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哲学相談のコミュニティ・アプローチとしての フィ...

Date post: 25-Jun-2020
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哲学相談のコミュニティ・アプローチとしての フィロソファー・イン・レジデンス 本間直樹、金和永、高橋綾、川崎唯史、菊竹智之、安谷屋剛夫 はじめに 本論は2部からなる。第1部では、学校教育現場で新しい哲学の活動として試みられ、取り入れらてきた「こ どものための哲学(philosophy for children)」、とくにハワイ大学で実践されている《Safe Community of Inquiry》およびその具体的な実践例としての「フィロソファー・イン・レジデンス」に着目し、それを1980 年前後に欧米を起点にして哲学者たちが始めた「哲学相談」の観点から考察する。それにより教育現場のみ ならず、他のさまざまな社会の組織やコミュニティにおける活動改善に貢献する「哲学者の活動」としてこ の活動を捉え直すことを試みる。第2部では、実際に試みられたこれらの哲学者の訪問活動を活動を行って いる当事者による「事例」というかたちで束ね、多様な現場のなかで共通する課題を考えるための素材を提 供することを試みる。 [注記:本文章は近日中に発刊されるオンライン雑誌《philosophers》に掲載が予定されている原稿を、暫 定的に公開したものであり、「課題設定による先導的人文・社会科学研究推進事業/「ケアと支え合いの文 化を地域コミュニティの内部から育てる臨床哲学の試み」研究2の報告の一部をなすものである。] / 1 27
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  • 哲学相談のコミュニティ・アプローチとしてのフィロソファー・イン・レジデンス

    本間直樹、金和永、高橋綾、川崎唯史、菊竹智之、安谷屋剛夫

    はじめに

    本論は2部からなる。第1部では、学校教育現場で新しい哲学の活動として試みられ、取り入れらてきた「こどものための哲学(philosophy for children)」、とくにハワイ大学で実践されている《Safe Community of Inquiry》およびその具体的な実践例としての「フィロソファー・イン・レジデンス」に着目し、それを1980年前後に欧米を起点にして哲学者たちが始めた「哲学相談」の観点から考察する。それにより教育現場のみならず、他のさまざまな社会の組織やコミュニティにおける活動改善に貢献する「哲学者の活動」としてこの活動を捉え直すことを試みる。第2部では、実際に試みられたこれらの哲学者の訪問活動を活動を行っている当事者による「事例」というかたちで束ね、多様な現場のなかで共通する課題を考えるための素材を提供することを試みる。

    [注記:本文章は近日中に発刊されるオンライン雑誌《philosophers》に掲載が予定されている原稿を、暫定的に公開したものであり、「課題設定による先導的人文・社会科学研究推進事業/「ケアと支え合いの文化を地域コミュニティの内部から育てる臨床哲学の試み」研究2の報告の一部をなすものである。]


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  • 第1部 フィロソファー・イン・レジデンス

    本間直樹

    1.Safe Community of Inquiry

     「こどものための哲学 Philosophy for Children」は1970年代からアメリカ合衆国を中心に始められ全世界に展開しつつある教育改革の試みである。この運動の創始者であるマシュー・リップマンは、教師によって与えられる知識を学ぶのではなく、教室での対話を生徒たちがみずから考えることを組み立てていくことを目標に、初等から中等までの一貫した教育において使用可能な教材とカリキュラムを考案し、その実施に努めた。  しかし、このリップマンの先見的な企図にもかかわらず、このレディ・メイドの教材とカリキュラ1ムは多様な事情や背景をもつ学校現場では導入が困難であったほか、リップマンらが作成した教材と大部なマニュアルを忙しい教師たちが十分に使いこなすことができなかったため、現在に至るまでアメリカ本国では本格的にこのカリキュラムの導入はなされていないのが現状である。リップマンが「こどものために」書いた哲学小説は、アメリカ人の文化様式にあわせた背景設定となっているため、他地域の文化的背景にある学校などでは翻訳や基本理解に関して困難が生じる、との指摘もなされている。また、オーストラリアやイギリスなど、哲学研究者と現場の教員とが協力して独自の教材やカリキュラムを考案し、現場で柔軟に改善していく形態が多様な学校現場に定着しやすい、という事実も指摘できるだろう。 本研究において着目するハワイ大学、トーマス・ジャクソンらの主導するハワイの学校での取り組みもその例外ではなく、独自のプログラムを学校において展開するものである。ジャクソンらの活動の名称、《p4c Hawai’i》は、リップマンの考案した名称とニックネームである《Philosophy for Children/P4C》に倣いつつも、それと区別しつつ《philosophy for children/p4c》という独自の名称を表現するものである。まず、ジャクソンは大学で教えられるアカデミックな哲学と明確に区別するために、小文字の《philosophy》を使用し、自らの取り組みを、「小文字の哲学の活動(little-p philosophical activity)」と呼んでいる。「この小文字の哲学という考えをとることによって、哲学は、正統な知識を求めて大文字の哲学で扱われる内容へと過剰に依存することから解放され、その代わりに、個人的なことであれ、公共のことであれ、学術的なものであれ、実生活に関わることであれ、どんな内容な話題からも始められる活動に焦点をおくことができるようになる。」  また、《children》に関しても、多数の移民を受け入れることにより多2文化の背景のなかで教育が行われるハワイ特有の事情を考慮し、教育の対象としての概念上の「こども」でも、理想的なこどものイメージでもなく、多様な事情や背景をもちつつ生きる一人一人のこどもを指すために、小文字のこども、と記されている。(なお、本稿では詳しく触れることができないが、リップマンのP4Cと異なる考えに立つ活動を表すものとして、イギリスおよび南アフリカで活躍するカリン・ムリスやブラジルのウォルター・オマール・コーハンらの活動は、philosophy with children, filosofia com crianças(こどもとともにする哲学)と呼ばれ、そこでは貧困や低識字率など、こどもたちのおかれる歴史的・社会的・政治的状況にあわせた教育活動が展開されている。筆者らは基本的にはこのようなリップマンのP4Cに対するオルタナティヴの活動に賛同しつつ、論争の的になる「ために for」という語を外した「こどもの哲学」  こども自身が哲学の主体となる、という意味をこめて  という表記を主張する一方で、ジャクソンらと同様にリップマンの意志に対するリスペクトをこめてP4C、p4cという表記も併用したいと考える。)

    マシュー・リップマン『探求の共同体』、河野哲也、土屋陽介、村瀬智之監訳、玉川大学出版、2014年。1

     Thomas  E.  Jackson,  “Home  Grown”  in  Educational  Perspectives,  vol.  44,  p.6.2

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  •  こうしたハワイp4cの取り組みは、《little-p philosophical activity in intellectually safe communities》または、《safe community of inquiry》という表現に象徴されている。community of inquiry、探究のコミュニティは、もともとチャールズ・サンダース・パースが科学者集団の実践を考察するために導入した考え方であったが、マシュー・リップマンがこれを教室での哲学対話の実践を指すものとして取り上げたことから、 「こどもための哲学」の中核をなす概念としてひろく受け入れられるようになった。例えば、リップ3

    マンは探究のコミュニティを特徴づけるaからoまでの15項目のうち、次の6つを最初にあげている。4

    a.包摂的である(inclusiveness)b.参加(participation)c.認知の共有(shared cognition)d.顔と顔が向き合った関係(face-to-face relationships)e.意味を求める(quest for meaning)f.社会的連帯を感じる(feelings of social solidarity)

    これらは、参加者全員の顔と身体が見えるように円になって座る、という探究の基本スタイルに象徴され、実行されている。リップマンにおいても、「議論」は一番最後の項目としてあげられており、包摂や参加、共有や連帯という基本的な関係が醸成されたあとで、はじめて問いや議論がやりとりされうる、と考えられていたことは注目に値するだろう。いずれにせよ、ハワイでの取り組みに限らず、このように顔と顔が向き合う関係のなかで、包摂、参加、意味の追求、連帯感をつくりあげていくということが、探究のコミュニティ形成の不可欠なプロセスであり、これはジョン・デューイのいう連結され共有された経験という意味でのデモクラシーの考え方を実行するものである。5 円になって対話するという探究のコミュニティのスタイルが、学校教育のみならず大人も含めたさまざまな人々の集まりにおいても有効である、ということは「こどものための哲学」の実践者たちによく知られている事実であり、筆者らがイギリス、フランス、オーストラリア、ハワイでの実践者たちにこのことを質問したところ、すべての者が有効であると答えた。とくにイギリスやオランダにおいて哲学対話を実践する哲学者たち(カリン・ムリス、ドリス・ボェルなど)は、P4Cの“C”を commuinty の頭文字に置き換えて転用し、《Philosophy for Community》という表現を用いて活動を展開している。つまり、リップマンの教材やカリキュラムにこだわらないならば、探究のコミュニティはさまざまな年齢の人たちとともに実践することができ、こどもに限らずさまざまな人たちを相手にした哲学対話の手法として展開可能なのである。つまり、「教室を探究のコミュニティに変容させる」というリップマンの変革の理念は、学校の教室のみならず、学校の教室同様に制度や形式によって身動きが取れなくなり自由に考えることが困難になった状況にある組織や集団についても応用が可能である、ということである。6

     先に触れたようにハワイp4cの特徴は、上で述べた community of inquiry に“safe”の語が冠されているところにある。探究がはじめられる教室は、教師と生徒のあいだ、生徒のあいだ、生徒が属する文化集団や

     リップマン前掲書第4章を参照。3

     リップマン前掲書pp136-‐‑‒137.  なおここでの訳語は原著に従って変更更している。4

     John  Dewey,  Democracy  and  Education,  in  The  Middle  Works,  1899-‐‑‒1924,  Vol.9:  1916,  Southern  Illinois  5

    University  Press,  London  and  Amsterdam,  1980.  p.93.

