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V はたらくとは何かV 台風や identity の暇なく突如到来する。運...

Date post: 07-Sep-2020
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台風やpandemicは、接近 や流行が報じられても回避 はままならない。「地震・ 雷・火事・親父」は、予見 の暇なく突如到来する。運 悪く遭遇した被災者には 「偶然の仕打ち」となる。 九鬼周造は両大戦間に長 く欧州に逗留した。フラン ス滞在の末期にポンティニ ィーの哲学者の集いで、東 洋的時間の円環構造に関す るフランス語講演を行っ た。ハイデガー『存在と時 間』が説く「脱自」を「水平的 κστασι 」と規定し、それ に対して「垂直的 としての忘我体験に「永遠 の今」を捉える。 この文脈で九鬼はシシュ ポスの神話に言及する。山 頂に岩を担ぎあげるが、そ の度に岩は空しく谷底に落 下する この永遠の苦行 を強いられた巨人の物語だ が、九鬼は通常の解釈を転 倒させ、そこに人間実存の 自由意志の根拠を見る。 無限反覆は罪業ではな く、七生報国は死に克つ生 への意志となる。九鬼の脳 裏には関東大震災があっ た。災害は将来も繰り返す。 だがだからこそ帝都・東京 は復興に勤しんでいる。 ここにNeo-Platonismに淵 源するM.Ficinoらイタリア ・ルネサンス期以来のphi- losophia perennis「永遠の哲 学」が接ぎ木される。世界 の諸宗教は源泉の「一」に 通じ、その時代ごとに同一 の真理が何度でも再生回帰 する 。この教義に従う と、永劫回帰・輪廻転生を 再解釈する哲学の途が拓け る。さらに偶発の出来事と の遭遇・接触は、必然では なく予見不可能。それが偶 然性 contingence と呼ばれ る。「垂直的 」では 過去と未来とが現在におい て不意に垂直に接触tangere する。その瞬間、体験者は 雷に打たれたように、自己 を喪失する。 九鬼は1928年に帰国し、 『偶然性の問題』を博士論 文(1935)に纏める傍ら、 「垂直的 」体験を、 詩歌における押韻の想起に 当て嵌める。過去の詩文を 朗誦してその押韻に唱和す ると、死者の霊に憑依さ れ、己はそれと混融一體と なる。この「永遠の今」に 詩人・九鬼は「言霊の咲き はう」日本の国體を幻視す る。 四一年に早世した九鬼の 墓碑は、前任者・西田の揮 毫。だが西田が『偶然性の 問題』に応答した証拠は、 残されていない。とはいえ 西田晩年の思索が触れる 「永遠の今」は、九鬼の思 索と、看過できないcontin- gencyを呈していた。 西田後期の論考「我と汝」 1932)には「永遠の今の 自己限定」という語句が頻 出する。「永遠の今」は「自 己限定」を「行為」するこ とにより「今」という「時」 に垂直的に降下する。あた かも無限の神が有限の世界 に降臨するがごとく。この Καιρ 顕現は、自己なら ぬ「汝」が自己に到来する ことで「絶対矛盾」として 「同一性」を獲得する瞬間 でもある。もとより「自己 同一性」は「我」と「他我」 との「偶然」の重畳という 「忘我」 κστασι の瞬間 にしか成就しない。 だがこの「絶対矛盾」は 一瞬毎・日常不断に反復さ れている。一瞬前の「他」 を「己」と同一視する錯誤 が「自己同一性」の幻想を 保証する。さもなければ、 もとより「我」は自ら生の 「連続性」即ちidentity 意識を育むこともできま い。言語無明・主客分節以 前の意識の実相が「統合失 調」を呈することは、仏教 の唯識が教えていた。 「我と汝」で西田は「私 を限定する無限の過去とし ての汝」を説く(旧版全集 六巻418)。先人たちの歌謡 群に「汝」を託し、その朗 誦に「永遠の今」pérennité を追体験するなら、ここに 九鬼の押韻論が西田への転 生を果たす。輪廻転生・永 劫回帰は、未来・過去一丸 Καιρ Χρ νο の時間 軸上に刻印する。「我々が 瞬間的限定の尖端に於て無 限の未来から限定せられて 居ると考へる時、此世界は 意志実現の場所といふ意味 を有つて来なければなら ぬ」(同上)。 あたかも シシュポスが「意志実現」 のため、永劫の円環に己が 「自由」を委ねたにも等し く。 *寥廖欽主催「東アジアに おける哲学の生成と発展」 2020年5月24日)Zoom 会議での筆者の即興発言よ り。嶺秀樹先生はじめ参加 者からのご教示に謝意を表 する。またこれは小林敏明 『西田哲学を開く 〈永 遠の今をめぐって〉』、小浜 善信『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』、鈴木貞美『歴 史と生命:西田幾多郎の苦 闘』への筆者の現段階での 応答を兼ねる。西塚俊太 「人生の悲哀と 永遠の今 の歴史論の交点」『死生学 研究』13号からも有益な示 唆を得た。 209 西「「永遠の今」において遭遇する「我と汝」――西田幾多郎と九鬼周造の「偶発」的読み直しにむけて」 『図書新聞』3453号(連載209)2020年6月27日
Transcript
Page 1: V はたらくとは何かV 台風や identity の暇なく突如到来する。運 か仮面を被ったかのようなウ ポスの神話に言及する。山 新刊 6・ 2 6・

