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天理大学人権 問題研究室 み己要 第 9 :65 76, 2006 「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人 川瀬俊治 AWASE Shu I はじめに 奈良県での在日朝鮮人史 ( 植民地時代 期ま 建国奉仕 隊は 1938 年 6 8日に橿原神宮で で)については,かつて「強制連行双史」「 強 結成式を行い ,青年を中心とした 参加者は 連行 期」「強制連行後 史」として論じたこ 3000 人を数えた。 主に近畿地方を 中心にして とがあ るが,本稿ではいわゆる強制連行双史 いるが,日本各地のほか ,朝鮮からの 代表者 にあ たる。 交えた。 正式には「橿原神宮境域と 畝傍山 1940 11 10 回の「紀元二千六百年祝典」 東北陸 陵域の拡張整備事業」 ( 以下「橿原神 は, P 古事記コ川本書紀 ロの 伝承上の人物で 宮拡張整備事業」と ) という。 あ る神武天皇即位から 数えて 260(W 年にあ たる 建国奉仕 隊 と朝鮮人の関わりでは として行われた 政府主催の奉祝行事であ か特徴をあ げることができる。 前の国家イベントであ った。 神武天皇を祭る 奈良県高市郡畝傍 町 ( 橿 (i) 結成式で朝鮮から 代表団が送られたこ 涼雨 ) の橿原神宮ではその 記念事業の一環と 国家的事業に 朝鮮総督府が 朝鮮人を して神宮境域と 外苑の拡張整備事業が 行われ 動員したことは ,これまでの 歴史でみ たが, 日本各地のほか 朝鮮,台湾,満州国, れなかった。 関東州などからも 勤労動員して 1938 年 6 ( )在日朝鮮人も 建国奉仕 際 に参加するが 8日から 1939 年Ⅱ 2f までの 507 日間作業 同じくこれまでの 歴史とは異なる 歩みで 続け事業を進めた。 建国奉仕隊 と名づける あ ること。 れたこの勤労奉仕 隊は 507 日間で約 120 万人が (iii) 朝鮮からの動員では 朝鮮人生徒・ 学生 - 勤労奉仕した。 の勤労奉仕が顕著であ った。 日本国内の この時期の在日朝鮮人の 歴史を奈良県を 中 特徴は各学校に 在籍した在日朝鮮人生 心 にして「『紀元二千六百年祝 ふを 』と在日朝 徒 ・学生の動きが 埋没して見えないこと。 鮮人」のテーマで 主に建国奉仕 隊 との関わ v)国家総動員体制下,「内鰐一体」「皇国 りほついて論究する。 臣民」化が W, ばれたが,一方では 厳しい 治安取締りが 行われ,奈良県という 一地 天理大学非常勤講師 A@Part-Time@Universi 65
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天理大学人権 問題研究室 み己要 第 9 号 :65 一 76, 2006