     P4Cが学校以外に応⽤用可能であることは、同時になぜP4Cが学校でなされなければいけないか、という理理由も⽰示6

    している。なぜなら、こどもたちが最初に経験する組織や集団である学校においてこれを経験することは、それ以降降に彼ら彼⼥女女らが⽣生きていく社会のさまざまな組織や集団のなかで探求のコミュニティの活動を発展させていくための必要不不可⽋欠な条件であるからである。これは、デューイ、リップマンに共通する教育の理理念念といってよい。デューイによれば、学校教育は「社会」に出る前の準備段階ではなく、学校での⽣生活こそがこどもたちにとってのリアルな社会環境なのである。

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  • 社会階層において働くさまざまな力関係によって支配されている。教室での関係が等質で平等であるべき、という考えはあくまでも教師の抱く理想にすぎない。円になって座りそれぞれが自由に話しはじめ、教師という権威や力がそこで弱められるに応じて、上記のことに由来するさまざまな力関係が円のなかに浮かび上がってくる。ハワイp4cはこうした現実をゆっくりと時間をかけて教師と生徒がともに認識でき、その現実やそれに関連する内容について問いを用いて考えられるようになることを重視している。 ジャクソンは《intellectually safe community》という考えを提案し、身体や精神のみならず、「知る」「考える」という知的態度や活動におけるセーフティをも重視している。この intellectual safety は、防御や防衛によって守られた安全や安心のことではなく、むしろ強張りや執着、恐れや不安から解放された知の態度と理解することができる。  筆者らは、このセーフティを日本で紹介するにあたって、安全、安心という7語ではなく、「大丈夫か」「大丈夫と思えるか」という言い方、もしくはそのような気遣いの仕方を通して実演、実行するようにしている。「安心できる」というしばしば用いられるフレーズは、とりわけ今日の文脈では、信頼しあいながら探究に向かう態度ではなく、守られて居心地のいい状態にとどまりどちらかといえば他人と没交渉になる状態、と理解されやすい。「安心」という語は「守られている状態」「居心地のよさ」と混同され、他人とのあいだにある垣根を越えるよりは、それに守られることを望む状態として受け取られやすい傾向にあることが、筆者らのこれまでの実践の経験から明らかになった。ここでは、intellectually safe を「知的に解放された」と理解することを提案したい。ジャクソンによれば、「私は知らない」と言えない場では、人は intellectually safe ではない。つまり、「知らない」と言えないような何らかの力が、本人のなかで、もしくは外から働き、そう感じられているとき、そこには知る者と知らない者のあいだになんらかの抑圧的な力が働いていると考えられる。intellectually safe とは、そのような抑圧された状態にまず気づき、そこから解かれるための自他へのさまざまな配慮を意味しているはずである。いずれにせよ、セーフティとはなんらかの注意を私たちに喚起させるものであり、その意味でケアリングの態度なしにはそれについて考えることも行為することもできない。セーフティへの配慮や注意は、利己的ないし利他的に計算される結果としのて行為ではなく、自己、他者、その他の事物に対する関係のなかで、潜在的であれ意識的であれ、常に実践されている態度なのである。intellectually safe community とは、そうした自他へのケアリングの態度を自覚的に遂行できるようになり、とくにそれを「知る」「考える」という場面でも活かすことができるようになることを目指す活動である。 このハワイp4cの中核をなす考え方と実践は、教8育現場での対話のみならず、人々のあいだで対話を実践する哲学相談にとって極めて重要な方向を示していると思われる。

     本間直樹「哲学者の実践としての〈探究のコミュニティ〉」『臨臨床哲学』vol.14-‐‑‒1.  2012年年,  pp.18-‐‑‒21参照。また7

    ジャクソンへのインタビューのなかで、彼は⾃自らの実践がデイヴィッド・ボームの対話(D.  ボーム『ダイアローグ』英治出版、2007年年)とジッドゥ・クリシュナムルティに⼤大きく影響を受けてることを話している。とくにクリシュナムルティは不不安や防御からの解放を訴えており、彼の「観察」「中⼼心のない注意」という態度度はジャクソンの実践の中核に位置し、この点で哲学相談との重要な接点がみられると筆者らは考え、こうした点からも  safety  をクリシュナムルティが批判しているセキュリティから区別するために、「解放」という観点から解釈する。

    この点は、P4Cの実践者のあいだでもしばしば疑問の出されることの多い《caring thinking》に深く関わっている。8ケアリングにおいてはつねに関係に注意が向けられる。

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  • 2.フィロソファー・イン・レジデンス

     ハワイp4cに代表される、知的に解放されたコミュニティでの探究の意義は、目的も計画も積極的に設けず、何かを解決したり変えたりしなければならないという圧力なしに、単純な問いに参加者ひとりひとりが答えるなかで現れてくる意味を見つめ直すことにある。ところが、とくに近年顕著であるように、行政や地域などから目的や計画の策定とその達成が学校に求められ、教師が忍耐強く時間をかけて探究と対話を実施するのがよりむずかしくなっているのも事実であろう。また教師は生徒に向かうだけでなく、学校という組織の構成員でもある。教師が個々に奮闘しても組織のなかで孤立したり、疲弊したりするという状況も十分考えられる。生徒だけでなく、教師が互いに理解を深め、助けあうことのできるような関係づくりや学校という組織がかかえる課題について話しあえる環境づくりも重要となる。 ハワイ大学での実践においてとりわけ注目されるのが、《フィロソファー・イン・レジデンス Philosopher in Residence(PIR)》という取り組みである。これは、教師ではなく「哲学者」と呼ばれる外部の者が学校を定期訪問または長期滞在し、学校や地域でのさまざまな営みに参与しつつ、教室だけでなく学校全体をセーフな探究のためのコミュニティに変容させていく、という試みを指している。 ハワイ大学でp4cを実践するベンジャミン・ルケイは、ハワイのカイルア高校にほぼ毎日のように通い、対話による探究を行う授業を担当するだけでなく、その他の教科の教師の補助を行ったり、授業以外の教師の業務を手助けしたり、教員会議に協力したり、学校行事に参加したりすることを通して、学校全体への関わりによって知的に解放されたコミュニティづくりを実現しようとしている。 哲学者は学校のなかのそれ9ぞれの場面で、「当たり前とされていること」や「理解」の前提と思われていることがらに関与者たちの目を向けさせ、それらを対話による探究を通してともに問い、自覚化を促していく。授業への関わりついても、対話による探究はかならずしも「哲学」という名称が掲げられた特定の教科のなかだけでなされるわけではないので、さまざまな教科のなかで担当する教師たちと相談しながら、使用される教材に関連した対話の仕方を考案することができる。 会議という場面においても、対話を通して「議題」や「課題」として掲げら10れていること以外にも目を向けさせながら、教師たちのあいだで何が共通に理解されているのか、されていないのか、議論の前提となっているものは何かを明らかにするのに貢献ことができる。いずれにしても、特定の役割に縛られず、知る・理解する・考えるということに関して、解き放たれた自由な態度で臨めるような場づくり(つまり、知的に解放されたコミュニティの形成)が活動の核となっている。 こうしたPIRの特徴を、ハワイの事例だけでなく筆者自身の具体的な経験から得た観察も交えながら、以下にあげてみよう。

    1.目にみえる哲学者の存在

    対話による探究は、教科書が存在しないだけでなく、探究の成果が目に見えるかたちもとして現れにくいため、何がなされているのかが分かりにくい。とりわけ対話においては、話されたことだけではなく、生身の身体によって目の前で繰り出されていくさまざまな表現が大きな意味をもつ。耳をすましてじっと聴く姿勢を保つ、ということがその例である。哲学者が学校の空間のなかに常駐することにより、学問分野や教科、方法や手順としての哲学ではなく、対話と探究を教室の内外でさまざまな仕方で体現する人物としての哲学者を演じ、その者がさまざまなひとたちが哲学に触れるためのアクセスポイント

     Benjamin  Lukey,  “The  High  School  Philosopher  in  Residence:  What  Philosophy  and  Philosophers  Can  Offer  9

    Schools,”  in  in  Educational  Perspectives,  vol.  44,  p.6.

