+ All Categories
Home > Documents > ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H·...

ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H·...

Date post: 18-Aug-2020
Category:
Upload: others
View: 3 times
Download: 0 times
Share this document with a friend
13
BEPPU CONJYAKU (2)
Transcript
Page 1: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

BEPPU CONJYAKU

海岸物語り(2)

    

第八話 

●先代の紫丸が就航

    

第九話 

●波止場神社の祭り

    

第十話 

●べっぴん魚市場

    

第十一話●ヤシのかせぎ場

    

第十二話●豊後別府遊泳所

    

第十三話●ぜいたくな入湯船

    

第十四話●岸に乗りあげた軍艦

    

「別府今昔」「オオイタデジタルブック」について

    

初版

二〇〇六年四月七日発行

Page 2: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

 

大正十年春からニカ月間大分市で

開かれた九州、沖縄八県連合共進会

は別府の旅館の増、新築に大きな刺

激をあたえ、大阪商船でも当時とし

ては豪華観光船といわれた先代の紫

丸(

一七〇〇トン)

を新造し「海の

女王」と大いに自慢した。

 

阪神‐別府間はまだ隔日運航で、

紫丸は別に観光遊覧船として一週三

回往復していた。別府から阪神まで

の船賃は、普通便が

▽一等十六円四十銭▽二等十円十五

銭▽三等五円三十四銭

 

観光船の紫丸に乗ると、この料金

のほかに追加特別料金として

▽一等五円▽二等二円五十銭▽三等

一円二十銭……をとられた。

 

現在の制度と全く同じだが、船内

サービスは現在とはいささか違って

いたようだ。

 

午後五時神戸出帆、夜になると舞

台のある三等室に客が集まり乗客慰

安演芸会が開かれていた。舞台には

りっぱな引き幕もあり、楽屋には演

芸用のカツラや衣装などもそろって

いた。出演者はボーイ諸君でノド自

先代の紫丸が就航

海岸物語り

第八話

●昭和三十九年十一月九日掲載

慢や浪曲、琵琶の演奏などがおもな

だしものだが、お客も飛び入りでど

どいつ(

都々逸)

をやったり義太夫

をうなって大いにたのしんだ。

 

海が荒れない航海で乗客におもし

ろい芸達者な団体などが乗り合わせ

ると、夜のふけるまで大宴会のよう

なにぎわいがつづいたものだ。

 

紫丸は翌朝十一時には別府港に着

く。船が別府湾に入ると、いままで

白服の船内服を着ていたボーイさん

たちは紺サージに金ボタンの別の制

服に着替えてラッパやクラリネット

をかつぎ出しデッキに整列、別府港

機橋に入ると同時に〃君が代マーチ

〃を演奏して「着港奏楽」

をやって

くれた。しかしこれは大正十年ごろ

からで、それまでのハシケ時代は客

迎えの旅館の番頭が名入りちょうち

Page 3: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

んをさげてハシケで本船に客迎えを

した。当時のこのような波止場風景

を小説「百合子」

=大正二年版=の

中で作家菊池幽芳がつぎのように描

写している。

 

別府湾は小波も立たず船はさな

がら鏡の上に浮いているように見え

た。甲板の上には伝馬船の近づくの

を待ち構える人々の姿が見えた。百

合子はその中に弥生を物色したが、

まだ遠くてはっきりしない。しか

し洋服を着た人と並んでこちらを指

さしているのがたしかに弥生だと感

じたのでハンカチを振ってみた。伝

馬船は次第に近づき百合子は大きな

 

別府築港の完成とともに、波止場

の鎮守様として波止場神社が北浜の

波打ち際の砂っ原にポツンと建立さ

れたのは明治四年五月。台風の時に

高波が打ち寄せるので、石垣を高く

積みあげその上に造営した。

 

氏子は北浜と港町でそれぞれ総代

を置き七月九日、十日の夏祭りは別

府の夏祭りの皮きりとしてたいへん

なにぎわいをみせたものだ。すぐ近

くに竹瓦温泉ができ、それをとりま

く旅館街の出現で祭りの時は流川の

蝶々に結ってコートを着た弥生の

姿を認めることが出来た。伝馬船は

本船へつけられて人々の後から百合

子は足許軽くハシゴを上った。上に

は弥生が待ち構えていて手をとるよ

うに引きあげた。…日名子旅館の手

代がきて手荷物や何かの用事を聞い

た。一行は日名子旅館の手代に案内

されて伝馬船に乗り移った。上陸す

ると目の先のところを人力車で日名

子に入った。…」

 