������������������������������������������������

新刊

6・2�6・8

目録

人文

社会科学

文学

芸術

教養

記録

実用

図書新聞�7 第3453号 2020年6月27日(土曜日)

このリストは6月2日~6月8日発行の書籍を、トーハン・

日販等各取次店仕入書籍と同時期の小社到着図書によってまと

めたものです。新刊のうちから主なものを選び、小社への寄贈

書を選んで掲げました。資料はトーハンの新刊案内を利用させ

ていただき、最新の情報をお伝えすることができました。

オックスフォード

イスラームの辞典

九〇〇〇

朝倉書店

安東正樹編

相対論と宇宙の事典

一〇〇〇〇

若林悠

風刺画とジョークが描いたヒトラーの帝国

二二〇〇

現代書館

藤森照信

五十八さんの数奇屋

三四〇〇

鹿島出版会

萬代伸哉

バックパッカー体験の社会学

二二〇〇

公人の友社

槇文彦

アーバニズムのいま

二四〇〇

鹿島出版会

田村あずみ

不安の時代の抵抗論

二〇〇〇

共栄書房

パーカー

生物の進化大事典

四二〇〇

三省堂

石野好一

フランス語動詞を使いこなす二四〇〇

白水社

定延利之

コミュニケーションと言語におけるキャラ

三〇〇〇

三省堂

コーヘンダーファー

不確定性下の意思決定六八〇〇共立出版

トポル

ディープメディスン

三六〇〇

NTT出版

小磯隆広

日本海軍と東アジア国際政治四二〇〇

錦正社

舩橋晴雄

反「近代」の思想

二二〇〇

中央公論新社

ドゥロン

アンシャン・レジームの放蕩とメランコリー

三五〇〇

水声社

根井雅弘

英語原典で読む現代経済学

二二〇〇

白水社

青山拓央監修

心の�から心の科学へ

三六〇〇

岩波書店

草野顕之編

本願寺教団と中近世社会

三五〇〇

法蔵館

福本宰之

『ダンシアッド』における風刺の研究

四五〇〇

晃洋書房

湯浅博雄

贈与の系譜学

一六五〇

講談社

芦田文夫他

中国は社会主義か

二〇〇〇

かもがわ出版

高橋智監修

現代の特別ニーズ教育

三〇〇〇

文理閣

リッチ他

家庭で育むしなやかマインドセット

二〇〇〇

明石書店

廣野桂子編

東日本大震災から10年

二六八〇

大成出版社

亀岡智美

子ども虐待とトラウマケア三四〇〇

金剛出版

柏井宏之他

西暦二〇三〇年における協同組合

二五〇〇

社会評論社

地球・惑星・生命

二三〇〇

東京大学出版会

金井紫晴

お茶碗は楽

三八〇〇

里文出版

北大路翼

見えない傷

一八〇〇

春陽堂書店

ウォルハイム

芸術とその対象

四二〇〇

慶大出版会

ニーヴン

ヒトラーと映画

五三〇〇

白水社

伊藤俊治

陶酔映像論

二六〇〇

青土社

高野澄

阿波内侍から島倉千代子へ

祈りの響き

三九〇〇

人文書館

町山智浩

町山智浩のシネマトーク

怖い映画

一四〇〇

スモール出版

吉川永青

憂き夜に花を

一六〇〇

