョアジー」全健を結集するために

しかしながら、

同郷的紐帯を基礎にしていた限り、

その影響力の及ぶ範園は限られざるをえな

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は、もはやかかるギルド的組織によっては不可能であった。勿論、上海の「ブルジョアジー」とレっても、寧波商人をは

じめとする漸江・江蘇地方の奮式な地縁的商人集圏の集合瞳に過ぎなかったけれども、帝国主義の急速な中園侵略によ

(

)

て招来された「近代化」現象に割腹して、彼等も自からの階級的組織をもっ必要性を感じはじめていた。

他方、盛宣懐のよう

な洋務振官僚たちも、

(

)

必要に迫られていた。ここにおいて、盛宣懐などの「官僚の建言にかかる天降り的な官憲補助機関」に過ぎなかったとは

(国)

「上海商業曾議公所L

が成立した。光緒二十七年(一九

O一)のこ

寸産業振興」のための資本を官金に依存するだけでは足りず、富商を通じて上海商人圏と結びつく

い》え、

「初めて朝廷の公認を得た商人圏睦」として、

窓-e

波需の指導者たちに外ならなかっ

だ。従って、該公所設立と同時に、巌信厚は組理に、周普錆と毛租模は副総理に就任し、施則敬(紙業公所の董事〉など

(別)

の同業・同郷園陸の董事が舎員に名を連ねた。このことは、該公所の組織構成が四明公所をはじめとする

「商人ギルドの

(刷)

「それ自睦が上級ギルドたる作用を営む」極めてギルド的性格を依然として内包していたことを一示し

とである。

この時、

該公所の設立に商人の側で中心的な役割を演じたものこそは、

える職分L

をも遂行しようと

(陥)

した貼に、停統的な同郷・同業圏鐙の枠から一歩踏み出した上海「ブルジョアジー」の階級的組織としての意義を認める

「各都の聞に連絡をとること」を目的とし、

- 81一

聯合艦」であって、

ことができよう。

該公所の設立に見られるような寧波商人をはじめとする民間商人集圏の動きと並行しつ

つ、清朝政権も一連の「産業振

(附)

輿」政策を推進した。その一環として、光緒二十九年(一九O三〉、商曾簡明章程二十六僚が制定された。該章程の趣旨

は「買籍管業ノ異同ヲ論セス一地方ユ於ケル商人ヲ奉ケテ之ヲ提概指導スルノ機関ヲ設ケ商人互

-一相傾軌スルノ晒習ヲ除

(附)

クト倶ニ文之ニ依リテ官府ト商人トヲ連絡シテ上下隔闘ノ弊ヲ去ルコト」にあった。かくて、

該章程にもとづき、まず上

(

)

ふ綿

一・競簿緩台・安慶・慶門等において、商晴)の設立をみるに至った。もっとも、上海においては、「勧排京城商舎。弁

い犠溝上意冊舎。管原設商業公所。改篤商務組曾」という商部の上奏にもとづき、原設の上海草木曾議公所をもって

「上海

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商務穂禽」と改稿したに過ぎない。光緒三十年(一九

O四)のことである。成立の経過から見て、該商務総舎もまた停統

的なギルド的結合の各種の形態を内包していたことは明らかであろう。とはいえ、清朝政権と上海商人圏の連絡機関とし

(捌)

ての性格と、「より近代的な全一組織」としての任務を帯びて誕生した該商務総曾は、上海「ブルジ司アジl」の階級的

212

成長を示す一つの里程標を意味するものであった。

それならば、該商務純舎の内部で指導的役割を演じたのはレかなる人々であったか。勿論成立の経過からみても明らか

なように、該商務総舎の指導部も、上海市場の「七割」を占める寧波都の指導者をはじめ、その他の漸江諸都の「著名」

(似)