小説の中のこのような風俗史的情

景は、波の静かな限り実にのんびり

と明治から大正時代の初めまでつづ

いた。

所から神社周辺に露店がぎっしり軒

をならべた。

 

しかし海岸側に国道ができたり大

きな旅館が立ち並ぶようになってか

らは、港との縁が遠ざかった格好で

終戦後の祭りはさびれる一方。この

ごろでは開店休業といった状態がつ

づき、夏祭り復活論も出たり消えた

りで昔の夏祭りの姿は全く見られな

くなってしまった。

 

境内右側に、大正元年にりっぱな

築港記念碑を建てて波止場完成まで

の由来をくわしく記述してあるが、

題字を書いたのが別府築港の必要性

を説き工事費を貸してくれた初代日

波止場神社の祭り

海岸物語り

第九話

●昭和三十九年十一月十日掲載

Page 4: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

に入ったとき地元の稲尾後援会結成

が波止場神社で行なわれたが、三ツ

子の時から境内をかけまわっていた

路地裏の「

カズ坊」

が天下の名投手

になろうとは、野球を知らぬ波止場

神社の神様も鼻を高くしておられる

ことだろう。氏子に金持ちが多いの

で社殿も、狭い境内も手入れがよく

行き届いてはいるが、狭い道路と大

きな旅館に囲まれた由緒のお宮は今

では八方ふさがりといった格好、砂

浜の広い昔に、もっと境内だけで

も広くとっておいたら臨海公園にで

も利用できただろうにと古老も残念

がっている。

田県知事の松方助左衛門正義。碑文

の文末に築港の諸係りをつとめた主

要な人物四十八名の氏名も記載され

うな時代だけに今さら復活しても…

という説もあってお神楽があがり、

露店がぎっしり並んだ夏祭りのにぎ

わいも昔語りになりそうだ。

 

この波止場神社のすぐ横の路地

に、西鉄ライオンズの稲尾和久投手

が生まれている。「

カズ、カズ」

近所の人から愛称で呼び捨てにされ

ながら、漁師の家に生まれた稲尾投

手は波止場神社が遊び場であり神社

の前の広場でキャッチボールをやっ

たものだ。近所の鶴万旅館の若主人

が野球が大好きで、子供を集めて少

年チームをつくり稲尾は捕手をやら

されていた。別府緑丘高校から西鉄

「別府町長吉田嘉一郎識」

となって

いる。

 

この碑ができたとき、往時の功労

者の家に銀製の文鎮が贈られた。別

府港が果たしてきた観光都市別府へ

の大きな役割りを考えると、夏の名

物にまでなっていた夏祭りを中止し

てしまった氏子諸氏に対し神様もさ

ぞやご立腹のことであろうが、世の

中は築港当時からみると三代目の時

代であり、波止場神社の祭りをゼニ

をかけて復活してみたところで観光

客が押しかけるわけでもないし、そ

れに第一、終戦後の敬神思想という

ものが人の頭から消えてしまったよ

Page 5: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

 

別府と浜脇の魚市場が合併して

「別浜魚市株式会社」ができたのは

明治四十二年だが、会社の名前が

「べっぴん魚市株式会社」ではどう

も都合が悪いというので、この名称

は翌年になって別府魚市株式会社と

改めた。

 

合併による新市場は波止場にくっ

ついた鶴万旅館の前、現在天然砂湯

の建て物のある場所で、浜脇の西温

泉の建て物をそのまま買いとって再

建した。建築材料は全部ケヤキで周

囲の壁もケヤキのくり抜き彫りとい

う豪華さ、屋根には大きなシャチ

ホコが景気よくピンとはねあがって

いるという御殿造りのような魚市場

だった。奥行き五間(

九メートル)

間口九間(

十六メートル)

で事務所

は二階建てになっており、四国の小

豆島付近から御影石を運んで土間に

敷きつめた。

 

