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A Reconsideration of “Sato-Umi” and Wise Use: Case study of the Dive Fishery at Hegura Island,...

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http://utomir.lib.u-toyama.ac.jp/dspace/

Title「里海」とワイズ・ユースの再考 : 石川県舳倉島の

潜水漁の事例から

Author(s) 竹内, 潔

Citation 地域生活学研究, 2: 103-114

Issue Date 2011-03

Type Article

Text version publisher

URL http://hdl.handle.net/10110/6793

Rights

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「⾥海」とワイズ・ユースの再考

-⽯川県舳倉島の潜⽔漁の事例から

⽵内潔(富⼭⼤学⼈⽂学部)

1 はじめに-「⾥海」と潜⽔漁

1990 年代以降、様々な学問領域や地⽅⾃治体などで、さかんに「⾥⼭」という概念が注⽬を浴びようになった。「⾥⼭」とは、様々な⽤途に利⽤する林、草地、湿地として利⽤する草地と農村や耕作地として指し、⼈為が介⼊することによってかえって⽣物多様性が維持され、同時に⽣活資源の持続的利⽤が可能になっているという⼈間と環境の「共⽣」システムを表象する⼀種の理念型である。最近では、このような「⾥⼭」は、⽇本だけではなく、アジア諸国を中⼼に広く世界的に認められる事象と措定されて、環境省と国連⼤学が中⼼となって、⽇本の「⾥⼭」保全の理念と⽅法を世界各地の⼈為的⾃然の保護に活⽤しようとする「SATOYAMA イニシアチブ」が提唱されている(Ministry of the Environment, Government of Japan, 2009)。

⼈為による豊かな⾃然という「⾥⼭」の概念が定着すると、今度は、「⾥海」という概念も登場するようになった。「⾥海」は、「⾥⼭化」された沿岸海域であり、「⼈⼿が加わることにより, ⽣産性と⽣物多様性が⾼くなった沿岸海域」(柳,1998;2006)と定義される。「⾥海」と漁村や⼈間⽣活に関わる海辺のセットを「⾥うみ」と呼ぶ場合もあるが(中村,2003)、いずれにせよ、「⾥⼭」と同様に⽣物学的多様性の維持と持続的な資源利⽤を通した「⾃然と共⽣する伝統と在来の知(local knowledge)」、すなわちワイズ・ユース(wise use)の理念的モデルである。この報告では、潜⽔漁を素材として「⾥海」に焦点をあてて、⽣活者の視点から、ワイズ・ユースモデルの有効性について考察を⼼みたい。

東アジアでは、⽔中に潜って潮間帯から浅海にかけての岩礁性の海底に棲息する動植物を捕獲・採取する潜⽔漁がさかんにおこなわれおり、とくに⽇本と韓国では潜⽔漁が発達し、多様な展開をみせている(李, 2001)。

地域生活学研究 2, 2011

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能登半島の北端の輪島市からさらに北⽅ 49 キロメートルの⽇本海上に舳へ 倉ぐら島があ

るが(図 1)、この島では夏季に海⼥による潜⽔漁がおこなわれている。国連⼤学の「⾥⼭・⾥海」プロジェクトは、この島の潜⽔漁を資源の伝統的持続利⽤と評価するとともに、舳倉島⼀帯を「⾥海」モデルの例として注⽬している(⽇本の⾥⼭・⾥海評価―北信越クラスタ-,2010)。本稿では、舳倉島の海⼥の潜⽔漁をとりあげて⽣業⽣活におけるワイズ・ユース(「持続的利⽤の在来の知」)について検討をおこなってみたい。

図 1 輪島と舳倉島

2 舳倉島の概要と調査

⽯川県輪島市の北⻄部に輪島港と丘陵に挟まれた海⼠町あ ま ま ち

があるが、この地域は主と

してアワビやサザエを獲物として潜⽔漁をおこなう海⼥の⼈々の町であり、町の住⺠たちからは「ヂカタ」と呼ばれている。町の起こりは、江⼾期の永禄年間(1558 年〜1569 年)に九州の筑前鐘ヶ崎(現在の福岡県宗像市鐘ヶ崎)から渡来して加賀藩から現在の海⼠町を拝領したことに由来すると⾔う。