中央公論新社

蜷川実花

東京

TOKYO

三六〇〇

河出書房新社

畠中恵

あしたの華姫

一五〇〇

KADOKAWA

クロッサン

わたしの全てのわたしたち

一七〇〇

ハーパーコリンズ

梶よう子

�のゆくえ

とむらい屋颯太一七〇〇徳間書店

鈴木民子

ジャスミン

一二〇〇

文藝春秋

中山七里

ヒポクラテスの試練

一六〇〇

祥伝社

エーゲルディンゲル

弟子から見たショパン

五八〇〇

音楽之友社

小倉孝誠編

世界文学へのいざない

二七〇〇

新曜社

高峰秀子

没後10年

増補新版

二〇〇〇

河出書房新社

寺井広樹

宿にまつわる怪異譚

一六〇〇

イカロス出版

豊岡昭彦編

文豪たちの憂鬱語録

一四〇〇

秀和システム

今野真二

乱歩の日本語

二二〇〇

春陽堂書店

畝山智香子

食品添加物はなぜ�われるのか

一九〇〇

化学同人

岡田幸夫

渡辺崋山作

国宝「鷹見泉石像」の�

一五〇〇

郁朋社

最上一平

おばけえん

一二〇〇

教育画劇

マッキンタイアー

KGBの男

二九〇〇

中央公論新社

塩崎淳一郎

評伝

一龍齋貞水

二〇〇〇

岩波書店

花咲一男

雑魚のととまじり

四〇〇〇

幻戯書房

満月照子

日本マンガ事件史

一四〇〇

鉄人社

小林信也

大谷�平「二刀流」の軌跡

一三六四

マガジンランド

小塚真啓編

高校生のための税金入門

一二〇〇

三省堂

田原総一朗

戦後日本政治の総括

一九〇〇

岩波書店

塩澤実信

古関裕而

珠玉の30曲

松崎運之助

こころの散歩道

内堀タケシ

7年目のランドセル

中川ひろたか

いし

山西ゲンイチ

ヒゲタさん

麻生かづこ

パパのはなよめさん

カー

ウサギとぼくのこまった毎日

マンガでわかるポン・ジュノ

松苗あけみの少女まんが道一

内田春菊

出版M

eToo&

Dish

山脇りこ

台湾オニギリ

一三

シナワ

悪党・ヤクザ・ナショナリス

一七〇

笠井千晶

家族写真

まはら三桃

無限の中心で

川瀬和敬

新装版

浄土和讃講話

安藤雅信

茶と糧菓

喫茶の時間芸術

今井ようこ

桃のお菓子づくり

一六〇

古荘純一監修

空気を読みすぎる子どもたち

泉鏡花

絵本の春

二一

奥山風太郎

おどろきダンゴムシ図鑑

青木ゆり子

世界の郷土料理事典

二三〇

秋山佳胤

愛まく人

次元を超えて

鷲田清一

二枚腰のすすめ

一七

またね。

木内みどりの「発一

コンウェイ

BILLIE

EILIS

H

ドリヤス工場

文豪春秋

浜田信夫

カビの取扱説明書一六〇〇

鷲谷いづみ

新装版

タネはどこからきた

一四

読書絵日記

秋竜山

年齢と共に感動しなくな

る。本がそうだ。どんな本を

読んでも、感動しない。若い

時、どんな本を読んでも、文

章の個所に感動したものであ

る。「いいこと書いてあるな

ァ」と、思う。このような感

動が随所にあったものであ

る。たあいないことで、すぐ

