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Title 「書」の生成と評論 : 中國書論史序説 東洋史研究 (1966), … · 2015. 11....

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Title 「書」の生成と評論 : 中國書論史序説 Author(s) 杉村, 邦彦 Citation 東洋史研究 (1966), 25(2): 163-193 Issue Date 1966-09-30 URL https://doi.org/10.14989/152724 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University
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  • Title 「書」の生成と評論 : 中國書論史序説

    Author(s) 杉村, 邦彦

    Citation 東洋史研究 (1966), 25(2): 163-193

    Issue Date 1966-09-30

    URL https://doi.org/10.14989/152724

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • るb..6間

    ||中園書論史序説|||

    文字は人間の言葉を書き表わすために作られたものであ

    るから、書かれた文字は正確に讃みとられることが必要で

    またそれで十分でもある。俸達手段としての文字

    は、讃者にその文章内容を正しく俸え得たならば、その使

    あり、

    命を一躍達成したことになる。

    ところが文字を書くという態度が多少とも反省され、

    た書かれた文字の中に、車なる記挽性を越えて何らかの規

    魔的な意義を認めるという傾向が、既に文字原始の段階に

    於であったとすれば、後世書が一箇の塞術として生成護展

    し得る契機は文字そのものの中に匹胎してレたといえよ

    ぅ。いつでもまたどこの園でも文字書篤は、常により正し

    163

    くしかもより美しくあることが墓ましいから、そのための

    努力は大なり小なり携われてきた。とりわけ東洋の漢字世

    宇多

    実日

    界では、漢字固有の造形性と筆墨の精能をもとに、人間の

    心情を吐露する好個の場として書の塞術を開花せしめるに

    至った事責は、類まれな例として頗ぶる注目に値する。

    中園では詩と董に書を加えて塞術表現の三位一睡と考え

    られ、貫用の文字書官何と並行して優れた書潟表現は常に審

    - 35ー

    美眼の封象として等重されてきた。これは車に書の歴史の

    みならず、贋く中園に於ける美意識の護展と深く結びつい

    ており、文化史ないしは精神史的な観貼からも等閑親し得

    ない一分野であるといえよう。この小論は、かかる立場か

    ら中園に於て書が塞術として認識されるに至った経緯を明

    らかにするとともに、書に劃する評論がいかなる形式でい

    かなる基準によってなされてきたかを、その初期の段階に

    於て検討しようとするものである。

  • 164

    漢代に於ける書の倉重と鑑賞

    一口

    に「書」と言

    っても、その意味する概念は甚だ複雑

    多義にわた

    っている。

    古く易の繋僻下博に

    「上古結縄而

    後世聖人易之以書契、

    蓋取諸

    百官以治、

    省内民以察、

    夫」とある「書契」

    「首門事を決断する」文字の放用につ

    いて言ったのであり、周櫨地官保氏が園子に教えた六謹の

    中の「六書」は文字構成の原理六種について述べたもので

    ある。また穣名に「書庶也、紀庶物也、亦言著也、著之簡

    編、永不滅也」とあり、説文にも「書箸也、以章者整」或い

    は「倉額之初作書、蓋依類象形、故謂之文、其後形整相盆、

    即謂之字、

    :・箸於竹用調之書」

    (開)と説明されているよ

    元来「書」の字は筆で以て文字を竹鳥に書きつける

    うに、

    行痛を意味している。更に文字を書き連ねたものとしての

    控室雷典籍を綿稽して書といった例に

    也」(割問問一)があり、

    上古の書を意味する向書が箪に書と

    稽されるほか、書簡もまた単に書と稽されている。このよ

    「書者五経六籍線名

    うな意味に於ける「書」字の用例は先秦の典籍に頗ぶる多

    いけれども、後世のように書と言ってただちに襲術性を意

    識することはほとんどなかったものと思われる。ところで

    漢書童文志や説文序によると、古い文字を改良して新しい

    字慢を作り、記憶するのに便利な形に編纂したものがいく

    っか見えている。例えば周の宣王の時に太史舗が大家十五

    篇を作

    ったこと、秦の始皇帝の文字統一の立投者となった

    丞相李斯が、大築を小象に改めて倉額篇を作

    ったなどの事

    賓があり、喜文志では一括して「凡小皐十家、

    四十五篇」

    と記している。これらは何れも字鐙の典型を示して記憶し

    やすくする必要から、筆法には十分注意が梯われたものと

    -36-

    考えられる。けれども果してどの程度翠術的な意固に出た

    ものかは明らかでなく、文字の記憶と正確な書寓能力が古

    今を問わず基礎数育の第一歩であったことを知るのみであ

    る。さて漢代になると、優れた文字書潟が賞用と鑑賞の雨面

    で等重されることになる。

    まず書に巧みであることは事務

    能率を高めるので、任官の僚件として書の巧みさが要求さ

    れた。前漢の初め粛何が法律を定めて、向学童の九千字以上

    を調請することのできる者を史とし、八蝕町を書かせて成績

    一の者を向書御史、史書令史に採用した

    (建一襲)。これ

  • は文字の記憶能力とともに書潟能力を併せ課したのであろ

    う。また張安世は書を善くするを以て給事向書の官に用い

    られ、王等、巌延年、鴻嫌なども史書を善くしたことが何

    @

    れも漢書に特筆されている。史書は嘗時の賞用的な書睡で

    あって、これを善くすることは任官のための一つの捷径で

    もあった。

    も・っともその多くは事務の繁雑な獄吏などに

    嘗てられ、身分はどちらかと言えば卑賎覗されていたよう

    である(稽…顕一鶴…1矧諮問綴語、)。職業的技能としての能

    何よりも正しく謂み易くあらねばならぬ賞用本位の

    書は、

    ものであり、もし誤字を犯せば奉劾を蒙らねばならなかっ

    たのである(諸官)。

    衣に鑑賞的な方面を見ると、漢書楚元王交俸の「好書、

    多材塞」、

    同張蒼俸の「好書律暦L

    、准南王安俸の「震人好

    書鼓琴」などの記述に見られる「書」の概念は甚だ陵味で

    あるが、単なる書籍とレうにとどまらず、多少とも書法に

    165

    劃する関心を認めることができよう。

    同じく前漢の成帝の

    ころ谷永は筆札を善くして、棲君卿(護)の嬬舌とともに

    長安に並び稿せられた(欝一機)。また陳遜は性、書を善くし、

    人に輿えた尺臆は、もらった人みな大切に保存して光栄と

    したといわれる(謹一)。このような事寅に照して、少くと

    も前漢の時代には、既に書かれた文字の濁自の美しさが注

    意されており、文字書寓がその賞用性とともに、鑑賞の封

    象としても倉重された最も早い寅例をここに見出すことが

    @

    できる。

    後漢になると書によって名の俸えられる人物が多数現わ

    れ、各室田建について専門の名家が輩出することとなった。

    いま菅の街恒の

    「四盟主日勢」をもとにして主要な人物を奉

    げてみよう。まず象書では建初年間に曹喜があり、秦の李

    37ー

    斯の法を少しく襲えたといわれる。漢末から貌にかけては

    間部淳が出て薗田喜の法を皐んだ。煮卒石経で有名な察邑は

    李斯、曹喜の法をとって新しい書法を打出したが「精密閑

    理」の貼で淳には及ばなか

    った。貌の章誕も淳を師とした

    が、やぽりそれには及ばなかったといわれる。隷書を善く

    した人には、霊帝の時に師宜官が知られている。彼は霊帝

    が天下の書に巧みな者を集めて鴻都門に召した時、数百人

    が集

    った中で第一等になった名家である。大字と小字をと

    もに善くし、大は一字径丈、小は方寸千言といわれた。師

    宜官の法を同学んだ梁鵠は書を以て選部向書に至り、説の武

  • 166

    帝は梁の書を帳中に懸け或いは壁に釘って賞玩したとい

    う。

    彼の弟子に毛弘があり、

    八分の法を以て秘書に教え

    た。このほか漢末の人左子邑の名も知られている。

    次に草書は「漠興って草書あり、作者の姓名を知らず」

    とされる。元来簡易と敏捷から自然に生れたもので、尺臆

    や草稿など日常的な書官何にのみ使用された。ところが後漢

    になると草書は本来の便宜的なものから次第に濁自の美し

    さを備えるようにな