海⼠町以外の地域に居住する出⾝者も含めて海⼠町⾃治会に加⼊している世帯数は2006 年の時点で、387 世帯であったが、そのうちの 61 世帯が舳倉町にも家屋を持っている(⽵内,2006)。1930 年にはヂカタの 257 世帯のうち 220 世帯が舳倉島にも家屋を持っており、昭和初期には、夏場になるとヂカタの海⼠町から全⼾の住⺠が⼀⻫に「コテント船」と呼ばれる帆と⼿漕ぎの⽊造の和船に乗り込んで、舳倉島に「島渡り」をおこなっていた(瀬川, 1990)。1960 年代初めになると、⼩型動⼒船の普及や定期船の就航によって各世帯が⾃由に舳倉島や漁場に⾏き来できるようになって、⼀⻫渡海は姿を消した。

現在では、夏季の漁期になると、海⼠町の海⼥の⼈々は、舳倉島に移動して潜⽔漁をおこなうグループとヂカタの海⼠町に残って輪島近海で潜⽔漁をおこなうグループに分かれる。海⼠町⾃治会館の資料に拠れば、2009 年の漁期では、海⼠町⾃治会に⼊漁料である「磯⼊り鑑札」を⽀払って海⼥として登録された 179 名のうち、ヂカタの

舳倉島

輪島

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輪島にとどまって漁をおこなったのは 123 名、舳倉島に移動して漁をおこなったのは56 名で、後者のうち約 4 割が 70 歳以上であった。

ヂカタの海⼠町と舳倉島で操業する海⼥の員数は、1995 年に 196 名で、その後、増減を繰り返して、2009 年は 1995 年と⽐して約 9 パーセント減の 179 名である。漁業従事者の減少傾向、とくに潜⽔業従事者は 1978 年に全国で 9134 名であったのが、2010 年では 2160 ⼈と 4 分の 1 の員数になっていること(2010 年 12 ⽉ 18 ⽇ 毎⽇新聞)とを考えると、海⼠町・舳倉島の海⼥⼈⼝は極端な減少傾向を⽰しているとは⾔えない。ただし、上でも触れたように⾼齢化は進んでいる。海⼠町あるいは海⼠町⾃治会に所属する世帯の成⼈男性の多くは、漁船漁業に従事しているが、2007 年から、海⼠町出⾝であれば、男性も潜⽔漁に従事できるようになり、海⼠町⾃治会館の資料によれば、2009 年にはヂカタで 5 名、舳倉島では 2 名が漁に従事している。

舳倉島は、⾏政的には海⼠町に属する⾯積約 1 平⽅キロメートル、1 時間もあれば徒歩で⼀周できる平坦で⼩さな島である。島の北⻄岸は、⽇本海の荒波をまともに受けるために⾼さ 10 メートルほどの切り⽴った断崖が連なり、複雑な⼊り江を構成し

ている。⼀⽅、南東岸は⾵も波浪も⽐較的に弱く、かつては円礫の砂利浜が続いていた。集落と港はこの島の南東部にある(図 2,写真 1)。

輪島との間の交通や輸送は⽚道約 1 時間半をかけて 1 ⽇ 1 往復する定期船に頼っている。

本報告のもととなる資料は、2010 年 7

⽉に舳倉島でおこなった聞き取り調査と観察によって得た。ただし、記述に際して、1998 年及び 2006 年の調査時の資料も補⾜的に⽤いている。

図 2 舳倉島

(Google map により作成)