「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人

川瀬俊治

Ⅹ AWASE Shu 巧 I

はじめに

奈良県での在日朝鮮人史 ( 植民地時代 期ま 建国奉仕 隊は 1938 年 6 月 8 日に橿原神宮で

で ) については,かつて「強制連行双史」「 強 結成式を行い ,青年を中心とした 参加者は

制 連行 期 」「強制連行後 史 」として論じたこ 3000 人を数えた。 主に近畿地方を 中心にして

とがあ るが,本稿では い わゆる強制連行双史 いるが,日本各地のほか ,朝鮮からの 代表者

にあ たる。 も 交えた。 正式には「橿原神宮境域と 畝傍山

1940 年 11 月 10 回の「紀元二千六百年祝典」 東北陸 陵 域の拡張整備事業」 ( 以下「橿原神

は, P 古事記コ川本書紀 ロの 伝承上の人物で 宮拡張整備事業」と 略 ) という。

あ る神武天皇即位から 数えて 260(W 年にあ たる 建国奉仕 隊 と朝鮮人の関わりでは , い く っ

として行われた 政府主催の奉祝行事であ り 空 か特徴をあ げることができる。

前の国家イベントであ った。

神武天皇を祭る 奈良県高市郡畝傍 町 ( 現 橿 (i) 結成式で朝鮮から 代表団が送られたこ

涼雨 ) の橿原神宮ではその 記念事業の一環と と 。 国家的事業に 朝鮮総督府が 朝鮮人を

して神宮境域と 外苑の拡張整備事業が 行われ 動員したことは ,これまでの 歴史でみ ろ

たが, 日本各地のほか 朝鮮,台湾,満州国, れなかった。

関東州などからも 勤労動員して , 1938 年 6 月 ( Ⅱ ) 在日朝鮮人も 建国奉仕 際 に参加するが ,

8 日から 1939 年Ⅱ 同 2f 日 までの 507 日間作業 同じくこれまでの 歴史とは異なる 歩みで

を 続け事業を進めた。 建国奉仕 隊 と名づける あ ること。

れたこの勤労奉仕 隊は 507 日間で約 120 万人が (iii) 朝鮮からの動員では 朝鮮人生徒・ 学生 -

勤労奉仕した。 の 勤労奉仕が顕著であ った。 日本国内の

この時期の在日朝鮮人の 歴史を奈良県を 中 特徴は各学校に 在籍した在日朝鮮人生

心 にして「『紀元二千六百年祝 ふを 』と在日朝 徒 ・学生の動きが 埋没して見えないこと。

鮮人」のテーマで , 主に建国奉仕 隊 との関わ い v) 国家総動員体制下,「内鰐一体」「皇国

りほ ついて論究する。 臣民」化が W, ばれたが,一方では 厳しい

治安取締りが 行われ,奈良県という 一地

天理大学非常勤講師 A@Part-Time@University@Lecturer

65

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「紀元二千六百年祝 , 典 」と在日朝鮮人

方 をとってみても 軽微な労働争議で 逮捕

されたりする 弾圧が記録されていること。

以下はこの四つの 特徴を順次述べる。

まず「紀元 ニ 千六百年祝典」について 述べ

たい。

「紀元 . 千六百年祝典」は 1933 年 3 月,帝

国議会貴族院で 祝典の取り組みが 質されたの

が政府の動きとしては 最初で,以降, 1936 年

4 月に設けられた 紀元二千六百年祝典評議会

と同準備 局 が同年Ⅱ月に 政府の記念行事 6 事

業をきめ,この 中の一 つが 「橿原神宮拡張盤

備 事業」なのだ。

動員された 121 万 4081 人を団体別にみると ,

中学生,学生が 一番多く,青年団,町内会,

婦人会のほか ,天理教などの 宗教団体の勤労

奉仕も目立ち ,総団体数は 7197 団体を数え

た・ O

1940 年 11 月 10 回の「紀元二千六百年祝典」

は 東京で行われ ,宮城外苑には 5200 人が参加

し, 日本国内の参加者は 500 万人をこえ,関

連の奉祝記俳行事は 1 万 5OOcW 件を数えてい る。

日本政府の公式記録文書『紀元二千六百年

祝典記録』では「覚地」「海覚」と 位置づけ

られた地域でも 3200 余 件の記念行事が 行われ た。 「覚地」とは「朝鮮,台湾,関東州,樺

太,南洋等」のことだが ,「奉祝記俳行事」

は , 日本国内での 行事の約 1 割にあ たる 1600

箇所を数え, う ち最も多くの 事業が行われた

のは朝鮮で, m130 余 箇所で実施された。

朝鮮での記念事業の 内容は,各戦時体制組

織や,面,里などでの 神社建設や勤労奉仕,

植樹,寄付などで ( 台湾も同様 ), 帝国日本

の 植民地における 地域支配,とりわけ 国家 神

道の浸透が面, 里 まで及び,神社,神祠造営

に至ったことを 記念事業報告は 示している。

「覚地」全体の 事業一覧がまとめられてい

るが,最も事業費で 多いのは「社寺」費の 中

の「神社造営」費であ り 361 万 94 円,続く「生

業報答 国 ・ 田 設置」 216 万 7940 円,「学校設立

及 校舎建設」 費 5R 万 617S 円からみても 突出し

た額を示している。 神祠造営 費は 55 万 374 円

で 全体の 5 位の事業高であ り,「紀元ニ 千六

百年祝典」に 向けた事業で 神社整備がはから

れ ,神祠造営が 一気に進んだことがわかる。

朝鮮での事業に 焦点を絞れば ,神祠造営が

各事業所,面で 行われており ,朝鮮総督府の

各刑務所での 神祠造営や , 同じく各地方 刑務 1l01

所での神祠造営が ,各面では神祠奉賛 会 が組

織 されて造営されている。 各学校では「皇国

臣民 / 誓詞 柱 ( 碑 ) 」建設,「二宮尊徳 像 」建

設,「御真影奉安殿」建設がされた。

まず本文 1 であ げた ( i) は既に別 稿で詳

しく述べたところなので 再説はしない。 しか

し 朝鮮から送られた 代表団であ る朝鮮人建国

在留朝鮮人

の 歴史と異 - なる側面をもっている。

結論から言えば 国家的事業に 植民地下の朝

鮮 半島から動員してまでも「聖地」とする 橿

原 神宮まで送られたことだ。

具体的な違い る 検証するため 地元奈良県の

歴史からみてみたい。 以下,奈良県での 在日

在留朝鮮人史を 大きく区分すると 以下の 3 点

え 。 @O .

