Title 中國古代の麻織物生産
Author(s) 佐藤, 武敏
Citation 東洋史研究 (1960), 19(1): 1-23
Issue Date 1960-07-01
URL https://doi.org/10.14989/148177
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
&やゆ£局、第
第十九容第一一瞬昭和三十五年七月護行
中
園
古
代
の
麻
織
物
生
産
佐
藤
武
敏
中国における衣料生産の歴史をふり返ってみると、高級衣料は古代から近代迄絹織物が主であるのに謝し、
は古くは廊や葛などが用いられたが、元・明以後綿織物の普及によって肺織物はしだいに衰識したようである。
中園の織物史の研究は、これ迄絹織物と綿織物とにもつばら力がそそがれ、したがってこれらに関する研究は、豊かな
成果をあげてきた。これにひきかえ、麻織物に関する研究はきわめて乏しく、
とりわけ経済史的な観貼から取扱った研究
はほとんどなかったようである。それには資料の不足ということもあるが、さらにまた次のような見解が支配的であった
ことによるとも考えられる。つまり中園古代の廊織物の生産は、その生産技術や生産形態伝どにおいてあまり饗佑がなか
った、という見解である。たとえば李創農は、先秦雨漢時代の布鳥の生産は自給自足であったとしているし、また侯外壁
つまり農村副業の形で行われ、生産の主な措い手は農村婦女子であった
一般の衣料
- 1ー
ま
え
カ2
き
1
によると、古代の布の生産は農業と結合した形、
としている。
2
しかしこれらの中園古代の織布業を自給自足と規定する見解には多少の異設がある。たとえば近年楊寛は、戟園時代家
内工業で生産された布鳥は商品の性質をおびていた、と考えている。ただし首時はまだ4
小部分。にすぎなかったとして
いる。
そこで私は、中園古代の腕織物生産に闘する考察を進めるにあたって、とりわけ次のような諸問題に焦貼をおくことに
〆F
-
、。
、Lヂれ
、
ν
第一に中園古代の麻織物生産において商品生産(巌密に
いえば軍純商品生産)が行われたかどうか、行われたとすれば
どの程度であったか、ということ。i
次に中国古代において商品生産がおこったとしたなら、
Eのようにして可能となったか、生産技術や生産形態の面で何
らかの襲化があったかどうか、ということ。
最後に戟園時代から漢代にかけて麻織物生産はどのように護展していくか、またその性格をどのように考うべきか、と
いうことなとである。
- 2一
しかしこれらの諸問題に入る前に
一際職園時代以前の腕織物生産の情況を明らかにすることから出費しよう。
註(1)李錫幾
「先楽雨漢経務史稿」
一七五|一七六ページ。
(2)侯外脱「論中園封建制的形成及其法典化」(「中園古代史分期問題討論集」所蚊)五三九|五四五
ページ。
(3)楊寛「戦闘史」三四ぺ13。
股周時代の肺織物生産
廠
織
物
の
起
源
合嘗時の蹴布そのものはまだ輩見されておらず、次のような間接的な資料によって推定されているだけである。その一つ
中闘における肺織物の起源は、今回世界の他の諸地域と同様新石器時代道湖ることができる。ただ中園の場
くに仰苗のものについては、
はや土器の表面に残っている織物文である。河南省堀池勝仰留村や同省安腸後岡出土器面には鵬織物のあとが見られ、と
アンダーソンは苧廊が使用された、と推定している。また近年江南出土の印紋向にも肺織物
のあとが見られるとされる。
もう一つは、紡錘車の出土である。これについては本首に紡糸に使用されたかどうか疑問もあるが、アン、タlソンやモ
ンテルの調査によると、先史時代の紡錘車は、中園で現在なお使用されている紡錘車と少しも遣わないとのべており、
「輝牒霊掘報告」も股代の紡錘車について同様のことをのべて
いる。ただし語
E聞が四川省で調査した結果によると、今
日麻糸を紡ぐのはまったく手仕事で、遭具は用いられないようである。またホンメルは糸車を使用している例を報告して
いる。先史時代の麻糸の紡糸は、糸車の使用は考えられないが、紡錘車を用いる方法、手による方法などが行われていた
と思われる。
先史時代の妨錘車の出土は、
- 3 -
かなり慶い分布を示しており、西は甘粛、東は熱河、南は漸江迄となっている。また紡錘
車には石製と陶製とがあり、陶製のものには彩文のあるのも見ぷ〉る。紡錘車の分布から肺織物が各地で生産されたことが
推定されるが、首時の肺織物生産の詳しい情況は不明である。e
段周時代の腫代に入ると、蹴織物生産の情況がいくらか明あかになる。
甲骨文には肺や麻織物閥係の記事は見えない
生
産
形
f
が、新石器時代と同様腕織物生産左推定させる間接的な資料が残って
いる。
その一つは、土器や銅器に附着している織物
文である。張龍炎は「出土した土器のなかに縄紋印、布紋印があデ」とから股代廊があった乙とが推知乞いいる」といい、
李演は「股域の西北地斜坑と中部墓葬一八
・二より出土した克形銅器の上にきわめて顕著な布紋が印せられていることが
認められる」としており、岩間徳也氏も同氏が所離していた股境出土とおぼしき銅支の上に布紋が見られ、これは麻布で
あろうと推定し引いる。さらにまた一九五五年鄭州から出土した駐代の銅盆にも布のあとが護見さ札刊いる。
3
衣に新石器時代と同様の紡錘車、が段塩、鄭州、輝鯨琉璃閣などの諸遺蹟から護見されている。
4
さて股代から周代にかけての廊織物の生産形態は、衣の二つに分けることができると恩われる。それは
ω王室直営工作
場の生産と
ω村落共同盟の生産である。これらについてさらに詳しく考えてみよう。
ω王室直営工作場の生産