    った。前漢では草書に巧みであったと

    いう人は未だ史上に現われてこないが、後漢になると草書

    の名手と目される人がかなり多く登場してくる。まず光武

    帝から明帝のころ、北海敬王劉陸が史書を善くして首世の

    措則とな

    った。彼が病に臥したとき、明帝は騨馬を馳せて

    草書の尺駒山十首を作らせたということが後漢書の本俸に見

    えている。章帝の時には杜度が出て書の才能が認められ、

    上奏の文章をみな草書で書いたことは有名であり、度の法

    を皐んだ在理もその子寒とともに草書を善くした。これに

    縞く張芝は名門の出身であるが一生仕官せず、皐聞の除暇

    に書惑を好み

    ただ書によ

    ってのみ名を知られている人で

    ある。筆を下せば必らず措則を粛すほどの精熟した技能の

    持主で、その書する所のものは小紙片でも珍重された。彼

    の門下に出た章誕は彼を「草聖L

    と呼び、芝の弟斑も兄に

    つぐ名手で首時「亜聖」と稿された。

    芝の弟子には萎孟

    穎、梁孔達、田彦和および章誕が有名であったが、何れも

    頑には及、ばなかった。このほか張芝とほぼ同期の人に羅叔

    景、超元嗣、張超などの名も記されている。後漢になると

    このように各書鎧にわたって書の名家が多数輩出したが、

    とりわけ草書の護達は著しく、張氏や屋氏の書跡は世に模

    楢とされて贋く流行するに至った。

    -38-

    ここで翻って漢代に於ける俸統的な文字観を尋ねてみる

    と、許恨の説文序に

    蓋文字者、経塾之本、王政之始、前人所以垂後、後人所

    以識古、故日本立市這生、知天下之至噴而不可凱也

    とあって、文字が経塾の根本、王政の始めであることが述

    べられ、

    また慢の子沖の「上説文解字書」にも同様の趣旨

    が述べられている。五経の道を昭悶ならしめる根本として

    の文字は、古来の停統がそのまま縫承され

    しかも正確に

    誼みとられなければならない。これによって許慣が嘗時通

    行の隷草を捨てて敢えて小家をとりあげ、古文と謹文を参

  • して、字義解穫の範を示そうとした趣旨が明らかである。

    霊帝の時に

    出た越壷は、

    かかる俸統的な文字観に立つ

    て、

    嘗時の草書の流行を非難し、

    を著してい

    「非草書」

    る。後漢書の本俸によると彼は豪傑肌の文筆者で、しff

    しば時勢を煉慨する上奏を行っているから、非草書も恐ら

    く同様な立場から書かれたものであろう。その論旨は、彼

    と同郡の士梁孔達と菱孟穎(何れも四種書)が張芝の草書を

    F

    ~

    慕うので後皐の徒も競ってこの二賢を慕い、幼少より倉額

    篇や史摺篇を慶して杜度、雀麗を法とし、

    お互いの書簡に

    もあわただしくて草書するに及ばずと但書などするのは、

    簡易と敏捷から生れた草書の本旨に反している

    というの

    である。それにも拘らず現貧には寝食を忘れて研鎖し、十

    日に一筆、月に数丸の墨を費やし、領袖は墨染めの如く唇

    歯も常に黒く、地面や壁面にまで書いて習うという有援で

    あった。越はこのような努力を、模倣者の醜を増すにすぎ

    ないといって、更に

    且草書之人、蓋伎襲之細者耳、郷邑不以此較能、朝廷不

    以此科吏、博士不以此講試、

    四科不以此求備、徴聴不問

    167

    此意、考績不課此字、徒善字既不達於政、市拙草無損於

    治、推斯言之、山一一旦不細哉、

    草書の人を一般に伎襲の細者と断じ、社舎に於て正式に通

    用しないこと、及びその巧拙が政務に直接影響しないこと

    などを理由に草書の流行を非難している。しかし彼はその

    反面、書のもう一つの性格にも多少注意を梯って、例えば、

    凡人各殊気血異筋骨、心有疏密、手有巧拙、書之好醜、

    在心輿手、可強震哉、若人顔有美悪、山豆可皐以相若耶、

    といい、書が人聞の肉腫と同様に心手の資質として先天的

    に性格づけられることを述べたあと、杜度、屋理、張芝等

    は何れも超俗絶世の才能を持ちつつ、博拳の除暇に手を書

    謹に遊ばせたことを捧護している貼も見落してはならな

    - 39ー

    L、。

    霊帝を中心とする時代は喜術の各分野に新思潮の勃興し

    た時期であって、書に於ても漢碑の名作はほとんどこの時

    期に集中している。それは帝自ら書法を寧重して、書に巧

    みな者を優遇したからに外ならない。

    初(霊〉帝好撃、自造皇義篇五十章、因引諸生能篤文賦

    者、本頗以経皐相招、後諸篤尺胆及工書鳥象者、皆加引

    召、途至数十人一後漢書)。

    戸茶色待、

  • 168

    光和元年(一七八)霊帝は始めて鴻都門畢生を置き、州郡

    ニ公に教して、尺般僻賦を能くし、

    また鳥象を書するに巧

    至る者千人であった

    みな者を奉げて試験をしたところ、

    (後漢書盛)。霊帝によ

    って聞かれた鴻都門皐は、

    F

    帝紀及注」

    の太皐に射して、官途としては一般に軽視されたが、頗ぶる

    経察本位

    事術的傾向を帯びており、文章書室旦伎塞の土が雲集したと

    いわれ恥この時試験官となったのが警邑であった。彼は

    もとより博皐多喜の才士であ

    って、僻章を好み書室且音律を

    普くして天文数術にも明らかであ

    った

    (駿鰐一献酬及)。

    帝はかつて禁邑に詔して赤泉侯五代の賂相を萱かしめ、品氷

    ねて讃及び書を焦らしめたところ、その書董に讃を合せて

    三美の稽を得た

    (歴代名登記谷四引東観)。また彼には書に開

    戸漢記弁孫暢之述輩記

    して「象勢」の著のあったことが本俸に見え、その文章が

    今日惇わっている。

    既述のように草書は杜度、催攻、張芝などの名家によっ

    て謹術的に洗練されたが、このような趨勢は自ら鳥象や隷

    書にも謹術性を見込むこととなり、

    霊帝の時には草書の尺

    胞から象隷の碑版に至るまで各々盛況を呈していたものと

    思われる。

    出往理(七七

    l一四二)は「草書勢」なる文章に於て、草書

    の筆勢を讃して、

    芳貼邪附、似明熔掲枝、絶筆牧勢、除縫糾結、若杜伯捷

    毒、(看隙)縁峨、膳地赴穴、頭混尾垂、

    と形容している。書を日月風雲鳥獣草木など自然の動態に

    ほかに察邑の家勢などにも見ら

    替えて評読することは

    れ、書論の原初的な形式がこのようなものであったことを

    示して

    いる。

    因に雀麗の草書勢は越萱の非草書にも「故其

    讃日、臨事従宜」としてその

    一句が引かれており、よほど

    - 40

    有名であったことが窺われる。また班固が弟超に興えた書

    『書断J

    簡{下引}には、「得伯張書、藁勢殊工、知識讃之、莫不嘆

    息、貫亦事由己立、

    名白人成」とあって、章草を善くした

    徐幹(伯張は)の書の筆勢が稽美されている。漢末には呉人

    rその字」

    張紘が文翠を好んで借家を善くし、彼に針する孔融の返書

    にも、「前第手筆、多象書、毎翠篇見字、欣然濁笑、如復

    胡町長ん世」(配四時一蹴蹴)と記され、書がその筆者と結びつ

    けて鑑賞されて

    いる。これらの諸例を通して、後漢には既

    に書の筆勢を自然現象に壁えて論讃したり、或いは書の内

    に筆者の性格心情を洞察するという風潮のあったことを知

  • るのである。

    説菅に於ける書的意識の向上

    抽腕の時代に出た書人のうち、後世に最も大きな影響を及

    ぼしたのは鍾訴である。彼は後漢の献帝のとき孝廉に奉げ

    られてより、競の建園に嘗って曹操を助けて軍功、があり太

    侍にまで至った。彼は元来貌の大官としてよく知られてい

    たが、貌志の本俸には彼が書に巧みであったことは少しも

    記されておらず、胡昭の停に胡昭、郡部淳、衛親、章誕等

    と並んで書名が見えているにすぎない。ところが後世にな

    ると専ら書の方で有名となった。まず彼の外甥に嘗る萄勘

    が菅の武帝の時に秘書監となり、書博士を立てて弟子を置

    いて教習するに鍾訴と胡昭の法を以て標準とした(暗醐百)。

    王義之が少くして師事した衛夫人と王虞は何れも鍾法を善

    くし、義之自らも鍾訴に範を求めたことは後述の通りであ

    る。その後南朝の書論では張芝、王義之と並べて鍾鯨を古

    今の三筆の一人に教えている。

    南朝宋の羊欣の「古来能書人名」には、鍾の書に三陸あ

    169

    りとして銘石書、章程書、行押書を奉げている。この中第

    一の行押書は「相聞する者」と説明されており、尺績用の

    行書であったと考えられあ。

    梁の庚肩吾の

    「書口問」

    「許昌の碑を妙壷し、鄭下の臆を窮極す」とあって、彼が

    碑銘とともに尺膿を善くした。ことを記している。四盟書勢

    の隷書の項には、

    貌初有鍾胡二家、矯行書法、倶皐之於劉徳昇、而鍾氏小

    異、然亦各有巧、今大行於世、