写写真 1 舳倉島漁港と集落

舳倉島漁港

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3 潜⽔漁の不確実性と楽しさ

3.1 漁期と漁場

サザエとアワビの漁期は、海⽔温度が⽐較的に⾼いうえにシケの⽇も少なく、潜⽔漁を⾏いやすい夏季から初秋の 7 ⽉ 1 ⽇から 9 ⽉ 30 ⽇までと、海⼠町⾃治会の下部組織で漁の規制や規則を扱う磯⼊組合によって定められている。この期間中、シケ以外での「沖⽌め」(休漁)は、第 2・4 ⼟曜⽇と毎週⽇曜⽇だけである。海⼥の潜⽔漁業時間は、かつては 1 ⽇ 8 時間であったが、現在は 1 ⽇ 4 時間と制限されている。ただし、漁期を通じた潜⽔⽇数や潜⽔時間の制限は⾏われていない。なお、漁期以外の時期は、若い⼥性はオカシゴトと呼ばれる飲⾷店などでのアルバイトや家族の男性の漁の⼿伝いで働くことが多く、年配の⼥性はナマコ、岩ノリ、ワカメ、ツルメなどの採取、あるいは⽔産加⼯⼯場での賃労働に従事することが多い。

「⽇本のあまの⽣態について」(岩崎、1971)によると、海⼥が⾏う潜⽔作業の⽅法は⼤きく⼆つのタイプに分けられる。⼀つはおもりを利⽤して深く潜り、浮上する際は多くの場合は「タイシオトコ」(助⼿)と呼ばれる配偶者の男性に引き上げてもらうという⽅法で、舳倉島ではこの⽅法をとる海⼥は「オオアマ」と呼ばれる。もう⼀つは⾃⼒で潜降し⾃⼒で浮上する⽅法で、このような⽅法で漁をおこなう海⼥は「カチカラアマ」と呼ばれる。員数としては、「カチカラアマ」の⽅が圧倒的に多い。

舳倉島周辺は遠浅で、沖合 4 ㎞まで⽔深 20m 程度の箇所が多い。舳倉島の海⼥は、舳倉島の磯から、この遠浅の範囲を漁場としている。古くから潜⽔漁が盛んに⾏われてきた舳倉島周辺では、それぞれの漁場や海域に名称がつけられている。漁場についての⼀般的な呼称を挙げると、「セ」、「クリ」、「シマ」は岩礁のある漁場を指し、「ハエ」や「マリア」は海底の漁場を指す。ハエは起伏のある漁場で、海上から⾒ると⿊く⾒え、マリアは海底で⽩い⽯が密集している平坦な箇所である。アワビ・サザエはこのハエやマリアにおいてよく採取され、より深いところほど⼤きな獲物が多いと⾔われている。

また「シンバエ」と呼ばれる漁場があるが、これは明治中期頃に⽔中メガネが流⼊した折りに発⾒された⽐較的新しい漁場(新しいハエ)であり、島の南⻄の沖合約 4

キロメートルに位置する⽔深約 25 メートルほどの舳倉島周辺では最も深い漁場である。潜⽔能⼒の⾼い海⼥は「シンバエアマ」と呼ばれているが、それはこの「シンバエ」に由来している。

海⼥たちが漁場を決定する際に判断材料とするのは、a)⾵向・⾵速や潮の流れや速さといった気象条件、b)前⽇の漁場での収穫の多寡、c)アワビやサザエの餌となる海草類の繁茂状態の 3 点であり、個々の海⼥はこれらの要素を総合的に判断してその⽇の漁場を決める。⾵浪が荒い場合は、⾵の影響が少ない⾵下の島陰に漁場をもとめることが多い。しかし、海がナギ状態であっても、潮の流れや速さは海に潜って体感してみないと分からない。潜ってみて⾵や潮が安全を脅かすと判断される場合は、1 ⽇

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の間でも漁場を変更する。漁場の選択にはあらかじめの予測が困難な不確定性が常につきまとうのである(五⼗嵐,1999)。

3.2 潜⽔漁の道具

かんたんに潜⽔漁の道具⽴てを紹介しておきたい。

3.2.1 オービガネ

海底でアワビやサザエを岩から引き離すために⽤いる⻑さ約 35 センチから 45センチ、厚さは 1 センチほどの⾦属製のテコで、舳倉島では「オ-ビガネ」と呼ばれている。材質は鉄であったが、現在使われているものにはステンレス製が多い。海⼥は海中でこれを腰のベルトにさすが、海に潜る際にはおもりの役割も果たすことになる。