股櫨の遺蹟の一つに通常復穴と呼ばれるものがある。これは穴居のあとで、形式には固形、
楕固形、方形、長方形などがあり、直僅は約二
|四メートル、深さは遁常二メートル位。嘗時坑の上に園いをし、木で屋
根をつくり、茅淡などで覆ったもののようである。輩作賓は「この種の復穴は、駐代百工臣僕の居住したところ、或は工
作場か貯蔵所の役目をなしたものであろう」と推定している。そしてこれらの復穴から紡錘車なども出土している。おそ
らくこうした復穴で紡糸や織布なども行われたのではないか、と考えられる。さらにこれらの仕事を携嘗したのは、おも
に復穴に居住していた殿王室の隷属民たちであったと思われる。
例村落共同盟の生産
これについては資料が乏しく、あまり明らかではないが、私は
「漢書」食貨志上の衣の文はかな
- 4ー
り古いったえにもとづくものではないかと考える。
冬民銃入、婦人間巷相従夜績、女工一月得四十五日、必相従者、所以省費燦火、同功拙而合習俗也
この資料によると、①紡績の仕事は、冬期つまり農閑期の夜行われること、
⑨生産の直接携賞者は、農村婦女子である
こと、
①婦女子の勢働期聞はご月にして四十五日」であること、④村落内に共同作業所があり、その作業所で共同作業
が行われること、⑤共同作業が行われる意味は、
れるという貼にあることなどがわかる。
一つは燈火燃料の簡約であり、もう一つは同一技術で同一製品がつくら
このうち@の婦女子の努働期間「一月にして四十五日」については、服愛は「一月の申または夜中ナ十五日たるを得、す
つまり(同出〉
8E+(湖町一山)呂田H古田ということになる。郭沫若は服慶の説を敷
桁して首時婦女子の労働さえ激しく、一日十八時間も働かなければならなかった、としにほる。なおこれは車に婦女子の
労働時聞が長かったことを意味するだけでなく、肺の手紡ぎ作業がかなりの勢苦を件う仕事であること宕も意味するもの
ベて四十五日なり」と解している。
であろう。後世の文献であるが
「天工開物」俳句上衣服夏服によると、麻の繊維を細く裂いて績みつなぐのに非常な手間
一日の働きでやっと三|五銑の重さの糸を得るにすぎない、とされている。
!ところで村落共同瞳で生産された麻布は、一日一村落共同曜もしくはその村落共同盟が領主によって支配されている場合
は領主に踊麗し、そこから再ひ村民に分配されたようである。
「詩経」幽風七月の詩に、
dv
〉
、品
、
A
B
,
・刀、刀、刀
fd
七月流火、九月授衣、
一之日虜輩、二之日栗烈、無衣無褐、伺以卒歳
と見える。この詩の他の箇所によると、これは公子や田酸によって支配されている農村のことであるが、この農村では九
月に公子より冬の衣服を興えられたようである。おそらくそれは村落の共同作業所で製作されたものと思われる。
製
造
こ
の
時
期
の麻織物の具造技術こついてま、断片的なことしか分らないが、まず重から繊維を抽出する迄の工
技
術
7
v
b
、
程として、肺を水に浸すことが行われた。
「詩経」陳風東門之池に、
東門之池、可以温廊、彼美淑姫、可輿暗歌、東門之池、可以植貯
- 5 -
衣に紡糸は
た と見える。ここでいう麻とは大麻で、貯とはいちびつまりのEロ阿古Zであろう。
新石器時代と同様紡錘車が使用されたこともあったようである。
嘗時の紡錘車には石製と向製とがあっ
織布技術は、今日残っている嘗時の織布の痕迩から推測するほかない。前にあげた岩間徳也氏沓蕪の股瀦出土とおぼし
き銅支の上の布紋について、同氏の調査によると、その布紋は三・コ一センチの幅で、帯肢をなし、一センチ卒方に経続四
八本、緯稽一八本で、その織目が至って組大なことから、周代の三O升の肺布(「儀鵡」士冠躍爵弁服1
l古は入
O績を
もって一升としたから、三
O升は幅賢二尺ニ寸の経緯二、四
OO本〉は周尺七寸二分(替造尺)説をとって算出すれば、
一センチの経鶴田七・
三四本となって頗る近似せること、さらに布紋が鮮明に印象されたのは、その繊維が頗る強靭で、
水穏に封し耐久力に富み、相嘗長期間禽朽しなかったのにまつこと、緯鵠をなす繊維が分離してかつ経
5
また布紋の経、
6
のかかって
いることが看取されることなどの諸貼から肺布であろう、と推定された。しかし民の調査で織目が粗大だとい
うのは絹織物に比較してのことであっ
て
(因にシ
ルパンの調査によると、段嘘出土とったえられる青銅製鉱に附着した
ヨコ糸一七本となっている)廊織物としてはきわめて精密な方である。後
絹織物の断片は一
センチ卒方にタテ糸七二本、
に脈織物の種類を説明する際詳述するが、三O升布は腕織物では最も精密なものである。
ただ駐代から何升布という種類
分けが行われていたかどうか私は疑問に思っている。織物の密度の精組は、織機の護達と必ずしも密接な閥係はないよう
で、わが園の場合いざり機の方が古問機より精密な密度のものが織れるといわれている。しかしそれには非常な労力と多く
の時間とを必要とする。股代の機織技術は、それ程高くはなかったようで、岩間氏がその痕迩を護見された精密な廊織物
は、おそらく段王室の隷属民たちによゆ非情な努力と多くの時聞をかけて製作されたものであろう
b
これに封して一般農
村の婦女子によって副業的に生産された製品は、透かに低級で粗末なものであったにちがいない。
性
産
肺織物の産地は、首時衣料を自給自足するのが建前だったとすると、かなり麗い地域にわたって製作が行わ
れたと考えられるが、臓を産するに適した地方ではより盛んに廊織物が生産されたであろう。文献につたえられる臨もし
くは腕織物の産地を見てみると、
- 6 一
「詩経」荷風雨山に
顎蹴如之何、衡従其畝
とうたわれている。
斉は山東省臨尚豚地方である。次に同書王風正中有廊に、
正中有廊、彼留子瑳、彼留子嵯、将其来施施
