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g - 明治大学...Ç ì { ê q â e w o Ì ¹ ä x l g c x u. m w o Ì ¹ ä x _ Ì á ± Ì Ð î...

Date post: 29-Mar-2020
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42
稿 . m ' ( ) 稿 - 1 4 ( 5 2 5 ) ( 9 6 . 4 2 9 ) - ρ 一一193一
Transcript

管野須賀子遺稿

『死出

の道艸』考

.

m

『死

の道

の若

の紹

と整

'大逆事件判決言

い渡

しは明治四十四年

一月十八日。新田融、新村善兵衛を除

いた他

二十四名全員に死刑判決。・翌十九日恩

で十二名が無期

に減刑。

一月二十四日幸徳秋水他十名

に対

して死刑が執行された。ただし

「管野

一「人は時間

の都合

り。二十

五日午前に」

(後場

「風俗画報」)執行。判決言渡

しの十

八日から処刑

の前

日二十四日まで獄中で事実上遺書として

野須賀子が綴

ったのがパ

この

『死出

の道艸』

一編である。この遺稿

は、長年にわたり事件の真相を追

い、真実

のありかを

驚く

べき資

料蒐

と強靱な論証

によ

って戦後

日本

国民

の前

にあきら

かにした

『革命伝説

』二後改題

て・『大

逆事

件-

幸徳

秋水と明

治天皇ー

1~

4

(あゆ

み出版昭

52

・5刊)

の著者

・神

崎清氏

よつてはじめ

て世

にでたと

って

い。『明治

記録

文学集』

(「明治

文学全集

96」.筑摩書

房昭

42

・9刊)、の

「解題

に、発見

の経緯

を神

氏自身

のよう

に記

している。「敗

直後

の昭

二十

二年

七月

、当時雑誌

『真相』を

発行

していた人民社

の佐和慶太郎

氏を、銀座裏

の三木ビ

ルにおとずれ

たさ

い、人民社

の金庫

のな

かから、-問題

のすが

の日記を

はじ

め、大逆事件被

の獄

中手記

の数

々を発見

した、と

いう

より

は、

現物

の実

在を確

認す

ることが

でき

たのである」

と。

一そ

して神崎

の手によ

ρて、昭和

二十

五年

六月刊

『大

逆事件記録

一巻

一一193一

.獄中手記』

(実業之日本社)

『死出

の道艸』が所収されたことで日の目を見たのである。第

一発見者

は佐和氏で

あるが・

一紹介者は神崎氏

である。今

は私どもは、『獄中手記』とともに

『明治記録文学集』や、清水卯之助氏

精励

によ

って近

年纏

められた

『管野須賀子全集』全三巻中第

二巻にも、清水氏の註を付

した

『死出

の道艸』が収められていて、おかげで簡

単にこの秘匿され

っづけた貴重な歴史文献を読むことができるよう

った。拙稿

は、『明治記録文学集』と

『管野須賀子

全集』を参照引用したことをことわ

っておきたい。

拙論を展開する前に、先人たちの

『死出の道艸』論をわずかば

かり書

きとめておこうとおもう。まず、神崎氏

「解題」

からポイントとなる箇所を引用しておく。

「菅

野すが

は、大逆

事件

ロイ

ンであ

る。

日本革命運

動史

から

いえば

失敗

に終

ったが、

天皇

制批

判を最初

に行

動化

た勇敢

な婦

人闘

であ

った。天皇暗殺

いう

ロリズ

の幻想

は、彼

の信奉

した無

政府

主義

の思想

は、直接

の関係

がな

い。

しろ、赤

旗事

件を

とお

して加重

してきた支配階級

の、苛

烈な弾

に反

発す

る険悪

な報復感情

からう

まれ

てき

たも

ので

る。

ロ」ズ

ムが

、孤立化

した少数

革命家

の絶

望的

な反抗

であ

ったに

せよ、

天皇

暗殺

のも

のが

目的

でなく、彼

の目標

が天皇神格

の迷

から

日本

の国民を解放

こと

にあ

った事実

は、銘記

しておかねばな

らな

い。」

るい

は、「いかな

る権

から

も自由

で、『法

の支

配』

こえ

た国家

権力

の乱

用、

法律

の名

にかく

れた大虐殺

に抵抗

した彼女

の強靱

革命精神

は、

にあた

いす

る。小説家

を志願

して文章

を書

つづ

けてき

た菅

野すが

子にと

って、

この

ノン

・フィク

ョンの

『死

の適

期』

が、

人生

の最

後を

かざ

『白鳥

の歌』

にな

った

のであ

る。」

また、「『死

の道

艸』

の歴史的価

は、大

審院

判決

と法

の描

に集

して

いる。」

そし

てさら

に、

「俗世

から毒婦

のよう

ののしら

れ、

一部

の同志

から

も淫婦

のよう

にあざ

けら

れた彼女

は、

二重

の意味

での気

の毒な犠牲者

であり、被

害者

であ

った。

この

『死出

の道

艸』

の出

によ

って、名誉

回復

いう

か、革

命家

して

の地

位と、

しい人聞

的評価

が彼

にあたえら

ることを期

してやまな

いので

る。」

と結

一一一194一

る。

なじ

清水

『全集』第

三巻

「小伝」

には、「須賀

は死

刑判決

のそ

の夜

から、

決す

ような思

いで獄

手記

『死出

の道

艸』

(本全集

2巻収録

)

を執筆

しはじめ

ている。

てら

いも気負

いもな

いこの文章

は、

数多

い獄

手記

のな

かでも最

高傑

いえ

よう

。」と絶

して

いる。

'

『大逆

事件

「熊

本評

論」』

(上

田穣

一・岡

本宏編著

一書房

61

・10刊

)所収

「『熊本評

論』

に見

人物群

像」

「管

野スガ」

の項目を担当

した藤間生大氏

『死出の道艸』にふれた部分も

ついでに引用しておけば、「『死出

の道草』は死刑囚

の文と

して出色

なも

のであ

るが

、・『彼等

の大半

は私共、

五、

六人

の為

に此

不幸

な巻

にせられ

のであ

る。

臆、

気毒

よ、

同志

よ』

(『全集

2、

二四七

頁)

して

いる。彼

一貫

して少

人数

の先

駆的

な行動を

計画

し、彼女

は秋

水を自

の計

から意識

はず

こと

を、

同志

の新村

忠雄

にも話

して

いる。新村

また

の予審調書

で同じ事

のべて

いる。断

は予想

はる

かに越

たのであ

る。

事情

と捜査事

実を知

るす

べて

の人が

そう

であ

った。彼

一人

の不明を

あと

で指摘

のはやさ

い。

かし歴

の把握

はそう

した

こピ

つか

めな

いし、将来

の参

にも

なら

ない。」と

いう

こと

にな

る。

は、『死出

の道

』が須賀

の最期を

かざる

「白鳥

の歌」

あり、大審

院判

決批判

と法廷

の描

に集

いると

ころに

この文章

の歴史

的価値

あり、

一二重

の意

で犠牲

者、ン被

害者

であ

った彼女

の革命

家と

して、

いは人間

して

の名

回復

を果す

こと

になる「

と要約

れば

こう

ろう

。清水

『死出

の道

艸』観

は、

てら

いも気負

いもな

い一数多

い獄

手記

の中

でも最高傑作

、と

いう点

つき

ている。

藤間

一文も

、清

水、神

両氏

の論

てみじ

かになぞ

ったも

で、出色

の作

であリパ判

決批判

の意義

を評価

る、

いう

らえ方

であ

る。

・ここでさら

に今

一つだ

け、神

崎、清

水、藤

王氏

の論

と多

少視座

のこ老

る森

山重雄

.『死出

艸』観

を、『大逆

件11文学作家論』

(三

一書房昭

55

・3刊)

「序論-

野須賀子

・平出修1

から可能なかぎり忠実

に写

し乏

ってお

一195-一 一

う。月死出

の道草

』は大逆事件被

告が死刑

の判洗

を受

けた明治

四十

四年

一月十

八日から、処刑され

る前

日の

一月

二十四

日ま

での約

一・週間

の手記

であるが、

その主要

関心

は、無罪と信ず

る相被

の運命

へ向

けられ

たのであ

る。」

「彼女

の相被

に対す

る心くば

り忙は、.我

子を気づ

かう母性愛

に似

たものが

ある。」、そ

して彼女

の無政府

主義者

しての信念

からう

まれた

「こう

いう

不安

も煩悶もな

い姿

に、

テロリ

ストとしての甘さを

みること

もできるけれ

ども、こ

の生

死を超越

した姿

は、や

はり感

動を誘うも

のがあ

る。」、そう

した

ロリスト、あ

るいは革命家と

しての甘さ

は、「大逆事件

そのも

のの不用意

」脈通ず

る弱

」・であり、「故

に、『死出

の道草

』と

いう感

動的

手記を書

ことが

できたともみら

る。」と森

山氏は、管

野須賀

「弱

点」

への言

及を忘

れていな

い。そ

こが

、先

の三者

『死出

の道艸』観

と多少

ことな

っている。

の多

の違

いが

、実

『死

の道

艸』を考え

る場合

の大

きな問題

を含ん

でいるのではな

いか口

『死出の道艸』・数字

の謎

一196・ 一

天皇暗殺未遂事件

の直接

の実行計

画者

は、管野須賀

によれば、「私共

五、

六人」

であると

『死出

の道艸』

(十

八日の項)

には記

しており、

二十

一日に

「幸徳、宮下、新村

、古河

、'私

、と

此五人の陰

謀」と書

つけ

ている。素朴な疑問だが、先

「五、

六人」

(傍点

.吉

田)と曖昧な人数

を記録

しな

ら、後

「幸徳、宮

下、新村

、古河、私」

・「五人」と

しぼ

って

いるのはなぜ

か。「廿三日」.には、

「三、

四人」

に変

わる。どうも私には釈然と

しな

いも

のが残

る。ちなみに、事件

の真相

いち

はや

く肉薄

した石川啄木

は、

周知

のよう

に、「管

野すが、宮

下太吉、新村忠雄、古河力作」の四名

を暗殺企画者

と断定

して

いる。平出修弁護

はどう

か。「大逆事件意見書

「後

に書

す」

(『定本平出修築』

春秋社昭

40

・6刊)

は、

「静

に事

の真相を考

ふれば本件犯罪

は宮

下太吉、管

スガ、新村忠雄

の三人によりて企画

せられ、稻実行

の姿

を形成

して居

る丈

であ

つて、終

三人者

と行動

して居

た古

河力作

の心事

は既

に頗

る暖昧

であ

つた。幸徳伝次

に至

れば

、彼

は死

を期

て法廷

に立ち

、自

の為

に弁

の辞を加

へざり

し為

、直接彼

口より何物

をも聞

くを得

ったと

は云

へ、彼

の衷

心大

に諒

とす

べきも

のが

る。」

と、

主謀者

三人

して

いる

のであ

る。古河

力作

は参

画意

図が頗

る暖昧

であり、秋水

の立

上弁

一切

しな

ったが

、そ

の本

は大

に諒

とす

べし、

いう

つまり、

平出修

は、暗殺

未遂

かわ

った歴然と

した人間

「三人」

だ、

と確

ている

のであ

る。内

田魯庵

の自筆

『魯庵

随筆

(「日本古書

通信

」昭

53

・11

・12

に紹介

「内

田魯

『大逆

事件

』記録

(上)

(下)」

を参看

され

い。

『魯庵随筆

の発見者

は、朝

治彦

、槌

田満

文両氏

であ

る)

は、「二三名

にして皆

寝耳

に水」

いう

風説

を書

きと

めて

いる。魯

「二、

三名」説

に、様

々な伝聞

を整

しながら

最終的

には辿

り着

いて

いるよう

であ

る。

,

してみ

ると、魯庵

「二三名

」と

いい、

平出弁護

「三人」と

いい、啄木

「四人」

いい、当該者

の管

野須賀

は、

「五、

六人」

いは

「五人」

っている。-気妙

ことだ

。『管

野須賀

子全集

2』

「『死出

の道

艸』

註」

の項

を担当

た森

長英

三郎

は、「私共

五、

六人」

の箇

を、

「管

スガ

は、自

と、幸

徳伝

次郎

(秋

水}、宮

下太吉

村忠

雄、

河力

の五人を指

した

のであ

ろう。」

と解釈

しており、先

『明治記録

文学集

の神

崎清

の同

一部

「註

は、

平出

文章

「大逆

事件意

見書

を紹介す

るにと

ている。森

氏も神崎

も、.「五、.六人」

「五」

ついては言及

して

いる

が、何

須賀

子が

「六」名

も書

いた

のか、私

の素

な疑

には残念

ながら

ふれ

いな

い。

さら

「廿

一日]

の日記

には、

どう

して

「五人」と特

しな

おし

ている

のか、

それ

も私

には

よく理解

できな

い。

しかす

ると

「大

逆事

の真

実を

あき

にす

る会

のメ

ンバ

の方

たち

には、

の謎

は解

き明

かさ

こと

でし

かな

のかも知

れぬ。

一度山泉

遊民

あた

りにご教唆

を願

おう

と考

ている。他

にも私

の浅学

しな

ていただ

ける方が

あれば

、是

とも

お教

えを請う

しだ

いであ

る⇔

私が知

いのは、「六」名

と管

野須賀

子が考

たとす

れば

、後

一名

一・体

だれな

か、'と

いう

こと

であ

る。、

`

'

一197-一

論をすすめたい。魯庵、啄木、平出修が特定した事件にかかわりを持

った人間は、最少

で二名パ最大

で四名

であ

る。啄木

は幸徳秋水を除いて四名、中

に古河力作を加えている。.平出修

は、幸徳と古河を

一応暖昧と

して三名だけは、罪状を認めざ

るを得ない立場を採

っている。同じく弁護

人今村力

三郎

『甥言』(大14

・ーパ私の所蔵するガゲ版刷和綴本には表紙裏面に

「第三号」と冊数名が記

してある。句読点は

一切使用されていないのでそ

のまま引用す

る)には、「幸徳事件にあり

は幸

徳伝次郎管野

スガ宮

下太吉新村忠雄の四名

は事実上に争なきも其他

の二十名に至りては果して大逆罪

の犯意ありしや否やは

大なる疑問にして大多数

の被告

は不敬罪に過ぎざるも

のと認むるを当

れりとせん」とあり、レかしまた

「幸徳伝次郎

は主義

に於

て首領たるもの大逆罪

に於

ては首謀者

に非ず管野

スガ新村忠雄宮下太吉

の三人は或時相議

して自分等

一身を犠牲にし

て事を挙ぐるも先生

(彼等伝次郎を先生と呼べり)は無政府主義

の学者

なれば我等と共に

一命を失ふは惜

しむに堪

へたり今

後先生を除外して我等

三人主として事を挙げんと伝次郎も真意を諒

して中途

より謀議

に遠

ざかりしも刑法第七十三条

の50罪

は陰謀

のみにて成立す

るものなれば伝次郎

の半途脱退も遂に其身を救ふに足らざりしなり」と、秋水に関しては、首謀者

属さず、途中で戦列離脱をしているが

七十三条

は陰謀だけでも成立す

るから救うことが

できないが、言外にはすこぶる罪状

は模糊とす

る判断が働

いていたような記述

である。

平出修も今村力

三郎も、

してみると、秋水を首謀者

からははず

して考え、立場上まぬかれなか

ったとはいえ、刑法七十

にそのまま直線的

に該当す

るとは理解していなか

ったこと

になる。弁護側

の、それはほぼ共通した認識であ

ったとおも

つ 

てよかろう。啄木も、魯庵も、そして平出も今村

もパ可能な限り大逆罪にひ

っかかる人間を少数

に限定しようと努力

し、そ

れがこの事件

の真相であることに、+確信を深めてい

っていた。

その同じ時期

に、管野須賀子の

『死出の道艸』

は、そう

した

努力や真相究明に水をさすよう

に、「五、六人」とも

「五人」とも記

しているのである。

『死出の道艸』冒頭

に須賀子は、

この日記を遺すに

ついて、「死刑

の宣告を受けし今

回より絞首台に上るまで

の己れを飾

一198一

ず偽

ず自

ら欺

かず極

めて卒

に記

し置

かんとす

るも

のなれ」と、

・虚

を去

った

つわらざ

る自分

の本

心を綴

りおく決意

して

いる㊨

の死に臨

けなげ

な心性

まで、私

は疑

おうと

いう

のではな

い・。

にも

かかわらず、

「五、

六人」

るいは「五

人」

いう須

子が書

き遺

した数字

の真

が、

どう

しても

っかかる

のであ

る。

・「五、

六人」あ

るいは

「五人」

であ

るな

らば、'どう

しても森長

三郎

「註

にあ

ったごと

く、幸徳秋

の存

に加

・況てみ

る他

いのであ

る。

啄木

も魯庵

も、弁

の平出

、卓今村

、極

の事件

の渦

中外

にす

よう

した秋

を、

須賀

は、

いと

っさ

りと

「五↓

六人」あ

るい

は・.「五人ト

の中

に加え

いる。

のた

った

一名

が、須賀

の秋

にむけで

の、-「死出

の決意

を暗

ているよう

におも

てなち

のであ

る。

:

須賀

の破

願望

るい

は墜

こと

で上昇

る願

いに

ついて

は、拙論

[管

野須賀

子論」

(「明治

大学教養

論集

」`二百

三号

62

.3刊)

に私見

一端

は書

きと

めてお

いた

つも

りな

ので、

こでは重複

をさ

るが、

ただ、・わが

肉体

も精神

「月」

とな

る願

いに身を

こが

しながら、破

にむ

一直

にラデ

ィカ

ルな行

進を開

した果

に、大逆事

件が須賀

、一個

にと

って

はあ

・った

こと

にな

る、と書

いた内容

だけ

はく

り返え

しておきた

い。

の須賀

の破局

への道

き、

心中行

に、幸徳

秋水

は選

のではな

いか。「廿

一日」

の国記

は、

「幸

徳、宮

下、.薪

村、

'・古

河、

私、と

五人

の陰謀

の外

は、総

て煙

の様

な過去

を、一.強

みて此事件

に結

つけて

つだ

のであ

る。」

とべは

っきり秋

の名

を列

ている

のであ

る。同

日、

「幸

は絶

っても矢張懐

しい人

」と、秋

に寄

せる慕

いを

も同時

に書

つけ

ても

いる。須賀

「月」

とな

るため

の死

の旅

に、秋

いう慕

わし

い男性

は、

はりなく

はならな

い同伴者

であ

った、と

いう

のが

拙論

『死

の道艸』読

一つ

の推

であ

る。取

り調

べ中

は、秋水

助命

を祈念

した

のも事

で、

だから、

の心中

の同伴者

と決意

した

のは判決直

ことにな

る。

ただ

し、須賀

「廿

三日」、

田中教

務所

から、死刑

の半数

恩赦

によづ

て助

けら

た話

を聞

いた後

、「欲

はどうか

一199一

私達

三、

四人を除

いた総

てを助

けて貰

ひたいもの

であ

る。」と、

ここではまたも、計画中心人物

の人数

を、「三、

四人」と変

して

いる事実も指摘

しておかねばなら

いだろう。私を含

めて三、

四人な

のか、私他

三、

四人な

のか、文脈上不正確

では

るが、常

識的

に考え

るなら私を含

めた三、

四人、と読

べきな

のであ

ろう

か。すれば、秋

はこの部

の記述

内容

から判

るかぎ

りでは須賀

の道

ゆき

の同伴者

から除外さ

れたこと

にな

る。けれ

ども、私

は、や

はり前文に、「幸徳」と直裁

に記

した箇

の重

みにこの部

は勝

てな

い、と考

るっ半数

の同志

の命

が救

われ

た瞬間

の動揺

しなが

らも激

しい心理的震動

が、

筆・に伝

って、「私達

三、四人」と自然な

った

のだ、

と考え

るか、

で受け取

った弁護人

のだれ

からか

の示唆

によ

るも

か推

定す

る他あ

るまい。「幸徳」

と書

いた固有名詞

に托さ

れた須賀

子の慕

いの重

みに較

べるなら、

この部

コンテク

スト

コニ、

はや

はり軽

い。"

'

今村

三郎

『甥

言』に

こう記

している。「伝次

は畢寛

彼女

(須賀

・吉

田記)

の狂的情熱

に抱擁

せられ心身共

尽され

しな里若

伝次郎

スガとが夫婦

たることな

かりせば彼

の大逆事件

は決

して発生

せざり

tな

ん」。私

が今村

三郎

『甥

言』

に深

い感銘

を覚

るのは、た

しかに

この私

家版

の小冊

子が、冷静

な法的

手続

きと論

理、論証

いかんなく叙述

しな

がら、大逆事件

のあり

のまま

の姿

を涜び上が

らせ

ている点

にもあ

るが、今

一つは、引用文

のごとき、被告

たち

の精神史

のプ

ロセスにも同時

に目配

りを忘

れず、

かれら

の精神

の底にあ

った核

を正確

つかみなが

ら、事実

と心理

の相関

を全体

して叙

ている点

にあ

る。.須賀

の狂的情熱が秋水

を焚

き尽す、という表

現に

こめられた今村

三郎

の法的解釈論

を超

えた畑眼

は、事件を

人聞

の劇

とみ

る、

まさに文学的と

も称

せられ

る視座

なく

しては不可能

なみごとな叙述

であ

る。秋水

は、今村力

の洞察通

り、須賀

の狂的情熱

(それを私

「月

」にむ

って

「月」

に化

そう

した、肉体

も精神

もともどもに破滅

させ

消去

しよう

とす

る願望

「管

野須賀

子論」

で書

いた

つもりであ

る。)

から

めとられ焚

き尽された、

心中行

同伴者

して

選ば

れた

のであ

る。勿論

、道

きの同伴者

して焚

き尽された責任

の出

発点

に、秋

水自身

の思想と精神

の総体

があ

った

こと

一200-一

も看過

してはならな

い。それ

は後にふれ

る機会が

あろう

と思う

ので今

はその指摘

だけ

にとど

めてお

こう。

今村

の文章と、次

の西川文

一文

を連結す

れば、

より須賀

子と秋水

の精神

の結

びめとそ

の内実

は明白

になる。「あ

ら五十年ー

『大逆事件』を懐う」

(「武蔵

野。ヘン」第四号昭

35

・1刊。今

『平民社

の女』青

山館昭

59

・12刊所収。引用

は後

より)

に、

西川文子

は、「この人

は、

でに胸

の方もよ

ほど重

く冒

され

ていたようだ

し、

それに自身

の人生

蹉映

から来

等感や自暴自棄も

かなり強く手伝

って、結

局あめ

ような悲劇的最期

をわれと急

ぎ求

めたも

のではな

った

かと思

います。」

と須賀

子を

回想

しているのであ

る。

西川文

の短

いながら.も、印象批評

にし

かすぎ

いよう

この文章

に盛ら

れた内容

は、

には今村文

同様

に重要

だと考

えられ

る。「胸

の方」

は、

いう

までもなぐ胸

だけ

でなく、驚

ほど虚弱

で持病

に悩

まさ

けた

「宿病」を意味

し、「人生蹉咲」も

「宿病」

に重な

るよう

に度

々須賀

子を、幼少時

から襲

っている。「蹉鉄」と

「宿

病」が須賀

子を、自

らを

「罪

人」(「一週間

し明

35

・11

・29~

12

・28、『管

野須賀

子金集

1』所収

)と呼

「劣

等感」にさ

いな

む。

して

「あのよう

な悲劇的最期

を」、まさ

「われど急ぎ求

めた」

に、

ほども言

った須賀

の大逆事件が

った。

そう

した

「われと急ぎ求

めた」

「狂的情熱

の道

きの同伴者

して、秋水

「焚

き尽された」

のであ

る。

一201一

嘲̀

幟悔

の記録

『死出の道艸』

『死出

の道艸』

から読

み取りた

い第

の問題

は「

この遺書と

いえる日記

に読

み方によ

っては鮮

に浮上

して来

る須賀

「繊悔

」意

ついてであ

る。田

で若

の紹介と整理

を試

みておいたパ『死出

の道艸』

にふれた先

行文献

にここでた

ってみる。神

崎清氏

は、須賀

子を、失敗

したと

はいえ最初

に天皇

制批判を行動

に移

した

「勇敢

な婦

人闘

士」

であ

ったと

い、『死出

の道

艸』

は、国家権

の乱

用や大虐殺た

抵抗

した

「強靱な革命精神

によ

っ.て書

かれた

「白鳥

の歌」

である、と驚

している。『死出

の道

艸』が、須賀

子にむけての毒婦観や淫婦観

を払拭

し、彼女自身

二重

「犠牲者

「被

害者

」.

であ

った

ことを証

しゴ「革命家と

して

の地位と、正

しい

人間的評価

」が与

えられ

る契機

とな

る文献

であ

る、と

している。・

,

-

「勇敢

なる婦

人闘士」・が

「強靱な革命精神

に支えら

れても

のしたど

いう

、『死出

の道艸』観

にパ

はどう

も納

しかね

のであ

る。

からと

って、須賀

子が毒婦

であリパ淫婦

であ

ったど

いう風説

に賛

同す

るわけで

はな

い。

たとえば

、近年話題

にな

った斎藤道

一氏

『大逆

のと

き一

八レー彗星燃

えてー

(筑摩書房昭

60

・11刊)

にまと

められた須賀

子観

は、

この毒婦、淫婦

の風説

の延長線

にあ

るも

のと

いえなくもな

い。斎藤氏

こう書く

。「スガ子

の心変

のめまぐる

しさを

、持

からく

る情緒

不安定

と見

る人が多

い。半分

は正

しいだ

ろう。そ

の神経

障害と子宮病

は、幼

い時

から

の迫害と貧

の生活、

それ

に男

から男

へと渡

り歩

いた荒淫

によ

るも

のら

しい。進行す

る肺結

核が、尖

った神

経をさら

に過敏

にした

こと

もあろう。

しのこと

にも焦立

ちパ激

し、

るいは

メラン

コリーに沈

んだ。

の上

に、隆鼻術

の失敗

による刺激

までが加

わる。鼻術

どを思

い立

った

のは。.赤

旗事件

で逮

された時、…鼻

の低

いのを巡査

『シ

ャくれ

た女』と

から

かわれて憤慨

したためと

いう

のだから博もな

い。余

計な

ハイカラの報

いはてき面、注

入さ

れたパ

ィンが夏

は溶

てぐ

にゃぐ

にゃにな

るし、冬

はかち

かち

に固

って

しま

って、

ます

ます脳を圧迫す

るー

これらめ生

理的条件が彼

の情

動を不安

にした

こと

は確

かだろう。

が最大

の理由

は、や

はり強権

への怨念

と男

への慕情

の間

に揺

れ惑う女心

に求

める

べきも

のと思わ

る。」

と、.長

「生理的

条件」.を説明

した直後

に、-「だが」と続

「最大

の理由」・は、「強権

への怨念」

「揺

れ惑う

女心」だとす

る。'読者

は、

「だ

が」以下

の文脈

に素直に従

えな

い。前半

「半分」

の説明

にウ

ェイトを

いて読ん

でしまう

のであ

る。

「荒淫

などと

いう

語彙

が、

リアリテ

ィ」を持

ちすぎ

て、

「怨念

」や

「女心」が説得力をうす

めてしまう。後文脈

を、「最大」

しながらも、斎

の力点

は自然前半

におかれて

いるのは

一読

すれば明

かで、

の意

で私

は、

風説と

しての毒婦、

淫婦説

の延長線

に、

この斎

藤氏

の文章

もあ

る、と考

える

のであ

る。

一202一

「勇敢

る婦

人闘

士」と

この毒

、淫婦

、「荒

淫」

の女

、須賀

子と

の、

まり

に相異

した像

の彫

おど

ら感

る。

を本筋

にも

どす

。『死

の道

艸』

は、須賀

「繊悔

の記録

もあ

る。神

崎氏

は、先

の解説

に、

「『死出

の歴

史的

価値

は、

審院

判決

の批

判と

法廷

の描

に集

して

いる」

、・こ

の遺書

日記

の最大

の眼

「判

の批

と法

の描

写」

にあ

ると

して

いる。

いう

まで

もなく

こに

の日記

の中

に占

る質

量的

な最大

の話題

や課

題が

こと

は認め

ぶさ

ではな

い。無罪

の被

告たち

に関

心が集

しな

『死出

の道艸

なら

ば、管

須賀

は唾

べき非

人間的

人物

だけ

の事

実が

めら

るだけだ

ろう

。な

ぜな

ら、'己

れに責任

のあ

る、、も

.っと

も重

大な責

のあ

この事件

に関

る、

つと

も内情

に通

いた

はず

の人物

の手記

が、・通

じて

いたが

に、

こと

に言及

しな

いな

どと

いう

ことが

かり

にあ

るとす

れば

それ

は怯儒

しかな

いか

であ

る。

逆事

発生

から死

刑判

に到

る種を

いた

一人

は、確

に管

野須

であ

る。彼

はまこ

う方

なく

の事

の全

容を

りも知悉

して

いた首謀

一人

であ

った。護

れと護

れと護

れが

、、天皇

殺計

に加担

し、

の程

まで

実現

か、

の見

取図

を知

って

いた数

い人物

一人

であ

った。

から、

百パ

セントと

いえ

いだ

ろう

が、

れが有

でパ護

れが無

かも

、知

って

いた。知

って

いた彼

女が

、『死出

の道

艸』

に、

「慮

、気

の毒

る友

よ、同志

よ。

彼等

の大

は私共

五、・

六人

の為

に、

不幸

な巻

せられ

のであ

る。

私達

と交

して居

ったが為

めに、

此驚

く可

き犠

に供

のであ

る。

政府

主義者

であ

つた

が為

に、図

らず死

の淵

に投

まれ

のであ

る。

、気

の毒な

る友

よ、

同志

よ。」

と書

つけ

のは、

しろ自然

あり当然

であ

った。「只

廿五

の相被

中幾

人を

け得

れ様

かと、夫

のみ日夜案

じ暮

した体

」と書

のも

、「私

は不運

る相被

に対

て、

一言慰

めた

つた」と書

のも、

「気

の毒

でノ~

仕方がな

い」、と書く

のも、

人間

の情としてきわめて当然

であり自然なも

のだ。

啄木や魯庵や、

弁護

人平出

一203一

修、今村

力三郎

たちが、

この暗闇裁判

の政治的

フレームア

ップを解明

し、その理不尽な権力構造

のからくりを糾弾

した

のと

は、質

『死出

の道艸』

の裁判批判

はちが

っている。質的相

異こそ、

この手記

の根抵

に流れ

る罪意識

であり、、無実

の友、'

同志

に対す

る繊悔

の意識

のである。先

の拙論

「管

野須賀

子論」

で、「わが肉体と精神

の全体を滅ぼす

ことで須賀

子は、も

との清浄無垢な

『月』とな

る。『月』とな

った須賀子の足跡

に、

の人たち

の屍が横たわ

っていたとすれば、

彼女

の歩んだ

三十

一年

の生涯が残

した、計量不能

の負債

はなん

であ

ったか。」と記

したのは、

そのことに他ならぬ。

計量不能

な巨大な負

債と

は、友や同志

に対する罪と繊悔

の意識

である。「生来

の罪

人」

(「一週間」)と

して、生活苦と宿病と凌辱

の痛

に(そこから脱却す

る道

のみを模索

つづ

け、寒村を知

ること

でパ汚れし罪

の世

に闘

いを挑

み、罪人である須賀

子が罪

の世

と、己

が身

を消去する

ことでともに清浄と化そうとした行為が、

罪な

き人

々の屍を積

むことにな

った、

と思念

した時、『死

の道艸』

「繊悔

の記録」とな

った

のであ

る。.

