天理大学人権 問題研究室 み己要 第 9 号 :65 一 76, 2006
「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人
川瀬俊治
Ⅹ AWASE Shu 巧 I
はじめに
奈良県での在日朝鮮人史 ( 植民地時代 期ま 建国奉仕 隊は 1938 年 6 月 8 日に橿原神宮で
で ) については,かつて「強制連行双史」「 強 結成式を行い ,青年を中心とした 参加者は
制 連行 期 」「強制連行後 史 」として論じたこ 3000 人を数えた。 主に近畿地方を 中心にして
とがあ るが,本稿では い わゆる強制連行双史 いるが,日本各地のほか ,朝鮮からの 代表者
にあ たる。 も 交えた。 正式には「橿原神宮境域と 畝傍山
1940 年 11 月 10 回の「紀元二千六百年祝典」 東北陸 陵 域の拡張整備事業」 ( 以下「橿原神
は, P 古事記コ川本書紀 ロの 伝承上の人物で 宮拡張整備事業」と 略 ) という。
あ る神武天皇即位から 数えて 260(W 年にあ たる 建国奉仕 隊 と朝鮮人の関わりでは , い く っ
として行われた 政府主催の奉祝行事であ り 空 か特徴をあ げることができる。
前の国家イベントであ った。
神武天皇を祭る 奈良県高市郡畝傍 町 ( 現 橿 (i) 結成式で朝鮮から 代表団が送られたこ
涼雨 ) の橿原神宮ではその 記念事業の一環と と 。 国家的事業に 朝鮮総督府が 朝鮮人を
して神宮境域と 外苑の拡張整備事業が 行われ 動員したことは ,これまでの 歴史でみ ろ
たが, 日本各地のほか 朝鮮,台湾,満州国, れなかった。
関東州などからも 勤労動員して , 1938 年 6 月 ( Ⅱ ) 在日朝鮮人も 建国奉仕 際 に参加するが ,
8 日から 1939 年Ⅱ 同 2f 日 までの 507 日間作業 同じくこれまでの 歴史とは異なる 歩みで
を 続け事業を進めた。 建国奉仕 隊 と名づける あ ること。
れたこの勤労奉仕 隊は 507 日間で約 120 万人が (iii) 朝鮮からの動員では 朝鮮人生徒・ 学生 -
勤労奉仕した。 の 勤労奉仕が顕著であ った。 日本国内の
この時期の在日朝鮮人の 歴史を奈良県を 中 特徴は各学校に 在籍した在日朝鮮人生
心 にして「『紀元二千六百年祝 ふを 』と在日朝 徒 ・学生の動きが 埋没して見えないこと。
鮮人」のテーマで , 主に建国奉仕 隊 との関わ い v) 国家総動員体制下,「内鰐一体」「皇国
りほ ついて論究する。 臣民」化が W, ばれたが,一方では 厳しい
治安取締りが 行われ,奈良県という 一地
天理大学非常勤講師 A@Part-Time@University@Lecturer
65
「紀元二千六百年祝 , 典 」と在日朝鮮人
方 をとってみても 軽微な労働争議で 逮捕
されたりする 弾圧が記録されていること。
以下はこの四つの 特徴を順次述べる。
まず「紀元 ニ 千六百年祝典」について 述べ
たい。
「紀元 . 千六百年祝典」は 1933 年 3 月,帝
国議会貴族院で 祝典の取り組みが 質されたの
が政府の動きとしては 最初で,以降, 1936 年
4 月に設けられた 紀元二千六百年祝典評議会
と同準備 局 が同年Ⅱ月に 政府の記念行事 6 事
業をきめ,この 中の一 つが 「橿原神宮拡張盤
備 事業」なのだ。
動員された 121 万 4081 人を団体別にみると ,
中学生,学生が 一番多く,青年団,町内会,
婦人会のほか ,天理教などの 宗教団体の勤労
奉仕も目立ち ,総団体数は 7197 団体を数え
た・ O
1940 年 11 月 10 回の「紀元二千六百年祝典」
は 東京で行われ ,宮城外苑には 5200 人が参加
し, 日本国内の参加者は 500 万人をこえ,関
連の奉祝記俳行事は 1 万 5OOcW 件を数えてい る。
日本政府の公式記録文書『紀元二千六百年
祝典記録』では「覚地」「海覚」と 位置づけ
られた地域でも 3200 余 件の記念行事が 行われ た。 「覚地」とは「朝鮮,台湾,関東州,樺
太,南洋等」のことだが ,「奉祝記俳行事」
は , 日本国内での 行事の約 1 割にあ たる 1600
箇所を数え, う ち最も多くの 事業が行われた
のは朝鮮で, m130 余 箇所で実施された。
朝鮮での記念事業の 内容は,各戦時体制組
織や,面,里などでの 神社建設や勤労奉仕,
植樹,寄付などで ( 台湾も同様 ), 帝国日本
の 植民地における 地域支配,とりわけ 国家 神
道の浸透が面, 里 まで及び,神社,神祠造営
に至ったことを 記念事業報告は 示している。
「覚地」全体の 事業一覧がまとめられてい
るが,最も事業費で 多いのは「社寺」費の 中
の「神社造営」費であ り 361 万 94 円,続く「生
業報答 国 ・ 田 設置」 216 万 7940 円,「学校設立
及 校舎建設」 費 5R 万 617S 円からみても 突出し
た額を示している。 神祠造営 費は 55 万 374 円
で 全体の 5 位の事業高であ り,「紀元ニ 千六
百年祝典」に 向けた事業で 神社整備がはから
れ ,神祠造営が 一気に進んだことがわかる。
朝鮮での事業に 焦点を絞れば ,神祠造営が
各事業所,面で 行われており ,朝鮮総督府の
各刑務所での 神祠造営や , 同じく各地方 刑務 1l01
所での神祠造営が ,各面では神祠奉賛 会 が組
織 されて造営されている。 各学校では「皇国
臣民 / 誓詞 柱 ( 碑 ) 」建設,「二宮尊徳 像 」建
設,「御真影奉安殿」建設がされた。
正
まず本文 1 であ げた ( i) は既に別 稿で詳
しく述べたところなので 再説はしない。 しか
し 朝鮮から送られた 代表団であ る朝鮮人建国
在留朝鮮人
の 歴史と異 - なる側面をもっている。
結論から言えば 国家的事業に 植民地下の朝
鮮 半島から動員してまでも「聖地」とする 橿
原 神宮まで送られたことだ。
具体的な違い る 検証するため 地元奈良県の
歴史からみてみたい。 以下,奈良県での 在日
在留朝鮮人史を 大きく区分すると 以下の 3 点
え 。 @O .