感動し、その部分をメモした

りする。年齢と共にそれがな

くなる。若い時、感動しなく

てもいいようなことでもすぐ

感動してしまう。それがいい

のか悪いのかしらないが。感

動しないということは、「こ

んなこと書いてあるけど、知

ってるわい」と、いうことだ。

知り過ぎているということ

だ。感動とは、知らないとい

うことである。知らないから

感動してしまう。若い時は知

っていても知らなくても、感

動するものでもある。それが、

若さというものだろう。

以前、本で読んだのが、動

物とは動く物のことをいう。

と、いうようなことが書かれ

てあった。当たり前のことで

ある。このような、当たり前

のことが、いままで気がつか

なかったのか。私は、これに

は感動した。「たしかに、い

える」と、思ったのであった。

たとえば、山にある木のいろ

いろ。それは、動かない。枝

が風でそよぐことはあるが、

根が動いて移動したりはしな

い。だから動物ではないので

ある。もし、木が動いたら、

動物といえるだろう。リンゴ

とかカボチャを描くと、静物

画という。動かないからであ

る。自ずから動かないからだ。

自分の力で動こうとしても動

けない。だから動物ではない

のである。

志村史夫『いやでも物理が

面白くなる』(講談社ブルー

バックス、本体一一〇〇円)。

以前にも、取り上げさせてい

ただいた。いたる所に感動さ

せられる本である。そして、

これも感動である。

〈水は、�高い所�から�低

い所�へ移動する(流れる)〉

(本書より)

この個所に痛く感動したの

である。このようなことに感

動するとは、どうかしている

かもしれないが。私は、わけ

がわからず感動してしまった

のであった。赤ん坊だって知

っていることである。私だっ

てもちろん知っている。でも

感動してしまったのは、「あ

らためて、そういわれると、

たしかにいえる」と、いう感

動である。動物の時と同じよ

うな感動かもしれない。知っ

ていることを、あらためてい

われるということは、感動す

る要素があるかもしれない。

〈水位差をつけたタンクA

とタンクBのあいだの水門を

開けば、水は水路を流れる。

水位差がなくなれば、つまり

タンクAとタンクBの水面の

高さが等しくなれば、水流は

止まる。このような水流を起

こす力は、水位差が生む水圧

である。〉(本書より)

こんな、当たり前のことに

感動してしまうのは、あくま

でも、あらためていわれると、

ということである。そして、

さらに感動が続く。

〈電気流れ(電流)も、水

の流れ(水流)とまったく同

じように考えることができ

る。電流を保つためには、図

2�8�のように、電源によ

って電位差(電圧)V(�V

A

-V

B

)を生じさせればよ

い。〉(本書より)

早い話が、

〈水位差が大きいほど水圧

が大きくなるのと同様、電位

差が大きいほど電圧が大きく

なって電流も大きくなる。す

なわち、電流は電圧に比例す

る。〉(本書より)