りっぱな市場ができ上がったのを

記念して、関係者一同が仕事着のま

ま記念写真を写したのが、岩尾米造

老の宅にまだ残っているが、その中

に豪商たばこ屋の最後の人となった

悲劇の主人公荒金五郎もいっしょに

写っている。この魚市場の建て物は

別府温泉史の貴重な建築物だが、惜

しいことに国道十号線が海岸に開通

したさい、道路のまん中にあたるた

め壊してしまった。そして別府魚

市場は町営となって現在の別府消防

署の所に移転した。そこももちろん

砂浜で、源左衛門尻川の川口にあ

たっていた。海岸埋め立てができて

から、現在の埋め立て地に引っ越し

た。魚市場に対し池部守松老が社長

として九十歳の今日まで世話をして

いる別府青果市場は、明治四十二年

四月八日、県下初の県令による認可

市場として桟橋の前に創立された。

べっぴん魚市場

海岸物語り

第十話

●昭和三十九年十一月十一日掲載

Page 6: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

そして大正三年すぐ北側の現在清水

荘支店のある場所に建て坪七十坪も

ある地下室付きの大市場を新築移転

した。

 

広島や四国の野菜、果実の荷揚げ

に便利がよく市場が自家用の波止場

を持っているようなもので、地下室

もセリに使い便利がよかった。

 

野菜類のうち高級旅館や料理屋で

使うのは全部広島から船で送られ、

きゅうりが大分郡の高田から入る程

度。昭和初年にトマトが「唐ナス」

とか「西洋ナス」という名前で入

荷したときには食べる方法がわから

ず、トマト特有のにおいのために「色

だけカキんごとあってうまそうじゃ

が…」と仲買い連中もひと口かじっ

てみて、はき出したそうだ。親にせ

がんで買ってもらった子供が「こ

げんもの食えん」と顔をしかめた時

代がトマトの入荷初期にはよく見ら

れたものだ。魚や青果物の荷揚げ

のほか波止場の船だまりはセメント

(

ショメンといっていた)

や衣料品

などを荷揚げする帆船や入湯船、打

瀬船、地元のイワシ船などでごった

返したが、それだけに荷物を運ぶ馬

車が十五、六台並ぶことは珍しくな

く、水揚げ業の親方伊東助一さんが

貨物の積み込みや荷揚げの大将格で

浜仲仕にサイハイを振っていた。荷

船が着くと当時海岸名物入湯客目当

てのヤシの露店も伊東親方の声一つ

で店をたたんだ。いまでこそ浜仲仕

組合事務所は水上派出所の隣に時代

から忘れられたように古い看板をあ

げているが、全盛時代は流川の突き

当たりの所にあって威勢のいい仲仕

や馬車引き連中でいつもにぎわって

いた。

 

流川交通信号の立っているあたり

が昔も船が着くと荷馬車でごった返

していたわけだ。昔と変わらぬ道幅

のこの付近はいま自動車と電車で混

雑している。

 

波止場を中心に人出が多くなると

ヤシの群れが船付き場に集まって屋

台をならべたが、いまの国道が海岸

線にでき上がったものの、まだ電車

が九電前からようやく桟橋前まで延

長された程度の大正年間には、淺橋

から北は広い国道がヤシ連中のかせ

ぎ場になった。

 

天然砂湯のカーブから児玉旅館、

鶴田ホテル、愛媛屋の前あたりまで

ぎっしり屋台の店がならんで、夜

は電灯までひいて入湯客がぞろぞろ

ヤシのかせぎ場

海岸物語り

第十一話

●昭和三十九年十一月十二日掲載

Page 7: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

広い道路いっぱいになるほど集まっ

た。この露店は大部分がインチキ

なものばかりでどの店にもサクラが

二、三人はまじっていた。ならんで

いる品は八目うなぎ、ガマの油、薬

草、白毛染め、忍術の本、反物、モ

グサ売り、源水のコマ回し、ヘビ使

い、茶わんの投げ売りなどで現在別

府市で知名士といわれる資産家や事

業家の中にも、このような屋台商売

から苦労した立身出世組もかなりあ

るようだ。

 

とにかく売っている品はインチキ

とわかっていても、それを声色おも

しろく売りつけようとする露店街は

別府名物といわれ、入湯客は昼もヒ

マさえあれば店から店をひやかして

歩いた。

 

屋台に人だかりしている中を船名

の入った旗をかついだ船問屋の宣伝

員がハッピ姿でリンを打ちふりなが

ら「第一宇和島丸、馬関行き」とか

「広島行きキタン丸八時出帆」とか大

声をはりあげてふれて歩いた。

 

日豊線工事が立石トンネルの開通

とともに急ピッチで進み、杵築から

日出駅までのびたのが明治四十四年

三月二十二日、それまでは午前一時

に客馬車で別府を出て、朝七時ごろ

長洲町に着いて汽車に乗っていた別

海岸に毎日見えるようになると、〃

船より汽車の方が乗り心地がようて

早さも早い〃といった鉄道人気とと

もに日出行きの鉄道連絡船は満員の

盛況、鉄道と船との競争気分が関係

者をひしひしと包んだ。

 

