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Mar. 2016,...

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平成 25年 私立大学戦略的研究基盤形成支援事業 21世 紀海域学 1成 ―「 南洋』 から南シナ海・インド洋 太平洋の現代的ビジョン 研究報告書 3 躙諄冬 1晰 = ・一 平成 28年 3月 立教大学アジア地域研究所 Centre for Asian Area Studiё s,Rikkyo university
Transcript

平成 25年度 私立大学戦略的研究基盤形成支援事業

21世紀海域学の倉1成―「南洋』から南シナ海・インド洋 口太平洋の現代的ビジョンヘ ー

研究報告書 3

‐ぐ躙諄冬熙二1晰=

‘.,一

・一・

平成 28年 3月 ‐ ‐

立教大学アジア地域研究所

Centre for Asian Area Studiё s,Rikkyo university

鄭維中、郭陽訳(2013)「清朝の台湾征服とオランダ東インド会社一施狼の「台湾返還」 ルソン壷交易と日比通交伊川健二(本学兼任講師、成城大学非常勤講師)

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

密議をめぐって-」中島楽章編『南蛮・紅毛・唐人』pp319-365恩文閣出版

上田信(2005)『海と帝国一明清時代一』(中国の歴史9)講談社

(2013)『シナ海域唇気楼王国の興亡」講談社

八百啓介(1998)「近世オランダ貿易と鎖国」吉川弘文館

上田:それでちょっと長丁場になりますけれども、続けて伊)||先生にお願いしたいという

ふうに思います。伊川健二先生は、現在、成城大学、立教大学、立正大学等で非常勤講師

として教壇に立っておられます。東大で博士号を取られて、近世の日本と欧州、ヨーロッ

パ、各国との関係について研究を行って、特に日本とイエズス会の研究においても積極的

に研究をなさっております。ご著書としましては「大航海時代の東アジアー日欧通交の歴

史的前提一』(吉川弘文館、2007年)。あるいは「日本中世史入門」(勉誠出版、2013

年)という形で、共著になりますけれども、筆をふるっております。それでは伊川さん、

よろしくお願いしたいと思います。

伊川:ご紹介、どうもありがとうございます。このたびは学際的な機会にお招きいただき

まして、関係各位に謝意を申し上げます。伊川でございます。

私のテーマはシンプルです。ルソン壷交易と申しますと、皆さん、どこかで言葉は耳に

したことがある方がほとんどではないかと思います。ただ、見れば見るほど情報整理がい

ろいろなレベルでこれからまだ必要なテーマだと思いますし、もう一つはやはり、特にこ

の16世紀末の日本と、このシンポジウムのテーマでもあります東アジア、東南アジアをつ

なぐ要素の一つとして非常に重要なもので、研究の必要があるものではないかと思いまし

て、このテーマを設定させていただいております。

数年前に、『イタリア圖書」というところで執筆の機会を頂きまして「フランチェス

コ・カルレッテイと茶の湯」(『イタリア圖書」36、ZOO7年)という一文を草させていた

だいたことがあります。ただ、この文書はタイトルのとおり、フランチェスコ・カルレッ

テイというフィレンツェの商人がいて、彼が1597年に長崎に来て、そのときの様子を書き

つづった中に、ルソン壷貿易などについても書かれているというようなことも含めて、カ

ノレレッテイの旅行記を紹介したいというところにメインがありましたので、どうしてもル

ソン壷の関係の情報という点では不十分な点も少なくありませんでした。そこで、リター

ンマッチをいずれどこかでしたいと思っていたところにこのお話を伺いましたので、その

点も踏まえながら、進めていきたいと思っております。

ルソン壷の基礎情報

最初に基礎的な情報から入りたいと思います。久礼先生同様、私も基本的には文献派で

すので、あまり美しい写真などはご用意していません。ただ、こういう場ですので、もし

陶磁考古をやってらっしやるような方で、そのあたりはこの矢島律子さんの文献にこちら

は依存してお話を常にさせていただいているのですけれども、そうではなくて、別の解釈

があるとか、そのようなご意見ももしいただければ、こちらとしては非常にありがたく思

います。矢島さんの歴博の研究報告(「東南アジアの陶磁」〔「国立歴史民俗博物館研究報

告』94,2003年〕)の趣旨を簡単にまとめると次のようになるだろうと思います。

ルソン壷とは呼ばれていますけれども、産地は南中国ということ。それもはっきりはど

こなのか分かっていないようですけども、基本的には南中国だと考えられている。多くは

耳付きですね。それも四耳です。皆さん、陶磁に詳しいというか、このテーマになじみの

ある方はご存じだと思いますけども、貯蔵用でもある。

全体を大壺という形で矢島さんは総称されています。ですので、ルソン壷と日本でいわ

れているものは、一つのバリエーションということになるだろうと思いますけれども、そ

ういうものがある。ルソン壷という言葉は史料上、出てくるのですが、「真壺」という言

-149-‐148‐

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

あとは、堺の大安寺というお寺の本堂がもともとは呂宋助左衛門の屋敷の建物であったという一種の伝説がございます。この根拠は明治になってからの山岡鉄舟の文章(「大安寺之記」)ですので、内容を読んでも、到底史実を語っているとは信じ難いですね。ルソンを攻撃して、呂宋助左衛門がそういう攻撃に加担したという形の内容が入っていますので、およそ史実であるというふうには見なし難い内容を含んでいるわけです。そういう中、堺の大安寺の本殿が呂宋助左衛門の故宅であったというようなことが書かれています。

い方もしばしばされているということで、後との関わりでは、この辺は一つ、頭に置いて

いただきたいと思います。産地は南中国なのだけれども、フィリピンで多く伝わってい

る。出土もしくは伝世品も。そのため、ルソン壷という形で日本語ではいわれているわけ

です。(矢島律子2003,306ページ)にはフィリピンでの伝世品の状況がまとめられていま

す。出土品ではなくて伝世品、つまり伝えられたものがあるという形でまとめられている

わけです。

基礎情報のもう一つ、一般の方がいらっしゃった場合のことも考えて、呂宋助左衛門に

関する資料なども挙げておきました。もちろんルソン壷交易の資料でもあるということに

なります。『太閤記』の中に「真壼」という形で表現されている。

あとは、堺の大安寺とし

という一種の伝説がござし

寺之記」)ですので、内宅

ンを攻撃して、呂宋助左偉

で、およそ史実であるとし

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ルソン壷交易と日比通交(伊川)

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7)、 ヨー、

欧文史料にみえるルソン壷

それでは、こういった一般書なども含めて、ルソン壷交易について比較的話題になる記録の他に、一体どのようなものが存在しているのかということをお話しした上で、そこから抽出できる当時の日本一フィリピンの交易体制、最終的には継続的なものとしては存続しないということになるわけですけれども、どのようなものが豊臣秀吉の頃、1590年代に模索をされたのかということを、既に先行研究でも言及がある内容を含めて考えてみたいと思っています。

資料1『太閤記』巻16「呂尊より渡る壺之事」

泉リト|堺津菜屋助右衛門と云し町人、小琉球呂尊へ去年夏相渡く文禄甲午〉、七月廿日

帰朝せしが、其比堺之代官は石田木工助にてありし故、奏者として唐の傘、蝋燭千

挺、生たる庸香二疋上奉り、御礼申上、則真壷五拾懸御目しかば、事外御機嫌にて、

西之丸の広間に並べつ>、千宗易などにも御相談有て、上中下段〃に代を付させら

れ、札をおし、所望之面〃誰〃によらず執候へと被仰出なり。依之望の人〃西丸に祗

候いたし、代付にまかせ五六日之内に悉取候て、三つ残しを取て帰侍らんと、代官の

木工肋に菜屋申ければ、吉公其旨間召、其代をつかはし、取て置候へと被仰しかば、

金子請取奉りぬ。助右衛門五六日之内に徳人と成にけり。(檜谷昭彦・江本裕校注

「新日本古典文学大系」60、岩波書店、1996年、472~3ページ)

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史料に見えるルソン壷(欧文資料)*ルイス・フロイス『日本史』第3部第35章

*1595年イエズス会日本年報(ルイス・フロイス箸)

*(ジヨアン・ロドリゲス『日本教会史』第1部第1巻第33章)