水の流れも電気の流れも一

緒だということである。そし

て、歌にあるように、�アー

アー、川の流れのよーに。人

生も、川の流れのように上か

ら下へと流れていくのだろ

う。感動というより、何とな

く淋しくもなってくる。

連載第1535回

知らないから感動する、の巻

台風やpandemicは、接近

や流行が報じられても回避

はままならない。「地震・

雷・火事・親父」は、予見

の暇なく突如到来する。運

悪く遭遇した被災者には

「偶然の仕打ち」となる。

九鬼周造は両大戦間に長

く欧州に逗留した。フラン

ス滞在の末期にポンティニ

ィーの哲学者の集いで、東

洋的時間の円環構造に関す

るフランス語講演を行っ

た。ハイデガー『存在と時

間』が説く「脱自」を「水平的

�κστασι 」と規定し、それ

に対して「垂直的 」

としての忘我体験に「永遠

の今」を捉える。

この文脈で九鬼はシシュ

ポスの神話に言及する。山

頂に岩を担ぎあげるが、そ

の度に岩は空しく谷底に落

下する��この永遠の苦行

を強いられた巨人の物語だ

が、九鬼は通常の解釈を転

倒させ、そこに人間実存の

自由意志の根拠を見る。

無限反覆は罪業ではな

く、七生報国は死に克つ生

への意志となる。九鬼の脳

裏には関東大震災があっ

た。災害は将来も繰り返す。

だがだからこそ帝都・東京

は復興に勤しんでいる。

ここにNeo-Platonismに淵

源するM.Ficinoらイタリア

・ルネサンス期以来のphi-

losophia perennis「永遠の哲

学」が接ぎ木される。世界

の諸宗教は源泉の「一」に

通じ、その時代ごとに同一

の真理が何度でも再生回帰

する��。この教義に従う

と、永劫回帰・輪廻転生を

再解釈する哲学の途が拓け

る。さらに偶発の出来事と

の遭遇・接触は、必然では

なく予見不可能。それが偶

然性 contingenceと呼ばれ

る。「垂直的 」では

過去と未来とが現在におい

て不意に垂直に接触tangere

する。その瞬間、体験者は

雷に打たれたように、自己

を喪失する。

九鬼は1928年に帰国し、

『偶然性の問題』を博士論

文(1935)に纏める傍ら、

「垂直的 」体験を、

詩歌における押韻の想起に

当て嵌める。過去の詩文を

朗誦してその押韻に唱和す

ると、死者の霊に憑依さ

れ、己はそれと混融一體と

なる。この「永遠の今」に

詩人・九鬼は「言霊の咲き

はう」日本の国體を幻視す

る。

四一年に早世した九鬼の

墓碑は、前任者・西田の揮

毫。だが西田が『偶然性の

問題』に応答した証拠は、

残されていない。とはいえ

西田晩年の思索が触れる

「永遠の今」は、九鬼の思

索と、看過できないcontin-

gencyを呈していた。

西田後期の論考「我と汝」

(1932)には「永遠の今の

自己限定」という語句が頻

出する。「永遠の今」は「自

己限定」を「行為」するこ

とにより「今」という「時」

に垂直的に降下する。あた

かも無限の神が有限の世界

に降臨するがごとく。この

Καιρ�顕現は、自己なら

ぬ「汝」が自己に到来する

ことで「絶対矛盾」として

「同一性」を獲得する瞬間

でもある。もとより「自己

同一性」は「我」と「他我」

との「偶然」の重畳という

「忘我」�κστασι の瞬間

にしか成就しない。

だがこの「絶対矛盾」は

一瞬毎・日常不断に反復さ

れている。一瞬前の「他」

を「己」と同一視する錯誤

が「自己同一性」の幻想を

保証する。さもなければ、

もとより「我」は自ら生の

「連続性」即ち identityの

意識を育むこともできま

い。言語無明・主客分節以

前の意識の実相が「統合失

調」を呈することは、仏教

の唯識が教えていた。

「我と汝」で西田は「私

を限定する無限の過去とし

ての汝」を説く(旧版全集

六巻418)。先人たちの歌謡

群に「汝」を託し、その朗

誦に「永遠の今」pérennité

を追体験するなら、ここに

九鬼の押韻論が西田への転

生を果たす。輪廻転生・永

劫回帰は、未来・過去一丸