     トーマス・ジャクソンは、W  (what  do  you  mean?  =意味)、A(assumption=当たり前と考えられていること10

    がら・前提)、R(reason=理理由)、T(truth=真)  、E(example=例例)、  C(counter-‐‑‒example=反例例)、I(inference=推理理)、H(hypothesis=仮説)の⼋八つを、探究をすすめるための思考の道具としてパッケージ化し、「哲学者の道具箱」(Good  Thinkers  Toolbox)と呼んでいる。もちろんこれらは、教科にもとづく課題についても、⾝身の周りの現実の問題についても、どちらも同じように「考える」ための道具として使⽤用することができる。

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  • (ガイド、キーパーソン)になることができる。また哲学者は教師という特定の役割をもつのではなく、学校という組織内の活動に横断的に関わることもできる。

    2.組織内のより多くの人たちを巻き込むアクティヴィティ

    学校では、学年、各教科、生徒指導、進路指導、カウンセリング、など部署によってスタッフが分断され、互いのことを知らず、コミュニケーション不全に陥ることが少なくない。哲学者はこのようなセクションを横断するようなさまざまなアクティヴィティを提案し、教師のみならず保護者も含めたコミュニティ形成に一役買うことができる。哲学者は、教科としての哲学での探究のコミュニティが育まれるに先立って、いろんなひとが関われるアクティヴィティを実行する。(ハワイ、アラワイ小学校では、こどもたちの家庭が文化的に多様性であるうえに貧富の差も大きく、なかには修学旅行の積立をできない家庭もある。トーマス・ヨスはPIRとしてこの学校になんでもする人として雇用され、教科のためではない教室を与えられ、さまざまな人の相談や教科の手伝いなどさまざまなことをしている。彼は教室内に昼休みに購買部を仮設し、こどもたちのボランティアのもと、そこであげられた収益を修学旅行に行けないこどもたちに寄付をしている。)

    3.リアルなことがらの探究

    学校内では、生徒間の対立や教師と生徒のあいだでの不信などがたえず生じ、生徒も教師たちはそのような現実に日々直面している。ジャクソンによれば《little-p philosophy》は生徒や教師たちがこうした日々直面する現実について考えることを重視している。哲学者は知的に解放されたコミュニティをつくりながら、参加者にこうした現実について語りあうことを促し、語られたことを解決すべき「問題」として見なすのではなく、語られた内容にどのような意味が含まれているのかを探究できるように準備を行う。哲学者が学校に長時間滞在することにより、教科の時間のなかだけでなく、さまざまな機会を通して生徒や教師たちの経験する場に身を置き、たとえ部分的であっても知覚を共有し、語られにくかったり、理解が難しかったりするような事柄について話しあい、探究をすすめることを容易にすることができる。

     以上のことから明らかなように、PIRの取り組みにおける哲学者は、教室のなかで生徒にいかに教えるか、という狭義の教育に向かうのではなく、学校という場に関わるさまざまなひとたちが巻き込まれる活動を展開することを通して、知的に解放されたコミュニティを醸成し、生徒や教師をとりまくさまざまな現実について対話し探究を進めるという使命をもっている。哲学者はこうした現実についてなにか判断を示すのではなく、それぞれの者に対して、あなたはこの現実について何を知っているのか、何を理解しているのか、日ごろはどのような反応を繰り返しているのか、を問う。哲学者は何かを教えるのではなく、哲学的な探究の態度や姿勢がコミュニティのすべてのメンバーにとって共有され、。メンバーそれぞれが little philosopher、 つまり探究を始める者として、にとって自覚的に遂行できるよう、ケアと促しを行っていくのである。いわばそれはある種の知的な「環境保全」の取り組みになぞらえられるだろう。 こうした関わりは、教師と哲学者という存在の違いを考えるうえで重要であると考えられる。教師は、「知る者」として知らない者を教え導くという役割を果たす。それに対し、哲学者は「知らない者」として教師にも生徒にも同等に関係をもつ。例えば、ある教科の補助者として授業に参画する場合、哲学者は教師に対しては「教えるべき知識とは何か」を問うことができ、生徒に対しては「教えられるべき知識は何か」を問うことができる。つまり、双方に対して「知るとはどういうことか」を問うているのだ。フィロソフィ philo-sophy は、わたしたちの知への関係を明らかにする営みである。哲学者は知識の移転には関心を向けず、ひとが知らない(理解しない)という状態に常に焦点を定め、知るということがどういうことなのかを問いただす。同様の関わりは教師間に対してももつことができる。国語の教師と数学の教師のあいだでは「教えるとは何をすることなのか」、校長と担任のあいだでは「学校とはどういう場所なのか」を問うことができる。もちろん、PIRであるからには、超然とした態度で問うのではなく、さまざまな事柄に参与しつつ、

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  • それらをともに見聞きしながら、個々の具体的な点に即して、それが個々の関与者にとってどのように理解され、あるいは理解されていないのかともにを吟味し、積極的に理解の共有がもたらされるように働きかける必要がある。 以上でみたように、PIRの活動は、むしろ教育者の役割としてではなく、哲学者がある組織や集団のなかでどのような働きをするのか、という観点から捉えた方がより適切に理解されるように思われる。教育現場に限らず、対話による探究を促す哲学者という存在が、どのような組織や現場、集団やコミュニティに参与する場合でも共通して果たす役割は何であろうか。そこで、次章では、教育の文脈でを離れてより一般的に哲学者の働きを考察するために、「哲学相談」と呼ばれている活動を紹介し、PIRを哲学相談のひとつのあり方として再定義してみたい。

    3.哲学相談のコミュニティ・アプローチ

     哲学相談 とは、ヨーロッパを中心に1980年ごろから知られるようになり徐々に世界各地に広まりつつあ11る哲学者の活動であり、哲学者が個人や組織のメンバーを相手に対話を行い、さまざまな問題をともに考えることを通して行動や活動の自覚と変化を目指す営みである。現在、世界のさまざまな地域においてこうした活動は展開されているが、とくにオランダ、イギリスなどの地域においては、個人の相談だけでなく、組織の倫理コンサルテーションなどにも応用されている。 哲学相談と聞くと、心理相談や法律相談との連想から、「カウンセリング」「傾聴」「アドバイス」「知識伝達」といった専門家役割が想定されやすいのも事実である。しかし哲学相談を特徴づけているのもまた、対話と問答による探究である。哲学相談は、相互理解に向けた情報交換や合意を目指した議論・討議や交渉、専門的助言とは異なり、《問いを通してともになされる自己省察》である。 哲学が大学で講じられるよう12になった近現代の社会においては哲学相談は新奇な試みとして受けとめられがちであるが、古代になされていた哲学の実践に照らしあわせてみれば、 むしろ途絶えていた哲学の伝統の復活と考えることができるだ13

    ろう。 例えば、ソクラテスやエピクテトスらの実践のなかに見出されるような《対話における真理》と14は、学問の基礎をなす明証的な手続きや経験でもなく、また、ある判断について社会通念や他者の意見との合致や、と諸言明のあいだの無矛盾性を追求するのではなく、むしろある個の人生なかでの一貫性や整合性に関して問われるものである。こうした一貫性は単なる思考上の論理的に矛盾のない状態のことでもない。それは自己における真理、自己に対して現れる真理であり、自己自身に対して真の関係を結ぶことを意味する。 これは心理(学)的な自己開示とも宗教的な瞑想ともやはり異なり、他者との対話を通して自己自身15との関係を結びなおす作業であり、対話の経験のなかで共同してなされるものである。

     地域によってさまざまな呼ばれ⽅方がなされており、英語圏だけでも、philosophical  practice,  philosophical  11

    consultation,  philosophical  counselingなど、複数の名称が⽤用いられている。本稿でまとめて「哲学相談」と呼ぶことにした。なお、哲学相談について書かれた著作のなかで⽇日本語で読めるものとして、ピーター・B・ラービの『哲学カウンセリング:理理論論と実践』(法政⼤大学出版局、2006年年)があげられる。