と見える。馬瑞辰の「毛詩停鎗通稗」によると、留は大夫の氏で、劉と通用し、春秋の劉子の邑で、
「漢書」地理志では
河南郡繰氏鯨あたりとされる。また前に引用した陳風の陳の都宛正は河南省准陽鯨にあ
ったといわれている。
次に園風七
月にも怖や蹴織物のことが見えるが、幽は今日の侠西省邪州とされる。
「詩経」以外では、製作年代について問題があるが
「番経」高責矯に
青州:::厩貢盟締、海物惟錯、岱献綿某
務州・・・・・・廠貢漆某稀貯
青州は山東地方で、
で、この地方の特産物の一つが好である。貯は「詩経」陳風東門之池の場合と同様いちびを指すと思われる。
要するに「詩経」や「書経」によると、戦園時代以前の肺の主産地は、山東、向南、快西などで、そのうち河南は大麻
といちび、他は大肺となっている。そして時代が下るにつれてこうした自然的篠件記恵まれた特産地では、いくらか徐剰‘
この地方の特産物の一つに某がある。来は大麻のうちオアサにあたる。務州は河南地方
と見える。
生産が行われるようになった、と考えられる。
「書経」高責にも見えるように特産地から徐剰の麻が貢として出されているのである。
もう一つは、
'「詩経」衛風境の詩に、「境之蛍蛍、抱布貿締」と見える。この布については、布銭の意味に解する設も
あるが、境を本地の民でなく、他所から入り込んでくる民とし、それが肺布をもって衛のあたりの女の仕事としている生
と解する読をとりたい。とすると、鈴剰の麻布が物々交換の封象となったようである。
それは一つは、
糸と交換にくる、
- 7ー
註(1)アンダーソン著三森定男誇「支那遠古の文化」三七|三八ページ。
〈
2)アンダーソン著松崎欝和謬「黄土地帯」三
OOぺ!ッ。
(3)の・
ζoEm一τω音色ロmgoFEr-ロE口問自由与え
(ω三
3ロ百三日巧ESSE-20同任命
HE--23010・5r
〉同】司巾ロ去同)
(4)認日一同編著「中華民間工婆箇説」て織夏布、萱、績幅削参照。
(5)
閉山
-P出OB自己日
(U75由主君。HFFEω
一--
(6)石龍過江水庫文物工作像「湖北京山天門考古渡掘筒報」(「考古遇訊」一九五六年三貌)。
(7)張龍炎「般史強測」(「金陵拳報」創刊鋭一九ゴ二年五月〉。
7
8
(8)李済「術身葬」(「安陽護施報告」第三冊四六六ページ)。
(9)岩間徳也「般虚出土文形兵探に現はれたる銅銭の布紋に就いて」(「満洲穆報」第四、
(日)許順湛編著「燦嫡的鄭州商代文化」
一八ペ
ージ。
(日)輩作賓「甲骨率五十年」四
0ページ。
(ロ)郭抹若
「奴隷制時代」
一六ぺ!?。なお郭氏も本文に引いた「漢番」食貨志の文は必ずもとづくところがあっ
た、と考えている。
(臼)一
鉢を
O、六七グラムとして計算すると、
三|五録は、二、O一三、三五グラムである。なおわが闘の新潟豚小千谷市では、
聯糸をつくるのに熟練した人で一日五匁(一八、七五グラム)、普通は三|四匁(一一、二五
i一五グラム)とされている。麻の
手紡まがいかに労苦を要するものであるかがわかる。
(MH)
好の古いものを苧蹴とする説といちびとする設とがあるが、天野一元之助数授稿「中園之廊考」にしたがっていちび設をとった。
(日)岩間氏前掲論文参照。
(日)〈HdFω
〕『
75ロリωニr四円。
S
F巾ペ=MOUE目的門司(切呂町何〉
Z0・P
HCω吋
)
(刀)自加田誠「詩経」四八ペ
ージ。
- 8 -
一九三六年、
一l七ぺ1ヲゴ
戟園時代の商品生産
戦園時代の
周末、肺の特産也などで臨もしくま蹴織物の徐剰生産が笹生したことは前節で見た遁りであるが、戟園時
鈴
剰
生
産
j
ト
代に入り徐剰生産の量はさらに増加した、
と考えられる。
戟園時代の徐剰生産物は、まず貢租として園家の手に枚められた。
「韓非子」外儲説右上に妻子のことばとして
夫田成氏甚得湾民、其於民也、:::終歳布鳥取二制駕、徐以衣士
と見える。鄭玄は、
一制を一丈八尺の長さとしている。つまり田成氏は、民から徴枚した布烏は三一丈六尺だけを手許に残
し、他は士に輿えたというのである。また
「孟子」謹心下篇に、孟子のことばとして、
有布檎之征粟米之征力役之征、君子用其て綬其二、用其二而民有拝、用其三而父子離
と見える。越肢の注では、征は賦で弘園に軍放のことがあった場合に徴護されるも砂で、布績の征の荷は、軍卒の友を九/
くるもの、捜は鎧甲を縫う糸とされる。しかしこの文は必ずしも趨岐のように非常の場合のことと解する必要はなく、一
般胞な税の種類をのべたものと解して差支ないと思われる。ただそれは孟子の税に謝する見解であって、事質布鰻の征が
行われたかどうか疑問もあるが、私は毎年恒常的に行われたものではないにしても行われることがあった、と考える。
攻に徐剰の廊織物は、商品として市場に流通するようになった、と考えられる。
「孟子」勝文公上篇によると、農家涯
の許行たちが穀物と冠の絹、食器、農具などとを物々交換したことがったえられており、これにより嘗時の農民はおもに
物』ベ交換で衣料や農具を獲得したと説く人たちもいる。おそらく貨幣の浸透しない地域の農民は、物々交換によるほかな
かったが、しかし「孟子」のこのったえは、農家涯という特殊な主張にもとづいた生活を行っている人たちのことであ
「孟子」膿文公上篇には、別に衣のような陳相のことばも見えている。
る従許子之遁、則市買不託、圏中無備、雄使五尺之童適市、莫之或欺、布島長短問、則買相若、廊捜綿努軽重問、則買相
若、五穀多寡問、則買相若、属大小問、則買相若
- 9ー
が附され、
これによると、市場で布島、蹴棲赫紫、五穀、履などが商品として買賀されていたこと、またそれらは、それぞれ債格
おそらく現金で取引が行われたことなどがわかる。貨幣の浸透している地域の農民たちは、現金をもって市場
