+ All Categories
Home > Documents > Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三...

Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三...

Date post: 17-Mar-2021
Category:
Upload: others
View: 0 times
Download: 0 times
Share this document with a friend
25
Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 の問題 Author(s) 麥谷, 邦夫 Citation 東方學報 (1990), 62: 209-232 Issue Date 1990-03-31 URL https://doi.org/10.14989/66716 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University
Transcript
Page 1: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三の問題

Author(s) 麥谷, 邦夫

Citation 東方學報 (1990), 62: 209-232

Issue Date 1990-03-31

URL https://doi.org/10.14989/66716

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

唐・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二'三の問題

御荘撰述に関する問題鮎・・-・-・・・・・・-・・三・二〇九貫

疏撰述に関する問題鮎・・-・・-・-・・・・・・・・・・・・・・111三頁

御荘に見られる

『道徳経』解樺の特徴--二二〇頁

御荘と疏との思想的関係-≡------・二二六頁

『老子道徳経』の長い荘稗史を振返るとき、

南北朝末期から障

/初唐期にかけてが

一大韓換鮎をなすこと、

・玄宗の

御荘

『道徳経』及び疏の撰述がそれを象徴する出来事であったことは賛言を弄するまでもなからう。御荘及び疏が提示し

「妙本」が、常時の思想

・宗教界における激しい論争の後を承けて'儒併道三教を巧妙に調和させつつ'賓は道教の優

位を暗々裏に主張する意園を秘めた重要な概念であったことは、「唐

・玄宗

『道徳最経』注疏における

「妙本」について」

(1)

(以下、前稿と略稀)ですでに述べたところである。ここでは'前稿で言及できなかった二、

三の問題を取上げて'

玄宗

による

『道徳経』荘梓の貴態を明らかにし、併せて両者の思想的関係を検討することとしたい。

御荘撰述に関する問題鮎

玄宗の

『道徳匡経』に封する荘樺が開元二十年

(七三二)に完了してゐたことは、易州開元観に建てられた御荘道徳異

二〇九

Page 3: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

二一〇

経瞳に

刻された敷文末の

「開元廿十年十二月十四日」の紀年によって確賓に知られること、すでに先人の指摘するとほり

(2)

である。玄宗は、

この直後、翌二十

一年正月に'

其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに

一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめよ。毎年貢撃の

人、量は蘭書、論語の

1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加

へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。

(3)

との有名な詔激を下してゐる.従来、このことから、御荘

『道徳匡経』は完成後直ちに頒布されたかのやうに理解されて

ゐるが'果たしてそのやうに考

へてよいものであらうか。

御荘の頒布の年月に閲はる資料としては'『筋府元金』巻五十三、帝王、蘭黄老'開元二十三年の僕に、

二十三年三月突末、親し-老子に注し'井びに疏義を修むること八巻、及び開元文字音義三十巻に至るまで、公卿士

庶、及び道樺二門に頒示し、可否を直言するを聴

(ゆる)す。

(4)

とある。これに開聯して、『張曲江集』

巻十三には

「請御荘道徳経及疏施行状」とそれに封する玄宗の御批とが収められ

てゐるが'内容から見てこの時のものに達ひあるまい。そこでは'

伏して恩赦を奉ずるに、臣等に集賢院に賜ふ。諸畢士と御荘道経及び疏本を奉観するに、天旨玄遠にして、聖義貴明

せられ、詞は約にして理は豊か、文は省にして事は憤せり。上は以て玄元の至化を播

(ひろ)むるに足り'下は以て

来代の宗門を闇

(ひら)-に足る。陛下の、道は帝の先を極めへ勤は租の業を宣ぶるに非ざれば'何ぞ能-日月の香

度を廻らし、乾坤の戸脂を撃ち、盲者をして反現し'聾者をして聾聴せしめんや。--請ふら-は、所司に宣付して

施行せられんことを。

(5)

とあり、御荘と疏とが先ず集賢院の畢士たちに下賜されて'その後'有司の手で施行されたことが知られる。これらの記

事に依れば、御荘は開元二十年に

一鷹完成した後、暫-玄宗の手元に留められたままで'疏の完成を待って同時に頒布さ

Page 4: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

れたと考

へるべきではなからうか。

かうした推達を補完する史料がさらに二'三存在する。

一に、

「開元聖文神武皇帝江道徳経赦」の附文には、御荘

(6)

施行後約牛年にして'道門威儀司居秀による御荘

『道徳経』石董建立の奏請がおこなほれたことが記されてゐる。

玄元皇帝道徳経御荘。右検校道門威儀龍輿観道士司届秀奏すらも

南京及び天下の鷹に官蘭等を倦むべき州に

[於い

て]、尊を法物に取り'各おの本州の

一大観に於いて石墓を道立し'

経江を刊勤し、

及び天下の諸観に井せて開講せ

しめんことを望

(ねが)ふ。敷旨'奏に依る。開元廿三年九月廿三日。

この奏請に基づいて開元二十七年頃までに易州、邪州'懐州などで次々と御荘

『道徳匡経』石室が建立されたことが知ら

(7)

れるが'この事業は'普然のことながら、御荘の施行と密接に開聯して企劃されたものと考

へられる。

第二に、

『新府元

亀』巻五十三、開元二十四年の僕に、「八月庚午'

都城の道士'

龍輿観に於いて蘭を設け、御書道徳経を費揚す

(二十四

年八月庚午、都城道士、於龍興観設蘭、

発揚御書道徳経)」とあり、

これも御荘

『道徳経』石墨の建立に閲はる

1蓮の行

事と考

へらる。弟三に'敦塩本の御荘残巻の紀年が同じく開元二十三年になってゐることである。このペリオ三七二五親

(8)

の御荘残巻は、道経第三十四章の途中から巻末までを残すのみであるが、幸ひ巻尾に以下のやうな記述が見られる。

園子監畢生楊猷子初校

国子監大成壬仙周再校

開元甘三年五月□日令史陳深

宣徳郎行主客主事専槍校霜害楊光喬

朝議郎行燈部員外郎上桂圃高都郡開園公楊仲昌

正義大夫行薩部侍郎上桂囲夏麟開国男桃突

・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

二1一

Page 5: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

金紫光線大夫薩部蘭書同中書門下三晶上桂開成紀粁開国男林甫

この残巻が果たして鮭部で書籍作成された原本であるかどうかは疑はしいが'留意すべきことは、正し-開元二十三年と

いふ年に、薩部において御荘

『道徳最終』が書籍されて、その富しの類が地方にも流布してゐたといふことである。この

御荘が何ゆゑに鰻部で書籍されたかといふ鮎に関しては'陳智超氏に'科拳を掌管する鹿部が科挙に癒ずるものの求めに

(9)

よって配付したとの指摘がある。

以上の諸鮎を綜合すると、玄宗の御荘は開元二十年までに

1癒完成してゐたが、直ちに施行されたわけではな-、二十

1年の

「家蔵

1本」の詔穀を経て、二十三年に酪とともに初めて集賢院畢士のもとに下賜されて検討が命ぜられ、その奏

請に基づいて漸-施行された.施行とともに'鹿部で取り敢

へず正本が書籍作成されて流通が始まりへそれとほぼ時を同

じ-して司属秀らの奏請に基づいて南京および地方の主要な宮観に御荘

『道徳経』の石墓が建立されることとなり、それ

らは二十七年頃までにほおはむね完成して、御荘が

『道徳経』解樺の標準として虞-全土に参透するやうになったのだと

いへよう。

次に、御荘が果たして玄宗自身の手になるものであるかどうかといふ鮎に関しては、開元年閲に玄宗が屡々集資院に聾

者を集めて

『老子』などを講じさせたといふ記事が散見される。『聾唐書』巻九十七へ陳希烈侍には、「開元中、玄宗'意

を経義に留め、襟元量、元行沖卒する自りの後は、希烈と鳳糊の人漏朝陰とを得て、常に禁中に於いて老、易を講ず。

・・・・・・

(10)