い ) 就労

(2) 治安対策上での 代替え労働力 源

(3) 朝鮮総督府施策の 動向を反映したもの

まず (1) の就労の歴史から と と

もに指摘できることだが ,植民地支配ほど 支

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紀一級支配の 関係が露骨に 具現化するものは

ない。 人間は - 方で物質的基盤を ,他方で観

念的基盤を満たそうとするが ,前者に集約的

に支配一級支配の 関係があ らわれたのが

(1) であ る。

具体例は事欠かかない。 1910 年の「韓国併

合」双後から 朝鮮半島から 奈良県に来た 朝鮮

人は断続的に 続いていた。 「韓国併合」直後

の 奈良県近辺の 巨大プロジェクト 工事にも 朝

鮮 人労働者の就労が 記録されている ,これら

の事実は植民地労働力を 生む日朝の関係が

「韓国併合」双から 進んでいたことを 意味し

ている。

近代産業の基礎づくりであ るインフラ整備

( 鉄道建設,ダム 建設など ) に朝鮮人労働者

の 就労が全国各地で 散見されるが ,奈良県で

も同様であ った。 宇治川発電所,生駒トンネ (l51

ル ( 旧 生駒トンネル ) 工事,大 軌 鉄道工事近

鉄 各線 ,国鉄 ( 現 JR) 各 線などがあ げられ

る。

待遇面では他の 工事の記録から 類推するし

かないが,植民地労働力の 特徴を示す民族差

別賃金が貫徹していたことは 想像に難くない。

植民地労働力の 特徴は民族差別賃金や , 様々

な劣悪な待遇のもと 不安定就労が 課せられる

ことだが,上記の 労働現場も例外ではなかっ

た @O

年代が進み 1930 年代に入って 在日・在留朝

鮮人が増えるが ,不安定就労形態は 改まるこ

となく,例えば 大和川河川改修工事で 多数の

朝鮮人労働者が 就労した歴史は 奈良県におけ

る 代表的な事例だ。 労働者は 2000 人を数え ,

工事が終わると 他の地域に移動,その 後も住

み続けた朝鮮人は 少ない。 臨時雇用される 工

事現場などを 求めて移動を 余儀なくされたの

であ る。

一時雇用の就労 形 f から脱して少しでも 安

定 した生活の場を 築く営みが続けられたが ,

その代表的なものが 奈良県では木材の 集積地

桜井町 Cm 現 桜井市 ) の 檜 帆綱作りであ る。 作

業環境の厳しさから 日本人は敬遠していった

が , 1930 年代初頭から 就労し,朝鮮の 家族を

呼ぶなどで集落を 形成していった。

最盛期は在日朝鮮人の 生活を支え,朝鮮人

集落で大半の 人たちが就労するほどだったが ,

合成口一プ の 普及で衰退していった。 聞き取

りなどから確認できるのは 衰退期に入ったの

は 197(@ 年代のことだという。 現在では 1 軒を

残すのみだ。

次いで (2) の治安対策上での 代替労働力

源は ついてだが,植民地労働力が 経済的搾取

ではなく治安対策として 活用されてもいる 歴

史だ。 小作争議が多発した 奈良県では朝鮮人

が代替え労働力として 臨時雇用された 史実を

刻んだ。 いまでいう第 2, 第 3 組合的ともい

える雇用形態だが , これも植民地労働力が 活

用された 一 形態であ る。

具体的には新聞に 報じられた記事からみる

と , 1924 年年 魅時 ,奈良県添上郡治道打 ( 現

大和郡山市 ) でおきた小作争議が 最初の事例

であ る。 小作人側の要求に 対して地主側は 支

払い耕地返還を 決めるなどして 対抗,実際に

小作料支払いの 段階で紛糾 し ,地主側は対応

策 として朝鮮人を 使い収穫作業を 行った。 朝

鮮人を小作争議対策で 代替え労働力としてあ

てられた実例であ り,小作人側はこれに 対抗

できず地主側の 要求をのんだ。 は ol 1928 年にも磯城郡部材八尾 ( 硯田原本町 )

で同じく朝鮮人を 小作争議対策として 一時雇

用している。 1928 年 2 月 為 日から始まり , 6

月の田植え期にも 解決をみなかった。 地主側

は小作人 36 人に対して土地返還を 求め自作を

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「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人

主張,小作人の 田畑立ち入り 禁止を求めた

した。 さらに対抗策として 朝鮮人 50 人から 60

人の一時雇用で 対抗した。

これら一連の 小作争議対策で 朝鮮人を一時

雇用した事実は ,植民地労働力を 代替え労働

フコ として農民運動弾圧に 活用された側面をも

つ。

V

最後に (3) の朝鮮総督府施策の 動向を反

映した史実だが , 1910 年代前半は「観光 団 」

と 名付けた団体の 来 寧が 日立ったが, 1920 年

代からは変化を 見せる。 教員が訪れたり ,一

地方自治行政を 知るため 2 カ月間も滞在する

ようになる。

1920 年代の動向は 朝鮮総督府の 施策と密接

に関連している。 朝鮮総督府は 1919 年の 3 .

t 独立運動に衝撃を 受けこれまでの 武断政治

から文化政治に 変化をみたことと 関係が深い。

朝鮮では民衆運動が 活発化するが ,一方では

「宗主国」日本の「強大さ」を 政治宣伝する

ことと,親日派育成をはかるため 朝鮮人を日

本に送る施策が 打ち出され,その 結果が ,一

地方奈良でもみられた 教員の視察や 地方行政

を研修する朝鮮人の 来県であ った。

M

さて 1938 年 6 月 8 日の「紀元二千六百年祝

典」に向けての 建国奉仕 隊 結成式に戻る。 Ⅱ

の 冒頭であ げた (i ) からⅠ v) にふれる。

まず (i) からの説明になる。

朝鮮を代表した 青年 20 人動員の動きは ,前

述した ( いから (3) の歴史とはまったく

次元を異にする。 青年たちは朝鮮総督府南次

郎総督からの 祝電に激励されており ,「東亜

日報」は「南総, ぽ より激励の祝電があ って 全

員を して感激させた」と (251 結成式当日の 模様を

報じたが,南総督の 祝電内容が記録されてい

る。 「大阪朝日新聞」の 記事だ。 全文を紹介

する。

「橿原神宮大双における 皇紀 ., 千六百年記

念全国青少年勤労奉仕に 朝鮮青年二十名を

参加せしむるは 余の欣快に堪へざるところ

頗 くば意義あ る事業が 萬 全の成果を収め 皇

威を四海に発揚するに 資せんことを 遥かに

祈念してやまず」 (8"1

この祝電は南総督により ,つまり朝鮮総督

席 により朝鮮青年 20 人が派遣されたことを 意

抹 する。 単なる青年団の 代表などではない。

日中戦争 下 , 1938 年の国家総動員体制の - 環

から国家が直接介入した 朝鮮人動員が 始まっ

たことを意味する。 「宗教的」動員と 名付け

ていい性格だ。

「皇国臣民」化,「 内鮮 一体」は朝鮮の 植

民地支配以降の 貫徹した日本の 施策であ った

が, カギとなるのは 国家神道の朝鮮内への 浸

透だろう。 法制化と行政上の 整備と, もう 1

つ 神社ヒエラルキー 整備という 2 つの流れか

らみることが 出来る。 前者は 1915 年の神社寺

院規則制定から 日中戦争 下 01936 年の行政上

の整備であ る神社規則制定があ げられる。 一

方,そうした 整備にともなう 官幣大社朝鮮神

宮一国幣社 一 神社 ( 府県社 ) 一 神祠 (5 陣ヒ )

といった神社ヒエラルキーが 整備,拡充され

ていった。

南総督は 1936 年 8 月 5 日に朝鮮総督府総督

に 就任したが,翌 37 年 8 月の日中全面戦争直

後の会議で「 内鮮 一体の絶好機」とする 訓示

な 行ったほか,同年 9 月 6 日の第 1 回 愛国日

社参拝

白貝

そ定

生,

姪は

@ の コ ① は 施 0

20 を 実 朝鮮人強制連行の 特徴は国家権 力が戦時 動

68

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員を行ったことにあ る。 最初は 1939 年の内務・

厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に 関

する 件 」による戦時動員だが ,こうした法制

上の手続きが 決定される前に「宗教的」動員

がなされていたことは ,強制連行のべ ー ス に

あ ったイデオロギーを 考える上で重要であ る。

何よりも総動員体制の 動機付けの浸透が 強固

に進められたことにあ る。

南総督は陸軍特別志願兵食と「改正朝鮮教

育令」公布を 前にした 1938 年 1 同 22 日通知事

会議での「諭告」では 以下のように 述べてい

る。

「朝鮮統治 / 目標ハ期 成 同胞ヲシテ真個皇

国臣民 タ ルノ本質 二徹 セシメ,内鰐一体,

倶 ニ治平 / 慶二頼り,東亜 / 事 三姓スル」

それから 3 ヵ月後の 1938 年 4 月 19 日の朝鮮

の各通知事を 招集した会議では 総督訓示とし

て 「半島統治の 指針 哩明 内鰐一体を強調」

し ,就任で打ち 出した 5 大政綱 ( 国体明徴,

鮮満 一如,教学振作,農工併進,庶政刷新 )