で衣料などを購入したと思われる。このことを明確につたえて
いるのは、
「漢書」食貨志上に見える李慢の読である。李
慢は護地力の説、卒耀法を説く前に、首時の農家経慣の分析を行って
いるが、それによると、
ムユ夫挟五口、治田百晦、歳枚晦一石字、震粟百五十石、除十一之税十五石、徐百三十五石、食人月一石半、五人移歳
矯粟九十石、徐有四十五石、石三十矯銭千三百五十、除世間嘗新春秋之洞、用銭三百、徐千五十、衣人率用鏡コ一百、
人格歳用千五百、不足四百五十、不幸疾病死喪之費、及上賦欽叉未輿此
と見え、戟園時代の初期貌の文侯のころ貌の地方の農家では、一人一年の衣料費が三
OO鏡、五人家族では、
五
9
て五00
10
錨となり、現金支出中最大の費目となっ
ている。しかもここに見える農家は決して特殊な農家ではなく、首時の標準的な
農家である。戟園初期こ
のように衣料を購入しなければならない農家があらわれて
いることは、
その反面肺織物などの徐
剰生産を行い、しかもそれを商品として版賓する生産者がかなりあらわれていることを意味する、と考えられる。
それでは乙うした商品生産は一憧どのようにして可能となったであろうか。雷時の肺織物の生産形態と生産技術の南面
から検討してみよう。
姓
曜
「
左時間」成公二年に楚が魯の地を侵したので、魯では楚に執断、執誠、織妊全部で一
OO人をおくつだとつ
wπ
創見
たえられる。
杜預の注では、執聞は匠人、執舗は女工、織紅は給布を織るもの、となって
いる。織妊は「謹記」内則によ
ると、「執廊系、治総繭、織紅組制」と見え、肺織物や絹織物をつくる女工のようである。これらの工人たちは、おそら
く魯圃の官営工作場に隷属していたものであろう。春秋時代から戟園時代にかけての官営工作場において、やはり肺織物
の生産が行われたと思われるが、
しかし戦国時代に入ると、{自営工作場の生産はそれ程盛んに行われなくなったのではな
-10-
かったろうか
。それは農村の生産が増加したことと園家は農村から貢租として徴牧することになったためと思われる。
戦園時代の農村における蹴織物生'産の直接の措い手は、設周時代と同様農村の婦女子であった。
男子が耕し、女子が織
「墨子」非繁上、非命下、辞過篤、「呂氏春秋」士容論上農篇、「周植」考工記などに見える。ただ婦女
るという設が、
子の紡織に従事する期間については、「自民春秋」士容論上農篇には、
是以春秋冬夏、皆有肺来綿繭之功、以力婦数也、是故丈夫不織而衣、婦人不耕而食
と見え、
四季を通じて行われることになっている。或は戟園時代も末期になるにつれ、
一部農家では四季を通じて行うよ
うになったのではなかろうか。
五つこ、
サJ
J,JJ
さらに生産形態の鑓化で重要なことは、戟園時代村落共同瞳が或る程度分解し、農家の経慣がそれぞれ濁立するように
ということである。李憧が嘗時の標準的農家の経済を数理的に分析しているということは、
つまり嘗時農家の経
慣がそれぞれ濁立するにいたったことを意味する。農家がそれぞれ濁立した結果、麻布の生産は、従来のように共同作業
所で共同作業の形で行われるのでなく、各農家それぞれにおいて行われるよ、つになった。このことが各農家の労働意欲を
促進させた、
と推測される。
なおまた共同瞳の或る程度の分解により、農家聞の労働力に相違が生じたようである。嘗時の文献には、農家の祉曾的
階層の相違により家族員数が異なることが屡々見えている。「孟子」高章下篇には上層農家が九l八人、中層農家が七|
六人、下層農家が五人と見え、「櫨記」王制には、上農九人、その次は八人、その衣は七人、その衣は六人、下農夫は五
人と見え、「呂氏春秋」士容論上農篇には上田夫九人、下田夫五人と見え、「周櫨」地宮小笥徒には、上地の家七人、中
地の家六人、下地の家五人、と見え、「管子」授度篇には、上農五人、中農四人、下農三人と見えている。富裕な農家
は、いずれも中乃至下程度の農家にくらべてその家族の員数が多いことになっている。そのことは、富裕な農家ほど労働
-11ー
力に憲まれていた、と考えざるを得ない。これは富裕な農家が撃に農業労働力に恵まれていただけでなく、工業労働力に
も恵まれていたことを意味する。廊の特産地ではこうした工業労働力は、首然肺織物の生産に向けられ、齢剰生産をも行
うようになった
と考えられる。
「管子」禁戴篇に、
夫民之所生、衣輿食也、食之所生、水輿土也、所以富民有要、食民有率、率三十畝両足於卒歳、歳粂美悪、畝取一
石、
則人有三十石、果旗素食嘗十石、糠枇六畜嘗十石、則人有五す石、布烏麻糸努入奇利、未在共中也
と見え、各種の副業が農家を富裕ならしめることが説かれているが、布鳥麻糸の生産も努入の奇利とされている。
製
造
衣K嘗時の麻織物の製造技術を見てみると、製線工程や紡績工程迄立、あまり饗七がなかったようである。
技
術
=t
イ
出土の戟園時代の紡錘車は、前代と襲っていない。織布技術については麻織物の場合明らかでないが、太田英購缶は、絹
織物を中心に古代申園の機法の費遁を、①原始機(無機蓋貫刀持機〉、
②曾母投朽閏機(有機蔓貫刀行機〉、①膝鯨壷象園
11
12
(管大持機〉、
@絹機(箆稜機)とし
hirる。そして先秦時代は貫万一什機で、最初は無機華、後に有機憂
に進んだのであろうという。或は腕織物の場合もはじめは無機蓋で、職国時代に有機牽が貸まったのではなかろ、アか。
因
に太田氏の計算によると、原始機の機織作業動作数は、合計一八であるのに封し、曾母投行機は一五であるというから、
機法技術の改革は、航織物の生産量の増加にいくらか影響を及ぼした、と推定される。
廠
織
物
商
品生産の護展とともに蹴織物の規格が一定し、織物の種類が増加した。