い ) 就労
(2) 治安対策上での 代替え労働力 源
(3) 朝鮮総督府施策の 動向を反映したもの
まず (1) の就労の歴史から と と
もに指摘できることだが ,植民地支配ほど 支
紀一級支配の 関係が露骨に 具現化するものは
ない。 人間は - 方で物質的基盤を ,他方で観
念的基盤を満たそうとするが ,前者に集約的
に支配一級支配の 関係があ らわれたのが
(1) であ る。
具体例は事欠かかない。 1910 年の「韓国併
合」双後から 朝鮮半島から 奈良県に来た 朝鮮
人は断続的に 続いていた。 「韓国併合」直後
の 奈良県近辺の 巨大プロジェクト 工事にも 朝
鮮 人労働者の就労が 記録されている ,これら
の事実は植民地労働力を 生む日朝の関係が
「韓国併合」双から 進んでいたことを 意味し
ている。
近代産業の基礎づくりであ るインフラ整備
( 鉄道建設,ダム 建設など ) に朝鮮人労働者
の 就労が全国各地で 散見されるが ,奈良県で
も同様であ った。 宇治川発電所,生駒トンネ (l51
ル ( 旧 生駒トンネル ) 工事,大 軌 鉄道工事近
鉄 各線 ,国鉄 ( 現 JR) 各 線などがあ げられ
る。
待遇面では他の 工事の記録から 類推するし
かないが,植民地労働力の 特徴を示す民族差
別賃金が貫徹していたことは 想像に難くない。
植民地労働力の 特徴は民族差別賃金や , 様々
な劣悪な待遇のもと 不安定就労が 課せられる
ことだが,上記の 労働現場も例外ではなかっ
た @O
年代が進み 1930 年代に入って 在日・在留朝
鮮人が増えるが ,不安定就労形態は 改まるこ
となく,例えば 大和川河川改修工事で 多数の
朝鮮人労働者が 就労した歴史は 奈良県におけ
る 代表的な事例だ。 労働者は 2000 人を数え ,
工事が終わると 他の地域に移動,その 後も住
み続けた朝鮮人は 少ない。 臨時雇用される 工
事現場などを 求めて移動を 余儀なくされたの
であ る。
一時雇用の就労 形 f から脱して少しでも 安
定 した生活の場を 築く営みが続けられたが ,
その代表的なものが 奈良県では木材の 集積地
桜井町 Cm 現 桜井市 ) の 檜 帆綱作りであ る。 作
業環境の厳しさから 日本人は敬遠していった
が , 1930 年代初頭から 就労し,朝鮮の 家族を
呼ぶなどで集落を 形成していった。
最盛期は在日朝鮮人の 生活を支え,朝鮮人
集落で大半の 人たちが就労するほどだったが ,
合成口一プ の 普及で衰退していった。 聞き取
りなどから確認できるのは 衰退期に入ったの
は 197(@ 年代のことだという。 現在では 1 軒を
残すのみだ。
Ⅴ
次いで (2) の治安対策上での 代替労働力
源は ついてだが,植民地労働力が 経済的搾取
ではなく治安対策として 活用されてもいる 歴
史だ。 小作争議が多発した 奈良県では朝鮮人
が代替え労働力として 臨時雇用された 史実を
刻んだ。 いまでいう第 2, 第 3 組合的ともい
える雇用形態だが , これも植民地労働力が 活
用された 一 形態であ る。
具体的には新聞に 報じられた記事からみる
と , 1924 年年 魅時 ,奈良県添上郡治道打 ( 現
大和郡山市 ) でおきた小作争議が 最初の事例
であ る。 小作人側の要求に 対して地主側は 支
払い耕地返還を 決めるなどして 対抗,実際に
小作料支払いの 段階で紛糾 し ,地主側は対応
策 として朝鮮人を 使い収穫作業を 行った。 朝
鮮人を小作争議対策で 代替え労働力としてあ
てられた実例であ り,小作人側はこれに 対抗
できず地主側の 要求をのんだ。 は ol 1928 年にも磯城郡部材八尾 ( 硯田原本町 )
で同じく朝鮮人を 小作争議対策として 一時雇
用している。 1928 年 2 月 為 日から始まり , 6
月の田植え期にも 解決をみなかった。 地主側
は小作人 36 人に対して土地返還を 求め自作を
「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人
主張,小作人の 田畑立ち入り 禁止を求めた
した。 さらに対抗策として 朝鮮人 50 人から 60
人の一時雇用で 対抗した。
これら一連の 小作争議対策で 朝鮮人を一時
雇用した事実は ,植民地労働力を 代替え労働
フコ として農民運動弾圧に 活用された側面をも
つ。
V
最後に (3) の朝鮮総督府施策の 動向を反
映した史実だが , 1910 年代前半は「観光 団 」
と 名付けた団体の 来 寧が 日立ったが, 1920 年
代からは変化を 見せる。 教員が訪れたり ,一
地方自治行政を 知るため 2 カ月間も滞在する
ようになる。
1920 年代の動向は 朝鮮総督府の 施策と密接
に関連している。 朝鮮総督府は 1919 年の 3 .
