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腕隻眼の英雄 ホレイショ・ネルソンHoratio Nelson )。12歳で...

Date post: 11-Aug-2020
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12 15 NOV 2018 / No 1061 Great Britons Horatio Nelson 12 退10 21 ●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部 英国を守り抜いた、 せき わん せき がん の英雄 1843年に完成した、トラファルガー 広場のネルソン記念柱。柱の上に立つ ネルソンは、スペイン・トラファル ガー方面を見つめている。 ホレイショ・ネルソン
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Page 1: 腕隻眼の英雄 ホレイショ・ネルソンHoratio Nelson )。12歳で 「英雄」の波乱の人生を追う。退くことなく戦い、海で散っていった戦の末に片目と片腕を失いながらも、スキャンダルにも事欠かなかった。激でありながら公然と不倫を続けるなど、いに参加。一方、歴戦の陰

1215 NOV 2018 / No 1061Great Britons

■「トラファルガー海戦で英国を勝利

に導いた提督」として、英海軍史上

もっとも賞賛された男、ホレイショ・

ネルソン(H

oratio Nelson

)。12歳で

海軍へ入隊してから人生の大半を海上

で過ごし、生涯を通して120もの戦

いに参加。一方、歴戦の陰では妻帯者

でありながら公然と不倫を続けるなど、

スキャンダルにも事欠かなかった。激

戦の末に片目と片腕を失いながらも、

退くことなく戦い、海で散っていった

「英雄」の波乱の人生を追う。

  

近づく勝利、遠ざかる意識

 

時計の針を巻き戻すこと、200年

以上前の1805年10月21日。

 

スペイン南端のトラファルガー沖

で、当時「強国」といわれた英国とフ

ランスそれぞれの命運を担った両海軍

が、ついに直接対決を迎えていた。こ

の「世紀の一戦」を勝利に導いた英国

側の総司令官が、ロンドン・トラファ

ルガー広場にある記念柱の頂上に立つ

人物、ホレイショ・ネルソン提督だ。

 

海戦の火蓋が切って落とされてから

約半日が経過したころ、ネルソンが編

み出した独自の接近戦(通称ネルソ

ン・タッチ)で、先頭をきって敵艦隊

に突撃する旗艦「ヴィクトリー号」は、

砲弾の嵐の中にあった。ネルソンは何

度も部下から身を隠すよう進言を受け

たが、それを聞き入れずにデッキに立

ち、司令官自らが率先して身を危険に

さらすことによって兵士を鼓舞した。

そして午後1時半、ついに隣接するフ

ランス軍艦の狙撃兵による銃弾がネル

●グレート・ブリトンズ●取材・執筆/本誌編集部

英国を守り抜いた、    隻

せき

腕わん

隻せき

眼がん

の英雄

1843 年に完成した、トラファルガー広場のネルソン記念柱。柱の上に立つネルソンは、スペイン・トラファルガー方面を見つめている。

ホレイショ・ネルソン

Page 2: 腕隻眼の英雄 ホレイショ・ネルソンHoratio Nelson )。12歳で 「英雄」の波乱の人生を追う。退くことなく戦い、海で散っていった戦の末に片目と片腕を失いながらも、スキャンダルにも事欠かなかった。激でありながら公然と不倫を続けるなど、いに参加。一方、歴戦の陰

15 NOV 2018 / No 106113 Great Britons

ソンを襲う。ネルソンは肩から銃弾を

浴びてデッキに倒れ込み、医務室に担

ぎ込まれた。銃弾は脊柱を貫通してお

り、痛みに喘ぎ苦しみながらも、艦

長から伝えられる戦況を受け「攻撃せ

よ!」と大声で命令を出し続けた。

 

しかしながら、爆音であるはずの砲

声が、彼の耳にはだんだんと遠く小さ

くなっていくように感じられた。左目

に映る風景も色褪せて薄暗く、ぼんや

りとしていて輪郭がつかめない。体温

も急激に奪われていく…。

 

負傷からおよそ3時間後、「完璧な

勝利です。ただ各艦がはっきりとは見

えないので、何隻の敵船を捕獲したの

かは不明です」と告げる艦長の勝利報

告に安堵したのであろう。ネルソンは

「神に感謝する。我が義務を果たした

(Thank God, I have done m

y duty.