の普及の登底強化から「帝国の 大陸政策に対

して朝鮮の協力並びに 戦時対応国民運動の 統

剛強化をはかる」とした。 (32) 同年 5 月朝鮮にも国家総動員法が 施行され

る。 それから 1 力月 後,「橿原神宮拡張整備

工事」で建国奉仕 隊 として朝鮮人青年 20 人が

送られる。 以降総計で 36 団体の建国奉仕 隊が

組まれた。

朝鮮からの動員数は 総計で 4678 人,上位 9

位を占めた。 同じく植民地支配下にあ った 台

湾の建国奉仕 隊は 1129 人,満州国からは 1946

人 ,関東州からは 161 人の動員を記録した。

では田にあ げた (1) から (3) までの 花

日 ・在留朝鮮人と「橿原神宮拡張整備工事」

での建国奉仕 隊 の 違い はどこにあ るのか。 建

国奉仕 隊 に在日朝鮮人も 動員されており ,ま

ず記録された 在日朝鮮人団体を 見てみたい。

1938 年

① 8 月 3 日二八木町半島人共和会 50 人

② 8 月 14 日二天満 署 管内矯風会 51 人

③ 8 月 25 日ニ奈良県吉野都下 面 ,大淀町で在

日朝鮮人組織・ 報国会

④ 9 月 2 日二布施 市 協和会

⑤ 9 月 2 日ニ柏原署管内内鰐 会 184 人

⑥ 9 月 6 日三朝鮮人共済会 30 人

⑦ 9 月 6 日二大阪朝鮮人共済会 19 人

⑧ 9 月 20 日二九条矯風会 50 人

⑨ 10 月 1 日 = 大阪府吹田の 吹田署管内の 朝鮮

人青年 loS 人

⑲ 10 月 9 日 三 奈良県北葛城郡新庄町 ( 現 葛城

市 ) 皇国協和会 37 人

⑪ 10 同 12 日ニ下鴨警察署協和会支部 100 人

⑫Ⅱ同 15 日 = 京都山科協和会 30 人

⑬ 12 月 4 日 = 奈良県北葛城郡 箸 尾灯 ( 現 広陵

町 ) の朝鮮親睦会 31 人

⑭ 12 月 7 日二神戸国防青年団 53 人

⑮ 12 月 9 日 = 京都協和会下鴨支部 70 人

⑯ 12 月 IR 三大阪市の済州島 東煤里 奉仕 隊 30 人

1939 年

⑰ 2 月 1 日 = 京都協和会 242 人

⑱ 2 月 22 日 二 丹波面協和会 ( 現 奈良県天理

市 ) 43 人

⑲ 3 月 15 日 = 松原協和会 ( 京都 ) 190 人

⑳ 3 月 19 日 = 山城協和会 ( 京都 ) H10 人

⑳ 3 月 28 日Ⅰ兵庫県須磨協和合 44 人

⑳ 5 月 21 日三奈良県協和会八木支部 250 人

⑳ 6 月 7 日 工 兵庫県姫路協和会 250 人

⑳ 6 月 14 日 二 京都府園部協和会

⑳ 6 月 15 日三奈良県協和会桜井支部 206 人

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「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人