    と見え、劉徳昇の作ったという行書の法は、鍾蘇や胡昭に

    縫承され、漢代以来の草書と結びつくと尺膿用の書風とし

    て濁自のスタイルの美しさを備之、以後書法の主流をなし

    -41ー

    てゆく。漢代に紙の護明があり、貌の曹操に始まる禁碑の

    令が巌しくなると、書の美しさは主として日常の尺臆に表

    わされることとなった。行革鐙の流行と相倹って、碑版か

    ら尺膿への移向は貌菅南朝の書の大きな特色である。競亙自

    の際に尺膿を善くした人士をここで少し拾ってみると。

    まず胡昭の尺臆が必らず模楢とされたことは貌志管寧俸に

    見えており、同じく湾献王般も尺臆を普くして世の措と

    f

    る所であった(語一)。古来能書人名によると、衛瑳は張芝

    の法に父衡観の法を加味して新たに草藁を作った。草藁と

  • 170

    は相聞(駅)の書であるという。また楊肇は草隷を善くして

    その尺般は必らず珍重され、杜度の子孫である畿、恕、預

    の三代も倶に草藁を善くしたことが記されている。

    この期の重要な書論としては、衛恒の「四健書勢」

    があ

    り、晋書の本停に牧録されている。恒の祖父親は説の太組

    武帝に仕えて向書となり、古文鳥家殺草を好んで善くせざ

    る所がなか

    った(械肺)。父曜も菅の武帝に仕えて向書令を

    奔し、

    敦煙の索靖と並んで草名があり、

    蓋二妙」と稽

    せられた。衛夫人は恒の従妹に首り、恒の弟宜、庭及び恒

    の子珠、治等も書名が知られているから、衛氏は質に累代

    書の家法を侍えており、恒自身も草殺を善くしたことが本

    俸に記されている。

    さて四陸書勢の四健とは古文、

    隷、

    草であり、

    分、行、措はみな隷の中に含まれている。その内容は各鐙

    について、初めに字践の起源沿革を記して漢貌の際にその

    鐙を書するに巧みであった人物を奉げ、終りに讃を附して

    いる。

    総じて記述は師承閥係や優劣の比較などに多くの閥

    心が排われ、

    書の内容そのものに関する評句は未だ至極簡

    単であるといわなければならない。しかしその中から多少

    とも書を評する基準となった要素を拾うならば、殺字

    (時

    以一周)か措if、昔静か肌山岳、筆勢か仲介、位争か叶骨など

    を翠げることができる。次に論讃の部分を見ると、

    古文に

    恒自作の「字勢」を採

    ったほかは、察邑の「象勢」鍾訴の

    「隷勢」経理の「草書勢」を引用して之に代えている。冒

    頭に、太康元年設掘の法家書の一巻に楚事を論ずるものあ

    り、その書法最も巧妙なるが故にこれを讃美するため、前

    賢の作を廊ぐに足らざるを協じつつ、古人の象を存するを

    って

    「字勢」を作った、と述べている。これによると、

    -42ー

    衛恒は浪家書の護掘を契機に、先人の書論的著作に倣って

    まず古文を讃する「字勢」を作り、更に象隷草の序を書き

    加えて今日見る四鐙書勢の鐙裁をとるに至

    ったものと考え

    @

    られる。何れにせよ衛恒の

    「字勢」が漢貌以来の惇統をう

    けて、特に筆勢論の立場から書かれたことは明瞭である。

    一般に運筆の饗化から導かれる自然な筆勢の流露は、書

    線の持つ著しい特色であり、それは観者の眼に勢や力の感

    賓として鑑賞上第一の基準となる。初期の書論が筆勢論を

    主要な内容とするのは、筆勢が書の特長として相嘗早くよ

    り意識されていたからであろう。

    南朝宋の王惜の

    「文字志

  • 目」には「書勢五家」と見えており、これは筆勢論を主と

    する書論的な文章ではなかったかと想像される。菅代に於

    ける筆勢論の展開は、成公緩の「隷書睦」、索靖の「紋草書

    勢」A

    楊泉の「草書賦L

    劉酌の「飛白書勢銘」、

    王現の「行

    書一献」等によって見ることができ、

    」れらは何れも特定の

    書鐙をとりあげて、筆勢の様々に第化する姿を、或いは自

    然の動態に比磁を求めて評読し、或いは自己の一観念の中に

    とらえようとしている。ここには嘗時の自然や人間解簿の

    一つの現われを認めることができよう。

    由来、中園古代の文字の措い手を見るに、股周時代に於

    ては史官であった。文字は史官が占卜を行ない、歴史を記

    述するための紳聖な道具とされ、文字を書し刻する行震は

    そのまま祭政一致の古代神秘主義の寅践に外ならなかっ

    た。次いで秦漢の専制園家は史官の地位の混落とともに、

    大量の有能な官僚書記官を要求した。儒撃を修める官僚士

    大夫にとって、文字は聖賢の道を載せる用具であったし、

    直接政務に携わる書記官にと

    って、文字は役所文書作成の

    171

    ための職業的技能であった。何れにせよ彼等は文字を逼し

    て職務に忠貫であらねばならず、またそれ以外に生きる術

    を知らなかった。古代の文字は常に個人の生活の場を越え

    て、園家震政者の手に委ねられていたといえよう。

    しかるに秦漢の古代帝圏が崩壊すると、

    競菅の貴族、

    とりわけ文人と呼ばれる新しい型の人聞が登場してく

    る。従来指摘されているように、漢代の選翠制度の不備は

    情賓の入込む所となって官吏の地位の世襲化を招き、

    一方

    土地、人民の粂併による豪族化と相侯〆て、政治的にも経

    済的にも固定勢力が形成され、これがやがて貌菅の貴族へ

    と饗身してゆく。彼等も本質的には官僚の身分ではあった

    - 43ー

    が、漢代の官僚とは遣って、門閥の地盤の上に立ち豊かな

    財力を背景としている。それはもはや漢代の官僚のように

    天子の前にただ能更を以て自ら任ずる者ではなく、生活の

    援り所を自己自身の内に持つ自由人であった。政治意識や

    道徳観念に代って、人生の意義や永遠の問題が彼等の最大

    の関心事となった。個人の自費ないし人間性の護見が謹術

    の護展に不可絞の僚件であるとすれば、員の意味に於ける

    塾術史は貌晋の時代にその開幕を告げたといえよう。皐に

    皐徳完備しているだけでは十分でなく、事術に劃する豊か

    な理解と修得を品兼ね備えた者でなければ全き人聞に非ずと

  • 172

    する時代思潮のものに、文章書董音律工慈彫刻などの慶い

    分野にわたって、その才能を護揮した多謹多才の人士を多

    数輩出している。このように土大夫が自ら進んで喜術に携

    わることになると、各襲術に閲して思索が深められ、理論

    化が試みられて、曹歪の「典論」、

    陸機の「文賦」

    以下の

    文附学論や、顧憧之に始まる重論の展開を見るに至

    った。警

    の塞術的貿醒は貫作上に於ても一評論上に於ても、車にそれ

    だけ孤立した現象ではなく、文接、檎霊、立日祭など塾術史

    一般の動向と軌を一にするものであったのである。

    東菅の初期、

    王廃は少くして文名があり、音楽射御博突

    すべて善くせざるものはなか

    ったが、とりわけ書董は育代

    第一と稽せられ、董は明帝の師となり、書は王義之の法と

    こ(音書本伴、主信)。かつて一民土従子義之のために孔子

    TF度論省、書断

    十弟子園を董き、これに讃して次のように云った。

    余兄子義之、幼市岐泉、必勝隆余堂構、今始年十六、製

    d

    事之外、書重過目使能、就余請書霊法、余董孔子十弟子

    園以馳之、嵯繭義之、可不動哉、霊乃吾自童、書乃吾自

    書、吾徐事雄不足法、而書霊園可法、欲汝摩書則知積拳

    可以致速、

    向学董可以知師弟子行己之道、

    叉各矯汝賛之

    「名登記〆。

    r各五

    この逸話は世読新語言語篇の注に、「義之少くして朗抜、叔

    父民の賞する所となり、草殺を善くす」とある記事と相慮

    ずるものである。霊百を島一・ぶにはまず皐聞を積んで遠きをき

    わめるべきことを知り、

    重を拳ぶには孔子や弟子たちが自

    らを開拓した方法を知らねばならないとしている。

    一民は書

    の根底に技法以上のもの、即ち皐問的教養を重覗したこと

    が明らかである。かつて書は聖賢の遁を載せる用具として

    政数の手段にすぎなかったが、今や優れた書の篠件として

    拳殖の裏付を要求するに至ったことは、書が文人の塞術と

    -44一

    して護達すべき一つの方向を提示したものといえよう。

    般に中園に於ける優れた襲術の作者は、高巻の書を讃み寓

    里の路を行った彦哲でなければならなレとされるが、廃が

    書に於て重蔵した「積率致遠」は

    ただ書にとどまらずあ

    らゆる事術の思想的基盤となるのである。

    虞に教を受けた王義之は、

    人」(糊一議訓)と許され、もとより早なる技巧の土ではな

    @

    かった。蘭亭雅遊の主催者としてその文名もとより高く、

    童にも雑獣園、臨鏡白骨局員園、扇一上董人小人物などの諸作

    「風流の才士、

    斎散たる名