t 独立運動に衝撃を 受けこれまでの 武断政治
から文化政治に 変化をみたことと 関係が深い。
朝鮮では民衆運動が 活発化するが ,一方では
「宗主国」日本の「強大さ」を 政治宣伝する
ことと,親日派育成をはかるため 朝鮮人を日
本に送る施策が 打ち出され,その 結果が ,一
地方奈良でもみられた 教員の視察や 地方行政
を研修する朝鮮人の 来県であ った。
M
さて 1938 年 6 月 8 日の「紀元二千六百年祝
典」に向けての 建国奉仕 隊 結成式に戻る。 Ⅱ
の 冒頭であ げた (i ) からⅠ v) にふれる。
まず (i) からの説明になる。
朝鮮を代表した 青年 20 人動員の動きは ,前
述した ( いから (3) の歴史とはまったく
次元を異にする。 青年たちは朝鮮総督府南次
郎総督からの 祝電に激励されており ,「東亜
日報」は「南総, ぽ より激励の祝電があ って 全
員を して感激させた」と (251 結成式当日の 模様を
報じたが,南総督の 祝電内容が記録されてい
る。 「大阪朝日新聞」の 記事だ。 全文を紹介
する。
「橿原神宮大双における 皇紀 ., 千六百年記
念全国青少年勤労奉仕に 朝鮮青年二十名を
参加せしむるは 余の欣快に堪へざるところ
頗 くば意義あ る事業が 萬 全の成果を収め 皇
威を四海に発揚するに 資せんことを 遥かに
祈念してやまず」 (8"1
この祝電は南総督により ,つまり朝鮮総督
席 により朝鮮青年 20 人が派遣されたことを 意
抹 する。 単なる青年団の 代表などではない。
日中戦争 下 , 1938 年の国家総動員体制の - 環
から国家が直接介入した 朝鮮人動員が 始まっ
たことを意味する。 「宗教的」動員と 名付け
ていい性格だ。
「皇国臣民」化,「 内鮮 一体」は朝鮮の 植
民地支配以降の 貫徹した日本の 施策であ った
が, カギとなるのは 国家神道の朝鮮内への 浸
透だろう。 法制化と行政上の 整備と, もう 1
つ 神社ヒエラルキー 整備という 2 つの流れか
らみることが 出来る。 前者は 1915 年の神社寺
院規則制定から 日中戦争 下 01936 年の行政上
の整備であ る神社規則制定があ げられる。 一
方,そうした 整備にともなう 官幣大社朝鮮神
宮一国幣社 一 神社 ( 府県社 ) 一 神祠 (5 陣ヒ )
といった神社ヒエラルキーが 整備,拡充され
ていった。
南総督は 1936 年 8 月 5 日に朝鮮総督府総督
に 就任したが,翌 37 年 8 月の日中全面戦争直
後の会議で「 内鮮 一体の絶好機」とする 訓示
な 行ったほか,同年 9 月 6 日の第 1 回 愛国日
社参拝
た
し
白貝
動
を
そ定
生
生,
学
姪は
@ の コ ① は 施 0
で
20 を 実 朝鮮人強制連行の 特徴は国家権 力が戦時 動
68
員を行ったことにあ る。 最初は 1939 年の内務・
厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に 関
する 件 」による戦時動員だが ,こうした法制
上の手続きが 決定される前に「宗教的」動員
がなされていたことは ,強制連行のべ ー ス に
あ ったイデオロギーを 考える上で重要であ る。
何よりも総動員体制の 動機付けの浸透が 強固
に進められたことにあ る。
南総督は陸軍特別志願兵食と「改正朝鮮教
育令」公布を 前にした 1938 年 1 同 22 日通知事
会議での「諭告」では 以下のように 述べてい
る。
「朝鮮統治 / 目標ハ期 成 同胞ヲシテ真個皇
国臣民 タ ルノ本質 二徹 セシメ,内鰐一体,
倶 ニ治平 / 慶二頼り,東亜 / 事 三姓スル」
それから 3 ヵ月後の 1938 年 4 月 19 日の朝鮮
の各通知事を 招集した会議では 総督訓示とし
て 「半島統治の 指針 哩明 内鰐一体を強調」
し ,就任で打ち 出した 5 大政綱 ( 国体明徴,
鮮満 一如,教学振作,農工併進,庶政刷新 )
の普及の登底強化から「帝国の 大陸政策に対
して朝鮮の協力並びに 戦時対応国民運動の 統
剛強化をはかる」とした。 (32) 同年 5 月朝鮮にも国家総動員法が 施行され
る。 それから 1 力月 後,「橿原神宮拡張整備
工事」で建国奉仕 隊 として朝鮮人青年 20 人が
送られる。 以降総計で 36 団体の建国奉仕 隊が
組まれた。
朝鮮からの動員数は 総計で 4678 人,上位 9
位を占めた。 同じく植民地支配下にあ った 台
湾の建国奉仕 隊は 1129 人,満州国からは 1946
人 ,関東州からは 161 人の動員を記録した。
Ⅶ
では田にあ げた (1) から (3) までの 花
日 ・在留朝鮮人と「橿原神宮拡張整備工事」
での建国奉仕 隊 の 違い はどこにあ るのか。 建
国奉仕 隊 に在日朝鮮人も 動員されており ,ま
ず記録された 在日朝鮮人団体を 見てみたい。
1938 年
① 8 月 3 日二八木町半島人共和会 50 人
② 8 月 14 日二天満 署 管内矯風会 51 人
③ 8 月 25 日ニ奈良県吉野都下 面 ,大淀町で在
日朝鮮人組織・ 報国会