3.2.2 ⽔中メガネ

⽔中メガネは、明治 20 年(1887 年)頃、欧⽶から九州地⽅経由で⽇本に⼊ってきたと⾔われるが、舳倉島の海⼥に伝わったのは明治中期頃だといわれる。⽔中メガネの出現は、海⼥たちの海中での獲物の視認を助けることになった。現在、舳倉島の海⼥が使⽤している⽔中メガネは、両眼だけではなく⿐もゴム膜で覆う、いわゆる「⼀眼式」であるが、マリンスポ-ツショップで⼀般向けに販売されているものである。しかし、⾼齢の海⼥の中には⽼眼⽤のレンズの⼊った⽔中メガネを特注して使⽤している例もある。

3.2.3 ウェットスーツ

かつて、舳倉島の海⼥は「サイジ」と呼ばれる褌のようなものを着⽤するだけであった。しかし、昭和 15 年(1940 年)頃からはこのサイジに加え、薄い⽩⽊綿のシャツを着⽤する海⼥も現れてきた。

舳倉島の海⼥がウェットス-ツを着⽤するようになったのは昭和 37 年(1962 年)からである。ウェットス-ツの普及によって採取時間が延びたことによって、アワビは 1963 年の 16.6 トンが翌 1964 年には 24 トンと 1.5 倍に収穫が増加した。

ウェットス-ツは合成ゴムのスポンジでできており、海⼥を海底の寒さから守ると同時に、クラゲやイラモ、オコゼなどの刺毒のある海中動物たちから⾝を守る防御服の役割も果たしている。さらに海⼥は、夏は軍⼿、冬はウェットス-ツと同じゴム地の⼿袋をしているが、これらもウェットス-ツと同様の役割を果たしている。

3.2.4 フィン

フィン(⾜ひれ)は、海⼥が海で潜降したり、浮上したり、また海中で移動する際に⽔をけって進むためのものであり、ゴムでできている。1973 年頃から普及し始めた。フィンの使⽤により、潜降、浮上の速度が速まったため、より深いところまでの潜⽔が可能になった。

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3.2.5 ハチコ

海⼥は⽔中で浮⼒の抵抗を減らして、より速く、より深く潜降するための補助⽤具であり、おもりを⽤いるが、これを舳倉島では「ハチコ」と呼ぶ。現在のハチコは、⼀個約 1 キログラムの鉛板を 3 から 6 枚、板にあけた⼆つの⽳に⾃転⾞のタイヤチュ-ブを通してつなぎ、ベルト状にしたものであり、腰に巻きつけて使⽤する。

3.2.6 容器兼浮標

上で触れた「カチカラアマ」と呼ばれる助⼒のない潜⽔漁法をとる海⼥は、採取したアワビ・サザエを⼊れる容器として⽊製のオケを⽤いていて、このオケは「カチカラオケ」と呼ばれている。しかし、実際には、⾃動⾞のタイヤチューブにビニール製のあみ袋を取り付けたものを容器として使⽤するカチカラアマが多くなっている。どちらにせよ、この 2 つの容器は、独⾃のペイントを施したり、上に旗を飾り付けたりすることによって、海上で海中に潜っている⾃分の存在を他者に知らせる浮標としても⽤いられる。さらに、オケやタイヤチュ-ブの縁に⼿をかけて⽴ち泳ぎしながら、海底の様⼦を⾒たり、息を整え休息をとったりするための浮きといった⽤途にも⽤いられる。

3.2.7 イキヅナ

イキヅナは、後述する配偶者に海底から引き上げてもらう漁法をとるオオアマのいわゆる命綱であり、舳倉島では「イキヅナ」と呼ばれている。配偶者を助⼿として⼀緒に出漁するオオアマは、このイキヅナの⼀⽅を腰に結び、⼀⽅を助⼿に託して潜⽔作業を⾏う。海底で息が苦しくなると、綱を引いて助⼿に合図を送り、引き上げてもらう。それゆえ、イキヅナを介した助⼿との連携が万⼀うまくいかなければ、⽣命の危険を冒しかねない。イキヅナは、まさに命の綱なのである。