な商人たちによ

って牛耳られた。いま、試みに一九一一

年十月の上海商務総禽々員名簿から寧波務の指導的人物を抽出す

れば、銭荘経営者の林蓮捺・李氏一一族の李徴五・荷開銀行買排の虞沿卿・卒和洋行買排の朱侃珍・東方源理銀行買排の朱

志莞・電報局融排の周普鱒などが事げられる。その内、朱偲珍は該商務総曾の組理に、周普鎌は「商務総曾創立に霊力し

(m)

て同曾坐排」に任ぜられた外、「中園貸業家中其名獲故盛宣懐J

張審雨氏に直ぐ」と評された沈敦和も該商務組舎の議董

(抑)

を歴任したという。なお、彼等に代表される寧波部以外の江湖諸都市からも、日清汽船買排の王一

・罷聾銀行買排の席立

(制)

功などが該商務総舎の指導部へ加わった。かくて、該商務純舎の内部には、漸次寧波商人を中核とする漸江省出身者の地

縁的集園|「漸江財閥」が形成されはじめるのである。

銭荘経営と買排活動を通じて責本蓄積に狂奔しつつ、四明公所へ結集した寧波商人は、

の4

00

いまや上海商務組舎の中極部へ

進出し、依然として強固な同郷的紐帯を保持しつつも、新たなより康範圏の地縁的集圏|「漸江財閥」を成立せしめ、こ

(

)

れを背景に上海経画界における護言権を強化した。のみならずまた、彼等は政治舞蓋においても、或いは諮議局員として、

(揃)

或いは上海域自治公所の指導者として、4

干の政治的影響力をも漸次抜大していった。

結びにかえて

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十九世紀後牢以降、中園の牢封建・宇植民地化への轄落に反比例して撞頭・「瑳展」してきた寧波商人は、既にその資

本蓄積の過程において外園帝園主義への深い依存性・寄生性を刻印されざるをえなかったが、彼等を中核として形成され

た「漸江財閥」、

及びその基盤たる上海商務総禽も、

また嘗然のことながら買排的色彩を濃厚に身につけつつ誕生した。

たとえ、彼等の中に「民族」産業への投資を通じて民族資本家へ轄身した人々がいたようにみ与えたとしても、その買排責

(加)

本家としての本質は覆いかくせるものではなかった。このことは、彼等が多事多端な清末の政治舞蓋においていかなる動

きを示したかを検討することにより明らかとなる。そこで最後に、上海商務線曾成立の翌年、即ち光緒三十一年(一九O

五)に展開された有名な封米ボイコット運動における寧波商人の動向をとりあげて結びにかえたい。

(捌)

「中園近代民族運動の萌芽」と評債されている劉米ボイコット運動は、アメリカの中園人移民排斥法案が一九O四年改

訂期をむかえ、清朝の無力によって更に改悪・巌格化されようとしていたことを直接の契機として展開された。上海商務

純舎は他の諸圏瞳と共にアメリカ綿領事に抗議を提出し、アメロカが排斥法案を改善しなければ

一九O五年五月末日から

アメリカ商品を排斥すると通告した。然るにその期日を六月十八日に延ばさざるをえなくなり、

その前日十七日の曾議で

(捌)

漸く十八日以降排斥に踏み切ることを決議した。この曾議には、各業各同郷の商人・筆生多数の結集をみたが

J

席上馬相

伯が雄鼎を振るって、「不用美貨一事。我園信言己二月。而新奮美使向謂。中園素無圏結力。抵制之説無足健者。試問在坐

諸君。肯受斯言否。・:有人以魚不用美貨有大不便於我園者。噴語耳。是故我人如能協力寅行。則日本山円可以勝俄。安知我

(別)

圏不必挽由美約」と呼びかけ、制到米ボイ

コットへの奮起を促している。かくて劉米ボイコット運動は「皐界に濫鱒し、報

(

)

(

)