*ペドロ・バウティスタ書簡

*アントニオ・デ・モルガ『フィリピン諸島誌」第8章

*フランチェスコ・カルレッティ『世界旅行記」

史料に見えるルソン壷(欧文資料)*ルイス・フロイス『日本史』第3部第35章

*1595年イエズス会日本年報(ルイス・フロイス箸)

*(ジヨアン・ロドリゲス『日本教会史』第1部第1巻第33章)

*ペドロ・バウティスタ書簡

*アントニオ・デ・モルガ『フィリピン諸島誌」第8章

*フランチェスコ・カルレッティ『世界旅行記」

「文禄甲午」は文禄3年、西暦1594年にあたります。「真壺」を持ってきた人物は、菜

屋(納屋)助左衛門、通称、呂宋助左衛門と言われる人物になるわけですが、彼がルソン

壷を持って来て、堺の代官が石田木工助(政澄)という石田三成の兄に当たる人物を通じ

て豊臣秀吉に見せたというようなことが書かれています。呂宋助左衛門に関しては大河ド

ラマなどでも扱われましたけども、直接的に関わる歴史史料は非常に限られる人物ですの

で、学術的にはなかなか扱いが難しい素材ではありますが、『太閤記』でこのような形で

登場するのがルソン壷交易の一端という形になります。

ルソン壷は、基本的には豊臣秀吉の頃の交易品というイメージが強いわけですけれど

も、茶道の歴史の研究の中では、実はそれ以前から日本に入っていたということが一方で

は指摘されています。このお話の中では本格的に扱うことはできないのですが、簡単に補

足したいと思います。『撮壌集」(『続群書類従』巻889)という15世紀の半ばに成立し

た記録、室町幕府の奉行人の飯尾為種が記したといわれている文献の「茶類」の項目中

に、「真壺」という形で先ほどの『太閤記」同様の言葉が現れます。もちろんフィリピン

から流入したとは考えられないわけですけれども、中国からむしろこの時代にさかのぼる

段階で既にもう日本に入っていたというようなことが指摘されています。序文には「享徳

甲戌」と年次が記載され、享徳3年、西暦にすると1454年ということになります。

再び初歩知識に戻りますけれども、『当代記」にも同様に、やはりルソンへ渡った商

人、ここには固有名詞は出てきませんが、渡った商人が壷を持ってきたと書かれていま

す。

欧文、和文、双方の史料にルソン壷交易というのが、先ほども見ましたとおり出てきます。このうち、ジヨアン・ロドリゲスの『日本教会史」第1部第1巻第33章は、ルソン壷交易に特化した内容というよりは、茶器の値段が高価であるというかなり一般的な話ですので、一応、ここには加えているのですが、それを除いて今のところ5件、こちらでは確認しています。探せば、恐らくまだ出てくる可能性はあるのではないかと思います。と申しますのは、例えば秀吉がフィリピンに朝貢要求をし、それに対し、フィリピン総督が応じて、詳しくは後でお話ししますけれども、そういうような経緯は比較的知られている事実に属しつつも、その元になる歴史史料がまとまって刊行されているのか。まして翻訳をされているのかというと、実はまだまだこれから途上の段階と言わざるを得ないところがございます。把握はされていても、出版という環境はまだまだ整っているとは言い難いところがございますので、まだ出てくる可能性があるのですが、このシンポジウムに際して、先行研究もしくはこちらの独自の調査で得た情報はこれぐらいというところになると思います。

最初のz件は著名なルイス・フロイスの記録ということになります。一つは「日本史」(第3部第35章)です。もう一つは『イエズス会日本年報」(1595年)という、イエズス会の公式の日本の布教状況に関する記録ということになりますけれども、その二つに出てくる。あとはそれぞれの場面でお話をしていくことにしたいと思います。

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第3部第35章)です。もう一つは『イコ

カ公式の日本の布教状況に関する記録る。あとはそれぞれの場面でお話存し-1

「日本史」

ヨ本年報」

資料2『当代配』巻2,文禄3年(1594)春

此春、るすんへ渡商人壺多持來、直諏之問上下取之、然虚に此冬大閤秀吉聞之御、日本

國之爲寶物を孚與下直哉と有仰、悉く被召上、翌年右之債一倍金子被納、壷は本主に被

返置、

150 151

I貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

フロイス情報にみえるルソン壷

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

資料3ルイス・フロイス『日本史』第3部第35章

この商人はルソンで取引きをしており、そのために使節一行に対しては好意を寄せて

いた。こうして一行は都に行き、少し遅れて関白もまた上洛した。この商人は、二年

このかた、ルソンにおいて、形態と粘土製の点で茶を長期にわたって保存するのに非

常に適した幾つかの壷が発見されていたのを知っていた。茶は、既述のように一種の

薬草で、日本人がきわめて尊重しているものである。したがって彼らはこれらの壷を

買い求め、それを大いに入手したがっている。かの商人は、それらの壷のことで修道

士たちと相談し、また関白には、これらの修道士を通じてルソンの総督からすべての

壷を入手できることを知らせた。そして彼は関白に、これらの修道士を当地に留めて

おいたほうがよいと思う。そして、それらの壷のことで経験があり、その扱いに馴れ

ている者を-人付けて、かの俗人の使節をルソンに送り帰らせ、それらの壷に関して

総督に書状をしたため、あるだけの壷を用立ててもらうよう取り計らってはいかが

か、と進言した。この商人は修道士たちに、都において関白殿から教会や修道院を持

たせてもらえるよう取り計らうと言って多大の希望を抱かせた。(松田毅一・川崎桃

太監訳『完訳フロイス日本史」12、中央公論新社、2000年、192~3ページ)

『日本史』第3部第35章は、平凡社東洋文庫のフロイス『日本史』では第3部が訳されて

いませんので、松田毅一さん、川崎桃太さんの完訳のものにしか日本語では出ていない内

容ということになるのですが、ここに登場する「商人」というのは長谷川法眼、これは岸

野久さんの「『るすん壷』貿易の歴史的位置」(『キリシタン研究」17,1977年、140

ページ)の中にも同じ文献が引かれていますので、そこでこの商人は長谷)||法眼であると

いわれています。「使節一行」というのは、フィリピンー日本間の使節の往来が当時あり

ましたので、その使節のことを言っていることになります。都に行って、彼らと会うため

に関白、つまり豊臣秀吉も上洛をしたことになります。

長谷川法眼は、「2年このかた」ルソンで壷が発見されたことを知っていたとあります

から、彼がルソン壷の情報を把握したのは、一番遅くても1591年段階であると考えられる

わけですけれども、ルソンにおいて、形態と粘土性の点で長期にわたって保存するのに適

した壷が発見されているのを知っていたことが書かれております。

秀吉の頃における茶道の隆盛の中、ルソン壷というものは、茶葉の保存に適した茶器と

して日本で珍重されているという記録はこの他にも、これからお話しする幾つかの情報の

中に入ってきますけれども、ここでもそのことが触れられています。

あとは、もう一つは交易との関係では、やはりフィリピンの総督に書状をしたためて、

あるだけの壷を用立ててもらうように取り計らってはいかがかというようなことが提案さ

れていることからwただ単に-貿易品というのにとどまらず、日本一フィリピン関係とい

うか、そういう関係の中でも非常に大きな要素になっていることがこの『ルイス・フロイ

ス日本史」の文章からも見ることができます(翻刻はLuisFr6is,Hjsto「jodeノqpom,5,」os6

Wickied.,(Lisboa:BibliotecaNacional,1984)p456参照)。

同じくルイス・フロイスの『日本年報」の方ですけれども、成立としては先ほどの『日本史」の方が後ということになりますが、『日本年報」の記録です。原文(loanneHayqDeRebusノqpon/cjs>ノ"。/dS,etPervor7jsEPjsto/oeRecenがores(1605)pp、239-40)はラテン語ですので、こちらは原文を正しく検討ができないのですが、ここを見ていくと、壷のことを「ボイオニ(Boioni)」と呼んでいます。フィリピンにある壷ですね。フィリピンにおいてはZスクードと書かれていて、非常に安いけれども、日本に持ってくると非常に高価になるといわれています。宝石同様に珍重されているというようなことだとか、そんなことが書かれています。