     哲学相談に関する明確な定義づけはなされていないが、筆者らが1998年年から⾏行行っている哲学相談国際会議などを通12

    して知りあった実践者たち、ゲルト・アーヘンバッハ(ドイツ)、イーダ・ジョンクスマ(オランダ)、アンダース・リンドセット(ノルウェー)、オスカル・ブルニフィエ(フランス)、ルー・マリノフ(アメリカ)、ピーター・ハーテロー(オランダ)らとの直接の交流流から得られた共通項である。なお、哲学相談の理理解と発展のためにはこうした実践者相互の直接の交流流(つまりは対話)がきわめて重要な経験となることを申し添えておきたい。

     Pierre  Hadot,  Philosophy  as  a  Way  of  Life,  Blackwell,  1995.  また、古代の社会において、哲学者が相談者として13

    活躍していたことは、東⻄西を問わずよく知られている事実である。

     ⾃自⼰己の修練、⾃自⼰己の実践、⾃自⼰己のケアとしての哲学の伝統は、さまざまなかたちをとりながらデカルトの時代まで続14

    いていたと考えられる。cf.  ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(コレージュ・ド・フランス講義1981-‐‑‒82)、筑摩書房、2004年年。

    ピエール・アド(Pierre Hadot 前掲書)によれば、この関係は「スピリチュアリティ」と呼ばれる。15 / 7 27

  •  このような対話を通した自己省察を現代のより広い文脈のなかに据えてみるならば、パウロ・フレイレのいう「意識化」 やクリシュナムルティとボームのいう「観察」 という考えと実践と大きく重なってい16 17ると考えられる。両者とも対話をもっとも重視しており、対話こそが、わたしたちひとりひとりの思考や経験のに深く沈み込んでわたしたちを動かしてしまっている諸前提を見つめなおすための唯一の道である、と考えられている。ボームによれば、対話とは、対話の空間のなかで演じられる自他の関係を注視し、そこにあらわれているさまざまな考え(アサンプション:これはある考えや態度に対する「反応」として表面化することが多い)について自覚をもち、その意味を共同で探究するプロセスのことである。 より一般的にいえば、哲学相談とは、ある特定の状況でなされる哲学の対話を指すものであり、対話を通した探究を行うという点で、p4cの探究のコミュニティも哲学相談も、哲学の営みとして根底においてなされていることは同じというべきである。前章で扱ったフィロソファー・イン・レジデンス(PIR)と哲学相談を結びつけて考察するにより、こうした共役点を確認することができるとともに、両者の実践をたがいに補完しあう視点を提供することに役立つであろう。以下にこうした点をいくつかあげてみよう。 第1に、PIRは教育という分野にかぎらず多方面の活動に応用できる考えである。第2に、PIRは哲学相談に参与と活動という視点を付加する。第3に、哲学相談はPIRにおける哲学者の位置づけを明確にする。まず、PIRはその名称からして学校に限定されない組織やコミュニティでの哲学者の活動一般に用いることができる。PIRという名称は、ある組織やコミュニティに対して一定期間内在的に関わりながら、さまざまな活動に関与することを意味する優れた表現である。次に、PIRは組織やコミュニティに中長期的に参与しながら、さまざまな活動を通して対話による探究を促すという能動的役割を負うことから、相談室に座ってプライベートなカウンセリングを行うといういわゆる相談の一般的イメージから脱した幅広い活躍を哲学相談に期待することができる。p4cが教室から外に出て教育を実践する活動になりうるのと同じく、「コンサルティング」や「相談」もまた、相談室という密室から出て、わたしたちをとりまくリアルな諸経験との結びつきを保ち続けながら対話による探究がなされる多様な活動になりうる。対話は静的なものではなく、それ自体が活動であり、他の活動と連動するものである。最後に、「こどものための哲学」は、やはり最初の提唱者リップマンの影響のもと、教室のなかの教育実践と考えられがちなことに対して、これを教育や学校という組織、文化への自覚的・批判的関わりをもちながらこれらを探究する作業(フレイレのいう「意識化」)として捉え直すことができる。つまり、哲学相談としてのPIRは、もはや教師(の役割)ではなく、学習コミュニティ全体の変革に関わる者であることが明確になる。従来のアメリカの批判的思考の要請に応えて考案された「こどものための哲学」に欠けているのは、歴史と人間の視点であり、学校教育そのものが置かれている歴史的・社会的状況の自覚と意識化こそ、哲学と対話による探究によって追求されなければならない。それは言いかえれば「人間化」の視点である。フレイレは次のように述べる。

     歴史的な存在であり、必然的に探求の活動を他者と共に行なう人間が、自らの運動の主体になることを妨げられること、それは一つの暴力といえる。 だからこそ、いずれの状況でも、ある者が他の者に対して探求の主体として存在することを禁じれば、それは暴力として始動する。この禁止においてどのような手段を使うかということは関係がない。人間を客体化し、自己決定を疎外し、その決定権を他の人や他の人々に移すということ、それが暴力として始動する、といっているのである。 この探求の運動は人間のヒューマニゼーション(人間化)を求める、すなわち、より全き存在としての人間を求めるときに正当化することができる。一章で述べてきたことの繰り返しになるが、人間の歴史的使命は、非人間化というもともとの使命を否定するような現実に相対することであり、歴史のなかで確証される可能性を追うことである。その可能性は人間の前に挑戦として現れることはあるが、探求の行為の壁として現れるものではない。18

     Paulo  Freire,  Extension  or  Communication,  Seabury  Press,1973.16

     ボーム前掲書。17

     パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳、亜紀書房、2011年年)p.113。18

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  •  ここで、あらためてハワイでのPIRを哲学相談という観点からみた場合、つまり、哲学相談のコミュニティアプローチとして鍵となるポイントを確認しておこう。

    1. 生身の〈ひと〉としての哲学者:特定の知識や分野を指し示す《Philosophy》ではなく、いま目の前にいる《philosopher》が主役になっている。学問や教科、方法やスキルとしての哲学ではなくて、哲学を生きる仕方や態度を体現する哲学者という人格(パーソン)が、学校(組織)という空間に現れるということが、PIRの主眼になる。もちろん哲学者とは排他的・特権的存在ではなく、対話による探究への参加を通してだれでも哲学者になれる、ということを意味する。このことは、専門的知識やスキルをもつ者から援助や助言、指導や評価が与えられるという相談者、教師のイメージを変え、探究に参与し、分かち合う者というコミュニティの感覚を参与者に生じさせる。

    2. 解放:intellectual safety(=知的に解放されていること)をキー概念に、「知らない」「分からない」ということができ、本当に思っていることが言いあえる関係が重視されている。対話による探究を始めるにあたって、参与者ひとりひとりの思考が働きだす状況や関係性につねに注意が払われる。防御や攻撃という態度を解き、「ほんとうのことが言える」(これは(建前を前提にした)「本音を言う」ということとは大きく異なる)関係、自分自身に対するほんとうの関係、これは「自己のケア」(自分の真理への関係)は、あらゆる哲学対話、哲学相談において必要不可欠である。

    3. 注意:活動対話や探究がはじまり終わるまで持続される、知覚、感情、行為に対する注意。注意はわたしたちの内側にも外側にも同じように働きかけられる。対話による探究は無から始めらるのではなく、わたしたちの態度の変容や自覚の深化があってはじめて動き出す。教室という限定された空間のみならず、そのような空間が位置している環境全体への知覚とそこでの行為に注意が向けられてはじめて、探究がリアルなものとして働き出し、それによってその探究が行われている場そのものの変容につながる。ex. 円になって座るのに慣れるまでの時間、毛糸でボールを作り、それを他人にパスできるようになるまでの時間、etc.