)」

とつぶやきながら、静かに息を引き

取った。午後4時30分、享年47。大量

の体内出血による最期だった。

  

信念を貫いた少年時代

 

緑の森と青く澄んだ小川、遠くまで

起伏の続く麦畑の丘に囲まれた美しい

田園の村、ノーフォークのバーナム

ソープ(Burnham

Thorpe

)。ネルソ

ンはこの村で、牧師夫妻の息子とし

て1758年9月29日に誕生。ノー

フォーク内の寄宿学校に通った後、母

方の叔父であるモリス・サクリング艦

長を頼り、ケントにある英海軍に入隊

した。9歳で母親を亡くし、男手ひと

つで子供たちを育てていた父親も病気

を患い、家計を按じていたこと、さら

には厳格な学校教育を通じて愛国心が

芽生えていたことからの入隊志願だっ

た。やがて12歳で叔父が指揮する戦列

艦に士官候補生として乗り込み、海軍

兵のキャリアをスタートさせた。

 

少年時代のネルソンは体格には恵ま

れず頑丈とは言いがたかったものの、

負けん気が強く、強情な一面を持って

いた。それは時として頑固で融通の利

かない性格として表れることもあった。

そうした彼の性格を物語るエピソード

として、次のような話が伝えられてい

る。

 

ネルソン少年は小学校時代、生徒に

体罰を科することで有名だった教師た

ちに普段から目を付けられていた。あ

る日、鳥の巣を教室に持ち込んだネル

ソンを教頭が厳しく注意すると、彼は

「ごめんなさい、先生。でもこの卵、僕

が抱いてやらないと上手くかえらない

んです」と詫びながらも、自分の正当

性を主張。ネルソンは同級生の前で上

半身を裸にされ、教頭から背中に何度

も鞭を打たれたが、背を真っ赤に腫ら

しながらも自分の意見を最後まで覆さ

ず、決して「二度と鳥の巣を持ち込み

ません」とは言わなかったという。「己

が正しいと信じることは何が何でも貫

き通す」――これはネルソンの生涯に

通ずる信念であり、その礎は幼少期に

すでに築かれていたと言えるだろう。

  

世界各地で恋する色男

 

今日残っているネルソンの肖像画を

見てもわかる通り、若いころのネルソ

ンは整った要望の持ち主であったこと

は容易にうかがえる。「行く港ごとに恋

人がいる」という通説で知られた当時

の海軍人の例に漏れず、ネルソンも赴

任地が変わるたびに新たな恋人をつく

り、様々な浮名を流した。

 

まずは1782年、英植民地だった

カナダのケベックで町娘と恋に落ち、

結婚を考えるも、友人たちの反対に

あって断念。続く翌83年、フランスで

の休暇中に英国人の裕福な牧師の娘に

恋をし、またしても結婚を考えるが、

経済格差を理由に相手に断られてしま

う。さらに翌84年、カリブ海の密貿易

監視任務で赴いたアンティグア島では、

弁務官の若妻に熱を上げるも親密な仲

にはなれずに終わっている。

 

そして翌85年、西インド諸島ウイ

ンドワード島で、生涯の伴侶となるフ

ランシス・ニズベットに出会う。上級

裁判官の娘で、未亡人となり、先夫と

の間に息子がいた彼女は、ネルソンの

恋心を「海軍人の一時の気の迷い」と

捉え、相手にしなかった。それでもネ

ルソンは諦めずにラブレターをした

ため続け、「――わが胸はあなたを恋

焦がれ、あなたと共にあります。私の

頭の中にはあなたしかいません。あな

たから離れると私には何の喜びもあ

りません――」と歯の浮くような口説

き文句で、彼女の心を揺さ振っていっ

た。筆まめのネルソンのアプローチが

功を奏したのか、出会いから2年後の

1787年、ネルソンは29歳でフラン

シスと結婚した。

  

名誉のためなら目も腕も

 

ネルソンの魅力を倍増させているの

は、その整った容姿とは不釣合いの

「隻腕隻眼」という身体的『特徴』では

ないだろうか。冒頭のトラファルガー

海戦にいたるまでの歴戦で、ネルソン

は右目、右腕を失っている。常人なら

ば退役を考えそうなものだが、現役で

いることを彼が選んだのは、軍人とし

ての強い出世欲と名誉欲があったこと

は否定できないだろう。

 

ネルソンの肩書きをさかのぼって

みると、20歳で「勅任艦長(post

captain

/現在の階級では大佐に相

当)」となるまで順調に出世していた。

上官たちに将来を見込まれていたこと

もあるが、叔父の縁故も大きく作用し

たと言われている。だが、結婚した年

の人事異動で英国に戻ったものの、フ

ランスなどとの外交関係が改善された

ことから、昇進できるような海戦もな

く給与は半分ほどに減額。ノーフォー

クの実家暮らしに甘んじることになっ

てしまった。

 