3.3 漁法と漁の不確実性

オオアマは配偶者の操る船に乗って漁場に赴き、腰にイキヅナをつけ、ハチコ(おもり)を 5 キログラムから 6.5 キログラム⾝につけて、重みに任せて⽔⾯下を沈降し、浮上の際は助⼿に引き上げてもらう。このおもりのおかげで、カチカラアマでは潜ることが困難な 15 メートル以上の深さに短時間で潜ることができる。潜降しながら、アワビやサザエが棲息していそうな岩を探し、海草の中を探って、アワビやサザエを⾒つけるとオービガネを使って岩から引きはがす。この作業を繰り返し、息が苦しくなると、イキヅナを引いて合図を送って、配偶者に引き上げてもらう。⾃⼒をさほど使わないで潜降と浮上をおこなうことができるので、海⾯下の探索や採取作業にカチカラアマよりも多くの時間を使うことができる。ただし、浮上を任せる配偶者との連携が⼤前提であり、万⼀にも配偶者との間でタイミングが合わないと⾮常に危険である。

カチカラアマは、助⼿をともなわず、アワビ・サザエを⼊れるあみ袋やオケをもっ

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て海に⼊る。潜降の際には、先述のハチコを利⽤するのが⼀般的であるが、浮上は⾃⼒でおこなうため、3〜5 キログラムとオオアマに⽐べると⾝につける量は⽐較的に少ない。そのため急速で深い場所までの急速な潜⾏は困難なので、カチカラアマは、⽔深 5 メートルから 15 メートルの⽐較的浅いところを漁場とすることが多い。

カチカラアマは、配偶者や息⼦などが運転するモーターボートに⾎縁、親戚関係、あるいは友⼈関係にある 2,3 ⼈が⼀緒に乗って、その⽇の漁場に着くと船から降り、漁が終わる頃に迎えにきてもらう(写真 2)。海に⼊ると、まず、タイヤや容器の縁に

⼿をかけて、⽔中メガネをかけて獲物を探しながら海上を泳ぎまわる。海⽔が濁ってない時には、⽔深 5 メートルから 15 メートル程度の海底は、海上からでも様⼦をよく⾒ることができるが、獲物がいる岩を⾒定めると潜⽔し、採取に向かう。この際、浮上するための余⼒を残して海底での作業をおこなう。

写真 2 漁場に着いて海に⼊る海⼥

海底に沈降し、獲物の確認や採取をおこなっている潜⽔時間と海上で休憩したり、獲物を探索していたりする海上時間の関係について、年齢がほぼ同じ 3 ⼈の海⼥についての観測データを⾒てみよう(表)。

表 カチカラアマの潜⽔時間と海上時間

単位(秒)

(五⼗嵐,1999 をもとに作成)

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表から分かるように、3 ⼈とも、潜⽔時間の標準偏差が⽐較的に⼩さく、ばらつきが少ないのに対して、海上にいる時間にはおおきなばらつきがあることが分かる。これは海上から獲物を発⾒することが偶然に左右されることが⼤きいことを⽰していると考えられる。つまり、容易に⾒つかる場合もあれば、遊泳して探しまわらなければならない場合もあるということである。

また、A、B の 2 ⼈と C を⽐べて分かるように、海上の遊泳時間が⻑くなって体⼒を消費すると、潜⽔時間は短くなって獲物を捕獲するのに⼗分な時間をとりにくくなる。この 3 名の海⼥の年齢や潜⽔漁の経験年数に⼤きな差はなかったので、観察時の海⼥ C が海上からの獲物の探索に⽐較的に多くの時間を費やし、潜⽔に時間をとることができなかったのは、不分にも選んだ漁場ではたまたま獲物が集中的に棲息していなかったためだと推測される。獲物を発⾒するためには「勘」が重要だと海⼥はよく⾔うが、潜⽔漁の豊かな経験に裏打ちされた「勘」が働けば効率的に獲物を採取できるが、「勘」がはずれるととたんに投⼊できる時間が減少して採取が⼀度でうまくいかない場合がでてくるとも⾔える。潜⽔漁は不確実性と不即不離の⽣業であり、労働や獲得量に偶然性が⼤きく影響を及ぼすのである。なお、カチカラアマには、⼆⼈で共同しておこなう漁法もあるが、この報告では省略する。