界に煽動せられ、商界工界に激流し」、上海においては「最大限の効果」を護揮したといわれる。

しかしながら、ここで注意しなければならないことは、アメリカ大使が「抵制の説曜るに足る無し」と噺いてみせた如

く、劃米ボイコット運動は短期間で終りを告げ、一九

O五年のうちに下火となったという事責である。「その主な原因

長期先物契約でアメリカの棉花を買付けてゐた支那人貿易商達が、かれらの手持棉花を産分することが出来なくな

- 83-

213

t土

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214

運動に参加した上海商務穂舎の内部には、

「美貨(アメリカ商品)を用いざればわが固に大いに便ならずー」と主張する有力な勢力が存在した。即ち棉花商をはじめ

(仰)

その結果煽動に封して冷淡になったことにある」

といわれる。

確かに、

石油・製粉・機械・雑貨等アメリカ商品を取扱う貿易業者である。彼等は大勢に迫られて、

(山)

ものの、絶えず裏面で破壊工作を績けた。例えば、彼等は稔入済みのアメリカ商品に、上海商務総舎の許可詮を貼附して

流通させふベく輩策し、これに成功したのである。

一臆ボイコットに同調はした

既に操り返し指摘したように、上海市場の

「七

(出)

割」を濁占する寧波商人に外ならなか'った。その代表的な人物は、総業公所董事の施則敬(子英〉である。彼はアメリカ

貿易に依存する買排的大ブルジョアの先頭に立って、表面的にはボイコットに同調しながら、蔭でそれを破壊しようと暗

躍した寧波商人の代表的徒輩であった。しかも、彼の背後には同郷的紐幣によって結束する寧波需があり、鐙T

波都は上海

(山)

商務縮舎を牛耳っていたのであるから、該商務総禽が劃米ボイコット運動に「もっとも慎重であった」ばかりでなく、破

壊的役割すら演じたのは、蓋し嘗然というべきであろう。アメリカ大使は該商務組舎のかかる買排的性格を見通していた

が放に、「抵制の読悟るるに足る無し」と豪語しえたのである。

寧波都市を中核として形成された「漸江財閥」、

それならば、

かかる貿易業者とはいかなる人々であったのか。

勿論、

-84-

及びその基盤たる上海商務純舎の娼態的・反民族的姿勢の一端

は、早くもここに頴在化しつつあったということができるであろう。その後の一連の政治的諸事件において、かかる傾向

かくて、

は盆々顕在化せ、ざるをえなかった。例えば、辛亥草命の過程で、革命の隊列へまぎれ込み掴軍都督府の要職を嬬取した寧

波商人の虞治卿・朱侃珍などは、彼等の牛耳る上海商務組禽ぬ名義を利用して、公然と輝豊銀行の取附騒ぎを救済し、そ

(叩)