玄宗、凡そ撰述有れば、必ず希烈の手を経」とあり'『新唐書』巻二百'儒畢下'康子元侍には'「開元初'中書に詔して

張説をして能-易'老、荘を治むる者を挙げしむ.集費直撃士侯行果、子元及び平陽の敬脅異を説に薦め'説籍-て以て

聞すO並びに衣幣を賜ひ、侍讃たるを得たり。子元は擢ぜられて秘書少藍を累ね、曹晃は四門博士たりて'俄かに皆集賢

侍講畢士を乗ぬ。--始め行果'魯匡及び長栗の鴻朝隠同に進講す.朝陰は能-老荘の秘義を推索し、脅亮も亦た老子を

Page 6: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

(‖)

善-し'篇を啓-毎に'先ず薫盟して乃ち謹む」とあり'また、『新府元亀』巻五十三、帝王'

薗黄老には、

開元十八年

(12)

十月に、陳希烈等が麟徳殿で

『道徳経』を講じたといふ記事が載

ってゐて、玄宗が

『老子』『荘子』『易』などの講樺を彼

らとともに日常的に行ってゐたことが知られる。た

これらの人物については漏朝陰に

『老子荘』が有

ったことが両

(13)

唐志に侍

へられるのみで'その

『老子』解梓を窺ひ得る史料は残されてゐない。さらに、開元瞳に刻された敏文には'

朕は誠に寡薄なるも'嘗て斯文に感じ'張りに有後の慶を承け'無為の理を失はんことを恐れ、清宴に困る毎に、軌

ち玄関を叩き、意に得る所に随ひて、遂に等注を為す。豊に

一家の説を成さんや'但だ連関の文に備ふるのみ。今'

玄こに筆を絶ち、是れ衆に誇る。公卿臣庶、道樺二門'能-予を起こすこと卜商に類し'疾に針すること左氏に同じ

きもの有らば、善を折るるに渇するは、朕の懐ひを虚し-する所なり。

とあり'

平常

『道徳経』の最理の理解に努力し、

その曹得した所を書留めてゐたことが知られる.

したが

って'

陳希烈

博に

「玄宗'凡そ撰述有れば、必ず希烈の手を経」とあるのを勘案しても'御荘が玄宗自身の手に出ることはほぼ聞達ひ

あるまい。

疏撰述に関する問題鮎

次に'いはゆる玄宗御疏について、同様の問題を検討しょう。現在'我々が目にすることが出来るものは'造成に収め

られ冒頭に

「樺題」を附す

『唐玄宗道徳最終疏』十巻'同じ-道戒所収で

「外侮」を備

へる

『唐玄宗道徳基経疏』四巻と'

玄宗疏をもとにこれを敷街する杜光庭の

『道徳匡経虞聖義』五十巻とがある.このうち、第二に挙げた

「外俸」を備

へる

四巻本の疏は'内容からして玄宗以後の荘稗を引-等、別の荘樺が誤って玄宗疏とされたものであること、すでに指摘が

・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二'三の問題

二一三

Page 7: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

二一四

(14)

ある。したがって、検討の封象となりうるのは、

「樺題」

を附す十巻本の

『唐玄宗道徳最経疏』と

『虞聖義』といふこと

になる。

まづ'疏の巻数については、『薗唐志』と

『虞聖義』は六巻とするのに対して'『新居志』は八巻とし、さらに、『宋志』

『玄宗音疏』六巻を挙げるOまた'

『筋府元亀』巻五十三に

「親し-老子に注し'

井びに疏義を修むること八巻」とい

ふのが、江と疏とを合せて八巻といふ意味だとすれば、嘗然、疏は六巻であったということになる。このやうに'玄宗疏

の巻数に関しては、奮乗六巻とするものと八巻とするものとが有

ったことが知られる。現行の道蔵本が十巻となってゐる

のは'嘗然分巻されるべきである第三十七草と第三十八章、つまり道経と徳経とが同じ-巻五に収められてゐることによ

って'本来の疏の姿ではな-後人が便宜的に再編したものであることが推測される。しかし、なぜ六巻本と八巻本とが著

録されてゐるかについては、単なる誤記であると考

へるものと、疏が前後再編されて六巻から八巻に増えたとする考

へが

あって結論は出てゐない。

ただ'『日本国現在書目録』に玄宗疏を六巻として著録してゐることは'

営時流行の疏が六巻

本であ

ったことをほぼ確定的にするものであらう。

御荘に対して'疏がいつ編纂されたかについては'前引の張九齢

「請御荘道徳経及疏施行状」とそれに封する御批とが、

『新府元亀』巻五十三、開元二十三年僕の、「親し-老子に注し、弄びに疏義を修むること八巻、及び開元文字音義三十巻

に至るまで'公卿士庶'及び道樺二門に琴

がし'可否を直言するを聴」したとある記事に封鷹するものに達ひないとすれ

ば'開元二十三年が御疏修撰完了の年といふことにならう。したがって'御荘と御疏との閲にはほぼ三年の懸隔が存した

ことになる。しかし、ここで注意すべき事は、

「施行状」と

『珊府元亀』

とがともに開元二十三年に御荘と疏とが同時に

修撰されたかのやうな書き方をしてゐる鮎である。

「施行状」には

「伏して恩赦を奉ずるに'

臣等に賜ふ。集賢院に於い

て諸畢士と御荘道経及び疏本を奉観するに云々」とあり、この記述に依る限り、玄宗御荘と疏とは、個々別々にではな-、

Page 8: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

同時にまとめて張九齢を筆頭とする集資院の畢士たちに下賜され、そこでの検討が命じられたと考

へられる。しかも'こ

こで特に注意しなければならないことは'

御荘に関しては'

「御荘道徳経」とはっきり

「御荘」であることを表明してゐ

るのに射して'疏の方については

「御」字が冠せられず、軍に

「疏」ないし

「疏本」と表現されてゐることである。この

ことは、『筋府元亀』開元二十三年の僕で、「親任老子、井修疏義八巻'乃至開元文字音義三十巻」とあ

って、注に関して

「親し-老子に注す」

とあるが、

疏義に関しては草に

「修む」と表現されてゐることも参考にならう。もちろん'「親

し-」を

「修む」にもかけて読むことは可能ではあらうが、そのやうな讃み方を少な-とも蒔錯させるやうな資料が

一方

に存在する。

『顔魯公集』巻十四

「賂尚書左僕射博陵崖孝公宅階窒銘」には、

「(開元)二十年春'

穀を奉じて龍門公宴詩序を撰し、

綿を賜はること百疋。

延かれて集賢院に入り、

老子道徳経疏を修め'天下に行はる」とあり'また、『宝海』巻五十三、

老子の候に引用する

『集賢注記』には、「開元二十年九月、左常侍崖汚入院修撰し、

道士王虚正、

趨仙甫井びに諸畢士と

r15\

参議して老子疏を修む」と同様の記事があ

って、これらは上の張九齢の

「施行状」に先立って集賢院で老子疏の修撰が崖

円らの手で進められてゐたことを示してゐる。また、

参宮

『道徳異経集注雑読』(道蔵四

〇三筋、巻上三葉)

に童迫

『鹿

川蔵書志』を引いて、「三顧等'玄宗の命を奉じて荘する所の経の疏を撰す

(三顧等奉玄宗命撰所在経疏)」といふのも、

(16)

『集賢注記』の記事と同じことをいったものであり'三顧と王虚正とは同

一人物であらうと考

へられてゐる。

このやうに見て乗ると、玄宗の御疏といふのは、貴は御荘の作成に直ちに引績いて'開元二十年に集賢院の畢士と若干

の道士たちの手にょつて撰述が開始され、開元二十三年に完成したことが知られる。しかし、「樺題」末尾に、「毎

(つね)

に聖租訓

へを垂れ'厭の孫謀を論

(のこ)すを惟

(おも)ひ、聴理の飴に、伏して講責に勤め、今、復た

一二その要妙な

る者を詮疏するも'書は言を表-さず、粗ね大綱を撃げて、以て聾者を神助せんのみ」といふのが全-の虚構ではないと

・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二'三の問題

一五

Page 9: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

一六

(17)

すれば'玄宗の意向もかなりの程度疏の内容に反映されてゐると考

へることができよう。か-て'疏の完成と同時に御荘

も含めて集賢院で最終的な内容の検討が行はれ、薫際に外部に頒布できる状態になると'同年に司虜秀らが南京及び地方

の主要宮観に御荘の石室を建立することを奏請し'

一方、薩部では集賢院での検討終了後の同年五月に、科拳に使用する

ための正本の書籍が行はれたといふ次第になる。したがって、御荘と疏とは、従来漠然と考

へられてゐたやうに'御荘が

開元二十年に完成して先に世に行はれ、その後二十三年に疏が完成して頒布されたといふわけではな-、普初から御荘と

疏とは

7封のものとして同時に世に行ほれたと考

へるべきであらう.