  • の俸わっていたことが名重記巻五に見えている。書に技法

    以上のものを重視する傾向はそのまL義之に糧承され、そ

    の名筆の背景となっていると思われる。ところで義之が書

    に関していかなる思想を持っていたか、彼の書論として信

    湿すべきものの少ない今日、遺憾ながら十分知ることはで

    きない。ただ法書要録巻一に牧める「晋王右軍自論書」に

    +ふ、吾書比之鍾張、嘗抗行、或謂遁之、張草猶嘗雁行、張精

    之、:::尋諸奮書、惟鍾彊故信用組倫、其絵鴛是小佳、不

    足在意、去此二賢、僕書次之、

    熟過人、

    池水量墨、

    若吾耽之若此、

    といって、彼は古人の書を多く皐んだ中でも特に鍾蘇と張

    芝を品尊敬して、

    しかも自分の書も之に次ぐという自信の程

    を示している。

    義之の書の評債については、

    宋の羊欣が

    「貴越群品、古今莫二、粂撮衆法、備成一家」と評した言葉

    そのま与に、後世傍統的書法の典型として等重されるに至

    ったことは周知の事買であるが、彼の書名は既にその嘗時

    173

    から高く、南山の扇や換鴛の侍読、庚亮に輿えた彼の書が張

    芝にも匹敵するほど見事であったこと(齢社隔で或いは穆

    僻論J

    書表」

    物語っている。

    『宋F

    彼の書がいかに珍重されていたかを

    帝が彼の上奏文を張翼に命じて忠賞に臨潟させたこと

    などの逸話は、

    次に、

    それでは義之の書が嘗時の人の眼に

    いかなる風格のものとして映じていたかが問題となるであ

    ろう。これを知る直接の資料は存在しない。しかしただ一

    っここに私がその手がかりとして奉げたいのは、世読新語

    容止篇に見える次の言葉である。

    時人自主右軍、瓢如遊雲、矯若驚龍、

    」れは

    一般には彼の容

    -45一

    「容止篇」

    に見えるところから

    貌風彩を評した言葉と解されている。ところがこの言葉か

    ら受ける印象は、どうも容止よりもむしろ彼の奮を評した

    ものと見る方がより適切な感がある。現に唐代に作られた

    菅書では「遊雲」を「浮雲」に作るが、とにかく義之の書

    ほかにこれと類似の言葉

    を書論の中から探すと、「蓋草書之篤朕也、腕若銀鈎、瓢

    若驚驚」(一一一間鰍)、「瓢若雲遊、激如驚電」(蹄胡)などが

    あり、また「王右軍書、字勢雄強、如龍跳天門、虎臥鳳閣」

    (抑制帝)と、ここでは義之の書が龍に醤えられている。人

    の容止を驚龍に誓えることはほとんどその例を見ないのに

    の筆勢を評した言葉としている。

  • 174

    劃して、書を雲や龍に曹えることは古くからよく行われて

    いる。従って世読のこの言葉も嘗時の人が義之の書を評し

    た言葉と考えてよいかと思う。義之の瓢々として捉え所の

    ない高逸な人格がそのまL

    書の上に現われ、その評慣がこ

    のような言葉によって行われていたものを、劉義慶は世読

    の編纂に嘗って容止篇に混入したものであると一躍理解し

    て、暫らく疑問を存しておく。

    ところで唐の孫過庭が、「東五日の士人互いに相陶浮し、王

    謝の族、都庚の倫に至つては、縦いその神奇を壷さざるも

    みな亦その風味を抱む」(輔)といった言葉を待つまでもな

    く、義之の周園には多くの書の名家が集って互いに啓裂し

    あいながら、この期特有の書の美しさを護揮するに至った。

    例えば瑚邪の王氏は義之、献之より始めて一族こぞって書

    名が惇えられ、謝氏には向、突、安等があり、義之の妻は

    郁氏の出で、壁、情、

    曇、超、俊、依等が知られ、庚氏に

    も亮、惇、翼、準があって、能書の人士は枚奉に暇がない

    が何れも嘗代を代表する名士であった。彼等が書をいかな

    るものと考え、

    またいかに傘重したかについては、

    いくつ

    かの逸話が俸えられていて、

    その一端を窺うことができ

    る東五日の太極肢が完成した時、その殴牌の揮喜を命ぜられ

    た王献之は使者に向い、「その殴牌を門外に棄てておけ」

    と怒鳴りつけたという(諸問方)。掌誕の凌雲蓋の故事にも

    見られるように、殿牌や碑銘の揮一宅が筆吏の末塞として一

    般に軽覗される傾向が古くからあり、献之はそのような扱

    いを受けたことに憤りを感じたものと考えられるが、更に

    そのもう一つ奥には、書を何ものにも奉仕しない自からの

    ものとする立場、即ち、あくまでも塞術として扱おうとす

    ~ 46-

    る意識が見られる。同じこの献之がかつて簡文帝に十紙ば

    かりの騒を上り、その最後に題して「私のこの書は甚だ気に

    入りの作ですから、大切こ保存して下さい」(虞鯨論)

    t

    r

    った言葉が、何よりもそのことを立謹している。庚翼の書

    は少時義之と名を湾しくしていたが、その後載之の方が上

    達して康くもてはやされることとなった。そこで翼は任地

    の荊州から都下に書を興え、「小見輩は家難(翼)を賎しみ野

    驚(強)を愛し、みな逸hy(

    義之)の書ばかりを同学んでいるが、

    プ乙

    j

    r

    の字」

    私が還るのを待ってその優劣を比べるべきである」といっ

    ている(粧封皮)。翼は義之の書の流行に、一種の嫉妬を抱い

  • ていたのである。風流宰相の名を得た謝安は、蓄の上でも

    二王とかなりの親交があった。義之が安に輿えた書(控指)

    dFd

    ヘJnλ

    “、

    に「復興君斯員革、所得極矯不少、而筆至悪、殊不稽意」

    とあって、安に員草の書を書き興えている。また書断にも

    義之が安に劃して「あなたは書を解する人だが、書を解す

    る人に遇うことは尤も難しいことです」(一一服)といってお

    り、安が載之の書のよき理解者でもあったことを思わせ

    る。安自らも書には自信があったらしく、献之のために桔

    康の詩を書いて興えているが(紅一制度)、献之の書をあまり

    高くかっていなかっこ(良係論番表)。世読品蓮篇には

    TF孫過庭書譜」

    謝公開王子敬、君書何如家傘、答日、国首不問、公日、

    外人論殊不爾、王日、外人那得知、

    とあり、注に引く宋明帝の文章志によると、安は同じ質問

    を麓之に向っても護している。二王の書の優劣については

    既にその首時から話題になっており、彼等自身はそれぞれ

    に自己の優越と個性に基づく濁自の書風を自負していたの

    である。これらの逸事を逼して、彼等の聞に書をあくまで

    も塞術として扱おうとする意識のあったこと、及び書の優

    175

    劣比較が大きな闘心事であったことを知るのである。

    書の美しさが鑑賞の劉象とされてより、書跡の蒐集は逐

    次盛んになったと思われるが、東菅名家の輩出はこの傾向

    にますます拍車をかけ、宮廷や額門による蒐集の盛況ぶり

    は虞鯨の「論語表」に詳しく記されている。例えば桓玄は

    二王を好んで紙絹に書かれた正、

    行書の尤も美なるを撰

    び、各一峡を作って常に坐右に置き、南奔するに及んで狼狽

    の中にもそれを携行しこ(桓玄の審査蒐集は、吾妻、貌書の本}。

    -TF停にも記され

    τ特に有名であった}

    また宋の明帝の時に虞紙、泉街之、徐希秀、孫奉伯等に詔

    して整理せしめた二王及び漢貌以来の名筆の内諜が詳しく

    報告されている。装偵に嘗つては数種の書を上中下に分け

    て、巻頭に上位のものを置き、中聞には下位のものを並

    べ、巻末に中位のものを配置して、鑑賞する時の心理的効

    -47-

    果を狙っている。繕董の護展とともに、書童の名作の蒐集

    はその後南朝に於ても盛行し、晴代に至ると法書名萱八百

    絵巻あり、文帝は観文殴の後方、東に妙措蓋を、西に賓蹟

    蓋を起して、それぞれ古よりの法書と名董を牧醸したこと

    が情書経籍志に記されている。書董の蒐集熱は鑑賞の仕方

    にも一定の基準を立てようとする傾向を生じ、書重論の展

    開される基礎となったのである。

  • 176

    顔之推は「顔氏家訓」雑謹篇の中で、江南の地方に「尺

    閥、書疏は千里の面白なり」という諺のあったことを紹介

    し、菅宋以来の風習として書法にはみな注意しており、急

    いで観暴に書きなぐるような者はいなかった。そして彼自

    らも幼時より先租の家業をうけて、その上に好きでもあっ

    たから、多くの法蓄を見てよく習ったが、遂に上達しなか

    と述べている。

    @

    顔氏は累代昼間の家柄で、書の名手も多かった。かく言う

    ったのは全く天分がなかったからである、

    之推自らも尺般に工みであったことが北斉蓄の本俸に特筆

    され、彼の五代の孫に有名な員卿が出ている。

    先の文章に績けて之推は、室田の技能が他人に利用される

    ことを戒めて、「しかし書事に念を入れすぎる必要はない。

    そもそも巧者は労し智者は憂うといとおり、能書の者はい

    つも人に役便されていよいよ累わしく感ずるもので、章仲

    終(誕)