中教務所長

から、相被告

の死刑

囚が半数

以上助けられたと聞

いた須賀

子は、

「欲

にはどう

か私達

三、

四人を除

いた総

を助けて貰

ひた

いものである。其代

りにな

る事

なら、私

はもう逆礫刑

の火あ

ぶりにされやうと、-背

を割

いて鉛

の熱湯

を注ぎ

込まれやう

と、

どんな酷

ひ刑

でも喜ん

で受ける。」

と喜

びと焦燥を

かくさない。

罪と繊悔

の意識が痛烈

であればあ

るほど、

この文言

にはリアリアィーがでてく

るのである。

平出修

の来信を須賀

子は書

きと

めている。

「判決

の当否

は後世

の批判

に任

せませう。

又貴

下に対

しては何

の慰言も無用と思ひます。覚悟

のな

い人が覚悟を迫られたらどんな心持

でしたらうと、

それ

が私

の心を惹

いて十

八日以来何

にも

手に

つきません。」と、須賀

の心中

の最

も底におもいを

いたした平出修

書信、そ

平出

だから

「逆徒」

「計画」を残

し得たのだ、と思う。平出修

の言葉が、須賀

の精神

の中枢

をえぐ

った。須賀

子は、修

来信

の引用

つづけて

「臆、弁護

士さ

へ此通りに思

はれ

るも

のを、同志として、殊に責任ある同志としての私が堪

へられな

い程苦

しんだ

のが無

理であ

ろう

か」と書

かず

にはいられなか

った

のである。

一204一

ころが、罪

と熾悔

の意識

、『死出

の道

艸』

に直

接言葉

して表

現され

ているわけ

ではな

いこと

は、

まで

の引用箇所

けでも理解

れよう。罪

や繊悔が神

にむけ

の意

だと狭義

に解釈

してしまえば、

この遺稿

にはそれ

はな

いと

いわざ

るを

い。

し、罪

や俄悔

必ら

しも神

に対

てだけ

ではな

く、己

れ自身

にあ

いは他者

に対

して、そ

の責

の重

大さ

ら許

しを請

いなが

、「堪

へられな

い程

しんだ」

みを表

現す

る場

も、

はりそ

れは罪

と繊悔

の意識

を基

にお

いたも

のだ、

と広義

に私

は解

る。

'

野須賀

一度

リスト教

に接

し、身

を寄

せて

いる。

明治

三十

五年頃

のこと

であ

る。聖書

も真

に読

だ。「神

の摂

すく

理」とか

「基督教の聖潔」と

かの語も随所に見られる文章を認めたのもこの時期であ

うた。生活苦、宿病

の痛み(凌辱

によ

ってうけた心底

の傷、そう

した幼少期から娘時代にわた

った想像を絶する体験が、・聖書を読むこと

で、キリスト教

に身寄

をすることで、潜在的に、水面下にあ

った須賀子の

「生来

の罪人」意識を、表面に引きだし、

そう

した言語表現を生んだ。

己が身心全体を

「罪人」と確定

したところから、美化され増幅す

るか

つて母ありし頃

の清い尊

い過去をバネ

しながらべ清浄

無垢なる身心を今

日において復活させたいと願う心が、きわめて自然

にキリスト教

に彼女を近づけた。

しかし、荒畑寒村と

の出会

で、あるいは彼を愛することで、自己変革と社会変革を通じて、罪

の自分も罪の社会もともどもに清浄と化す可能性

がほの見えて来

た時、須賀子のキリスト教棄教から社会主義

へ.の転換が始ま

った

のである。

思想がどれ

ほど体系化され、

また骨肉化されたものであ

ったか。須賀子の社会主義

から無政府主義

に辿

ついた思想的内

は、今後、清水氏

の努力によ

って輯

められた

『管

野須賀子全集』全

三巻を巨細に検討す

る他あるま

いが、ここでは、須賀

の社会主義、無政府主義思想

の理解や体系化

の度合

一応別として、彼女がキリスト教体験

から、棄教にいたり社会主義、

さらに無政府主義におもむいた軌跡だけ確認しておけばよい。そうした宗教的思想的遍歴を体験

した須賀子が遺そうと

した

『死出

の道艸』の中に、無宗教者

であ

ることに誇りすらも

っていた心境が語られているのはいうまでもない。

「十九日」

一205-一

に次

のような記述が

る。、

.一、

.

 .

±

「夕

方、沼波教講師が見

る。相被

の峯

尾が

、`死刑

の宣告を受

けて初

めて他

の信仰

の有難味が

わか

つたと言

って些

も不安

の様

が見

えぬ

のに感

したと

いふ話が

る。そ

して私に

も、宗

教上

の慰安

を得よと勧

められ

る。私

は此上安

の仕

はあり

ませんと答

える。絶

に権威

を認

めな

い無政府

主義者

が、死

と当面

した

からと言

って、遽

かに弥陀

いう

一の権威

って、被

めて安

心を

ると

いふ

のは

〔真

の無政府

主義者

して〕些

か滑稽

に感

じられ

る。然

し宗教家と

してパ教

講師

て、

は沼波さん

の言葉

は尤もだと思

ふ。'が、.私

には又私だ

けの覚悟が

あり、慰安

があ

る。」、.あるいは

「廿

三日」の項

では、

「死者

の骸が煙と成

り、又

それρ\

分解

して

もと

の原

子に帰

った後

に、霊

魂独り止

って香華

や供物

を喜ばう

などと

は、.

より思

っても居

いのだ

から、考

へて見

れば随

分馬鹿く

い話

ではあ

る」

とも書

いている。、

.ここに

はべ無政府主義者

であ

る人間が、.たとえ死に臨む涯

に立

たされたと

しても、宗教

の慰安

を得

るのはお

かし

いパと

う、

しかに、

唯物論的思考

に支

えられた、須賀

の決然

る昂然

る反宗

教的態度

の潔

さがにじみ

でていて、

それなりに

感銘

をう

ける。

かよわ

い女

の身

で、神

にもな

ににも頼

こと

なく、己

一個

の覚悟

と慰安

を、死を目前

にしても

なお

一筋

に貫

こうと

して

いる姿。

それは護

れもが真

のできるも

ので

はな

い、と

いう意味

で、管

野須賀

のこう

した姿

はパ

みごと

あり美

しいとす

らおもう。

.

'

'

野須賀

のこう

した決然

る最期

の態度

は美

しい。

しかし美

しけ

れば美

いだけ、

みごと

であ

るだけそれだけ、彼

の苦悶

は深

められ増

して

ったパラ

シクルな心性風景

は、荒

涼と

したものと

して私ども

には映

って

こな

いか。彼女

ら罪や繊悔

った宗教

言語を拒絶

し、唯物論的言語を駆

使

して

「美

しく」

しかも

「荒涼と

した」覚悟

を語

ねばなら

った

のであ

る。計量不能

の負債

を背

って、罪

なき人

たち

のおも

いに心を

いたす時、彼女

は己

一個と罪な

き人たちに

むけて、

「罪と織悔」

どと

いう宗

教的言語を

あくま

で拒

みながら、唯物論的言語

でそれを語

る方法

し、かな

ったはずであ

一一206-一

る。だ

から

「苦

しい」と

しか表現

できな

った

のであり、

、神

崎氏

のいわゆる

「大審院判決

の批判と法廷

の描写

に集中し

してい

かざるを得なか

った

のであ

る。「罪」や

「俄悔」.と

った宗教的言語を拒み

つつ、そ

の意識を

「告白」

るとすれば、

非常

に屈折

したパラド

シクルな

「繊悔

の記録」とべ『死出

の道艸』は

、ならざ

るを得なか

ったのであ

る。「廿日」

の項

に、須賀

手記

から削

ろうと

した歌。

'目は言

ひぬ許

し給

へとされどわが目は北海

の氷

にも似

`

"

こに

は、

「臓悔

いう表

ぬと

いう

決然

る態

の美

しさを

こう

した

一人

の人間

の、荒

風景

いな

いかゆ

"

'

.

,

'

「常識

の手

『死出

の道艸

』.

一 ・207-一

「常識」論

の前提

明治

四十年代、

いわゆ

る大逆事件前後の民衆

の、明治社会主義思想や

それにかかわ

った人

々に

「常識」的

理解

は、ど

のような内実を持

っていた

か。端的に

いえば、明治四十年代

の日本民衆

は、、社会主義

なるも

のの姿をどうおも

いどう

考え

ていたか、と

いう

こと

であ

る。

「常識」

の実態を鮮明

にとらえることなく

しては、

いかなる思想も文学も運動も営

みを開始するわけにはいかな

いはず

ある。す

べての歴史的ダ

イナミズムは、

この

「常識」

の層と

の対決

であり、「常識」

の層

の厚

さを計

量で

ぬ動態

は、壁

むけて立

ちむかい粉砕され

るか、お

つぶされるか、妥協するか、あるいは逃げ

るかしかな

い。国家的

イデ

ロギー

の上

の圧力や懐

柔と民衆自

の慣

習や思考

とが、微

に複雑

にからまりなが

ら、層

を幾重

にも積

でいき、

めて

いく

。時代

の現

におけ

るそう

した

「常識」

の層

に、

れほど透徹

した眼光

を持ち得

かが、思想

や文学

の側

に課

せられた責任

でも

ろう。

しで

「常識

に与

みす

る場合

も、無知

ゆえ

「常識

の層深く

埋没す

る場合

も、と

「常識

の層

を支

いるこ

かわり

はな

い。

「常識

」が

国家

を安定

せ、野望

の実

現を

たやす

いも

のにす

る。「常識

の層が複雑

り、

から

まり重

り合

ってゆけばゆく

ほど、反

「常識

の側

に身

をおく先覚者

は、焦燥

し孤立

し自暴

自棄

とな

る可能

は否定

できぬ

歴史的事

であ

ろう。

日本近代

の反

「常識

の側

に身

ゆだね

た人たち

の辿

った限

りな

い軌

跡が

それを証

ている。

「常識

」と

はなに

か。水

田洋氏

『社

会科

の考

え方』

(講

談社

現代新書

50

・5)

「第

一部ー知識

ついて」

の中

で、

のよう

に簡明的確

にまとめ

ている。「常

識」

は、「それ

は、自

]人

のも

のではなく、またそ

の瞬間

だけ

のも

のでも

なく

て、

かなり

おおく

の人

により、

かなり

の期間

にわた

って、真

理と

して承認さ

ている知識

である。常

識が

それ

ほど

にま

で信頼

のは、す

でにおおく

の人が、

おおく

の場所

と時

にお

いて、

の真理

性を検証

してきた

ことが、前

提さ

ているから

る。

しかし、検

は、真

理性を

うたがう

こど

から

はじめられ

のに、常識

して信

頼さ

れる

よう

にな

った知識

は、

そう

たが

いをう

つけ

い。

れかが、

つか、真

理性を検証

し確認

し、

かのだ

れも、そ

れをう

たが

わな

った

(う

たが

必要

った)、と

いう

ことが、常識

の性格

であ

る。」と、さ

に長

い引用

にな

るが、肝

心な箇所

ので

つづ

てお

こう

「したが

って、常

は、う

そで

はな

い。

つてそれ

の真

理性

が検

証さ

れ、

ろく

承認さ

れたと

の、諸

条件が存続

かぎ

り、真

であり

つづ

る。

だから、条件

が変

しな

い平穏無

事な

日常性

にお

いては、常識

の権威

は強

力で、そ

れに反す

るよ

な実感

は、例

また

は虚

偽と

して、

しりぞけら

てしまう。

のば

いに特

徴的

のは、対立す

る常

識と実感

の、

どち

であ

り、

どち

らが偽

であ

るかに

ついても、検

証が

こな

われな

いこと

であ

る。

両者

が対立

のは、あ

たら

い事実

一一208一

発生

したた

めかも

しれず、

そう

であれば

、実

にもとつ

いて常

識が修

正され

なければな

らな

いのだが、他

および過去

への

信頼

つよいため

に、

の必要

が感

じら

れな

いのであ

る。」

と、「常識

の強力

な権威

の存

の様態

を鋭

く指摘

している。

「常識

の側

に身

をお

いた社

会主義者

や無

政府

主義者

たち

「実

感」

から

スタ

ート

して理論

で武

し、明治

四十年代

日本

民衆

「常識

ある

いはそれを国家

レベ

ルで操

し構

して

った権

の中枢

にも闘

いを

いどんだ事実

を、私

ども

てはなら

いし、

い評価

をす

べき

こと

と信

る。

れども、

同時

に私ども

は、

かれらや

の指導者

的立場

いた人物が、明

四十

の複

雑微

から

まりあ

いなが

ら重

層構

をな

して

いた

「常識」

を、

の程

正確

に計

しそ

のおどろく

べき実態

を、

まさ

に実感

してそ

の思

想や運

にとり

れ咀噛

し、痛

にわがも

のと

していた

かどう

か。

「常識

を計

量す

る、冷静

で論

理的

な思考

に堪

えら

るだ

の、反

「常

の精神

を培

おうと

した

かどう

か。水

田洋

のいう

「常

の権威

は強

で、

それに反す

よう

な実

は、例外

また

は虚偽

して・

しり

ぞけられ

しまう」危

機感

から

、,どう論

理や運

動を

て直

し、歩

一歩

の前進

ねが

いなが

ら地道

で着実

な努力

、あ

きら

めな

いで持続

したの

かどう

か。.

かに、・明

四十年代

の歴史

的状

況が、宿

命的

にかれらを追

つめ、追

つめら

れた

かれら

のや

むを得

ぬ必然

の行

ったと、大逆

事件

いた

る運

動史

を位置づ

ことも

できなく

はな

い。

いう考

え方

からす

れば

、・す

べての歴史

は、

現代と

のか

かわりを全く

もたな

い博

物館

の陳列

品とな

ってしまう。

陳列

の個

々の姿

を、必然

の糸

で結

でゆく

だけ

の学

問的作

に・

はた

してどれ

ほど

の意

味が

ろう

。歴史

の糸

現代

にま

で連結

し、現代

から

の糸

たぐ

り寄

歴史

を検証

し、生

してゆく。

また歴

の糸

を逆

に現代

にむ

ってたぐり寄

せてゆく。順

逆両様

の視座

や作業

から、歴

史と現

代を重

てそ

こからな

にかを

ひきだ

てゆく。

それ以

に歴史

と学

問と現代

アクチ

ュア

ルな、

してポ

ッシブ

かかわ

49方

はな

い、と私

はお

もう

'

"

`

マ・.