④ 9 月 2 日二布施 市 協和会
⑤ 9 月 2 日ニ柏原署管内内鰐 会 184 人
⑥ 9 月 6 日三朝鮮人共済会 30 人
⑦ 9 月 6 日二大阪朝鮮人共済会 19 人
⑧ 9 月 20 日二九条矯風会 50 人
⑨ 10 月 1 日 = 大阪府吹田の 吹田署管内の 朝鮮
人青年 loS 人
⑲ 10 月 9 日 三 奈良県北葛城郡新庄町 ( 現 葛城
市 ) 皇国協和会 37 人
⑪ 10 同 12 日ニ下鴨警察署協和会支部 100 人
⑫Ⅱ同 15 日 = 京都山科協和会 30 人
⑬ 12 月 4 日 = 奈良県北葛城郡 箸 尾灯 ( 現 広陵
町 ) の朝鮮親睦会 31 人
⑭ 12 月 7 日二神戸国防青年団 53 人
⑮ 12 月 9 日 = 京都協和会下鴨支部 70 人
⑯ 12 月 IR 三大阪市の済州島 東煤里 奉仕 隊 30 人
1939 年
⑰ 2 月 1 日 = 京都協和会 242 人
⑱ 2 月 22 日 二 丹波面協和会 ( 現 奈良県天理
市 ) 43 人
⑲ 3 月 15 日 = 松原協和会 ( 京都 ) 190 人
⑳ 3 月 19 日 = 山城協和会 ( 京都 ) H10 人
⑳ 3 月 28 日Ⅰ兵庫県須磨協和合 44 人
⑳ 5 月 21 日三奈良県協和会八木支部 250 人
⑳ 6 月 7 日 工 兵庫県姫路協和会 250 人
⑳ 6 月 14 日 二 京都府園部協和会
⑳ 6 月 15 日三奈良県協和会桜井支部 206 人
「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人
⑳ 6 月 18 日二神戸の三宮協和会 38 人
⑳ 6 月 26 日二神戸春日野道商業組合 75 人
⑳ 7 月 7 日 = 伊賀内 鰐 愛国同盟 50 人
⑳ 8 月Ⅰ 日 三生駒郡昭和相半島人銃後奉公会
26 人
⑳Ⅱ 同 25 日 二 郡山協和会 1.36 人
Ⅹ団体名は新聞報道のまま 記述した。 1938
年 7 月 24 日, 25 日に大阪朝鮮薬業組合 100
人が建国奉仕 勝 として活動しているが ,
朝鮮人の団体か 現段階では不明なのでこ
の年表には加えていない。
これら 30 団体の特徴は 警察が組織・ 指導す
る 在日朝鮮人組織であ る矯風会,協和会が 中
心 に動員活動が 行われていることであ る。 以
下 ( Ⅱ ) の説明になる。
「皇国臣民」化,「内鰐一体」は 朝鮮本土
でも日本でも 同様の朝鮮人施策の 基本であ る。
日中戦争勃発 (1931 年 ) 後,これまでの「 内
鮮 融和 策 」では挙国一致体制に 対応できなく
なり,新たな 在日朝鮮人政策が 打ち出される。
1934 年 10 同 30 日の閣議決定「朝鮮人移住対策
ノ件 」がそれであ り,「内地二 ニ ケル」朝鮮
人 / 指導向上波 其 / 内地融和 策ヲ図ルコト 」
と同化政策の 強化を打ち出した。
この新たな在日朝鮮人政策が 出る半年双の
1934 年 4 月 13 日,大阪では 大阪府内鰐融和事
業 調査会が発足, 1936 年に出した「在住朝鮮
大 問題 / 其 / 対策」では,基本方針として 以
下のように述べている。
「在住朝鮮人特有 / 俗性ヲ 矯正 シ 生活 / 改
善向上 ヲ 図り内地化セシメ 進 ンデ至誠報国
/ 精神 ヲ酒養シ以テ 斉 シク休明 / 状ヲ享ケ
、 ンム ルト 共ニ ,陛下 / 赤子トシテ邦家 / 隆
運 ヲ 扶翼セシメシム ルヲ以テ根義トぶ Ⅰ
「天皇 / 赤子」として「報国 / 精神」を育
てることをうたう。 そのために「在住朝鮮人
特有 / 俗姓 ヲ 矯正」することで「内地化セシ
メ」るという。 「皇国臣民」化により「内地
化」する施策は 朝鮮人独自の 組織を解散に 追
い込むことになった。 1935 年 8 月の大阪府内
鰐融和事業調査会第 3 回総会では「朝鮮人青
年団は之を解散,青年の 指導は矯風会青年団 は 8l
をして之に 当 らしむること」として 朝鮮の青
年団は解散に 追い込まれた。 矯風会とは警察
を中心にして 組織化されたものだ。
一連の在日朝鮮人の 組織化の一方で , 1936
年度に政府が 物の朝鮮人対策費の 予算化を行
った。 続いて内務省は「協和事業実施要旨」
を通牒し㎝ 936 年 8 月 31 日 ), 以降,各府県
で 協和会を組織化して い く。 これら組織され
る 時期と建国奉仕 隊 動員とは重なり ,露骨に
官憲が在日朝鮮人民出の 前に出てくる。 地元
奈良県の奈良県協和会は 1938 年 11 月 25 日に,
中央協和会は 1939 年 6 月 28 日に設立された。
協和会事業の 要旨をみると ,「協和事業は
『一視同仁』の 聖旨を奉体して 之を事業の出
発 点とし,指導精神とし , 又 帰着点とする」
ことを第一におく。 その「 一 視同 7. 」とは「内
地同胞も覚地同胞も 等しく陛下の 赤子として
何等の区別なく ,各々其の所を 得せしめ安居
染業せしむる 状態を意味するのであ る」。 つ
まり天皇を中心とした「皇国臣民」化の 推進
の 具体的な実験場が「橿原神宮拡張整備 工 事 」だった と ィ立・畳付,けられよ つ ,