⑳ 6 月 18 日二神戸の三宮協和会 38 人

⑳ 6 月 26 日二神戸春日野道商業組合 75 人

⑳ 7 月 7 日 = 伊賀内 鰐 愛国同盟 50 人

⑳ 8 月Ⅰ 日 三生駒郡昭和相半島人銃後奉公会

26 人

⑳Ⅱ 同 25 日 二 郡山協和会 1.36 人

Ⅹ団体名は新聞報道のまま 記述した。 1938

年 7 月 24 日, 25 日に大阪朝鮮薬業組合 100

人が建国奉仕 勝 として活動しているが ,

朝鮮人の団体か 現段階では不明なのでこ

の年表には加えていない。

これら 30 団体の特徴は 警察が組織・ 指導す

る 在日朝鮮人組織であ る矯風会,協和会が 中

心 に動員活動が 行われていることであ る。 以

下 ( Ⅱ ) の説明になる。

「皇国臣民」化,「内鰐一体」は 朝鮮本土

でも日本でも 同様の朝鮮人施策の 基本であ る。

日中戦争勃発 (1931 年 ) 後,これまでの「 内

鮮 融和 策 」では挙国一致体制に 対応できなく

なり,新たな 在日朝鮮人政策が 打ち出される。

1934 年 10 同 30 日の閣議決定「朝鮮人移住対策

ノ件 」がそれであ り,「内地二 ニ ケル」朝鮮

人 / 指導向上波 其 / 内地融和 策ヲ図ルコト 」

と同化政策の 強化を打ち出した。

この新たな在日朝鮮人政策が 出る半年双の

1934 年 4 月 13 日,大阪では 大阪府内鰐融和事

業 調査会が発足, 1936 年に出した「在住朝鮮

大 問題 / 其 / 対策」では,基本方針として 以

下のように述べている。

「在住朝鮮人特有 / 俗性ヲ 矯正 シ 生活 / 改

善向上 ヲ 図り内地化セシメ 進 ンデ至誠報国

/ 精神 ヲ酒養シ以テ 斉 シク休明 / 状ヲ享ケ

、 ンム ルト 共ニ ,陛下 / 赤子トシテ邦家 / 隆

運 ヲ 扶翼セシメシム ルヲ以テ根義トぶ Ⅰ

「天皇 / 赤子」として「報国 / 精神」を育

てることをうたう。 そのために「在住朝鮮人

特有 / 俗姓 ヲ 矯正」することで「内地化セシ

メ」るという。 「皇国臣民」化により「内地

化」する施策は 朝鮮人独自の 組織を解散に 追

い込むことになった。 1935 年 8 月の大阪府内

鰐融和事業調査会第 3 回総会では「朝鮮人青

年団は之を解散,青年の 指導は矯風会青年団 は 8l

をして之に 当 らしむること」として 朝鮮の青

年団は解散に 追い込まれた。 矯風会とは警察

を中心にして 組織化されたものだ。

一連の在日朝鮮人の 組織化の一方で , 1936

年度に政府が 物の朝鮮人対策費の 予算化を行

った。 続いて内務省は「協和事業実施要旨」

を通牒し㎝ 936 年 8 月 31 日 ), 以降,各府県

で 協和会を組織化して い く。 これら組織され

る 時期と建国奉仕 隊 動員とは重なり ,露骨に

官憲が在日朝鮮人民出の 前に出てくる。 地元

奈良県の奈良県協和会は 1938 年 11 月 25 日に,

中央協和会は 1939 年 6 月 28 日に設立された。

協和会事業の 要旨をみると ,「協和事業は

『一視同仁』の 聖旨を奉体して 之を事業の出

発 点とし,指導精神とし , 又 帰着点とする」

ことを第一におく。 その「 一 視同 7. 」とは「内

地同胞も覚地同胞も 等しく陛下の 赤子として

何等の区別なく ,各々其の所を 得せしめ安居

染業せしむる 状態を意味するのであ る」。 つ

まり天皇を中心とした「皇国臣民」化の 推進

の 具体的な実験場が「橿原神宮拡張整備 工 事 」だった と ィ立・畳付,けられよ つ ,

これまでの在日朝鮮人の 歩みで国家総動員

体制下,とりわけイデオロギー 支配が強化さ

れたのであ り,朝鮮本土からは「宗教的」動

員として 36 団体が勤労奉仕に 従事,日本本土

の在日朝鮮人についても 過去に経験しなかっ

た警察単位での 組織化であ る協和会により 勤

労奉仕に動員されたのであ る。 繰り返すが

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(i) から (3) の在日朝鮮人の 歩みとは大

きく異なっている。 中央融和事業協会は「八

紘一宇」の精神について「天祖がもろもろの

民草を愛しみ 育て給ふ皇威の 現れであ り, こ

れ即ち 下 杣山の 御 精神であ ると推察されるの

であ って , 此の大和の精神が 万世一系君臣一

体となり,国民生活の 上では家族制度となっ

たのであ り, 又 過去に 於 いて多数の帰化 民が (411

抱擁同化せられた 源 なのであ る」とも述べて ,

天皇制のもとでの 平等だからこそ 異 民族間は

「抱擁同化させられる」という。

天皇制のもとでの 異 民族統合 策 で大きな契

機となったのが 194(W 年の「紀元二六百年祝

典」に向けた「橿原神宮拡張整備事業」での

建国奉仕 隊 における朝鮮人,台湾人,中国人

( 満州国在住 ) の動員であ り,在日朝鮮人に

対しても矯風会,協和会によって 遂行された。

朝鮮では朝鮮総督府が , 日本では警察が 送り

込む役目を担ったのであ る。

建国奉仕 隊 の一日の日程だが ,参加者は朝

8 時半までに大 軌 鉄道 ( 親近畿日本鉄道 ) 橿

原 神宮駅双に集合,橿原神宮に 参拝したあ と

9 時半から午後 2 時 50 分まで作業を 行った。

協和金の具体的な 口々活動が記録されてい

る文献は少ないが ,以下のような 報道で顕著

に伝えている。

「倉田奈良県議の 率 め る 皇国協和会姉十 セ

名は半島同胞の 赤誠を姥土の 上に 燐 として

披漉 , ( 以下略Ⅱ (431 「奈良県勢は 桜井警察署内協和会二百六名

と県立五 條 高女二百八十一名だ ,協和会は

具述警部補が 隊長となり,中尾桜井町長,

(B 紡 その他の理事もこれに 合流し,半島

同胞の赤誠の 見せどころと 張り切ったが ,

作業能率にかけては ,まさにナンバー・ワ

ン ! 本部の作業係りは 協和会の山道と 聞け

ば 雀踊して喜ぶく らゐ であ る」 (4 ム 1

「 二 -l- 五日名誉の殿りをうけた ま はった建

国奉仕隊は池田郡山署長を 隊長とする協和

会百三十六名,半島人の 赤誠は聖地に 輝き ,

特に毎月の国防献金,農家への 勤労奉仕な

どに善行を っ づけてゐる模範団体だけにⅥ 珪

業係も驚嘆するほどに 作業がはかどる」

協和合の動向を 伝える報道であ る。 警察官

が隊長になり ,支部の理事が 同行した建国奉

仕 隊は ,他の生徒,学生や 町内会,婦人団体,

青年団などとは 異質な様相を 示してはいなか

ったか。 いや異質とは 思わさないほど ,当時

の戦時体制は 軍民一体であ り, 警 艮一体であ

ったのだ。 戦時動員をはかる 機関として機能

した姿の一端が ,「橿原神宮拡張整備事業」

での矯風会,協和合の 建国奉仕 隊 動員にあ ら

われている。

建国奉仕 隊 のしんがりがなぜ 奈良県の郡山

協和会がつとめたかはわからない。 「皇国臣

民」化,「内鰐一体」の 模範モデルを 最終日

にアピールしたことは 事実であ る。

X