:

'

一209一

パ管

野須賀

の刑死直

の日記

『死出

の道

』を論

じる前

提と

して、「常

識」論

を水田洋氏

の文章

を引用

しながら書

てお

きた

い、と考え

た基

の理由

はそのためであ

る。「常識

」論を糸

して

『死出

の道

艸』を読解

してみ

い、と

いう

のが

本章

の目的

であ

る。

では、明

四十年代

のおどろく

べき

「常識

の層

は具体

にど

のような

のであ

った

か。

`わ

.山下

重民

「◎官

民共

に恐擢警

戒す

べし」

・『風俗

画報』明治

四十四年

二月

五日発行第

四百十

七号

に掲

げら

れた

の文章

ついて

は、「大逆事件

の真

実を

あきら

る会」事務局長山泉進氏のご好意

で、「『風俗画報』

の大逆事件記事ー」その紹介と若干

の私見-

」と題して全文を

「大

ュ4ー

ス」

(昭

62

..1

.25第

25号

),に

いた

た。

の拙

の構

ても

再録

てお

い。

「大

ュ]

ス」と

こと

るが

い。

新年特別裁判事件

の決定するや。臣民中に此の如き暴挙を発生せしむるに至りしは施政其

の宜しきを得ざるに原因せ

て。総理大

臣、内務大臣を首一め。農商務一文部の両大臣、警視総監、散田保局長に至るまで。各自関下に伏して待罪書を奉呈せしに。優渥なる聖旨

を賜りしと伝ふ。固より応さに然るべき事

.なり。吾人臣民も亦其の同胞中より前代未聞

の乱臣賊子を出したることなれば。同

じく恐捜

して深く謹慎

の意を表し。互に警戒して再び此の如き者を出さゴることを期せざるべからず。

神武天皇即位紀元より本年に室

る実に二千五百七十

一年。未だ臣民として危害を至尊に加

へ奉らむとせし者あらず。或は

一、ただ皇位を

競観せし音なきにあらずと錐も。天詠踵を施さず。万世

一系世界無比

の国体にして万邦に冠絶せるは。天下億兆

の普く知

る所なり。鎌

,倉幕府以来政権は久しく武門に移りしも。皇室ば安きこと富嶽

の如く。未だ嘗て動かざるなり。元亀天正の際英雄割拠し。兵馬倥偬な

りしも。

一人も至尊に敵対せし者あらざりしなり。徳川民政を執ること二百六十余年。未だ嘗て此の如き兇徒を出さず。其

の末年大老

.伊井直弼勅命を待たず専断したりといふを以て。外桜田に流血の惨を見たるにあらずや。足れ教育勅語に

「識力臣民克ク忠

二克ク孝

億兆心ヲ

ーニシテ世々厭美ヲ済セル」と宣明あらせられたる所以にして。歴史上明白なる事実なり。

是を以て吾人臣民は。主として世界列国に誇り居たるに。今や不祥事件を生ずるに至りしは驚嘆に堪

へず。且

つ列国に対して恥辱とす

る所なり。吾人臣民

の常識を以て判断すれば。彼等の言動は全く夢だも及ばざる所にして。狂人と見るの外なし。彼等は巳に国体を無

一210一

し。祖先

の遺訓に背馳し。秩序を破壊せしむとしたる着なれば。帝国臣民たるの意志なき者なり。さてこそか』る暴挙を企てたり。

足れ明かに喪心して常識を失したる者にあらずして何ぞや。

今上陛

下聖徳

の宏大なる前古比なく。版図亦随

て拡張し。臣民斉しく悦服し。共に心を

一にして力を尽し以て益

々維新の皇猷を恢弘し

奉らむことを期せざ

るはなし。然るに帝国

の地に生れ。帝国

の米を食みで生長したる彼等にして。此

の如き前代未聞

の事を謀るに至り

七は。特殊

の事情なかるべからず。吾人臣民

の感化に因りては。決して思想

の此に至ることなきを信ず

るなり。

果せる哉裁判文に

「被告幸徳伝次郎は夙

に社会主義を研究

して。明治

三十八年北米合衆国に遊び。深く其

の地

の同主義者と交り。遂に

無政府共産主義を奉ず

るに至る」と。其

の由来する所を明記

したり。是に因て之を観れば。彼等

は全く外国人に鼓吹せられ。其

の感化

を受けて帝国臣民たるの意志を滅却したるや明かなり。鳴呼彼

は国体

に対する信念

の葦囲ならざりしより。外国人の為めに誘惑せられ

たり。足れ将来

の警戒に就て最も講究せざ

るべからざる要点なりとす。抑

々我が帝国と欧米

の国体とは全く異なるよリ。臣民若くは人

の信念も亦随て異なり。去年中島文学博士欧米漫遊

の所感を演説したる

一節に云。余

は欧羅巴に至り。

日本国民として誠

に有難く感

じたることあり。欧羅巴各国にてはいかに盛にいかに富る国にても。皇室又は主権者

に対する感応が日本とは全く違

へり。是れ万世

系ならざるが為めならむか。兎に角両陛下に対して彼等は単に主権者なれば服従し居ると

いう風なり云々と。殊に皇室なき共和政体

米国に至りては其

の人民

の意志知るべき

のみ。.

ふる危険なる外国に向ひ。信念

の童画ならざる者

の渡行ずるに就ては注意す

る所なかるべからず。又外国に生れたる帝国

の子弟は。.

本国に対する信念白ら厚からずと聞く。足れ亦警省せざるべからず。徳川幕府

は耶蘇教徒

の反乱より深く

こsに注意し。遂に国民

の渡

航を禁絶

したり。之が為めに幾分か国民

の発展を抑圧したる所ありしも。危険

の思想を杜絶し。国家

の平安を維持したるの功は大なり

とす。今や列国と締盟し。通交貿易を為し居れば。渡航禁止は為し得べからず。又為すべきにあらざれば。別に提言

の方法を講

じて予

防せざ

るべからず。今

一二の卑見を左に陳述すべし。

■第

一、教育法を完全にし。先づ国家に対する信念を輩固にし。、忠孝

の大義を明かにする事。

第二、本邦在住者

の多き外国には。特に小学校を建設し。教員を派遣し。其

の子弟に本邦

の教育を施す事。

第三、内外

の出版書を厳重に検閲し。危険なる説を載するも

のは直ちに之を禁絶する事。

第四、外国渡舟航者を調査し。危険と認むる者には旅行券を交付せざる事。

第五、危険説を主張する外国人並に同

一の帰朝者に対しては厳重なる処分を為す事。

・一第六、芝居、寄席等

の提警を厳重にし。且

つ神官僧侶等をして。盛に帝国思想を鼓吹せしむる事。

一211一

完全なる教育を受け。国家に対する信念輩固にして忠孝

の大義に明かなれば。縦令外国に赴き巧みに暴説を主張する者に遭遇すること

あるも。彼が為めに誘惑せられ。其

の感化を受ることは断じてなかるべし。文部大臣が今回の不祥事件に対し。文教普からざるの致す

所なりとて。責を負ふて待罫書を出したるは此が為なり。教育勅語の御趣意にして

一般に貫徹しあらむには。何ぞ此

の如き兇徒を出さ

むや。故に今後は官民均しく恐擢謹慎し。教育陶冶の方法を講究し。外に在りては師友内に在りては父兄たる者。朝

に説き夕に諭し。

忠孝の大義に基き。完全なる人物を養成し。以て外国に当ることを要す。若し日下郷党に暴説を唱ふ者あれば。丁寧に之を説諭し。若

し服腐せざれば衆を挙げて排斥し。大に制裁を加ふべし。足れ帝国臣民

の責任なり。外国に滞在せる少年団体の教育は。外国人をして

之を掌らしめては。国体の異なるより忠孝

の大義を以て薫陶する能はず。他日危険に傾くの恐あればつ特に学校を設け。本邦

の教員を

派遣して教授せしむべし。

近来輸入の書籍には危険

の説を載する者多しと聞く。宜しく検閲して共の発表を禁止若しくは没収すべし。内地に於て出版せるものも

亦然り。決して風俗壊乱

のも

のにのみ止むべからず。足れ予防の

一方法たり。

外国の渡航者に対しては、所轄警察署をして調査せしめ。所謂注意人物たれば。渡航免状を交付すべからず。危険をして益

々危険に瀕

せしむるの虞あればなり。

危険説を主張する外国人並に同

一の帰朝者に対しては。厳密に探偵し。

一たび其の説を発言せば。直ち

拘引し。外国人は放逐

し。邦人は厳罰すべし。

芝居、寄席等は衆人

の群集する所なれば。努めて勧善懲悪

の所作並に談話を為さしめ。又村夫野老に対しては所在

の神官僧侶をして平

易に大道を鼓吹せしめ。感化を其の子弟に及さしむべし。其

の効果は必らず大ならむ。

当局者は恐擢伏奏するのみにて。今後更に其

の提警を厳重にし。退絶

の実栗を挙るにあらざれば。瞳職

の責は免るべからず。

一般臣民

も亦同胞中より再びかsる兇徒を出すことなきを期し。互に警戒して匡正する所なかるべからず。否らざれば外国に対し。国体

の尊厳

を示すこと能はざるべし。吾人臣民

一生

の任は国体を衛議し。万世無窮

の皇運を扶翼し奉り。忠孝の大義を尽すに在り。今

の時は豊に

千型眼

の如き区

々たる事項に熱中する時ならむや。因て卑見を陳して赤誠を表す。

常識人の大逆事件観

以上が、『風俗画報』編集主幹

・山下重民

「官民共

に恐擢警戒す

べし」と題

した

「説苑」欄に掲げられた文章

の全体

ある。

の号

『風

俗画報』

は、他

「万世犬

戎」と題

した

「大

逆事件判決書

一部抄録

、「減

の恩命」

なら

一一212一

「刑罪執行

の様

子を伝

る記事が載

っている。「大逆事

ュース」

にも書

いたが、

一度

山下重氏

る人物

の像

を、

武外骨

、西田長寿

『明治大正言論資

20明

治新

聞雑誌関係者

略伝』

(みすず書

房昭

60

.H刊)と、書誌研究

懇話会編

『「風

画報」目次総

覧』

(龍

漢書

舎昭

55

・7刊)巻

の槌

田満

「『風俗

画報目次総覧

』解

説」を参看

しなが

ら紹介

ると次

のよう

な人物像が

おまかに

ではあるが

かぶ。

-

山下重

民、

一安政

四年

に生

れ、

和漢

の学

に通ず。明治

六年太

政官

に出仕、十

一年大蔵省勤

務と

なり、十

九年

一度官を辞

たが復

して、四十

三年

で在職。

の間

の明

二十

三年

「門松考」

『風俗画報』

に発表。

以降熱

同誌

寄稿家

る。

二十

七年大蔵

省官吏

の仕事

の傍

らパ

乙羽渡部

又太郎

の後

を継

いで

『風俗画報』編集

執筆

の中心的存在

とな

る。誠実

な官

して生きなが

ら、

同時

に役所

ひく

一私

人、市

の学究と

して、

「夕

から夜

かけ

て東陽堂

『風俗画報』.の編集

に従事

し、帰

は連

日深更

に及」

ぶと

いう生

活を真面

に続

けている。官

僚と

してきわめ

て誠実

であり、

また

一市

の学究

しても

いう

までもなく篤実

無比

であ

った。い

わば

、明

の良識

であり、良識

そな

えた典

型的

「常識

人であ

ったと

よう

、と

おもう

「官

民共

に悪摺警

戒す

べし」

一文

は、

から、悪意

や中傷

に彩

れたデ

マゴ

ーグ

の文章

などで

はさ

らさらな

い。

しろこ

の時

「常識

」、

いわゆ

る良

心的

「常識

の発語

に他

ならな

い。「常識

の側

から

つわらざ

る大逆

事件

にむけ

ての感

が、素

に発語さ

ている。

つて私

は、大

逆事件

や明

治革命運動

に対

して中傷

と悪意

と誹

つらぬ

かれた右

サイド

小説

『憂

国志

・大逆陰

の末路』

(泡雪蕾著

)をと

りあげ

てお

いたが、

大逆事

件研究が

の関係者側

からだけ

の資料

みな

らず

、右

も左

もあ

いは市

井人

の感慨

や感想や考

え方も総合的

に発掘

検討す

べき時期

にき

ている、

と考

ているから

ほかならな

い。

それが

たと

え悪

に満

たデ

マゴーグ

であ

ろう

とも、無視

せず

に見す

てゆく

必要

を今更

なが

ら感

じて

のであ

る。視座

を固定

してお

いて、資

料を選

別す

るのではなく

て、あら

ゆる

立場

から表現

された文献

や記録

を、

いとわず

一213一

に点

てみ

る。

つまりそう

った微細

な言動

の集

合と総体

が、実

は明治

四十年代

「常識

」と

・「常

識」

の実

態を全体

して明ら

てく

る、と信

るから

である。

この拙論

の末尾

に、

大塚善

太郎著

『非社会

主義

(明

44

三2刊東京堂

発売

)

「附録

に於

る日本

人社

会主義者

の暴状

」全文

を、デ

マゴ

ーグ的

文章

でありなが

ら新資料

して紹介

してお

こうと考

る所

でも

ある。

をそなえ

た常

.山

下重

「官

民共

に恐催

警戒

べし」

は、

「常識

」論

つら

かれ

いる。

たとえば重民自身

「吾

人臣

の常識

を以

て判

断す

れば」と

この論

が奇

を街

った

り、独断

をお

つけた

り、偏

から裁断

るも

のでは決

して

く、

あくま

でも、良

心的

るごく普

の日本

人ならば当然

備え

ており確信

して

いる・「常識」

を前提

して論

ると

こと

って

いるのであ

る。

田洋

の先

の文章

にあ

った、「自

一人

のも

ので

はなく、

また

の瞬

間だ

のも

のでもなく

て、

かなり

おおく

り、

かな

りの期

にわた

って、真

理と

して承認さ

ている知識

」と

して

「常識

」べそ

「常識」

の層

の中

にためら

いも

なく

した場

を占

めなが

ら、「それ

に反す

よう

な実

は、例外

また

は虚偽

して、

しりぞけ」

てしま

おう

る良

心的市井

人、

篤実

な学究

.山下重氏

にと

っては、幸徳秋

ら大逆罪

関係者

は、す

べて

「前代未

の乱臣賊

子」な

ので

る。「彼等

言動

は夢

だも及ば

る所」、あ

る例

外的な

「特

な事情」

でしかな

い。

この山下重

の良

にお

ける

「常

」と

は、「国体」

であ

「国家

であり、「祖先

の遺訓

であり、

それら

によ

って保持

され

いる

「秩序」

のであ

る。「彼

は已

に国体

を無

し、

国家を忘却

し、祖

の遺

に背馳

し、秩序

を破壊

せむと

したる着

なれば、帝

国臣

たる

の意

き者な

り。さ

こそ

ンる暴

挙を企

てたり。

是れ明

かに喪

して常

識を失

した者

にあら

して何

ぞや」と

いう

ことにな

る。「常

を失

た'る

はす

わち

「狂人

と見

る外

」な

のであ

る。

「常識

の側

に身を

よせた幸徳

や管

野須賀

は、「常

識」者

からな

るなら

「乱

心賊

」であり

「狂

人」

であり

「兇徒

」〒であ

る。

一214一

「乱心賊子」「狂人」「兇徒」

であ

るかれらを、「禁絶」

「禁

止」「処分」

「制裁」「排斥」

「没収」「探偵

」「拘引

」「放逐

」「厳

罰」

「逼絶

」す

るのは自明無論

の措

だとす

のである。

山下重

はまこう

かたなく誠実

に説

いて

いる。政府要

にむ

も、

一般

国民

にむ

っても、心

の底

から良

の叫

びを

あげ

ている。「遍絶」

せよ、と叫ん

いる。「逼絶」と

は、

一族を残ら

ず滅

ぼす意味

であ

る。全滅す

るまで弾

圧し

ろ、と

っている。役所

でた

「夕方

から夜

にかけて東

陽堂

『風俗画報』

の編

に従

し、帰宅

は連

日深更

に及」

ぶと

いう

心豊

かで真面

で篤実な

一市井

人山下重氏が、残滅

せよ、と声

はりあげ

て訴

いる

のであ

る。

そし

て重

の叫

びや訴え

「天下億

兆」

の日本人

「常識」が、

たしかに万雷

の拍

手をおく

った

はず

る。

「常識」が

「狂

人」を圧倒す

る現実が

、厳

してあ

った。デ

マゴーグも、

また重氏

のよう

な良識者

も、権力者

も、日本民

も含

めた複

で微妙

にから

まり合

いながらパ

途方もなく部厚

い壁

とな

った

「常

識」

の重層構造

の前

では、幸徳や管

野は非

「狂

人」

でしかなか

った。石川啄木が

、,「我

々青年

を囲締す

る空気

は、今

やもう少

しも流動

しなくな

つた。強権

は普く国内

に行恒

ってゐる」

(「時

代閉塞

の現状」筑摩書房版

『石川啄木全集第

四巻』

56

ご6判)と記

した文

の内実も、

のことと結

つく。

'

、.

、④

「常識」

の手記

・『死出

の道艸』・

啄木

は、重く厚く

たれ

こめゆ

るぎ

い層を幾重

にも

かさ

ねて積

みあげ

られ

た明治

四十年代

『常識

重層構造

を、「我

々青

年を囲続す

る空気」と言

った。「強権

の勢力」が

あま

ねく国内各階層

の人

々の意識

に広が

り深化

し、動

かしょ

状況

を、「時代閉塞

の現状」と称

した

のであ

る。

それは、良識

の典型

.山下重

のよう

な人物

の脳髄

にま

で深く根

はり広が

って

いた事実

はす

でにふれたと

おりだ。

した

「常識

の重層構造

に対す

る鋭

い認識

が、管

野須賀

『死出

の道

艸』

にどれほどあ

ったか、

ある

いはな

った

か・

一一2玉5-一

いう試論

的課題

つなが

って

いく。

.

.

.

.

.ξ.