また、キリシタンたちがフィリピン群島の壷の商売に従事しているとも書かれています。先ほど安平壷のところでカトリック信者との関わりというご指摘がありましたが、そういうものとリンクするのかしないのかはにわかには断定はできませんけれども、ここでもマニラにいる日本人キリシタンとルソン壷交易の関係が指摘をされていることになります。

さらに、少し特殊な環境の一つとしては、「太閤様(Taicosama)」が出てきます。豊臣秀吉が壷の独占をもくろむ。ただ単に独占というだけではなくて、買い占めたものは厳罰に処するという非常に強烈な意思をもって独占を試みていることが、このほかの幾つかのテキストに出て、確認することができます。これは実はこの頃までの日本の交易形態の一種の伝統を引いているのかと思えるような部分もあるのですが、ただここまで強烈な形で、君主が独占を意図しているところは、この時期の豊臣秀吉という体制の一つの特色ということができるのかもしれないと思っています。以下、それに対するキリシタンたちの対処が書かれていますが、それに関しては省略します。

資料41595年イエズス会日本年報(ルイス・フロイス否)

日本国から千レーグア以上隔てたフィリピン群島にボイオニ(Boioni)と言われる一

種の壼が見られるが、それIまかの地では廉価であるが、日本国では茶と呼ばれる非常

に高貴な飲料がその壷の中ではとてもよく保存されるために、たいへん高価である。

なぜならそれはフィリピンではニスクードであるが、日本でははるかに高価な値がつ

けられ、日本人たちの重立った資産の中に数えられて宝石同様にされているからであ

る。そこで太閤様は、同種の壷を運べるだけ数多く用意するよう、ある二名の男を派

遣し、自分はこの取引によって莫大な利益をあげようと考えた。ところで(太閤様)

ロドリゲス『日本教会史』にみえるルソン壷ジョアン・ロドリゲス『日本教会史』第1部第1巻第33章は、先ほど申し上げましたとおり、ここにルソン壷そのものが出てくるということではないのですが、茶の湯が盛んとなり、そこに使う茶器というものに非常に多くの支出が必、要となっていく事情を一般的に述

152 153

べているということになります。他の民族がこのことを聞けば、狂気で野蛮なことと思

うであろうという結論がされています。ヨーロッパではほどなく紅茶を場として、似たようなことがいずれ行われることになってくるわけですけれども、ジョアン・ロドリゲスは、この段階ではそのような感想を漏らしている。これはもちろんジョアン・ロドリゲスだけの印象ではなくて、アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども、同様のことを述べている。つまりヨーロッパでは小鳥に水を与えることにしか役立たないものが非常に高価で取引されているということに驚きを隠していない(松田毅一訳『日本巡察記』平凡社、1973年、22~5ページ)わけですけれども、当時のヨーロッパ文化圏にいる人々の率直な感想としてはそうだったのだろうと思います。

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

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ペドロ・バウティスタが記したルソン壷交易

この他、スペイン側の史料としてペドロ・バウティスタの書簡があります。この史料につきましては、こちらで2010年に『聖ペドロ・バウテイスタと織豊期の日西関係」(『侍兼山論叢文化動態論篇』44,2010年a)という文章にまとめさせていただいたことがあります。ペドロ・バウティスタは、ひと言で申し上げますと、豊臣秀吉の末期に長崎で殉教したZ6名のうちの-人ということになります。図1は舟越保武さんという彫刻家の方がお書きになったデッサン「聖ペドロ・バプチスタ」(舟越保武『舟越保武まなざしの向こうに」求龍堂、2014年、106ページ)で、舟越さんの展覧会が実はこの近くの練馬区の美術館で最近ありまして、バウティスタに関する映画(日本二十六聖人われ世に勝てり)なども上映されていました。これらは、もちろん写実とは考えられないわけですが、そのような人物です。

こちらは多分、ご存じの方もいらっしゃるのではないかと思いますが、二十六聖人殉教を記念して築かれたイエズス会の日本二十六聖人記念館というものが長崎にございます。その前にある彫刻も舟越保武の作でして(写又1)、余談ですけれども、その-人がペドロ・バウティスタということになります。

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図1(左)聖ペドロ・バプチスタ舟越保武『舟越保武まなざしの向こうに」求龍堂、2014年、106ページ

写又1(右)日本二十六聖人記念館/2007年1月8日撮影

ロ正叶

-154-

貿易陶磁と文献史料から東アジア

・東南アジアの歴史を考える

べているとい うことになります。他の民族がこのことを聞けば、狂気で野蛮なことと思うであろうとい う結論がされています。 ヨーロッパではほどなく紅茶を場 として、似たようなことがいずれ行われることになってくるわけですけれ ども、ジョアン・ロ ドリゲスは、この段階ではそのような感想を漏 らしている。これはもちろんジョアン・ロ ドリ

ゲスだけの印象ではなくて、アレッサン ドロ 。ヴァリニャーノなども、同様のことを述べている。つまリヨーロッパでは小鳥に水を与えることにしか役立たないものが非常に

高価で取引されているとい うことに驚きを隠 していない (松 田毅一訳『 日本巡察記』平凡社、1973年、22~ 5ページ)わ けですけれども、当時のヨーロッパ文化圏にいる人々の

率直な感想 としてはそ うだったのだろうと思います。

ペ ドロ・バウティスタカt記 したルソン壺交易この他、スペイン側の史料としてペ ドロ。バウティスタの書簡があります。この史料

につきましては、こちらで2010年 に『聖ペ ドロ。バウティスタと織豊期の日西関係』(『待兼山論叢 文化動態論篇』44、 2010年 a)と ぃぅ文章にまとめさせていただいたこ

とがあります。ペ ドロ・バウティスタは、ひと言で申し上げますと、豊臣秀吉の末期に長崎で殉教した26名 のうちの一人ということになります。図 1は舟越保武さんという彫刻家の方がお書きになったデッサン「聖ペ ドロ。バプチスタ」 (舟越保武『舟越保武まなざしの向こうに』求龍堂、2014年、106ページ)で、舟越さんの展覧会が実はこの近くの練馬区の美術館で最近ありまして、バウティスタに関する映画 (日 本二十六聖人われ世に勝てり)な ども上映されていました。これらは、もちろん写実とは考えられないわけですが、そのような人物です。

こちらは多分、ご存じの方もいらっしゃるのではないかと思いますが、二十六聖人殉教を記念して築かれたイエズス会の日本二十六聖人記念館というものが長崎にございます。その前にある彫刻も舟越保武の作でして (写真 1)、 余談ですけれども、その一人がペ ドロ。バウティスタということになります。

図 1(左)聖ペ ドロ・′ヽプチスタ舟越保武『舟越保武 まなざしの向こうに』求龍堂、2014年、106ページ

写真 1(右)日本二十六聖人記念館/2007年 1月 8日 撮影

154 -

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口 2 ζ ζヽ い い い い い ヽ P 【 ω 、 N ¨ ム く ζ̈ い 0 0 「ヽ O N く “ く         ∽ ■ 9 ″ い O o ● 2 0 ド ∞ ヽ P > 5 く 一 も O ω o ヽ も 、 o ぉ N ぃ 0 い い 、 ω F 0 0 い O N あ い                                             ぉ 喜 浄 0 い o 一 り ヽ ω 6

たり、豊臣秀吉が独占しようとした意図が文字どおり全てのルソン壷を完全に管理下に収

めなければ納得がいかないということではなくて、むしろ情報収集する中でいいものを抽

出していこうという方向があるのだろうと想像させる文章ということになるわけです。

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

申し上げるまでもなく、殉教事件そのものは非常に有名な出来事であって、関係する研究も少なくないわけですが、ペドロ・バウテイスタに特化した'情報収集が十分にできているかというと、それも実は十分でない。伊川ZO10aでは32件の彼が書いた手紙をリストアップしたのですが(表1)、一番右の欄が日本語訳されている事例となりますので、い

かに真っ白かということをご確認いただけるのではないかと思います。

彼は、後でも申し上げますとおり、フィリピン総督使節として来日をそもそもしています。総督使節ですから、任務が終わったら、本来はフィリピン総督の下に帰るべきなのだけれども、布教のために日本に残って、そこで命を落とすということになる。そういうあらゆる観点から見ても非常に重要な人物でありながら、研究環境はまだまだ整っているとは言い難い。これ以外にも恐らく探していくと出てくるのではないかと考えていますけれども、この段階で32件の書簡があるということになります。