これまでの在日朝鮮人の 歩みで国家総動員
体制下,とりわけイデオロギー 支配が強化さ
れたのであ り,朝鮮本土からは「宗教的」動
員として 36 団体が勤労奉仕に 従事,日本本土
の在日朝鮮人についても 過去に経験しなかっ
た警察単位での 組織化であ る協和会により 勤
労奉仕に動員されたのであ る。 繰り返すが
(i) から (3) の在日朝鮮人の 歩みとは大
きく異なっている。 中央融和事業協会は「八
紘一宇」の精神について「天祖がもろもろの
民草を愛しみ 育て給ふ皇威の 現れであ り, こ
れ即ち 下 杣山の 御 精神であ ると推察されるの
であ って , 此の大和の精神が 万世一系君臣一
体となり,国民生活の 上では家族制度となっ
たのであ り, 又 過去に 於 いて多数の帰化 民が (411
抱擁同化せられた 源 なのであ る」とも述べて ,
天皇制のもとでの 平等だからこそ 異 民族間は
「抱擁同化させられる」という。
天皇制のもとでの 異 民族統合 策 で大きな契
機となったのが 194(W 年の「紀元二六百年祝
典」に向けた「橿原神宮拡張整備事業」での
建国奉仕 隊 における朝鮮人,台湾人,中国人
( 満州国在住 ) の動員であ り,在日朝鮮人に
対しても矯風会,協和会によって 遂行された。
朝鮮では朝鮮総督府が , 日本では警察が 送り
込む役目を担ったのであ る。
Ⅷ
建国奉仕 隊 の一日の日程だが ,参加者は朝
8 時半までに大 軌 鉄道 ( 親近畿日本鉄道 ) 橿
原 神宮駅双に集合,橿原神宮に 参拝したあ と
9 時半から午後 2 時 50 分まで作業を 行った。
協和金の具体的な 口々活動が記録されてい
る文献は少ないが ,以下のような 報道で顕著
に伝えている。
「倉田奈良県議の 率 め る 皇国協和会姉十 セ
名は半島同胞の 赤誠を姥土の 上に 燐 として
披漉 , ( 以下略Ⅱ (431 「奈良県勢は 桜井警察署内協和会二百六名
と県立五 條 高女二百八十一名だ ,協和会は
具述警部補が 隊長となり,中尾桜井町長,
(B 紡 その他の理事もこれに 合流し,半島
同胞の赤誠の 見せどころと 張り切ったが ,
作業能率にかけては ,まさにナンバー・ワ
ン ! 本部の作業係りは 協和会の山道と 聞け
ば 雀踊して喜ぶく らゐ であ る」 (4 ム 1
「 二 -l- 五日名誉の殿りをうけた ま はった建
国奉仕隊は池田郡山署長を 隊長とする協和
会百三十六名,半島人の 赤誠は聖地に 輝き ,
特に毎月の国防献金,農家への 勤労奉仕な
どに善行を っ づけてゐる模範団体だけにⅥ 珪
業係も驚嘆するほどに 作業がはかどる」
協和合の動向を 伝える報道であ る。 警察官
が隊長になり ,支部の理事が 同行した建国奉
仕 隊は ,他の生徒,学生や 町内会,婦人団体,
青年団などとは 異質な様相を 示してはいなか
ったか。 いや異質とは 思わさないほど ,当時
の戦時体制は 軍民一体であ り, 警 艮一体であ
ったのだ。 戦時動員をはかる 機関として機能
した姿の一端が ,「橿原神宮拡張整備事業」
での矯風会,協和合の 建国奉仕 隊 動員にあ ら
われている。
建国奉仕 隊 のしんがりがなぜ 奈良県の郡山
協和会がつとめたかはわからない。 「皇国臣
民」化,「内鰐一体」の 模範モデルを 最終日
にアピールしたことは 事実であ る。
X
さて文頭であ げた 4 項目のうち (iii) の朝
鮮人生徒,学生の 動員についてであ る。 朝鮮
本土では「皇国臣民」化を 促進する「改正朝
鮮教育令」公布後の 国家的事業であ ったこと
と関係が深い。
朝鮮では朝鮮総督府は 1939 年 6 月,学校の
正 科 として中等学校の 男女,専門大学校 10 万
金君動員を打ち 出す。 (461 第一陣が同年 7 月 1 日
から始まった 朝鮮神宮奉賛 殿 広場の拡張工事
であ った。
20 人を代表団とした 建国奉仕 隊 はその一年
7 Ⅰ
「紀元ニ千六百年祝 洪 」と在日朝鮮人
前から始まっており ,先鞭役を担ったともい
える。 また派遣の時期とほぼ 同時期に京畿道
中等学校が 1 万 金 名の生徒を動員して 勤労 報
国 隊を結成する 方針が伝えられてもいた。
「宗主国」日本まで 動員される意味はすで
にふれた南総督の 愈告などでわかるように ,
「皇国臣民」化に 徹することで「内鰐一体」
をはたすことこそ 国家総動員体制下の 焦眉の
課題であ った。 6 月 8 日の建国奉仕 隊 結成式
参加の朝鮮人青年 20 人を含めた計 36 団体の朝
鮮建国奉仕 隊 のなかで W2 団体が学生・ 生徒,
教師をしめた。
在日朝鮮人生徒,学生は 表面化していない。
建国奉仕隊の 総計 3U4 万 3464 人,全体の 28. (501
29% が学生・生徒だが ,その中で朝鮮大学生
が 含まれていただろうが ,記録や報道には 現
れていない。
X
建国奉仕 隊 結成式のころ ,一人の朝鮮人男
性が逮捕された。 奈良県添上郡 五ケ 谷村 ( 現
天理市 ) で働いていた 40 歳の男性だが ,労賃
の値上げを要求したが ,管轄警察署により「時