    4. 活動としての探究:ハワイのp4cは、ことばのやりとりばかりに目が奪われがちな対話に身体活動の次元の重要性を教えてくれる。(実際、オスカル・ブルニフィエなど、哲学相談の実践者も、姿勢や態度を含む身体のあり方を重視する者も少なくない。)全身が隠されず見えるように座る、名前を呼びあう、毛糸のボールをパスしあうなどコミュニティの参与者どうして築かれるさまざまな関係のなかで、はじめて探究ははじめられる。ジャクソンのいうように、知的に解放されたコミュニティ(関係)は探究のための条件であり、その条件が整えられるために、哲学者はことばと身体を用いたさまざまな活動を組織していく。

     このようにハワイでのPIR活動を、教室における授業法ではなく、学校コミュニティにおける対話と探究による哲学相談の実践として捉えなおすことにより、PIRを学校現場のみならず、病院や福祉施設、地域の課題に対して哲学相談が取り組むための有効な実践例として考えることができるだろう。つまり、PIRは、一定期間ある集団活動のなかでなされる哲学相談の実践であり、この哲学相談のコミュニティアプローチでは、探究を通じてコミュニティが自覚と変容に至るための多様な活動・アクティヴィティを醸成してことが主要な役割となる。ここでの哲学相談は、相談室に一人座して相談者を迎える静的な役割に満足するのではなく、参与を通して文字通り「アクティヴ」に振る舞い、みずからアクティヴィティの生成と発展に貢献していく必要がある。哲学者は、こうしたアクティヴィティをたえずケアし、育むように知覚と行為をおこなっている。このアプローチが目指すのは、ある特殊な知識や学問としての哲学が人や組織に注入される、という「専門家役割」「注入モデル」「欠如モデル」を捨て去り、人や組織が全体としてみずから学習し変容していくためのアクティヴィティを人や組織のなかに産み育て、ケアをしていく、というコミュニティを通した自己のケアである。ここであらためて強調されるべきは、哲学者がケアという営みを担うことである。「p4cは教育を、哲学相談は治療やカウンセリングを」というように両者を二分する考えは、教育や相談の営みにフレイレのいうところ「反対話」 の前提をもちこみ、教育と相談の双方を「非人間化」することにな19

    フレイレ前掲書第四章参照。19 / 9 27

  • りかねない。フレイレのいうように対話こそが教育であり「人間化」と「解放」の実践である。教育にも相談にも通底しているケアの営みはつねにある主体によるある主体への関わりを意味し、単数・複数にかかわらず自己のケアの実践である。ケアの営みがわたしたちの実生活のなかで無数になされているように、哲学者によってなされるケアも多様で数かぎりない。対話もケアも、特定の状況やかたちに固定されることなく、その場に応じて自由に変容し、一貫した仕方で保たれる実践そのものである。したがって、哲学相談や哲学相談のコミュニティ・アプローチも固定したかたちはなく、「モデル」もない、といったほうが適当であると考えられる。そこで重要となるのは、古代のストアの哲学者たちがなしたように、豊富な実例を並べながら、多様でありながら一貫した姿を示していくことである。これまでも、そしてこれからも、PIR、つまり訪問哲学者の多様な実践例を積み重ねていくことこそが、わたしたちにとって唯一の課題であるように思われる。

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  • 第2部 フィロソファー・イン・レジデンス(PIR)事例集

    事例集について

    金和永、本間直樹

     この事例集は、臨床哲学に関わる者たちが、教育・定住外国人支援・医療現場といった社会の現場に足を運び、そこで果たしている具体的な役割について、各自が振り返った実践報告である。それぞれの者は個々の活動において第1部で述べられたようなフィロソファー・イン・レジデンス(PIR)の働きをかならずしも明確に意識していたわけではないが、いずれも哲学者の活動であることはまちがいなく、事後的であれ、PIRという観点から個々の実践を振り返ることにより、多様ではありながら果たされている共通の哲学者の活動の枠組みが描き出されることを意図した。

    なお、すべての稿について、項目はPIRの観点により以下のように統一されている。

    1. 「現場の概況」では、その現場のミッションや理念、また現在置かれている状況や課題について説明する。

    2. 「現場との関わりの経緯」では、報告者らが、その現場と関わりを持つに至った経緯を、報告者個人のつながりも含めて説明し、現場との具体的なつながりを明らかにする。

    3. 「活動の概要と哲学者としての役割」では、現在行なっている活動の具体的な概要に加えて、1,2で述べられたような現場の状況と関わりのなかで、報告者および協力者が現場で行なっていることと果たしている役割を、とくに哲学者の実践という観点から抽出・整理する。

    4. 「見えてきた課題」では、報告者が現場と関わり活動することを通じて見えてきたさまざまなレベルでの現場の課題を明らかにし、今後の関わりの展望について述べています。

    今後も哲学者の活動事例が書き加えられ、より一層厚い記述がつみ重ねられていくことによって、哲学者の他の活動の展開のための参考になり、また現場に関わることの様々な側面と哲学との関わりが見えるようになることを期待している。また、「事例」の記述の仕方もきわめて重要である。こうした事例集を編み続けることにより、今後さらなる試行を重ねていきたい。


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  • SPACE-N(専門的緩和ケア看護師養成プログラム)についての報告

    高橋綾

    1.現場の概況:緩和ケアに関わる人材、看護師の教育養成について

    緩和ケアとは、「生命を脅かす疾患に起因した諸問題に直面している患者と家族のQOLを改善する方策で、痛み、その他の身体的、心理社会的、スピリチュアルな諸問題を早期に同定し、適切な評価と治療によって苦痛の予防と緩和を行うことで、QOLを改善するアプローチ」(WHO,2002年)である。現在は世界的に、終末期だけでなく、早期からの緩和ケアの必要性が主張されている。日本では、2006年にがん対策推進基本計画が示され、「がんと診断された時からの緩和ケアの推進」(厚生労働省)が重視されている。そのため「がんに関わる医療従事者の基本的緩和ケアに対する知識・技術の習得」(厚生労働省、2012)が目標とされ、医師や看護師に対する基本的緩和ケアの教育の取組みが推進されている。 看護師に対する、基本的緩和ケアについての教育については、アメリカで開発されたELNEC(End-of-

    Life Nursing Education Consortium)プログラムを翻訳したELNEC-Jプログラムを用いた教育が普及しつつある。しかし、それに続くものとしての「専門的緩和ケア」を担う看護師の教育、能力開発については、国際的にも、有用なプログラムや評価基準が未だ存在していないという現状があった。日本ホスピス緩和ケア協会教育支援委員会看護師教育支援部会では、2011年よりELNEC-Jプログラムの継続、発展教育として専門的緩和ケアを担う人材の養成を目的とした教育プログラム開発に取り組んでいた。しかし、緩和が困難な終末期の患者、家族によりそい、また、多職種からなる緩和ケアチームのリーダーシップを取ったり、スタッフや他の医療機関のコンサルテーションを行うことが求められる「専門的緩和ケア」を担う看護師の教育については、知識や技能を習得する訓練型の学習では不十分であり、新しい教育、学習プログラムの開発が必須であった。

    2.現場との関わりの経緯

    13年度、日本ホスピス緩和ケア協会の看護師教育支援部会のメンバーであり、プログラム開発の責任者、田村恵子氏(当時淀川キリスト教病院、現京都大学医学系研究科)から、高橋と川崎は、専門的緩和ケア看護師教育プログラム(Specialized Palliative Care Education for Nurse:SPACE-N)の開発についての助言、コンサルテーションを要請された。13年度、看護師教育支援部会のメンバーと、数回の会議を重ね、このプログラムにおける課題は、知識や技術ベースの学びだけでなく、参加者が主体的に対話することでの学びをどうデザインするかということが確認された。 高橋は、このプログラムにおける対話の方法として、ハワイのT.ジャクソンが提唱している、SCoIの考

    え方が、自己や他者のSafetyに配慮しつつ、対話や探究をするという点からして、専門的緩和ケア看護師教育プログラムの「死や苦に向き合う人、家族を支える」という理念に合致しているのではないかと提案をし、部会メンバーと模擬対話を行ってSafeな対話、探究を体感してもらった。13年度、コンサルテーションの結果、すでに作成されてあった学習教材をベースとしながらも、実際の研修については、参加者の対話(SCoI)を通じて、専門的緩和ケアやスピリチュアルケアについて学ぶプログラムを実施することになった。そのため、13年度から14年度にかけては、専門的緩和ケアに欠かせないいくつかのテーマについてセッションを設け、それを対話のなかで考えていくという形でプログラムの大幅な改定が部会メンバーによってなされた。

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  • 3.活動の概要と哲学者としての役割 


    13年度:SPACE-Nプログラム開発のためのコンサルテーション
14年度: (1)SPACE-Nパイロットプログラムへのスーパーバイザーとしての参加(高橋、川崎) 7月26日(土)、7月27日(日)京都大学杉浦ホール 8月9日(土)淀川キリスト教病院 (2)SCoI進行役のための研修を実施(主に高橋) 9月14日(土)と15日(日)大阪にて開催 10月12日(日)と13日(月、祝)東京にて開催 (3)14年度本プログラム(全五回)へのスーパーバイザーとしての参加(高橋、川崎)   第1回:11月22日(土)、第2回:11月23日(日)、第3回:12月13日(土) 第4回:2015年1月10日(日)、第5回:2月8日(日)