の
規
格
まず織物の規格が一定したことについては、
「韓非子」外儲説右上に、
突起術左氏中人也、使其妻織組、而幅狭於度、英子使更之、其妻目、謡、
目、吾始経之、而不可更也、奥子出之、:::
及成復度之、
果不中度、
英子大怒、
其妻封
機(古式布機)、
と見え、組に一定の度があったことがわかる。織物については、
「躍記」王制に
-12-
布鳥精鋭不中数、幅貨狭不中量、不粥於市、
とされ、布鳥の幅が規格をはずれているものは、市場で買賀することが禁ぜられたe
そして織物の幅と長さについては
「漢書」食貨志下に
太公魚周立九府閣法、
:::布鳥賢二尺二寸矯幅、長四丈矯匹
と見える。この文では、布鳥の帽は二尺二寸となっている。戟園時代の一尺が各国同じであったかどうか問題であるが、
たとえば楊寛の研究によると、秦の商峡量から計算した秦の一尺は二三、
O入八六四センチであるという。ただしこの文
では、曹の太公望日尚が制定したことになっている。果して太公望日尚時代から右のような規格があったかどうか疑わし
いが、残図は古くから織物業の中心地であるから、まず旗門園あたりから二尺二寸という布鳥の規格が定まり、
それがしだ
いに各国に波及してゆき、秦漢時代には全園的に用いられるようになったのではなかろうか。
それでは次になぜ二尺二寸が布鳥の幅の規格とされるにいたったか。はっきりしたことは分らないが、
一つの仮説をの
ベる主、織物の幅はわれわれの衣服の袖巾と縫代から生じ、長さは身頃と衿と在との和によって生ずる。つまり或る時代
の織物の巾と長さは、衣服によって決定されるとい向んいている。そこで織物の巾を考える前に衣服の袖巾と縫代とを考え
「韓記」深衣、玉藻を資料として、袖は肩から肘迄の柑二尺二寸につづけてその先に
てみなければならない。尚柔和は、
つけ二尺二寸としている。おそらくこれから織物の巾が決まったのではなかろうか。
廠織物次に廊織物の種類であるが、中園古代の肺織物はすべて卒織で、その種類は織り方の精組によって分けられ
の
種
類
a
t
るだけである。
「儀櫨」喪服によると、蹄布は大功と小功とに分たれ、大功は七・八・九升布、小功は一
0・一一・一一一升布となって
いる。このほか粗いのに紙と呼ばれる麻布があり、これは一五升の牢分とされる。細いのでは「儀種」士冠植の疏による
と、皮弁の服(朝服)は一五升布、問先は三
O升布となっている。
こうした升による麻布の分類が最も早く見えるのは、「園語」魯語上である。それには七升布が見え、これは妾が着る
組末な衣に用いたとされる。私は春秋時代から戟園時代にかけて、肺布の種類が噌し、升によって分類されるようになっ
一升は「園語」掌昭の注によると、一八十棲矯升」と見えているように八十本のタテ糸を意,
。。1ム
たのではないか、と考える。
味する。したがって七升とは、五六
O本の糸で、これが二尺二寸の幅をなしているということである。
今日戟園時代の麻布の質物として残っているのに湖南省長沙出土のものがある。「長沙護掘報告」六四ペ
ージによると、
長沙遺蹟の四
O六暁墓から蹴織物の断片が出土したことがったえられ、中央人民政府紡織工業部の鑑定の結果は、次の通
りになっている。
:・所附戟園墓的織物残片二小片、経用顕微鏡聾定得下列結果
13
ー、此織物原料弁非輩糸構成、取繊維物中経紗中
Z軍根繊維以四
OO倍額微鏡観測、可以看出織維雌曾被細菌侵蝕(此
乃年久丹深躍有的現象)、井在外観上田可看出其錆苧麻績維
14
2、此織物的構成篤卒紋組織、其経緯密度如下、経紗毎一
O公分二八
O根、緯紗毎一
O公分二四
O根、輿現在棉布(龍
頭細布毎一
O公分経二五回緯二四八)比較要緊密三、
四六%
3、由此可見三千年前、我園卸有腕織物、由其織物之精細而論、可以知道我園古代紡織技術之高起、
以上系初歩意見、
今后如過有専問研究紡織歴史時擬再作進一歩的研究
これによると、長沙出土の肺布残片は苧腕繊維であること、織り方は卒織、その経緯の密度は一
0センチにタテ糸二入
O本、ヨ
コ糸二四
O本であり、現在の棉布たとえば龍頭細布より緊密であることが明らかに点れている。
長沙出土の麻布を升にあてはめると、一
0センチに二八
O本とすれば、幅二尺二寸〈一尺二三センチ説をとる)には一
四一六
・八本で
入O本を一升とすると
一四一六
・八本は一七
・七一となり、大鰻一八升布と考えられる。師布として
は上等な品に属する。
一櫨この麻布残片が護見された長沙の四
O六暁基は
「長沙護掘報告」六ペ
ージによると、墓道の
-14ー
ある長方坑に厩し、長さ四
・八メートル、幅三
・七五メートル、深さ七
・五メ
ートルとな
っている。多層の棺榔も保存さ
れ、副葬品は同報告書二五ペ
ージによると、木偶、竹簡、木矛、漆弓、綿織口問、竹盤、席、漆盾残片などかなり豊富であ
る。おそらく首時の上層階級の人の墓と推定される。そこで四
O六瞭墓の麻布は、楚の官管工作場で製作されたものであ
ろうと忠われる。
粧
産
戟園時代の肺…織物の主産地は、それ以前と同じく、華北が中心で、華北の肺織物は大肺かいちびが主であっ
たと思われる。Lかし長沙遺蹟からかなり精巧な麻布が出土していることから考えると、南方でもしだいに盛んに生産が
行われるようにな
っている
こと、
また楚の地方の肺織物は、苧麻が主であったことがわかる。
註(1)太田英蔵「市代中閣の機織技術」(「史林」第三四谷、
(2)楊寛「中国歴代尺度考」九二ページ。
一・二合併披)
(3)中原虎男「織物雑考」三三五ぺ
lu。
(4)拘問実和著秋田成明課「支那歴代風俗事物考」六一ぺ
1少。
四
漢代における肺織物生産の護展とその性格
主
産
地
の
嫌
大
殖列俸には、
都魯・・・・・・頗有桑肺・..