ところで、ここで今

一つ忘れてはならない記事が御荘と疏とに関しては存在する。それは、

『醤唐書』玄宗紀、

天質十

四年の

「冬十月・・・-甲午、御荘老子弄びに義

疏を天下に頒つ」といふ記事である.

この記事は、

『筋府元金』巻五十四で

(18)

はやや詳し-、

「十月'

御荘道徳経並びに義疏を十道に分示しへ各々内を巡-て侍富して以て宮観に付せしむ」とある。

天資十四年

(七五五)は、開元二十三年

(七三五)に御荘と疏とが施行されてからちゃうど二十年後にあたる。なぜこの

時期に再び御荘と義疏とが天下に頒布されたのか。それは革に二十年を経て'新たな需要が生じたといふだけではな-、

もつと別の理由があったのではなからうか。

開元二十三年以降の道徳経に陶はる出来事を拾って見ると、

まづ農

1に'

『全唐文』にいはゆる

「道徳を分ちて上下経

と為すの詔」が天賛元年四月に下されてゐることが荘目される。

ところで'

「道徳を分ちて上下経と為す」といふのは

7

鰭どういふことであらうか。この表現を素直に解樺すれば、

『道徳経』

を上経下経の二経に分割するといふことのやうで

あり'従来もそのやうに理解されてゐたと考

へられる。

しかし'

『道徳経』は魂晋以降すでに道経と徳経の上下二篇に分

たれ、造粒を上経、徳経を下経と構することも行ほれてゐたう

へに'書物としての腔裁も二巻仕立といふのが通常の形態

(19)

であって、ことさらにこの段階で上経下経二経に分割するといふのは意味をなさない。それでは、この詔は

一摩何を意固

Page 10: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

して費せられたのであらうか。

(20)

今'この詔の内容を少し詳し-見てみると、

まづ、

「化の原なる者を道と日ひ'道の用なる者を徳と為す。其の義は至

大にして'聖人に非ざれは執れか能-之れを章らかにせんや」といひ、道徳とは生化の根源とそのはたらきを意味し、至

大の義を含むものであって、聖人でなければ明らかにできないことを宣明してゐる。

次いで、

「昔、有周の季年'代、道

と輿に喪

(ほろ)ぶ。我が烈租玄元皇帝'乃ち妙本を発明し'生垂を汲引し、遂に玄経五千言を著して'用て時弊を救ふ。

義は象繋より高-、理は希夷を貫-。百代の能-債とするに非ず、豊に六経の擬する所ならんや」と述べて、居室の組た

る老子の著である

『道徳経』は、根源の定理である

「抄本」を発明したものであり、その債値たるや空前絶後'六経すら

その足許にも及べない至高のものであることを言ふ。しかし'と詔は績けて

「承前習業の人等、其の巻数多きに非ざるを

以て'列して小経の目に在らしむ。徴言奥旨、稀謂殊に乗けり」といふ。ここで

「列して小経の日に在らしむ」といふの

(21)

は'『大唐六典』巻四、薩部に

「凡そ正経に九有り。

薩記、左氏春秋を大経と為し、毛詩'周薩、儀薩を中経と為し、周

易'尚書、公羊春秋、穀梁春秋を小経と為す。-・・・それ孝経'論語'老子は並びに須-乗習すべし」

といふ

「小経」のこ

とに他ならない。これにょれば'

『老子』は

『孝経』'

『論語』とともに濁立した

一経としては立てられず兼習の対象でし

かなかったので、正確には

「中経」にも該普しなかったことが知られるが'それではあまりだといふので

「列して中経の

目に在らしむ」と表現したのであらう。

しかし'

「義は象繋より高-、理は希夷を貫-。百代の能-儀とするに非ず、岩

に六経の擬する所ならんや」と宣明した

『道徳経』

がこのやうな地位に置かれてゐることは'

「構謂殊に乗-」ものであ

-、と-わけ老子および

『道徳経』に封する厚い奪崇の念を抱いてゐた玄宗にとつては、かかる状況を放置してお-こと

は許されないことと意識されたであらう。この詔は'かうした

『道徳経』の地位を改めて、儒教経典と同様のいやそれに

勝る地位を輿

へることを宣言したものに他ならない。詔は漬けて

「自今己後、天下の馨に鷹ずるもの、崇玄学士を除-の

・玄宗御荘

『道徳展経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

二一七

Page 11: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

一八

外'白飴の試むる所は'道徳経は宜し-並びに停め、偽りて所司をして更めて詳らかに

7中経を揮んで之れに代

へしむべ

し」といふが、これは、

『道徳経』を専修する崇玄撃の畢生を除いて、

1般の科撃受験者がこのやうな至高の

『道徳経』

をいはばおまけとして乗習することを禁じたものである.そして、問題の

「其れ道経を上経と為し、徳

(経)を下経と為

せば、道尊-徳貴く

是れ崇び是れ奉ずるに庶からん。凡そ退避に在るもの、朕が意を知れ」といふ言葉でこの詔は結ば

れてゐる。したが

って、この詔の言はんとするところは'従来の

『道徳経』の地位を改めて、儒教経典以上の地位を輿

るこ.とにあり'

それに付随して、

「道徳」といふこの上ない債値を持

つ言葉を軽

々し-使はずに、「道経」「徳経」といふ

名稀を

「上経」「下経」に愛

へよと命じたものであらう。『全唐文』の標題は詔の内容を曲解したものと言はざるをえない。

因みに'

『大唐六典』が李林甫らの手によって完成したのが開元二十六年、

崇玄肇が設置されたのが開元二十九年、そし

てこの詔が喪せられたのが翌天資元年であったことが恩ひ起こされる。

さて、いま

Tつの重要な出来事は、天質五年二月に起こった。それは、弟十章冒頭の

「戟」字を

「哉」字に改めて第九

(22)

章末尾に附する旨の詔敏が下されたことである。かうして天資初期には、

『道徳経』の地位、

名栴及び分章に関する重要

な襲更が行ほれてゐたのである。このやうな状況を考

へれば'天質十四年の御荘及び疏の頒布に際しては、普然'これら

の重要な奨更が反映されてしかるべきであら-が、果たしてさうであらうか。

現行の道蔵本の御荘は、各巻の経名を

「道経」「徳経」としてを-、

また、

弟十章の章名は

「戟営腕章第十」のままで

「載」字を改め移してもゐないし、

第五十

一章の注では

「具如戟脅塊章」と述べてゐるので'

開元二十三年の御荘の系統

を引-ものと考

へられよう。また、

道蔵本の疏は

「道経」「徳経」の経名を載せず、

第十章の章名も御荘と同様であり、

(23)

杜光庭の

『贋聖義』も道蔵本の疏と同様の鰹裁をとる。ただし、ここで問題となるのは、疏の各章に付された章題の内容

(24)

である。弟十章の章題は以下のやうになってゐる。

Page 12: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

前章は、欲を縦ままにし情に溺れ'騎盈するが故に答有るを明かす.此の章は、神を養ひ束を愛み、兼ならざれば則

ち症無きを明かす。督塊より己下源除に至るまでは'身を修むるは徳を全うする所以なるを戒む。愛人己下明白に至

るまでは'徳全ければ、以て君と為るべきを示す.結ぶに之れを生じ之れを畜ふを以てするは'玄功の物を被ふを表

はすなり。

ここで、章句を標出するにあたって'