昭和三年から四年にかけて電車も

亀川まで延長工事を完成、ヤシが群

れ並んだ桟橋前から北浜海岸に旧式

のチンチン電車と新式の大型ボギー

車が交互に走るようになると、ヤシ

の屋台商売も交通取り締まりを受け

て竹瓦温泉の周辺や松原公園方面に

後退。別府の海岸名物はついに姿を

消していった。

府の人たちは、線路用地が日出から

亀川、別府と延びてくるのを待ち遠

しいように、日出駅開業とともに別

府港から日出港まで鉄道連絡船を走

らせた。

 

いままで船会社の間の競争であ

り、回漕問

屋の手代た

ちのお客争

奪戦を展開

していた別

府の波止場

は、列車の

煙が目と鼻

の先の日出

Page 8: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

豊後別府遊泳所

海岸物語り

第十二話

昭和三十九年十一月十三日掲載

 

明治四十二年夏、豊後別府遊泳所

というのが北浜海岸に開設された。

所長は、臼杵山ノ内流から分かれ清

己流矢野派を編み出した矢野亀太郎

先生。臼杵から転任した矢野先生は

慶応義塾を卒業後、田の湯で旅館喜

久屋を経営、書道でも全国に名をな

していたほどの人物だった。

 

自費で遊泳所を開設したのち数年

たってからは町でも応援してくれるよ

うになり、大正初年ごろから生徒数も

千人をこすほどの盛況で、昭和初期ま

でつづいた。北浜海岸に麦わらぶきの

脱衣場、シャワー、中に入って全身が

洗える真水の大おけなども設備されて

いた。先生の助手役には西村孝子(

かし)

、桑原藤喜両氏はじめ歯科医を

やっていた下河原、川越次郎、佐藤毅

一といった人たちがいた。

 

水泳納め会には大旗を押し立てて

の渡海、美しい花ガサ、水中宴会、

弓術、水中煙幕など現在臼杵の山ノ

内流がやっているような古式泳法の

奥伝がにぎやかに披露され、北浜海

岸は水泳受講生徒の父兄や入湯客の

見物で毎年黒山の人だかりを見せた。

 

昭和の初め、大分市の水泳講習

会の元祖といわれた阿部壮次郎先生

も、当時矢野門下の二番弟子ぐらい

のところで北浜まで通って習ってい

た。遊泳所は期間一カ月ぐらいで毎

朝白ペンキ塗りの酒ダルを結びつけ

たロープを北浜沖合に張りめぐらせ

てその中で泳ぎ、夕方になるとロー

プを砂浜に引きあげた。

 

学生時代、極東オリソピック大会

の日本水泳代表に選ばれたこともあ

る映画俳優の鈴木伝明がロケで別府

にきたとき、遊泳所の先生たちにク

ロール泳法を公開指導したこともあ

り、長期入湯客の中には親子そろっ

て入所する者、外人女性の参加、プ

ロレス(

当時は鉄棒を曲げてみせた

りしていた)

の外人など珍しい顔ぶ

れも多かった。クロール泳法を鈴木

伝明から初めて見せてもらった指導

者たちはその速いのにびっくりした

Page 9: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.�

が、当時臼杵で開かれた山ノ内流の

水泳試合に清己流から二十人近い選

手を派遣、西村孝子が団長で対立的

立ち場の臼杵に乗りこんだ時には、

抜き手泳法で本場の臼杵を女子の選

手が見事に破ったこともあった。

 

かくて清己流矢野派は矢野亀太郎

によって別府を中心にしだいに全国

的に有名となり、大正十五年には矢

野一門の高弟桑原、下河原、川越の

三人は矢野先生とともに福岡県の明

善校に招かれて明善校の裏の川で実

演、さらに翌日博多の海水浴場まで

遠征して実演した。はなやかな温泉

町の、砂湯の北浜に根をおろした古

泳法は大正年間の夏の名物となった。

 

しかし大分港や仏崎から北浜まで

の遠泳を少年が平気でやってのける

ほどの盛況をつづけた遊泳所も、矢

野先生が昭和七年七月死去してから

は、別府市内の後継者が家事のつご

うで立ち場を離れたり、永い戦争時

代ともからんで清己流の本流は阿部

壮次郎の門を受けつぐ大分市の宇野

熊治、吉田志津加らによって護り

つがれて勢力は大分市に移っていっ

た。西村(

七三)