「十

日」

の項

から引用を始

めてみ

よう

。「我等

は畢

克此世界

の大

思潮

、大潮流

に先駆

て江津

る大

し、不幸

して暗礁

に破

れたに外

ならな

い。然

し乍

の犠

は、

かの必ずや踏

まなけ

れば

なら

い階

である。破

船、難

船、

其数

を重

て初

て新航

は完

に開

かれる

のであ

る。

理想

の彼岸

に達

し得

る。」と

いう

。[世界

の大

思潮

、大潮

流」

は、世界

革命

運動

の潮

を意

いよう

の革命運

の先覚

して

「我等」

(三、

四人)

は闘

いを

り船出

した。¶具体

は天皇

暗殺計

を実行

しようと

した。

けれ

ども、

「不幸

にして」

は、

政府

を中心と

る権力側

「驚

き無

法な裁判

(「廿

一日」

の項

)

によ

ってであり、

めに

「暗礁」、失敗

に終

った。

にも

かかわらず、

この計

失敗

の闘

いの失敗

は、「犠牲

」を伴

いはしたが、

「新航路

」、新

たな

こう

した

ロリズ

ムはわれわ

の後

に続

々と起

り、

「理想

彼岸」、無

政府

共産

の理想

に必らずや

到達

に相違

い。大

こんな意

味を読

み取

れば

よかろう。自

分達

のお

こ・し

た行動

と、

世界革

命運

の潮流

の現在

と未来

を須賀

子な

に備醸

して

いる。

こう

した運

の現在と未来

の傭瞭

の中

に、須賀

子自

おいて

みると、「私

は、我

々の今

の犠牲

は決

して無益

でな

い、

必ず何等

の意義

る事

を確信

して居

る」

し、「己

の如

に貴

るかと

いう自

の念

」と

「美く

しい慰安

の念」

つつまれて

「大往生

」が遂

げら

れよう、

いう自

画像

描く

こと

にな

る。未来

ついてのこう

した楽

観と

、自

分自

の存

の社会

歴史的位置

づけ

の楽

とが、強

「自

の念

もと

に発生す

る心

のメカ

ニズ

ムであ

こと

いう

までも

るま

い。.ただそ

「自尊

の念」

「繊悔

の意識

からまり

いなが

ら並存

して

いた

こと

はす

でに指摘

した

はず

であ

る。

の楽観

的楽

天的

な未来

図と自

画像を、自

ら信念

るしか、須賀

の死を待

つ心を保

つ方

は他

はな

ったであ

ろう

。■

「犠

牲」

一語

に我が身

を托

し、讃

歌す

る。「犠牲

」を強

いたも

のは権

であ

る。権力

の走

とな

った検

事、

の検事

運用す

る制度

しての裁判

に、彼

の批

は集

中す

る。

彼女が見

ているも

のはあく

でも権

であり、権

の陰謀

一216一

ある。彼女

の関心

は、

ほぼ革命運動と権力と自分

に限られて

いる。勿論

この場

の自分

の中

に、私

は、幸徳秋水や無実

の同

のかかわりを含

て考

ている。秋水と

の心中行願望も、

まき込んだ計画

とは無縁

の同志

た三

の繊悔意識も含

めてい

むばと

ころが・

山下竃

いや重民

シン丞

ブイズ

できる呆

民衆

への関

心、

民衆

も権力もとも

ども

に含

めて募

ている纂

で強固な・

いわゆ

「常識

の層、啄木

代閉塞

の現状」

への関

心、配

『死出

の道艸』

われ

てこないのである・山下重民

のような篤実で良心的な

井人の脳髄

にまで深く広が

っていた明治四+年代の

「常連

が、

皆殺

しにするまで弾圧せよ・と叫んでいる現実。管野須賀子はその現実

こそ、妻

たちの藷

も密接な関係を持

に気付かぬまま絞首台に消えた○いや、「議

」の層

点にのみ萎

の関心は向けられ農

「常識」

サイド2

.点どして

の意識

しかなか

った二

常識Lも反

「常識」・も層として把握するのではなく、・占…と占…の闘

いに集約されて三

た。

革象

はなく

テ。リストの黍

ここにある・神崎清氏が^「テ・ ズ

ムが、孤立化した少数革象

の絶望的な反抗であ

ったにせ圭

天皇暗殺そのものが目的でなく這

らの目曇

天轟

格下の迷信から呈

の国民を解放することにあ

った裏

は藪

記して

おかねばならない」と須

たちのテ・リズムとテ・計画に

一定

の評価を与えている立場に、私は立

つ.這

ができない。

格下の迷信」を信じ込まされた日本国民も裏

、同時に社会主義、無政府主著

「遇絶」せよ、と叫んでいた

事実を軽

く考え

てはならな

いのであ

る・キリ

スト教、社会主義、無政府主義

から

ロリズ

めまぐ

るしく裳

を変

えて

た須賀子の精神史三

はすでに触れておいた。その讃

えのたびに須賀子は

「常連

の層から遠

ざがり、反

「常識」の

点と化して三

たのではないか三

富識」

の層に組み込まれることではなくで、「常連

の層

の厚みや纂

な難

をじ

っくり

みなが

ら・反

「常識」

の層を厚く

してゆく・同時

「常識」

の層

いで薄く

してゆく執念深く注意

い配慮

や行

ょう

ど逆

コー

スを尖

しなが

つき進

こと

にな

る。,

.

一一217一

『死出

の道

艸』

は、

の意

ロリ

スト須賀

子が、最期

に到達

した反

「常識

の点

とな

った

こと

を証す悲

記録

だ、

いえよう。

にな

るが、私

は昨年

の暮

、秋

水と須賀

子が権

からも

同志

からも

のが

れる

よう

に投

宿

した湯

河原

・天野屋を訪

た。

治四十

三年

三月

二十

二日から、間

に不在期間

を含

むが、

六月

一日まで

のほぼ

ニケ月余、秋水

『通

日本戦

国史』執筆

め、

須賀

子は静養

のため滞

した宿

である。天野

の番頭格

しき初

の方と

しば

し立

話を

した。秋水と須賀

こと

くご存

なか

った。

してかれら

の宿

した建物

は新築

ていてそ

の跡

をと

どめ

いな

った。

だ、私が

にな

つた

のは、

天野屋

のり

っぱ

な案

内パ

フレ

ット

に書

かれ

いた内容

であ

った。伊藤

文、東

平八郎、竹

内栖風

、犬養

木堂

、夏

石、幸

田露

伴、吉川英

治、渋

沢栄

一、

山大観

、安井

曽太郎

の名

や書画

を印

したパ

レット

のど

こにも秋水

や須賀

の名が記

れて

いな

いこと

った。

六月

一日に

この場

で逮

された秋水、愛

人須賀

子、

二人を殺害

る目的

で五月

日に

スト

ルを懐

中に

ひそめ

て訪

ねた荒

畑寒村

の名

は、私

の推

ではあ

るが、

六月

一日以降

この旅館

では秘

匿す

べき

いま

しい人物

して記憶

から葬

てい

った

のではな

いか、

皐とお

もう。

旅館

の経営

方針

などを責

めている

ので

は決

してな

い。む

ろそ

こから、

こにも

日本

民衆

にと

って

「常識

の層が

いかに浸

し拡大

して

ってかたちつく

られ

たか

の実情

におも

いを馳

せ、暗

とす

るのみであ

る。

して、『死出

の道

艸』

に、「先

覚者

を以

て自ら任ず

る我

々は、秋

の過去を顧

の必要

は少

しも無

い。前途

、'只前

って、希望

の光

に向

って突進

れば

よい」

と最期

で胸を

はりなが

「小姓

の夫婦楽

み居

る秋

の昼な

りし桜樹

のう

つろ

さだめ

の中

に」

(削除

の意図が

った)

と幻想的

日常

の平和

にあ

こが

れ、

「終

に来

ぬ運命

の神

の黒

き征矢

わが額

に立

に来

ぬ」、と詠

った、

ロリ

スト管

野須賀

子を、

われ、と

おもう。

一218一

「常識」

の層

・資料紹

「常識

」、反

「常識」論

の試

みは、

まだ試論

でしかな

いかも知れな

い。本稿

の末尾

「常識

」サイド

の資料

を、『死

の道

艸』と

は直接結

つかな

いけれども、山下重民文

の持

つ意

味と重な

り合うと考

えられ

るので

ここに紹介

しておきた

い。

大塚善太郎著

『非社会主義』(明

44

・2東京堂発売)

「附

録」百

三十

七頁

から百

八十

二頁

にわたる全文

である。実際

に米

での日本

人主義者

かかわ

った反社会

主義者

の回想

であるだけに、問題点も多

いが同時

に知

ると

ころも

あるよう

に考

えら

る。詳

しい検

は後

日に期

した

い。大塚善太

は、元桑港新聞記者

で、号を

〈則鳴〉

った。柏

書房刊社会文庫編

『在

米社会主義者

・無

政府

主義者沿革』

(昭39

・9)、中

「第

社会

主義者

無政府主義者

ノ行動」「其

ノ四」

「鱒

無政府

主義者

刃傷事件」

の項

に、本紹介文

「米

国に於

ける日本人社

会主義者

の暴

状」をかさ

ねて検討す

れば

、大

塚善

太郎

(則鳴)

なる人

かなり

の程度

明ら

かになる。

"

米国に於ける日本人社会主義者

の暴状

⌒一)

米国は太平洋を隔てs四千浬の外にあ∂、四千浬

の外に於て

一二の日本人が社会主義の論を唱

へた所が、対岸

の火災と等しきも

ので

はないかと云ふ楽天観もあらう。併し余は之れを以て余りに迂澗であると思ふ。

現に填ろ問題とな

つて居る無政府主義の巨魁幸徳秋水の如きが、社会主義より

一転してク

ロ.八トキンの無政府主義を鼓吹するに至

たのは、彼れが米国桑港に滞留せる間に、後地

の無政府主義と相往来して、終に血判を押して其の秘密結社に加盟した為めだと云ふで

はないか。又た日本に於て無政府主義者の陰謀発覚して刑に処せらるsとの事、電報によりて海外に伝はるや、細査に在る社会党員等

は、日本政府に上書して、苛刻

の処刑なきよう運動するの方針を取

ったと云ふではないか。

,

無政府主義者は万国の公敵である。筍くも国を宇内に立

つるの民は、断々乎として無政府主義を敵とせねばならぬ、此点に於て無政

府主義は彼

の海賊と等しきものであゑ

海賊が今日の国際法に於て天下の公敵とせらる

㌔如く、無政府主義も亦た各国共通の敵である。

一219-一 一

各国共通

の敵は、政治上の亡命者とパ大

に其

の性質を殊にする、政治上

の亡命者

は、現政府と主義政見を異にする者に過ぎぬから、・

他国民

の眼で観れば同情を寄す可き場合が多

い、非葎賓

のアギナルドとか、南至共和国のクルーゲ

ルとか、清国

の孫逸辿とか、朝鮮

玉均とか、埃

及のヲス

マンパ

シアとか云ふ者は、其

の本国政府

から見れば不届者かも知れぬが、他国民から見れば其れノ\

一個

の国

士であ

る。宇内に国を立

つる者は国士に対して礼を払ふの必要あると同時に、無政府主義

の如き、万国共通の敵に対して、礼を払ひ同

情を寄するの必要はない。

然るに米国に居

る日本人社会主義者

は、亡命者を以て自から任じて居るの風がある、米国民は担措き、

日本人にして之れに同情を寄

する者あ

るは、実に杭慨に勝

へざる所である。況んや彼れ社会主義者等

の言動常規を逸し、往

々我

皇室に対する不敬を敢てして揮

ざるに至ては、国民として之を黙視するに忍びざるものがある。

余米国桑港に在

ること七年、彼れ社会主義者等

の言動を注目して人知れず心を悩まし、終に自から其

の首領を斬殺さん

失敗

し、苦心惨澹、流離困頓、客冬辛うじて帰朝するを得た。敗軍

の将兵を語らずと云ふは、顧ふに

一の虚勢

ぬ、我が舌尚ほ在り

や。穿くも舌根末だ絶

へざる限り。飽くまで勝敗

の跡を語りて味方を属ます事、敗将せめても

の務めと思ふて、此稿を世に公けにする

所以である。

コヘ

(二)

日露戦争

の前後

日露戦争

の始ま

った当時、幸徳秋水

一派が万朗報を退社して平民新聞を発行した事は、米国に居る同臭味

の青年

の心を動かした、同

臭味とは云

へど、

一知半解

の文学、政治思想に囚はれたる者共であるから、真

に科学的社会主義

の研究をした訳でも何でもない、唯だ

青椴な事を言ふて人

の耳を驚かし度

い位

の虚名心からして、終に在米日本人社会党なるものが出来たのである。其

の結党式兼演説会に

って、首領株

の岩佐作太郎

の演説を聞き、其

の支離滅裂な

るに呆れて、余

は二三日の後岩佐と会ふた時に、態

々幸徳秋水

の社会主義

神髄を貸して、之を研究した後尚

ほ社会改良政策をも研究せねば、社会問題

の解決は出来ないと云ふて、教

へてや

つた、之によ

つても

彼等が社会主義なるも

のを知

って始めたのではなく、

二種の虚名心に駆られて深入りした者

であると云ふ事が分る。

・戦争が始ま

ったと云ふ事が、電報によりて伝はると同時に、米国在留

の日本人中身を軍籍

に置く者は、未だ召集令に接せざるに先だ

ちて、決然行李を整ひ、帰朝

の途に就く者続々としてある、此処が実

に我国民の有り難き点であ

つて、死を見る帰するが如しとは即ち

之を形容したるも

の、恐らく世界万国に比類なき所

であるど思ふ、帰朝

の途

に就く者既に此の如し、身を軍籍

に置かざ

る者、何条黙

として之れを看過す可き、或は金品を贈り、或は祖道

の宴を開

いて其

の行を壮んにした。四千浬

の外に在る国民に至るまで、爾く忠君

愛国の念に富みたればこそ、善くも露西亜

の如き大国と戦ふて勝を制

し得たのである。

一220一

何ぞ図らん、千九百四年

(明治三十七年)

の秋、丁度日露戦争の始ま

ってる際中に、和蘭国アムステルダ

ム府に開かれたる万国社会

主義者大会に列席する為め、桑港に立寄りたる片山潜

は、

一夕演説会を開

いて非戦論を述べた、同時に赤羽巌穴なる者、邦字新聞新世

界に於て論説を書き、頻りに非戦論を鼓吹

した、之れが動機とな

つて日本人間

に前記

の社会党と云ふも

のが出来た。

赤羽

の非戦論は、滑稽と云

へば滑稽、没理と云

へば没理、実に言語

に絶して居る、即ち其

の言に曰く、日露両国間の平和を撹乱し

~ある者は抑も誰れであるか、日本国民は曰く、露西亜であると、露西亜人は曰く、日本人なりと、其

の互に言張

る所は、要するに水

掛論

であ

つて、若し冷静

に公平に判断すれば、平和

の撹乱者は日本国民にもあらず、又た露西亜人にもあらずと謂ひ得る、然らば誰れ

であ

るかと云ふに、先づ日本側に就

て考ふれば、日本

の、天子であるか、否

々、吾

々は我日本

の天皇陛下が仁徳高くして人を燐む

の情

深く在らせられ、決して戦を起して人を殺すの意なきを信ず、然らば国民であ

るか、

国民は決して戦を好まない、軍人であるか、軍人

は決して戦を好まな

い、政治家や新聞記者や上級

の将校

は、国民が戦を欲するとか、我忠勇無双の軍人は身を鴻毛

の軽きに比するとか

云ふて煽動てるけれども、人誰れか腹

の底から死を欲する者があらうか、唯だ国家

の為めと云ふ

一語の為めに強制されて仕方なしに戦

争に出て討死する丈けであ

る、討死する既に黙

り、其の妻子春族

に至ては戦を好む処ではない、直ちに戦を怨んで居る、故に軍人や国

民が戦を欲すると云ふが如きは真赤な虚偽であ

つて、実は新聞記者、政事家及び上級の軍人等が功名に駆られて、'罪なき国民を犠牲に

するのであ

る。更に露西亜側

に就て見

るも同じで、ザー陛下が戦意なきは、其の平常

の性格よりして明らかである、即ちザーは意思

薄弱な方である、聞く所によれば平生ザーの心を動かす者が二人ある、

一人

は皇后

一人は野心家である、ザ」が皇后に動かされた時

は博愛主義

の人とな

つて、彼

の万国平和会議などを召集された、が時として野心家

の為めに利用される事もある、其の利用された

のが

即ち日露戦争

の起りであ

る、故にザーは決

して戦争を起した者

ではない、戦争を起

した者ば露西亜の野心家政治家上級

の軍人であると

云ふ事が出来る。斯く考

へて見ると、平和

の撹乱者は日露

の国民にあらず、日露

の君主にあらず、日露

の軍隊

にあらずして、日露

の野

心家である、国民や、軍隊や、何等

の罪なきに拘らず、野心家の犠牲となり、其

の号令

の下に死

の巷に赴く

のであると云ふのが要旨で

ある。

'