「載脅塊」とせずに

「督塊」としてるのは、

明らかに天資元年の詔に基づ-と考

ざるを得ない。しかし、本文は

「戟」字を上章に移してはをらず'本文及び章名と章題とは矛盾したものとなってゐる。

このことをどう解樺するかほ非常に難しい問題であるが、少な-とも天賓元年の詔が費せられた後、経及び荘流の本文そ

のものが書き直されることはなかつたが、比較的修正が容易な章題の標出部分だけは書き直されたと考

へられよう。またへ

「上経」

「下経」

といふ呼稲については'

第二十草江と弟三十三幸疏に

「下経云」'

第三十八草

および第五十二章の疏に

「上経云」として経文が引用され'

同じ-第三十七草章題に

「故演暢此章於上経之末」とあることから'

天質元年の詔穀

(25)

が反映されてゐると考

へられる。しかし'同時に、

弟四十五葦の疏では

「荘云直而不韓、

上巻道経之文

也」、弟四十八葦

の疏では

「上巻云」として

「上巻」「道経」

として表記されるなど'

必ずしも厳密に詔穀の意を承けて書き直されたわけ

ではなささうである。ただし、疏

「梓題」に

「而して経上下に分かつ者は、

先ず道を明かして徳之れに次ぐなり

(而

経分上下者'先明道而徳永之也)」とあり、

績いて

「上綴目」「下経日」として経文が引かれてゐることから、

「樺題」そ

のものは再修されたものが侍

へられてゐる可能性が考

へられないわけではない。もしさうだとして、このやうな中途年端

なことになったのは'天資十四年十月が、安史の乱の勃費の直前の月であり、儀に完全に修正された御荘と疏とが頒布さ

れてゐたとしても'その後の動乱にょつて、それが行渡ることがなかったためと考

へられよう。いづれにせよ'現在我々

が目にすることができる玄宗の御荘と疏とは、開元二十三年に施行されたものであり、候にその後に再修が行ほれたのだ

・玄宗御荘

『道徳県経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

二一九

Page 13: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

としても'そのテキス-は賓際には行ほれなかったといへよう。

二二〇

御荘に見られる

『道徳経』解樺の特徴

御荘の

『道徳経』解梓の最大の特徴は、第

三早冒頭における

「道なる者は、虚極の妙用なり

(道者へ虚極之妙用)」「無

名なるも′のは'抄本なり。抄本'気を兄はして、天地を檀興し、天地、資りて始まる

(無名老'抄本也。抄本鬼気、横輿

天地、天地資始)」に端的に示されてゐる。

ここにいふ

「虚極」とは、

第十六章において

「虚極なる者は'抄本なり

(虚

極者'抄本也)」と明言されてゐるやうに、

「妙本」の別稀である。

したがって'

一章の

「道なる者は'

虚極の妙用な

り」といふのは'「道なる者は、抄本の妙用なり」といふことにはかならない。

このや-に'

御荘では

「道」はもはや絶

封究極の根源的

1者ではな-、「道」の背後にある寅の根源的賓在としての

「妙本」の

「用」として位置づけられてゐる。

御荘が

「道」の存在論的究極性、根源性を否定Ltかはりに

「妙本」にその地位を購興したことが、儒併道三教がそれぞ

れに主張する究極的な原理を

「抄本」を核として調和合

fさせようといふ意園に基づ-であらうことについては、すでに

前稿で解れておいた。この

「妙本」の概念自鰹は、すでに成玄英の

『義疏』の中に繰り返し見られるのであるが、しかし、

そこでの

「妙本」の位置は御荘とは根本的に蓮ふ。成玄英の段階では、

「道」はあ-までも究極的、

根源的賓在性を失っ

てはをらず、その

「道」と現象世界との閲は-を本迷論的に解樺する際に'

「抄本」と

「粗迩」

といふ

一封の封立概念が

使用されてゐるに過ぎない。この意味で、御荘の出現は'従来の

『老子』解稗史における劃期的な出来事であったといっ

ても過言ではない。

このやうに'御荘はある意味で従来の

『道徳経』解樺から超然とした自由な立場に身を置いてゐたといへる。御荘の従

Page 14: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

乗の解樺に囚ほれない猪自性を示す今

一つの例として、

「難得之貨」

の解樺を挙げることができようO

『道徳経』に

'

「難得之貨」といふ表現を使用する章が三幸有る。第三章'第十二章、

弟六十四章である。

第三章

「不貴難得之貸」に封

する従来の解樺は'壬弼在が

「貨を貴ぶこと用に過ぐれは'貧者競ひ趣き、脂を穿ち笹を探り'

命を捜して盗む」、

河上

(26)

公注が

「人君'珍賓を御好せざれは、

黄金は山に棄てられ、

珠玉は淵に掃てらるるを言ふ」であり、

いづれも

「難得之

貸」とはいはゆる珍賓珠玉の類が想定されてゐた。また'御荘に先行し、御荘同様沸教的解樺を

『道徳経』に施した成玄

英の疏では

「難得の貨とは、障珠剃壁、垂麻照車を謂ふなり。若優し普天賓を貴べば'則ち盗賊斯れ生じ、率土珍を膿め

(27)

ば'則ち盗窺起こらず。故に盗まずと言ふ」と解樺されてをり、弟十四、第六十四章も含めて従来の解樺の外に出るもの

(28)

でない。これに封して御荘の解樺は次のやうなものである。

難得の貨とは、性分の元き所の者にして、求めて得べからざるなり。故に得難しと云ふ。夫れ本分に安んぜず'元き

所を希教するは、既に性分を失ふ、寧んぞ盗病に非ざらんや。物をしてその性に任じ、事その能に稀はしめんと欲す

れば'則ち難得の貨、貴からず'性命の情、盗を為さざるなり。

ここでは、

「難得之貸」を

「性分」すなはち天輿の本性に備はってゐない所の能力'

性質などを意味するものと解樺して

ゐる。「性分」に備はらないものを求めることを否是する主張は'

第六十四章

「鵠者敗之'

執着失之」に封する荘

「凡情

は困任すること能はず、分外を脅為す。為す者は求逢し、理として必ず之れを放るo事に於いて忘遣する能はざれは、動

(29)

けば執着を成し、執着して求め得れば、理として必ず之を失ふ」などでも説かれてゐる。これらには、

一部、郭象以来の

「安分自得」の思想の残浮が見られはするが'「難得之貸」を入閣に先天的な非物質的な本性とする解樺は、これまでにな

い御荘猪特のものである。

このやうな御荘の解樺は'前述の

「抄本」の導入と密接に隣聯してゐると考

へられる。御荘においては、存在論的には

・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

二二一

Page 15: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

二二二

「抄本」

が究極のものとして措定されたわけであるが'

それが規薯の人間存在の解梓あるいは詮悟といった問題に鷹用さ

れる場合には、「正性」といふ概念が中心的役割を櫓はされてゐる。御荘は第

三早において、「道」は

「虚極妙本」の

「用」

であり、「抄本」こそが天地寓物の根本、

本始であることへ

その

「妙本」が

「元気」を現出することによって'人間を含

めた現象としてのこの世界が生み出されて乗ることをいふ。そして'「常無欲以観其妙」の句に注して、「人生れながらに

して静なるは、天の性なり。物に感じて動-は'性の欲なり」といふ

『薩記』契記篇の語を引き'

「若し、

常に清静を守

り、心を解き神を樺きて'正性を返照すれば'則ち妙本を観ん。若し、性を正さず、其の情'欲を逐いて動けば'性、欲

(30)

に失はれ、道原に迷ふ。抄本を観んと欲すれば、則ち通徹を見ん」といふ。ここでいふ

「正性」とは、正し-人間におい

「妙本」

に封鷹する本質的展性であり'

それゆゑに'