不遇な日々を送っていたネルソンを

救ったのは、1793年の英仏戦争

だった。89年に勃発したフランス革命

が英国に飛び火しないよう、英政府が

フランス革命軍に宣戦布告したのだ。

ネルソンには地中海艦隊任務の一環と

して、臨時提督の資格が与えられた。

5年近くも任務から遠ざけられた後の

現役復帰。それにかけた思いは相当の

ものだったに違いない。

 

1794年のカルビー湾攻略の戦い

では、敵の砲弾で飛び散った砂利が右

目に突き刺さり、視力を失いながら

も引き下がらずに英国軍を勝利に導

いた。この功績により「艦隊司令官

(commodore

)」、そして97年には「海

軍少将(rear adm

iral of the Blue

)」へ

と昇進していく。しかし同年、カナリ

トラファルガー海戦における「ネルソン・タッチ」

の図。前方で弧を描いて待ち受ける敵艦隊(青)に

向かって、英艦隊(赤)は直角に2列縦隊を組んで

突進するという斬新な戦法。

数々の浮名を流した恋多き男、ネルソンの 23 歳のときの肖像画(左)。同い年の妻フランシスとは赴任先の西インド諸島で出会った(右)。

ヴィクトリー号

Page 3: 腕隻眼の英雄 ホレイショ・ネルソンHoratio Nelson )。12歳で 「英雄」の波乱の人生を追う。退くことなく戦い、海で散っていった戦の末に片目と片腕を失いながらも、スキャンダルにも事欠かなかった。激でありながら公然と不倫を続けるなど、いに参加。一方、歴戦の陰

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よう。結局、海戦は見事勝利を収め、

ネルソンはこの功績により子爵位を受

爵している。戦勝歴を更新し、出世も

名誉も思いのまま、子宝にも恵まれて

まさに人生の絶頂期を迎えていた。

  

英雄、戦場で散る

 

1803年になると、再び英仏関係

が悪化。英政府はフランスに対し、二

度目となる宣戦布告を行う。エマや娘

とつかの間の隠遁生活を楽しんでいた

ネルソンは、再び地中海艦隊に召集さ

れ、ついに「司令官(Com

mander in

Chief, Mediterranean Fleet

)」に任命

された。ネルソンは旗艦のヴィクト

リー号に乗船し、艦隊を率いて出航。

これは同時に、約2年半後に火蓋が切

られる「世紀の一戦」に向けての出発

となった。

 

宣戦布告から2年半近く経た後での

ア諸島での戦いを指揮した際、敵の狙

い撃ちが右腕を襲い、切断せざるを得

なくなったばかりか、戦いにも敗れて

しまう。切断部分は重度の炎症をおこ

し、中毒症状も出たが、驚異的な回復

力で翌年には戦いに復帰している。

 

隻腕隻眼の身となったネルソンは、

ナイルの海戦(アブキール湾の戦い)

の前夜、士官たちと食事をしながら

「明日のこの時間までには、私は貴族の

称号を手に入れているか、ウェストミ

ンスター寺院(英国で国葬が行われる

場所)に行くかのいずれかだ」と話し

たと伝えられている。この戦いでネル

ソンは前頭部に重傷を負い、大量の流

血に耐えながらもフランス軍に大勝。

宣言に違わず貴族の地位を与えられ、

「ナイル及びバーナムソープ男爵」と

なったのだった。

  

恥も外聞も捨てたダブル不倫

 

実は、ネルソンはヴィクトリー号で

の死の間際、最愛の女性エマ・ハミル

トンと娘ホレイシアをくれぐれも見捨

てないようにと、艦長らに念を押して

世を去っている。ネルソンとエマ――

両者にとっては純愛であったようだが、

世間的には「ダブル不倫」であったた

め、2人の関係はタブロイド紙で格好

のネタにされた。

 

そもそもエマとの最初の出会い

は、ネルソンが不遇の時代を終えた

1793年にさかのぼる。地中海艦隊

の守備領域内であったナポリ王国に、

援軍要請のために赴いた時のことであ

る。この時のネルソンはまだ五体満足

であり、エマも駐ナポリ英国大使夫人

として上流階級の華やかな暮らしを謳

歌していたので、心惹かれつつもお互

いに「淡い想い」を胸に隠して過ごす

程度であった。2人の恋が本格的に動

いたのは、ネルソンがナイルの海戦を

終えて艦の修理と補給のためにナポリ

に立ち寄り、5年ぶりの再会を果たし

た時だった。

 