祈畑水以北宜五穀桑麻之畜・.....
旗門魯千畝桑廊・..
などと見え、漢代山東地方が肺の栽培に遁し、布鳥の生産にしたがう人が多かったことがったえられている。また「瞳錨
漢代に入り、肺織物の生産はさらに護展したようであるが、
まず嘗時の主産地から見てみよう。
4
「史記」貨
論」本議篇にば、
売議之漆締稀貯
と見え、河南地方が貯の特産地であったことがわかる。山東、河南地方は漢代以前からの腕織物の生産地常である。
ところで漢代新興の肺織物工業地帯として四川地方があらわれてくる。四川地方は、漢以前から腕織物が生産されてい
たようで、たとえば「後漢書」南鐙西南夷俸によると、秦代巴の民が「戸出幌布入丈二尺」とされている。しかし四川地
方の肺織物生産が本格的に盛んになってくるのは、漢代に入ってからと思われる。
吏之所入、
- 15ー
問者郡闇或令民作布紫、吏留難輿之矯市、
昔、女工再税、未見輪之均也
非濁'湾陶之綴萄漢之布也、
「瞳錨論」本議篇には、
亦民間之所矯耳、行姦貰乎、農民重
15
と見える。この文で注意されることは、萄漢つまり四川地方が蹴織物の特産地として有名になっていること、
また特産地
16
だけでなくその他の地方にも賢く布鳥の生産が課せられ、国家の均輪法の封象とされたことである
3
四川地方の廊織物生産は、後漢時代に一一層の護展を見たようである。
「後漢書」公孫述俸に功曹李熊が公孫述に説いた
ことばとして
今山東餓鑑、人庶相食、兵所属滅城邑
E境、萄地沃野千里、土嬢膏眼、果質所生、無穀而飽、女工之業覆衣天下、
と見える。これは必ずしも肺織物となって
いないが、後漢時代の四川地方の織物業の盛んなさまをったえるものであり、
それには首然肺織物も含まれていた、と考えられる。
なお四川地方のほかに南の地方の布の生産も噌加したようである。
「後漢書」南鐙西南夷列俸に、
秦昭王使臼起伐楚略取後夷、始置斡中郡、漢興改矯武陵、歳令大人輪布一匹小口二丈、是謂賓布
一丈は一
O尺であるから、
一匹は
「説文」によると四丈とされる。
一尺を二三センチとして一丈は
と見える。
メートル
四丈では、九
・二メートルとなる。
一年に大人一匹、小人二丈というと
一家族の負措する布はかなりの量に
FO
噌
EA
なる。これはおそらく武陵地方の布の生産量がかなり高かったためである、
と考えられる。
また
「後漢書」皇后紀(明徳馬皇后)に
「白越三千端」と見え、白越は越布とされる。
一端は二丈である
O
A--
、000
端が明徳馬皇后のところにあったといえば、越布の生産量もかなり多かった、
と考えられる。
なお漢代以降四川および江南地方がしだいに蹴織物の中心となったことにつ
いては、
していたことがあげられる。
今日苧蹴の成長には北緯
一五度から四二度迄の地方が最も遁し、中園では湖北省附近が最大
の産地とされている。もう一つ肺織物の機織にあたって、あまり乾燥していると糸が切れ易いので、適度の滅度が要求さ
れる。
四川や江南地方の濃度は、おそらく廊織物の製造に適していたと思われる。
ただし以上の
二貼については、漢代と今日とで四川や江南地方の自然的な篠件に大差なかったということが前提になる
が、これに闘しては拙稿「申圏古代の漆器工挺」においてすでにふれ土。
一つは原料となる苧肺の栽培に適
遠距離以上のような主産地の績大、生産量の増加に伴って流通も活滋になったようである。漢代の肺織物の流通で
交
易
注目されることは、戟園時代に引績いてインターローカルな買買が行われただけでなく、さらに遠距離交易がおこった、
ということである。
インターローカルな交易については、漢代居延地方で流通した布のうち母蔦布、校布などは、産地が明らかでないが、
おそらく前漢中晩期透郡地方で生産されたものではないか、と推定されている。
遠距離交易についていうと、とくに四川地方産のものが多かったようである。前にあげた「後漢書」公孫述俸に、四川‘
地方の女工の業が天下をおおったと見え、四川地方の織物が慶く中国の各地に流通したことがうかがえる。
その二三の賓
例を次に見てみよう。
「居延漢簡」容三器物類に、
- 17ー
出資漢入稜布十九匹入寸大牢寸直四千三百二十給吏秩百一人
と見える。四川由民漢郡地方産の布が漢代居延地方に流通したことがわかる。ただどのような人たちの手でどのような経路
をへて流通したかわからない。入醍布は入升布のことで、あまり上等な品物ではない。
四川地方の布は、遠く圏外へも流通したようである。
臣在大夏時、見耳竹杖萄布、間安得此、大夏園人目、吾責人往市之身毒園、身毒圏在大夏東南司教千里、其俗土著、奥
大夏問、而卑禄暑熱、其民乗象以載、其園臨大水意、以霧度之、大夏去漢高二千皇居西南、今身毒叉居大夏東南数千里
有萄物、此其去萄不遠突
と見え、萄布が遠く大夏(パクトリア〉造流通したこと、その流通の経路は、
身毒園(イ
ンド〉から大夏の商人が買い求
めたこと、などがわかる。
生
産
形
態
「漢書」張懇俸に、
17
漢代における踊織物生産の上昇社、どういう生産形態、どういう生産技摘を背景におこったであろうか。
18
まず主産形態につ
いて見ると、基本的には戟園時代と縫っていないようである。すなわち農村婦女子の手による副業で
あったようで、
二夫不耕、或受之機、
流行語であった。しかしながら特産地では、
一婦不織、或受之寒」(「漢書」食貨士山上引く買誼のことばに見える)が、嘗時の
一部専門の織布業者が護生していたのではないか、と考えられる。これにつ