の論

は当時

の露西亜に就て見れば或は当

って居

るかも知れぬ、トルストイが之に類した説を公けにしたのを読んで、赤羽は直ちに

翻訳的主張を為したも

のであらう、併し我日本

に於ては大

に事情を殊にして居る、第

一に日露戦争は野心家

の為めに起

されたも

のでな

くて、国民自衛

の必要上、已むを得ずして起したも

のである、露西亜が満洲を取るのは継て朝鮮を取るの前兆と云はねばならぬ、而

て朝鮮を取るの時は、

一衣帯

の水を隔て㌔壱岐、対島に迫

るの時

である、故に我国民は自衛

の必要上、露が満洲を独占するを黙視して

居る事が出来な

い、第

二に我国民は挙国

一致である、我国民は感情

にも富んで居る、併

し理性にも亦た欠けて居らぬ、大

の虫を漏すに

一一221-一

は小

の虫を殺さねばならぬ場合を心得て居る、'之を心得て居れば

こそ、徴兵に出る者に対し、戦陣に赴く者

に対しては、有らん限りの

同情を寄せ、其

の妻子春族をも互に相扶助して後顧

の憂なからしむるやうに勉

めて居る、故に戦場に臨むの士は死を視ること帰するが

く、又た其の妻子春族

の故郷に残れる者は、国家

の大義と云ふ事を知て、怨む所がな

い(斯くあれば

こそ日清戦争にも勝ち、日露戦争

にも勝ち得たのである、

・社会主義者が国民は決して戦を好まずと云ふは、事実を誤

って居る、彼れ非国民等

一人の私情よりして戦争

に行くを好まぬかも知れぬが、我国民は

一人

の私情よりも国家の大義を重んずる、国家

の大義とは即ち国民全体の利害である、我国民

とて固より戦を好む訳ではない、けれども自衛上巳むを得ざる場合に於ては、皆な決然として起ち、戦場に赴くを辞せな

いのである。

第三に我国

の政治家忙は戦争を賭して自己の功名を樹てんとする程の豪傑がない、彼等は戦

々歳々として辛うじて戦争を起し得たので

ある、国民全体

から見れば、実にもどかしい位な意気地なさである。

其は兎に角我が忠良なる在留民社会に、此

の如き乱暴なる議論を為す者あるにも拘らず、桑港

の邦字新聞紙上、何等

の駁撃を諌むる

者がない、余は甚だ鳴呼笛間敷至りであるけれども、是亦国恩

の万分の

一に報ず

る所以であると信じたから、

一論文を草して新世界社

に至り紙上に掲載せんことを乞ふた、此時赤羽は既に新世界社を出て居たと見

へて、在留民社会に於て何事によらず新世界と反対に立

つた日米新聞に文を寄せて余

の論を駁〕た、.其

の文堂

々、短篇

一頁に亘るも

のであ

つた、余は終に新世界に入社して、筆

の続かん限り

と思ふて之れに答ふるの文を掲載

した、果せるかな、読者間には多少の反響があ

って、日米は社会党

の機関新聞なりとの非難に堪

へず

して、赤羽の文を載せぬやうにな

つた

ので、余

も亦操独者

の礼として弦に筆を収めた。一

千九百五年

の夏と覚

へて居る、早稲田チームを率ゑて桑港に来たのが、有名なる安部磯雄である、社会党員等は安部氏を招

いて特に

歓迎会を開

いた、此

の歓迎会は社会主義者でなくても出席

し得るも

のであると云ふから、余も亦出席した、然るに会

の散ずる頃にな

て、党員中

の首領株は

一冊

の帳簿を出席者

一・同に廻付して、各姓名を記して呉れいと言ふた、予て党員たる者

は直ちに其

の姓名を書き

込んで居るが、党員

でない者

は藩賭して居る様子、余は乃ち起

って社会主義者に非ざる者

は後日の誤解を招ぐやも知れざる故、此帳簿

には署名す可らずと叫んだ、之れが為めに社会主義者に非ずして出席した人

々は、社会党員名簿に署名しない事

にな

つた。

当日安部氏は二時間余に亘るの長演説をや

った、其

の旨趣は要するに日本に於ける社会主義者

の非戦論と、政府が之れ忙対する処置

の寛厳

の程度と、科学的社会主義は直ちに実行せんとするも能

はざる事、自分の早稲田大学教授としての地位及び妻子春族を扶養する

義務ある為め、急激なる非戦論者

の仲間入りをする能はざる事等を述べたに過ぎない、社会党員等は必らず悲壮なる議論ある可しと期

して居たが、此

の平凡なる演説を聞

いては頗ぶる気抜けをしたらしかつた、現に赤羽の如きは翌日二三友人との会談中

『安部と云ふ

は取るに足らぬ凡夫だ、

一身

一家

の私を以て天下

の公論を顧みざる奴だ』と喝破した。

一222一

安部氏と反対に、在米日本人社会主義者に多大

の結果を残したのは幸徳秋水

の渡米である、同じ年

の冬.幸徳が桑港に上陸するや、

社会党員等

は歓迎会を開き、又た白人

の無政府主義者と合同して演説会を催

ふした、余は此の歓迎会にも出席

し、又た演説も聴きに行

った。

'

幸徳は身を岡繁樹の許に寄せ、社会主義者を集めては其

の伝道

に勉めると同時に、他方鷲谷精

一の紹介により、日米新聞

の客員とな

つてパ毎

日曜

の紙上に其

の文章を公けにした、之れに付

ても人は何とも思はぬが、余

は独り窃かに杭慨して居た、何故なれば幸徳

の文

章たるや、実

に雄偉卓抜

にして読者を引付ける力を有

ってる、荊かも其の

一語

一句は悉く是れ社会主義

の思想に凝り固ま

って居る、所

謂韓文

一字

の来歴あらざるは莫

しと云ふ如く、彼

の文章は篇

々皆な社会主義から来て居る、然

るに日米新聞

の社長や主筆は平気で之

を載

せて居

る、余が今日特定記憶して居るのは、『日米関係

の将来』『日本移民と米国』『在米同胞は幸福なりや』

の三篇であ

が、殊

に最後

一篇

の如きは、在米同苗間には家庭

の和楽なく、社会

の同情なく、信仰なく、智識なく、品格なく、趣味なし、唯だ金銭に豊

かにして衣食に不自由なしと難も、惨澹

たる生活的砂漠と択ぶ所な

い、憐れなる在米

の同胞は、熱烈なる風口に暴されて此砂漠を旅行

つ〉ある隊商ではないか、乍左此は在米同胞

の罪にはあらずして、現時社会組織

の罪である、之れが根本的治療は、現時

の自由競争

制度を破壊して社会主義的制度を実行するにあるのみと明言したも

のである㊨

此等

の文章

は一後ちに東京に於

て出版した

『平民主義』と云ふ著書

の中に再録して在

る、此の書

は発売禁止

の命に会ふたけれども、

の命に接する前

に船

に積込んだも

のと見

へて、桑港

の書難では、二三百部瞬く間に売切れたと云ふ事だ。

唱余は当時田園に隠れて文筆を批ちし故に、幸徳に対して論戦を挑むを得ず、独り空しく杭慨しで居た、後ち桑港新聞

の記者とな

つて

から、『平民主義を読む』

一文を公けにして、在米同胞間、和楽なく、同情なく、信仰なく、智識なく、品格なくべ趣味なきならば、

何故文字あり教育あるの士は、之を教訓

して和楽あり同情あり信仰あり智識あり品格あり趣味あらしむるように勉めな

いのであるか、

此責任を知らずして

一足飛びに社会主義制度を実行せんとするは、却て社会の秩序を棄

すも

のであると論じて、之を彼れ社会主義者等

に見せ、尚ほ既

に日本に帰朝せる幸徳にも之を送付した。余

の此

の態度は真面目を過ぎて愚

の極だと

の笑を受けたが、併し余

は今日に

於ても之を悔

いず、沮まず、祉ちないのであるd

∵、'

(三)

桑港震災後

の妄

千九百六年四月十八日、桑港

は前古未曽有

の大震災

に会ふて、

二十三ケ処

の火が同時に起

つたけれども、水道が破壊した為め消止む

る事が出来な

い、七日七晩炎え続けた結果、全市三分の二は荒廃

に帰した、火が炎えてる最中は申すに及ばず、其

の後凡そ

一年が程は

秩序糸

の如く乱れて居

った、

一時国際問題とまでなり掛けた彼

の洋食店襲撃事件

の如き、実に此の黒暗時代に起

つた偶発的事件

に外な

一223一

らぬ。

白人社会すら既に黙り、平生に於てすら秩序も何もな

い所

の日本人社会

の事亦た知る可きのみである、此年

の十

一月三日、'領事

の官

邸で遥拝式

の済んだ後、同胞はゴールデ

・ゲート

・パークの萩原庭園に集ま

って、天長節祝賀会を開くのが例

である、異郷

の空に、

故国

の天を望み、万歳を叫ぶの情、塞

に国民として麗はしき限である、豊

に図らん、同胞社会秩序の整

はざるに乗じて、彼れ社会主義

者共

は鉄筆版

の雑誌

『革命』なるも

のを発行し、英和両文を以て主催者暗殺を鼓吹するの論説其他を掲げ、普ねく之を同胞間

に配布し

た、足れ彼等が無政府主義者である事を世に発表した始めである、彼れ幸徳秋水は桑港

に来る以前、戦争最中に軍気を沮喪するをも顧

みずに非戦論を唱ふる位であるから、無論無政府主義者であ

つたに相違ない、併し彼れが愈

々本当

の無政府主義者とな

つたのは、桑港

に於て白人の同主義者と会見し交際した結果血を畷

って誓を成した以後である、彼れは白人から無政府主義

の神授を受く

ると同時に、

の門下の青年に之を伝

へ地震後幾ばくもなくして瓢然帰朝の途に就

いた、門下の青年等は乃ち十

一月三日を期して此

の如き妄動に出

でたのである。

るに米国の法律では、移民条例の中に、若

し上陸後滴三年ならずして無政府主義者なる事を発見したる時は、之を本国に送還する

と云ふ明文がある、雑誌革命は当然桑港移民局の問題とならざるを得なか

った。

元来雑誌革命

の発行に参与した者は誰

々であ

るか、吾

々門外漢は深く知り得る筈

はな

いが、左の数名

であると云ふ事

は分

つた。

(高知)

(大分)'

(埼玉)

(千葉)

(岩手)

の中岩佐、倉持、青木等は日本人福音会と云ふ団体

の幹部であ

つて、而

して此の福音会なるも

のは、日米新聞

の社長安孫子久太郎

が金を出して、其

の維持を助けて居

った、故に安孫子が余計なも

のを養成

して居ると

の非難も

一時高

った、併し此

の非難

は野暮なも

ので、鷲谷精

一が日米新聞

の記者であり、幸68秋水が其

の紹介によりて客員とな

つて居た事すらあるのであるから、其

の社長が社会党

員に金を呉れて居たのは不思議はな

い。

移民局に於ける問題は、第

一、雑誌革命に掲載されたる文章

の趣意で、第

二、其

の関係者は上陸後三年を経過せざるや否やの点にあ

つた、呼び出されたのは雑誌

の署名著たる竹内外

一名と記憶して居る、二三回取調べを受けたる結果、彼等は巧みに和文英訳

の仕方が

間違

って居

ったので、決して主権者暗殺論を主張

した

のではない、世

の中には比う云ふ論もあると云ふに過ぎぬとか、胡魔化して答

ー一224-一

た、移民局は終に彼等を以て無政府主義者に非ずと解釈

して、第

二の点には論及せずに放免した。

移民局の方は此

の如しとして、之を見て狼狽したのは我領事館

である、領事館は成

る可く之を秘密にし度い方針を取

ったらしい。

我邦字新聞は如何と顧みるに、日米新聞も、新世界も、社会主義者

の集会期日又は演説会状況等に就て報暮せるのみであ

つて、彼等

の妄動を摘発し、国家

の大義に訴

へて之を鷹慰せんとする気色がな

い、独り震火災後に起

つた

『桑港新聞』に於ては、西村紅夢なる記

者あり、日々坑慨淋潤たる筆を揮

って彼等

の罪状を摘発した。

余は当時桑港新聞の支社主任として、二百哩余を隔てたるフレスノに行

って居

ったが、クリスマス

・タイムを機として桑港

に遊びに

出て来た、すると西村が余に向

て、『君の友人の鷲谷は無政府主義者だそうだ、非道

い奴だ、現にあの雑誌革命

の題字は、鷲谷

書い

たのだそうだ』と云ふから、改めて革命を出して諦視すると、成程嘗ては起臥飲食を共にし、嘗

ては相携

へてパブ

リック

・スクールに

通学した事

のある鷲谷

の筆蹟に相違な

い、余は此の刹那に決心した、個人としての交際と、公人としての交際は、別

々に考

へなければ

ならぬ、乍併非国民は終に余が友人でな

い、鷲谷にして萄くも無政府主義者に非ざる事を明言し、若くは昨日該主義を奉じたるも今

めたりとの事を明言せざる間は、余は彼れを友人とす可らずと。此に対しては局量が狭

いとか、誤解をして居るとか、随分色

々なる

攻撃に会ふたけれども、今

圓に至るまで余

の研

へさゴる所

の決心である。

聞く所によれば鷲谷は、侮れを無政府

主義者だと云ふのは大塚が捏造したのだと言ふそうだ。余は雑誌革命問題当時桑港

に居らなか

つた者

である、鷲谷が革命に関係ありとの事を摸造せんとするも得可らざる事でないか、余は唯だ彼れ

の筆蹟を見て、此は鷲谷なりと

断乎たる鑑定を為したに過ぎぬ。

桑港に滞在

せる

一日、余は福音会に立寄り、稠人環視

の中に於て鷲谷に向ひ

『雑誌革命

の題字は君が書

いたのではないか、君が関係

いと云ふ事は此

の点に於て謂はれまい』と責めた所が、彼れは

『あの題字は僕が揮毫したも

のちやない』辿答

へた一此に於て余は厳

然机上に在りし革命を取りて彼れの面前に突き付けて、『此れは君

の書

ではな

いか』と日ふたら、彼れは日を閉ぢて黙し

つた、彼

の性癖、図々しき事概ね此類である、桑港日本人社会党

の妄動が、漸

々陰険となり、露骨の方法を避けて来たのは実に彼れ

の牢記に

出つるも

のと、後

に察

せられた。

,

籾て雑誌革命問題は斯くして

一段落を告げたが、竹内、岩佐等は其後毎年天長節

の日に妙な事をするを例とするに至

った、千九百七

の天長節には、何人

の所為か分らぬようにして、朝

まだきに、皇室に対する無礼千万なる意味

の貼札を日本人の住

る辻々にし

た、彼等に向て常

に攻撃を加

へる桑港新聞

の前にも此

の貼札をした。

或年には、日本の宮内省に宛て

〉、右

の意味の書面を送

ったそうである、何の為めに彼等は這般

の妄動をするのであるか、其の意識

一一225一

のある所を知

るに苦むがパ兎に角事実は事実である。.・

,.`

、彼等は今回幸徳其他

の被告事件を電報によ

つて聞付け、若

し幸徳を死刑に処するなら其儘には置かんぞと云ふような意味

の撤文を、

日本

の処

々方

々に郵便で送

って来たそうだ。・彼等は海

の外とは云ひ乍ら、殆んど連続的に、、皇室

に対する不敬罪を犯しづ

ンあ

る、今

悉く此

の事実を知

って

居るけれども、皇室

の尊厳を汚すを恐れて、故らに具体的に之を叙するを避けるが、今後皇室

の方が桑港を御通

過になる時なぞは周囲の人は余程気を付けて貰はぬと固まる、事態既に此

の如し、彼等を今

日の儘にして置くのは、虎を野に放てるに

似て相似たりだ。

.