舳倉島の海⼥は、それぞれの経験や技量、家族構成に応じて、上記のような助⼿を使う⽅法(オオアマ)や⾃⼒で浮上する⽅法(カチカラアマ)をとっているが、漁場の選択や獲物の採取などの成否は、偶然に左右されやすい。海という⼈間の制御不能な環境を相⼿に⾝体を使っておこなう潜⽔漁には、⽣業活動のどの局⾯においても、不確実性がつきまとうのである。

3.4 ⽇周活動

海⼥の起床は午前 5 時頃と早い。朝⾷や昼⾷の弁当を⽤意して、朝⾷を済ませた後、⽇焼け防⽌のためのドーランを顔に塗り、ウェットスーツに着替えて、9 時頃には港にやってくる。漁道具のほとんどは船に積んであり、また集落と港は隣接しているので、⾃宅から数分で船に着くことができる。

ヂカタの海⼥が底引き網漁⽤の船に 4 ⼈から 8 ⼈ほどが乗り込んで出漁するのに対して、舳倉島では、2 ⼈から 4 ⼈ほどの海⼥が個⼈所有のモーターボートに乗って海に出ることが多い。ただし、先述のように、オオアマの場合は、配偶者が漁船に乗せて運ぶ。舳倉島の海⼥の漁場は、マノナカと呼ばれる港の中⼼部から、モーターボートで 15 分程度の近海である。

昼⾷の時間は決まっていないため、舳倉島の海⼥は⾃分の体⼒やその⽇の漁果に応じて昼⾷を摂る。たとえば、漁が好調なときには漁を優先して⾷事を抜くということもあるし、体調がよくない場合は昼の休憩を⻑めにとったりする。

現在の海での採取時間は 4 時間と決められているので、午後 2 時頃に海⼥たちは港に帰ってくる。漁を終えて島に帰ってきた海⼥たちは、⽔揚げをおこない、帰宅するとウェットスーツや⽔中メガネを洗い、⾵呂に⼊る。⾵呂から上がると、休む間もな

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く⼣⾷の準備に取りかかる。海⼥であると同時に、家事をおこなう妻であり、⺟でもあることが多い海⼥たちにとって、体を休ませることのできる時間は 6 時頃からの⼣⾷と⼣⾷後就寝前までの⼀時だけである。

3.4 潜⽔漁の楽しさ

1 ⽇に何度も海に潜って漁をおこない、漁の後は漁獲物の⽔揚げや家事に追われる漁期は、海⼥にとって体⼒や気⼒の消耗を伴う苛酷な時期である。漁期には体重が落ちる、疲れすぎて眠れないといった⾟さを海⼥たちはよく語る。その⼀⽅で、他の海⼥仲間たちと競い合いながら、体⼀つで獲物を捕り、⾦銭を稼ぐことが楽しいと語る海⼥も少なくない。夏の漁期の舳倉島には、体⼒が落ちたためにオオアマやカチカラアマのような本格的な漁はできないが、荷台のついた「ネコグルマ」と呼ばれる三輪⾞を海岸まで押していって、沖合に遊泳して海に潜って獲物を探す⾼齢の海⼥がよく⾒られる。彼⼥たちは、「海⼥は辞められない仕事で、体⼒の続く限りは仕事をしたいし、海を相⼿の仕事は怖いけれども楽しい」といった趣旨のことをよく語る。もう少し歳の若い、潜⽔漁で活躍している海⼥達でも、オカシゴト(飲⾷店などでのアルバイト)などより、海に潜る⽅がよほど楽しいという。⾃分⼀⼈の⾁体と経験と勘を武器に海というコントロールできない環境に対峙して不確実性の⾼い漁をおこなうことは⾟い作業であると同時に、仲間の海⼥たちとの漁獲量の競いあいも含めてある種の射幸的なゲーム性を帯びた楽しい作業なのである。