    14年度の課題は、このSPACE-Nプログラムにおいて、対話の進行役を担う指導的な立場の看護師を養成することであった。SPACE-Nプログラムにおいては、進行役は緩和ケアコミュニティの一員として、専門的緩和ケアについての対話、探究に参加するとともに、参加者にとって場がSafeであるか確認を行い、対話の方向性や目的を明示し、参加者の考えが深まるための質問をする、ということを行う必要があった。こうしたSCoIの進行役になるためには、対話の理念を理解しているだけではなく、参加者や対話を注意深く観察し、セーフな環境になるよう配慮をすること、また探究のための質問をするという実践知が必要になる。進行を担当する看護師教育支援部会のメンバーは熟練した緩和ケア看護師、リーダーであり、こうした対話のための基本的な力を持ち合わせていたが、高橋と川崎は彼女たちが、自信を持ってこの対話を進行できるよう進行役研修を行い、さらに、パイロットプログラム、本プログラムの対話にはそれぞれのグループにスーパーバイザーとして参加し、進行役のサポートを行った。

    4.見えてきた課題

    SPACE-Nのパイロットプログラムについては、新幡智子氏(当時筑波大学大学院、現慶応大学)によって、プログラムの評価基準や効果の測定の研究がなされた。これによって、参加者から、このプログラムやSCoIという対話手法は評価され、評価基準として新幡氏が設定した「コアコンピテンシー」と「レジリエンシー」の向上についても有意な結果が得られた。(『専門的緩和ケアを担う看護師に求められるコアコンピテンシーとその教育プログラム』、新幡智子、2015年度筑波大学大学院博士課程人間総合科学研究科博士学位論文)「レジリエンシー」については、困難な状況においても自己効力感を失わず、他者との連携において対処できる力のことを指し、医療者の教育指標としても近年注目されている指標、考え方である。ちなみに、ハワイ大学における教育カリキュラム策定とその評価においても、このレジリエンシーは指標として用いられている。新幡氏の調査によると、SPACE-Nパイロットプログラムの参加者は、もともとレジリエンスが高いと分類される者が多かった(18名、42.9%)が、プログラム受講後一週間の自己評価において、レジリエンスが高いに分類された人が増加していた(23名、60.5%)。参加者による自由記述によるプログラムの評価についても、セーフなコミュニティを体験できたことがよかった、臨床への有用性を感じた、自己認知や他者理解に対する考えが深まった、などの肯定的な評価がみられた。本プログラムについては詳細な調査は行われなかったが、事後アンケートや参加者の声から、同様の感想、評価が多く聞かれたことから、体験の質としてはほぼ同じものになったのではないかということが予想される。これについては、SCoIの成果として、自己認知や自己肯定感の高まり、他者とのつながりを作ることによるレジリエンスの向上や、「エンパワーメント」が想定されていたため、わずか5日間(パイロットプログラムは3日間)の開催であったにせよ、その予想に沿う結果が出たと言える。 15年度は、日本ホスピス緩和ケア協会からの要請もあり、関東、関西の二カ所で、SPACE-Nプログラム

    の開催(30名×二会場=60名)の実施が予定されている。開催場所、参加者数が増えるため、まずは、対

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  • 話の進行役を担う教育的立場の人材の養成が急務である。また、5日間のプログラムだけでは、対話の中で考える力、ケアリングコミュニティを作る力を養成するには十分とは言えない。このプログラムは、そうした力を参加者が継続的に育んでいくための入り口であり、この入り口での目標をどこにおくか、5日間の評価として確認すべきことは何かを改めて考える必要があると思われる。また、ホスピス緩和ケア協会が提供するプログラムの範囲内では、継続したプログラムへの参加や、このプログラムで学んだことをさらに深める研修を開催することは難しいため、それを補完する対話の機会を我々のほうで提供することも視野に入れている。

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  • 地域の国際交流協会でのPIR

    金和永・川崎唯史

    1.現場の概況

    公益財団法人とよなか国際交流協会は、大阪府豊中市に所在する、定住外国人支援を事業の柱とするNGOである。とよなか国際交流協会は、1993年に設立された豊中市の公共施設である「とよなか国際交流センター」の施設管理・運営を担う団体として豊中市によって設立されたが、豊中市が指定管理制度を導入したことにより、現在では団体としての協会は、施設としてのとよなか国際交流センターとは切り離されている。また、指定管理制度の導入に伴い、財団は公益法人へと移行し、現在に至っている。 指定管理制度の入札を経て、同協会は11年4月から5年間にわたって、とよなか国際交流センターの指定

    管理者となった。(指定管理制度においては、5年毎に競争入札が実施される。2016年度からの5年間、引き続き同協会がセンターの指定管理者として選定されている。)また、公益移行に先立つ2010年には、同センターの移転が行われている。これらの制度・施設をめぐる大きな変化に際し、協会は2011年、「協会にかかわる人びとが知恵を出し合い、課題を乗り越え、活動や協会をいっそう活性化させようとする」20意図のもと、「みんなでデザインする「協会(組織)・活動(人びと)・センター(公共空間)」の5年」、通称「デザイン5」の取り組みを立ち上げた。財団法人から公益財団法人への移行および指定管理者制度の開始という転機を迎えて、「地域多文化共生の拠点として組織・活動・空間を再構築する」ことが協会に求められていた。

    2.現場との関わりの経緯

    「さんかふぇ」は、デザイン5のプロジェクトの一つとして、2011年4月から始まった。臨床哲学研究室のメンバーが社会の現場でSafe Community of Inquiryの場を作ろうと試みた最初期のものである。2009年からセンターで「哲学カフェ」を臨床哲学研究室との協力で開催してきた縁などがあり、さらに指定管理者として新たな5年を始めるにあたって、特定の成果の要求されない自由な対話の場を設けたいという協会側の熱意もあって、さんかふぇは生まれた。報告冊子では、「ゴールや目標を決めず、誰でも参加できて、その場で生まれるものと参加した人を大切にしたい」 という言葉でさんかふぇに込められた期待が表現さ21れている。したがって達成すべき目標や解決すべき問題が明確に設定されていたわけではない。とはいえ、誰でも参加できるセーフでインクルーシヴな対話の場であることはつねに目指されていた。また、組織・活動・空間の再構築に資する発想や見方が対話を通して生じることも期待されていたと思われる。

    3.活動の概要と哲学者としての役割

    さんかふぇは多くの場合、まず誰でも簡単に答えられる質問をいくつか出し合い、ボールを回しながら全員がこれに可能な限りで答える。その後は、他の参加者の答えを聞いて気になったことや感じたことを話したり、あるいは別の問いかけや話題が出されたりして進んでいく。絵を描くなど、話す以外の活動を行うこともある。金や川崎は主導的に進行するわけではない。最初の質問を積極的に出したり、対話の中で探究

    協会作成の「デザイン5報告冊子」(2014年度版)より。20

    同上。21 / 15 27

  • を深めるための質問をしたりすることが他の参加者に比べてやや多いといった程度である。場を開き、閉じるのもある時期から協会職員になっている。 2013年度頃までは、さんかふぇが終わるたびに振り返りを職員と行った。参加者が加わることも何度か

    あった。参加者の感想をビデオで撮影していたので、それを見返してさんかふぇがどういう場になっているかを話し合った。セーフな場でなかった場合はその理由を考え、次回からどう参加するかを話し合った。2013年の半ばから、後ろ向きな反省会になっていると感じたため、振り返りに割く時間が大幅に短くなった。 四月にはその年度のさんかふぇをどのような場にしたいかを哲学者と職員とで話し合う。年度末の事業

    報告会では金や川崎が事業担当として一年のまとめを行い、協会のミッションに照らしてできたこととできなかったことを報告する。 なお、金は2012年度に非常勤職員として協会に勤務し、さんかふぇにも哲学者かつ職員として参加する

    ほか、他の勤務時間中にもさんかふぇで話したいことの聞きとりを職員などに行なった。 また、口頭およびメールで行われる事前のミーティングには、金・川崎と協会事務局のさんかふぇ担当

    スタッフが参加し、主に日時と場所を相談して決める。さまざまな事業が曜日ごとに行われているため、どの事業に参加しているボランティアや利用者をさんかふぇに誘いたいかを話し合う。さんかふぇは哲学カフェなどとは異なり、事前にテーマを設けないため、このミーティングは簡素なものである。

    協会の「デザイン5報告冊子」をもとに、実施月と主な話題を(明らかなもののみ)以下に示す。

    年度 月 主な話題

    2011 4 本音が言えない、見えない壁がある

    5 ボランティアとは?

    6 広報のあり方

    7 在日フィリピン人ドキュメンタリー作品『遥かなる空の下で』上映会

    8 映像を使った広報活動

    9 異文化理解って?