いては、遺憾ながら資料が乏しいのであるが、衣のような貼から推測される。
000畝が有利な投資事業の一つにあげられ、それは一
OO寓銭の資本の値打があり、毎年二
O宮内鎮の利盆を約するとさ
れる。おそらく臨の特産地ではかなり大規模に栽培する農家があらわれたと思われる。ところでこうした・大規模な麻栽培
「史記」
貨柏市列停には旗門魯地方で桑麻
業者によって生産された蹴は、どのようになったであろうか。それ自身投資事業の一つとされているから、これらの廊栽
培業者が直接腕織物業迄経営したとは思われない
。私の考えでは、農家や紡糸業者に買られたのではないかと思われる。
「管子」軽重甲篇に、
首時紡糸業者があらわれたことは
桓公憂北郭民之食、召管子而間目、北郭者、重聴捜之虻也、
以唐園億本利、震此有道乎、::
- 18ー
「管子」軽重篇は、漢代につくられたとする説が有力である。北部の貧民がささやかな農業経営の努ら履つく
りゃ纏つくりを副業として
いたという。これら爆や績の原料である廊は、多く肺栽培業者より買入れたと思われる。また
と見える。
これらの紡糸業者によって紡がれた肺糸は、多く専門の織布業者におさめられたのではなかろうか。しかしこうした専門
の織布業者は、多くは貧農から輔化した人たちで、ほとんど小規模経営だったと思われる。
漢代麻織物の盛行によって最も利益を得たのは
一部特産地帯の肺栽培業者と肺織物の販貰商人である。後者について
いh
っと
「史記」貨殖列停に一年に鳥期間細布一
、
000鈎(一鈎は三
O斤つまり七
・六八キロ
グラ
ム)を取扱う商人は、
その富千乗の家に比せられることが見えている。鳥羽問細布を取扱う織物商人のうちかなり大資本のものがあらわれている
ことがわかるが、かれらの一取扱う布は細布であり、高級な麻織物に属する。これはおそらく都市に居住する専門の織布業
者によって生産されたものであろう。
衣に一般的な農家の副業に眼を移すと、漢代麻および麻織物を生産する農家は、地域的にかなり慶く分布していたが、
しかしこうした農家に封する園家の貢租は重かったようである。前漢時代は織物を貢租の封象とすることはなかったよう
であるが、しかし武帝時代は均輪法が行われ、四川地方の布だけでなく、慶く民間に布繋をつくらせ、それを安く強制買
そこで農民や農村婦女子がその負携に苦しんだことは、前に引用した「堕錨論」本議篇に明らかなところであ
上した。
る後漢時代は
「後漢書」百官志大司農に銭穀布鳥を掌る専職が見える。また貫際布調が行われたことは、
「後漢書」明
帝紀に中元二年租調を赦したことが見え、これはそれ以前租調があったことを一示すものであろう。さらに同書章帝紀元和
二年によると、洛陽の民に戸ごとに一匹、同書鶴帝紀永元元年によると、雨戸に一匹の布を賜った、
と見えているが、こ
れらの布は、調として徴枚したものではないかと思われる。
- 19ー
後漢時代織物を調として徴牧することが屡々行われているが、このことは農家の織物生産が増加したことを意味すると
ともに、農家の徐剰生産が国家の手に吸牧されることにより、農家の副牧入の増加、農家の経済的な成長が阻まれた、と
いえる。さらに極端な場合は、農家を困窮させたこともあったようである。桓帝の時代河内郡に課せられた絹織物の負措
のため農民の聞には流亡するものさえあらわれたといわれているが、聯織物の場合もこれと同様なことがおこったと思わ
才、
る結局漢代における蹴織物の生産増加は、大商人や園家の枚入を増さしめるものであっ
て、
経済的な成長を促進させるものではなかった。また漢代麻織物が慶く流通したのは、多く園家や商人たちを媒介とするも
一般農家や都市の織布業者の
のであり、直接生産者はあまり関係することがなかった。
製
造技
術
費掘報告」
漢代の肺織物の製造技術は、製線工程や紡績工程迄は、従来にくらべあまり饗化がないようである。
「長沙
19
一O二ページには、前漢後期の陶製紡輪車がったえられているが、形や大きさは鹿代のと大差がない。またベ
20
ルグマンは
エチナ河近くの漢代の塞の遺蹟から糸谷竿(色印片山内向〉を護見した、
ハ3)
とのべている。
ただ漠代には、こうした紡錘車のほかに糸車も使用されたようで、山東省膝豚の壷象石には糸車らしきものが見えてい
る。とすると従来の紡錘車よりは紡糸の能率がずっと上ったと思われる。
で
機織技術は、太田氏の説によると、管大仔機の古式布機が漢代に普及したようである。この古式布機の作業動作数は九
ただ「准南子」天文訓に
ちょうど原始機の中十分である。漢代の布自の規格は、戦園時代と同様幅二尺二寸である。
「幅賢二尺七寸」
と見えている。これは必ずひも布鳥となっていないが、この文のすぐ後に「四丈一匹」と見えて
いるの
で、布烏も含まれていたと思われる。或は一部に慶巾のものがあらわれたのかも知れない。もし資巾のものがあらわれた
とすると、機織技術の進歩を考えなければならない。
廠織物
漢代の腕織物の種類立、戦園時代と同様織り方の精粗によって各種の升布に分けられる。
の
種
類
、t
には七段布が見え~それは徒隷に着せることになっている。また「漢書」壬葬俸には、
〔天鳳三年〕五月、葬下更総制度目、予遁陽九之院百六之禽、園用不足、民人騒動、自公卿以下、
「史記」孝景本紀
ハHv
nL
一月之様、十覗布二
匹、或講一匹
と見える。これにより十股布は、官吏の吏械に代用されるほどであるからかなりの生産量をみたことが考えられるし、王