,

.

r

,

,

 

(四Y

週間雑誌

の発行

米国加州

の中部にフレスノと云ふ処がある、桑港より二百哩

の南に位しパ世界に有名な葡葡

の産地である、日本人

の常住者、

「此附近

に三千人内外となり、夏よ夏秋に掛けては四方より集まり来る日本人、優に

一」万以上と号せらるΣ。

千九百八年

の夏、無政府主義者竹内外数名、此処に赴き、其

の地勢頗ぶる彼等の非望を逞うするに便なるを見て、所謂

『労働同盟』

なるも

のを起

した。

`

彼等

は先づ

フレスノに於ける日本人社会に、

一種

の暗流あるのを看破した、此

の暗流は、神川派とボツス派とも云ふし、醜業派と正

業派とも云ふし、其他色

々に名付けられるだらうが、.要するに嫉妬心と嫉妬心との衝突

の結果、同胞社会

の重立ちたる者

の間に、蝸牛

角上

の争を為して居る。彼れ無政府主義者等

は是れ屈強

の事件とし、執れか

一方を助けては甘き汁を畷らんとした、同時

に彼等は大道

演説を盛んに試みて、

一万内外

の日本人労働者に説くに、ボツス

(人夫請負業者)

の不当なるを以てし、労働者より

一年分の会費とし

て一金

一弗宛を徴集した、米国

の天地に於て、殊に夏秋

の交、人気

の引立ちたる事であるから、忽ち参四千弗

の金が集ま

った、彼等は

之を資本として雑誌

『労働』を桑港に於

て印刷し、

フレスノに於て発行した。

'

、・

.

.、

一一

フレスノ同胞

の重立ちたる者は、彼等を或程度まで買収したのもあらう、.懐柔した

のもあらう、彼等

の為めに恐喝されたのもあら

う、併し要するに自家

の利害上より打算して彼等を好悪する丈けであ

つて、社会主義とは何であるか、無政府主義とは何であるかと云

ふ見地

の上より彼等

の言動を観察

した者はな

い。邦字新聞の支社連は、唯だ困

ったと詐りで、何と手

の下しようもなかつた。其の中に

彼等

の勢力は、隆

安として侮

る可らざるに至

った。

『労働』毎号

の紙上に載する所は、彼等得意

の非戦論である、徴兵制度廃止論である、資本家制度撲滅論である、彼等は日本人ボツ

ス若くは

コントラクター

(農園労働契約業者)を資本家の部類に入れて其

の不当利得を鳴らし、以て巧みに

一.般ボーイスの歓心を得ん

と.した。.

一226-一

又た岩佐

の如きは、生ま噛りの進化論や、奇激なる共妻主義を振廻はし、如何なる場合に於ても、社会主義を実行しさ

(すれば、理

の天国に入る事が出来ると

の旨を説

いた。

"此の雑誌

は、今

でも続

いて刊行し

つ㌔あるや否やを知らぬ、日本

では法令を以て、内地に輸入することを禁

じてあると記憶する。

元来在来

の日本人には、彼等の議論が入り易

い訳がある。彼等は徴兵制度

の廃止と、資本家制度の撲滅を主として鼓吹するようにな

つた、之れは前年

『革命』問題に懲りて、同胞間

の強力なる輿論

の鋒を避け、唯だ愚民を煽動するに如かずと覚

った彼等

の猪智を示

したも

のだ

つた。然

るに

(一)米国は殆んど絶対に言論

の自由を認むる国柄であるから、彼等は印刷物に於ても大道演説に於ても、思

ひ切

った無礼な事を言ふて無政府主義を主張する、其

の主張が遺憾なく論理的なることを得る。(二)殊

に社会主義は真理なりと

の断

の下に説出して、暗に社会

の先覚者、亡命者たるが如く、ほのめかすから、社会主義

の何たるを知らぬ者は、成程真理であるかと思

ふ。(三)在米日本人

の大多数は無教育者

であ

つて、大抵は彼等

の論旨が分らな

い、唯だ大道演説で、牧師

の攻撃や、新聞記者

をして得意が

つ"てる彼等に対して、偉らい学者だと感服してるに過ぎな

い、故に過度

の心配をする必要もないようだけれども、偉ら

学者だと感服するのは、継

て社会主義になる階梯である、思

へば、由

々敷大事である。(四)無教育者

の次に数多

は、徴兵猶予の

為めに渡米して居る青年である、此種

の青年

の耳には、徴兵制度廃止論がビーンと響き、到頭社会主義に化すると云ふ順序であゐ。∵

抑も兵役は国民

の公務である、徴兵猶予は国家

の恩典である、此

の恩典に浴し

つs、尚

ほ苦痛を感じ、若くは肩身狭く感

じて、終に

乃ち徴兵制度を怨むに至ては、公務

の観念に乏しき

の致す所、仮りに社会主義実行の世

の中にな

つたピすれば、此の輩

の如きは第

]に

犯罪者となるであらう、何となれば此

の種

の輩は国家制度の下に於てすら公務

の観念に乏しいのであ

るから、社会主義

の世

の中にな

たら、尚更ら利己

一点張り

の本能を発揮するに相違ない。

又た序で乍ら弦に言ふて置く

のは、日本人のボ

ツス

・.コントラクター中未だ資本家と云ふ程

の者は

一人も居ない、依然たる労働者階

級にある、彼れ社会主義者等が資本家制度の説を応用してパ多数の同胞を煽動するは、鶏を割くに牛刀を用ゆるの類である。

(五)

格闘事件

の顛末

労働同盟及び雑誌労働

の発生したのは、.友人藤井宏基君の起したる桑港新聞は、経営困難を極め、

一度破産したる後再興し、再興彼

の所有権が人手に渡

P、藤井君は単純なる

一記者として執筆して居た、余も破産前フレスノ支社を辞して桑港本社に来り、同じく編

輯室

の末席を汚して居た時である。

フレスノ労働同盟

の組織と云ふ事は、余

の心臓を激

しく鼓動せしめた、余は社会党

の攻撃に宿縁を

って居る、而してフレスノは余が支社主任として

一一年有余滞在せる処である、此

のフρスノに社会党が本拠を構

へたと云ふのは、余

に取

て容易ならざる大事件と思われた、又た実際大事件であ

つたのである。

:.

.

,

.∴

パ■

'

r

-一227一

余は蕾に

フレスノ在住

の日本人

の為めのみならず、社会主義

の思想が十万に近き移民間

に、日進月歩

の勢で伝播

つsある事は国家

の大義

に於

て黙視す可らざる事

であ

ると考

へた、故に論説に、雑報

に、紙面

の許す限り、筆

の続く限りと云ふ決心

の下に、労働は無政

府主義

の雑誌

である、其

の記事中には点

々無政府主義

の主張を発見し得

るのみならず、其

の重なる編輯者、記者は履歴附き

の無政府主

義者

であるから、疑もなく無政府主義

の雑誌

であ

る、布くも我帝国の国民たる者

は、此

の如きも

のを読む可らず、此

の如きも

のに寄附

を為す可らざ

る旨を公けにした。此間

に凡そ

}ニケ月は経過

した、彼れ無政府党

の輩

は、案外に静かであ

つた、唯だ雑誌労働

は無政府

主義

の機関と云ふ訳ではない位

の弁解を為して居た

のみである。

は曰く、彼等

は今や文章言論

の争を舎

てs腕力に訴ふるの準備を為し

つsあ

ると。余

は此語を聞くも、敢て之を知己友人に告げ

つた、告げるは援けを乞ふ

の意を含むを恐れたからだ、当時

フレスノより来

る通信によると、労働同盟員の

}人は、ピストルを持し

神川商店に行きて脅迫したとの評判もあ

つた、某新聞支社員が嚇

かされたと

の評判もあ

つた。余

は覚悟した、事恐らくは血を見るに至

る可しと、余

は窃

かにスプリング

・.ナイ

フを臓ふて、嚢中に之を放さなか

つた。

此のスプリング

.ナイフは刀身

一寸

五分程に過ぎ

ぬが、頗ぶる鋭利な物であ

る、後日刑事裁判廷

で、無政府党側

の証人共

『大塚

の持

って居たナイ

フは喧嘩

ナイ

フであ

つて、長さ

は五六寸、頗ぶる鋭利な品

であ

つた。故に大塚には十分殺意があ

つた』と主張

した、ナイ

フの長さは虚偽

であるが、大塚に殺意あ

つたのは事実であ

る、之れは当時訴訟に勝ち度

い為めに隠

して居たが、今は改めて

自白する。無政府主義者は非国民である、非国民に対して殺意

の起

るのは吾

々国民

の当然

の事だ、余

は敢て之を誇りとする訳ではな

が、眼前無政府主義者が祓雇跳梁

するのを見て、殺意を起さゴるは、皮下

一纏

の血脈を有する日本国民

の必らず無き事

を信ず

る。余

は嘗

て赤羽巌穴と立会演説をした時に、折

しも病

気の為め、心臓

の鼓動激

しく

して、卒倒せんとした未、演説をせず

して止んだ事

がある、嘗

て岩佐作太郎

の演説を聞

いた時

に、直ちに進ん

で彼れを刺殺さんと

の念を起

した事もある。

は日本人中、破落戸と称する輩が、数

々事理を誤まりて殺人の罪を犯すにも拘らず、国家的観念には甚だ富ん

で居

る故、之を頼ん

で無政府主義者

一二人を倒さんかと思ひ、其

の親分株にも交を訂

して見た、併し此輩

の無教育は到底頼むに足らざるを看破した。張

子房

は博浪

の鉄椎を頼

んで秦

の始皇を倒さんとしたが、彼れ竹内、彼れ岩佐を仕止める者

は、自分の外

にな

いと思ふた、けれども愈

殺さうと云ふ決心

は容易に付

かな

い。労働同盟に対する攻撃を

して、彼等

の不穏なる挙動を耳にするに及んで、正当防衛

の条件を具備

したる場合に於ては、断然之を行ふに若

かずと決心した、さてこそ

スプリ

ング

・ナイフを用意して人知れず機会

の来る

のを待て居たの

である。

一一228-一

時は来れり、千九百八年

の十

一月三十日午後二時頃であ

つた、余は少し風邪の気味で寓室に寝て居

った、表でベルを鳴らす者がある

故、余は寝衣

の儘出でsドーアを開けて見ると、竹内鉄

五郎外

一名

である、余

は若

し要事があるなら新聞社

の方に来て呉れ

いと云ふた、

竹内は余に向

て病気かと問ふから、病気と云ふ程

でもないと云ふて、体善く謝絶

し、兎や偽言はせず

にドーアを閉ぢて室

に返

った。二

三十分を経たと思ふ頃獲たベ

ルが鳴

った、此時余

の室には早川と云ふ

一青年が居

ったから取次ぎに出るだらうと思ふて居るのに、中

出て行きそうもな

い、其

の中に奥

の室

から藤井夫人が出

て取次

いで呉れた、余は寝た儘

『別に用もないのです、夏蝉

いから断は

つて下

い』と云ふと、此岸が聞

へたかして、『なに会はんと、生意気な奴だ』と云ふてる、余

『生意気

でも何でも

い、出て行け』と

喝した、すると竹内

の声で、『大塚

ア、卑怯な奴だ、出

て来

い』と怒鳴るのが聞

へる、余は是に於てガ

ツパと蒲団

の上に起直

って、早

川に出て応接して彼等を善

い加減にあしら

つて返して呉れと頼んだ、早川

は厭やだと答

へた、藤井矢入は事面倒なりと見て奥

へ逃込ん

で了

つた、余

は乃ち

『善し』と言ふてベッドを離れ、室

の隅に脱ぎ捨て~あ

つたパ

ンツの嚢中を探りて彼

のナイフを取出し、右

の掌に

し持ちて、徐かに室を出た、脚

は裸跣

で、衣て居た

のは真ツ白な洗

ひ立てのナイト

・ガン

一枚

である。

の外は廊下である、竹内外

一名は表のドーアを開けて廊下に立

って居る、余は

『此の通り寝

て居るのだから人に会ふのは厭やなの

だ、要があるなら手紙なり、・社

へ来るなり、して貰

い度い、兎

に色出賜

へ、家宅侵入罪ぢやないか、人の内に無暗

に入

って』と言ひな

がら左

の手を以て押

し出さうとした。処が竹内は物言はず余に打て掛

った、余も予て覚悟

の上であるから、余より二三寸丈け高き竹内

の正面より、『此

の野郎

ツ』と謂ひ乍ち、其

の咽喉に斬付けた、目を開

いて見ると傷はない、

しま

つたと思ひ

つs、出来

ら眼を突

き度

いと云ふ気で、めつた斬りに斬付けた。

、人を殺すと云ふ事

は容易に出来るも

のでない、余

が此

の経験

によりて深く感じたのは、人殺しは胆力詐りでは矢張り出来ぬと云ふ事

である、第

一に腕力が鍛えてなければならぬ、経験

によつて練熟

してなければならぬ、寝衣

の儘

で足袋

一つ穿

かなか

つたのは、大変

ツプ

不覚であ

つた

のみならず、斬付ける毎に眼を匿

った

のは、自分で考

へても確かに胆が座わ

つて居なか

つたのだ。

さはれ竹内も余がナイフを持て居たには驚

いたらしか

つた、殆んど入九分が間と思ふ、竹内が余の為めに二十二三ケ所

の傷

負ふ

中、冷かに形勢を見て居たのは今

一、人

の奴、・継て余

の右手に進んで来たかと思ふと、彼れが左

の手を以て余

の右

の腕を抑

へ上げてパ其

の右

の手で余

の腰

の辺に触る」と見る間に、突然

『逃げろ』と声を掛けて逃出した、竹内も彼れと目くばせして、組合ひたる余と解ぐ

れて急

に逃出した。余は不思議なり返せと、ナイフを振り冠

って追

ひ掛けんとするに、驚

いたのは、右

の股より凄まじき音を立て、ナ

イト

.ガウンを煽りて送り出つる所

の血しほである、余は僻して之を見るや否や追掛ける気は折れて、左

の掌を以て血

の出口を抑

へ、

二三歩退

いて室

のドーアを閉ぢ、早川を呼び、其処に倒れた。

一229-一 一

川は此時ま

で、壷中を堂

々還りして居たとの事である。

早川が医者を呼びに出て行

った後、十分経

つたか二十分経

つたか固より知らぬが、余は俄

かに呼吸を吹返した、眼を開けども誰

↑人

居ぬ、『水を持

て来

い』と声限り二三度呼んだ、応接間と余

の室と

の間

の戸を明けて、ぬ

つと現はれたのが竹内鉄五郎、余

は此

国賊

思ひ知れと、復たもナイ

フを握れる右

の手を上げたが、力能

はずして再び倒れた、竹内は戸を閉ぢて次

の間に何かして居たらしい。想

ふに彼れは余を撲ぐる位な考で来た者だらう、自分

では立会演説

の相談に来たと云ふたそうだが、余

は此んな相談を受けな

つたパ大

かた桑港新聞紙上

の記事に付て談判に来た

ので、談判

の結果接ぐる位な考はあ

つたらうが、併し殺す程

の考

はなか

つたに相違な

い、然

らずんば此時余

のナイ

フを引

つたく

つて刺殺

すのは訳もな

いのに、却て余

の眼光

に畏れをなして次

の室に退く筈がな

い。

にして余

は完全に生返

って、倒れては起き、起きては倒れ、辛うじてベッドにたどり着き、而かも其

の上に禁登るカもなく、独

で苦んでる間に、日本人

の無免許医と、後目竹内

の為めに頼まれて法廷

の証人とな

つた人聞と、竹内とが入て来た、其

の内に同僚藤平

澄山が飛んで来た、藤井君が来た、多く

の人

々が駆付けて来た、竹内

『僕は

一人で大塚君を訪ねて来

たんです、然

るに大塚君は何も

言はず僕に斬付けたんです、僕ぱナイフを持ちません、此の極り傷を受けてる丈けでパナイフは大塚君が持

って居ます、大塚君は自分

で突

いたんだらうと思ひます』

.と陳弁して居た、・彼れは恐らく余を以て二三時間

の後必らず呼吸を引取るならんピ推察して、斯

る虚言

を吐

いたに相違ない、然るに逃げ出したA三

人は街頭に於

て掴ま

って来

た、余

は其

の面を見るや否や、下手人となる事を周囲

の大に告

た、其

の名は松下某乏分

つた○

-

'

:

"下腹から胸に掛けて、臓腕を挟ぐられるような、引出されるような痛み…・・痛

みではな

い、圧迫と云はうか、何と云はうか、全く形

の出来な

い苦みで、捻

らうとしても稔

れない、医師

の中林君が来

て呉れズざ傷を検

し端帯をして呉れた、股動脈鼠腰部パ凡そ

一寸程

深くやられたとは後

で聞いた説明である、・力

一杯

の声を張上げ

『水が飲み度

い』・と云ふと、中林君はホイスキーを買て来させた、後

で聞けば\此の力

一、杯

の声

は、蚊

のよカな声だ

つたそうだ。

ピ.揃帯が済むと二

つの湯

タンポで体躯を湿ためられながら、荷馬車か何

かでレシービーング

・ホスピタル

(収容病院)に送られた。此

処で更らに端帯を仕替

へて右

の腕に食塩注射をやられた、

「食塩注射

のき〉目と云ふも

のは烈しいも

ので、生返

ったように爽快になる、

其処

へ竹内と松下が引かれて来た、先

のに立

つた

のはデ

ストリクト

・アト

ニー

(検事)である、余は通弁付きで

一'々明白に

へた

後、特

に松下が余を刺したる事を誓言し、動くか動かぬか

の腕を揮ふ

て自から其

の遺言書取書に署名した、検事

は此の書取書によりて

公訴を提起した。竹内一松下は獄に下

った。

は更らに馬車に乗せられ、

レーン病院

に送られ、三度目のオペ

レーションを受けた。

一一230一

レーン病院に行く折、日本人会

の書記中込某が同乗して居て呉れた、併

し馬車

の中で余が死ぬだらうと思

ってか、急に降

だ。やれ情けな

いと思ふ途端に、入て来たのは親友

の伊藤晩松

である。

病院に着

いて幾ばくもなく、山形莫越と云ふ男が病院に訪ねて来た、伊藤君

は彼れが平生無政府主義者

であ

る事を知て居るから、此

際会はせたら、病気

の為めに善くあるま

いと云ふて余

の室に入れるのを拒絶して居た、此の山形

『四千浬外』と云ふ雑誌

で、余が竹

内に斬付けた

のを、丸

で土方か博愛打ち

の喧嘩

の様

に論じた。何と論ぜられても善

い、余

は無政府主義者を恵むの余り、

{撃

の下に之

を倒さんとしたのである、而かも正当防衛

の条件が立派に具備した機会を捕

へたのである。

恨むらくは敵を仕止めなかつた、否な仕止め得な

い代りに殺され

~ば幸

ひであ

つた、.

仕止めも得ず、殺されもせず、用なき生命を助

った為めに、余は非常

の逆境に立

つた。

・.・

■此夜ブ

ルチン新聞では号外を出

した、其

の号外には余

の事件を

『日本人新聞記者暗殺せらる』と大

々的に報道

した、各地

の英字新聞

は翌朝

の紙上其

の電報を掲載した、白人社会

にすら問題としたのであるから、日本人社会

では無論大騒ぎだ

つた、桑港新聞

フレスノ支

の前に

『̂大塚則鳴竹内鉄

五郎

の為めに刺さる』と掲示したら、社会党員が来て何時

の間にか

『竹内鉄

五郎大塚則鳴

の為めに斬

らる、

委細は明朝

の日米新聞を見

よ』、と直したそうだ、日米新聞には社会党員

一人鷲谷が居るから、必らず彼等

に利益ある報道をするなら

んと、以心伝心で期待した

のであらう。

・、

.

入院

五十

一日間は思

へば

愉快な極みであ

つたパ這般

の愉快

は、余

一生に取りて恐らく空前絶後であらう⇔余は覚悟をきめた、事既

に失敗

した以上は仕方がな

い、今更ら自殺する訳にも行かぬ、借金は乞食をしても返済せねばならぬ、乍

左病床に横

つて、取り越し

苦労をするのは愚

の至りであると。敢

て交雑として憂ふる所なきを勉めた。藤井君や伊藤君は無政府主義

に関する話すら仕ないよう

して呉れた。況んや此事件

の成行、及び之れに関す

る新聞雑誌

の記事に至ては、

一切

見せて呉れなかつた、体

の回復するに従

て、余

は専

ら読書に耽

った、.見舞人は引きも切らずに来た、・平生知を得て居な

い人まで来

て呉

れた、見舞

の菊

の花、カ

」ネーションは

]時枕

頭に処狭きまで飾られた、

一夜看護婦達

の茶話会があるから貸

して下さ

いと云ふ

ので貸してや

つた位だ、病床に花を観

る程嬉れしい事

はな

いが、凡夫余

の如き者

にして、.此

の贅

沢は祉づ可き

であると、余は幾度かストイック的

の三昧

に入

った。或人は

『君は此

の際如何

な我儘でも徹す権利がある,食物でも、衣物でも、本でも、買

へる

丈け買ひ賜

へ、迷惑も何もあるも

のか』と教

へ、て呉れた、余

は余

失敗…:ピ否な縦令成功したとしても、之れに対して報酬を受

ける積りでや

つたのではな

い、斯く教

へて呉れた人の同情

は鑑査

いと、

では言ふたが、併

し其

の人

の品性は甚

だ劣等

であ

ると感じた已

.

'

,

"

-山.

.

.

'

余は出来る丈け金を使

はぬよう

にした、自

から節すること厳

にして、兎

に角衣食

の憂ひはなく、世事人情

の外に超脱

得たか

一231一

ら、入院中

の余

は、生来稀れなる愉快

の日を送

ったのである。,,

,

.

`

'.

、・

病院を出てから刑事訴訟

の幕が明

いた、刑事訴訟は遺⇒昂書取書に基きて検事が公訴を提起

の、被告竹内外

一名

の殺人罪事件

と、竹内側から余

に対

して提起

した所

の殺人罪未遂事件とが、異なりたる予審法廷に於て並びに進行

した。

一期に於ては、余は無罪

の宣告を受け、社会党側は松下

一人殴打創傷罪

の宣告を受けて、竹内は無罪とな

つた。尚

ほ之を訴追

する

には、「

宅侵

入罪

の告訴を起す方法もあ

つたけれども、余

は区

々裁判

に依りて彼等を苦むるの愚を思ふて、敢て此の方法を取らなか

た。然

るに彼等は松下が有罪

の宣告

に対する控訴を為すと同時にパ米国法が重罪事件は

一の予審法廷に於

て無罪

の宣告を受く

るも、被害

者は尚

一度他

の予審判事

の審理を乞ふ事を許せるを奇貨として、余

の被告事件

に就き、今

一度他

の予審判事

の審理を要求した。而し

て二度

目の予審廷に於て、余は実に有罪

の宣告を受けてスー.ヘリアル

・コート

(上等裁判所)

の公判に廻された。

に対する宣告は、奇怪

にも他

の事件に於ける同様

に公然とされなか

つた、余

は独り惜然判事

の前

の椅子に腰掛けて居ると、通訳吏

ツフネーと通弁

の中田某とが、交るノ\来て、『君は之れから帰宅せんとするなら、護

れでも善

い、君

の思ふ人を名指

よ、左す

れば其

の名指人に電話を掛けて保釈金を出

して貰ふ事

にする』と言ふので始

めて既に宣告ありし事を知

った位であ

る、余

は余

の為めに

保釈金を出して呉れる志士あるや否やを知

らねど

、余自身他に求むるが如きは義当さに為すべからざ

る事故、ギツフネーと中田の勤め

拒絶

し、平然として獄

に下

った。

一二の友人は獄に訪

ねて呉れた、保釈金

の相談

は断乎として辞退した。愈

々有罪と確定しても、

二三年

の懲役

に過ぎ

まい、其

の代り

娑婆に出てから後、捲土重来

の勇を鼓して義を唱

へる

のに、却

て都合が善

いと思ふて、書を枕に未決監中に眠

った、幸か不幸か、・此

眠りは八時間を経

て親友伊藤鹿松

の為めに覚まされた。

余が有罪

の宣告を受ぐるとは、,法理

の上に於て奇怪且

つ意外であるから、r藤井君始め味方

の驚きは

一方ならずであ

つたらう、併し如

何とも手の下しようがなか

つた、熱烈な

る伊藤君は之を黙視す

る能はずして、、某氏

の許

に行き某氏

の諾を得て、百弗

の大金を作

って余

を出して呉れた。伊藤君は悪平等的

の酒仙

である。桑港在住

の日本人でへ伊藤君を信用する者は殆んど無

い、此の信用なき伊藤君に百

弗と云ふ大金を出して呉れた

のは、∨此の場合伊藤君に義情

の二字以外

一点

の私心なき事が在りノ\と見て取れたからだと、余

は確信す

る。故

に余

は本書

の巻頭に、特

に伊藤君と倶与に撮影した写真を掲げた次第

である、向て左に立

って居

るのが即ち伊藤君である。然

ば此

の大金を出して呉れた某

々氏とは何人なる乎、累を及ぼす事を恐れて弦に明言せぬが、唯だ断は

つて置く

のは、某

々氏は日本人会

に関係な

い人達

である事

である、桑港に居

る日本人

の重立ちたる連中は日本人会と云ふも

のを組織して、名

士の歓送迎や、月並的

の黄

一一232一

白人交際に勉めて居る、併し社会党問題

では決

して手を下さな

い、余が竹内を殺さんとして失敗したに付ても、馬鹿な事位に冷

かに視

て、太甚しきは余

の行動を狂的であると批評した奴さ

へある、其

の癖彼等は名利

の妄想

に駆られて、陰険悪辣なる策を互

合ふ

て、無用

の争

ひを為して居る、困

ったも

のだ。

閑話休題として、余が訴訟

に於て失敗を来した原因を、自

から考

へると三

つ程ある。第

一は訴訟費用

の欠乏だ、米国は金

る、地獄

の沙汰も金次第、況んや米国

に於ては、金次第

で有罪も無罪、無罪も有罪になる、無政府党側

は数十名

の堅き団結

であるから

一人当

一弗宛負担するとしても直ぐ

に百弗出来

るパ余

一寒

此の如き窮措大、訴訟費用

の財源を持たぬ、藤井君は秩序的才幹を有す

る人だから、日米新聞

の主筆清瀬某と相談

の上、日本人社会

の大頭から醸金

して五百弗内外

の金を調達するように手筈を定

めて置

いて

呉れた、之れは実

に難荷

い事

である、けれども余が退院後清瀬と会見

した折、清瀬が言ふには

『僕等

は主義

の上から大塚君を賛ける訳

ではない、友誼上から尽すのだ』と

の事

であ

つた、.

の言葉

の中には、社会主義を善

いと云ふ意味を含んでるのであるかパ或

は竹内対

の問題

は主義

の問題とする程大袈裟なものでなくて、要するに田夫野郎

の喧嘩と等しきも

の位

に見て居るのであ

るか、不明

である、

が併し友誼上からは品性劣等なる清瀬輩

の助けを憂く可きにあらざる故、余

は藤井君に相談して、体好く訴訟費用

の約束を解除

した・

二の原因は、無政府主義者

にして、日米新聞社員たる鷲谷が、当時桑港新聞の持主たりし金門銀行を恐喝した、金門銀行

の重役は

横浜に於て相場に失敗

して預送金を使ひ込んだ、.其

の馬脚が露はれたのを鷲谷が嗅ぎ付けて、桑港新聞に掲げた鷲谷に関する

一切

の記

事を取消すにあらず

んば、金門銀行

の事を日米

紙上に素

ツパ抜く可しと恐喝した。銀行

の支配人と新聞

の経営者とは、余を呼んで諄

谷と和解す可しと諭した、余は主義

の上

に於て到底和解する能

はざる旨を説き、已む

ことな輻んば余

は退社す

る故、卿等は之を以て

鴬谷に謝せよと言ふた、

.併

し余は実際灯台下暗

しの例に漏れず、預送金使ひ込み

の事件を此時知らずに居たのである。然

るに翌日の桑

港新聞紙上には

『鷺

谷氏に関する

一切

の記事は無根に付取消す』と

の記事が出

た、

一切

の記事ピ云ふ中には、余

の署名

せる論文、及び

の基礎となれる事実的報道をも含

む故w余は記者とLての体面を汚された者

であるから、其

の日直ぐに辞職

した。

訴訟費用は無くなる、新聞社は辞職する、余

は訴訟の成行漸く非なるを知り

つ」、蛾

行を曳きノ\路頭に迷

ふた、余

は見苦しくも知

己を頼

りに乞食同…様の生活をした、当時友人として最も余を燐んで呉れたのは吉田七郎治である。

事態此

の如

き故

に、代言人と通訳吏と通弁とは、余を

一旦獄に入るンに非ずんば、多額

の弁護料を貧ぼリ得ぬと考

へた、之れが第

の原因とな

つて、終

に有罪

の宣告とな

つた

のである。.

無教育な

る日本人共は、敗訴となりたる余を悪人相して、街頭指さし笑ふもあ

つた、昔日余に見舞

の花を贈

って呉れた人でも、今は

余を罪人扱ひす

るようにな

つた、.余は人情固より此んなものであると知れる故、平然として乞食

の生活に安んじて居た。無政府党

の輩

一一233一

は、口に、筆

に、余を領事館

の犬と罵

った、余は領事館

の犬ではない、

、日本帝国

の犬であると、毅然窃かに任じて居

った、併し失敗に

失敗を重ね、逆境々々と沈治して来たからは、

口を輸

し、-筆を投ずるに若かずと、日本人社会を遠ざか

った、此の聞に幾たびか刺客を

って再び竹内を撃たんかと謀

ったが、金がないので断念せざるを得なか

った、此上は帰朝して

『非社会主義』

一書を出版し、在米

日本人間に流布するのが、せめての

一方法であると決心した。

"

併し訴訟は中々片付かない、故人斎藤修

一郎民会ま桑港に滞留し、大義名分の上に於て捨

つ可らずと為して余を

一方ならず庇護し、・

余は兎も角も五月の某日無罪

の判決をスーペリアル

・コーぷで受けた。'無政府党側の被告事件は如何な

つたか知らぬ。

斯く流離困頓を極めたる末、余は辛うじて帰朝費を貰ひ集めた、或時は

一層の事殺されちま

へば幸福

であ

つた

のに

と考

へて、

つく

ρ\身

の不運を歎じた、併し又た或時は山中鹿之助は七難八苦を三日月

の神に祈

ったと云ふに一之れしきの苦報何かある

『憂き事の尚

ほ此上に積れかし限りある身

の力試めさん』と思ふて奮起した。

コレア号

の原板に余

の帰朝を送

って呉れた人

の数は、比較的に多か

った、吉田公輝氏の如きは特にサクラメントから出掛けて来た事

'を記憶して居る。・併し桑港

の日本人社会で有志家騒ぎをする連中は

「人も見

へなかつた。

今や余が失敗

の記念、股動脈上

の刀痕は、.殆んど全く治癒したけれども、猶ほ風雨陰寒

の夜、往

々痛くして眠る能

はず一余は之れが

為めに平生好きな酒に親

しむことを得な

い、・已むなく妻子を持たぬ所存をも堅め、兀然として永遠

の生涯に入らんと勉め

つsある。,客

観的には、累

々として喪家

の犬

の如くであらう、心は余り寂しくもない。

読者よ、自己中心の長談義を笑

ひ賜ふな、余は桑港

のレーン病院でパ格闘当時の光景を想起して、『血がニギヤロ

ンも出たでしよう』

と言ふてパ黒沢ドクターの為め忙

『人間の体躯の申に其んなに血があるも

のか』と笑はれた事程左様に、∴余

の股動脈より送り出でたる

の分量は多か

った、或人は余

の室に入らんと七て血に滑

べり倒れんとしたピ聞

いて居る、,併し余は信ず、余は之を注ぎたる為め、、益

々社会主義

の非なるを悟

った、余は此の点に於て、所謂ニギや担ツの血ぶ極めて安価なりしを感謝する。

、メ

一し

-∵

'此稿、徒らに失敗

の跡を人に告げんとするに非ずパ要するに我国民と↓て無政府党

忙対する覚悟を定むるの参考とする忙足るモ信じ

て之を起草

したに外ならぬ。苦衷の存する所、」字

一滴

の血、希くば之を察せよ。

.

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、`

一口ー一234-一

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