の買排的役割を露呈した。やがて、'五・四運動及び四・一二クーデターの過程において、彼等の買排資本家としての本質

は寓人の前に徹底的に暴露されるのである。〈一九大七・四・二八稿了〉

J

〈付記〉本稿は昭和四

0年度の修士論文に若干の補訂を加えたものである。なお本稿作成に嘗って佐伯教授から貴童な

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示唆を頂いた。付記して謝意を表する。

215

註ハ問)根岸川『前掲書』

E。橘日前掲書。波多野口前掲番。その

他参照。

(山〉根岸u

『前掲香』

E。なお、貿務制度の成立を規定した諸

係件は、①中閣と外園との言語の懸隔、②風俗・慣習等の相

遣、③中固における貨幣制度と度量衡制度の不統て①経済

愛展水準の相違等々であるといわれる(『全書』第二輯三三

O

|一三一二頁。その他参照)。

確かに、公行制度慶止後の封

'中国貿易の初期の段階にあっては、以上の諸係件、といりわけ

言語の不通という不利な篠件は、外国商人にとって買緋の存

在を必要不可紋なものとしたであろう。けれども、買帥抑制度

がその内容の愛化・震度をむげつつも人民中闘の成立直前ま

で存績したという事貨は、貿拙怖の経済的及ぴ政治的機能が外

国帝国主義の中風侵略にとって紹語不可敏の要素であったと

いうととによってしか説明されえない。根岸氏が「貿緋使用

債値L

の一つとして、中・外の「緩街地機」としての買緋の役

割を指摘しておられるのもハ『前掲書』

E)、右の乙とを「拳

閥的」に言い換えたに過ぎない。買拙抑制度は舛闘帝図主義

の中園侵略の過程で生み出された半績民地中園の一つの象徴

であったといえるであろう。

(m〉賛逸峯日前掲論文。根岸日『前掲書』

E。波多野日前掲

書。その他参照。

(山〉

『清稗類砂』四四「上海洋行之買解」。

(川川〉外山軍治「上海の紳商縁坊」(『東洋史研究』通谷第九谷四

貌所牧〉。

(問)小野川秀美「清末洋務滋の運動」(『東洋史研究』遁省第十

容第六務所山牧)参照。

(川)宮崎桂努

「設立上海同文館議」(『校郷虚抗議』傘下所牧)。

(川)濡桂努日前掲書。

ハ川〉宮崎桂努口前掲書。

(問〉

一波多野日前掲書一五

O頁以下参照。

ハ出〉『年譜』六五頁に寧波における買緋の恵質な活動が記述き

れているが、それによると、「遁司(卸ち貿緋)慮天錫、

寧波人、遇事生風」とある。

(山〉『清稗類紗』町四四「上海洋行之買緋」。

ハ山)『清稗類紗』四四「上海洋行之買緋」。

(山川)綴岸

日『前掲書』

I一三

一頁。なお、開港以後、とりわけ

太卒天国革命の挫折以後、寧波人の上海への移住が顕著な現

象となったζ

どの背後には、かかる傾向が存在したζ

とをも

指摘せねばならないであろう。

ハ附)糞逸峯日前掲論文参照。

ハ川〉黄逸峯日前掲論文参照。

(山)複岸日

『前掲書』

E参照。

(川)『全世官』第七積一六

O頁。

- 85一

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216

ハ川)『金書』第七輯一八三頁。

(川)外山円前掲論文。資逸楽・前掲論文参照。

(川)『光緒郎豚志』四四楊坊停。

(凶〉『同治上海豚志』省二十三。

(川)『光絡鯨勝志』四四楊坊倒。

〈川)『同治上海豚志』省二十三務寓停に、楊坊は「斯之郵豚

人」であるというから、彼が寧波商人の一人である乙とは疑

LなL

(

M

)