界首時十蹴布二匹の慣値が島一匹に該首したことがわかる。
一豆之食、足於中菟突」と見える。
七稜布、八段布、九稜布などが見える。
さらにまた「妻子春秋」内篇雑下にも
愛子のことばとし
て、
「十稜之布、
このほか居延漢簡には、
漢代の肺織物の質物については、私が築浪遺蹟出土のものをしらベた結果を報告しよう。築浪遺蹟出土の肺織物という
のは、
四川地方でつくられた漆器の素地に用いられたもので、
いわゆる萄漢の布の買物と思われる。私がしら、へたのは
穐浪王好基四六脱出土の銅覆輪鮒換と同じく王町墓出土の爽材製耳杯の断片である。両者の織り方は、
いずれも卒織。
本の糸は、幾本かの繊維から成立っていることが五
O倍の顕微鏡抜大によってうかがわれる。
一本の糸の幅は、大韓
0・
六センチ強、密度は、一センチについてタテ糸、ヨコ糸とも一五|一六本である。これを升布にあてはめると、一センチ
一六本とすると、
二尺二寸(五。
・六センチ〉では入
O九
・六本、八
O本を一升として計算すると、
一0・一
二となり〆
大韓一
O升布ということになる。なお使用された肺は、苧麻のようである。
後漢時代に入ると、漆器の素地は爽貯製が多くなってくるが、これは後漢時代に蹴織物の生産が増加してくることとも
閥係があるように思える。しかも前掲
「漢書」王葬停の記事と併せて考えると、王葬時代から後漢時代にかけて一
O升布
がかなり多く生産され、流通したのではないかと思われる。
なおこうした織り方の精組によって種類分けがなされると共に、地方によってそれぞれ濁自の織物がつくられ、そうし
た織物には地方名その他が冠せられたようである。前に見たように居延漢簡におそらく地方名と思われるのを冠した布が
見えるし、また後漢時代四川透匿の哀牢夷によりつくられた関干細布(「後漢書」
西南夷停)、
やはり四川の巴族に属する
昌人によってつくられた緋(「説文」)、武陵地方でつくられた賓布今後漢書」西南夷列停)、越地方でつくられた臼越
(「後漢書」皇后紀〉なども見えている。関干細布は、「後漢書」によると、「織成文章如綾錦」とされる。また耕は、
「説文」では「殊纏布也」と説明されているが、徐中野はさらに「殊其績色市相聞織之、嘗印ム「篠紋布、耕卸謂傑文併行
之意」とのべている。これらは技術的にもかなり精巧なものだったようである。
- 21ー
註(1)
「人文研究」第九各十一
貌所載。
(2)陳直「爾漢経済史料論叢」六六ぺ1ッ。陳氏はほかに宛布をあげているが、
(3)前掲の・忌
gzzの論文に見えている。
(4)徐中傍「巴萄文化初論」(「四川大事事報」紅曾科事
一九五九年二貌)。
ζ
れは冗布をさすようである。
21
22
五
む
.す
び
以上中闘古代の肺織物生産について私見をのベてきたが、要約すると次の通りである。
ω中闘の蹴織物の起源は、新石器時代迄測ることができるが、昔時の詳しい情況は不明である。般から周にかけての肺
織物生'廷は、大髄自給自足であるが、周末いくらか徐剰生産が量生し、物々交換の形で取引されることもあった。
股周時
代は王室の隷廊民の生産と、村落共同髄の生産とが行われた。技術的にはまだ低い段階にあり、今日その痕逃が残ってい
る股代の精巧な蹴織物は、王室の隷属民の多くの労力と長い時聞をかけて
つくられたもので、農家の婦女子によ
ってつく
られたものは、遥かに低級で組末なものであった。
ω戦闘時代にはかなりの徐剰生産が護生し、
一部は貢租として園家におさめられたが、他は商品として市場に流通し、
貨幣経憐の浸透した地方の農民は、現金をもって蹴織物を購入した。戦園時代に多くの徐剰生産が叢生したのは、おもに
生産形態の艶化によるもので、村落共同幽胞が或る程度分解し、廊織物生産は共同作業にかわって個々の農家で行われるよ
うになったことととくに
一部富裕農家では、労働力に徐裕が宜じたことによるものであろう。
技術的には織布技術の面で
また織り方の密度によるいくつかの種類
- 22一
多少の進歩が見られる。なお商品生産の護生に件って肺織物の規格ができ上り、
があらわれた。
ω漢代とりわけ後漢時代廊織物生産は一一層護展したようで、主産地は山東、河南地方からさらに四川や江南地方へ鎖大
し、また流通範囲も問地的な質問円だけでなく、遠距離交易もあらわれた。こうした生産の護展は、農家の副業生産の上昇
ということのほか都市に専門的な紡糸業者や織布業者が謹生したことによる。ただし専門の紡糸業者や織布業者は、貧農
から嶋化した零細業者が多く、かれらによって製造された上布は、むしろ織物商人に利益をもたらした。また農村の生産
も岡家の貢租として徴枚されることが多く、農家自瞳の枚入をことさら噌加させるということにはならなかった。結局漢
代肺織物生産の上昇によって大きな利益を得たのは、大資本の肺栽培業者や織物商人と園家であったω
なお漢代には紡糸
や機織の技術に輩遼が見られることも、生産の上昇に影響したと思われる。嘗時の肺織物の種類としては、とくに一
O升
布の生産が増したようで、このほか密度による種類だけでなく、地方の濁自の技術による織物がかなりあらわれるように
五っこ。
寸J
J
,争J(
附記)本稿執筆後「左停」裏公二十八年に引かれた長子のどとばに、「E夫富如布吊之有幅Z
局、震之制度、使無遷也」と見えて
いるのを知った。
乙れも賓のったえであり、本文でのべているように湾ではかなり古くから布吊の規格が一定レていたようである。
23
-23 ~