    10 『遥かなる空の下』上映会@アートエリアB1、上映会の感想

    11 かき消された声

    12 協会子どもサポート事業「たぶんかミニとよなか」の映像を見て

    1 時間の過ごし方

    2012 5 行ってみたい場所、夢

    6 コミュニティボールの名付け、最近の悩み

    7 「やりたいがやり方がわからないこと」の絵を描き、話す

    8 じぶんに「つながっている」と感じる歌詞

    9 「やりたいがやり方がわからないこと」Part2

    10 女っぽさ、男っぽさ、公の場で私的な関係を見せること

    11 じぶんの国について、本音とは何か

    12 じぶんの今年一年を表す漢字を書いてみる

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  • 毎年四月にコミュニティボールを作成し、その後はそのボールを用いてCommunity of Inquiryの手法で対話を行った。時間は基本的に一回2時間だが、2011年度の五月、九月、十一月は「ミニさんかふぇ」として1時間の対話を行った。

    このようにしてさんかふぇは、おおむね月一回のペースで継続されてきたが、2014年度4月の振り返りでは、さんかふぇの目標があいまいになってきているということが話し合われた。その振り返りのさいに、2013年度のさんかふぇにおいては、ゴールや目標を決めずに話すことや、自分について話すことができたという点で無意味なものではなかったと思われるが、他方でデザイン5の一部として協会にどのような貢献ができるかという視点が見失われていたことが確認された。それ以降、さんかふぇでは質問を工夫するなどして、センターに関する思いや意見について対話できるように軌道修正を図り、現在に至っている。 現在、さんかふぇは協会における一つの事業のような位置づけになっている。というのは、初年度は協

    会側の強い働きかけもあってさまざまな事業のボランティアや利用者の参加があったが、次第に参加人数は減り、ボランティアでも利用者でもない参加者(哲学カフェに来た際にさんかふぇを紹介された人など)の割合が高くなっているからである。2013年度ごろには、デザイン5のプロジェクトとして協会の関係者すべてに関わる場としてではなく、一つの事業として参加者がかなり固定された場という印象が協会の中で強まっていったことが、この「事業のような感じ」の理由の一つである。2015年現在は、「常連さん」だけでなく、協会ボランティアの積極的な参加を促すため、ボランティア活動のある曜日にさんかふぇを開催することや、個別に声をかけることなどを行なって、多様な人が参加できる場を模索している。  

    1 恋愛・結婚

    2013 4 子どもの頃嫌いだったもの、休みの日にしていること

    5 五月病になったときどうするか、日本に住んでいていいなと思うこと

    6 子どもの頃好きだった遊び、いまだに怖いもの

    7 手に入れたいもの、自分の変えたいところ、何に生まれ変わりたいか

    8 今日の自分のタイトル、元気の出る食べ物、怒られたことはあるか

    9 違和感を覚えた場面、風邪のときにしてもらうと嬉しいこと

    10 夢、許せないこと、あなたのヒーロー/ヒロイン

    11 違和感を感じたとき、最近ドキッとしたこと

    12 自分のチャームポイント、お正月にすること

    2014 5 とよなか国流はあなたにとってどんな場所?

    6 センターで面白いと思ったことは?

    7 週に何回センターに来たい?

    9 お盆辺りで一番悲しかったこと、最近買ったもの

    10 初めて国流に来た時の思い出

    11 どんな赤ちゃんだった?

    12 センターのなおしてほしいところ

    2015 5 ボランティアは楽しい?

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  • 4.見えてきた課題

    さんかふぇの活動を通じて、対話を通して他の参加者の考えや協会への思いを知ることができることや、安心して自由に話すことの重要性が参加者に共有されてきた。哲学カフェと違ってテーマが決まっていないため、自分の話したいことを話せる場があることを高く評価する参加者の声も複数あった。また、特に2013年度に集中的に行なったように、個人の記憶の中で周辺化されがちな記憶を共同で想起することを通して、マイナーなものを大切にする姿勢が培われてきた。協会にとってさんかふぇにどのような意味があったかは今後の検討課題だが、ボランティアや職員として協会に関わる人が何をしたいのか、何を求めてセンターに来るのか、協会のことをどう思っているのかといったことが多少なりとも明らかになったことは、成果と呼ぶことができるだろう。 また、ボランティアや職員として協会に関わる人が何をしたいのか、何を求めてセンターに来るのか、

    協会のことをどう思っているのかといったことが多少なりとも共有されてきた。これはボランティアと職員という役割・立場の違う人々の経験を、「協会へのコミットメントのあり方」という観点から同じ平面で共有することであり、ここには多くの発見が含まれていることがわかった。そのため、2015年度のさんかふぇでは、「ボランティア」というキーワードを用いた質問を積極的に行なっている。

    他方で、さんかふぇやミーティング、センターに滞在する中で課題も見えてきた。それは、多くの事業のそれぞれに多数のボランティアを抱える協会のなかで、ボランティアと、協会のスタッフや協会という組織の間の回路はどのようなものか、ということである。 さんかふぇに参加するボランティアのなかには、協会の職員とボランティアには距離があり、それを縮

    めたいと考えて積極的にさんかふぇにも参加している人がいる。他方協会としては、日々の業務が多岐にわたる中で、すべての活動・ボランティアと緊密に関係をもつことには限界がある。それだけではなく、協会の理念の一つに、地域に根ざした自立的な活動を創出することがある。特に日本語交流活動については、多くのボランティアに支えられ、多くの部分はボランティアの自主的な活動で運営されている。この自立性は、事業ごとに異なり、協会職員がボランティアと緊密に連絡をとりながら進める活動から、日本語交流活動のような活動まで様々で、つまり事業ごとに自立性のグラデーションがある。事業担当の職員が、2つにとどまらず複数の事業を担当している協会においては、職員のひとがそれぞれの活動に関わる度合いが変わり、事業によってはボランティアに任せる場面が多くなることは当然であるとも言えるが、このことが、自主性の高い活動に所属するボランティアの中に、職員との壁を感じさせるのかもしれない。しかし、以上のことが本当に課題なのかどうか、ということを含めて、まだ私たちも職員の方たちと多くを話し合っているわけではない。

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  • 福祉現場での対話プログラム たんぽぽの家「アリとコスモス研究会」とそれにまつわる活動

    菊竹智之

    
1.現場の概況

    今、障害を持つ人が社会の中で自主的にいきていくためにはどうしたら良いのか、という問いに人々も行政も様々な仕方で応えようとしている。障害のある人の芸術活動もその一つであり、たんぽぽの家は早い時期からその活動に取り組んできた。 奈良県にあるたんぽぽの家は、さまざまな側面を持っている。一つは、就労支援施設としての側面で、

    そこに毎日障害を持つ人が通ってきて、絵画や陶芸その他のアート活動を仕事として行っている。その他、障害者のアート活動を社会に広め、理解してもらうための活動にも力を入れており、一般財団法人として、展示やセミナー等のイベントを各地で企画してもいる。また、利用者たちの活動を仕事にすることも視野に入れながら、作品の販売やグッズ化も行っている。また2016年には新たに「Good Job!センター」を開設するなど、アートに限らず障害のある人の仕事づくりにも取り組んでいる。 障害者のアート活動という十分人々に受け入れられているとは言い難い活動を行っていくうえで、制作だ

    けでなくそれが受け入れられる下地を作っていくことはとても重要であり、こうした活動の広がりや複雑さはそれに対応して必然的におこってきたことである。しかし現場レベルで捉えると、この点が課題となる場合もある。このように活動が多様であると、各セクションの担当者それぞれが、自分たちの活動の全体像を捉えることは難しい。特に障害者のケアの場面では、日々利用者が無事に活動できるようにするだけでも十分に大変な業務である。 また冒頭にも書いたように、当初は自分たちで始めたこの運動も、現在では行政をはじめとした外部か

    らの期待の渦中に置かれている。障害者芸術に対する様々な思惑の中で、自分たちがすべきことをどう実現するのか、という新しい課題にも迫ってきている。

    
2.現場との関わりの経緯

    私がたんぽぽの家に関わるようになったのは、2013年5月からのことで、後に紹介する「ダンスワークショップ」に参加したことがきっかけであった。当時の私は必ずしも障害者福祉に強い興味があったわけでもなく、足を運ぶようになったきっかけは偶然と言える。しかしダンスワークショップに参加する中で、障害者と接し慣れていない私が自然にその場を共にできることにとても新鮮な驚きを持った。この活動に強くひかれたのは私が普段から音楽をはじめとするパフォーミングアーツの領域に強い関心を持っているからでもあるが、p4cの活動に加わる中でも大事にしている「他者と場を共にできる」という側面にとても共鳴する部分を感じたからでもある。 2014年10月から翌年3月まではそれを縁に、アルバイトスタッフとして雇用していただき、障害者芸術

