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þ - hachimanbori.com · kyoto shinbun tomato club n ý Ñ Ûæ à [Ñ Ûæ à [present ÄÚÄÞ¸...

Date post: 08-Nov-2018
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知って得して、見て得して、町の歴史 (7) 520 便FAX2答え:ホフマン釜 鷹飼町 牧町 川原町 M.T さん H.S さん K.Y さん 個人情報の為、イニシャルで表記 させて頂きました おめでとうございます! 2016 Vol.8 八幡堀界隈 158513 43 159510 貿400調159527 16 貿196338 角倉 了以(すみのくら りょうい) 天文23年(1554年) - 慶長19年(1614年) 朱印船貿易の開始とともに安南国(ベトナム)との貿 易を行った、戦国期の京都の豪商です。 八幡商人の西村太郎右衛門は25年間安南(ベ トナム)に進出し、朱印船貿易で活躍しました。 後、 長崎まで帰って来ましたが鎖国で、近江八幡に戻る 事の出来なかった八幡商人として有名です。西村家 が奉納した御朱印船の絵馬が国の重要文化財「安 南渡海船額」として日牟禮八幡宮にあります。 角倉了以の祖父・吉田宗忠は佐々木氏の分家で あり、もともとは近江国犬上郡吉田村出身とされ室 町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者として 仕えていました。実弟の吉田宗恂は豊臣秀次の医 者として仕えていました。その後、吉田家は医業で得 た財を元に土倉業を大きくしていきました。 角倉家は豊臣時代より成功していた商人で、地元 京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者であ る田辺朔郎と共に「水運の父」として有名です。 角倉了以は山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財 を投じて開削しました。同時に中京区木屋町三条に 秀次一族を弔い、お寺を建立しました。 別記①
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知って得して、見て得して、町の歴史知って得して、見て得して、町の歴史(7)

豊臣秀次が高野山で切腹し、三条河原で晒し首にされ、一族が処刑された場所

に京都の豪商、角倉了以によって建立されたお寺の名前は○○寺です。

(漢字二文字)を記入し応募下さい。

前回当選者の発表

抽選で5名様(葦うどんお食事ペア券・食事有効期限3月20日まで)

 

◆ご希望の方は答え○○寺・郵便番号・住所・氏名・電話番号を

ご記入の上、官製はがき又はFAXでご応募下さい。

お食事券を抽選でお送りします。当選者の発表は発送をもってご了承下さい。

(応募締切は2月5日)

答え:ホフマン釜

鷹飼町牧町川原町

M.T さんH.S さんK.Y さん

個人情報の為、イニシャルで表記させて頂きました

おめでとうございます!

2016 Vol.8

八幡堀界隈

近江八幡開町の祖「豊臣秀次」

 

1585(天正13)年、羽柴(豊臣)秀次は秀吉より

43万石を与えられ、琵琶湖の東岸、近江国八幡山に城を築き、

城下町を開町しました。この築城、町づくりは、自由商業都市を

目指して大々的に行われ、八幡山の掘鑿、沼沢地の埋立て、上下水道まで

都市計画として整備され、碁盤上に区切った城下町に居住区を設けて、安土城下など

の商人・職人を呼び寄せました。この築城の折に八幡山周囲に外堀として八幡堀を開

削しました。これは、八幡山城を防御する軍事的な役割と、当時の物流の要であった琵

琶湖の水運をつなぐ運河の役割を兼ね備え、東海道と中山道と北国街道が交差する陸

路交通の要衝である地の利も生かして、八幡浦は湖上三親浦(他に大津、堅田)のひ

とつに数えられる港町として栄えました。

 1595(文禄4)年、秀次の自害を受けて八幡山城は築城から10年足らずで廃城

となりました。しかし、城下町は商家町として存続し、京都・美濃国・伊勢国・若狭

国などの近隣地域が中心であった行商を、徐々に活動地域や事業を日本全国に拡大させ、

中には朱印船貿易を行う者も現れ、鎖国体制が整えられるまでは、安南屋(ベトナム)

や暹羅屋(シャム)など海外に進出する商家もありました。八幡商人は、地の利を活かし、

地場産物(畳表、蚊帳、米、など)を陸路や水路を利用して各地へ搬出し、各地の産

物を持ち帰り、再び各地へ送り出すといった「諸国産物回し」と呼ばれる商法によって、

各地の産業振興に貢献しました。

 現在の八幡堀は約400年の町の歴史そのものなのです。

 八幡を開町した、豊臣

秀次(とよとみ

ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代に

かけての武将・大名、豊臣氏の二代目関白です。豊臣秀吉の姉、(とも・瑞龍院日秀)