    の遺戒は全くもっともである」といい、王義之、

    粛子雲、王褒等が能書の故にかえって本来の才拳が忘れら

    れがちになった例を拳げながら、

    「慢しみて書を以て自ら

    命づくる勿かれ」と忠告している。ところ、が彼はここでも

    一方の書の措い手のあることを指摘して、

    「しかし身分

    の卑しい人で、能書の故に抜擢された者も多レから、行き

    方が違えば一概にはいえない」主述べている。恐らく慕賢

    篇に記す了間肌等をその寅例として意識していたのであろ

    う。要するに之推は、士大夫の除技や曜としての書と、筆

    吏の職業的技能としての書の二種を、明らかに直別してお

    り、彼自らは言うまでもなく前者の立場から書を事ぶ心得

    を説いているのである。彼が雑襲篇で列摩した書室且を始め

    むすほ

    とする諸事は、「愁いを消し慣れるを懇き、時に之を信用す

    可きもの」であって、「以て粂明す可きものにして、以て

    専業とす可からざるものL

    とされている。彼の塞能観の根

    底には、「謹成而下、徳成市上」

    (種記)、「激於塞」(論語

    F

    集記」

    F

    述而

    櫨記)、「君子不器」(論語)、と

    、った類の経書の言葉が直

    L

    ちに想起され、儒家の俸統的な債値観に根ざしていること

    が明らかであるが、しかも襲能に射する贋い理解と修得を

    士大夫に必須の数養として重視しているのである。

    - 48ー

    さて、南朝の書の流れを概観すると、既に指摘されてい

    るように、二王の租述であり展開であったと言えよう。卸

  • ちその前半は主として献之の法に倣い、後半は義之の韓に

    範を求めた。南斉書劉休俸に

    元嘉世、羊欣愛子敬正隷法、世共宗之、右軍之瞳微古、

    不復見貴、休始好此法、至今此鐙大行、

    とあり、その事を端的に説明している。南朝の初めに献之

    を拳んだ者には、{木に羊欣を始め文帝、謝霊運、孔琳之、

    驚思話、活嘩、薄紹之、丘道護、賂筒等があり、費では高

    帝、王借度等が知られている。ところが梁になると、顔氏

    家訓雑事篇にも、

    梁氏秘閣散逸以来、吾見二王員草多呉、家中嘗得十巻、

    方知陶隠居、院交州(号、粛祭酒(軒)莫不得義之之鵠、

    故是書之淵源、斎晩節所儲叩乃是右軍年少時法也、

    と指摘されているように、梁代の名家である陶弘景、院研、

    粛子雲等は何れも義之の睡を得ており義之七世の孫である

    陳の緯智永も、遠く義之の書を租としたといわれる(陪)。

    南朝の初めに義之よりも献之の書法が倉重されたのは、

    177

    之に直接師事した者の多かったこと、献之は父の法を改め

    て新しい書風を聞き、これが南朝初期の気風に合致したこ

    と(鍛)、などをその理由として奉げることができる。

    東菅時代が、二王以下の名家の輩出によって、書の歴史

    の上に一つの頂黙を記した後は、漸ゃく整理と批剣の時期

    に入ったため、南朝では書そのものよりも、むしろ書論の

    護達が注目される。その主要なものとLて宋の羊欣の「古

    来能書人名」、虞鯨の「論書表」(泰始六年)、賓の王借度

    F

    四七

    O年」

    の「論書」「書賦」「筆意讃」、梁の武帝の「観鍾訴書法十

    「評書」、庚元威の「論書」、庚

    肩吾の「書口問」、案昂の「古今書評」(時一諸僻)などの文

    章が今日俸えられている。書以外の分野では、文闘争論に劉

    認の「文心離脱龍」、鍾蝶の「詩品」など、重論に謝赫の「古

    重品録」、王徴の「紋重」、挑最の「績董品」などが出て、

    一一音山」

    「輿陶膳居論書啓」

    ~ 49一

    貌菅以来それぞれの方面で孤立的に論議されてきたあらゆ

    る問題が、時熟して自ら一つの謹術思想として集成統一さ

    れる傾向にあった。

    六朝の書論については既に先皐にいくつかの優れた論考

    があるが、私はこれらの業績を参考しつつ書評論の形式と

    その基準となった重要な評語を検討し、あわせて大瞳の系

    統を立ててみたいと思う。

    ー、宋・羊欣「古来能書人名」

  • 178

    先ず羊欣(三六O

    |四三二〉については、宋書本俸に

    欣少靖歎、無競於人、美言笑、善容止、汎質経籍、尤長

    隷書、不疑(鍬)初魚烏程令、欣時年十二、時王献之篤呉

    輿太守、甚知愛之、献之嘗夏月入鯨、欣著新絹宥壷寝、

    献之童一間帯数幅市去、欣本工書、因此調善:::灘玩山水、

    甚得適性:::素好美老、常手白書章、

    とあって、彼の人と魚りの一斑を窺うことができる。王献

    之とのこの逸話は虞献の論書表にも見え、彼が年少の頃よ

    り献之に親しく接してその書法を開学んでいたことを思わせ

    る。また名輩記(時)に引く劉義慶の世説に大司馬、桓温が

    常に顧慢之と羊欣に書董を論じさせ、夜を徹して疲れを忘

    れたという話は、彼が少くして書重の批評に秀でていたこ

    とをよく物語っている。

    「古来能書人名」

    一巻は彼の撰述したものを斉の太租高

    帝の時に王信度が牧録して上ったものであることは、本室一一国

    の序及び南斉書の王借度俸の記述によ

    って明bかである。

    内容は秦より菅に至る聞の書人六十九人を挙げ、それぞれ

    里籍、姓名、官職、得意とする書盟、

    (酬一榊)及び警に闘する逸事などを記したものである。その

    時代、

    書風の系統

    、前牢衛曜の項までの三十人中二十六人までは、書人名、説

    明句ともに衛恒の四鐙書勢をほぼ踏襲して、わずかに陳選、

    章少季(斑)、鍾曾(部)、街瑳(瑚)の四人を補足し、後牟は

    これに準じて恒以後に出た名家を新たに追加したものであ

    る。しかし四鰻書勢が書鐙の沿革史と筆勢の紋述を主要な

    内容としたのに劃して、能書人名ではまず名家一個人をと

    り皐げ、その得意とする書陸や書風の系統を記述してい

    る。つまり従来の書瞳本位の筆勢論に代って、個人本位の

    童盲人俸を立てたところに、この能書人名が書の評論史上に

    AU

    PD

    占める重要な青山義を認めることができよう。以後南朝の書

    論の多くがこれに倣って個人を皐位としているのは、書に

    於て漸ゃく個性が寧重され、精神の多様性が認識されるに

    至ったことを示している。また能書人名が劉徳昇に始まる

    行書を特にとりあげ、鍾訴の行押書を「相関する者なり」

    と説明し、衛濯が張芝と父親の法を折衷して作った草藁を

    「相聞の書なり」と説明して、以下行革鐙を善くした書人

    を列事している所に、首時の尺陥服用行革慢の流行を認識し

    た上での配慮が見られる。総じて能書人名の紋述は、得意

    とする書鐙や師承関係、優劣の比較などに主たる関心が排

  • われており、書そのものに閲する批評は乏しいけれども、

    その中で多少とも書の内容を論じた評句を拾ってみよう。

    まず呉人皇象は草書を善くして、世に「沈着痛快」と稿せ

    」の言葉は、

    話」に詩の大概に二ありとして、

    「優務不迫」と「沈着痛

    快」をあげているように、文皐論にも、

    しばしば使われる

    評句で、落ちついた中に快い爽やかさのある風趣を言った

    ものである。このように或る美の類型を立てて抽象的に概

    評することは、塞術の評論史から言えばよほど準んだ段階

    のものであって、六朝の書論にその例は乏しいが、特殊の

    ものとして注意すべきである。次に王献之の項には、

    王献之、晋中書令、善隷藁、骨勢不及父、而娼趣遁之、

    とあり、献之の書を評するに「骨勢」と「娼趣」なる二つ

    の概念を封比させて評債の基準としている。骨勢とは骨力

    筆勢の略で骨格の優れた質貧な力動感を表わし、娼趣とは

    新娼な風趣を意味するのであろう。羊欣よりやや後に出た

    虞献の論書表にも、

    流惇、宛轄折蝿は乃ち之に過ぎんと欲す」とあってこれと

    「献之始めて父の書を照子ぶ。:::筆迩

    179

    同じ考え方に立ち、更に「夫れ古は質にして今期なるは数

    の常なり、折を愛して質を薄んずるは人の情なり」と言っ

    てここでは「質」と「姉」が劉照されている。羊欣と書

    董を論じた顧憧之の「論董」にも、「奇骨有りて美好を粂

    J

    ぬ」{一柳幾)とカ、「天骨有れど細美少し」{記)などと評

    して、

    骨格を形成する基本的な力と、これに肉付けして潤

    色する美麗さ、換言すれば「質」と「文」の二つの面から

    董を評債している。文化現象を観察するに文と質を以てす

    る意識は中園の古い停統であるが、それが塞術論の分野に

    も庭用されるに至ったものと考えられる。

    ip内UV

    2、斉・王信度「論書」

    王倫度(四一一六|四八五)については南斉書の本俸に書に

    関して次のような逸話が俸えられている。

    彼は書の名家

    浪邪の王氏に生れ、弱冠にして弘厚、措室田を善くした。か

    って宋の文帝は彼の書する所の素扇を見て「ただ書跡が王

    献之を途えているのみならず、人物も雅よりそれ以上にち

    がいない」と稽讃した。同じく宋の孝武帝は書名を鐘まL

    にしようとしたので、彼は敢えて己れの書跡を額わさず、

    大明年聞は常に拙筆を用って書し、此を以て容れられたと