エマはもともと下層階級の出身で、

幼い頃は貧しい生活を強いられていた

が、美貌と舞踏の表現力を武器に権力

者の妾になるなどして生活していた。

美術品収集家としても知られていたナ

ポリ在住の英国大使ウイリアム・ハミ

ルトンとは、エマが26歳の時に結婚。

34歳差の「年の差夫婦」となった。こ

れにより、エマは上流階級の貴婦人の

仲間入りを果たしたのであった。

 

ナイルの海戦で勝利を手にしたもの

の、隻腕隻眼という変わり果てた姿で

再び現れたネルソンにエマはショック

を受けるが、彼女の中で同情が愛情へ

と変わるまでに時間はかからなかった。

再会以降、エマはネルソンのもとを片

時も離れようとせず、次第にあちらこ

ちらで噂が立てられはじめる。ナポリ

での滞在を伸ばし、軍務よりもエマと

の日々を優先するネルソンの行動は、

やがて英国民の知るところとなり、連

日醜聞がタブロイド紙をにぎわせた。

英国でネルソンの帰還を待つ妻フラン

シスは、世間からの好奇の目に耐えな

ければならなかった。

  

歓喜と醜聞の中での帰国

 

1799年、10年間に及ぶフランス

革命がナポレオンの独裁政治の開始と

ともに終焉し、ネルソンとハミルトン

夫妻も英国への帰路についた。ウィー

ン、プラハなどを充分過ぎるほどの時

間をかけて周り、1800年11月に帰

国。市民は戦功を立てたネルソンの帰

国を素直に歓迎したものの、上流階級

の人々の間には愛人と享楽にふけり、

のんびりと帰ってきたことに嫌悪を表

す者も多かった。

 

ネルソンは妻と再会したが、不倫騒

動によってできた深い溝は埋まること

なく、翌年1月には別居。当時の法律

では、夫の暴力行為がある場合しか離

婚が認められなかったことから、2人

は最後まで書類上夫婦でいなければな

らなかったのである。これ以降、ネル

ソンがフランシスと会うことは二度と

なかった。皮肉にも別居の直後、エマ

がネルソンの子どもを出産。生まれた

子は女の子で、唯一の実子となった。

 

このような慌しい私生活の中、ネル

ソンは「海軍中将(vice-adm

iral of the Blue

)」に昇進し、艦隊次席司令官

としてコペンハーゲンの海戦に出陣、

またしても「伝説」をつくる。戦闘不

利と判断した司令長官が「撤退せよ」

という信号旗を揚げるも、視力のない

右目で望遠鏡をのぞきながら「本当に

何も見えん」と言い、命令を無視して

交戦を続行したのだ。自分の信念のた

めなら上官の命令すら断固として退け

る、強引で一本槍な性格の表れと言え

下 の QR コ ー ド を 読 み 込 む か、YouTube で「英国ぶら歩き ヴィク

トリー」で検索し、編 集 部 制作のショートフィルムをお楽しみください。

動画へ Go!

長年の愛人エマ・ハミルトン。ネルソンの戦死後、

ギャンブルや浪費による借金地獄に陥り、逃亡先の

フランスで死去した。

ポーツマスのヒストリック・ドックヤードには、ネルソンがトラファルガー海戦で乗船したヴィクトリー号が、現在も係留している。船体の黄色と黒の横縞は「ネルソンチェッカー 」と呼ばれ、1800 年の導入以降、英戦列艦の標準色となった。

Page 4: 腕隻眼の英雄 ホレイショ・ネルソンHoratio Nelson )。12歳で 「英雄」の波乱の人生を追う。退くことなく戦い、海で散っていった戦の末に片目と片腕を失いながらも、スキャンダルにも事欠かなかった。激でありながら公然と不倫を続けるなど、いに参加。一方、歴戦の陰

15 NOV 2018 / No 106115 Great Britons

直接対決は、陸上戦ならば考えられな

いほど時間が経過している。実は、こ

れは陸上戦を得意とするナポレオンの

立てた作戦が、生粋の海軍人であるネ

ルソンにとって突飛なものだったから

である。ネルソンはフランス艦隊の動

きをなかなか掴むことができず、地中

海上を迷走することになってしまった

のだ。

 

そして、いよいよ1805年10月21

日がやって来る。

 

トラファルガー沖でフランス軍と相

対したネルソンは、有名な信号旗「英

国は各員がその義務を果たすことを期

待する(England expects that every

man w

ill do his duty.