ちなみにこの文章(伊川2010a)はネット上にアップしていますので、もしご興味があ

る方は「伊川ペドロ・バウテイスタ」などで検索していただいたら、pdfでダウンロードが可能です。まだ詳しく見ていかないと、この32件の中にすら、どれだけルソン壷交易に関わる情報が含まれているかどうかというのははっきりとは申し上げられないわけですけれども、岸野久さんの文献の中で用いられていた部分(岸野久1977,140,144ページ)は、表1でいうと第4号の文書に当たるわけですが、その中の2カ所を引用されていましたので、その部分と、(伊川ZO10a、40ページ)で引用しました第7号の書簡の中の該当部分、この二つをペドロ・バウティスタの情報としては紹介をさせていただきたいと思います。

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

資料6ペドロ゜バウテイスタ第7号文谷の解脱

7号文書は、ルソン壷交易を詳述している。長崎におけるルソン壷交易は、フィレン

ツェ商人のフランチェスコ・カルレッテイも報告しているが、同文書におけるそれは、

長崎でのバウティスタの見聞が反映されての記述であると考えられる。それによると

[Perez1916-23]1,p60)、先年(1594年)に壷(tjbores)をもたらした日本人たちは大

いにもうけたが、その喜びは、秀吉による壷差出命令の前に潰えたとされる。その文脈

において、秀吉は、彼が特許(chapa)を与えた、原田喜右衛門と長谷)||法眼のほかは壷の輸入を禁じ、彼らにマニラへ行く船を監視させ、許可(licencia)なしには渡航しな

いように、死罪をもって命じたことを記している。(伊川2010a、40ページ)

第7号文書は、(伊川2010a、40ページ)に解説があって、翻訳ではありません。文中に

登場するフィレンツェ商人のフランチェスコ・カルレッテイについては後で詳しく申し上

げたいと思います。秀吉の壷差し出し命令というものが、先ほども名前が出てきた長谷川

法眼と原田、もう一人、原田喜右衛門の独占というか、寡占が豊臣秀吉によって認可をさ

れているということになります。これが、壷取引しようとしていた商人を意気消沈させた

と伝えられていますので、逆に言うと取引をしようとしていた商人は他にもいるのだろう

ということと、それを秀吉が強烈な意思をもって封じ込めようとしていたというせめぎ合

いを見て取ることができます。

ここでは特許が、許可に関しては「リセンシア(licencia)」という言葉も出てくるので

すが、「チャパ(chapa)」という言葉が出てきて、この特許、チャパという言葉が果たして後にいう朱印船貿易の朱印状を意味するのかどうかということに関しては、近世初期の

対外関係史上、論争がある過程ということになります。私もまだこれについては、どちら

に取るべきかという結論を持っているわけではありませんけれども、書式の問題に踏み込

むと、やはりこの段階のチャパに関しては実例が残されていないため、永遠の議論になら

ざるを得ないのだろうとも思いますが、ただ制度としては、後で申し上げますとおり、朱

印状の先例になるような』性格を持っている面もあるのではないかと思います。その古文書

の書式等も含めた精密な議論という点では、なかなか結論が出しにくいところだろうと思

います。

資料5ペドロ・バウテイスタ第4号文谷

「日本人たちが蟻の如く壷tlboresを求めてマニラに行くに違いありません。彼らは壷に夢中であり、そちらにたくさんあることを知っています。当地には二千タエルもする壷があります。壷についてそちらで考えられているような迷信はありません。彼らは壷に、ある種の木の葉〔葉茶〕又は粉〔抹茶〕を入れ、長期間保存するだけの目的で求め、すでに述べた茶といわれる味わいのある飲物を作ります。」

「本年国王〔秀吉]は閣下に、小さな水牛一頭、廣香猫一つがい、何個かの壷を要望しています。閣下、これらの壷は価値のよくわかる日本人に選ばせるようにして下さい。

というのは、それが上等で、上品なものであれば珍重されもしますが、さもないと問題にされないからです。もし閣下がよろしければ、私は三個ないし四個までが適当である

と思います。そして別の五個は次の五人の方に贈るためです。すなわち、一個はマニラとの交渉を担当している人〔長谷)||法眼〕、一個は当地都にいる国王の甥〔豊臣秀次〕、一個は奉行〔前田玄以〕、一個は閣下宛に書翰を送る総司令官〔浅野長吉〕、一個は国王に影響力を持っている医者〔施薬院全宗〕です。これら全ての人を満足させておくことが大変必要です。」(岸野久1977,140,144ページ)

モルガ『フィリピン諸島誌』にみえるルソン壷あとはフィリピン史の中では非常に著名なアントニオ・デ・モルガ「フィリピン諸島

誌』という文献がありますけれども、そこにも詳しく、これは交易そのものというより

も、壷に関して詳しくまとめられているということになります(資料7)。

まず第4号文書によれば、日本人たちが「蟻の如く」、ここでは壷がティポーレス

(tlbores)と複数形で表現されていますけれども、その壷のためにマニラに行っている。

非常に多くの日本人たちが群がる様子を「蟻」と例えています。先ほどルイス・フロイス

(資料4)が現地では安いと書いていたのに対し、ここでは「当地(日本)」では2,000タエルもするという点につきましては、現地では安いものが日本に持ってくると高くなるの

か、現地で既に高いのが日本へ持ってくるとさらに高価になるのかという、ふたとおりの

解釈の余地があると思います。茶を長期間保存する目的があることは先ほども出てきたとおりです。

あと該当部の後半では、やはり豊臣秀吉が壷を要望していると書かれています。ただ、ルソン壷であれば何でもいいのかというとそうではなくて、いいものであれば、上品なも

のであれば珍重されるけれども、さもないと問題にされないとも言われています。このあ

資料フアントニオ・〒・モルガ『フィリピン諸島麓』第8章

このルソン島、特に、マニラ、パンパンガ、パンガシナン及びイロコス諸州におい

ては、原住民の間に、非常に古い土製の壷が発見される。色は褐色で、外観はよくな

く、あるものは中型で他のものはもっと小さく、しるしがあり押印してあるが、どこ

から来たものかいつ頃来たものか誰も説明出来ない。というのは、今はもう、どこか

らも到来せず、また島でも作られていないからである。日本人はこの壷を探し求め尊

重しているが、それは、日本人が非常な御馳走とし薬用として熱くして飲む茶Chaと

いう草の根が、日本の王や諸侯の間では、この壷にのみ貯え保存されることを知った

からである。日本ではいたるところで、この壷が大変に尊重されており、彼らの奥の

問や寝室における最も高価な宝物とされている。この壷の値段は高く、日本人は、そ

157-156-

資料8伊川2007,9ページの解脱

日本茶についての記載は7章の冒頭部に、間に酒の記載を入れながら2箇所に存在す

る。彼らが長崎に到着するとすぐに、長崎奉行(liministridellagiustmapercommandamen‐

todelGovernatorediquellaterra)が、フィリピンなどからしばしば持ち込まれる陶器の壼

(cetlvasiditerra)を探しにカルレッテイ等のもとにきた。「陶器の壼」とは、いわゆる

呂宋壷のことである。国王(Re)がそのすべての購入を欲しているため、壷を持参する者

は必ず提示しなければならないと説明されている。「国王」は豊臣秀吉を意味する。呂

宋壷交易を長崎奉行が担っていたことは、若狭小浜の商人組屋甚四郎が文禄3年(1594)9月、「るすん壷」6個を売却した金額134両の覚えを長崎奉行に送っていることからも確

認できる。カルレッテイにとって、このことは驚くべきことであったらしく、「いった

いだれが信じるであろうか(Chilocrederamai?)」と感想をもらしている。たかが土製の

壼を、一国の最高権力者が血眼になって嗅ぎまわっているように感じられたのであろう

から、無理もない。

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

の外側を大変に美しい細工を施した薄い金で飾り、金欄の袋に入れておく。中には、

十一レアル貨で二千タエ〔タエル、重さの単位]に評価され売られるものもあり、物によってはそれ以下のものもあるが、ひびが入っていても、欠けていても中に茶を保

存するのに不都合ではないので、それによって価格が下がることはない。これら諸島の原住民は、それらの壷を出来るだけ良い値で日本人に売ると共に、この商売のために壷を探すのに一生懸命になっているが、今までにあまり急いで売ってしまったの