の長男として生まれ、弟に秀勝、秀保の三兄弟でした。幼少時、戦国大名浅井長政の

家臣宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は

吉継、通称を次兵衛とし、宮部

吉継(みやべ

よしつぐ)と名乗っていました。次いで

畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通

称は孫七郎とし、三好

信吉(みよし

よしのぶ)と名乗って三好家の名跡を継ぎ、豊臣

家の為に何度となく養子に出されました。

 秀吉が天下人になると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名、豊臣姓も下賜されま

した。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄

の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続しました。

 ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は

強制的に出家させられ、高野山青巌寺に蟄居となった後に1595(文禄4年)7月

に秀吉の命で切腹させられました。叔父である豊臣秀吉によって翻弄させられ、27才の

若き青年大名として散っていきました。

 秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に一族すべてが処刑されま

した。後(16年後)京都の豪商角倉了以(ご朱印船貿易・別記①) によって、

三条河原に菩提を弔うお寺が建立されました。

 また、秀次の母(とも・瑞龍院日秀)は死を逃れ出家し、秀次の菩提

を弔い、その後、後陽成天皇から瑞龍寺という寺号と寺領千石を賜りまし

た。瑞龍寺が村雲と呼ばれる地域にあり、寛永2年に日秀が亡くなると幕

府の命で貫首(かんじゅ。一般的な寺の住職に相当)を宮家か摂家の娘が

務めるという尼門跡寺院になったことから、瑞龍寺は村雲御所と呼ばれて

いました。村雲御所は1963(昭和38)年に秀次が城主だった近江八幡

城址がある八幡山の山頂に移りました。

角倉 了以(すみのくら りょうい) 天文23年(1554年) - 慶長19年(1614年)朱印船貿易の開始とともに安南国(ベトナム)との貿易を行った、戦国期の京都の豪商です。 八幡商人の西村太郎右衛門は25年間安南(ベトナム)に進出し、朱印船貿易で活躍しました。 後、長崎まで帰って来ましたが鎖国で、近江八幡に戻る事の出来なかった八幡商人として有名です。西村家が奉納した御朱印船の絵馬が国の重要文化財「安南渡海船額」として日牟禮八幡宮にあります。 角倉了以の祖父・吉田宗忠は佐々木氏の分家であり、もともとは近江国犬上郡吉田村出身とされ室町時代中期に上洛し室町幕府お抱えの医者として仕えていました。実弟の吉田宗恂は豊臣秀次の医者として仕えていました。その後、吉田家は医業で得た財を元に土倉業を大きくしていきました。 角倉家は豊臣時代より成功していた商人で、地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名です。 角倉了以は山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削しました。同時に中京区木屋町三条に秀次一族を弔い、お寺を建立しました。

別記①

(7)

万石を与えられ、琵琶湖の東岸、近江国八幡山に城を築き、

城下町を開町しました。この築城、町づくりは、自由商業都市を

目指して大々的に行われ、八幡山の掘鑿、沼沢地の埋立て、上下水道まで

都市計画として整備され、碁盤上に区切った城下町に居住区を設けて、安土城下など

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〒523-0867 近江八幡市魚屋町元9 京都新聞近江八幡販売所 TEL 32-2743 FAX 32-3504www.hachimanbori.com/

※必ずお誕生日を明記下さい

発行:ほのぼの通信(有)ラビットハウス 近江八幡市大杉町30-1 TEL0748-33-2914 発行責任者 髙木茂子

ご希望の方は郵便番号・住所・氏名・電話番号・

希望の一品をご記入の上、官製はがき又は

FAXでご応募下さい。抽選でお送りします。

当選者の発表は発送をもってご了承下さい。

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 1月31日当日消印有効

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〒523-0837 近江八幡市大杉町30-1営業時間/10:00~16:00 (土日祝17:00)定 休 日/水曜日 ℡ 0748-36-5115

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完全予約制国の重要文化的景観の第一号に選定された「近江八幡の水郷と八幡堀」は近江八幡観光のハイライトのひとつ。和舟に乗って舟上から昔ながらの商家や白漆喰壁・黒板塀の蔵屋敷をながめ近江八幡の歴史と文化の解説に耳をかたむけながら八幡堀をめぐります。

(税別)

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