さて文頭であ げた 4 項目のうち (iii) の朝

鮮人生徒,学生の 動員についてであ る。 朝鮮

本土では「皇国臣民」化を 促進する「改正朝

鮮教育令」公布後の 国家的事業であ ったこと

と関係が深い。

朝鮮では朝鮮総督府は 1939 年 6 月,学校の

正 科 として中等学校の 男女,専門大学校 10 万

金君動員を打ち 出す。 (461 第一陣が同年 7 月 1 日

から始まった 朝鮮神宮奉賛 殿 広場の拡張工事

であ った。

20 人を代表団とした 建国奉仕 隊 はその一年

7 Ⅰ

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「紀元ニ千六百年祝 洪 」と在日朝鮮人

前から始まっており ,先鞭役を担ったともい

える。 また派遣の時期とほぼ 同時期に京畿道

中等学校が 1 万 金 名の生徒を動員して 勤労 報

国 隊を結成する 方針が伝えられてもいた。

「宗主国」日本まで 動員される意味はすで

にふれた南総督の 愈告などでわかるように ,

「皇国臣民」化に 徹することで「内鰐一体」

をはたすことこそ 国家総動員体制下の 焦眉の

課題であ った。 6 月 8 日の建国奉仕 隊 結成式

参加の朝鮮人青年 20 人を含めた計 36 団体の朝

鮮建国奉仕 隊 のなかで W2 団体が学生・ 生徒,

教師をしめた。

在日朝鮮人生徒,学生は 表面化していない。

建国奉仕隊の 総計 3U4 万 3464 人,全体の 28. (501

29% が学生・生徒だが ,その中で朝鮮大学生

が 含まれていただろうが ,記録や報道には 現

れていない。

X

建国奉仕 隊 結成式のころ ,一人の朝鮮人男

性が逮捕された。 奈良県添上郡 五ケ 谷村 ( 現

天理市 ) で働いていた 40 歳の男性だが ,労賃

の値上げを要求したが ,管轄警察署により「時

節柄 ,重大視し不当な 値上げ」として 逮捕さ

れている。 以上は文頭にあ げたい v) 0 具体

的な事実であ る。

協和会での「皇国臣民」化 策は 「内鰐一体」

に よ る軍事体制の 遂行にあ ることをこれまで

の説明で鮮明であ る。 同じ警察に朝鮮人が 労

賃要求で逮捕される 構造は , 実に皮肉なこと

ではないだろうか。 つまり同じ警察組織の 中

に朝鮮人を組み 込むという体制そのものは ,

いかに官憲が 朝鮮人の「皇国臣民」化に 神経

をとがらせていたかということを 証しはしな

い か。 1 であ げたい v) の 考察は実は戦双の

天皇制のもとでの「平等」をはかることで 植

民地臣民を戦時体制の 挙国一致を推進する 組

織 形態,情念構造にまで 論及していかないと

その全体像が 見えてこない。 拙稿「Ⅱ紀元二

千六百年祝典 山 と朝鮮人建国奉仕 隊 」で若干 延べたが不十分であ り,今後の課題とした

釆 当時の資料引用では ,植民地用語「半島

人」など,当時の 時代状況を示すものと

してそのまま 転載した。

(1) 植民地期の在日朝鮮人史について ,いわゆる

強制連行が始まる 19.W9 年 7 月 29 日「朝鮮人労働者

内地移住の件」までを「強制連行双史」と 名づけ

け @ 政府公式記録 肛 紀元二千六百年祝典記録Ⅱ 全

十三冊 (1943 年 ) 第 6 節「勤労奉仕」で「建国奉

仕 隊 / 結成 及 奉仕 / 成果」で「昭和 - ト 三年六月八

日ヲ以テ 専業奉公 / 現地タル梅原神宮神域 ノ

於テ 参加者八三千名 ヲ会シ 」 (497 頁 ) とあ る。 し

かし結成式の 模様を報じた「大阪毎日新聞」 祭、 : 良

版 1g;W8 年 6 月 9 日では 2000 人としている。

(3) 前掲『紀元ニ 千六百年祝典記録Ⅲ第セ 冊 , 505

頁一 507 頁 0

㎝ ) 古川隆久㌃皇紀・ 万博・オリンビック 山 (@: け

公 新書, 1998 年 ) 174 頁, 同 「 酊 紀元二千六百年祝

典記録 皿 解題」 げ 紀元二千六百年祝典記録り 別冊

(2002 年 ) 182 頁。

(5) (6) 前掲 は 紀元ニ千六百年祝典記録 コ第 ㍉ ,

℡, 蝸 5 頁。

(7) 前掲 肝 紀元ニ千六百年祝典記録』第十冊, 460

頁 一 557 頁。 朝鮮での各記俳事業が 記述されてい

る。

(8) 前掲㌃紀元二千六百年祝典記録曲第十四冊, 455

頁 一 460 頁。

(9) 前掲 肝 紀元二千六百年祝典記録 胡 第十四冊 ヒ 62

頁 一 463 頁 ) に,全州,成典,新義州, 釜 lLl ( 馬

LLl 支所 ), 光州,全州の 各刑務所敷地内に 神祠が

72

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造営されている。

れ 0) 前掲 酊 紀元二千六百年祝典記録 ゴ第 -@- 四冊⑮ 00

頁 一 556 頁 ) に,大邱刑務所 5, 今泉郡令 泉 少年刑

務所,釜山刑務所,平壌刑務所,同鎮南浦支所な

どでの造営が 記録されて、 @ る

㎝ 1) 拙稿Ⅳ紀元二千六百年祝典コ と 朝鮮人建国

奉仕 隊 」㎝本の戦争責任資料センター㌃ 戦争背

任研究 d 51 芳 一 2006 年 3 月 15 日 ぢをそ丁 ) 所り X 。

(1 の 歴史用語としてこの 用語が登場したことはな

いが, 1938 年 6 月 8 日の起工式に 朝鮮から送られ

た代表団の青年 20 人以降,総計 36 団体が 朗 鮮から

きて勤労奉仕をする ( 詳しくは前掲拙稿参照 ) 。

これらの団体を 朝鮮人建国奉仕 隊 と筆者が名付け

た。 ただ勤労奉仕団体で 集計地域別であ り,学校

からの 22 団体以覚で朝鮮人に 加えて日本人が 入っ

た団体であ ることは十分考えられるが ,団体構成

人員を詳しく 調べることが 現段階ではできないた

め,参加 36 団体を朝鮮人建国奉仕 隊 として位置 伺

けている。 度を押さえることが 重要。 朝鮮人波 目 に関する二

つの取り決めがあ った。 一つは 187f 年 8 月 24 日締

結の「日朝 7@% なオ 条規附録」第五 歌 で「 朝鯛 国人民

其 政府 / 許可 ヲ得テ 日本国 ニ来 ルモ妨害ナシ」と

う たったことだ。 朝鮮国政府の 許可があ れば

前から 渡 日が可能であ った。 もう一つ

は, 1899 年に出された 勅令。 3iR2 号「条約 若ハ 慣行

二 依り居住 / 自由 ヲ有セ サル外国人 / 居住友営業

等二関スル 件 」であ る。 清 国人への渡航制限を・ 加

えたものであ り,朝鮮人は 対象外であ った。 この

ことから「韓国併合」双からの 就労は史実として

刻まれたのであ る ( 日本が朝鮮国の 外交権 を握っ

た第 2 次「日韓協約」以降は 統監府の手に 移る ) 。

はり 奈良県近辺では 滋 賀県の琵琶湖に 流れ込む宇

治川, 瀬 出川を開 撃 して建設した 宇治川発電工 棚

は 908 年 一 1913 年 ) に朝鮮人労働者が 就労した。

1909 年 6 月 13 日の「大阪毎日新聞」には 58 人が朝

しで人文 駒 のは朝戸好二に別

民 がな㌍

ととるなれを

午 一で雇 肋 )