外山日前掲論文。小野信爾「李鴻章の登場ーその政治的基

盤の確立をめぐって」令東洋史研究』第十六省第二腕所牧〉。

(川)「致左李高中丞」(『李文忠公朋僚函稀』一所収)。

(川)請終己革道勤遁京米鍋款再行摘販米片」(『左文妥公全集』

格棉哨葵稿初編九〉。

(旧〉『官紳録』。『金書』第二絹三八六頁。『工業史資料』第二

輯下冊九六五頁参照。

(凶〉『消樽類紗』四四。『清史稿』列縛二八五。『上海豚繍志』

容二十一。その他参照。

(叩)賞迩準日前掲論文参照。

(問)『銭荘史料』七三

O頁。根岸川『前掲書』

I参照。

ハ川)『銭荘史料』七三七頁。

ハ出〉張図輝日前掲論文参照。

(川)『金書』第拾一輯二二三|一三四頁。波多野日前掲書ニ四

八真参照。

(即)商祉買韓併は貿易貿解或いは枇内買組問ともいわれる〈根岸日

『前掲書』

E。『全世官』第二積三二七頁以下参照〉。

(川〉レ

lニン『帝劇主義論』参照。

(川〉例えば、早くも一八四

0年代には、鹿如銀行

(OEgg-

回grFE聞の0

・〉が、五

0年代には有利銀行(玄

Rngzz

回gro同HEE円、。ロ

ιoz白ロ円二UZ目白)・奈加利銀行〈の

Z-

スOHE切回ロ

ro同FLEw〉

5可同一広田ロ仏の

rE国〉及ぴ中園

名不詳のごpmggLCgg白ω開ヨぉ。∞

gr・-が香港・上海

に支庖を開設した。一八六

0年代には、本盾を香港におく涯

塑銀行(出C

ロmroロmB口与

ω「田口問72切白ロ

rz聞の0・)がその

支底を上海・漢口に開設した。以上のイギリス系銀行の外、

十九世紀末から二十世紀にかけて、徳華銀行(U22nyl

〉聞広ny冊回

25・露清道勝銀行

(HN58'のZ58∞gr)・

東方涯理銀行(切同

25母F・ELD-のyzm)・花旗銀行

(吋白血a

toE-cq切田口ご・荷蘭銀行

(Z包RZE印円

Z国自L巾

-ωa

冨gznY33)・筆比銀行(∞

BGE∞四一官官

5Hhw肘EZ2

HWM255mO司

FEC-資信銀行(の

EBロ丹、吋22(U0・

0同

Z雪之・J

円。『

5・翁堕銀行

(ω0口広々の・同・回目

52Eι巾

ω7

曲ロmZC及び績植田正金銀行などの支庖が上海・香港に陸績

として開設され、活動を開始した完全書』第二穏三四二頁

以下。その他参照)。

(川川)銀行買緋の報酬は、商枇買緋と同じく俸給と手数料である

が気替取組・金銀の異質・預金・貸付などの業務上で銀行と

その取引相手の双方から受取る手数料ζ

そ、銀行貿韓併の資本

蓄積の源泉であった。乙の種の手数料は小銀行でも年額二世尚

南を下らず、大銀行に至つでは十敏高爾に逮したといわれる

(綬岸日前鍋書』

E参照〉。

FO

。。

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217

ハm〉『金書』第二輯三五O|三五一頁。

ハ問)『金書』第二穏三五一頁。

〈問)すでに第三章で明らかにしたよ

5に、銭荘は洋銀貿寅や経

票夜行という機能を遁じて、また最大の資金源たる折票を通

じて、外国銀行とは密接不可分の閥係にあり、銭荘経営自慢

が買燐活動に準ずるものであったといえる。

(川〉第二章及び第三章参照。

(出〉『官紳録』。綬岸日『前掲書』

E及び『中圏一位曾に於ける

指導屠|者老紳士の研究』参照。

(附〉『農業史資料』第一瞬八九Oi八九一頁。

(山山〉上海人民出版一世『五四運動在上海史料選輯』二三九頁以下

参照。都中夏『中園職工運動筒史』

一九四頁以下参照。根岸

門前掲書』E参照。

〈川〉

『工業史資料』第二穏下冊八七八!八七九頁及ぴ九六

頁。『金書』第二輯三八四頁。

〈削)『銭荘史料』七四三頁。

ハ川〉呉承柑冊目前掲書ニ四五頁以下参照。

(m〉陳岡県、挑洛合編『中園近代工業史資料』第一瞬三二六頁及

ぴ四Oニ頁以下参照。

ハ川〉隊員・銚洛合編日前掲書三二六頁

σ

(問〉根岸日『中間枇曾に於げる指導層』参照。

(川〉根岸氏は民国時代の上海における著名な貿緋九O名とその

出身地を穆げておられるが、それによると、新江出身者は最

も多く四十三名を占め、江蘇出身者は三十一名、庚東出身者

は七名、安徽出身者は五名、江西出身者は一名、不明のもの

三名となっている。とζ

ろで掘削江出身者四十三名の内、隼波

出身者が貰に二十八名〈根岸氏は二十四名としておられる

が、清代寧波府属の各蘇出身者を合わせれば二十八名とな

る)を占め、紹興出身者は五名である(根岸日

『前掲書』

E

二三四

|ニ四O頁参照)。貿緋階級内部における

率波出身者

の比重がいかに犬でゐったかを窺知しうる。かかる現象は清

末以釆の傾向であったといえよう。

(山)山上日前掲書五O頁。小竹文夫「上海の沿革」〈『支

那研

究』第十八腕所収)。

ハ川)『全書』

第七担割一五九頁。

〈川)『金書』第二積五四三頁。

〈川)『清闘行政法』第二各五O九頁。

(川〉根岸

川『前岨調書』

I一三五頁。

(mv

『金書』

第七穏ニOニ|二

O三頁。

(削〉『金書』第七穆ニO三頁。

(問)