    いう。また斉の太組高帝は書を善くして、即位するに及ぶ

  • 180

    も篤く好んでやまなかった。

    かつて借度と書迩を比べて

    「誰を第一となすか」と尋ねたところ、

    「臣の書が第一で

    す。陛下もまた第一です」と答えて帝を感心させたとい

    ぅ。之によっ

    て彼が早くから書を善くし、自らも嘗時の第

    一人者であることを自負していたことが知られる。本俸に

    は績いて、

    (太租〉示信度古川遊十一褒、就求能書人名、借度得民間

    所有褒中所無者呉太皇帝、景帝、蹄命侯書、桓玄書、及

    王丞相導、領軍治、中書令眠、張芝、索靖、衛伯儒、張

    翼十二巻奏之、又上羊欣所撰能書人名一巻、

    とあ

    って、帝より能書人名を求められたが、恐らく即座に

    できなかったので、羊欣の能書人名一巻を上って之に代え

    たものと思われ、彼が評書の上で羊欣に、負う所の少なく

    なかったことを想像させる。本俸には「論書」が牧録され

    ており

    ほかにも「書賦」の著の世に俸わっていたことが

    記されている。

    法書要録巻一所牧の王信度の「論書」には、書を論じた何

    編かの文章が混入されている。それらは恐らく時を異にし

    て個別に警かれたものであろうが、何れも王信度の文章と

    @

    見てよいだろう。列奉して論述を加えた書人は漢親より宋

    に及ぶが、漢魂を簡略にして菅宋に重黙が置かれている。

    紋速は、本文にも「その優劣を燐じ」「その多少を較ぶ」

    などと言っているように、品第に主たる闘心が梯われ、特

    に羊欣が品第の一つの基準とされている。ここで論書に見

    られる評語を検討してみると、まず張澄の書が嘗時「有意」

    と呼ばれ、活嘩も同じく「有意」と評されている(王借度停

    F

    所牧の論

    崎山)。既に王義之の言葉の中にも「貼董之問、皆私立b」

    {書)とか、「子敬飛白、大有意」(書表」一等の例があり、

    胸中の意趣が書速に十分表現された場合を評する一つの常

    一52一

    套語であったと思われる。

    次に郁超の項には、

    都超草書、

    E於二王、緊輝、過其父、骨力不及也、

    とあり、彼の草書が「緊掘」ではその父惰に勝るが「骨力」

    では及ばないとしている。同じく驚思話の項にも、

    粛思話、全法羊欣、風流趣好、殆嘗不滅、而筆力恨弱、

    とあって、ここでは「風流趣好」と「筆力」が封匝服されて

    いる。更に謝綜の項にも「書法は力有れど、据好少なきを

    恨む」として、同様に「力」と「据好」の劉鷹が見られる。

  • ほかにこれと関係のある用語を拾うと、「筆力」(旺)「筆力

    驚絶L

    (

    時一性)、「天然一絶逸、極有筆力L

    (

    訊琳)、「緊潔生起L

    (糊)、「太侍之椀娼翫好、

    領軍之静佳苓諸」などが奉げら

    れる。綿じて骨力筆勢に富んだ質撲な風と折娼な美しさと

    いう二つの相封立する概念によって書を評債する傾向があ

    り、これは羊欣や虞献に於て既に見られる所であったし、

    降って梁の腕元威の「論書」にも「余見皐院研書者、不得

    其骨力腕婦、唯皐撃拳委壷」などといって、骨力と腕掲の

    調和された美しさが、徒らに「筆拳委壷」に堕することを

    戒めている。

    次に論書の宋文帝の項には

    宋文帝自調不滅王子敬、時議者云、天然勝羊欣、功夫不

    及欣、

    とあって、ここでは「天然」と「功夫」の二つの面から優

    劣が論じられている。孔琳之は二回出てきて、この論書に

    は時を異にして室田かれたいくつかの文章が混入している傍

    誼ともなるが

    181

    ハ門孔琳之書、天然絶逸、極有筆力、規矩在羊欣後、

    ∞孔琳之書、放縦快利、筆遁流使、:::但工夫少自任故

    (団)、未得壷其妙、故嘗劣於羊欣、

    とあって、ここでもやはり「天然」と「規矩」

    (工夫〉が

    封照され、

    筆遁流

    天然の表わされた効果が

    便」であり、

    「放縦快利、

    工夫のめざす所が「その妙を壷す」ことであ

    ろう。既に虞鮮の論書表にも羊欣が張芝を-許した言葉とし

    て、「張字形不及右軍、自然不如小王」と見え、ここでは

    「自然」が「字形」と相劃している。以上の例に見られる

    自然や天然(hH天質自然〉という用語の源流を探ると、古

    く老荘系統の古書に頻出する

    「自然」の概念に由来するも

    @

    のと考えられるが、書論では功夫、規矩、字形等という技

    -53ー

    巧や形式を意味する言葉と封稽されて、人聞の生来の内面

    的な資質〈精紳)が作魚によらないでそのまLに表現され

    このような精神と技

    る美しさを言っ

    ているようである。

    巧、内面と外形という意識の立て方は、あたかも嘗時の思

    想界の中心テ17であった所謂紳滅・不滅論争に見られる

    精神と肉佳の針照法とも一服通ずるものがあるだろう。

    王信度は別に彼の作と停えられる

    「筆意讃」で、

    書之妙道、神彩魚上、形質次之、粂之者方可紹於古人、

    といって、精神の美しい現われを上位として、技法の修練

  • 182

    による形態上の美しさを之に附随せしめ、雨者を粂有する

    者を古人に匹敵するとしている。彼は患なる言葉だけの批

    評家ではなく一面優れた書人でもあって、自らご賦を繕

    寓せんと欲して、障草木に傾遅し心目ともに第す」(輪)とい

    っているように、書作上の苦心と韓験がその書論の裏付と

    なっている。揮漉の心理を分析しては、

    「心をして筆を忘

    れしめ、手をして書を忘れしむ。心手情を達し、書するに

    想を妄りにせず」(鱒意)といって一種の心手合一設を読

    き、更に「情は虚に湿って有を測り、思は想に沿って空を

    閏る。心は則を経め目は其の容を像どる。手は心を以て磨

    き、一宅は手を以て従う」(鵬)と述べているが、ここには嘗

    時士大夫の聞に普遍的であった老荘や併数思想の影響があ

    ったかも知れない。単なる技巧の空穂は巌に戒められるべ

    きであって、或いは虚・空に飛朔し或いは想念に沈潜する

    襲術的達観の重視されている所に思惟の高まりを認めるこ

    とができよう。

    3、梁・武帝の論書

    梁の武帝は歴代帝王のうち博識多襲の代表的存在とされ

    ているが、書の上からも注目に値する人物である。既に在

    世嘗時から書名が高く、

    「草隷の尺膿は妙と稽せられざる

    なし」(一刊紙梁)、或いは「高租雅より姦象を好む」(耕一関)

    等と記されている。また書の評論には一家の見識を備えて

    おり、

    「観鍾蘇書法十二意」、

    「興陶隠居論書啓」

    ー「

    室田」

    「草書紋」等の書論が今日惇えられている。

    法書要録巻二所牧の「梁武帝輿陶隠居論書啓九首」は武

    帝が陶弘景と書の鑑識や蒐集について論じ合った往復書簡

    である。梁書の陶弘景俸によると、武帝はつとに陶と交遊

    があり

    即位の後に及ぶも恩躍いよいよ篤く、書問絶えず

    -54-

    冠新相墓むといわれ、この往復書簡にも君臣聞の思想ない

    しは趣味上の交流が窺われる。そのうち帝が陶弘景に答え

    た第二書簡には帝の書に射する考えが最もよく現われてい

    る。まず筆法論を述べて、

    夫運筆邪則無芭角、執手寛則書緩弱、艶製短則法擁腫、

    貼製長則法離漸、重促則字勢横、董疎則字形慢、拘則乏

    勢、放叉少則、

    とあり、運筆や執筆、更には貼重構成が書の形勢に及ぼす

    効果について詳しい論理的分析が試みられている。帝は別

    に「観鍾鉱書法十二島でも、文字の結構について卒(閥横)

  • 直(醐縦)、均(醐閥)、密(醐際)の四種、運筆について鋒

    (胡端)、力(鍋鍾)、軽(醐屈)、決(糊牽)の四種、布置につ

    いて補(間断)、損(鱈一)、巧(闘師)、稽(岬駄)の四種都合

    十二種の項目を奉げて筒皐な説明を加えているが、

    ここで

    はそれがより目六睦的に述べられている。更に書簡では筆墨

    による線篠の基本的な性格を指摘して、

    純骨無掘、純肉無力、少墨浮雄、多墨奉鈍、此誼皆然、

    任意所之、自然之理也、

    とあり、骨と肉とが相封立されて、骨によって表わされる

    のが力であり、内によって表わされるの、が揮であって、し

    かもそれらが墨量の多少とも関係づけられている。晋の衛

    夫人に「筆陣園」があり後人の俄託とされているが、その

    中に「善筆力者多骨、不善筆者多肉、

    多骨徴肉者調之筋

    書、多肉微骨者謂之墨猪、多力豊筋者聖、無力無筋者病」

    と見え、武帝の設が一層整理された形にな

    っている。筆墨

    による書線は単なる幾何摩的な線僚と違って、それ自身或

    る贋がりと内容を持ついる。書線を骨、肉、筋に直別する

    183

    のは、恐らく人鐙構造からの連想であろうが、少なくとも

    貌膏の際には既に行われていたと考えられる。即ち貌の掌

    誕の言葉に「杜氏は傑れて骨力を有し字董徴か痩せたり」

    (時一時)或いは「屋氏の骨張氏の十」(闘訓)等とあり、衛

    描唱は伯英の杭貯を得、索靖ま白英の骨を得たといわれ(著書衡)