節柄 ,重大視し不当な 値上げ」として 逮捕さ
れている。 以上は文頭にあ げたい v) 0 具体
的な事実であ る。
協和会での「皇国臣民」化 策は 「内鰐一体」
に よ る軍事体制の 遂行にあ ることをこれまで
の説明で鮮明であ る。 同じ警察に朝鮮人が 労
賃要求で逮捕される 構造は , 実に皮肉なこと
ではないだろうか。 つまり同じ警察組織の 中
に朝鮮人を組み 込むという体制そのものは ,
いかに官憲が 朝鮮人の「皇国臣民」化に 神経
をとがらせていたかということを 証しはしな
い か。 1 であ げたい v) の 考察は実は戦双の
天皇制のもとでの「平等」をはかることで 植
民地臣民を戦時体制の 挙国一致を推進する 組
織 形態,情念構造にまで 論及していかないと
その全体像が 見えてこない。 拙稿「Ⅱ紀元二
千六百年祝典 山 と朝鮮人建国奉仕 隊 」で若干 延べたが不十分であ り,今後の課題とした
釆 当時の資料引用では ,植民地用語「半島
人」など,当時の 時代状況を示すものと
してそのまま 転載した。
註
(1) 植民地期の在日朝鮮人史について ,いわゆる
強制連行が始まる 19.W9 年 7 月 29 日「朝鮮人労働者
内地移住の件」までを「強制連行双史」と 名づけ
た
け @ 政府公式記録 肛 紀元二千六百年祝典記録Ⅱ 全
十三冊 (1943 年 ) 第 6 節「勤労奉仕」で「建国奉
仕 隊 / 結成 及 奉仕 / 成果」で「昭和 - ト 三年六月八
日ヲ以テ 専業奉公 / 現地タル梅原神宮神域 ノ
於テ 参加者八三千名 ヲ会シ 」 (497 頁 ) とあ る。 し
かし結成式の 模様を報じた「大阪毎日新聞」 祭、 : 良
版 1g;W8 年 6 月 9 日では 2000 人としている。
(3) 前掲『紀元ニ 千六百年祝典記録Ⅲ第セ 冊 , 505
頁一 507 頁 0
㎝ ) 古川隆久㌃皇紀・ 万博・オリンビック 山 (@: け
公 新書, 1998 年 ) 174 頁, 同 「 酊 紀元二千六百年祝
典記録 皿 解題」 げ 紀元二千六百年祝典記録り 別冊
(2002 年 ) 182 頁。
(5) (6) 前掲 は 紀元ニ千六百年祝典記録 コ第 ㍉ ,
℡, 蝸 5 頁。
(7) 前掲 肝 紀元ニ千六百年祝典記録』第十冊, 460
頁 一 557 頁。 朝鮮での各記俳事業が 記述されてい
る。
(8) 前掲㌃紀元二千六百年祝典記録曲第十四冊, 455
頁 一 460 頁。
(9) 前掲 肝 紀元二千六百年祝典記録 胡 第十四冊 ヒ 62
頁 一 463 頁 ) に,全州,成典,新義州, 釜 lLl ( 馬
LLl 支所 ), 光州,全州の 各刑務所敷地内に 神祠が
72
造営されている。
れ 0) 前掲 酊 紀元二千六百年祝典記録 ゴ第 -@- 四冊⑮ 00
頁 一 556 頁 ) に,大邱刑務所 5, 今泉郡令 泉 少年刑
務所,釜山刑務所,平壌刑務所,同鎮南浦支所な
どでの造営が 記録されて、 @ る
㎝ 1) 拙稿Ⅳ紀元二千六百年祝典コ と 朝鮮人建国
奉仕 隊 」㎝本の戦争責任資料センター㌃ 戦争背
任研究 d 51 芳 一 2006 年 3 月 15 日 ぢをそ丁 ) 所り X 。
(1 の 歴史用語としてこの 用語が登場したことはな
いが, 1938 年 6 月 8 日の起工式に 朝鮮から送られ
た代表団の青年 20 人以降,総計 36 団体が 朗 鮮から
きて勤労奉仕をする ( 詳しくは前掲拙稿参照 ) 。
これらの団体を 朝鮮人建国奉仕 隊 と筆者が名付け
た。 ただ勤労奉仕団体で 集計地域別であ り,学校
からの 22 団体以覚で朝鮮人に 加えて日本人が 入っ
た団体であ ることは十分考えられるが ,団体構成
人員を詳しく 調べることが 現段階ではできないた
め,参加 36 団体を朝鮮人建国奉仕 隊 として位置 伺
けている。 度を押さえることが 重要。 朝鮮人波 目 に関する二
つの取り決めがあ った。 一つは 187f 年 8 月 24 日締
結の「日朝 7@% なオ 条規附録」第五 歌 で「 朝鯛 国人民
其 政府 / 許可 ヲ得テ 日本国 ニ来 ルモ妨害ナシ」と
う たったことだ。 朝鮮国政府の 許可があ れば
前から 渡 日が可能であ った。 もう一つ
は, 1899 年に出された 勅令。 3iR2 号「条約 若ハ 慣行
二 依り居住 / 自由 ヲ有セ サル外国人 / 居住友営業
等二関スル 件 」であ る。 清 国人への渡航制限を・ 加
えたものであ り,朝鮮人は 対象外であ った。 この
ことから「韓国併合」双からの 就労は史実として
刻まれたのであ る ( 日本が朝鮮国の 外交権 を握っ
た第 2 次「日韓協約」以降は 統監府の手に 移る ) 。
はり 奈良県近辺では 滋 賀県の琵琶湖に 流れ込む宇
治川, 瀬 出川を開 撃 して建設した 宇治川発電工 棚
は 908 年 一 1913 年 ) に朝鮮人労働者が 就労した。
1909 年 6 月 13 日の「大阪毎日新聞」には 58 人が朝
しで人文 駒 のは朝戸好二に別
民 がな㌍
ととるなれを
午 一で雇 肋 )
植 とと