1970 年代に千葉県千倉町で潜⽔漁を調査した煎本は、アマ(海⼥・海⼠)の⽣業活動は経済的合理性からだけでは説明できないと⾔う。アマを⽀えているのは⾃らの⾝体を賭して「⾃然の中から獲物をとるよろこび」であり、そのよろこびを通して、アマたちは「⼈間と⾃然の⼀体的な関係」を取り結んでいた(煎本, 1996)。

舳倉島の海⼥の⽣業⽣活からうかがえるのも、このような意味での⼈間-環境系の関係性であろう。

4 考察

4.1 「持続的利⽤の在来の知」の検討

潜⽔漁の主たる獲物はアワビとザエであるが、海⼠町⾃治会館の資料に拠れば、アワビの漁獲量は、1984 年の 39.2 トンをピークに減少をつづけており、2009 年は舳倉島と輪島を合わせて、4.4 トンであった。サザエの漁獲も、1998 年の 349.4 トンをピークとして減少を続け、2009 年には 163.1 トンに落ち込んでいる。これは、アワビなどの餌場となる藻場が、海温上昇にともなって進出してきた熱帯性の藻⾷性⿂類に⾷い荒らされたり、⾼⽔温への順応性が⾼いホンダワラ類が繁殖してアワビやサザエの餌であるカジメの⽣育を妨げたりしているためだと考えられている。対策として、⽯川県は、アワビ、サザエの繁殖に適した増殖場の整備や稚⾙放流事業をおこなっており、殻⻑ 10 センチ以下のアワビの採取も禁じている。また、海⼠町⾃治会では、稚

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⾙放流をおこなう海域を禁漁区としたり、ホンダワラの駆除を始めたりしている。

こういった資源管理施策は、⾃治体がおこなっている、あるいは⾃治体や漁協、研究機関と共同して海⼠町⾃治会がおこなっている科学的資源管理であり、「⾥海」モデルの観点から海⼥たちが伝統的に持っているとされるワイズ・ユースの知に拠るものではない。

たしかに漁獲量は激減しているが、⼀⽅で、先述したように海⼥⼈⼝は 1995 年から 2009 年の間に約 9 パーセント減少しただけであり、潜⽔漁の収⼊が家計に占める重要性がかつてよりも少なくなっているという事情もあるが、200 ⼈近い海⼥たちがアワビやサザエなどの海洋資源を持続的に利⽤し続けている。しかし、このような持続的利⽤が海⼥たちの「持続的利⽤の在来の知」によってのみ⽀えられてきたとは⾔えない。

なお、国連⼤学の報告(2010)などでは、磯の⼈為的攪乱がどのような環境をつくりだしているのか、また、⼈為的攪乱が⽣じた磯と海⼥の資源管理の「伝統」がどのように結びついて資源の持続的利⽤を産み出しているのかについて、⽣態学的な検証がなされていないが、ここではそのことを問わずに、「持続的利⽤の在来の知」というアプリオリになされている措定について考えてみたい。

漁獲の減少をもっとも実感しているのは海⼥たちであり、彼⼥たちからも、産卵期前のアワビを採らないような規制が必要だといった環境の回復や保全についての具体的な意⾒を聞くことができる。また、結果的には導⼊されたが、ウェットスーツの着⽤を巡っては、乱獲を恐れる意⾒が当時の海⼥たちの間にあったという。

しかしながら、これまで⾒てきた海⼥の⽣業⽣活の実相と「⽣物学的多様性の維持と持続的な資源利⽤を通した⾃然と共⽣する伝統と在来の知」を体現しているとされる海⼥像との乖離は明らかである。つまり、⼈間の制御が及ばない海という⾃然に対して⾝体と経験と勘を⽤いておこなう潜⽔漁には本質的に漁獲の不確実性や不安定性が随伴し、そのことが結果として乱獲状況を産み出さなかったのである。