「正性」を

「返照」することが

「妙本」を認識することにはかな

(;)

らないのである。このやうな認識に基づいて、第十六章

「致虚極'守静等」では次のやうに言ほれる。

虚極なる者は、妙本なり。言ふこころは、人の生を受-るや皆虚極抄本を菓-。形に受納有るに及んでは'則ち抄本

離散す。今、虚極抄本をして必ず身に致さしめんと欲すれば'皆に須-塵境染滞を絶棄すべし。此の雌静を守ること

篤厚なれば、則ち虚極の道'白づから身に致さるるな-0

さらに'績-

「蹄板目静、静日復命」に封しては、

「人能-板に締り至静なれば、

所裏の性命を復すと謂ふべし

(人能蹄

板至静、可謂復所要之性命)」といひ、

「妙本」が

「身に致さ」れることと、

「所要の性命」を回復することとは表裏

一鰭

の関係として考

へられてゐる。か-した思想は、第二十章

「荒今其末央哉」では'

「若し、

俗撃を畏絶さぜれば、則ち衆

生の正性荒麿し'其れ未だ央止するの時有らず」、弟四十三幸

「天下之至柔、馳騨天下之至堅」では'「天下の至柔なる者

は、正性なり0若し、代務に馳騨し、塵境に染難し、情欲充塞すれば、則ち天下の至堅と為る」'第六十四章

「其安易持、

其未兆易謀」に封する、

「言ふこころは、

人の正性は、安静なる時は、執持して散乱せざらしめんと洛欲す。故に心を起

Page 16: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

こさんと欲すと錐も'筒は未だ形兆せざれは、之れを絶ちて起こさざらしめんと謀度するに、並びに甚だ易きのみ」など

(32)

にも同様に表明されてゐる。ところで、第十玉章

「清静の性をして法に滞せざらしめず

(令清静之性、不滞於法)」'弟八

三早

「聖人清静の性に於いては'替

って減耗無し

(於聖人清静之性、曾無減耗)」といふ

「清静の性」、第六十四章

「常

に其の自然の性を全うす

(常全其自然之性)」「以て其の自然の性を輔す

(以輔其自然之性)」'弟六十五章

「物をして乃ち

大いに自然の性に順ふに至らしむ

(令物乃至大順於自然之性)」などに見える

「清静の性」「自然の性」なども

「正性」と

一連の概念であ

って'いづれも従来

「道」のもつ本質的な展性を表現したものであり、人問におけるその回復が求められ

てきたものであるが、御荘にあつては

「妙本」の展性と考

へられてゐる。いづれにせよ、御荘の中心をなす思想は、「道」

のさらなる上位概念としての

「抄本」

の措定、

その

「抄本」

による現象世界の生成およびそれと封をなす人間における

「正性」の回復による

「妙本」

への復蹄といふ主張に在ることは明らかであらう。

このやうに、御荘には滞日の思想的展開が見られるのであるが、すべてがこのやうな濁創的な解樺を提示してゐるわけ

ではなく

先行する老子解樺を襲って説を構成してゐる部分も嘗然ながら存在する。とりわけへ成玄英の

『義疏』と類似

の解梓が行ほれてゐる章が目立つ。その典型的な例は'第二十三章であらう。

成疏は'

「希言自然」の句を

「希とは、簡

少なり。希言とは、猶は言を忘るるがごとし。自然なる者は垂玄の極道なり。至道は言を絶し、言

へば則ち理に轟-を明

(33)

かさんと欲す。唯だ皆に言を忘れ、教を遣るべ-んば'適に虚玄に契合すべきなり」と解梓し、言教に執着することな-、

忘言遣敦の境地に立つべきことを説-.成疏の特徴は、さらに績-

「瓢風不終朝、

駿雨不終日」の句に対して'

「言に滞

することの多ければ、教に執して迷を生じ、妄りに操行を為して'以て速報を求むるに警ふ。既に至理に轟けば、久艮な

るべからず」といひ'最終旬

「信不足有不信」に封しても'

「言を忘るること能はず、

言に執して理を求むれば、信道と

名づ-と雄も、理に於いて未だ足らず。所以に名教に執滞すれば、未だ匡源に達せず。故に重玄の境に於いて、不信の心

・玄宗御荘

『道徳県経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

二二三

Page 17: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

二二四

(34)

有るなり」として'忘育造教の教理で

1章の解樺を貫徹してゐる鮎にある。

T方'

御荘の方も成疏に封慮して、

「重言自

然」の句に封しては'

「希言なる者は'

言を忘るるなり。言を忘ると云はずして希と云ふ者は、言に困りて以て道を詮す

れば、都べて忘るべからざるも'道を悟れば則ち言忘るるを明かす。故に希と云ふのみ。若し能-言に困りて道を悟り'

言に滞せざれば'則ち自然に合す」'「親風不終朝'験雨不終日」の句に封しては'

「風雨瓢験なれば'

則ち暴卒にして物

を害す。言教執滞すれば'則ち道を失ひて迷ひを生ず」、「信不足有不信」に封しては、

「言に執し教

へに滞すれば'

了悟(35

)

すること能はず。是れ信に於いて足らざるな-」といふが、さらに徹底して全句でこの教理を援用して江樺を施してゐる。

勿論、成疏ほ

「重玄」を

一方の桂として注梓を施してゐるのに、御荘には

「重玄」の概念は説かれてゐないといふ相違は

存在するが、

基本的な荘樺の態度は同

一と言ってよいほど似通ってゐる。

このやうに、

御荘は

一方では先行する

『道徳

経』解樺にも十分目を配ってゐたことが知られよう。

御荘のいま

一つの猫自性は'経文そのものに封する態度のなかにも見られる.

1般に'経といふものは聖人の制作にか

かるものであ-'その文言は

T字

丁句たりともおろそかにはできない'まして、懇意的に経文を改奨するなどといふこと

は許されないものとして意識されてゐたことは、儒併遣いづれの経典であれ共通した事情といってよいであらう。ところ

で、玄宗は天資五年に第十

一章冒頭の

「戟」字を

「哉」字に改め'前章の末尾に附する旨の詔敏を重したことはすでに言

及したところである。この攻撃は比較的軽微なもので、どちらかといふと経文の校正に近い改愛であった。ところが'御

荘は

一個所大きな経文の攻撃を行ってゐる。それは、弟二十章末句の

「我猪異於人而貴求食於母」である。この旬は従来

(36)

の王浦本や河上公本など玄宗御荘による攻撃以前のテキス-ではいづれも

「我猪異於人而貴食母」に作る。

したがって'

(37)

この攻撃は御荘猪白の判断で行ほれたものであるが、それに関して御荘自身が改饗の正常性を次のやうに主張してゐる.

先に求於の両字尤し.今加ふる所な-.且つ聖人の経を説-や'本と講を避-ること元し。今の代に数

へを為せば、

Page 18: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

則ち理を暢ぶるに嫌疑有-。故よ-義は移すべからず。文に臨めば則ち句は須-穏便なるべし。今に健にして古を存

するは'是れ庶幾する所なり。叉た司届遷、老子説-こと五千飴言と云ふは、則ち理詣-て言を息むを明かすなり。

必ずしも五千を以て定格と為さず。

への聖人の教

へを現代の世で述べようとすれば'常然よ-分からないところが生ずる。そこで理を明らかにする必要が

有るが、経の本義を愛

へることは許されない。しかし'現代での教化に便利であり'しかも古義を存する限りにおいては'

経文の改訂はかへつて廠ふところだ'といふのが御荘の主張であらう。しかし'そのやうな主張が正常化されるには'や

はりそれ相鷹の確乎とした限接が存在しなければならないといふ意識が根低で働いてゐたと考

へられる。そこで持出され

たのが、

『史記』老子列博の中で'