で、今ではもうほとんどなくなってしまっている。(神吉敬三・箭内健次訳『大航海時代叢書」VllI、岩波書店、1978年、326~7ページ)

ルソン島の中でもマニラ、パンパンガ、パンガシナン、および諸州という形で、ルソン

島の北部と申し上げていいと思いますけれども、そこにいる先住民の間に非常に古い土製の壷が発見される云々と書かれています。

さらには、日本人はやはりこの壷を探し求め、尊重していること、日本人がご馳走として薬用として、熱く飲む茶という草の根が云々ということで、非常にやはり茶道そのものが珍重されているがために、ルソン壷がその流れで珍重されていると書かれていたり、そのほか金額などについても書かれていますけれども、アントニオ・デ・モルガの『フィリ

ピン諸島誌』にもこのような形で出てまいります。

先ほど出てきたイコロスだとか、パンパンガ、マニラ、いずれにしてもルソン島のマニラ以北の地名というふうにご理解いただければと思いますけれども、そのあたりから発見

されたと『フィリピン諸島誌」には出てまいります。

資料g『世界旅行肥」関係部分仮訳

(シンポジウムののちに作業をしたものを以下に追加します。)

朝に私たちが上陸しようとする前に、奉行所の役人たちが、地方長官(長崎奉行)の命

令によって、すべての船員、商人、そして乗客たちの中に、通常はフィリピン諸島もしく

はその海域の他の島々から持ち込まれる土製のある壷の捜索をしにやってきた。そしてこ

れは日本国王(豊臣秀吉)の法令により、皆に死罪をもって、それ(壷の有無)を報告しなけれ

ばならないことが命じられた。すべて購入したがっていたからである。しかし、いったい

誰がそんなことを信じるだろうか。しかしそれはまぎれもない事実なのである。もし私が

到着の時点で見たのでなければ、あえて閣下へ報告し語りなどしないでしょう。これらの

壷は、通常の価値であれば'ジュリオ銀貨の評価もされないであろうが、ひとつにつき、

5,6千、もしくは1万スクードの価格がつけられるのである。これが事実であることの確

認として、さらに、1615年にフィレンツェを訪れた跣足派と呼ばれるフランチエスコ会ス

ペイン人で、ローマへ赴き、そこでは数人の日本人たちとともに、かの国の王(伊達政宗)

の大使であったルイージ・サッテロ(ルイス・ソテロ。ただし慶長遣欧使節の「大使」は一

般には支倉常長とされる)司祭は、私に、この点について、多くの貴族、彼らの宗教上の同

胞たち、そして日本人たちを前に、彼の国ではこの壷ひとつにつき、13万スクードで売買

されている場に遭遇しかの紳士はそれをローマへ送ったと語り、彼の同胞である彼の日

本人たちも同じことを明言したことを申し上げる。私はそれを驚かないし、驚かせようと

もしない。日本人たちはそれらの物(壷)をもつと評価し、(壷は)健康やどんなほかの高価なものの管理によい。私たちはこのように申し上げる。しかし、彼らに異議を唱えるのでは

ない。こうした動機から、さらに武器も、それが良質である場合には高く評価される。

(中略)

しかし、出発したところへ戻るために、この壷は保存をし、10年や20年経過しても、

「チャ」すなわち、「テー」と呼ばれ、ある種の葉をまったく損ねることなく保つという

特質、長所で応えてくれる。それ(茶)は3倍の大きさの葉をつける点を除いて、柘植のものに似た植物の産物である。一年中緑であり、ダマスクローズのような形の芳香を放つ花を

つける。葉からは粉が作られ、それはそうするために火にかけられた熱い水の中に入れら

れる。かの水は味覚よりもむしろ薬用のために喜ばれる。ほろ苦い香りでありながら、口

を良好に保ち、飲用する人にとって最高の効果を引き起こす。胃弱を抱える人にとって

は、消化を助けるのに大いに役立つ。そしてとりわけ興奮した気分が頭へ登らないよう

に、取り去り、防止するのに最適である。夕食後に飲めば、眠りを誘うのだ。したがっ

て、彼らの用法は、食べたあと、すぐに飲み、酒に泥酔した時に最大(の効果)となるので

カルレッテイ『世界旅行記』にみえるルソン壷もう一つは、イタリア側の史料ですけれども、フランチェスコ・カルレッティ『世界旅

行記』というものがございます。これは、見てみるとルソン壷交易の関係でも(岸野久1977)145ページに引用されていますし、あとは倭志関係(鄭櫟生『明・日関係史の研

究」雄山閣出版、1995年、256ページ)だとか、幾つかの文献で実は使われているのですけれども、必ずしも対外関係だとか、その関係の研究の中で周知されている情報とはまだ言い難いのだろうと思いますので、紹介を兼ねてお話をさせていただきます。

フランチェスコ・カルレッテイは、先ほども申し上げましたとおり、フィレンツェの商

人です。『世界旅行記』ですので、世界一周するのですが、大西洋南下して、カーボ・ヴェルデという諸島がありますけれども、そこからアメリカ大陸に渡って、アカプルコま

で行き、そこから太平洋を渡ってフィリピンに来る。日本にはフィリピンから来るとい

う。そこからさらにポルトガルの統治領域を通って、アフリカを迂回してヨーロッパに戻

る。その途中では略奪を受けて、一文なしになってヨーロッパに戻るという経緯もありつつ、そういう過程の中で、先ほどのまさに殉教事件が起こった直後の1597年の長崎に来ている人物です。翻刻はミラノで出ているもの(FrancescoCarletti,Ro9/onomenけ。eノ、/ov/og-

9/o/ntornooノmondo,ocurod/Ade/GDB/(Milano:Mursia,1987))がありますが、残念ながら、知る限りでは全文邦訳は出ていません。榎一雄『商人カルレツテイ」(大東出版社、1984

年)は非常に詳しいですし、エンゲルベルト・ヨリッセン「カルレッテイ氏の東洋見聞

録』(PHP研究所、1987年)は新書ながら詳しくまとめられた文献です。その他、英訳などもあります。

最も古い写本はローマのアンジェリカ図書館という図書館にあります。これが1721年ですので、必ずしも同時代とは言い難い時点での写本です。最も古い刊本は1701年ですけれ

ども、ただ、それよりもやはり写本の方が原文に近いと研究史上いわれています。このよ

うなものがカルレッティ『世界旅行記」ということになります(資料8~g)。

-159--158‐

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

和文史料にみえるルソン壷

冒頭に申し上げましたとおり、ルソン壷はもともと基本的には南中国の産物だと理解さ

れています。この点に関してはいろんなご議論があり得るかもしれません。実際に遣明船

の時代にもう日本へ入っていると考えるのであれば、フィリピンからではなく、中国から

直接のルートで入った可能性を想定すべきかもしれません。その意味では、中国史料など

をめくってみる必要があるのであろうとも思いますけれども、そこは限られた準備時間の

中で手に負えるものではありませんでしたので、それ以外のオプションとしてはやはり今

のところは和文史料の検討という形になると思います。

ある。日本人たちの間でチャを飲む使用量は多く、誰かの家へ入れば親しげに供されないことはないほどである。また、ほとんど作法として、彼らは主人たる友人を讃えることになっている。あたかもフランドルやドイツでワインが出される習慣のようである。その他の物事の中で、このチヤについて、その葉は古ければ古いほど良質だといわれている。しかし、それ(茶葉)を同一の状態に保存、維持するために、不朽の壷には入れられないまま、かつては方法が見出されていなかった。なぜなら、金、銀、その他の金属製のものでは、彼らが望むようには保存できなかったからである。実際には、おそらく根拠のない迷信であろう。それでも、事実彼らは希望をもって、彼の(地の)きわめて平凡でありながら、利点があり、貴重な土の壷のなかでなければ、件の葉をよく保存することはできないと考えている。(FrancescoCarlettl,Wog9/de/Cqr/ettjRogionomentoノ.CheCOnbiene/oPortenzo

doノノ'ノsoノeF"jPp/neoQueノノede/Gjoppone,pp、11-5)