)」を掲げ、艦隊

の士気を高めた。英艦隊は戦艦27、小

型艦5の計32艦。対するフランス・ス

ペイン連合艦隊は戦艦33、偵察用小型

艦7の計40艦。しかも連合艦隊の戦艦

は英国のものより大型で、数でも大き

さでも英国が不利なはずだった。

 

その敵艦を抑えての英国の勝利は、

様々な要素が絡み合っていたと分析さ

れている。まずフランス・スペインは

政治的なつながりのみの連合艦隊で士

気が低かったこと。次に「ネルソン・

タッチ」という想定外の戦法に、連合

艦隊が大混乱に陥ったこと。英艦隊の

艦載砲が最新式で連射能力に長けてい

たこと。さらには、連合艦隊の提督が

無能の烙印を押された人物であったこ

となどが挙げられよう。

 

しかし何よりも英軍が勝ったのは、

兵士たちを鼓舞することに長けたネル

ソンの手腕だ。「勇将の下に弱卒なし」

の言葉通り、彼の覇気と闘志は周囲に

伝染し、司令を受ける海軍兵の団結力

と勇敢さは群を抜くものだった。

  

海を制した男

 

トラファルガー海戦から2ヵ月半が

過ぎた1806年1月9日、君主以外

の人物として歴史上初となる大規模な

国葬がセント・ポール大聖堂で執り行

われ、ネルソンの遺体は大聖堂の地下

に埋葬された。

 

200年以上経った今もネルソンに

まつわる多くの逸話が残されているの

は、彼の勝利への強い執念、戦いの場

における粘り強さ、自分の判断で突き

進む信念や類まれなる軍才に、英国民

が敬愛の念を寄せ続けているからであ

ろう。提督として自ら進んで銃弾飛び

交う最前線で指揮を執り続け、ナポレ

オンの攻勢から英国を守り切ったネル

ソン。勝利を手にするとともに戦場で

命を散らすというドラマチック性も相

まって、海を制した「英雄」は現在も

根強い人気と憧れをもって語り継がれ

ている。トラファルガーは、まさに彼

の「人生」を集約した墓場として、そ

れ以上を望むべくもないほどの舞台

だったに違いない。

ネルソンの「血」の行方

下 の QR コ ー ド を 読 み 込 む か、YouTube で「 英国ぶら歩き セント

ポール大聖堂」で検索し、編集部制作のショートフィルムをお楽し みくだ さい。

動画へ Go!

セント・ポール大聖堂の地下墓地にある、ネルソンの墓。© mhx

 この時代、遠征先で命を落とした海軍兵は、遺体を海に投げ込まれて水葬されるのが一般的だった。しかし、ネルソンはトラファルガー海戦の総指令官という特別な階級にあり、ナポレオンの英国上陸を妨げた「英雄」でもあったことから、遺体は本国へ送還すべきであると考えられた。 もちろん当時、冷蔵設備などは船に備えつけられておらず、船員たちは遺体の腐敗防止のため、船内に貯蔵していた大人がひとり入るほどの大きさの酒樽に遺体を保存し、英国まで運ぼうとした。1805年10月21日、満タン

のラム酒に浸されたネルソンの遺体とともにトラファルガー岬を出航したヴィクトリー号は、同28日、ジブラルタル海峡までたどり着く。しかし、その時に遺体とともに樽にたっぷ

り入っていたはずのラム酒が半分に減っていることに気づき、蒸留ワインをさらに補充したという。 ラム酒が減っていたのは、アルコール好きの船員たちがネルソンの功績にあやかろうと、「樽に小さな穴を開けてそこからストローで飲んでしまったから」と伝えられている。この出来事から、英海軍仕様の隠語「Tapping the Admiral(提督の栓を抜く=お酒を盗み飲む)」が生まれ、海軍で飲まれるラム酒を「Nelson's Blood

(ネルソン提督の血)」と呼ぶようになった(写真左は

Pusser's 社 の ラム酒)。 なお、この逸話には諸説あり、遺体を浸していたのはラム酒でなくブランデーだったとい う 説( ヴ ィ クトリー号が係留しているポーツマスのヒストリック・ドックヤードでは

「ブランデー」と解説されている)や、ジブラルタル海峡の時点でアルコールが半分に減っていたのは船上で蒸発し、さらに遺体がアルコールを大量に吸収してしまったからというものもある。いずれにせよ、「ネルソン提督の血」は200年以上経った今も、ラム酒として英海軍兵たちに愛飲されている。

▲ フランス狙撃兵の銃弾により、ヴィクトリー号のデッキの上に倒れ込むネルソン(中央)。


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