植 とと

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者働 西側もた 犠

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「紀元 _ 千六百年祝典」と 在日朝鮮人

った 労働者は最大で 63 人 倣戊院 文書 ), 最小で ( ブレーンセンタ コ 1987 年 ) 249

24 人 ( 称揚守文書 ) と質料で異なるが ,確認され 頁など参照。 1938 年 f 同 23 日 0

在日朝鮮人が 全国で 3,0 万人をこえるの 「大阪朝日新聞」 1938 年 6 月 9 日。

は , 1931 年からで,以降, 1952 年 =39 万 5413 人 奈良 坂 lgtW8 年 6 月 8 日の報

1934 年 =53 万 7693 人 ( 各年 道では「朝鮮青年代表二十人」,「朝鮮京畿道の 青

12 月末 ) 一内務省 醤保局 『社会運動の 状況Ⅱ各年 年 」, 6 月 9 日には「朝鮮青年団」,「大阪毎日新

版より。 よ は 呵 " 」 6 月 9 日 夕 千 U @ 「 胡鮮 京畿道青年団」とまち

1932 年 2 月,地滑りからくる 大子 n 川の河床 隆 まちであ る, 日本の新聞報道にあ る よ うに「京畿

起 で河川流域で 洪水がおきた。 この災害復旧工部 道 」という一地方からの 代表者という 位置付けで

をいう。 2000 人の労働者が 従事したが,多くが 在 はないからだ。

日朝鮮人であ った。 拙書仁 もうひとつの 現代史 同 4 日朝刊では

序説 朝鮮人労働者と「大日本帝国Ⅲ ( ブレーン 定例局長会議席上 南総督の重大

166 頁 一 169 頁参照。 示唆」と題して 報じている。

ャ町 調査 J (1932 年 ) に ょ れば (29@ 「東亜日報」 1937 年 9 月 7 日。

明治初期に檜の 表皮を活用した 檜腐縄 作りは東京 い 朝鮮』 ( 昭和 1.M 年 4 月 ) 2 頁。

で始まり,これを 学んだ桜井町の 男性が町内で 始 (31) (32@ 「毎日新報」 1938 年 4 月 20 日。 ⑫ 0) は

めたのが起こりとされる。 高温多湿の作業環境 か 見出し部分, (21) は前文の一部。

ら日本人での 後継者がなくなったが 在日朝鮮人が (33@ 詳しい分析は 前掲『戦後責任研究 ョ 所収の拙

受け継ぎ機械化などで 改良して 1970 年代まで生活 稿 参照。

を 支える産業であ った。 ㌃紀元二千六百年祝典記録』範セ 冊 , R0R 頁 。 大阪府 (49 万 8907 人 ), 奈良県 ( 姐万 f671 人 )

詳しくは前掲拙著 126 頁参照。 など上位参加者に 入り,徳島県の 52 ㏄人についで

「大阪毎日新制」奈良 坂 1924 年 6 月 21 日。 9 位の参加者を 数えている。

「大阪毎日新聞」奈良 坂 1924 年 6 月 23 日。 8 月 14 回③「奈良新聞」

1 日に報じられている。 ほかの観光岡にふれたも 8 月 25 日④「大阪朝日新聞」 9 月 3 日⑤「大阪 胡

のに, 1912 年 10 月 26 日,朝鮮京畿道から 観光 団 147 日新聞」 9 月 2 日⑥「大阪毎回新聞」奈良 版 9 月

人 が来県する予定が「奈良朝 報 」 1912 年 9 月 27 日 に 報じられている。 奈良 版の 9 月 7 円⑧

(24) 「奈良新聞」が 伝えるところでは , 1921 年 4 「大阪毎日新聞」奈良 坂 10 月 2 日⑩「大阪朝出 新

同 28 日,朝鮮江原道内の 面職員及び 制」近畿 版 10 月 10 日 ⑪「大阪朝日新聞」 10 月 13 日

人が 奈良県生駒郡北 倭村 ( 現生駒市 ), 筒井村 ( 現 11 月 15 日⑬「大阪毎日新制」

大和郡山市 ) の青年団を視察するとあ りり刀 25 近畿 版 12 月 5 日⑭「大阪毎日新聞」奈良 版 12 月 8

日 , 27 日の報道か 劃 ,以降朝鮮官吏が 奈良県内 「大阪毎回新聞」奈良 坂 12 月 8 日⑱「大阪 胡

の役場で研修するケースが 増える。 詳しくは 拙菩 日新聞」奈良 版 12 月 15H,

㌃もうひとつの 現代史序説朝鮮人労働者と 日新聞 2 月 2 日」⑱「大阪朝日新聞」 2 月 23 日⑲

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「大阪朝田新聞」 3 月 29 日

⑱「大阪朔日新聞」奈良 坂 5 月 21 日⑲「大阪朝日

新聞」奈良 坂 6 月 7 日⑳「大阪朝日新聞」奈良 版

6 月 15 回⑳「大阪朝日新聞」奈良 版 6 月 16 日⑳「大

阪朝日新聞」 5 月 21 日 ⑳「大阪朝日新聞」 6 月 7

日 G 「大阪朝日新聞」 6 月 U4 日⑳「大阪朔日新 @: 卸 」

6 月 15 日⑳「大阪朝日新聞」奈良 版 6 月 15 日⑰「 大

阪 朝日新聞」 6 月 26 日⑳「大阪朝日新聞」奈良 坂

7 月 7 日,⑳「大阪朝日新制」 8 月 1 日 ⑳「大阪

朝日新聞」 11 月 26 日。

㎎ 6@ 「大阪毎日新聞」奈良 版 7 月 23H, 24 日, 25

日, 26 日。

在日朝鮮人関係資料集成 J ( 三一書

房, 1976 年 ) 916 頁。

(38@ 内務省 欝保局 社会運動の状況 7 (1935 年 )