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

最初の4点に関しては、「ルソン壷の基礎情報」

の項でお話ししましたとおりですので、それに二

つ付け加える形で『松浦家文書』および『組屋文

書」、その2件について補足をし、それをめぐる交

易体制について簡単にまとめのお話をして、締め

たいと思っています。

『松浦家文書』の原典にはまだ当たっていない

のですけれども、菅沼貞風「平戸貿易志(訂正第

三版大日本商業史所収)」八尾書店、1902年、63

ページにテキストがあります(資料10)。

史料に見るルソン壷(和文資料)

*『太閤記』巻16

*『撮壌集』下、茶類

*『当代記』巻z

*「大安寺之記」(以上、既出)

*「松浦家文書」

*「組屋文書」

ここには後との関わり、特に日本、ルソン壷をめぐる交易体制を考えるときに重要な点、見過ごせない点がいくつか含まれています。フランチェスコ・カルレッティ、先ほど来申し上げておりますとおり、長崎に来ている人物です。長崎に来たときに、では、一体何が起こったのかというと、地方長官(恐らく長崎奉行寺沢広高)支配の役人たちが、フィリピンから持ち込まれる壷に関する調査のために、カルレッティの船のところに来たということになるわけです。

文脈からして、ここのイタリア語では「ヴァシ(vasi)」というふうに書いていますけれども、その壷というものがルソン壷のことであろうと考えられるわけです。それが豊臣秀吉、国王、イタリア語で「し(R6)」という言葉で出てきますけれども、国王の命令による捜索であるということを知って、カノレレッティは仰天することになるわけですけれども、先ほど来、秀吉のルソン壷に対する強硬な姿勢というのは他の欧文文献の中にも出てきます。榎さんは実はこの記事を詳しく紹介されておりませんし、ヨリッセンさんは紹介されているのですが、「これは事実に反することだろう」とおっしゃっております(ヨリッセン1987,79ページ)。おりますけれども、カルレッテイもそんなふうに論じてはいるのですが、恐らくそういうようなことはあったのではないかと考えます。広域の体制を考える上で、この記述は見過ごすことができない要素を含んでいますので、もう少し詳しく紹介をさせていただきます。

資料gのうち、今申し上げた点は冒頭の部分には、「し・デル・ジャポーネ(R6delGiappone)」という形で日本国王、具体的には豊臣秀吉を指す言葉がみられます。ヨーロッパ文献の中で、日本の為政者、天皇ではなくて為政者というのは、通常は英語でいうエンペラーに相当する言葉で出てくるわけですけれども、この場合「し」というのはご承知の方もいらっしゃるでしょうが、英語でいうと「キング」に当たる言葉なので、そういう意味でちょっと特異な文面ということもできます。

あともう一つは、驚くべきことに、その壷の金額が13万スクードという金額になるというようなことも、実はこの後に書かれて、その情報源が誰かというと、これもこのシンポジウムの準備のために読んでいて面白いなと思ったのですが、「ルイージ・サッテロ(LuigiSattelo)」というふうに書かれている。つまりルイス・ソテロです。支倉常長の使節の実質的な立て役者といわれる。あとを読んでくと「スパニュオロ・デッロルディネ・デイ・サンフランチェスコ(SpagnuolodelrOrdinediS・Francesco)」云々と書かれていますが、スペイン人のフランシスコ会士ということになっていますので、間違いないと思いますが。ですので、この記録自体が慶長遣欧使節以降に成立したということも分かるわけですけれども、当時の様子については、今、申し上げたような記述を残しているというのが、フランシスコ・カルレッティの記録ということになります。

資料10『松浦家文谷』

今度ルスンより五島へ相着候唐舟積來候壼、其外唐物、上様可懸御目旨御仰之通申入

侯、助大夫買來候つぼ三持参候、則懸御目候、御意に不入候間、何へも主次第可遣旨

に候、則其通船頭申渡候、其外の商人持來候つぼから物の儀御尋候、可被持越候、

恐々謹言、

七月十二日寺澤志摩守正成

松浦式部卿法印殿

ここには「ルソンより五島へ相着き候、唐舟積来候壷」云々と書かれています。ですの

で、ルソンから五島に着いた船に壷が載せられている。しかも秀吉の側が、その情報を

キャッチして、やはり壷を「上様」、すなわち秀吉に「お目に掛くべき旨、御仰せのとお

り」というようなことで、壷三つを秀吉の下に持っていった。だけれども、「御意に入ら

ず候」ということで、持っていったのだけれども、お気に召していただけなかったという

ことになります。ですので、資料5にあったとおり、ルソンから来た壷であれば何でも独

占するということではなくて、選択的な姿勢を見ることができるのではないかと思います

が、欧文、和文史料で整合するような内容を伝えている事例ということになります。

あと、『組屋文書」という、小浜市役所編『小浜市史諸家文書編1」小浜市役所、

1979年、140~1ページに収められている古文書がございます(資料11)。

そこの組屋文書の中にかなり金額が具体的に書かれているリストがあるわけです(8号

文書)。ここでは、織田有楽斎や浅野長吉など豊臣政権の中でも著名な人物も含めて、金

子、例えば最初だと4枚9両、つまり49両ということになるでしょうか。次は40両、以下、

15両、14両というような形で金額が書き連ねられております。ですので、組屋からどこに

渡っていったかというようなことがこういうものから分かってくる。

あと、請取状ですね。先ほどは8号文書でしたけど、9号文書には請取状なども出てく

る。ルソン壷を京都で売却した金額を合わせて13枚4両と書かれています。つまり134両と

いうことになりますけれども、それは8号文書にあった金額を合計していくとこの金額に

‐161-‐160-

資料11『組屋文谷』(見せ潟ち部分などは省略)

八組屋甚四郎壷売却覚

うり申つぼの覚

一金子囚まい九両二壱ツ〈すあい久兵衛・助三郎・小三郎〉宮木新大郎殿へ

一同四まい二壱ツ有楽(織田長益)へ

一同壱まい五両二壱ツ弾正殿(浅野長吉)御内玄斎へ

右二御目二かけ申候。

一同壱まい四両二壱ツとくしゆ殿へ

右二御目二かけ申侯。

一同六両二 壱ツ大津の勝三郎へ

一同壱まい二壱ツ大津の平兵衛ニ

ーつほ壱ツ寶残申侯へ共、則只今上申候也。

合つほの数セツ也。〈さつま舟本にてうり申候。〉

文禄三年九月日<ミや甚四郎拝

御奉行様

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

ルソン壷と日比通交

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

豊臣秀吉とフィリピン総督(伊川「豊臣秀吉とスペイン」坂東省次・川筬洋編『日本・スペイン交流史」れんが書房新社、2010年b)

*豊臣秀吉使節原田孫七郎(1591年11月11日付書簡)

*ゴメス・ペレス・ダス・マリーニヤス使節フアン・コーポ(1592年6月11日付書簡)

*豊臣秀吉使節長谷川宗仁(天正20年7月21日付書簡)

*ゴメス・ペレス・ダス・マリーニヤス使節ペドロ・バウテイスタ(1593年5月20日付書簡)

*豊臣秀吉使節(ペドロ・ゴンサレス・カルバハル?)(年月日未詳書簡および1593年12月24日付書簡?)