    tィ

    F描

    羊欣の評語にな「胡昭は劉徳昇の間買を得、索靖はその肉

    を得、掌誕はその傍を得た」(鰭問)とあり、降って王信度

    の筆意讃にも「骨豊かにして肉潤う」等と形容されている

    のがその例である。しかしこれらの例に見られる骨、肉、

    筋は未だ比険の域を脱しておらず、それらが書に於て持つ

    美の内容については明確にされていなかった。ところが梁

    -55-

    の武帝になるとこの骨、肉読に羊欣、虞献、王借度等に見

    られた骨勢と据趣の二概念が導入され、骨と肉によって表

    わされる内容がそれぞれ力と婦、即ち骨勢と蝿趣に劃躍す

    ることが始めて指摘されたのである。績いて帝は書美の理

    想を述べて云う。

    若抑揚得所、趣舎無達、従事連断、燭勢峰欝、揚波折

    節、中規合矩、分間上下、濃織有方、肥痩相和、骨カ相

    稿、腕腕陵陵、覗之不足、稜稜連濯、常有生気、適眼合

    心、使篤甲科、

    筆法的には自由な襲化の中にも規矩を逸脱しないこと、骨

  • 184

    肉の按配が程よく、観者に美しくほのかな様や、巌しくり

    りしい思いを抱かせ

    しかも眼や心に何ら抵抗を感じさせ

    ない自然な調和を以て書の理想としている。程遡や張芝の

    例をあげつつ技法の修練を特に強調し、やがてそれが心の

    欲する所に従って矩を験えない精神の自由三味の域に達す

    ることを筆書の窮極の目標としているようである。

    ところで書と置は筆墨を同じくする所から見ても、線篠

    の迫求に於て頗ぶる密接な闘係を有しているといえよう。

    顧憧之は「貌菅勝流霊讃」の模潟論の中で、用筆法から導

    かれるさま、さまな線僚の饗化が、総重表現の根本理念であ

    る「選想妙得」と緊密に結びついていることを指摘してい

    る。用筆法と「骨法」思想の結合は既に彼に於て底流とし

    て見られたが、次いで謝赫が六法の一に「骨法用筆」を立

    ててより、童の骨法は主として線僚について言われ、用筆

    法が極めて重視されることとなった。後世書童の一致は用

    筆法の同一を以て設かれる場合が多い。例えば名童記巻二

    -f」十」阜、

    ttv

    夫象物必在於形似、形似須全其骨気、骨気形似、皆本於

    立意、而蹄乎用筆、故工重者多善書、

    といい、宋の陸探徴が張芝の始めた一筆書に倣って一筆童

    を作ったこと、梁の張償訴の筆法が衛夫人の筆陣固に依っ

    ているなどの例をあげて、書董の用筆法の同一を説いてい

    る。特に書では線質が基本的な要素であるから、漢貌の筆

    勢論、骨肉読に始って梁武の所謂

    「骨力肉娼」の設に至る

    まで、書の方で護達してきた線質の追求が、董の骨法用筆

    の思想に輿えた影響は決して少くなかったと思われる。

    4、梁、庚肩吾「書品」

    一巻、

    庚肩吾(四八七|五五一)夜、梁書の本俸によると

    八歳

    no

    にして能く詩を賦し特に兄於陵の友愛する所となった。筒

    文帝がまだ菅安王と践した頃から親しく仕えてその文皐サ

    ロンに加わり、

    徐捕、陸呆、劉選、劉孝儀、儀の弟孝威等

    とともに賞接を被ったといわれ、嘗時の文壇の中植に身を

    置いていたことが知られる。また有名な時間信は彼の子であ

    る。肩吾の書名は既に武帝の評書、蓑昂の古今書評など彼

    と同時代の書論にも記されており、後には唐の李嗣員の書

    後品、賓泉の述書賦、張懐璃の室百断にも論評されている。

    「書品L

    には初めに組序があり、作成の動機とその内容

    について述べられている。

  • 余白少迄長、留心蕊襲、敏手謝於臨池、鋭意向於削板、

    寛未培鏡、

    而議山之扇、

    無因誠子、

    求諸故

    凌雲之蓋、

    逃、或有浅深、親刷善草隷者一百二十八人、伯英以稿聖

    引類相

    筆法問←

    こコ 同ニ以

    4自復巌魚鹿野末日間

    嫡推雰能主相官越

    例而九

    居首、

    彼は少時より書塞に心を留めている聞に、古人の霊園逃に浅

    深優劣のあることを認め、漢より斉梁に至る草隷を善くし

    た者一百二十八人(今本では二を上中下に分け、更にこれ

    F

    百二十三人」

    を三分して九品とし、各品の後に略論を加えたものであ

    る。凡そものの優劣を比較品評する場合、このように等級

    をつけて品第するという精神的傾向は、書以外の方面でも

    古くから現われている。例えば論語に見える孔子の言葉の

    中には、人物を賢愚の程度に鷹じて上中下、或いは上智、

    中人、下愚という分け方をしたものがあり、漢書古今人表

    は論語の思想を縫いで、古今の人物を行震の善悪に麿じて

    上上(岨)、上中(応)より下下(胤)に至る九品に分類してい

    る。向書面問責では、馬が定めたと停える九州の土、回、賦

    をそれぞれ九等に分けて評債している。細腕菅南北朝時代の

    185

    九品中正制度はいうまでもなく官吏登用法の九段階制であ

    る。南朝になるとこれが塞術論にも庭用されて、謝赫の古

    重一一且品録では、六法を基準として二十七人の董人を六品に分

    け、鍾蝶の詩品では詩人百二十除名を上中下三品に分けて

    品第して

    いる。書の方でも相互に優劣を比較する傾向はよ

    ほど古くからあったと思われるが、庫肩吾はそれらを綜合

    的に盟系づけようとしたものであろう。

    試みに書品の品第に上

    った書人計百二十三人を時代別に

    数字で表わすと次のようになる。

    」の表によると上品に上った十七人のうち、梁の一人を

    -57-

    除くとことごとく漢貌晋人によって占められ、

    一般に時代

    を遡るほど優れたものが多いと考えられていること、

    また

    時代別では菅人が五十八人で全瞳の半数近くを占めている

    ことが注目される。南朝でただ一人上之下品に上げられた

    梁の庇研は肩吾の師であったから(官一)、書品では彼を「今

    に居て古を観、衆妙の門を壷窺す。復た王を師とし鍾を租

    とすると雄も、終に別構の一瞳を成す」といって特に高い

    許債を輿えているのである。次に庚一屑吾が書の優劣を剣定

    した基準について見ると、それは羊欣、虞紙、王倫度以来

    の「天然L

    と「工夫」の法つまり精神と技巧の封照法に依

  • 186

    下 中

    エ;正|主言十 下中上 下中上一一一一15 I I 2 2 I J I 4 1 I 4 I 1 議

    一 貌14 1 1 2 1 3 l 1

    呉、J

    58 17 7 7 9 7 7 3 1 菅

    16 3 2 6 2 1 2 宋

    9 2 3 1 2 1 F野

    10 2 1 2 3 1 I 1

    含むを2不( 0 123 23 15 18 15 15 I 9 5 3 言十

    ⑫明1

    (番人の時代は傾文部四番登諮番人停による)

    っていると思われる。即ち上之上品に張芝、鍾録、王義之

    をあげ、之を論評して、

    張工夫第一、天然次之、・:・:鍾天然第一、功夫次之、王

    工夫不及張、

    天然過之、

    天然不及鍾、

    工夫過之、

    羊欣

    去、貴越群品、古今莫二、粂撮衆法、備成一家、

    という。張は工夫では第一だが天然では劣っている。鍾は

    天然では第一だが功夫では劣っている。次に王を張と比べ

    ると工夫では及ばないが、天然では勝っている。鍾と比べ

    ると天然では及ばないが、工夫では勝っている。換言すれ

    ば張芝と鍾録は特に優れたものを持っているかわりに

    た劣った所もある。これに劃して王義之は天然と工夫何れ

    にも偏しない卒均した力を備えており、そしてこれが羊欣

    の「群品を貴越して古今こなし」という所以であるとして

    いる。このほか上之中品に王献之を論じて、「子敬泥帯、早

    験天骨、品末以製筆、復識人工」とい

    って

    「天骨」と「人工」

    一58-

    を劉照させているのも同じ範腐の用語と考えられる。それ

    では天然と工夫はいかなる関係のもとに護揚されるのであ

    「或いは横に牽き竪に製き、或いは濃く黙して軽

    く梯い、或いはまさに放たんとして更に留め、或いは挑ん

    ろうか。

    と欲してまた置く。

    敏思胸中に癒し、

    巧意事錯に護す」

    といって、優れた技法を遁して胸中に張詰めた意

    ・思がそ

    のまL

    筆端に現われてくるのを善しとするのであり、更に

    「若し妙を探り深きを測り、形を蓋して勢を得れば、畑華

    紙に落ちて賂に動かんとし、

    風彩字を帯びて飛ばんと欲

    す。神化の篤す所かと疑い、人世の皐ぶ所に非ず」と。精

  • 妙な技巧を通して天然の流露する時、神州移燥震の風越はあ

    たかも重の「気韻生動」にも比すベく、もはや人間わざに

    非ずしてまさに神品といわねばならない。張芝、鍾謀、王

    義之に於て見出した心手粂達の理想像が、書品を、通ずる最

    大の債値基準とな

    っていたと考えられる。

    5、梁・蓑昂「古今書評」

    裳昂(四六一-|五四O)

    は特に童一一国名のあった人てはない

    が、書の品評に精通していたことは、本書の末尾に見える

    次の奥書からも窺われる。

    右二十五人、自古及今、皆善能書、奉勅、遺臣評古今

    書、臣既愚短、量敢轍量江海、但聖旨委臣、島酌是非、

    謹品字法如前、伏願照質、謹啓、普通四年二月五日、内

    侍中向童百令蓑昂啓、

    187

    一巻は普通四年(五二三)に

    武帝の軟命を奉じて古今の書を品評したもので(帽畑町一均一

    歳)、とり上げた書人の内誇を見ると、秦一後、漢六、競(奥)