は別府公園近くの

市営住宅、桑原は別府市弥生町一丁

目で桑原食堂を経営、昔の全盛時代

をなつかしがっている。

 

手ぬぐいを小さく折って頭にの

せ、カスリのすその長いつづれを

ひっかけ、潮やけした顔色、ことば

になまりが強かった。竹瓦市場の食

料品売場や道ばたの一山幾らという

安い食料品をかかえて船の上で七輪

をバタバタあおいでいた。飲み水を

霊潮泉や竹瓦温泉横の共同水道に桶

でくみにきていた。入湯代無料時代

だけにお湯に入っている時間の方が

長いほど一日に何度も長時間入湯し

ていた。

 

この入湯船のなかに大正十三年ご

ろ初丸という百トンもある大型船が

あった。大阪実業界でも有名なH

 

夏になると今でもときたま「入湯

船」が見られるが、別府港をいっ

ぱいに埋めた入湯船風景は明治、大

正、昭和にかけての名物だった。

 

浜脇も朝見川の川口にあふれるば

かりの入湯船がやってきたが、朝見

川口や別府港内に入りきれない船は

砂浜に引きあげて、その中で寝起き

していた。浜脇温泉、竹瓦温泉、霊

潮泉は入湯船の人たちが一番集まる

温泉で旅館に泊まる客とはひと目で

違いがわかった。

ぜいたくな入湯船

海岸物語り

第十三話

昭和三十九年十一月十四日掲載

Page 10: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.10

氏が全身リューマチでしびれ、その

治療のため別府入湯船を新造したも

の。当時日本では珍しかったディー

ゼルエンジンを設備した豪華船で、

たった一人の主人公の入湯治療のた

めに造られたこの船には船員七人、

女中二人、会計一人が付き添いで

乗っており、一年八カ月も波止場の

中にがんばって長期滞在と豪華な生

活とで大きな話題を呼んだ。

 

リューマチに特効のある竹瓦温泉

につかったり当時名鍼灸医で鳴らし

た山本廷治院長から鍼灸治療を受け

たりした結果、一年五カ月ばかりで

自由に歩行できるようになった。あ

まり長期滞在のため、市でも〃一般

の入湯船と違い地方税を課税すべき

だ〃という意見が出たこともあるが、

そのへんは心得たもので初丸はとき

どき出港しては九州一周をしたり、

宮島の管絃祭にお参りしたり、市民

なみの課税対象にならないようイカ

リをあげていた。ただし入湯税だけ

は他の入湯船同様に払っていた。

 

主人公はおもしろい人物で、ヒマ

にまかせて絹本で日本画のけいこを

した。書き捨てた絵の具のついた絹

本をもらい受け絵の具を洗い落とし

て絹ぶとんを作った人もあった。望

遠鏡を船に備えつけて近所の旅館の

アベック部屋をながめたり、強力な

探照灯を設えて旅館の部屋を不意に

照らすというので旅館側でも処置に

困った。しかし花火大会には市の名

士なみの寄付もし天然砂湯の入口の

戸が壊れたときには自費で修繕もし

てくれた。

 

歩けるようになったが、男性の

大事な機能が回復しなければいくら

巨万の富があっても生きる甲斐がな

いとさらに滞在を三カ月延ばし、そ

の方を専門に山本院長から治療を受

け、すっかり元どおり元気回復、「も

う大丈夫お役に立ちます」と太鼓判

を押されるやようやく本当にイカリ

をあげて大阪に帰っていった。

 

あまりじょうずではないが「福の

神」が舞いこんでいる縁起のよいH

氏の描いた絵が、別府銀座裏の奥まっ

た山本鍼灸院に今もかかっている。

Page 11: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.11

 「軍艦が餅ヶ浜海岸に打ちあげら

れ海軍が大騒動しちょる」という第

一報が新聞社に夜明けとともに入っ

てきたが、前夜の台風と集中豪雨の

ため停電していて号外の印刷ができ

ず、憲兵や特高警察がやかましくて

記者もカメラマンもまだ波の高い餅

ケ浜の現場でウロウロするばかり。

 

大正末期で軍縮と不景気とがかさ

なっていた時代とはいえ、いやしく

も帝国海軍の軍艦が台風対策をおこ

たって艦体を浜辺に打ちあげられる

とは全くの珍事。

 

夜明けとともにうわさがパッとひ

ろがり、当時大分中学の生徒だった

同級の二宮威徳(

愛媛屋旅館主)

原藤喜(食堂経営)