『清稗類紗』三四議風に「沼多蘇女。

・:園鶴固結。彼比援

引。在港人数之多。可奥底州・

寧波之商人相提而並論」とあ

るように、と海kanおける'「蘇女」の園結が闘いこと、その人

数が多いζ

とを強調するために、庚州・寧波商人が例として

引き合いに出されているととからも、同郷意識を経帯とする

拍手波商人の圏結の「固さ」を窺知しうる。

(問)上海における隼波商人は蕗業活動のあらゆる部門

κ進出し

たのであるから、「寧波帯」はその内部に各種の後業種目を

異にする曾員を包括していたわけであるが、各禽員は自己の

管業種目毎に更に各種の「同業者ノ小四種」卸ち「業都」|

-87-

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218

(山川〉

)

銭在郡市・貿易都・棉花開市・雑貨郡市・煤炭都・築材訓?魚業務

及ぴ労働者艇などーを組織した。しかも、各業者は同業者の

共通の経済的利盆を維持

・擁護するために、他郷出身の同業

者と協同して、四明公所や宰波曾館とは別に、各々の同業者

組織として、曾館・公所を設立した。例えば、銭荘都は他郷

出身の銭荘業者|紹興商人など|とともに、上海銭業公所を

組織し、その指導者(輩事)として、越撲部凧・張費楚・涯爾

・鴻津夫

・裳聯清・李墨君・林蓮孫などが、銭妊業界にお

いて重要な役割を演じた。他の同業者園慢においても、

寧波

商人が指導的位置を占めた乙とは

言うまでもない。けれど

も、一般に中園商人に封して

「最も強くはたらき掛ける園結

要素は、同業関係から生ずる共通利害よりも寧ろ同郷意識か

ら愛生する共通感情及び之に伴ふとζ

ろの共通利害しであ

り、換言すれば、中関商人の「囲結意識の内容は職業主義的

であるよりも寧ろ地方主義的L

であった。蜜干波商人の場合は

とくにその傾向が強かったから、同郷的紐仙帽を基縫とする四

明公所や率波合同館ζ

そ、彼等の困結の最大の錬鮎となった

のである。しかも四明公所の内部には、商人の外に率波出身

の労働者も含まれていたζ

とに注意せねばならない。

(『金書』第二頼。『治闘行政法』第二省。大谷孝太郎「上海

における同郷国櫨及び同業岡惚」

1『支那研究』第十八腕所

収。根岸

『前掲書』

I。橘

口一前掲書。『銭娃史料』七二五頁。

『年譜』ニ

O一|二

O三頁。その他参照〉。

『全容』第二輯五六五頁。

根岸日『前掲書』

I参照。

(川)『同治上海豚志』省二十一二。

(川)綬岸日『前掲書』

I参照。

(問〉『金書』第二積五六五頁。なお、根岸氏リ『前掲書』

I一

四一頁によれば、民闘四年の四明公所の萱事は、朱傾珍・周

普鍬・抗敬和・良治卿

・般義彬・方舜年・方積鉱・周鴻孫・

葛恩元の九名であった。

(削)四明公所に結集する率波布の園結が如何なく愛揮された典

型的な例としては、フラン

ス租界の鎖張をめぐ

って、同治十

(一八七四〉及び光緒二十四年

(一八九八〉の二固にわ

たって起ったフラン

ス官憲と率波部の衝突事件をあげるζ

ができる。フランス官憲は租界内の四明公所K所属する丙合

を武力で取除乙うとしたが、とれを阻止する寧波人との闘に

衝突が起り、第

一回目の衝突事件の際には四明公所の益事で

あった方給養

・般信厚等がフランス領事と商議を重ねた結

果、外交問題へ持ち込まれ、光絡四年(一八七八)に

一態の

安協が成立した。然るに光絡二十四年に至って、再ぴ衝突が