のΚαιρ�をΧρ�νο の時間

軸上に刻印する。「我々が

瞬間的限定の尖端に於て無

限の未来から限定せられて

居ると考へる時、此世界は

意志実現の場所といふ意味

を有つて来なければなら

ぬ」(同上)。��あたかも

シシュポスが「意志実現」

のため、永劫の円環に己が

「自由」を委ねたにも等し

く。

*寥廖欽主催「東アジアに

おける哲学の生成と発展」

(2020年5月24日)Zoom

会議での筆者の即興発言よ

り。嶺秀樹先生はじめ参加

者からのご教示に謝意を表

する。またこれは小林敏明

『西田哲学を開く��〈永

遠の今をめぐって〉』、小浜

善信『九鬼周造の哲学��漂泊の魂』、鈴木貞美『歴

史と生命:西田幾多郎の苦

闘』への筆者の現段階での

応答を兼ねる。西塚俊太

「人生の悲哀と�永遠の今�の歴史論の交点」『死生学

研究』13号からも有益な示

唆を得た。

はたらくとは何か

ビルと爺イとサイコパス

凪一木

その52

サイコパスという生き物

大雑把な話から書くけれど

も、動物の世界や昆虫の世界

において、身体的な有利さや

戦闘能力だけで、優れた側は

劣る側を、暴力でもって強奪

なり、搾取なり、せん滅して

きたのであろうか。それを知

ったところで、人間の場合に

どれほどに参考になるのかも

わからないのだが、人間につ

いて、動物や昆虫と違うだろ

うと思われる点は、まずは思

考能力が作用することであろ

う。個人でもって頭が良いと

か、多人数で協力し合うなど

といったことである。だが、

そんなことよりも、私が思う

のは、知力や賢さを超えて、

秩序への配慮を無視して、む

しろ、勇気や知恵とは違った、

単に「気が強いかどうか」が

鍵だったりする。気が弱くな

い。屈しない。つまり空気を

読まず、ルールに縛られず、

世間にとらわれず、大人しく

なく、もっと言うとうるさい。

バカであっても、間違った知

識であれ、それを武器に変え

て、結局は、その強い「気」

でもって、相手を圧倒する。

少しでも賢ければ、そういう

行為(悪)に対してはむしろ

躊躇してしまうし、馬鹿でも

ない限りは、他人を滅ぼす行

為は「やらない」。それによ

って幸福な死と言えるのかど

うかは分からないが、無念が

あったとしても、知を知って

死ぬ。

サイコパスとは平気でその

一線を越え、侵犯し、人間ら

しい人間ほど滅ぼしにかかる

生き物である。しかも相手の

人間らしさに向かって、より

優しい人間、より考える人間、

より配慮する人間、より筋を

通そうとする人間ほど、その

「人の良さ」の虚を突くよう

に攻めていく。

松永弘という北九州監禁連

続殺害事件の主犯がいる。初

期の犯罪時において、違法商

売をやりながら、こう言って

社員たちを指揮していた。

「世間知らず、お人好し、

そしてある程度言うことをき

く人間を探し出せ」。

最古透もまたそうである。

己の出鱈目さを棚に上げ、ま

たはそのことで逆手にとり、

相手が驚き怯む隙を、大喜び

で突いてくる。多くの人は、

相手にもまた人間らしさを多

少でも信じているから、まさ

か仮面を被ったかのようなウ

ソやでたらめを、よほどの恨

みでも買わない限りは仕掛け

られることはないと思ってい

る。だが、サイコパスはそん

なことはお構いなしだ。むし

ろそんな配慮や遠慮や考える

人間をこそ、水を得た魚のご

とくに生き生きとした相貌と

なって、挑発し、襲ってく

る。凶

暴な動物と、煩わしく不

愉快極まりない部類の害虫と

が合わさった様子の生き物を

まるで絵にかいたような存在

である。ただし顔かたちは人

間であり、生物学上の分類も

今のところは「ヒト」であ

る。な

ぜ最古透を追い出すこと

ができずに、我々ばかりが罠

に嵌まり、嫌な思いをし、出

ていかねばならず、また辞め

る羽目になるのであろうか。

サイコパスにとってビル管

は、ちょうど良いヌルさの

(厳しさのない)仕事である

こと。ウソをついてもバレな

い三日に一回の顔合わせ。老

年ばかりで、揉めるのを憚ら

れ、遠慮して以心伝心言わぬ