こ たいはさ 百 4-
者働 西側もた 犠
りは 著 く ク
を 2
がれずけな
事
鮮 をみ 朝 いた㎎ か 吉はい会、
側 が働し 工植て 一光 献ト
「紀元 _ 千六百年祝典」と 在日朝鮮人
った 労働者は最大で 63 人 倣戊院 文書 ), 最小で ( ブレーンセンタ コ 1987 年 ) 249
24 人 ( 称揚守文書 ) と質料で異なるが ,確認され 頁など参照。 1938 年 f 同 23 日 0
在日朝鮮人が 全国で 3,0 万人をこえるの 「大阪朝日新聞」 1938 年 6 月 9 日。
は , 1931 年からで,以降, 1952 年 =39 万 5413 人 奈良 坂 lgtW8 年 6 月 8 日の報
1934 年 =53 万 7693 人 ( 各年 道では「朝鮮青年代表二十人」,「朝鮮京畿道の 青
12 月末 ) 一内務省 醤保局 『社会運動の 状況Ⅱ各年 年 」, 6 月 9 日には「朝鮮青年団」,「大阪毎日新
版より。 よ は 呵 " 」 6 月 9 日 夕 千 U @ 「 胡鮮 京畿道青年団」とまち
1932 年 2 月,地滑りからくる 大子 n 川の河床 隆 まちであ る, 日本の新聞報道にあ る よ うに「京畿
起 で河川流域で 洪水がおきた。 この災害復旧工部 道 」という一地方からの 代表者という 位置付けで
をいう。 2000 人の労働者が 従事したが,多くが 在 はないからだ。
日朝鮮人であ った。 拙書仁 もうひとつの 現代史 同 4 日朝刊では
序説 朝鮮人労働者と「大日本帝国Ⅲ ( ブレーン 定例局長会議席上 南総督の重大
166 頁 一 169 頁参照。 示唆」と題して 報じている。
ャ町 調査 J (1932 年 ) に ょ れば (29@ 「東亜日報」 1937 年 9 月 7 日。
明治初期に檜の 表皮を活用した 檜腐縄 作りは東京 い 朝鮮』 ( 昭和 1.M 年 4 月 ) 2 頁。
で始まり,これを 学んだ桜井町の 男性が町内で 始 (31) (32@ 「毎日新報」 1938 年 4 月 20 日。 ⑫ 0) は
めたのが起こりとされる。 高温多湿の作業環境 か 見出し部分, (21) は前文の一部。
ら日本人での 後継者がなくなったが 在日朝鮮人が (33@ 詳しい分析は 前掲『戦後責任研究 ョ 所収の拙
受け継ぎ機械化などで 改良して 1970 年代まで生活 稿 参照。
を 支える産業であ った。 ㌃紀元二千六百年祝典記録』範セ 冊 , R0R 頁 。 大阪府 (49 万 8907 人 ), 奈良県 ( 姐万 f671 人 )
詳しくは前掲拙著 126 頁参照。 など上位参加者に 入り,徳島県の 52 ㏄人についで
「大阪毎日新制」奈良 坂 1924 年 6 月 21 日。 9 位の参加者を 数えている。
「大阪毎日新聞」奈良 坂 1924 年 6 月 23 日。 8 月 14 回③「奈良新聞」
1 日に報じられている。 ほかの観光岡にふれたも 8 月 25 日④「大阪朝日新聞」 9 月 3 日⑤「大阪 胡
のに, 1912 年 10 月 26 日,朝鮮京畿道から 観光 団 147 日新聞」 9 月 2 日⑥「大阪毎回新聞」奈良 版 9 月
人 が来県する予定が「奈良朝 報 」 1912 年 9 月 27 日 に 報じられている。 奈良 版の 9 月 7 円⑧
(24) 「奈良新聞」が 伝えるところでは , 1921 年 4 「大阪毎日新聞」奈良 坂 10 月 2 日⑩「大阪朝出 新
同 28 日,朝鮮江原道内の 面職員及び 制」近畿 版 10 月 10 日 ⑪「大阪朝日新聞」 10 月 13 日
人が 奈良県生駒郡北 倭村 ( 現生駒市 ), 筒井村 ( 現 11 月 15 日⑬「大阪毎日新制」
大和郡山市 ) の青年団を視察するとあ りり刀 25 近畿 版 12 月 5 日⑭「大阪毎日新聞」奈良 版 12 月 8
日 , 27 日の報道か 劃 ,以降朝鮮官吏が 奈良県内 「大阪毎回新聞」奈良 坂 12 月 8 日⑱「大阪 胡
の役場で研修するケースが 増える。 詳しくは 拙菩 日新聞」奈良 版 12 月 15H,
㌃もうひとつの 現代史序説朝鮮人労働者と 日新聞 2 月 2 日」⑱「大阪朝日新聞」 2 月 23 日⑲
74
「大阪朝田新聞」 3 月 29 日
⑱「大阪朔日新聞」奈良 坂 5 月 21 日⑲「大阪朝日
新聞」奈良 坂 6 月 7 日⑳「大阪朝日新聞」奈良 版
6 月 15 回⑳「大阪朝日新聞」奈良 版 6 月 16 日⑳「大
阪朝日新聞」 5 月 21 日 ⑳「大阪朝日新聞」 6 月 7
日 G 「大阪朝日新聞」 6 月 U4 日⑳「大阪朔日新 @: 卸 」
6 月 15 日⑳「大阪朝日新聞」奈良 版 6 月 15 日⑰「 大
阪 朝日新聞」 6 月 26 日⑳「大阪朝日新聞」奈良 坂
7 月 7 日,⑳「大阪朝日新制」 8 月 1 日 ⑳「大阪
朝日新聞」 11 月 26 日。
㎎ 6@ 「大阪毎日新聞」奈良 版 7 月 23H, 24 日, 25
日, 26 日。
在日朝鮮人関係資料集成 J ( 三一書
房, 1976 年 ) 916 頁。