司烏蓮が

「老子は五千飴言を説いた」と経文の文字数については概数しか述べてゐな

いといふことであったo

御荘は

「五千飴言」の

「飴言」に注目して自己の主張の根接としたのであるが、

1方'「五千」

といふ数に拘泥して五千字本の

『道徳経』テキスーを確定しょうといふ試みが六朝期に行ほれてゐたことにも留意してお

-べきであら-。そのやうな試みの代表的なものとして'葛玄の

『老子解題序訣』を附した五千字本の

『道徳経』が存在

(38)

し'道教の経掠博捜の中で大きな意味が輿

へられてきた.しかし'御荘はこのやうなテキストには全く債値を見出しては

いなかったわけで'彼の周囲にあって

『道徳経』の講稗に関係してゐた聾者たちの立場がほのかに想像されるのである。

それはともか-として'御荘の

『道徳経』の経文に封する態度は比較的自由なものであった。それは御荘が皇帝権力を背

景にしてゐたことと全-無関係といふわけではないであらうが'

『道徳経』を教化の根本に据ゑ、

そのために経義をより

明確にしようといふ意園に基づ-要請の方がより重要であったと考

へるべきであらう。

・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

二二五

Page 19: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

二二六

御荘と疏との思想的関係

ここで取上げよ-とするのは'御荘と疏との問にはどの程度の思想的聯闘性が存在するかという問題である。このこと

に関しては'御荘と疏との成立過程から考

へて、普然かなり密接な聯開性の存在が預想されるのであるが、同時に、両者

の閲に存在する相違も無税できないものがある。

一般に、

『五経正義』などに見られるやうに、

義疏、正義の類は'最初

に経文に封する江樺を施し'績いて注に封する詳樺を施すのが常例である。しかし、御疏の場合は、全-このやうな義疏

の澄例に従ってをらず、注と同様に直接経文を解樺することを専らとしてゐて'注の意義を順次敷術解樺するといふ方法

をとってゐない。そのことを端的に示すのは'疏の中で全部で三十三例出現する

「荘云」といふ形での注の引用のうち'

わづか五例を除いていづれも注文の語句の出典の明示ないし語句の訓話である鮎であらう。このやうな特徴は

一腰どこか

ら生ずるものであらうか。それは、この疏が玄宗御荘を敷街解樺するものとしてではな-'御荘との相補関係において経

文のより詳細な解樺を提示するといふ目的で作成されたからではないだらうか。もし'疏が御荘の敷街を目指したもので

あるならば'嘗然'御荘を標出して逐

一それに封する荘秤を施すといふのが通例であらうが、疏では注を全-無税したと

いってもよいやうな形での、経文に封する新たな荘樺が行はれることが多いわ

である。これは、疏があ-までも御疏とい

ふ鰹裁をとつて作成されたために、御荘そのものの解樺にはそれほど拘泥せずに直接経の解梓に後頭できたからではなか

らうか。また、今

Tつの疏の特徴として、

『道徳経』以外の書物の引用、

特に

『荘子』『列子』『西昇経』および五経から

の引用が多いといふことが奉げられる。御荘では'明示的な書物の引用は、弟三十六章に

『周易』'弟三十八章に

『荘子』

が各

一例づ

つ見られるに過ぎない。それと較べると、この限りにおいては疏は義疏としての性格を保持してゐるといへよ

Page 20: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

ぅ。さらに'疏において

『西昇経』が頻繁に引用されてゐることは'疏の直接の作成者が道教教理に親近な立場にあるこ

とを強-示唆するものであり'疏が御荘の立場に沿いながらもより道教教理に即した立場から敷宿しょうといふ傾向を強

(39)

く見せることの説明ともなるものである。以下、二へ三そのやうな例を取上げて'御荘との思想的開聯を検討しよう。

第五十四章は、

「善建老不抜'

善抱老不脱」で始まる章であるが'御荘には全-道教教理に閲はるやうな解樺は見られ

ない。御荘は'道をもって国を建て、百姓を統治する君主は、その功績が後世に俸はり'国が滅びることなく子孫の祭紀

が絶えることがない.このやうな方法を

1身'

一家、

l郷、

1国から天下にまで及ぼせば'それぞれの徳は十全な状態に

なることを説-。

そして'

「故以身親身」以下

「以天下観天下」に至る経に封しては、

l身'

1家'

一郷'

一国から天下

に至るまで'それぞれを修めるのにふさはしい方法でそれぞれを観察すると、「能-清静なる者は匡

(能清静老匡)」、「能

-和睦する者は飴り有り

(能和睦者有飴)」「能-序に順ふ者は乃ち長たり

(能順序老乃長)」「能-勤倹なる者は乃ち豊か

(能勤倹者乃豊)」「能-無為なる者は乃ち普し

(能無籍者乃普)」といふ状態にあることがわかると解樺してゐる。このや

うな解樺'特に後牛部分は'壬滞在の

「天下百姓の心を以て天下の道を観る

(以天下百姓心観天下之道)」といふ解秤や、

河上公庄の

「道を修むるの身を以て'道を修めざるの身を観れば、執れか亡び執れか存せん

(以修道之身'観不修道之身、

執亡執存也)」などの解樺とも異なる御荘満目のものである。

これに対して疏の方は、

前牛についてはほぼ御荘を忠賓に

敷術するが'「以身親身」の解樺では、注の解樺からは大きく外れて、道教教理に基づく泣樺を施してゐる。疏は注に言ふ

「清静なる者」を解樺して、「注に修身の法を以て身を観れば能-清静と云ふは、身の賓相は本来清静なるを観じ'産経に

染らず、諸もろの有兄を除くを謂ふ。有見既に遣れば、室も亦た室なるを知る。二偏を頓拾して'中道に過契すれば、清

(40)

静にして星に契すと謂ふべし」といひ、

「観身」の

「観」を身の賓相が本来清静であり、

室有二偏を離れた中道に

1致す

ることを観ずる'沸教でいふところの中道観の観法を適用して解樺してゐる鮎が疏濁白の道教教理的解樺といへよう。し

・玄宗御荘

『道徳県経』および疏撰述をめぐる二'三の問題

二二七

Page 21: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

二二八

かLtこのやうな観法を

「観家」以下に具鰭的に適用することは茸際上は不可能であって、疏も御荘の説をそのまま承け

てほとんど発明するところがなく

最終旬において'

「蓋し此の親身等の観を以てして之れを観、我自り園を刑

(おき)

め'内由り外に及ぼさば、則ち之れを知るのみ。易に日-'我が生を観へ其の生を観る'と。自ら観じて人を観ぜんと賂

(41)

欲するなり」といって'

7身の観法から摸大して家郷囲天下を観察することが可能であることを、今度は

『周易』観卦の

文辞を板接にして示すが'御荘が

「此の親身等を以て之れを観れば'

則ち知るべきのみ

(以此親身等観之'

則可知爾)」

としか述べてゐないのに対して'いささか唐突の感を免れない。因みに、成疏ほ前牛については自利利他などによって解

樺を施してゐるが'ここで問題にした部分ついては、ほとんど河上公庄の解樺をそのまま襲ってゐて、何等観法について

言及するとろはない。

同様の例は疏の各所に見られるが、さらに

1例を挙げるならば、第六十三章首句の解樺が注目される。ここでは,御荘

が大小多少など、分を超えない限りは怨みを生ずることはない.しかし'外界を追ひ求めて有為の心を生じ,分に達ひ性

(42)

を傷つけるならば'大小多少とな-怨封を生ずることになると解樺するのに封し

て、疏は'

「無声

「無事」「無味」の三

をそれぞれ心'身、口の三業にかかはる教説とした上で'

三業既に轟-れば'六板の塵自ら息むのみ。若し夫れ大小の軍

多少の事'萄-も有馬の境に捗れば'怨封の健に非

ざる無し.若し能-彼の無為を健し'義の有欲を捨て'鼻糞の相を悟りて、慮心を起こすこと無-んば、自然に怨封

生ぜず。怨みに報ずるに徳を以てすと謂ふべきのみ。

(43)

といひ'身口意

(心)の三業が轟きれば、六枚の塵欲が自然に消滅することを前提として

「報怨以徳」を解樺してをり'