*ルイス・ペレス・ダス・マリーニヤス使節ジェローニモ・デ・ジェスス(1595年4月24日付書簡)

この当時、豊臣秀吉とスペインのフィリピン総督の間で、公式関係樹立の模索がなされ

ていたということはご承知の方も多いのではないかと思います。それは最初から通商関係

だったということではなくて、豊臣秀吉が服属要求をするという、非常にきな臭い環境下で交渉がスタートをしてまいります。原田孫七郎という人物をフィリピンに派遣をして、朝貢要求をするわけです。これに対して、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリー

ニヤスが、第1次使節フアン・コーポを秀吉の下に派遣し、そこから交渉がスタートをしていくということになります。

当時は、文禄・慶長の役、つまり朝鮮侵略の最中でしたので、その戦況なども踏まえながら、日本が朝鮮半島において戦争を有利に進めている。明を傘下に治めるのも時間の問

題であって、この段階で朝貢をしなければ、フィリピンに派兵することもあり得ると非常

に強硬な姿勢で、秀吉は朝貢要求をする。もちろんこれは実態とかけ離れた外交上の措辞

であるということは言うまでもないわけですけれども、そのような姿勢を取るわけです。

これに対して、例えば第z次使節のペドロ・バウティスタの場合ですと、朝貢はしない、

つまりフィリピン総督の使者であるペドロ・バウテイスタとしては、臣従を誓うのは神と

スペイン国王だけだというようなことを言って、朝貢は拒否するという態度を取ります。

朝貢要求だけを取り出してみると豊臣秀吉の強硬な対外姿勢という、文言を見る限りで

は間違いなくそうなのですが、イメージがあるわけですけれども、実はペドロ・バウティ

スタに関しては、少なくとも彼が報告するところによると豊臣秀吉は柔軟に応じていま

す。つまり朝貢はしないけれども、友好関係は結んでいきたいということをペドロ・バウ

ティスタは述べるわけですけれども、それに対しては非常に冷静とも思える受け止めをし

ているということをペドロ・バウテイスタは報告をしています(伊川ZO10a,39ページ)。

ところが、そういうことがある中で、その後にさらに第3次使節ジェローニモ・デ・

ジェススが派遣されるのですが、ご承知のとおりサンーフェリペ号事件が起こり、日本側

がスペインに日本侵略の意図があるという疑念を抱くことで、対スペイン関係が悪化して

いくというのはご承知のとおりだと思います。このような、真剣に関係を構築していくた

めのやり取りがされているというのが、公式レベルの関係という形になります。

では、それ以外に、豊臣秀吉の関わりをも含めながら、商人がしばしば貿易を求めてル

ソンに行っているということは先ほど来、お話ししているとおりなのですが、それをどの

ような体制の中で統括していこうと考えられていたのかについて、試みにイ、ロ、ハの三つのステップで考えてみたいと思います。

まずは、一つはイ)現地、ルソン島、フィリピンでの状況。ロ)二つ目としては、日

本一フィリピン関係を、どうしていくのか。両者をつなぐルートをどうしていこうかとい

九駒井孫五郎他るすん壷売却代金請取状

請取るすん壷京都にて寅侯代金之事

合拾参枚四両者

右民部法印(前田玄以)へ出所之面皆済如件。

文禄三年十二月+一日石田治部少輔内駒井孫五郎(花押)

長東大蔵内竹内伊右衛門(花押)

増田右衛門尉内上原久兵衛(花押)

わかさ甚四郎

なりますので、これと対応する内容ということになります。こういうものから交易の実態

も分かってくるということになってまいります。

先行研究を見てみると、今、お話ししたような事例を全て扱っているというよりは、そ

れぞれの研究が、それぞれのご関心で、それぞれの史料を引用しているという形になると

思いますので、こちらで現段階で把握できている情報をまず並べてみるとどういうことに

なるだろうかというのが、以上の主旨でした。その中から、時間もかなり来ていますの

で、簡単にですけれども、このときのルソン壷交易をめぐる日本一フィリピン関係がどの

ようなものがイメージ、交易システムとしてイメージされていたのかという話をして、ま

とめに代えさせていただきたいと思います。

‐163--162-

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

う話。ハ)最後は日本国内で、着いたルソン壷をどうしていこうかという動きについて、

今まで基本的にお話しした内容に含まれているのですが、雑然と読むだけではなくて、ま

とめて簡単に考えて締めくくりたいと思います。

なお話もございましたけれども、この段階でも確かに海の安全が保障されていない状況のなか、安全に通商関係を継続していくためにどのような措置が必要なのかということが問題となるのですけれども、まだこの辺の議論は書いてはみたものの、厳密に詰め切れているわけではないのですが、まずやはり一番必、要なのは、フィリピンに対して、ある船が海賊船でないということを示す手段をはっきりさせるということであろうと思います。これは当時の東アジア海域ではこの問題だけではなくて、先ほど鄭氏政権の信牌の話などもございましたし、少し前の時代では勘合ももちろん、広い意味では同じ役割を持っていると考えられますので、ある程度、一般性を持つ課題ということができると思いますが、この場合も、海賊船と商業船を識別する方法が模索をされているということになります。

第2には、フィリピンから日本に来るというだけではなくて、やはり日本からフィリピンへ渡航する船を許可するということが必要になってくる。

第3は具体的に、商業船を識別したところで安全を確保しないと、海賊禁止令などが出た後ということにはなりますけれども、それではどう、現実の環シナ海域の安全を確保するかということが課題になってくる。これは引き続き、徳川政権になっても課題にはなると思いますけれども、そのようなことが協議をされるということになります。

このうち第1の点については前掲「史料3」にのみ記されているということで、(岩生成-1985)から引用した。これもペドロ・バウテイスタ書簡です。もともと、元ネタを少し探したのですが、まだたどり着くことができなくて、このような形で孫引きをさせていただきました。

ここでいう、つまり海賊船と商業船の識別方法をどのように構築するか。その具体的な方法が朱印船貿易につながる、直結するシステムといえるのか、いえないのかということに関しては、級密な議論が必要になってくるだろうと思います。(伊川2010a)に仮に売

ルソン壷交易と日比通交(伊川)

市場はルソン島である

ルイス・フロイス『日本史」:1591年以来壷が注目される

1595年イエズス会日本年報:フィリピンでは廉価で取引

ペドロ・バウテイスタ4号書簡:現地で2,000タエル?

アントニオ・デ・モルガ『フィリピン諸島誌』:市場はマニラ、パンパンガ、パ

ンガシナン及びイロコス諸州、もうほとんど壷はなくなっている

jイ●●●●

ルソン島での状況ですね。このような形で簡単に言うとまとめられると思います。フロ

イス『日本史」(資料3)によれば、ルソンにおけるルソン壷がどの段階から着目されて

いたのかということに関して、1591年以来と考えられます。全ての文献にいつからどの段

階で取引されているということが明記されているわけではありませんので、このあたり、

どこまでこの91年という数に信用を置けるのかどうかというのは、もう少し精査してみな

いと断言はできませんが、この頃にはこのようなことになります。

あとは、ルソン壷の現地フィリピンにおける扱いに対してはいろいろな議論があると思

います。ただ、壷として場合によっては使われていたのだと思いますね。一方ではそうで

はなくて、やはり現地フィリピンでも神聖なものとして扱われていたというような議論も

あります。「日本年報』(資料4)ではフィリピンでは廉価であると書かれている。ペド

ロ・バウテイスタの情報(資料5)はにわかには断定できません。2,000タエルといわれて

いる価格が、現地でということなのか、現地で買ったものが日本で取引される際のものな

のか、両様に解釈できると思いますので、断言はできませんけれども、現地でも高いとい

うことを書いている可能性もあるように思います。

市場は、ルソン島の中でも北部であるとされています。モルガ『フィリピン諸島誌』

(資料7)は、1609年の初版ですので、その段階では既にあの壷はほとんどなくなってい

ることが報告をされています。

ハ)

日本での購入は豊臣秀吉に優先権がある

ルイス・フロイス『日本史』:修道士→フィリピン総督との交渉によりすべての壷の購入を計画

1595年イエズス会日本年報:買占めには厳罰を科す

ぺドロ・バウテイスタ7号書簡:壷の輸入を原田喜右衛門と長谷川法眼に限定

フランチェスコ・カルレッテイ『世界旅行記』:長崎奉行に命じて船中の壷を調査

『太閤記」:助左衛門の壷を秀吉へみせる

『当代記」:壷を秀吉が買い取り、かつ本主へ返す

「松浦家文書」:五島の唐船の壷を秀吉にみせる

●●●●●●

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りがあるとしたら、以上の点を指摘したことにあるのだろうと自分では思っています。

そういうものとは別に、日本における体制ですね。先ほども申し上げましたとおり、豊臣秀吉が壷に対して執念を燃やしていたということはしばしば言及をされている。ただ、具体的にどういう形で収集を図っていったのかということが、やはりさっきのフランチェスコ・カルレッテイ(資料8.9)、水際で、先ほどの解釈が正しいものであるとすれば、長崎、現地で制度を通じて壷を調査するというようなことをしているわけです。これがどこまで時期的に、場所なんかも含めて、さっきの松浦家文書(資料10)だと五島になりますので、そういう事例だとか、あとは『太閤記』の事例(資料1)だと堺から壷を、堺の石田三成の兄ですね、石田木工助なる奉行を通じて秀吉に見せたというようなことが書かれている。そうした事例をいかに一般化できるかどうか。場合によっては、時期によって、カルレッテイは1597年、秀吉の最晩年ですので、その頃と、例えば1594~1595年のあたりでは少し体制が違っているだとか、いろいろな可能性があるわけですけれども、少なくともカルレッティの段階では恐らく現地で押さえようとしている。ここまで強