    四、晋玉、宋三、賢一、梁五であって、昂と同時代の梁人

    が比較的多い。彼が最も推稽するのは張芝、鍾謀、逸少

    (託義)、献之でこれを四賢と稿し、ほかに羊欣の員、孔琳

    これによると、

    「古今書評」

    之の草、粛恩話の行、活醸の象を各々一時め絶妙と賞讃し

    ている(今本では、この中、羊欣は二十五人の申に)。本書と類

    f

    入っているカ、孔、帯畑、活は入フていない『

    似のものに武帝の「評書」が知られている。南者を比較す

    ると評語が大同小異であるのみならず、

    語句が同じで書人

    の異るものがあるなどの事貫に照して、

    「評書」は蓑昂の

    ものをやや潤色して武帝の名に偽託したものとされてい

    る。しかし雨者を併わせて書論の一つの類型と見なして支

    障はないだろう。

    この種の書論の著しい特色は、ほとんど全瞳が「某の書は

    Qd

    FhJV

    ::・の如し」という所謂「比況法」の形成をとっているこ

    とである。これは、古く詩序の六義の一に「比」があげら

    れ、鄭玄が

    「比者比方於物、諸言如者皆比酔也(毛詩}

    F

    序疏」

    注しているものに相嘗する。書を自然に陣営えることは既に

    漢貌以来の筆勢論に見られたが、

    南朝では王信度の論書

    に、王献之が王現の書を戯れに許して、「弟害如騎牒展腰、

    恒欲度欝臨前』と云った例があり、これとほぼ同句が詩品

    の王倫達評にも採用されている。衰昂や武帝のものになる

    と、比険の素材は自然の風物に止まらず、彼等の生活を反

    映して、人物とくに道士、美女、貴族などの個性的な姿態

  • 188

    や行肢にまで慶がり、評句も四字ないしは六字の美しく洗

    練されたものになっている。次にいくつかの例を示すと、

    まず自然に警えたものには

    鍾訴書、如雲鵠滋天、牽鴻戯海、行間茂密、貫亦難過、

    王義之書、字勢雄逸、如龍跳天門、虎臥鳳閥、故歴代賓

    之、永以鴛訓、

    粛子雲書、如上林春花、遠近瞬墓、無庭不護、

    などがあり、人物に響えたものでは、

    張伯英書、如漢武帝愛道、想虚欲仙、

    亥私書、如深山道士、見人使欲退縮、

    街恒書、如挿花美女、舞笑鏡蓋、

    徐准南書、如南岡士大夫、徒好向風範、終不免寒乞、

    羊欣書、如大家牌矯夫人、雌慮其位、而事止蓋盤、終不

    似員、

    などが翠げられる。これらの評句を通して、その本になっ

    た書跡の具髄的な姿を描くことはもとより困難であるとい

    わねばならない。しかし語句を仔細に検討するならば、室百

    を評する基本的な親貼がいかなるものであったかを推測す

    ることは必ずしも不可能ではない。例えば衰昂は察邑を許

    して「骨気洞達、爽爽有神」といって、書の骨格形成に前

    提となる気力の通達する所に「有神」という書の美的数果

    を認めようとしている。また王義之の書を謝家の子弟に誓

    「端正ならざるも爽爽として一種の風気あり」とい

    「形容未だ成長せずと

    》えて、陶隠居を呉輿の小児に陣営えて

    雄も骨盤甚だ駿快」といって、

    し、

    外に額われた形態ととも

    に、室田の背骨となる精神的要素が重視されている。鍾訴を

    「意気密麗、::;行間茂貫」と評するのも、内なる気力の

    充賀、が外に現われて貼董構成の緊密感となることであり、

    「字勢屈強」(師恩)、「字勢嵯施」(掛紹)では特に筆勢に

    注意が向けられている。武帝の評霊園では、「放縦快利、筆

    道流便」(託彬)、「疏散風気、無一雅素」(酬)、「縦横廓

    落、太意不凡」(酬)などの例があり、何れも縦横酒股な風

    気がそのまL童一一回の上に表現されていることを許したもので

    - 60ー

    あろう。

    六朝書風の接選

    ここで翻って六朝の書風の饗遷につい

    て概観してみたい

    と思う。呉人菖洪は、呉園の滅亡と晋室東濯の後に、江南

  • の人士が競って北方の文物を慕い、江南の古い風俗の棄て

    去られていく様を嘆いているが、書法に闘しでも「抱朴

    子」外篇(脚惑)に、

    呉之善書則有皇象・劉纂・容伯然・朱季卒、皆一代之縄

    手、如中州有鍾元帝・胡孔明・張芝・索靖・各一邦之

    妙、誼用古盤、倶足周事、余謂慶己習之法、更動苦以同月子

    中園之書、向可不須也、

    と見え、呉の皇象、劉纂、山今伯然、朱季卒以来俸えられて

    やがて北方の新しい書風の移入によっ

    いた古風な書法も、

    て改饗を克れ得なかったことが明らかである。その主たる

    理由として、唐長濡氏が行書の流行を奉げているのは安嘗

    な見解であろう。ここでは更にこれに績く東菅以後の南朝

    の書風がいかなる援護を辿

    ったかを明らかにしなければな

    らない。それはごく大雑把にいって、質撲なものから折娼

    なものへの移向であったと考えられる。この著しい饗化は

    189

    東菅の後半に出た義之と献之、都倍、都超の二組の父子の

    聞にも明らかに現われている。既述のように羊欣は献之を

    評して「骨勢は父に及ばざるも据趣は之に過ぐ」といい、

    王信度は郁超を-評して「緊婦は其の父に遁ぐるも骨力は及

    ばざるなり」と言って、何れも父が骨格の優れた質撲な風

    であったのに射して、子の代になると折娼な書風に襲って

    いる。これはもちろん書者の資質の相違にもよるが、単にそ

    れだけではなく、書風の上で一つの饗革期が来ていたこと

    を考えなければならない。義之と献之の差異については、

    既に宋の明帝の「文章志」(世設品藻)こ

    F

    篇注引」

    献之善隷書、饗右軍法魚今韓、字霊秀掘、妙紹時倫、輿

    父倶得名、其章草疏弱、殊不及父、

    とあり、献之が父の法を蟹じて今憧を作

    ったことを記す

    t

    ,A nb

    が、張懐濯の「書佑」にはより詳しい記述が見られる。

    子敬年十五六時、嘗白遁少一玄、古之章草、未能宏逸、頗

    異諸瞳、今窮偽略之理、極草縦之致、不若藁行之問、於

    往法固殊、大人宜改盤、逸少笑而不答(鵬サh時一崎町U鳩

    山川)

    けだし、古法を改めて新しい時代の要求に合致した「今

    韓」の創始は、「骨一線を以て稀された」(縮担恒)義之より

    も「高遁不縁」(一躍献)「少くして標蓮、常貫を修めず」

    (蹴壁掛一柳檀)という性格の持主であった献之によって貫

    現されたのであろう。そして虞鯨はこのような書風の襲遷

  • 190

    を眼の嘗りに観察して、

    夫古質而今如、数之常也、愛新而薄質、人之情也、鍾張

    方之二王、

    可調古突、

    且二王暮年、

    皆勝於少、

    問、又震今古、子敬窮其新妙、固其宜也(輪書)。

    といい、質朴なものより如娼なものへの移向を歴史的必然

    父子之

    とみなしたのであった。南朝初期の献之盤の流行は、知州を

    愛して質を薄んじた嘗時の気風とよく呼躍している。質よ

    り朔への移向があらゆる文化現象の歴史的必然であるとす

    れば、

    知より燭へ向うのも推移の原則であろう。

    」のよ

    うな観貼からかりに書風の上で時代を匝分するならば、質

    より妨への移向は菅宋の間にあり、如より燭への移向は斉

    梁の間にあったと考えられる。斉末より華々しく開花する

    「雑鐙書」と呼ばれる装飾的書法こそ欄熟した南朝貴族文

    化の一つの象徴といえよう。

    従来、書睦の分類として纏ったものには、説文の序に秦の

    八佳(大築、小家、刻符、虫阻害)があり、

    王葬の時こぺ書(古文、

    F

    事印、署番、交番、殺害」

    tノ

    F

    奇字

    一一官官鮎皆同盟諸)があって、何れもそれぞれの用途に腹じ

    て使用されてきたものであった。ところが南朝になると王

    惜の文字志目に三十六種の書睦を奉げた中に、古文、大小

    で象

    魚、隷書、書

    行書などといったごく普通のものと並ん

    駿隣書、仙人書、雲書等という怪奇な書

    龍、草書、書

    健の名が見え、これが所謂雑鎧書の記録に見える最初であ

    る。湾の鷲子良の「家隷文鐙」には我が園に鎌倉時代の寓

    本が俸わっており、

    五十二鐙を翠げてそれぞれ作者の名を

    記し

    四字ずつ例を示して.自然物が園案化され文字構成

    に取入れられている朕を描いている。庚肩吾の書品序にも

    雑鰻書の名が見え、嘗時の書の一分野であったことが明ら

    かである。同じく梁の庚元威の「論書」によると、斉末よ

    -62-

    りこの傾向はますます盛んで、彼は正階侯のために十牒の

    界風に室目して百陸を作り、うち五十践を純墨で他の五十鐙

    を釆色で書いた。その百健の中には日月風雲より鼠牛虎兎

    龍などの名を冠した書鐙が列摩され

    ほかに首時の書鐙は

    百二十慢の多きに上ったという。

    このような絢欄たる装飾

    趣味は嘗時の重且や庭園などにも見ら向、南朝の襲術が餅

    脂、閣熟を過ぎて遂には形式的固定にまで陥った一つの異

    端の系譜を示している。

    一方これと時期を同じくして正統波の書風は、

    おおむね

    復古的傾向を辿っていた。即ち梁の武帝は「観鍾怒書法十

  • 二意」を作って特に鍾訴を推稽し、「子敬の逸少に治ばざる

    は、なお逸少の元常(鰯)に遣ばざるがごとし」と言って古

    いものほど善しとする評債法をとり、これはそのまL粛子

    雲や陶弘景の賛同する所となっ旬。また既述のように書品

    が漢貌の古風を特に倉重し、案昂が張芝、鍾謀、逸少(域)

    献之を古今の四賢として推稽しているのもこのような復古

    的傾向の一つの現われといえよう。

    以上、私は書、が一箇の塞術として認識されるに至った経

    緯をたどり、その聞に試みられたいくつかの書論を検討し

    てきたが、終りに六朝の書論が書の評論史上に占める意義

    を明らかにし、各項目について大韓の系統を立てて、結び

    に代えたいと思う。

    付個人本位の書論が出現したこと。

    己評債の基準が提示されたこと。

    191

    同品第と比況の形式が確立されたこと。

    まず付につい�


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