ここでも御荘の解樺を傍らに置いて'道教教理を援用して経文の意義を直接解梓するといふ方法が取られてゐる。

最後に'疏が御荘とは別個に滞日の議論を展開ないし御荘の説を改愛してゐる例を挙げておかう。その代表的な例は、

Page 22: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

前稿で詳細に述べたとはり、第二十五章

「人法地'地法天'天法道'道法自然」に封する議論である。これは'初唐期に

おける併道論争の展開を十分贋まへた上で、「道」の上位概念として、「自然」ないし

「虚無」を措定するやうな

一類の道

教教理を否定し'

「道」

「自然」「虚無」を唯

一絶封の

「抄本」の功用、性、鰭と規定するものである。また'これほど顕

著なものではないが'弟三幸

「難得之貨」に封して、疏の方は、

一癒御荘の

「性分の克き所」といふ解樺を敷街した上で'

「又解云」として'「人君珠犀賓貝を貴はざれば、則ち其の政清浄なるを以て、故に百姓之れに化し'自ら食取を絶ち'人

(44)

各おの足るを知る。故に盗を為さず」と'従来の解樺を挙げて御荘の猪創的解秤をある意味で希薄化させるやうな態度を

ってゐる。しかも第三章では

「又解云」と別解を紹介しただけのやうな腔裁を取りながら、

第六十四章では、

「難得の

貨とは'内には性分の無き所を謂ひ、外には珠犀賓貝を謂ふ。聖人は欲に於いて欲無-、内に性分の無き所に務めず'外

(45)

に累徳の賛貨を営まず。故に難得の貨を貴ばずと云ふのみ」と説いて、御荘猫特の解樺と従来の有りきたりの解樺とを完

全に融合させてをり、あたかも侍統的な解梓に譲歩したやうな感じを輿

へてゐる。

確かに'

「難徳之貨」を御荘のやうに

解樺することは'かなり強引な解樺であると言はなければならない。恐ら-、疏は目立たないやうな形で御荘と従来の解

樺との調和を囲ったのであらう。

以上のやうな諸鮎を勘案すれば、疏は基本的には御荘の解梓に沿ひつつ直接経文を解樺するといふ態度を取り'全くの

従属的な立場から御荘を敷街するものでない。特に'沸教教理を大幅に取込んで形成された常時の道教教理がかなり鮮明

に反映された部分には'御荘とはまた異なった疏の猪自性が看取される.

このことは、

「樺題」において玄宗が述べてゐ

る彼自身の発明にかかる御荘以後の

『道徳経』解樺と、

『玉海』にいふところの'

玄宗の命を受けて左常侍崖巧が道士王

虚正、趨仙甫および諸畢士らと修撰したといふ二つの部分から御疏が構成されてゐるからに他ならないであらう。

・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

Page 23: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

漢(-)

(2)

(3)

(6)

(7)

『道教と宗教文化』所収'

一九八七年三月、平河出版社

武内義雄

『老子の研究』

第七章、

『武内義雄全集』第五巻所収、

一九

七八年三月'角川書店

「其老子宜令士庶家蔵

l本'伽勧令習讃、使知旨要。毎年貢馨人、量

減尚書論語

一雨傑策、准敷加老子策'伸敦崇道本、附益化源。--開

元二十

1年□月

l日」

(「開元聖文神武皇帝荘道徳経赦」、北京大学圏

書館戒蛮風堂拓片'陳智超

『道家金石略』頁

一一八所収'文物出版社I

1九八八年六月.また、『張曲江集』巻七、歳初虞分)

『冊府元亀』

巻五十三'帝王、尚黄老が開元二十年とするのは誤り。

「二十三年三月突未'親任老子'

井修疏義八巻'及至開元文字音義三

十巻、頒示公卿士庶'及道樺二門、聴直言可否」

「伏奉恩赦、賜臣等於集賢院O輿諸学士奉親御住道経及疏本へ

天旨玄

遠'聖義挙明、詞的而理豊'文省而事懐。上足以播玄元之至化、下足

以関東代之宗門O非陛下道極帝先、勤宜租業、何能廻日月之暑度'整

乾坤之戸脂'使盲者反視、聾者聾聴。--請宜付所司施行」

「玄元皇帝道徳経御荘。右検校道門威儀龍興観道士司馬秀奏。望□南

京及天下鷹修官密等州'取奪法物、各於本州

一大観造立石童'刊勧経

荘'及天下諸観芹令開講。赦旨依奏、

開元廿三年九月廿三日」(蛮風

堂拓片'『道家金石略』頁

八所収)

慎州では'開元二十五年に、道士ヂ倍が石基建立のことを奏請し(『集

舌鋒抜尾』巻六)'易州のものは開元二十六年に建立され(『金石卒編』

巻八十三)、

耶州龍興観の場合は、

開元二十七年になって漸く建立さ

れてゐる

(『金石卒繭』'締着光

『震川集』巻五

「抜唐石基道徳経」)0

大淵忍爾

『敦煙道経

(圏録篇)』貢四八九。

一九七九年二月'福武書店

「唐玄宗

《道徳経》注諸問題-興李斌城同志廷商」『世界宗教研究』

1

九八三年三期)

「開元中、玄宗留意経義、自襟元量元行沖卒後、得希烈輿鳳和人渇朝

二三〇

隙'常於禁中講老易O‥・・・・玄宗凡有撰述、必経希烈之手」

(11)

「開元初、

詔中書令張説拳能治易老荘者。集賢直撃士侯行果薦子元及

平陽散骨県於説、課籍以聞。鼓腸衣幣、得侍讃o子元擢累秘書少監、

合虞四門博士、俄皆乗集賢侍講学士。--始行果合虞及長柴渇朝隠同

進講O朝隙能推索老荘秘義'合員亦善老子、毎啓篇、先薫盟乃讃」

(12)「十八年十月、命集賢院学士陳希烈等於三殿溝道徳経。侍中糞光庭等

奏日、…-途命集賢院学士中書舎人陳希烈諌議大夫王廻質侍誇学士宗

正少卿康子元'賛善大夫渇朝膳等於三殿侍講、敷暢長文」

(13)

「股誠寡薄、嘗感斯文、猿承着後之慶、

恐失無為之理、毎困清宴、帆

叩玄関、随所意得'途蔦葛注。豊成

1家之説、但備遺閑之文。今薮絶

筆、走狗於衆。公卿臣庶'道樺二門、有能起予類於卜商、針疾同於左

氏、渇於約善、

朕所虚懐。」(蛮風堂拓片、

『道家金石略』貢

六所

収、『金石軍縮』巻八十三)

(14)

荘二所引武内論文。

(

15)

「(開元)二十年春.奉赦撰龍門公宴詩序'賜絹百疋。延入集賢院修老

子道徳経疏、行於天下」「開元二十年九月'左常侍雀汚入院修撰、輿

道士王虚正'趨仙甫井諸学士参議修老子疏」

なは、『顔魯公集』に

ついては吉川忠夫氏の教示による。

(16)

注二所引武内論文。

(E3)

「毎惟聖組垂訓、治既孫謀、聴理之飴'伏勤講演、

今復

l二詮疏其質

妙者'書不重言'粗馨大綱'以神助学者爾」

(ほ)

「十月、御荘道徳経政義疏分示十道、各令巡内俸寓以付宮観」

(19)

スタイン七五競

および

ペリオ二三七〇親の

『老子解題序訣』には、

「(老子)世衰大道不行、西遊天下。開合空吾日、大道格隠乎.顕為我

著書。於是作道徳二篇五千文上下経蔦」とあり、既に

「上下経」の語

が見えてゐる。

『解題序訣』のこの部分の成立年代については、

魂の

葛玄によるとするものから

(武内義雄

『老子原始』

第二章)'遅-と

も六朝末までに成立してゐたとするものなどがあるが

(楯山春樹

『老

Page 24: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

子俸説の研究』前篇第三章'

一九七九年、創文社)、

玄宗以前のもの

であることは確賓である。

(20)