日比関係の確立については、ペドロ・バウティスタが3種類の提案をしています。その

うち、研究史上最も議論があるのは、フィリピンと日本の航路を確立するときに、果たし

て、どういう条件で可能であるのかということになると思います。朝貢は論外として、通

商関係を取るとしても、具体的に当時、先ほど倭冠的状況が「鎖国」まで続くというよう

-164- ‐165-

ロ)フィリピンとの航路確立のための制度設計が議論となる

→ペドロ・バウティスタの交渉

バウティスタの提案を3種類に分類することができよう。ひとつは、日本からフィリピ

ンへ赴く船が海賊船ではないことを示す手段の構築、第2には、日本からフィリピンへ

渡航する船を許可すること、第3は、フィリピンから日本へ渡航する船の安全の確保で

ある。管見のところ、第1の点は史料3にのみ、第2の点は『日本王国記」にのみ確認

できる。(伊)|l2OlOa、38~9ページ)

*上記伊)llZO10aで言及された「史料3」

日本皇帝は、友好国間の平和をみだすような同国、または他の国の海賊や密貿易船を

禁止すべし。通商のために渡航したことにまったく疑がないことを、フィリピン当局

に証明するために、皇帝は船長に帝の印章と署名のある特許状を与え、その印章と署

名をマニラの長官に提示すべきこと。(岩生成一『新版朱印船貿易史の研究」吉)|’

弘文館、1985年、51ページ)

総合討論

硬な姿勢は秀吉時代の特徴だろうということは申し上げたのですが、君主が交易に関するある程度の優先権を主張するということは、実は室町幕府の段階でも遣明船が兵庫に着いたときに、将軍足利義政および管領細川勝元が使者を送っている(『康富記」享徳3年(1454)10月5.15日条)だとか、そういう事例などもありますので、そういう中から確

認することができます。

他の時代の事例というのは限られていますので、どこまでこれを一般化できるかどうか

は分からないのですが、むしろそういう中の一つの慣習として捉えるという可能性もあり得るのか。これは想像の域を出ないのですけれども、そういう時代的、地域的なつながり、もっと言うと明の朝貢体制、あれも原則で言えば朝貢貿易を中心とした交易ですので、そういうものとの類似性、相違点なんかも含めて、考えるべき問題なのだろうと考えています。

現時点ではまだまだ詰め切れていない点、情報収集が不十分な点もありますが、壷そのものの情報が不足した内容となってしまい、こういう場でどこまでふさわしい話だったかというところはあるのですけれども、皆さんの忌憧のないご意見を頂ければと思います。

以上です。ありがとうございました。

貿易陶磁と文献史料から東アジア・東南アジアの歴史を考える

総合討論モデレーター:弘末雅士(立教大学)

上田:それでは、それぞれ思っているところ、あるいは足りなかったことをぜひ展開して

いただければと思います。それではモデレーターとして弘末先生、お願いします。

弘末:総合討論の進行役をさせていただきます弘末でございます。

前提としまして、中国史の専門でない人間には、景徳鎮や竜泉から積出港に陶磁器を運

搬するために、どういう商業的なネットワークが組織されて、どういう商品が入ったのか

がいまひとつよく分かりませんので、その点も含めてお話を頂けますでしょうか。よろし

くお願いいたします。

金沢:積出港につきましては、景徳鎮は、基本的には広東に出すのでなければ、長江の方

をぐるっと回って漸江省の方に出て来る。それが集積されて、おそらく沿海地方の有力者

ないし海商が集めて、それを外から来る商人に販売するという形態だろうと思います。そ

れから、沿海地方産の陶磁器はそれこそそれぞれの港町に、幾つかの拠点があるところに

出して来る。また福建などの内陸の窯からも河運の便で海岸に出て来て、それを海船に載

せて行くということになると思います。

かつて、時代の差はあるんですけど、少し前の時代の沈没船を見ていますと、川などか

ら沿海地方に商品を出して来るときは一つの窯場のものだけを載せる。例えば磁州窯なら

磁州窯のものばかり載せた船が沈んでおります。それは引き上げてみると、平底の川船、

あるいは沿海用の船。ところが泉州で沈んでいたり、韓国の新安沖で沈んでいたりしたも

のを見ると、混載をしています。景徳鎖のものがあるかと思えば、青磁をたくさん積んで

いて、時代が下がれば、さまざまな福建省のものを積んでいてというようなことで、海

船、底の三角の海船で出すときには混載をして出す。その積み替え拠点が沿海地方にあっ

たんだろうというふうに想像しますけど、まだこれも十分には勉強し切れてないというこ

とでございます。

質疑応答

弘末:背景、前提としてのお話ですが、秀吉がルソン壷にこだわり、独占的に入手したいと思ったかは分かりましたが、当時の日本の代表的な輸入品であった生糸や蘇木、シカ

皮、それから火器でしょうか。こういうものに対して同様に秀吉がこだわりをみせたので

しょうか。ちょっと教えていただけますでしょうか。

伊川:そうですね。ありがとうございます。非常に重要なご指摘だと思います。

まだ実はこの時期、総括的に見ていないところがあるのですけれども、ただ生糸に関し

て、イエズス会を通じて交易をマカオとおこなっていたところがございます。もちろん日本側の窓口は長崎ということになりますので、そこを通じた。もちろんご承知のとおり、

江戸時代以降になると海禁なんかも出てきますので、そういう流れの中で、まだちょっと

具体的に検討したことはないのですけれども、そのようなものはあっただろうというふう

に思います。磨香に関しては、一般的にどうだったのかというのは分からないのですけれども、先ほどの記録の中で、やはり鷹香を秀吉が所望していたという記録が出てきます。その他、香料に関しては、やはり伝統的にこの段階だと何とも言えないところがあるのですけれども、交易対象になっているところが日明貿易なんかでは出てきますので、そうで

すね、秀吉の段階でどうだったか、ちょっと宿題とさせていただきたいと思うのですけれども、やはりルソン壷も含めて、交易港も秀吉の段階では、長崎に限定はされていなかっ

た。この段階ではされていないと思いますけれども、ある程度、やはり窓口を絞った統制というものを長崎奉行設置だとか直轄化する中で、考えていたということは状況としては

想像はできますので、そういう形でのやはり統制というものは考えていた可能性はあるだろうと、一般的なお話で少しピンぼけのような解答になってしまうのですけれども、そのようには考えております。より具体的なことは宿題にさせてください。ご質問ありがとう

ございます。

弘末:ありがとうございました。そうしますと、宮田さんの議論とも重なるのですが、マ

カオから景徳鎮の陶磁器が積み出されて行く場合、これはいったん長江や沿岸部まで出し

てきたものを、船でマカオまで積み出したと考えるのが妥当でしょうか。あるいは内陸部

からも積み出された可能性があるのでしょうか。

金沢:可能性はもちろん陸路経由のものはあると思うんですけど、先だって東洋陶磁学会

で備前に行きましたが、備前の窯場も港からは何キロか奥にありましたが、ものすごい大

喪を最初は担いで港まで出したようです。越前なども三国の港に出るのに、明治ぐらいま

で大要を担ぐ職人さんがいたということです。必ずしもそういうことが不可能ではないだ

ろうとは思いますが、大量に外洋に出して行くようなことになりますと、例えば上海出土

の、今は陸地になってしまっていますけれども、上海の沖を回ろうとして沈没した、そう

いったような船ですと、束ねた状態の碗Ⅲがわ-つと載っています。そういうような形態

で出して行くとなると、陸路はちょっと難しいかなというふうな印象を持っております。

弘末:ありがとうございました。宮田さん、それについて、スペイン語史料やポルトガル

語史料から付け加えられたいことはありませんか。

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平成25年度私立大学戦略的研究基盤形成支援事業

21世紀海域学の創成一「南洋」から南シナ海・インド洋・太平洋の現代的ビジョンヘー

研究報告書3

発行日:平成28年3月

発行:立教大学

発行者:立教大学アジア地域研究所

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