が花の世代の中に紛れ込め

る。そこを逆手に付け込むこ

ともできる。

新人からすると、相手が

皆、本当は自分「寄り」なの

に、Sの味方に見える仕組

み。た

とえば、こうだ。Sが、

新人のミスを見つける。大げ

さに写真を撮り、報告書にま

とめて、朝の申し送り会に、

皆の前で発表する。言われた

新人はびっくりするが、それ

以上に、周りにいる者たちが

黙っているので、発言する最

古透の肯定に回っているよう

に見える。後ろから支えて、

後押ししているかのような効

果さえ持ってしまう。実際の

ところは、「ああ、また最古

が、いつものように、大げさ

に、新人いじめを始めたなあ」

とうんざりし、新人の味方に

近いのだが、黙っているがゆ

えに、敵にしか見えない。そ

の効果をも、サイコパスは計

算している。今の日本の社会

構造と、会社や学校というス

タイルが、特にビル管はサイ

コパスに合っており、住みよ

い環境となっている。

だが、「Sが身近にいる」

とか「Sが増えている」とい

う予測や推定もまた、意外に

共有しづらいのは、もしS当

人に知られてしまったときの

恐怖を考えるからである。そ

のリスクを考えると、秘かに

本や映画で接するか、身近な

人ではないところで匿名とし

て声を発し、打ち明け、相談

し、また隠すといったことで

しか、広まりようがなかった

からであろう。中野信子の

『サイコパス』(新潮新書)

がベストセラーとなるほどブ

ームなのに、それについて、

実際に存在する場所ではタブ

ー化する。

そうでないところでは「S

って怖いよネエ」などと大っ

ぴらに語られるが、多くは実

態とかなりかけ離れた話であ

る。人

になど話せない。公にな

ど出来ない。皆で集まって会

議も開けない。サイコパスは、

まるで、一人大本営本部のご

とく、また一人公安組織のご

とく、たった一人なのに、目

を光らせ、その共同体を支配

し、グループを操作し、互い

に監視をさせ、自らは手を下

すことなく君臨する。職場内

に、学校内に、地域内に、ナ

チの親衛隊のような存在を作

り、増殖させていく。周りの

だれも信用できないし、S当

人と会っても、本音を語る人

間ではなく、「本音」という

概念すら知らない。親が死に、

家の庭の花を早く「枯らす」

にはどうしたら良いか悩み、

親の写真を全部捨て、自らの

写真すら若い頃に捨てている

最古透。

人を嫌~な気持ちにさせる

ことに関しては天才的であ

る。相当に注意深く、極力尻

尾を捕まれぬように、決して

警戒心を解くことなく、用心

に用心を重ねて接せざるを得

ず、たかだか一日接するだけ

で、一日が終わると、その疲

れ具合は、漬物石を長い時間

ずっと背負っていたことを今

の今まで忘れていて、忘れて

いた事実を一気にさらに重量

を増し、湿気まで含んだ感触

ごと思い知らされるがごとく

なのである。

相手に対する不快感を与え

ることに関しては、人によっ

て印象が違うのではないかと

いう人がいる。つまりそれは、

ゴキブリを見て飛び上がる人

もいれば、平気で�んで捨て

ることもできる人がいる。蛇

を見て逃げる人もいれば、首

に巻きつけて笑顔の人もい

る。という程度のことではな

いか、と。

だが、サイコパスとは、特

に私の知る最古透は、蛇を嫌

がる人には蛇となり、ゴキブ

リを嫌がる人にはゴキブリと

なる。相手の弱点や忘れてい

たトラウマなどを巧みに見つ

け出して、ピンポイントで攻

撃してくる。それが今回は

「ビル管」資格であった。

(建築物管理)

稲賀繁美

国際日本文化研究センター研究員・

総合研究大学院大学教授・

放送大学客員教授

連載209

「永遠の今」において遭遇する「我と汝」

西田幾多郎と九鬼周造の「偶発」的読み直しにむけて

「「永遠の今」において遭遇する「我と汝」――西田幾多郎と九鬼周造の「偶発」的読み直しにむけて」 『図書新聞』3453号(連載209)2020年6月27日

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