の二少年はまだ

国道10号線が形だけできて石ころ

がゴロゴロしていた砂浜を北浜から

餅ヶ浜の現場に息せききって駈けつ

けた。

 

軍艦は駆逐艦で艦首を北に向け、

傾いた艦尾にはスクリューが見えて

いた。波打ちぎわからわずか八十

メートルぐらいの近さで前夜からの

大波がいくらか柔らいだとはいえ、

まだ傾いた艦体をゆさぶるほどの荒

波、水兵たちが必死になってロープ

を境川の橋ケタに結びつけており二

宮、桑原両少年も水兵さんと一緒に

ロープを引っぱって加勢した。

 

豪雨を伴ったこの台風があまりに

も速くやってきたため、日出沖に避

難する時間がなくてこの始末となっ

たと伝えられたが、一説では乗り組

みの幹部将校が料亭に全員上陸して

いたため、敏速な指揮がとれなかっ

たともいわれ、関係者一同軍法会議

にかけられた。

 

この朝、夜明けとともに駈けつけ

た市民の中に尾花町で医院を開業し

たばかりの渡辺一郎先生(

現在の弥

岸に乗りあげた軍艦

海岸物語り

第十四話

昭和三十九年十一月十六日掲載

Page 12: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.1�

生町渡辺中央病院長)

も尻からげで

見物に混じっていた。

 

橋ケタや杭を打ちこんでロープを

結んだので艦体はそのままの姿で転

覆はまぬがれたが、見物人の期待を

裏切って満潮になっても動かず、一

週間たっても砂に乗りあげたまま。

船の周囲の砂を根気強く掘りつづけ

ていたが、二週間ほどのちの満潮時

に呉軍港からきた大型駆逐艦が全速

力で海岸近くを大波を立てて走りま

わり、その波の勢いを利用して呉か

らきていた引き船が全速力で沖に向

かって艦体を引っぱった。

 

餅ケ浜海岸を埋めつくして見物し

ていた数百の市民が握りこぶしに力

をこめて見守るなかを、問題の駆逐

艦は砂の中からスーッと沖に浮い

て、再び帝国海軍の軍艦らしい勇姿

をとりもどした。しかし大砲の砲身

などはわずかの日時なのに赤さびて

いた。

 

この事件があってから連合艦隊が

入港しても駆逐艦などの小艦艇は別

府沖を避け亀川寄りの沖合いに停泊

するようになったといわれている。

Page 13: ssss Ù¬ K ÖÓBEPPU CONJYAKU Ù¬ K ÖÓ ssss ù¿ Å j s Ê· ¨z | K ssss ù Å j s ¬ %& U H· [Ó ssss ù Å j s Â##½Ü & ssss ù _ Åj $÷· ¤ & ssss 大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

大分合同新聞社「別府今昔-海岸物語り(2)」

P.1�

 オオイタデジタルブックは、大分合同新聞社と学校法人別

府大学が、大分の文化振興の一助となることを願って立ち上

げたインターネット活用プロジェクト「NAN-NAN(なんな

ん)」の一環です。NAN-NANでは、大分の文化と歴史を伝承

していくうえで重要な、さまざまな文書や資料をデジタル化

して公開します。そして、読者からの指摘・追加情報を受け

ながら逐次、改訂して充実発展を図っていきたいと願ってい

ます。情報があれば、ぜひNAN-NAN事務局にお寄せください。

 NAN-NAN では、この「別府今昔」以外にもデジタルブッ

ク等をホームページで公開しています。インターネットに接

続のうえ下のボタンをクリックすると、ホームページが立ち

上がります。まずは、クリック!!!

■別府今昔

 

大分合同新聞夕刊に一九六四年

十一月一日から一九六五年十二月

四日にかけて連載された記事。明

治大正のころを知る三百六十九人

に対する取材をもとに、同紙の故

是永勉氏が書き上げた。挿し絵は

大分大学教授だった故武藤完一氏

が担当した。

© 大分合同新聞社

 

デジタル版

  

「別府今昔」

海岸物語り2

  

二〇〇六年四月七日初版発行

  

著者  

是永 

  

さし絵 

武藤 

完一

  

編集 

大分合同新聞社

  

制作 

別府大学情報教育センター

  

発行 

NAN‐NAN事務局

     〒八七〇‐八六〇五

       

大分市府内町三‐九‐一五

       

大分合同新聞社 

総合企画室内

 

問合・情報提供はこちらからも→クリック

大分合同新聞社 別 府 大 学


Recommended