「四月戊寅、詔日'化之原著日道、道之用老鶏徳。其義至大'非聖人

執能章之。昔有周季年'代輿道喪。我烈租玄元皇帝、乃護明抄本'汲

引生憲、途著玄経五千言'用救時弊。義高象繋'理貫希英。非育代之

能債、豊六経之所擬。承前習業人等'以其巻数非多'列在中経之目。

放言奥旨、稀謂殊轟。自今己後、天下艦馨、除崇玄学士外、自除所試、

道徳経宜並侍、依命所司更詳揮

一中経代之。其道経篤上経、徳

(経)

馬下経。

庶乎道尊徳貴、

是崇是奉。凡在退避'

知膜意鳶」(『耕府元

免』巻五十四、帝王、尚黄老、『全唐文』巻三十

1)

(2)

「凡正経有九O虐記左氏春秋烏大経'

毛詩周虐儀鎧烏中経へ

周易尚書

公羊春秋穀梁春秋馬中経。其孝経論語老子奴須乗習」

(22)

「其載二月二十四日'詔日'験欽承聖訓、専思玄経。

頃改造徳経我辛

篤哉、併隷属上旬。

及乎廷議、

衆以薦然。途錯綜虞詮'

因成註解」

(『唐合要』巻七十七'論経義)

(23)

この他にも、

御荘及び疏の中における

『荘子』

『列子』の引用に関し

て、いづれも天資元年の

『荘子』を

『南華虞経』'『列子』を

『沖虚虞

経』とするといふ詔を反映してゐないことも

一つの徴欝となるもので

あるが'杜光庭の虞聖義

「義日」の部分も同様に

『荘子』

『列子』の

ままであるから、必ずしも全ての書物が

『荘子』

『列子』の引用にあ

たって、天質元年の詔に従ってゐるわけではないことも'同時に留意

しておかなければならない。

(24)

「前章明縦欲溺情、騎盈故有巻。此童明養殖愛気、

不雑則無症。皆晩

己下至源除'戒修身所以全徳.愛人己下至明白、示徳全可以烏君。結

以生之畜之'表玄功之被物也」

(25)

この疏は完全な聞達ひで、

「直而不韓」

は第五十八章の文である。す

でに言及したやうに、

『虞聖義』では、

この部分の疏は

「荘云直而不

韓'此巻之経文也」となってゐる。

・玄宗御荘

『道徳虞経』および疏撰述をめぐる二、三の問題

(SS)

「貴貸過用へ貧者競趣'穿箭探薩'没命而盗」'

「言人君不御好珍賓'

黄金棄於山'珠玉損於淵」

(27)

「難得之貸、謂情味剃壁'垂棟照辛也。若使普天貴賓'則盗賊期生I

率土賎珍'則盗窺不起.故言不盗」(以下'

成玄英疏の引用は、

道蔵

四〇七-四

一冊

『道徳虞経玄徳纂疏』による)

(加)

「難得之貨'謂性分所元老'求不可得'

故云難得。夫不安本分、希教

所天'既失性分、寧非盗縞。欲使物任其性、事柄其能'別離得之貨不

貴、性命之情不篤盗夫」

(g;)

「凡情不能因任'営為分外。

病者求遮、

理必敗之O於事不能忘遣、動

成執着、執着求得、理必失之」

(30)

「人生而静、天之性。感物而動'

性之欲。若常守清静、解心得紳'近

照正性、則観乎抄本夫。若不正性、其情逐欲而動へ性失於欲、迷乎道

原'欲観抄本、則見過敏夫」

(31)

「虚極者'抄本也。言人受生、皆棄虚極妙本。

及形有受納、

則妙本離

散。今欲令虚極抄本、必致於身'普須絶棄塵境染滞。守此雌静篤厚、

則虚極之道、自致於身也」

(32)

「若不畏絶俗学'則衆生正性荒麿、其未着央止之時」「天下之至柔者'

正性也。若馳駆代務、染難塵境'情欲充塞'則馬天下之至堅」「言人

正性、安静之時、洛欲執持令不散乱.故稚欲起心、尚末形兆'謀度絶

之、使令不起、並甚易耳」

(33)

「希'簡少也.重言'猶忘言.自然薯、重玄之極道也。欲明至道緒言、

言則轟理。唯普忘言追敷、逼可契合虚玄也」

(3)

「響滞貫之多'執教生迷'妄馬操行、以求速報。既爺至理'不可久長」

「不能忘言'而執言求理'雄名信道、於理未足。所以執滞名教、

未達

虞源O故於重玄之境'有不信之心也」

(35)

「希言者'忘言也。不云忘言而云希者、

明因言以詮道、

不可都志'悼

遠別言忘。故云希蘭。若能困言悟道、

不滞於言'

則合自然」「風雨親

駿、則暴卒而害物O言教執滞、則失道而生迷」「執言滞教'不能了悟O

二三一

Page 25: Title 唐・玄宗御注『道德眞經』および疏撰述をめぐる二、三 …...人、量は蘭書、論語の1両僕の策を減じ、数に准じて老子の策に加へ、道本を敦崇し'化源を附益せしめよ。其れ老子は、宜し-士庶をして家ごとに一本を痕せしめ'偽りて勧めて習讃せしめ、旨要を知らしめ

是於信不足也」

(36)

馬鼓倫

『老子裏話』による。『文献通考』巻二百十

一'経発意'道家

には

「明皇老子注二巻疏

一巻」が挙げられ、晃氏の説として

「唐玄宗

(37)

撹.天資中加親玄溝道徳経。世不稀需o又頗埠其詞、如而貴食母作兄

貴求食於母之類」とある。

これによれば、

「兄貴求食於母」に作る御

荘本が有ったことになるが'現在見られる開元碑や開元唾などはいづ

れも

「而貴求食於母」に作ってゐて'晃氏の説に合致するもののない

こと、馬氏の指摘のとはりである。

「先天求於雨字.今所加也。

且聖人説経、本元避詩O今代薦教、則有

嫌疑暢理。故義不可移。臨文則句須穏便。便今存舌へ是所庶幾。又司

馬遷云'老子説五千飴言、則明理詣而息言.不必以五千馬定格」

五千字本は賓際には四千九百九十九字。天資十我の紀年を有するスタ

イン六四五三親や'ペリオ二五八四境などが敦塩残巻の中に存在する0

疏が援用する道教教理は、南北朝末から陪

・初唐にかけて、併敦教理

を大幅に取入れて形成されたものであり'

一見したところ係数数理そ

のものを援用して

『道徳経』の解樺を行ってゐるやうに見える。しか

し'疏の作成者としては、なんら沸教教理を援用してゐるといふ意識

は持ってゐなかつたであらう。このことについては、拙稿

「南北朝隔

二三二

初唐道教教義撃管窺-以

《道教義椙》馬銭索」(『日本学者論中国哲

学』'

一九八六年十

一月、中華書局)を参照。

(40

)

「荘云以修身之法親身能清静者'

謂観身賓相'本来清静'不染塵薙I

除諸有見O有見既達、知室亦室.頓拾二偏'迎契中道'可謂清静而契

県央」

(41

)

「蓋以此親身等親而観之、自我刑闘'

由内及外'

則知之蘭。易日'親

裁生'観共生'洛欲自観而観人也」

(42)

「於馬無為'於事無事'於味無味者、仮令大之輿小'多之典少、耽不

越分、則無輿為怨。若逐境生心'達分傷性'則無大無小'皆薦怨料.

今既守分全和'故是報怨以徳」

(43

)

「三業既轟'六枚塵自息爾o若夫大中之島、多少之事、苛渉有馬之境、

無非怨封之聯O若能睦彼無為'拾玄有欲、悟虞賓相'無起慮心.自然

怨封不生、可謂報怨以徳爾」

(44)

「以人君不貴殊犀賓貝、則其政清浄。故百姓化之'自純真取'人各知

足。故不馬盗」

(45)

「難得之貸、内謂性分所無、外謂珠犀賓貝。

聖人於欲無欲'内不務於

性分之所無、外不薯於累徳之賓貨。故云不貴難得之貨爾」


Recommended