(38@ 内務省 欝保局 社会運動の状況 7 (1935 年 )
565 頁。
(39) (40) (41) 中央融和事業協会
昭利 16 年版Ⅰ 942 年 ) 1 頁 一 4 頁。
(42) 藤田宗元『梅原神宮と 建国奉仕 隊 J ( 阪神意、
打電鉄株式会社百貨店部, 194cW 午 ) 26 頁。
(43@ 「大阪朝日新聞」奈良 版 1938 年 10 月 10 日。
(44@ 「大阪朝日新聞」奈良 坂 1939 年 6 月 16 日。
(45@ 「大阪朝日新聞」奈良 版 1939 年Ⅱ同 26 日。
(46) 「毎日新報」Ⅰ 939 年 6 月 4 日 ダ刊 。
(4% 「毎日新報」 1939 年 6 月 4 日 ダ 刊では「男女
中等学校 3 学年以上と専門大学動員」と 報じ,そ
の人数を「 10 万名動員」としている。 「東亜日・ 報 」
同年 6 月 4 日夕刊「 10 万金 名 生徒出動連日出勤労
奉仕」。 「東亜日報」の 記事では南総督,大野統監
も奉仕 隊 に出ると報じている。 また「東亜日報」
1939 年 6 月㌍日夕刊の「神宮広場拡張工事で 鉄道
局 で勤労奉仕 1400 条 名 に動員命令」。 「東亜日
報」同年 6 月 6 日夕刊「朝鮮神宮奉賛 殿 広場 拡
張工事地鎮祭」などの 報道があ る。
(48@ 「東亜日報」 1938 年 6 月 23 日。
(49) 判明している 朝 鮮からの建国奉仕 隊は 1938 年
6 月 8 日の宵年代表団のほか 記すと 以 -l こ のとおり。
但し,統計は 民族別ではなく 地域別のため 以下の
35 団体に日本人が 含まれている 団体もあ る。 今後,
団体別に検証することが 課題でもあ る。
- ① 7 月 27 日, 28 日 = 開城府青年」 田 20 人 (27 日 ),26
人 (28 日 ) ② 8 月 5 日 = 仁川神社参拝奉仕 隊 10 人
③ 12 月 1 日 幸 朝鮮「客席 郡 」の青年 24 人
笘 ① 2 月 9 日, 10 日 - 国民 欄神 総動員専売聯盟 各
36 人⑤ 2 月 10 日 = 朝鮮総督府鉄道局 22 人⑥ 3 月 3
日 - 朝鮮煙草組合 67 人⑦ 3 月 4 回, 5 日 - 朝鮮煙
草小売組合 62 人 (4 日 ), 69 人 (5 日 ) ⑧ 3 月 18
日 = 慶尚北道巡査教習中の 青年 32 人⑨ 4 月 1 日 -
鎮南浦公立高校生 64 人⑩ 4 月 18 日二朗 鮮 釜山公立
高女 86 人⑪ 4 月 21 日, 22 日, 23 日 - 朝鮮清川 1 中
各 100 人⑫ 4 月 29 日 - 慶尚南道東出公立中学 85 人
⑬ 5 月 9 日, 10 日 = 朝鮮清川商業 各 55 人⑭ 5 月 10
l ョ = 晋州 農業学校 60 人⑮ 5 月 13 日二木浦高等女学
校 104 人㎜ 6 月 6 日二木浦 府 公立商業学校 5 年生
84 人⑰ 6 月 8 日 = 朝鮮師範 ( 人数不明 ) ⑱ 6 月 10
日 目晋州 公立農業学校 55 人⑲ 6 月 10 日 = 平壌公立
商業学校 46 人⑳ 6 月 14 日 古 光州 酉 中学生 80 人⑳ 6
月 18 日年 に Ⅱ l 自治会 25 人⑳ 6 月 18 日 = 仁川商店 60
人⑳ 6 月 22 日 = 忠 、 州 煙草 耕 作組合 27 人⑳ 6 月 22
日, 23 日 - 京畿公立中学 各 92 人⑳ 7 月 25 日 - 平安
北道金融組合職員 21 人 ⑳ 9 月 9 日三平壌公立第 2
「中学 i42 人⑳ 9 月 22 日 - 馬公立商業学校 57 人⑳ 9
月 22 日 - 忠清南道倒景 立 商業学校 40 人⑳ 9 月 30 日
- 乱山公立農業学校生徒. 356 人⑳ 10 月 2 日 幸 全州公
立 高女 日 0 人⑪ )0 月 6 日 = 清川公立農業学校四九
人 ⑫ 10 月 10 日 - 朝鮮 裡里 高女、 iR , 人 ⑳ 10 月 12 日 = 金
海公立農業学校 35 人⑬ 10 月 19 日二平安北道教員視
察団⑳ 11 同 15 日 - 全鮮恩 報国聯盟聯合 50 人。 この
申で学生,教員など 学校関係は,⑨,⑩,⑪,⑫,
⑬,⑭,⑮,⑯,⑰,⑱,⑲,⑳,⑳,⑳,⑳,
⑳,⑳,⑳,⑪,⑫,⑬,⑭の 22 団体になる。 詳
しくは前掲拙稿「『紀元二千六百年祝典 皿と 朝鮮
人建国奉仕 隊 」。
75
「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人
㏄ 0) 前掲『紀元ニ 千六百年祝典記録Ⅱ 第 ゼ %, R07
-@ 貝 。
(51@ 「大阪毎日新聞」奈良 坂 19:W8 年 6 月 10 日。
紀元 ニ 千六百年祝典」と 朝鮮人
建国奉仕 隊 」の中で,「大阪朝日新聞」奈良 坂 1938
年 9 月 7 日記事にあ る「半島人の 聖なる汗も嬉
し 」などと報じられたのかなど ,建国奉仕 隊 に参
加することでどのような 意識が醸成されたかにつ
いて分析した。 記事は大阪朝鮮人共済会の 建国奉
仕隊を報じたものをあ げたが,他にいくつかの 記
事からの分析している。
76