    を社会に出していく様々な取り組みに加わる機会をいただいた。障害のある人たちが自由に表現活動に取り組むことをサポートする様々な工夫を学んだのと同時に、「健常」なアーティストのアートと障害者アートの距離やアーティストと社会の関係の持ち方など、様々な課題も見せてもらった。 2015年9月からは利用者の希望をきっかけに、哲学カフェを開催している。主に軽度の知的障害を持っ

    た方が参加されており、利用者やスタッフの方との新しい場づくりを試みている。

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  • 3.活動の概要と哲学者としての役割

    私たちの現場での活動は、哲学カフェを除くと、ジャワ舞踊家の佐久間新さんがたんぽぽの家で行ってきたダンスの活動と密接に連携する形で行ってきた。その活動を簡単に紹介すると、以下のようになる。

    ①佐久間さんを講師とした利用者向け即興ダンスワークショップへの積極的な参加。ならびに、振り返りミーティングへの参加。ワークショップに関する論文の執筆。 このワークショップは利用者や職員、そしてその関係などがよく見える現場であり、同時に、日常会話

    や日常生活においては出てこない挙動から、障害を持つ人々との新しい関わりの可能性を探っていける場でもある。職員との振り返りミーティングでの対話を通して利用者との豊かな関わりや、この活動の中でこそ見える変化を共有する。また、菊竹は2015年1月に論文をワークショップについての論文を執筆し、なぜこの活動においてそのような豊かな関係が生まれうるのか探り、それをもとに現場の人と共に考えることを試みた。

    ②職員・一般むけワークショップへの積極的な参加。本間と佐久間さんが中心となって月2回、スタッフや一般の方を対象にしたワークショップの時間「カフェガムラン」を開いている。この時間では、何かしらの表現活動に携わる人やたんぽぽの家のスタッフが集まり、カフェの名の通り話をしながら、実際にその場で体や音楽などの表現を実験していく。施設の実情や福祉や芸術を取り巻く現状について話されることも少なくない。

    ③アリとコスモス研究会の開催。2013年5月より月に一度、上記のワークショップのことを題材にして行う対話プログラム「アリとコスモス研究会」を、本間の働きかけにより現地で開催している。この会では主にダンスワークショップの映像記録を見て、その後 Safe Community of Inquiry のスタイルで対話を行っている。この会ではダンス担当以外の職員にも来てもらい、ワークショップのことについて直接考えるだけでなく、それを通して、施設の日々の活動とのつながりや、職員個人の抱えることについて話すことのできる場が目指されている。

    アリとコスモス研究会では、毎回佐久間さん、私たち、担当スタッフ1名の他は、少ないときは0名、多い時で5名程度の職員が参加する。基本的にはたんぽぽの家の通常業務中に行われるが、例外的に公開セミナーで2度行ったほか、2014年12月には職員を招いて大阪大学で行った。 先述のように、この研究会ではダンスワークショップのことを話のきっかけにしているが、実際に出てく

    る話題は非常に多様である。テーマ等は設けていないが、以下、カフェガムランで話されたことと合わせて、出てきたトピックの一例を紹介する。

    ・だれが「アート」かそうでないかを決めているのか。その線引きをすることの意味はあるのか。 ・新しい芸が生まれる瞬間について。 ・人はどのような時に笑えるのか。表現と笑い。 ・職員は創作活動を支援する際どの程度まで自分の思いや考えを出したら良いのか。制作者と支援者が

    共に歩んでいくとはどういうことか。 ・障がいのある人の身体をどう見るか、どう愛でるのか。 ・これからの芸術活動を支援する資金のあり方について。作家性とは。 ・表現を発表することの善し悪し。表現を人に理解してもらうにはどうしたらよいのか。 ・障害のある人の面白さと普通さについて。

    ④哲学カフェの開催。2015年9月より、隔月で開催。参加者は軽度の知的障害を持った方や身体障害の方を中心に利用者5名前後、スタッフ1名、外部の方が数名といった感じである。あるテーマについて体験を話し合う、道すがら出会ったものから問答をする「哲学散歩」、詩をつくる活動などを行った。現在の社会において障害を持つ人々は知的な障害を持つ人に限らず、知的な活動からは排除される傾向にある。たんぽ

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  • ぽの家でも、活動の知的な部分はスタッフが担当するという無意識の分業が 行われている部分はあるように感じる。そうした中で彼らと知的な探求を共にすることは、障害のある人たちと私たち健常者の関係を考えさせ、変えていくのではないだろうか。まだ始まったばかりで方法に工夫は必要だが、そうした貴重な時間として継続させていきたいと考えている。

    
4.見えてきた現場の課題

    ケアとアートの重なるこの分野は、福祉業界で働く人々やアーティストたちからも注目を集め始めており、その重なりを感じている人は少なくないが、まだ未成熟の分野でもある。たんぽぽの家でも「存在と生活のアート」を掲げたエイブルアートムーブメントを推進するなどしているが、表現活動の支援と日常生活の支援のあいだの関係はまだまだ様々な可能性があり、模索中であるようにみえる。 ダンスワークショップは相手の身体に直に触れ直に向き合う活動であると同時に、人の動きの美しさや

    面白さに注目した表現活動でもある。そのため上記のトピックからもわかるように、ダンスワークショップについて語ると、ケアとアートの両方にまたがった話題が上がってくる。 また、哲学カフェにおいて私は、「知的」な活動が困難とされる人々とわずかでも知的な探求を共にで

    きたことが非常にうれしかった。彼らに知的な活動が難しいというのは、あるいは場の問題であり、障害や「できる/できない」というのは一体何なのかと考えさせられる。ケアの教科書的な理解では彼らのできること/できないことをはっきり区分したうえでそのサポートの方法が記されるが、実際のケアにおいてはもっと複雑なことが行われている。哲学カフェもダンスも、利用者の能力をあらかじめ見定めるようなことはせずに、何が一緒にできるのかを手探りで作っていく活動だといえるだろう。 こういった活動の中に、より原始的なケアの在り方を見出すことができるのではないかという風に私は

    期待を寄せている。様々な職員の方に参加してもらうことで、まずは障害のある人との多様な時間の過ごし方の可能性を感じて欲しいと考えており、その上で職員各個人にとってケアとアートの結びつきが見出されることが起こればと考えている。上のトピックにも挙げているが、表現活動を支援する職員たちが支援という行為を悩みながら行っていることが対話の中でわかってきた。アートの活動経験を持つ職員(たんぽぽの家では芸術大学卒業生を積極的に雇用している)がアート活動で培った感覚やまなざしをどのように現場で活かしうるのか、または、アートの活動経験のない職員がアートというものをどのように捉えながら支援をしていくのか。そういったことを対話の中で一人ずつと見つけていくことが、当面取り組む課題だといえるだろう。 それが、組織全体として多様な活動をしながら、どこかで一貫性を感じていられることにもつながるの

    ではないだろうか。また、このようにアートとケアの結びつきを考えることは、たんぽぽの家のようにその両方を実践している施設のみに役に立つことではなく、一般的なケアに対する考え方、アートに対する考え方をより豊かにしていくことにつながるのではないだろうか。

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  • 大阪府立長吉高校への関わりについての報告

    金和永

    1.現場の概況

    大阪府立長吉高校は、大阪府大阪市平野区に所在する府立高校である。長吉高校は、2001年度に全日制単位制高校へ改編されたのち、2014年度まで普通科を置く高校であったが、2015年度より「エンパワメントスクール」となり、総合学科を置く高校として新しいスタートを切った。 「エンパワメントスクール」は大阪府教育委員会の施策であり、「エンパワメントスクール」に指定する

    府立高校において、義務教育段階の学習の学び直しなどをつうじ、中退や不登校に陥りがちである生徒をサポートするものである。 長吉高校では制度の移行にともない、さまざまな変化が起きている。その過渡期にあって、学校全体の

    もっとも大きな課題はそれらの大きな変化にどのように対処し、新しく長吉高校を作っていくか、というところにあるといえるが、以下ではわたしたちが担当する授業の様子も含めて、わたしたちの関わり方や具体的な課題を述べる。

    2.現場との関わりの経緯

    今年度わたしたちは、「エンパワメントタイム」 と呼ばれる、エンパワメントスクールにおいて実施さ22れる学習の一部、『産業社会と人間』の科目において、長吉高校の教員と共同で、授業担当者として関わっている。エンパワメントスクールが謳うのは、「社会人として必要な「基礎学力」「考える力」「生き抜く力」」 の三つの力を育むことであり、「エンパワメントタイム」は「考える力」と「生き抜く力」に関わ23る学習を提供するものである。 報告者は2014年8月、長吉高校で長年教員を続けておられ、現在私たちが担当している授業の取り

    まとめを担っている森山玲子さんから、長吉高校のエンパワメントスクールへの改編と、それに伴って新たに設�


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