565 頁。

(39) (40) (41) 中央融和事業協会

昭利 16 年版Ⅰ 942 年 ) 1 頁 一 4 頁。

(42) 藤田宗元『梅原神宮と 建国奉仕 隊 J ( 阪神意、

打電鉄株式会社百貨店部, 194cW 午 ) 26 頁。

(43@ 「大阪朝日新聞」奈良 版 1938 年 10 月 10 日。

(44@ 「大阪朝日新聞」奈良 坂 1939 年 6 月 16 日。

(45@ 「大阪朝日新聞」奈良 版 1939 年Ⅱ同 26 日。

(46) 「毎日新報」Ⅰ 939 年 6 月 4 日 ダ刊 。

(4% 「毎日新報」 1939 年 6 月 4 日 ダ 刊では「男女

中等学校 3 学年以上と専門大学動員」と 報じ,そ

の人数を「 10 万名動員」としている。 「東亜日・ 報 」

同年 6 月 4 日夕刊「 10 万金 名 生徒出動連日出勤労

奉仕」。 「東亜日報」の 記事では南総督,大野統監

も奉仕 隊 に出ると報じている。 また「東亜日報」

1939 年 6 月㌍日夕刊の「神宮広場拡張工事で 鉄道

局 で勤労奉仕 1400 条 名 に動員命令」。 「東亜日

報」同年 6 月 6 日夕刊「朝鮮神宮奉賛 殿 広場 拡

張工事地鎮祭」などの 報道があ る。

(48@ 「東亜日報」 1938 年 6 月 23 日。

(49) 判明している 朝 鮮からの建国奉仕 隊は 1938 年

6 月 8 日の宵年代表団のほか 記すと 以 -l こ のとおり。

但し,統計は 民族別ではなく 地域別のため 以下の

35 団体に日本人が 含まれている 団体もあ る。 今後,

団体別に検証することが 課題でもあ る。

- ① 7 月 27 日, 28 日 = 開城府青年」 田 20 人 (27 日 ),26

人 (28 日 ) ② 8 月 5 日 = 仁川神社参拝奉仕 隊 10 人

③ 12 月 1 日 幸 朝鮮「客席 郡 」の青年 24 人

笘 ① 2 月 9 日, 10 日 - 国民 欄神 総動員専売聯盟 各

36 人⑤ 2 月 10 日 = 朝鮮総督府鉄道局 22 人⑥ 3 月 3

日 - 朝鮮煙草組合 67 人⑦ 3 月 4 回, 5 日 - 朝鮮煙

草小売組合 62 人 (4 日 ), 69 人 (5 日 ) ⑧ 3 月 18

日 = 慶尚北道巡査教習中の 青年 32 人⑨ 4 月 1 日 -

鎮南浦公立高校生 64 人⑩ 4 月 18 日二朗 鮮 釜山公立

高女 86 人⑪ 4 月 21 日, 22 日, 23 日 - 朝鮮清川 1 中

各 100 人⑫ 4 月 29 日 - 慶尚南道東出公立中学 85 人

⑬ 5 月 9 日, 10 日 = 朝鮮清川商業 各 55 人⑭ 5 月 10

l ョ = 晋州 農業学校 60 人⑮ 5 月 13 日二木浦高等女学

校 104 人㎜ 6 月 6 日二木浦 府 公立商業学校 5 年生

84 人⑰ 6 月 8 日 = 朝鮮師範 ( 人数不明 ) ⑱ 6 月 10

日 目晋州 公立農業学校 55 人⑲ 6 月 10 日 = 平壌公立

商業学校 46 人⑳ 6 月 14 日 古 光州 酉 中学生 80 人⑳ 6

月 18 日年 に Ⅱ l 自治会 25 人⑳ 6 月 18 日 = 仁川商店 60

人⑳ 6 月 22 日 = 忠 、 州 煙草 耕 作組合 27 人⑳ 6 月 22

日, 23 日 - 京畿公立中学 各 92 人⑳ 7 月 25 日 - 平安

北道金融組合職員 21 人 ⑳ 9 月 9 日三平壌公立第 2

「中学 i42 人⑳ 9 月 22 日 - 馬公立商業学校 57 人⑳ 9

月 22 日 - 忠清南道倒景 立 商業学校 40 人⑳ 9 月 30 日

- 乱山公立農業学校生徒. 356 人⑳ 10 月 2 日 幸 全州公

立 高女 日 0 人⑪ )0 月 6 日 = 清川公立農業学校四九

人 ⑫ 10 月 10 日 - 朝鮮 裡里 高女、 iR , 人 ⑳ 10 月 12 日 = 金

海公立農業学校 35 人⑬ 10 月 19 日二平安北道教員視

察団⑳ 11 同 15 日 - 全鮮恩 報国聯盟聯合 50 人。 この

申で学生,教員など 学校関係は,⑨,⑩,⑪,⑫,

⑬,⑭,⑮,⑯,⑰,⑱,⑲,⑳,⑳,⑳,⑳,

⑳,⑳,⑳,⑪,⑫,⑬,⑭の 22 団体になる。 詳

しくは前掲拙稿「『紀元二千六百年祝典 皿と 朝鮮

人建国奉仕 隊 」。

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「紀元二千六百年祝典」と 在日朝鮮人

㏄ 0) 前掲『紀元ニ 千六百年祝典記録Ⅱ 第 ゼ %, R07

-@ 貝 。

(51@ 「大阪毎日新聞」奈良 坂 19:W8 年 6 月 10 日。

紀元 ニ 千六百年祝典」と 朝鮮人

建国奉仕 隊 」の中で,「大阪朝日新聞」奈良 坂 1938

年 9 月 7 日記事にあ る「半島人の 聖なる汗も嬉

し 」などと報じられたのかなど ,建国奉仕 隊 に参

加することでどのような 意識が醸成されたかにつ

いて分析した。 記事は大阪朝鮮人共済会の 建国奉

仕隊を報じたものをあ げたが,他にいくつかの 記

事からの分析している。

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