李は、⼭⼝県⼤浦の海⼥と韓国蔚⼭市朱⽥洞の海⼥の⽣業⽣活を⽐較して、朱⽥洞の海⼥に⽐して⼤浦の海⼥は豊漁祭などの宗教祭祀を重視して祭祀の⽇は休漁することによって磯資源保全をおこなっていると述べている(李,2003)。舳倉島・海⼠町の海⼥も⿓神祭や豊漁祭をおこなっており、信仰⾯で⼤浦の海⼥と顕著な共通性を有しているが、伝統的な信仰が資源保全を担保しているのではなく、漁獲や⽣命の安全が偶然性に左右されることが多い潜⽔漁に従事している海⼥にとって、安⼼や幸運を呈⽰してくれる信仰や祭礼が重要な意味を持っているとみなすべきだろう。

海洋資源の持続的利⽤について端的に⾔えば、海⼥たちは、⼰の⾁体を道具として⼈間の制御が到底及ばない海という⾃然環境と対峙して⽣業をおこなっているがゆえに⽣業活動のどの局⾯においても偶然性に左右され、結果として、乱獲に⾄らずに⽣業に従事者が激減するほど資源が枯渇するということはなかった、ということに過ぎない。

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4.2 馴致されない海

「⾥海」という⼈間-環境系のモデルは、農村に対する「⾥⼭」の概念を沿岸漁村に適⽤したものであるが(中村・本⽥,2010)、「⾥⼭」は主として雑⽊林や茅場などの⼈間に馴致された 2 次的⾃然を指す。これに対して「⾥海」は漁撈がおこなわれている沿岸海域を指すが(柳,1998;2006)、沿岸であっても、潮流の予測などが困難な海は、⼈間にとって安⼼して⽣業をおこなえる環境ではない。とくに潜⽔漁の場合は、サメによる被害を含めて海での事故がつきまとう。

舳倉・海⼠町の海⼥の間には、「ウミオチ」や「チアマイ」と呼ばれる海と関わる神経症に罹る場合がある。「ウミオチ」は急に海に潜ることが怖くなることを⾔い、「チアマイ」は潜⽔漁や家事の疲労が重なっているときに鬱状態となることを⾔う。どちらも、⼈間の制御できない危険が多い海での⽣業と深くかかわる精神的症候である(⻑⾕川,2006)。

少なくとも、潜⽔漁をおこなう海⼥たちにとって、沿岸海域は⼈間が馴致し管理する対象としての⾃然ではない。

4.3 ⽣活実感としての⼈間-環境系

⼈間と⾃然の関係性で⾔えば、「⾥海」イメージから紡ぎ出される環境に対する合理的倫理によって海を守護する海⼥というイメージからすっぽりと抜け落ちているものが、本稿で⾒てきた彼⼥たちの⽣活実感の中から浮かび上がってくる。

環境の予測不能性は海⼥たちに精神的疾患をともなう苦しみや安全や豊猟を祈願する信仰⼼を与えると同時に、すでに記述したように、ある種の射幸性や愉快さを彼⼥たちの労働に与えているのである。⼈間と⾃然の関係は「⽣物学的多様性を保全し、資源を持続的に利⽤する⼈間の智恵」といった相利的な合理的な関係性だけで語りうるものではなく、⾝体と⾃然の直接的で濃密な関わりにおける苛酷さや楽しさといった感性を通しても⼗分に語りうるのである。

海⼥が楽しそうにつぶやく⾔葉のなかに「今⽇は海がきれい」という表現がある。この場合の「きれい」という形容は、海を⽣活から切り離して審美的に眺める我々の感覚における海の美しさを表現しているのではないし、環境学的に汚染されていない海の無垢さを讃美しているのでもない。⽔中メガネで海中を覗いたときに、アワビが岩礁と⾒分けがつくくらい海⽔の透明度が⾼いとき、彼⼥たちは「海がきれい」だと感嘆の声をあげるのである。

謝辞

⽯川県輪島市の海⼠町⾃治会館、輪島前神社の中村裕宮司、舳倉島⺠宿「つかさ」の⼤⾓ご夫妻には調査の遂⾏にあたって多⼤の便をはかっていただき、たいへんお世話になりました。また、多くの海⼠町、舳倉島の住⺠の⽅々に聞き取り調査にご協⼒をいただきました。記して謝意を表します。

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⽂献

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