起り、フランス官憲の武力m即座に憤慨した寧波人は、

ストラ

イキやサボタージュでもって「一時上海貿易を中止せし

bる

勢い」を生じきせたという。・もっとも、乙の時の封例レジス

タンスを指導したのは労働者出身の洗洪賛に率いられる寒波

人の「下流階級」であって、従来の四明公所の賞事たち〈方

繕善

・般信厚

・業成忠など)は、

「徒らに狼狽するのみで策

の出る所を知らなかった」。ζ

のことは、たとえ同郷的な狭

い枠内の利盆であっても、それを擁護するためには「民衆の

力に頼る外に途」はなく、寒波郡市の指導者たちといえども、

05

Page 20: Title 淸末の寧波商人について (下) : 「浙江財閥」の成立に關 する … · (下) 11 「漸江財関」の成立に関する一考察 111 清末の寧波商人について

219

かかる「下流階級」の寧波人の爆愛する

エネルギーを押しと

どめるには全く無力であったことを示している

(H-Bモl

ス著

・増井経夫謬『支那ギルド論』

六四|六七頁。相恨岸日

『前掲警』

I参照)。

(川〉中村義「清末政治と官僚資本」(『中園近代化の批曾構造』

所収)参照。

(川)中村

一前掲論文参照。

(問)中村一前掲論文。橘円前掲響。

(川)橘日前掲番。根岸『上海のギルド』参照。

(川)大谷一前掲論文。橘u

前掲害参照。

ハ川)橘円前掲警参照。

(川〉『光協相東筆録』倉一八四。『清園行政法』第二各五二三頁。

(川〉

『清闘行政法』第二容五二三頁。

(川〉

『清闘行政法』第二谷五二六頁。

(川〉『徳宗貫録』光緒三年五月庚策。

(川)小島淑男

「辛亥革命における上海濁立と商紳層」(『中国近

代化の枇曾構造』所収)。

(川)「順天時報」宣統三年九月六日。小島

・前掲論文参照。

(m〉『官紳報』

(川〉『官紳録』

(川)小島日前掲論文参照。

(川〉一九

O九年に上海懸から選出きれた諮議局員の中には、朱

志発

・朱侃珍

・周地日銀及ぴ李厚裕

(雲書)が名を列ねている

(小島日前掲論文参照〉。

(川〉一九一

O年の上海域自治公所の名答輩事には朱志売が、重

事の

一人に李厚裕が名を列ねている(小鳥日前掲論文〉。

(加)民族資本家といい、買緋資本家というも、畢寛それはすぐ

れて政治的な概念であり、従って、個々の資本家についてみ

る場合、彼の政治的立場を

重視しなければならない。

閥単に

「民族」企業へ投資しているからと言って、民族資本家であ

るとか、民族資本家へ鞠身したというのは笛を得ないであろ

Aノ。

(川〉菊池質晴『中国民族運動の基本構造』参照。

(川)波多野口前掲書参照。

(川〉「順天時報」周年六月二十五日。

ーハ川〉「順天時報」周年七月二十三日。

(山)ポット日前掲書二四

O頁。菊池

日前掲書参照。

(川)ポットニ別掲喬二四

O頁。

(川)和作輯「

一九

O五年反美愛闘運動L

Q近代史資料』第一期

一九五六年〉。菊池

日前回閣香参照。

(山)菊池一前掲書参照J

橘日前掲書参照。根岸

リ『中国枇禽に

おける指導屠』参照。

(川〉波多野日前掲書。

(加)賞品雄培牢日前掲論文参照。小島日前掲論文参照。

小史』参照。

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『上海商圏


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